↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/118

第37話 名前を知る前から、その花は綺麗でした

 花谷の休憩場所へ馬車を停めてからも、ルシルはしばらく斜面の方を見ていた。


 白や淡い青、薄紫の花々は、近くで見ると街道から眺めていた時以上に種類が多い。遠目には同じ色の帯に見えた場所にも、背丈の違う花が混ざり、細い茎の先で小さな花弁を揺らすものもあれば、地面を覆うように広がっているものもある。


 風が谷を抜けるたび、甘さの中に青い草の匂いが混じった。


 強い香りではない。鼻を近づけなければ分からない花もあるのだろう。それでも無数の花が咲いているからか、谷全体がほのかに香っている。


「……綺麗だな」


 先ほども似たようなことを言った気がする。


 けれど、ほかに言葉が思いつかなかった。


 ルシルが斜面を眺めたままでいると、すぐ近くからトルクの鼻息が聞こえた。振り返れば、栗毛の馬がこちらを見ている。


「あ、ごめん」


 景色に夢中になっていた自分を思い出し、ルシルは苦笑した。


「先にお前たちだった」


 馬車から降りた直後に状態は簡単に見たが、休憩に入るなら馬車から外してやる必要がある。道中の一刻ほどの休憩とは違い、今回は昼食も含めてしばらく滞在するつもりだった。


 モモも名残惜しそうに花畑から目を戻す。


「トルクさんたちも休憩ですね」


「ええ。まず外しましょう」


 シモンがベルクの首筋を撫でながら答えた。


 三人で手分けし、二頭を馬車から外していく。


 グレイを発った朝より気温は上がっているものの、山に近いせいか暑さは感じない。トルクの身体にも汗はほとんど浮かんでおらず、ベルクも呼吸を乱していなかった。


 新しく替えた蹄鉄も問題なさそうだった。


 ルシルはベルクの右後肢へ目を向けたあと、それだけを凝視するのをやめて全体を見る。立ち方に不自然さはなく、地面へ置く時に力を抜く様子もない。


「大丈夫そうだな」


「ここまで問題ありませんね」


 シモンも確認し、少し肩の力を抜いた。


「ただ、これから山道です。昼の休憩は十分に取りましょう」


「賛成」


 ルシルはすぐ答えた。


 以前なら、目的地が見えていれば先へ進みたくなっていたかもしれない。


 けれど今日は違う。


 花谷そのものが、立ち止まりたくて来た場所だった。


 馬を休ませることも、自分たちが休むことも、先へ進まない理由ではない。ここで過ごすこと自体が、今日やりたいことの一つになっている。


 休憩場所の端には簡素な水桶があり、山側から細い水路が引かれていた。シモンが水の状態を確認してから二頭へ飲ませ、ルシルとモモは馬車から携帯用の桶や飼葉を取り出す。


 トルクは飼葉を用意している途中から期待に満ちた目を向けてきた。


「分かりやすいですね」


 モモが笑う。


「トルクは花よりこっちだな」


「トルクさんにもトルクさんの楽しみがあります」


「ベルクは?」


 少し離れた場所でシモンのそばに立っているベルクを見る。


 黒に近い灰色の馬は、花畑よりも周囲の道や音を気にしているようだった。耳が時折動き、風に乗って聞こえてくる鳥の声へ反応している。


「ベルクさんは警戒担当でしょうか」


「馬に役割をつけないでください」


 シモンが苦笑する。


「でもシモンの近くにいる」


「慣れただけでしょう」


「それを仲良くなったって言うんじゃない?」


「……否定はしません」


 返事までのわずかな間が面白くて、ルシルとモモは顔を見合わせた。


 ベルク本人は三人の会話など気にせず、シモンの肩口へ鼻先を寄せている。


「ほら」


「見えています」


 シモンはそう言いながらも、ベルクの鼻筋をゆっくり撫でた。


 トルクとベルクを休ませ終える頃には、三人の腹もすっかり昼食を求め始めていた。


     ◇


「今日は何食べる?」


 ルシルが馬車の中を覗き込みながら尋ねると、モモもすぐ隣から顔を出した。


「せっかくなので、何か作りたいです」


「俺も」


「山へ入る前ですから、あまり時間のかかるものは避けたいですね」


 シモンも後ろから収納している食材を確認する。


 食料に困っているわけではない。


 干し肉や豆、乾燥野菜、硬めのパンといった旅用の保存食はまだ十分にある。ラナで買い足したものや途中でもらった赤根菜も残っており、卵も少しだけあった。


 そして昨日、グレイで新しく買ったものがある。


「あ」


 ルシルが思い出し、収納魔法から一冊の本を取り出した。


 表紙には鍋と街道を模した簡素な絵。


『街道沿いの鍋料理』


 昨日、紙梟で買った本だった。


「これ使おう」


 モモの目が輝いた。


「もうですか?」


「買ったんだから使いたい」


「鳥の本もさっき使いましたしね」


「本を買った日に全部使おうとしてません?」


 シモンが呆れたように言う。


「植物の本も使う予定」


「三冊ともですね」


「せっかくだから」


 ルシルは休憩場所の丸太へ腰を下ろし、本を開いた。


 最初の方には、火を起こせる環境と使える食材の組み合わせごとに簡単な料理が載っている。豪華な料理ではなく、旅先で手に入りやすい材料を使い、短い時間で身体を温めるものが多い。


 モモが肩越しに覗き込む。


「これ、美味しそうです」


 指したのは、豆と干し肉を煮た塩味の汁物だった。


「いつものと近くない?」


「でも香草を入れるって書いてあります」


「香草ある?」


「少しあります」


 シモンが収納していた食材を思い出しながら答える。


「グレイで補充した乾燥香草なら。ただ、書かれている山香草とは種類が違います」


「代わりに使える?」


「量を減らせば問題ないでしょう。風味は変わりますが」


「じゃあそれ」


 ルシルが決めかけると、モモがページを少し先へめくった。


「待ってください。こっちもあります」


「どれ?」


「薄焼きパンをちぎって入れるって」


「美味しそう」


「即決しないでください」


 シモンが本を横から覗く。


 豆と野菜を煮た汁へ、食べる直前に硬くなった薄焼きパンをちぎって入れる料理らしい。街道旅では古くなったパンを食べやすくする方法としてよく作られる、と説明されている。


「これなら残っている薄焼きパンも使えますね」


「じゃあ決定」


「さっきの干し肉は?」


「入れます」


 モモが言う。


「書いてないけど?」


「入れたら美味しいと思います」


「俺も思う」


 二人の視線を受け、シモンが本と食材を交互に見た。


「料理本は絶対にその通り作らなければならないものではありませんからね」


「よし」


「ただし入れすぎないでください。塩気が強くなります」


「はい」


 昼食が決まった。


 休憩場所には、焚き火をした跡を示す石囲いがいくつか残っている。その中から周囲に乾いた草の少ない場所を選び、以前より手慣れてきた動きで準備を始めた。


 ルシルが薪を整え、モモが鍋と食材を出す。


 シモンは二頭の様子を確認しながら、水と火の位置を見る。


「風、こっちからだな」


 ルシルは草の揺れ方を見て、焚き付けを置く向きを少し変えた。


「そうですね。火の粉が花畑側へ飛ばないようにしましょう」


「うん」


 花谷で火を使う以上、景色に見惚れて周囲を焦がすわけにはいかない。


 火打ち石を使う。


 火花が焚き付けへ落ち、一度ではつかなかった。


 もう一度。


 細い煙が上がる。


 ルシルは急いで息を吹きかけず、火が広がるのを待ってから小枝を足した。


「ついた」


「もう普通につけられるようになりましたね」


 モモが野菜を切りながら言う。


「最初は結構大変だった」


「強く打ちすぎたり、息を吹きすぎたりしてましたね」


「覚えてる」


「僕も覚えています」


 シモンまで言う。


「二人とも失敗したところばっかり覚えてない?」


「成功したところも覚えてますよ」


 モモが笑う。


「最初のお肉、一枚だけ少し焦がしたこととか」


「それ失敗だよね?」


「その後は上手に焼けました」


「後から足した」


 三人の声が花谷の風へ溶けていく。


 鍋へ水を入れ、豆と乾燥野菜を加える。


 細かく切った干し肉は少なめ。


 赤根菜も一本だけ使うことにした。


「俺が切る」


 ルシルが申し出る。


「お願いします」


 最初の野営では大きさがかなり不揃いだった。


 今も料理人のように揃ってはいないが、以前よりは明らかにましだった。厚さを確かめながら切り、鍋へ入れる。


 モモも隣で別の野菜を切っていた。


「ルシル様、私より綺麗じゃないですか?」


「ほんと?」


「ちょっと悔しいです」


「競争じゃないだろ」


「でも次は負けません」


「何の勝負なんですか」


 シモンが戻ってきた。


「野菜切り」


「旅の途中で新しい競技を作らないでください」


「輪走りより安全です」


 モモが真面目な顔で答える。


「比較対象がおかしいでしょう」


 鍋が温まり始めると、干し肉と豆の香りが立ち上った。


 花の甘い匂いの中に、塩気のある食事の香りが混ざる。


「腹減ってきた」


「もう少しです」


「分かってる」


 ルシルは鍋の中を覗き込む。


 赤根菜が柔らかくなってきたところで乾燥香草を少量だけ入れ、最後に薄焼きパンを手でちぎる。


「これは食べる直前ですね」


 シモンが本を確認する。


「全部入れる?」


「最初は少なめにしましょう。汁を吸いすぎるかもしれません」


 三人分の器へ汁物をよそい、それぞれに薄焼きパンをちぎって入れた。


 パンはすぐに汁を吸い始め、端から柔らかくなる。


「いただきます」


 三人の声が重なった。


 ルシルはまず汁を一口飲んだ。


 豆の甘み。


 干し肉の塩気。


 赤根菜の柔らかな味。


 そこへ乾燥香草の少し青い香りが加わっている。


「美味しい」


 次に汁を吸った薄焼きパンを食べる。


 外側にはまだ少し歯応えが残っているのに、内側は温かい汁をたっぷり吸って柔らかい。


「これ、いいな」


「美味しいです」


 モモも目を細めた。


「硬くなったパンの方が合う理由、分かります。崩れすぎません」


「保存食を無駄にしない工夫でもあるのでしょう」


 シモンも食べながら本を横へ置く。


「旅の料理という感じですね」


「また作ろう」


「次は違うのも作りたいです」


「じゃあ順番に」


「全部試す気ですか?」


「駄目?」


「駄目とは言っていません」


 シモンはもう一口食べる。


「この本、買って正解でしたね」


 ルシルとモモが同時に彼を見る。


「何です?」


「いや」


「シモン君が一番気に入ってるかもしれません」


「実用的な本は好きですよ」


「鍋も?」


「料理も旅には必要でしょう」


「じゃあ次、シモンが選んで」


 ルシルが本を差し出す。


「今決める必要はありません」


「あとでいい」


「それなら」


 シモンは本を受け取った。


 そのまま自分の横へ置いたところを見ると、本当に選ぶつもりらしい。


 昼食はゆっくり進んだ。


 急いで食べ終える理由がない。


 途中で風が強くなると、花の斜面が一斉に揺れた。三人とも自然に手を止め、その波が谷の奥へ流れていくのを眺める。


「すごいですね」


 モモが器を両手で持ったまま呟いた。


「風が見えるみたい」


 ルシルも同じものを見ていた。


「花があるから分かるんだな」


「普段なら、風そのものは見えませんからね」


 シモンの声も穏やかだった。


 しばらくすると花が静まり、また小さく揺れ始める。


 昼食の湯気はもう薄くなっていた。


「ここで食べることにして良かった」


 ルシルが言う。


「はい」


 モモがすぐ頷く。


「山へ急がなくて良かったです」


 シモンも否定しなかった。


「天候が許すなら、こういう時間を削る必要はありません」


「今日はシモンから言った」


「事実ですから」


 それだけ言うと、シモンは器へ残っていた最後のパンを食べた。


     ◇


 食後、すぐ花を見に行こうとしたのはルシルだった。


「片付け」


 シモンの一言で止まった。


「分かってる」


「身体がもう花畑へ向いてましたよ」


「足が一歩だけ」


「一歩でもです」


 モモが笑いながら鍋を持ち上げる。


「片付けてから行きましょう」


「はい」


 水を無駄にしないよう鍋や器を洗い、火が完全に消えたことを確認する。


 燃え残りもまとめる。


 石囲いの外へ炭が飛んでいないか、三人で周囲を見る。


 最初の野営では何をするにも一つずつ考えていた。


 今は会話をしながらでも手が動く。


 それでも確認を省くことはない。


「よし」


 ルシルが最後に灰を見た。


「終わり」


「では」


 モモが植物の本を両手で持ち上げた。


「行きましょう」


 声が少し弾んでいる。


「待ってましたって顔」


「待ってました」


「正直」


「だって楽しみにしてたんですから」


 休憩場所から花の斜面へ直接入ることはできない。


 花を踏み荒らさないため、街道脇には細い歩道が作られていた。低い木柵があり、その向こう側へ足を入れないよう簡単な標識も立っている。


 三人は歩道へ入った。


 近づくと、花はますます違って見える。


「白いの、一種類じゃない」


 ルシルはすぐ気づいた。


 遠くから大きな白い群れに見えていた場所には、少なくとも二種類の花が混ざっている。


 一つは膝より少し低い茎の先に、五枚の丸い花弁をつけていた。


 もう一つはさらに小さく、細かな花が房のように集まっている。


「本、開きますね」


 モモが道の脇にある木製の腰掛けへ座った。


 ルシルも隣へ座る。


 シモンは立ったまま周囲の花を見ていたが、やがて二人の後ろから本を覗き込んだ。


「どれから?」


「これ」


 ルシルは柵のすぐ向こうに咲いている五枚花弁の白い花を指した。


 モモが本の白い花の項目を開く。


「似てるのがいっぱいあります」


「花って難しいな」


「葉も見ないと駄目みたいです」


「葉?」


「ここに書いてあります」


 花の形だけでなく、葉の形や茎の特徴、咲く季節、育つ場所も確認する必要があるらしい。


 三人は本と実物を交互に見る。


「葉は細長い」


「縁に少しギザギザがありますね」


「茎は一本?」


「途中で分かれてます」


「これじゃない?」


 ルシルが一つの絵を指す。


 モモが説明を読む。


「白風花。春の終わりから初夏、山裾の風通しのいい草地に群生……」


 三人が同時に目の前の花を見る。


 風が吹いた。


 白い花弁が揺れる。


「これっぽい」


「かなり近いですね」


 シモンも頷く。


「でも本だけで完全に断定するのは難しいでしょう」


「じゃあ、たぶん白風花」


「それくらいがいいと思います」


 モモは嬉しそうに名前をもう一度口にした。


「白風花」


 名前を知る前と、花そのものは何も変わっていない。


 白い花弁。


 細い茎。


 風に揺れる姿。


 それでも、一度名前を知ると少しだけ近くなったような気がした。


「名前を知ると覚えやすいな」


 ルシルが言う。


「はい。でも」


 モモは花を見たまま、少し考えてから続けた。


「知らなかった時も綺麗でした」


「うん」


「名前を知らないと楽しめないわけじゃないんですね」


「そうだな」


 ルシルは本を閉じかけ、もう一度花を見る。


 王城では、何かを知らないことは恥ずかしいことのように感じる時があった。


 国の制度。


 他国の歴史。


 貴族の家系。


 礼法。


 土地。


 産業。


 知らなければ学ぶよう求められたし、第一王子なら知っていて当然だと言われることも多かった。


 けれど、今目の前にある花は違う。


 名前を知らなかったからといって、誰にも叱られない。


 ただ綺麗だと思って、その後で知りたくなったから調べる。


 順番が逆でもいい。


「ルシル様?」


 モモの声で我に返る。


「ごめん。ちょっと考えてた」


「何をです?」


「知らないことって、別に悪くないんだなって」


 モモは少し目を丸くした。


 シモンも黙ってルシルを見る。


 言ってから、少し大げさだったかと思う。


「いや、花の話ね」


「分かってます」


 シモンが静かに答えた。


 それ以上は何も付け加えなかった。


 昔の話へ結びつけることも、意味を説明することもしない。


 モモも同じだった。


「じゃあ次、青い花を知らないまま見に行きましょう」


「知らないまま?」


「まず見るんです。それから調べます」


「いいな」


「行きましょう」


 三人は腰掛けを立った。


     ◇


 青い花は、歩道を少し進んだところに群生していた。


 白風花らしい花より背が低く、地面に近い位置で小さな青い花をいくつも咲かせている。


「空みたい」


 モモがしゃがみ込む。


 もちろん柵の内側には入らない。


 歩道側から顔を近づけ、花の形を見る。


「中心が白い」


「ほんとだ」


 ルシルも隣にしゃがむ。


「遠くからだと全部青に見えた」


 シモンも少し遅れて近づいた。


「葉は丸いですね」


「シモンも乗り気じゃん」


「調べるなら特徴を見た方がいいでしょう」


「そういうことにしておく」


「何ですか、その言い方は」


 モモが口元を押さえて笑う。


 三人でしばらく実物だけを見る。


 花弁は四枚。


 中心が白く、そこから外側へ淡い青が広がっている。


 葉は小さく丸い。


 茎は短い。


「じゃあ本」


「はい」


 モモが開く。


 今度は先ほどより探すのが少し早かった。


「これでしょうか。青露草」


「説明は?」


「春から初夏。山裾や谷地のやや湿り気のある土地に咲く。朝露を多く含む時期は花色が濃く……」


「ここ、少し湿ってる?」


 ルシルが歩道の土を見る。


 泥ではない。


 ただ休憩場所より少しだけ色が濃い。


「谷ですから、水が集まりやすい場所なのかもしれません」


 シモンが斜面を見る。


「これも、たぶん?」


「たぶんです」


「青露草」


 ルシルが名前を覚える。


「白風花と青露草」


「二つです」


 モモは満足そうだ。


「全部調べる?」


 目の前にはまだ紫も黄色もある。


 モモは一瞬、本と花谷全体を見比べた。


「全部はやめます」


「意外」


「調べてばっかりになっちゃいます」


 その答えに、ルシルは笑った。


「じゃあ本しまう?」


「もう一個だけ」


「どれ?」


「あの紫」


「やっぱり」


「一個だけです」


 紫の花を探す。


 今度は少し背が高い。


 細い茎の先に釣鐘のような花が下向きについている。


 風が吹くと、小さな鐘が揺れるように動いた。


「これ好きです」


 モモが言う。


「なんで?」


「可愛いからです」


「理由が分かりやすい」


「ルシル様は?」


「俺も好き」


「理由は?」


「揺れ方」


「シモン君は?」


 突然振られたシモンが花を見る。


「僕も嫌いではありません」


「好きか嫌いかです」


「二択なんですか?」


「はい」


 モモは楽しそうだ。


 シモンは少し困った顔をしたあと、もう一度紫の花へ視線を向けた。


「……好きですよ」


「やった」


「何が『やった』なんです?」


「三人とも同じです」


 モモはそれだけで嬉しそうだった。


 本を開く。


 似た花を探す。


「谷鈴花」


 モモが読み上げた。


「谷や山の斜面に咲く多年草。風を受けると花が揺れ、古くは旅人がその動きを見て風向きを確かめたとも……」


「風向き?」


 ルシルは実物を見る。


 確かに下向きの花は、風を受けると同じ方向へ揺れている。


「これ使える?」


「風向きだけなら草でも分かります」


 シモンが答える。


「でも花の方が楽しい」


「それは否定しません」


「じゃあ谷鈴花も覚える」


 三種類。


 それで本を閉じた。


 残りの花は、名前を知らないまま眺めることにした。


     ◇


 歩道は谷の斜面に沿って緩やかに続いていた。


 三人は急がず歩く。


 時々ほかの旅人とすれ違った。


 荷物を背負った老夫婦。


 若い男女二人組。


 花の絵を描いているらしい女性。


 誰も大声を出さない。


 ここでは自然と声が小さくなるのかもしれない。


 老夫婦とすれ違った時、妻らしい女性がモモの持っている植物本を見て微笑んだ。


「花を調べてるの?」


「はい。三つだけ覚えました」


「三つなら十分よ」


「全部は無理ですね」


「毎年来ても知らない花があるもの」


 女性はそう言って笑う。


 隣の男性も谷を見渡した。


「年によって咲き方も違うしな。今年は白いのが多い」


「毎年来てるんですか?」


 ルシルが尋ねる。


「十何年かな」


「そんなに」


「山越えする時期が合えば寄るだけだよ。ここが目的って年もあるけどな」


 老夫婦は自然に並んで立っていた。


 長く旅をしてきた者同士なのだろうか。


 詳しいことは分からない。


「今年は綺麗ですか?」


 モモが尋ねる。


 女性は少し考えてから、穏やかに頷いた。


「綺麗よ。でも毎年、違う綺麗さがあるわ」


「違う綺麗さ……」


「去年は青が多かった。その前は黄色がよく咲いてた。雨が多い年もあれば、風が強い年もあるからね」


 女性はモモへ視線を戻す。


「初めて?」


「はい」


「なら今年の花谷が、あなたたちの最初の花谷ね」


 その言葉に、モモは少しだけ目を見開いた。


 ルシルも谷を見渡す。


 白が多い今年。


 自分たちが初めて見た花谷は、この景色だ。


 もしまた何年か後に来て、青い花が多く咲いていたとしても、今日と同じにはならない。


「覚えときます」


 ルシルが言った。


「そうするといい」


 老夫婦は笑って先へ歩いていった。


 三人はしばらくその背中を見送る。


「また来たいです」


 モモがぽつりと言った。


「もう?」


「もうです」


「俺も」


 ルシルは笑う。


「次は何色が多いか見たい」


「毎年同じ時期にここへ来るのは、旅としてはかなり難しいですよ」


 シモンが現実的なことを言う。


「じゃあ近くにいたら」


「それなら」


「シモン君も来ます?」


「僕だけ置いていくつもりだったんですか?」


「聞いただけです」


 モモの口元が緩む。


 シモンもほんの少し笑った。


「来ますよ」


 三人はまた歩き始めた。


 歩道の先には、小さな木製の展望台があった。


 高いものではない。


 斜面から少し張り出すように作られ、谷全体を見渡せる。


 ほかに人はいなかった。


 三人で上がる。


「おお……」


 ルシルは思わず柵へ手を置いた。


 休憩場所から見るのとはまた違った。


 谷の形そのものが分かる。


 街道が花の中を一本の線のように通り、その先で山へ向かって緩やかに上っている。


 遠くには、自分たちの馬車も見えた。


 トルクとベルクが休んでいる。


「あそこから来たんですね」


 モモがグレイ側を見る。


 街道は丘の向こうへ消えている。


「グレイはもう見えないな」


「結構進みましたからね」


「森も見えない」


 ルシルは北東の方角へ目を向ける。


 山や丘が重なり、グレイ周辺の森は完全に隠れていた。


 胸の中に何も残っていないわけではない。


 気になる。


 今頃、エッダたちは調査へ入っているだろうか。


 ドレンは組合で報告を待っているだろうか。


 加工石の小さな穴は、どこまで続いているのだろう。


 けれど、それを考えても足が戻る方へ向くことはなかった。


 気になる場所を後ろに残したまま、次の景色を見ることもできる。


「ルシル様」


 シモンが呼んだ。


「ん?」


「そろそろ戻りますか?」


 急かす声ではない。


 ルシルは空を見る。


 朝より雲が増えている。


 山の上には薄い灰色の雲がかかり始めていた。


「時間は?」


「昼を少し過ぎています」


「山、今日入る?」


 三人で街道の先を見る。


 花谷の向こうから、道は少しずつ上っている。


 ここから旧休憩所までは進める。


 その先も道自体は通行可能だ。


 ただ、急ぐ必要はない。


「どうしたい?」


 ルシルは二人へ尋ねた。


 先に答えたのはモモだった。


「私は、もう少しだけここにいたいです」


 言ってから、少し遠慮するように二人を見る。


「長くじゃなくていいんです。あと少しだけ」


「俺も」


 ルシルはすぐ答えた。


「シモンは?」


 シモンは空と街道、それから花谷を順番に見た。


「旧休憩所までなら、少し遅くなっても問題ないでしょう」


「じゃあ?」


「あと少しだけなら」


 モモの表情がぱっと明るくなる。


「ありがとうございます」


「礼を言うところではありません。僕ももう少し見ていたいので」


「シモン君」


「何です?」


「今の、すごく良かったです」


「評価されるようなことを言いましたか?」


「言いました」


 ルシルは笑いながら柵へ背を預ける。


「じゃあ、あと少し」


「はい」


 三人は展望台に残った。


 話さない時間も長かった。


 モモは風に揺れる花を見ている。


 シモンは山の空を時折確認しながらも、すぐ地図へ戻ることはしない。


 ルシルは二人と、谷と、遠くの馬車を順番に眺めた。


 王城を出た直後、自分は何でもやりたかった。


 食べたい。


 見たい。


 乗りたい。


 行きたい。


 知らないもの全部へ一度に手を伸ばしたかった。


 その気持ちは今もある。


 たぶん、これからもなくならない。


 ただ、全部を一日で手に入れなくてもいいことを、少しずつ覚えてきた。


 一つの場所に長くいてもいい。


 何もしない時間があってもいい。


 気になることを残して先へ進んでもいい。


 また戻ってもいい。


「……旅って忙しくないんだな」


 無意識に言葉が漏れた。


 モモが隣で首を傾げる。


「忙しくしたら忙しくなりますよ?」


「それはそう」


「ルシル様は最初、忙しくしようとしていましたね」


 シモンが静かに笑う。


「してた?」


「していました」


「全部見ようとしてました」


 モモまで頷く。


「今も見たいよ」


「それは知っています」


「でも、今日はここだけでいい」


 ルシルは谷を見る。


 白風花。


 青露草。


 谷鈴花。


 名前を知らない黄色い花。


 もっと遠くに咲いていて、近くでは見なかった紫の花。


 今日覚えたのは三つだけだ。


 それで足りないとは思わなかった。


「そろそろ戻ろうか」


 今度はルシルから言った。


 モモは名残惜しそうに谷を見たあと、笑って頷いた。


「はい」


「行きましょう」


 シモンも柵から離れる。


 三人は展望台を下り、来た歩道を戻った。


     ◇


 休憩場所へ戻ると、最初にトルクが気づいた。


 耳をこちらへ向け、首を上げる。


「ただいま」


 モモが近づく。


「待ちました?」


 トルクは答える代わりに鼻を鳴らした。


「人参ではありません」


 もう一度鼻を鳴らす。


「たぶん人参だな」


「分かってます」


 モモは笑い、首筋を撫でるだけにした。


 ベルクもシモンが戻ると身体の向きを少し変えた。


 休憩は十分取れている。


 二頭とも呼吸は穏やかで、脚にも異常はない。


 蹄鉄も確認する。


「問題なさそうですね」


 シモンが言う。


「じゃあ馬車つなぐ?」


「その前に」


 ルシルは空を見る。


 展望台から見た時より、山側の雲が少し増えていた。


 暗い雨雲ではない。


 けれど朝の青空一色とは違う。


「これ、どう思う?」


「街道所の予報通りですね。午後は雲が増えると」


「雨になりそう?」


「今すぐ降るようには見えません。ただ、山ですから変わる可能性はあります」


「旧休憩所までどのくらい?」


「今からなら十分明るいうちに着きます」


 シモンは地図を開いた。


「ただし、そこから先へ進むかは別です。日陰の湿った坂があるのは、もう少し先ですから」


「今日は旧休憩所まで?」


 モモが尋ねる。


「それも候補ですね」


 ルシルは地図を見る。


 花谷から旧休憩所。


 その先から本格的な山道。


 グレイを出たのは今朝だ。


 花谷で十分楽しんだ。


 今日中に山を越える必要はない。


「俺、旧休憩所まででいいと思う」


 言ってから二人を見る。


「そこで馬を見て、空も見て、それでも進みたかったら考える。でも最初から山越えまでは決めない」


「賛成です」


 モモが頷く。


「僕もそれでいいと思います」


 シモンは地図を畳んだ。


「では、旧休憩所を次の目安にしましょう」


「うん」


 三人で二頭を馬車へつなぐ。


 午後の御者は誰にするか。


「僕がやりましょう」


 シモンが言った。


「モモ嬢は花谷まで運転しましたし、ルシル様は朝から最初の休憩まで。順番としても僕です」


「お願いします」


 モモが素直に譲る。


「シモン、花見ながら運転できる?」


「前を見て運転します」


「正解」


「誰の確認ですか」


「初心者仲間として」


「僕も初心者なんですから、当然でしょう」


 シモンが御者台へ座る。


 ベルクが前方で耳を動かした。


「ベルク、シモンだぞ」


 ルシルが声を掛ける。


「だから何ですか?」


「安心するかなって」


「御者台から馬を甘やかすつもりはありませんよ」


 そう言いながら、シモンはベルクとトルクへ穏やかに声を掛けてから手綱を持った。


「行きます」


 馬車がゆっくり動き出す。


 休憩場所が後ろへ離れる。


 花谷の中央を通る街道へ戻った。


 来た時とは反対側から景色を見る。


 同じ花でも、光の当たり方が違う。


 昼を過ぎ、雲が増えたせいで、白い花は朝より柔らかな色に見えた。


 モモは馬車の窓から外を見ている。


「白風花」


 ぽつりと呟く。


「どれ?」


「今の白いところです」


「もう見分けられる?」


「たぶん」


「たぶんか」


「でも名前を知ってます」


「青露草は?」


「あっちに少し」


「谷鈴花は?」


「もう少し先です」


 三人で覚えた名前を確かめながら進む。


 やがて紫の小さな鐘のような花が見えた。


 風に揺れている。


「あった」


 ルシルが言う。


「ありましたね」


 モモも笑う。


 シモンは運転しているので長くは見ない。


 それでも通り過ぎる一瞬だけ、視線を横へ向けた。


 花谷の出口が近づく。


 街道の傾斜が少しずつ上がり始める。


 花の数も減っていく。


 最後まで残っていた白い花が、道端で風に揺れていた。


 モモは振り返らなかった。


 ルシルも、今度は後ろを見なかった。


 また来たいと思ったからこそ、今は先へ進める。


 花谷を抜けると、空気が少し変わった。


 道の両側に木が増える。


 地面には石が目立ち始め、街道も平地のようにまっすぐではなくなった。


「ここから山に入る感じだな」


「まだ麓ですが、少しずつですね」


 シモンは速度を落とす。


 トルクとベルクの歩調に合わせ、登りへ入る。


 車輪が一つ、小さな石を踏んだ。


 馬車が軽く揺れる。


 ルシルは後ろから窓の外を見る。


 道の脇には湿った土が残っている場所もあった。


 朝、街道所で聞いた通りだ。


「シモン、右側ちょっと湿ってる」


「見えています」


 シモンは中央寄りの乾いた場所を選ぶ。


 速度は上げない。


 後ろから追いついてくる馬車もない。


 急ぐ理由はなかった。


 しばらく進んだ頃、モモが窓を少し開けた。


「匂いが変わりました」


「花じゃなくなった?」


「木の匂いが強いです」


 ルシルも感じる。


 湿った土。


 樹皮。


 葉。


 花谷とは違う、山の入口の匂い。


 そして気温も少し下がったように感じた。


「外套いる?」


「まだ大丈夫です」


「俺も」


「冷えるようなら早めに着てください」


 御者台からシモンが言う。


「シモンは?」


「僕もまだ大丈夫です」


「自分も忘れないでよ」


「分かっています」


 道が一度大きく曲がる。


 その先で、木々の間から山の斜面が見えた。


 街道はさらに上へ続いている。


 けれど、その手前。


 少し開けた場所に、古びた石造りの建物らしいものが見えた。


「シモン」


「見えています」


 速度が少し落ちる。


 地図に載っていた旧休憩所。


 屋根はないと聞いていた。


 近づくにつれ、その意味が分かった。


 石壁だけが腰から胸ほどの高さまで残り、一部には昔の柱らしい木材が立っている。建物というより、かつて建物だった場所と言った方が近い。


 その脇には井戸。


 さらに馬を休ませられそうな平地がある。


「着いた?」


「ええ」


 シモンが馬車をゆっくり入れる。


「今日の次の目安です」


 花谷を出てから、それほど長い時間ではない。


 まだ午後。


 空も完全には崩れていない。


 先へ進もうと思えば進める。


 だからこそ、三人ともすぐには「進もう」と言わなかった。


 馬車を平らな場所へ停める。


 シモンが手綱を緩めた。


「まず」


「馬」


 ルシルとモモが同時に答えた。


 シモンが笑う。


「はい」


 三人は馬車を降りた。


 山の空気は、花谷よりさらに冷たかった。


 木々の葉が風を受け、頭上で細かな音を立てている。


 ルシルはトルクのそばへ向かいながら、一度だけ街道の先を見た。


 道は山の奥へ続いている。


 ここから先が、グレイで何度も情報を集めた本格的な山道だ。


 湿った坂。


 狭くなる道。


 天候。


 馬車の下り。


 確かめることはまだある。


 けれど、それは今から決めればいい。


 ルシルは街道からトルクへ視線を戻した。


「まず休もう」


 急ぐ必要はなかった。


 今日の旅は、もう十分に始まっているのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。