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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第38話 進める道があっても、休む場所を通り過ぎる必要はありません


 旧休憩所へ馬車を停めたあと、ルシルたちは街道の先へ向かうより先に、トルクとベルクを馬車から外した。


 花谷で十分に休ませてからここまで来たとはいえ、道は少しずつ上りへ変わっていた。平地を走る時より二頭へ負担がかかっているはずで、特に新しい蹄鉄へ替えてから本格的な坂を歩かせたのは今日が初めてになる。ルシルは自分が見たい山道への興味をいったん脇へ置き、トルクの立ち方から確かめた。


 栗毛のトルクは馬車から外されると、すぐ近くの草へ鼻先を向けた。息が乱れている様子はなく、四本の脚へ自然に体重を乗せている。蹄鉄にも目立ったずれは見えず、少し湿った地面へ蹄を置く動きにも迷いはなかった。


「トルクは大丈夫そうだな。というか、草食べたいだけかもしれないけど」


 ルシルが首筋へ触れると、トルクは一度だけこちらへ顔を向け、そのまま再び道端の草へ視線を戻した。少し離れたところではモモが携帯用の桶を用意しており、その音に気づいた途端、今度はそちらへ耳を向ける。


「忙しいですね、トルクさん」


 モモが笑いながら言うと、トルクは何かを期待するように一歩だけ彼女の方へ寄った。その様子を見たルシルは安心しつつも、食欲があるというだけで問題なしと決めつけないよう、歩き方や脚の置き方をもう一度見る。


 一方、ベルクはシモンの近くで静かに立っていた。


 グレイで一度だけ右後肢を強く置いたことがあって以来、三人とも以前より少しだけその脚を気にするようになっている。ただし、右後肢だけを見続ければ、普通の動きまで異常に思えてしまう。ガランにも全体を見るよう言われていたため、シモンはベルクの四肢、背中、呼吸、耳の動きを順番に眺めていた。


「ここまで変わった様子はありません。右後肢も普通に使っています」


「蹄鉄は?」


「見える範囲では問題なさそうですが、少し歩かせてからもう一度見ましょう」


 シモンは専門家のように断定せず、自分たちで確認できる範囲だけを口にした。ベルクの首筋へ手を置くと、馬は嫌がる様子もなく、むしろ鼻先をシモンの肩へ寄せてくる。


 それを見ていたモモが、桶へ水を入れながら微笑んだ。


「ベルクさん、すっかりシモン君のところが定位置ですね」


「定位置ではありません」


「でも今、自分から寄りましたよ」


「見えています」


「嬉しい?」


 ルシルまで尋ねると、シモンはベルクを撫でていた手を止めずに二人を見た。


「嫌われるよりは嬉しいですよ。それで満足ですか?」


「うん」


「はい」


 二人の返事が綺麗に重なり、シモンが小さく息を吐く。その横でベルクだけが何事もなかったように鼻を鳴らしたため、今度は三人とも笑った。


 馬の様子を見ながら水を飲ませ、少量の飼葉も与える。花谷で昼食を取った時ほど長い休憩にするかはまだ決めていないが、少なくとも到着してすぐ馬車へ戻すつもりはなかった。


 ルシルはその間に、改めて旧休憩所を見回した。


 街道から少し外れた平地に、かつて建物だったらしい石壁が残っている。四方すべてが残っているわけではなく、山側の壁は途中で崩れ、街道側も入口だったと思われる場所が大きく開いていた。屋根は完全になくなっているが、床には平らな石が敷かれており、野営するだけなら雨上がりの土の上より使いやすそうだった。


 壁際には、昔使われていたらしい石造りの炉もある。


 ただし炉の内部には落ち葉が溜まり、長く火を入れていないことが一目で分かった。建物として使われなくなってからも旅人が休憩することはあるらしく、外の平地には比較的新しい馬車の轍がいくつか残っている。


「旧休憩所って、本当に休憩所だったんだな」


 ルシルが石壁へ近づきながら言うと、モモも後ろからついてきた。


「名前がそのままですね」


「もっと何かあると思ってた」


「何かって?」


「分からないけど、古い看板とか」


「看板なら、あそこにありますよ」


「え?」


 モモが指したのは、崩れた壁の外側だった。


 一本の木柱が斜めに立ち、そこへ風雨で色の抜けた板が取り付けられている。近づいてみると、かろうじて文字が残っていた。


『セイラ街道 山越え前休憩所』


「本当にあった」


「ありましたね」


「でも字、かなり薄いな」


 ルシルは板へ顔を近づけたものの、触ることはしなかった。端が割れており、下手に動かせば壊れてしまいそうだったからだ。


 その下には、もっと新しい小さな板が打ち付けられている。


『建物内宿泊可。井戸水は煮沸推奨。火気は指定場所のみ。ゴミは持ち帰ること』


 こちらは街道所が後から設置したものらしく、文字もはっきり読めた。


「泊まっていいんだ」


 モモが少し意外そうに言った。


「昨日、街道所でも休憩や野営には使えると言っていましたね」


 馬の確認を終えたシモンが追いついてくる。手には地図を持っており、古い休憩所と街道の位置を確かめていた。


「屋根はありませんが、石壁が風除けになります。天候が大きく崩れないなら、野営場所としては悪くありません」


「井戸もある」


「水は確認が必要ですけどね」


 ルシルは休憩所の横へ視線を向けた。


 丸い石組みの井戸には簡素な木蓋が置かれ、その横に縄と桶がある。北木場の井戸の話を聞いたばかりだからか、三人とも以前より少し慎重な目でそれを見た。


「……井戸を見ると灰色の砂を思い出すな」


「僕もです」


 シモンが苦笑する。


「でも、ここの井戸とグレイの北木場は別です。まず普通に確認しましょう」


「濁ってたら?」


「使いません」


「砂が入ってたら?」


「それも状態を見てからです。何でも森の異変へつなげないでくださいよ」


「まだ何も言ってない」


「顔に出ていました」


「最近みんな俺の顔読むなあ」


 モモが楽しそうに笑いながら木蓋を覗き込む。


「私も灰色の砂があったら少し気になります」


「ほら」


「気になることと、同じ原因だと決めることは別です」


「モモまでドレンみたいになってきた」


「何度も聞きましたから」


 グレイで過ごした数日が、妙なところで三人へ残っている。


 シモンが井戸の木蓋を外し、内部を覗く。ルシルとモモも横から覗いたが、昼過ぎでも井戸の底までは見えない。


 桶を下ろす。


 縄が擦れる音が石壁の内側へ反響し、少しして水へ触れる音がした。


 汲み上げた水は透明だった。


 三人で明るい場所へ持っていき、しばらく置いてみる。目立った濁りはなく、底へ砂が沈んでくる様子もない。


「普通ですね」


「普通だな」


「普通の井戸水を見るだけで少し安心します」


 モモが言う。


「北木場のせいだね」


「完全に影響されてますね、私たち」


 それでも掲示には煮沸推奨と書かれているため、そのまま飲むことはしない。手持ちの水にはまだ余裕があり、必要なら夕方に煮沸すればいい。


 井戸を確認したあと、三人は休憩所の平地へ戻った。


 トルクとベルクは落ち着いている。


 風は先ほどより少し強くなっていた。


 木々の上部がざわざわと揺れ、雲の影が街道をゆっくり横切っていく。花谷では柔らかな日差しが残っていたのに、山へ近づいただけで空の表情が変わるのが分かった。


 ルシルは空を見上げた。


「どうする?」


 それは単純な問いだった。


 ここで休む。


 もう少し先へ進む。


 どちらも選べる。


 だからこそ、三人で決める必要があった。


     ◇


 すぐに結論を出す前に、三人はまず街道の様子を少し見ることにした。


 馬を連れて先へ進むのではなく、旧休憩所から見える範囲だけを歩く。トルクとベルクは休ませたまま、街道が山側へ曲がるところまで行き、地面の状態と傾斜を確かめる程度だ。


 休憩所から百歩も進まないうちに、花谷までとは明らかに違う道になった。


 街道そのものの幅は馬車が通れるだけ確保されている。しかし左右には木々が迫り、石が露出している場所も増えている。道の中央は比較的乾いている一方、山側の日陰には濃い色の土が残り、靴底で踏むと少し柔らかかった。


「これが聞いてた泥かな」


 ルシルは道の端へしゃがみ込んだ。


 指で触るほどではない。靴先で軽く押すと、表面だけが少し沈む。


「少なくとも、この辺りは深くありませんね」


 シモンが周囲を見る。


「荷車の轍も沈み込んではいません。ただ、上へ行けば状態は変わるでしょう」


「昨日下りてきた荷車は通れたんですよね」


 モモが街道の先を見上げる。


「ええ。街道所でも通行可能と言っていました」


「じゃあ進める?」


 ルシルは口にしたあと、自分で少し笑った。


「……進めるかと、進むかは別か」


「学びましたね」


「何回言われたと思ってるんだ」


「数えるのはやめておきます」


 三人はもう少しだけ歩いた。


 曲がり角の先で、傾斜が少し強くなる。


 路面には小石が増え、中央には馬車の車輪が通った二本の跡が続いていた。新しい轍も混ざっているので、今日か昨日にも誰かが通っているのだろう。


 モモが山側の木々を見上げた。


「静かですね」


「花谷より鳥の声少ない?」


「少しだけ。でも、いないわけじゃないです」


 耳を澄ませると、遠くで短い鳥の声が聞こえた。葉が擦れる音、風が枝を揺らす音もある。森の異変を調べていた数日間のせいで、静かという言葉に少し敏感になっていたが、ここはグレイ北西の森とは別の場所だ。


 ルシルは無意識に何か異常がないか探しかけ、やめた。


「普通の山道だな」


「今見える範囲では、ですね」


 シモンの言い方に、ルシルは頷く。


「それでいい」


 引き返そうとした時、上の方から車輪の音が聞こえた。


 三人は自然に街道の端へ寄る。


 しばらくして、山側の曲がり角から一台の荷馬車が姿を現した。


 荷台には木箱と布袋が積まれ、御者台には日に焼けた中年の男性が一人。隣には若い女性が座っている。馬は一頭引きで、坂を下るため速度はかなり抑えられていた。


 御者の男も三人へ気づき、少し手綱を引いた。


「上へ行くのか?」


「たぶん。今、旧休憩所で止まってます」


 ルシルが答える。


「馬車か?」


「二頭引きです」


「なら道幅は問題ねえ。けど、上の二つ目の曲がりから先、日陰がまだ湿ってるぞ」


「深いですか?」


「車輪が埋まるほどじゃない。ただ、下りで踏むなら嫌だなってくらいだ」


 男は自分の馬車を顎で示した。


「俺らもそこだけかなりゆっくり下りた」


「上りは?」


「上りなら空荷に近けりゃ普通に行ける。重い荷なら馬に無理させたくねえな」


「この先に泊まれる場所あります?」


 モモが尋ねる。


「山腹の避難小屋まで行けばあるが、ここからだと今出て……」


 男は空を見上げた。


 雲の流れをしばらく眺め、それから首を傾ける。


「俺なら今日は旧休憩所で止まる」


「雨になりますか?」


「分からん」


 返ってきたのは意外なほどあっさりした言葉だった。


「山の向こうは朝から雲多かった。降ってはいなかったけどな。ここで晴れてても上じゃ違うことある。急ぐ用がなきゃ、わざわざ午後から湿った坂へ入ることもねえだろ」


 隣の女性も頷いた。


「避難小屋、屋根はありますけど狭いですよ。先客がいたら馬車は外ですし」


「旧休憩所は屋根ないけど広い?」


「広いし馬も休ませやすい。雨さえ強くなければ、そっちの方が楽ですね」


「ありがとうございます」


 シモンが頭を下げる。


 男は軽く手を上げた。


「道は通れる。止めるほどじゃねえ。ただ、通れるから今日通らなきゃならんわけでもない」


 その言葉に、ルシルは思わず笑った。


「今日、そればっかり聞くな」


「何だ?」


「いえ、こっちの話です」


「そうか。じゃあ気をつけろよ」


「そちらも」


 荷馬車がゆっくり下っていく。


 三人は道端に立ったまま、その後輪が曲がり角の向こうへ消えるまで見送った。


「通れるから、今日通らなくてもいい」


 モモが男の言葉を繰り返す。


「俺たちの話聞いてたみたいだな」


「旅をしている人なら、同じような判断を何度もするのかもしれませんね」


 シモンは空へ目を向けた。


 雲は少しずつ山側から広がっている。


 まだ雨の匂いはしない。


 風も冷たいだけで、荒れてはいない。


「戻りましょう」


「うん」


 三人は旧休憩所へ引き返した。


     ◇


 戻ると、トルクは相変わらず落ち着いていた。


 ベルクもシモンの姿を見つけると耳を向けたが、立ち上がる必要があるほど離れていたわけではない。二頭とも休憩場所の草を少し食みながら、山道を歩いた疲れを取っている。


 ルシルはトルクのそばへ腰を下ろした。


 目の前には馬。


 背後には屋根を失った古い休憩所。


 少し離れたところに馬車。


 そして街道の先には、まだ進める道がある。


「俺、今日はここで泊まりたい」


 迷いはそれほどなかった。


 モモは少し嬉しそうに頷いた。


「私もです」


 シモンはすぐ賛成せず、もう一度空と二頭の馬を見る。反対しているのではなく、判断材料を確かめているのだと二人にも分かっていた。


「理由を聞いても?」


「急がなくていいから」


 ルシルはまずそう答えた。


「道は通れる。でも、ここは馬を休ませやすいし、井戸もある。先へ行ったら湿った坂があって、次の避難小屋は狭い。だったら今日ここで泊まって、朝から山へ入った方が楽だと思う」


「天気もあります」


 モモが続ける。


「今すぐ雨じゃなくても、午後から山へ入って途中で降られるより、ここなら先に野営の準備ができます。それに……」


 そこで少し言葉を止め、彼女は崩れた石壁の向こうを見た。


「私、ここも結構好きです」


「旧休憩所?」


「はい。花谷みたいに綺麗な場所ではないですけど、山の入口って感じがします」


 確かに、グレイとも花谷とも違う。


 使われなくなった建物。


 古い石壁。


 旅人が残した轍。


 頭上で鳴る木々。


 これから越える山を目の前にして、一晩立ち止まる場所。


「僕も泊まることに異論はありません」


 シモンがようやく答えた。


「むしろ条件だけなら、今日はここで止める方が合理的でしょう。明日の朝、路面と天候を確認してから出ればいい。二頭も新しい蹄鉄で今日初めて坂を歩きましたから、一晩休ませられます」


「じゃあ決まり?」


「ええ」


「今日はここ」


 三人の判断が揃った。


 決まってしまえば、ルシルの中から街道の先へ進みたい焦りは不思議なくらい消えた。


 道が閉ざされたわけではない。


 明日がある。


 その感覚が、以前よりずっと自然になっている。


「じゃあ野営準備するか」


 ルシルが立ち上がる。


「まだ明るいですよ?」


「だから今からやればゆっくりできる」


「それはそうですね」


「まず場所を決めましょう」


 シモンが休憩所へ向かう。


 屋根のない石造りの建物跡を使うか、外の平地へ天幕を張るか。三人で実際に歩き、地面を見ながら考えることになった。


 建物跡の中は風を避けられる。


 しかし床の一部に割れた石があり、天幕を張るには杭を打てない。壁際には落ち葉も多く、炉の周辺は煤と古い灰が残っている。


 外の平地は地面が柔らかく、杭を打ちやすい。木々から少し離れているため、枯れ枝が落ちてくる心配も少なそうだった。


「天幕は外かな」


「僕もそう思います」


「石壁は?」


「風が強くなった時の休憩場所には使えますね。荷物を置くなら、崩れていない壁から離しましょう」


「馬車は今の場所?」


「地面は平らですし、いいでしょう。ただし雨が降った時に水が集まらないか見ます」


 三人は周囲の傾斜も確認した。


 わずかに街道側へ下がっており、馬車を置いた場所へ水が流れ込む形ではない。車輪止めも使い、馬車が動かないようにする。


「前より見るところ増えたな」


 ルシルが車輪止めを置きながら言った。


「増えましたね」


 モモが天幕の布を広げる。


「最初は、平らならいいと思ってました」


「俺も」


「平らでも水が溜まる場所はありますし、木の真下も危険なことがあります」


 シモンは周囲を見ながら答えた。


「全部を完璧に見分けられるわけではありませんが、知っていることが増えれば避けられるものも増えます」


「でもシモン、最初から知ってたよね?」


「知識としては」


「やるのは違った?」


「違いました」


 シモンはあっさり認めた。


「野営の知識はありましたが、毎日のように自分で場所を選んで天幕を張っていたわけではありません。護衛付きの移動や宿泊施設を使うことの方が多かったので」


「じゃあ三人とも練習中」


「そうですね」


「なんかいいですね」


 モモが布の端を持ちながら笑う。


「シモン君だけ何でもできるより、一緒に覚える方が楽しいです」


「僕としては、できる人が一人いた方が安全だと思いますけど」


「でも全部じゃない」


「全部ではありません」


 その答えに満足したように、モモは天幕の反対側へ回った。


 杭を打つ。


 最初の野営ではルシルが強く打ちすぎ、次は逆に弱くしすぎた。今は土の硬さを確かめ、抜けにくい角度を考えて打てるようになっている。


 一度で完璧とはいかない。


 一か所だけ少し緩く、シモンに指摘されて打ち直した。


「惜しい」


「何で嬉しそうなんです?」


「全部直されなかったから」


「基準が低くありません?」


「最初から比べたら高いよ」


「それは否定しません」


 モモも自分の側の杭を打つ。


 こちらは少し斜めになった。


「あ」


「抜く?」


「打ち直します」


 自分で気づき、一度抜いて位置を変える。


 旅を始めたばかりの頃なら、失敗するたびに誰かへ聞いていた。今は三人とも、分かる範囲なら一度自分で考えてから相談する。


 天幕が形になった頃、空から日差しがほとんど消えていた。


 雨が降り出したわけではない。


 雲が太陽を隠しただけだ。


 それでも山の空気は一段冷たくなり、モモが白い外套の前を少し閉じた。


「冷えてきた?」


「少しだけです」


「俺も外套出そうかな」


「早めでいいと思います」


 ルシルも黒い外套を羽織る。


 シモンは元々紺の外套を着ていたため、そのままだった。


「泊まるって決めて良かったかも」


 ルシルは空を見上げる。


「まだ雨とは限りませんよ」


「分かってる。でも、今から坂を上ってたら空ばっかり気にしてたと思う」


「それはありますね」


 モモも山側を見る。


「ここなら降っても、先に準備できます」


 ちょうどその時、冷たいものがルシルの頬へ触れた。


「ん?」


 手で触る。


 水だった。


「雨?」


 モモが空を見上げる。


 一滴。


 また一滴。


 まだ傘も必要ないほど弱い。


 木の葉へ小さな音が落ち始めた。


 シモンは慌てず、風向きと雲を見る。


「通り雨かもしれません。まず濡らしたくないものを馬車へ戻しましょう」


「はい」


 三人はすぐ動いた。


     ◇


 雨は急に強くならなかった。


 細かな粒が時折落ちてくる程度で、地面の色がまだらに濃くなっていく。空全体が暗くなったわけでもなく、雲の切れ間には明るい部分も残っている。


 それでも野営準備を先に済ませていたおかげで、慌てる必要はなかった。


 濡らしたくない薪や食材は馬車へ。


 トルクとベルクは石壁の風下側へ移動させ、雨脚が強くなる場合にはすぐ対応できるようにする。二頭とも雨粒を嫌がる様子はなく、トルクに至っては飼葉の方が気になるらしい。


「強くならなければ、このままで大丈夫そうですね」


 シモンがベルクの背へ落ちた水滴を手で払う。


「雨具かける?」


「まだ必要ありません。長く降るようなら考えましょう」


「トルクさん、全然気にしてません」


 モモが笑う。


 トルクは雨よりも、彼女が何か食べ物を持っていないかを気にしていた。


「さっき花谷で食べたでしょ」


 鼻先を寄せられたモモが言う。


「馬に昼と夕方の概念があるかは分かりませんが、もう少し後ですね」


「シモン君、真面目に答えなくても」


「質問された気がしたので」


「トルクに?」


「モモ嬢にです」


 三人は石壁の内側へ移った。


 屋根はないが、壁際に座れば横風をかなり避けられる。敷物を一枚出し、崩れていない床の上へ広げる。


 雨粒が石へ落ちる。


 ぽつ、ぽつ、と不規則な音がする。


 花谷で聞いていた風とはまったく違う。


「こういう休憩もいいな」


 ルシルは壁へ背を預けた。


「何もしてないけど」


「休憩ですから、それでいいんじゃないですか?」


 モモも隣へ座る。


 シモンは一度馬の方を確認してから、少し離れた場所へ腰を下ろした。


「雨が強くならないなら、しばらく様子を見ましょう。夕食は早めでもいいですし」


「昼食、結構食べたよ」


「今すぐ作るとは言っていません」


「そうだった」


 しばらく三人とも話さなかった。


 雨音を聞く。


 風が木々を揺らす。


 街道を通る馬車の音はない。


 グレイの町にいた時は、人の声や工房の音がどこかから聞こえていた。花谷にも旅人がいた。今いる旧休憩所には、三人と二頭しかいない。


「静かですね」


 モモが小さく言った。


「うん」


「怖い静かさじゃないです」


 その言葉に、ルシルは少しだけグレイの森を思い出した。


 調査報告を聞きながら想像した、音の少ない森。


 馬が進むのを嫌がった場所。


 地面の下から聞こえたかもしれない低い音。


 けれど今いる山には、雨が葉を叩く音があり、時々鳥も鳴く。少し離れたトルクが飼葉を噛む音まで聞こえてくる。


「グレイ、今頃どうなってるかな」


 口にしたのはルシルだった。


 モモもすぐには答えない。


 シモンは石壁の外へ視線を向けたまま、少ししてから口を開いた。


「調査は続いているでしょうね」


「石の穴、調べてるかな」


「予定通りなら」


「気になる?」


「もちろん」


「俺も」


「私もです」


 モモが膝を抱えるように座り直した。


「でも、戻りたいとは思わないです」


 その言葉は、グレイを嫌っているという意味ではない。


 むしろ三人とも町を気に入っていた。


 石樽亭。


 ガラン。


 デリア。


 バルガン。


 ドレン。


 エッダ。


 紙梟の老人。


 黄色い布の菓子店。


 川灯り亭。


 思い出せる場所も人も増えている。


「俺も戻りたくないっていうより……今はこっちを見たい」


 ルシルは石壁の切れ目から山道を見た。


「明日の道とか、その先とか」


「花谷も見ましたしね」


「うん」


「白風花、青露草、谷鈴花」


 モモが今日覚えた名前を順番に挙げる。


「もう覚えた?」


「三つだけですから」


「俺も覚えてる」


「では言ってみてください」


「白風花、青露草、谷鈴花」


「正解です」


「シモンは?」


 急に振られたシモンが眼鏡の位置を直す。


「覚えていますよ」


「言って」


「なぜ試験になるんです?」


「三人で覚えたから」


 シモンは一度ため息をついたが、その表情には困惑より笑いが混じっていた。


「白風花、青露草、谷鈴花。これでいいですか?」


「はい」


「全員合格」


 ルシルが言う。


「何に合格したんです?」


「今日の花谷」


「合格制度があったんですね」


「今できた」


「またですか」


 小さな笑い声が石壁の内側へ響く。


 その間にも雨は降っている。


 強くならない。


 やがて雲の切れ目から薄い光が差し始め、石床の一部が明るくなった。


「止みそう」


 モモが手を壁の外へ出す。


 しばらく待つ。


「……ほとんど降ってません」


「本当に通り雨だったな」


 ルシルも立ち上がる。


 石壁の外へ出ると、土と草の匂いが濃くなっていた。


 雨に濡れた木々。


 冷えた石。


 街道には薄い水膜ができているところもある。


「今、山道入ってたらどうだったかな」


 ルシルが言う。


「この程度の雨なら進めた可能性は高いでしょう」


 シモンは現実的に答えた。


「ただ、日陰の泥は増えたでしょうね」


「じゃあ泊まったの正解?」


「結果だけで正解かどうか決める必要はないと思います」


「どういうこと?」


「雨が降らなかったとしても、僕たちはここで休む理由を考えて決めました。雨が降ったから正解、降らなかったら間違い、という話ではないでしょう」


 ルシルは少し考えた。


「確かに」


「シモン君、そういうこと言うようになりましたね」


 モモが言う。


「どういう意味です?」


「前なら『雨が降る可能性が何割だから』とか言いそうでした」


「僕を何だと思ってるんですか」


「すごく慎重な人」


「否定しづらいですね」


 シモンは苦笑した。


 雨は完全に止んだ。


 雲はまだ残っているが、すぐに再び降り出す気配はない。


 夕方までにはまだ時間がある。


「このあとどうする?」


 ルシルが尋ねた。


「山へは行きませんよ」


「分かってる」


「念のためです」


「旧休憩所をもう少し見たいです」


 モモが石壁の向こうを指す。


「さっき、奥に何かありました」


「何か?」


「石の台みたいなものです」


 三人で建物跡の奥へ向かった。


     ◇


 モモが見つけていたのは、崩れた山側の壁の近くに残る低い石台だった。


 高さはルシルの膝ほど。


 表面は長い年月で角が丸くなり、苔も少しついている。何かを置くための台だったのか、それとも建物の一部だったのか、一目では分からない。


「グレイの加工石とは関係ないですよ」


 シモンが先に言った。


「まだ何も言ってない!」


「顔が」


「もうそのやり取り何回目?」


 モモが笑いを堪えながら石台へ近づく。


「でも、これは普通に休憩所の一部っぽいですね」


「たぶん」


 ルシルもしゃがんで見る。


 石台の横には、ほとんど消えかけた文字が彫られていた。


「何か書いてある」


 三人で土や苔を無理に剥がさないよう、見える範囲だけ確認する。


『……十……年 再……』


「読めない」


「削れてますね」


「何年かに直した記録でしょうか」


 シモンが少し距離を変えて見る。


「『再建』か『再整備』かもしれませんが、断定できません」


「ここ、いつからあるんだろ」


「街道所で聞けば分かったかもしれませんね」


「聞かなかったな」


「その時は気にしてませんでしたから」


 ルシルは古い石壁を見渡した。


 誰かが造った。


 誰かがここで旅人を迎えた。


 屋根があり、火が焚かれ、馬が水を飲んでいた時代があったのだろう。


 今は建物としての役目を終えている。


 それでも旅人が立ち止まり、馬を休ませ、野営する場所として残っている。


「壊れても使われてるんだな」


「全部なくなったわけではありませんからね」


 シモンが言う。


「屋根はなくても壁は風除けになりますし、井戸もあります。街道所が最低限の管理を続けているのでしょう」


「新しく建て直さないのかな」


「需要や費用次第でしょう。先に避難小屋もあるようですし」


「王……」


 ルシルは言いかけて止まった。


 王国なら、と言いそうになった。


 昔なら、街道施設が古いなら整備すべきだと考えたかもしれない。予算はどうなっている、管理はどこだ、利用者は何人だ、と頭の中で制度へ結びつけていた。


 それが悪いわけではない。


 必要な考え方だった。


 けれど今は、目の前の休憩所を見て最初に考えたのは別のことだった。


「ここで何人くらい休んだんだろ」


 モモがルシルを見る。


「昔から?」


「うん。馬車とか、旅人とか」


「たくさんじゃないですか?」


「だよな」


 床の石には、ところどころ擦れた跡がある。


 何十年、あるいはもっと長い時間の中で、人や荷物が通った痕跡なのかもしれない。


 確かめる方法はない。


 だから、ただ想像する。


「今夜は私たちですね」


 モモが言った。


「そうだな」


「明日は別の人が使うかもしれません」


「さっきの荷馬車の人も昔泊まったことあるのかな」


「聞けば良かったですね」


「また会ったら聞こう」


「同じ道を行くとは限りませんよ」


「じゃあ会えたら」


「それなら」


 三人は石台をそれ以上調べなかった。


 古い文字を読み解くために削ったり、苔を剥がしたりする必要もない。


 知りたければ、いつか街道所で記録を探せばいい。


 今はここで一晩過ごす。


 それだけで十分だった。


     ◇


 夕方が近づくにつれ、雲は少しずつ薄くなった。


 雨上がりの空には西から淡い光が戻り、濡れた葉がところどころ輝いている。街道の表面はまだ湿っているものの、水が流れるほどではない。


 トルクとベルクを短く歩かせ、脚と蹄鉄を確認する。


 二頭とも問題はなかった。


 ベルクの右後肢も自然。


 シモンが触れても嫌がらず、蹄鉄に目立ったずれや熱もない。


「今日はここまでですね」


 シモンが立ち上がる。


「明日の朝、もう一度見てから」


「うん」


 ルシルも安心して頷いた。


 夕食は、昼に料理本を使ったこともあり、簡単なものにした。


 保存用の干し魚を軽く炙り、豆と乾燥野菜の汁物を作る。硬いパンは火のそばで少し温めるだけにする。


 雨上がりなので、焚き火の場所は特に慎重に選んだ。


 古い炉は中に落ち葉が多く、状態も分からないため使わない。外の指定された石囲いを使い、周囲の濡れた落ち葉を少し避けてから火を起こす。


「今日は一回でつくかな」


 ルシルが火打ち石を持つ。


「宣言すると失敗しそうです」


 モモが隣で言う。


「言わないでよ」


「頑張ってください」


「その応援も何か嫌だな」


 火花を飛ばす。


 一度目。


 焚き付けへ小さな火が移った。


「ついた」


「本当に一回でした」


「見た?」


「見ました」


「シモンも?」


「見ていますよ」


「よし」


「火をつけただけで、そこまで誇らなくても」


「最初はできなかったから」


「それを言われると、何も言えませんね」


 シモンも笑いながら鍋へ水を入れる。


 夕食を作っている間、もう雨は降らなかった。


 代わりに気温が下がる。


 火の近くが心地よく感じられるようになり、三人は自然と焚き火を囲んだ。


 干し魚の表面が炙られ、香ばしい匂いが広がる。


「焦げてない?」


 モモが覗き込む。


「まだ大丈夫」


「端がちょっと」


「これは焦げじゃなくて焼き色」


「本当ですか?」


「たぶん」


「たぶんなんですね」


「じゃあモモやる?」


「……ルシル様に任せます」


「逃げた」


「信頼です」


「便利な言葉だな」


 笑いながら魚を返す。


 少しだけ端が黒くなった。


 完全な失敗ではない。


 三人で分ければ、それも旅の夕食の一部になる。


 汁物ができ、パンも温まる。


 火のそばへ木製の椅子を三つ置き、食事を始めた。


「いただきます」


 山の夕方に、三人の声が重なる。


 昼の鍋料理ほど新しい味ではない。


 何度か食べた組み合わせ。


 それでも、場所が変われば少し違って感じる。


「干し魚、端だけちょっと苦いです」


 モモが言った。


「やっぱり焦げてた?」


「少しだけ」


「俺のは大丈夫」


 シモンが自分の魚を見る。


「僕のも問題ありません」


「モモのだけ?」


「何で私だけなんですか」


「場所かな」


「交換します?」


 ルシルが自分の魚を差し出しかける。


 モモは少し考え、首を横へ振った。


「大丈夫です。これも食べます」


「苦いのに?」


「少しだけですから。それに」


 黒くなった端を小さくかじる。


「旅の味です」


「それ、便利な言葉にしようとしてない?」


「駄目ですか?」


「何でも旅の味にできる」


「失敗料理まで正当化しないでください」


 シモンが呆れた声を出す。


「でも食べられるならいいです」


「結局認めてるじゃん」


「食べられないほど焦がしたら駄目ですからね」


「はい」


 食事をしながら、明日の話も少しだけした。


 朝起きたら天候を見る。


 馬を見る。


 路面を見る。


 問題なければ山道へ入る。


 途中で無理だと思えば戻ることも考える。


 避難小屋を次の目安にする。


 予定はそれだけだった。


「何時に出る?」


 ルシルが尋ねる。


「起きてから決めましょう」


 シモンが答える。


「珍しい」


「何がです?」


「時間決めないんだ」


「山の天候と路面次第ですから、今決めても意味が薄いでしょう」


「じゃあ朝寝坊しても?」


「それとこれとは別です」


「やっぱり」


 モモが笑う。


「でも早すぎても暗いですよね」


「ええ。明るくなってからで十分です」


「朝ご飯も食べて」


「もちろん」


「片付けもして」


「当然です」


「じゃあ急がなくていいですね」


「最初からそう言っています」


 三人とも、明日の出発を楽しみにしている。


 けれど、その楽しみが「早く行かなければ」という焦りにはなっていなかった。


 山は明日もそこにある。


 道もある。


 天気が悪ければ、もう一日待つことだってできる。


「もし明日雨だったら?」


 モモが尋ねた。


「ここでもう一泊?」


 ルシルが答える。


「雨の強さ次第でしょうね」


 シモンは汁物を飲みながら言う。


「弱くて路面に問題がなければ進めるかもしれませんし、強ければ待つ。最初から決める必要はありません」


「ここで一日過ごすなら何する?」


「もう考えてるの?」


「もしもの話です」


「俺、旧休憩所の周り歩きたい」


「雨なのに?」


「弱かったら」


「私は料理本見たいです」


「馬車の中で?」


「はい」


 二人の視線がシモンへ向く。


「僕にも聞くんですか?」


「もちろん」


 シモンは少し考えた。


「……鳥の本を読みます」


 ルシルとモモが同時に笑った。


「何ですか」


「いや、いいなと思って」


「シモン君、あの本気に入ってますね」


「せっかく買ったんですから、読むでしょう」


「じゃあ雨でも暇じゃない」


「そうですね」


 モモが満足そうに頷く。


 雨なら雨でできることがある。


 晴れなら進む。


 それくらいでいい。


     ◇


 夕食を終え、火を小さくしていく頃には、山の向こうへ日が沈み始めていた。


 空の低いところだけが橙色に染まり、その上へ薄い灰色の雲が重なっている。雨で洗われた空気は澄み、遠くの木々の輪郭が昼よりはっきり見えた。


 三人で片付けを済ませる。


 鍋を洗う。


 食べ残しを残さない。


 火を完全に消すための水を用意する。


 トルクとベルクにも夕方の世話をする。


 何度か繰り返した作業だが、同じ夜は一度もない。


 場所が違う。


 空が違う。


 聞こえる音も違う。


 今日は、古い石壁がすぐ近くにある。


 ルシルがトルクの首筋を撫でていると、モモが空を見上げた。


「星、見えるでしょうか」


「雲あるからなあ」


「夜には晴れるかもしれません」


 シモンも西の空を見る。


「雲は少し切れていますね」


「最初の野営の時、星すごかったよな」


「はい」


「石原でも見ましたね」


「白い花のところでも」


 野営した場所が、少しずつ増えている。


 最初の野営。


 石原。


 白い花の野営地。


 そして今日の旧休憩所。


「ここ、四回目?」


「野営として数えるなら、そうですね」


「まだ四回か」


「もう四回とも言えます」


「どっち?」


「どちらでも」


 シモンの答えに、ルシルは笑った。


 日が完全に沈む前に、三人は石壁のそばへ並んで座った。


 まだ天幕へ入るには早い。


 火はほとんど消えている。


 冷え始めた空気の中で、残った明るさを眺める。


「今日、グレイ出たんだよな」


 ルシルがぽつりと言った。


「今朝ですね」


「もっと前みたい」


「花谷で長く過ごしましたから」


「グレイも長かった気がする」


「実際、予定より長くいました」


「宿延長忘れたし」


 モモが思い出して笑う。


「あれ、危なかったですね」


「部屋空いてて良かった」


「次は忘れないでくださいよ」


 シモンが言う。


「シモンも忘れてたじゃん」


「……そうでしたね」


「三人ともです」


「じゃあ次から誰か一人覚えてればいい」


「それではまた全員忘れる可能性があります」


「三人で覚える?」


「その方がいいでしょう」


 軽い会話のあと、また静かな時間が来る。


 山の夜は早い。


 残っていた橙色が消え、空が深い青へ変わる。


 木々の間から虫の声が聞こえ始めた。


 遠くで一度だけ、鳥とは違う低い鳴き声がする。


 モモがそちらへ顔を向けた。


「何でしょう」


「分かりません」


 シモンも耳を澄ませる。


「遠いですね。こちらへ近づいている音ではなさそうです」


「魔物?」


「可能性はありますが、普通の獣かもしれません」


「見に行く?」


 ルシルが半分冗談で言う。


 二人の視線が同時に向く。


「行かないよ」


「まだ何も言ってません」


「顔で分かった」


 今度はルシルが先に言った。


 モモが吹き出し、シモンも眼鏡の奥で目を細める。


「学習しましたね」


「毎回言われてるから」


「では見に行かないでください」


「もちろん」


 知らない鳴き声は気になる。


 けれど、夜の山へわざわざ正体を確かめに行く理由はない。


 それも、グレイで覚えたことの延長なのかもしれなかった。


 分からないものを、全部自分で確かめなくていい。


「明日、道で会ったら見る」


「向こうから会いに来てほしくはありませんけどね」


「その時は?」


「距離と相手次第です」


「俺たち強いのに」


「強いことと、無駄に戦うことは別です」


「それもそう」


 モモは二人のやり取りを聞きながら、膝の上へ頬杖をついた。


「戦わない旅も楽しいです」


 声は小さい。


「サンドワーム以来、ちゃんと戦ってないもんな」


「シモン君は冒険者さんたちと模擬戦しました」


「あれは戦闘というより訓練です」


「私、何もしてません」


「それが不満?」


 ルシルが尋ねる。


「いいえ」


 モモはすぐ首を振った。


「むしろ、こういう方が好きです」


 彼女の視線は山の暗がりではなく、すぐ近くにある馬車と二頭の馬へ向いている。


「食べて、馬車に乗って、町を歩いて、花を見て。何かあったら助けたいですけど、何もないなら何もない方がいいです」


「俺も」


 ルシルは自然に答えた。


 強さを試すために旅へ出たわけではない。


 王位を取り返すためでもない。


 誰かに自分を認めさせるためでもない。


 ただ、自分で選んだ道を歩いている。


 今日だって、進める山道を目の前にして泊まることを選んだ。


 それでいい。


「シモンは?」


 モモが尋ねる。


「僕も同じですよ」


 シモンは暗くなり始めた空を見た。


「何も起こらない日を退屈だと思わなくなりました」


「前は?」


「……仕事がないと落ち着かなかったかもしれません」


「今は?」


「明日の道を考えるくらいで十分です」


「それ、仕事じゃない?」


「旅の準備です」


「似てない?」


「違います」


 シモンは少しだけ強く否定した。


 その反応がおかしくて、ルシルとモモが笑う。


 笑い声が収まる頃、雲の切れ間から一つだけ星が見えた。


「あ」


 モモが指差す。


「星」


「一個」


「もう少し晴れれば増えるかもしれませんね」


 三人で見上げる。


 すぐに二つ目が見えた。


 少し離れて三つ目。


 雲は完全には消えていない。


 だから満天の星にはならない。


 それでも、雲の間から見える星を探す時間も悪くなかった。


     ◇


 夜が深くなる前に、三人は最後の確認を済ませた。


 火は完全に消えている。


 馬車は固定されている。


 トルクとベルクも落ち着いている。


 食料は片付けた。


 明日の朝すぐ使うものだけ、取り出しやすい位置へ置く。


「これでいいかな」


 ルシルが天幕の入口から周囲を見る。


「ええ」


 シモンが頷く。


「夜中に雨が強くなったら起きましょう」


「交代で見張りは?」


「この辺りは街道沿いですし、今のところ危険な兆候はありません。ただ、完全に無警戒にはしません」


「どうする?」


「簡易の警戒魔法を張ります。何か大きなものが近づけば分かります」


「便利」


「こういう時のための魔法です」


 シモンは天幕と馬車、馬たちを囲む範囲へ簡単な術式を置いた。


 目に見える壁ができるわけではない。


 侵入を完全に防ぐものでもない。


 一定以上の大きさの生き物が近づいた時、術者へ知らせるためのものだ。


「最初の野営でも使ってた?」


 ルシルが尋ねる。


「使っていましたよ」


「知らなかった」


「言いませんでしたから」


「何で?」


「最初の夜に『魔法があるから何も気にしなくていい』と思われると困るので」


「信用なかった?」


「経験がなかったでしょう」


「同じような意味じゃない?」


「違います」


 モモがくすくす笑う。


「今は教えてくれるんですね」


「最低限、自分たちで周囲を見る習慣はつきましたから」


「認められた」


 ルシルは少し嬉しくなる。


「ただし警戒魔法があるからといって、何でも安心ではありませんよ」


「分かってる」


「天候には反応しませんし、小さな生き物にも全部反応させると眠れません」


「鳥とか?」


「夜行性の小動物でも鳴り続けるでしょうね」


「それは嫌だな」


「だから調整しています」


「さすが賢者」


「急に雑な褒め方をしないでください」


 準備が終わり、三人はそれぞれ休むことにした。


 天幕へ入る直前、ルシルはもう一度だけ街道の先を見た。


 暗くて何も見えない。


 昼間には、あの先へ進みたいと思った。


 今は違う。


 明るくなってからでいい。


 そう思える。


「おやすみ、トルク。ベルク」


 馬たちへ声を掛ける。


 トルクが小さく鼻を鳴らした。


 ベルクも耳だけをこちらへ向ける。


「おやすみなさい」


 モモも続く。


「何もなければ朝までゆっくり休んでください」


 シモンの声に、ベルクがもう一度耳を動かした。


 三人は天幕へ入った。


 外では、雨上がりの葉から遅れて落ちる水滴が、時折小さな音を立てている。


 旧休憩所の石壁は何も語らない。


 明日の山道も、今は暗闇の向こうにある。


 それでよかった。


 今夜はここまで。


 進める道が残っているからこそ、安心して休める夜もある。


 ルシルは毛布へ身体を預け、外の音をしばらく聞いていた。


 グレイの森の謎も、加工石の穴も、もうここからは見えない。


 花谷の花々も、山の向こうへ隠れている。


 代わりに、明日進む道がすぐ近くにある。


 急がなくても、その道は消えない。


 やがて風が弱まり、木々の音も穏やかになった。


 ルシルの意識も少しずつ沈んでいく。


 そして旧休憩所で過ごす最初の夜は、何か大きな事件を起こすこともなく、静かに更けていった。

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