第39話 山道へ入ったからといって、頂上まで急ぐ必要はありません
旧休憩所で迎えた朝は、雨音ではなく鳥の声から始まった。
天幕の布越しに差し込む光はまだ淡く、夜の冷たさも残っている。それでも昨夜の通り雨を運んできた厚い雲はかなり減っているらしく、外から聞こえる風の音も穏やかだった。ルシルは毛布の中で一度だけ大きく伸びをしてから身体を起こし、隣でまだ眠っている二人を起こさないよう、そっと天幕の入口を開いた。
冷えた空気が顔へ触れる。
「……晴れてる」
思わず声が漏れた。
東の空には薄い雲が残っているものの、頭上には青空が広がっていた。木々の葉には昨夜の雨粒が残り、朝日を受けて小さく光っている。街道も完全には乾いていないが、旧休憩所の平地に水溜まりはなく、土の表面が少し濃い色をしている程度だった。
石壁の向こうからトルクの鼻息が聞こえる。
ルシルが近づくと、栗毛の馬はすでに起きていた。というより、こちらの気配へ気づいた瞬間から「朝なら何か食べるものが出てくるはずだ」とでも言いたげな目を向けている。
「おはよう。朝飯はもう少し待って」
首筋を撫でると、トルクは鼻先をルシルの胸元へ寄せた。
「持ってないって」
今度は外套の脇へ鼻を動かす。
「本当にないよ」
何も出てこないと理解したのか、トルクは小さく鼻を鳴らした。
「朝から元気そうだな」
ただし、それだけで確認を終わらせるつもりはない。
ルシルはトルクの立ち方を見る。四肢へ自然に体重を乗せており、どこか一方を庇う様子はない。昨夜から雨が降ったことで蹄の周囲には少し湿った土が付着しているが、見える範囲で蹄鉄に異常はなかった。
少し離れたベルクも、こちらへ耳を向けている。
「ベルクもおはよう」
近づきすぎず声だけ掛けると、濃灰色の馬は一度だけ鼻を鳴らした。以前なら、それだけでも「嫌われてはいない」と少し嬉しくなっていたところだが、今では誰を待っているのか分かる。
「シモンはまだ寝てるよ」
ベルクの耳が動いた。
「分かってるのかな」
「何がですか?」
背後から声がして、ルシルは振り返った。
いつの間にか天幕から出てきたシモンが、少し乱れた黒髪を手で整えながらこちらへ歩いてくる。眼鏡はすでに掛けているが、いつものきっちりした姿よりほんの少しだけ寝起きらしさが残っていた。
「ベルクがシモン待ってた」
「そうですか?」
「俺が話しかけても、ずっと天幕の方見てた」
シモンがベルクへ近づく。
するとベルクは明らかに鼻先を伸ばした。
「ほら」
「……たまたまでしょう」
そう言いながらも、シモンの手は自然にベルクの額へ伸びている。
ベルクは避けない。
むしろ少しだけ頭を下げた。
「たまたまねえ」
「何ですか」
「別に」
ルシルが笑っていると、今度は天幕の入口から白い外套が覗いた。
「おはようございます……」
モモはまだ少し眠そうだった。
長い桃金色の髪を片側へ寄せ、片手で目元を擦りそうになって途中でやめる。外へ出て空を見上げた途端、その表情が一気に明るくなった。
「晴れてる!」
「晴れた」
「雨、止んだんですね」
「夜中は気づかなかったけど、たぶんそんなに降らなかったみたい」
モモは嬉しそうに空を見たあと、すぐトルクの方へ向かった。
「トルクさん、おはようございます」
その声を聞いたトルクの反応は早い。
首を伸ばし、モモの手元を見る。
「まだ何も持ってませんよ?」
それでも鼻先を寄せてくる。
「ルシル様にも同じことした」
「朝ですからね」
「朝だからって食べ物が出てくるわけじゃないよ」
「でも、あとで出てきます」
モモが言った瞬間、トルクが鼻を鳴らした。
三人とも一瞬黙る。
「……今の、分かってません?」
モモが真顔で尋ねた。
「偶然です」
シモンが答える。
「絶対?」
「たぶん」
「シモンがたぶんって言った」
「馬は人間の声色や行動をかなり見ていますから、食事に関係する雰囲気を覚えていても不思議ではありません。ただし言葉そのものを理解したと断定するのは――」
「朝から始まった」
ルシルが笑う。
「何がです?」
「シモンの説明」
「聞かれたから答えただけです」
朝の冷たい空気の中で、三人の笑い声が小さく広がった。
山道へ入る朝だからといって、特別に緊張しているわけではない。
まず馬を見る。
空を見る。
朝飯を食べる。
それから決める。
昨日の夕方に話した通りの朝だった。
◇
朝食は、昨夜よりさらに簡単にした。
豆を煮たものへ少量の塩と乾燥香草を加え、薄いパンを火で温める。残っていた干し肉も少しだけ炙り、三人で分けた。
昨夜使った指定の石囲いへ改めて火を起こしたが、ルシルは昨日の成功に気を良くして「今日も一回で」と宣言することはしなかった。
結果として、二回かかった。
「言わなくて良かった」
火が安定してからルシルが呟く。
「何がです?」
鍋を見ていたモモが首を傾げる。
「一回で火つけるって言わなくて」
「二回でしたね」
「言ってたら絶対笑ったでしょ」
「少しだけ」
「少しなんだ」
「私は三回くらいかかるかもしれません」
「じゃあ次やる?」
「……次にします」
「逃げた」
「温かい豆を焦がさない役がありますから」
モモは鍋を混ぜる木匙を持ち上げ、いかにも重要な仕事を任されているような顔をした。
シモンはパンを火から少し離れた場所へ並べながら、そのやり取りを聞いている。
「モモ嬢、混ぜすぎると豆が崩れますよ」
「え?」
「ゆっくりで大丈夫です」
急に木匙の動きが慎重になった。
「これくらい?」
「ええ」
「料理って難しいですね」
「今のは難しいというほどでは……」
「シモン君」
「はい」
「そういうこと言うと、次から全部シモン君が作ることになりますよ」
シモンの口が閉じた。
ルシルは笑いながら干し肉を裏返す。
「今のモモ強いな」
「私は最強の聖女ですから」
「そこに使うの?」
「料理にも使えます」
「使えてないけど」
「ルシル様の干し肉、端が焦げそうです」
「えっ」
慌てて火から離す。
黒くなる寸前だった。
「危なかった……」
「私の勝ちです」
「何の勝負?」
「分かりません」
三人とも笑う。
温かい豆とパン、干し肉だけの朝食でも、昨日の昼に食べた花谷の鍋とは違う美味しさがあった。朝の冷えた空気の中で湯気の立つものを口へ入れると、それだけで身体が内側から温まっていく。
食べ終えたあと、すぐには出発準備へ移らなかった。
トルクとベルクにも朝の飼葉と水を与える。
二頭が食べている間に、三人は天幕を片付ける前の確認を始めた。
空は晴れている。
風は弱い。
ただし山側には薄い雲が残っていた。
「上も晴れてるとは限らないんだよな」
ルシルが山を見上げる。
「ええ。昨日の荷馬車の方も言っていました」
シモンは地図を開かず、実際の山肌を見ている。
「少なくとも、今見える範囲では低い雲はありません。雨の気配も昨日より弱いですね」
「道、見てきます?」
モモが尋ねた。
「昨日見たところまでなら」
「俺も行く」
三人は食後の片付けを一度止め、旧休憩所から街道へ出た。
昨日、通り雨の前に歩いた場所。
日陰の土が柔らかかったところ。
朝になってどう変わったかを見る。
昨夜の雨で泥が深くなっている可能性もあった。
実際に踏んでみると、表面はまだ湿っていた。
しかし靴が沈み込むほどではない。
昨日より水分は増えているものの、轍の底へ水が溜まっているわけでもなかった。
「馬車でも通れそう?」
ルシルが尋ねる。
「この場所だけなら」
シモンは少し先の坂を見る。
「ただ、ここを見て山全体を判断はできません」
「うん」
「進みながら見るしかないですね」
モモが道の先へ目を向ける。
朝日が差し込む場所では、濡れた石が光っていた。
山道は続いている。
昨日はその入口で止まった。
今日は、そこへ入る。
ルシルの胸の奥に、小さな高揚が生まれた。
けれど、それを急いで行動へ変える必要はない。
「じゃあ戻って、馬も見よう」
自分からそう言えた。
◇
トルクとベルクの確認には、昨日までより少し時間をかけた。
新しい蹄鉄を履いてから平地や町中、花谷までの緩やかな道は歩いている。昨日は旧休憩所まで上りも経験した。問題は出ていない。
今日はそこからさらに傾斜が増える。
だから出発前に、今の状態を覚えておく。
まずトルク。
短く歩かせる。
曲がる。
止まる。
再び歩く。
栗毛の馬は特に嫌がる様子もなく、むしろ朝食後で機嫌がいいのか、モモの方を何度も気にしていた。
「私、何も持ってませんよ」
「さっき食べ物出したから期待してるんじゃない?」
「もう食べましたよ?」
「トルクに言って」
「トルクさん、朝ご飯は終わりです」
トルクが鼻を鳴らす。
「納得してない」
「食欲があるのは良いことですが、追加はしませんよ」
シモンの言葉に、モモも頷く。
「山道ですからね」
次にベルク。
シモンが引き、ルシルとモモは少し離れて全体を見る。
ベルクも歩き方に異常はない。
例の右後肢だけを注視しすぎないようにしながらも、曲がった時や止まった時の体重の乗せ方を見る。蹄鉄が浮いている様子もなく、触れて分かる異常な熱もない。
「大丈夫そう」
ルシルが言う。
「ええ。少なくとも今は」
シモンも頷いた。
「途中でまた見ましょう」
「どれくらいで?」
「時間で決めるより、坂の状態や二頭の様子を見てですね。最初から長く走らせるつもりはありません」
「今日は山道初日ですもんね」
モモがベルクの首筋を撫でる。
「嫌だったら教えてくださいね」
ベルクは答えない。
代わりにシモンの肩へ鼻先を寄せた。
「シモン君経由で」
「僕が通訳できるわけではありませんよ」
「でも一番分かりそう」
「雰囲気くらいです」
「それで十分」
モモの返事に、シモンは何も言い返さなかった。
馬の状態を確認したあとは、ようやく野営地を片付ける。
天幕を乾かせる範囲で乾かし、濡れた部分を拭う。昨夜の雨は短かったため、布全体が重くなるほど水を含んではいない。
使った石囲いも確認する。
灰を散らさない。
ゴミを残さない。
井戸の蓋も元通り。
休憩所の中へ持ち込んだものが残っていないかを見る。
「忘れ物なし?」
ルシルが尋ねる。
「僕の方はありません」
「私も……」
モモが自分の周囲を見回す。
「大丈夫です」
「本当に?」
「何ですか、その確認」
「お菓子とか置いてない?」
「置きません!」
「じゃあいい」
「ルシル様こそ何か忘れてません?」
「俺?」
言われて自分の荷物を見る。
外套。
水筒。
手袋。
特にない。
「ないと思う」
「思う?」
「……もう一回見る」
結局三人でもう一周した。
何もなかった。
最後に、昨日見つけた古い石台の前を通る。
削れた文字は朝の光でもやはり読めない。
「結局、何年って書いてあるか分からなかったな」
「無理に読む必要もありません」
「うん」
「また街道所へ行くことがあれば聞けます」
モモが言う。
「帰り道でグレイ通るなら?」
「帰り道が同じとは限りませんよ」
シモンの言葉に、ルシルは一瞬考える。
確かにそうだ。
海まで行ったあと、どこへ向かうかなど決めていない。
同じ道を戻るかもしれない。
違う道を選ぶかもしれない。
「じゃあ、また来たら」
「それでいいと思います」
ルシルは古い休憩所へ軽く手を上げた。
「一晩ありがとう」
誰かが返事をするわけではない。
けれど、昨日ここで立ち止まれたことには感謝していた。
◇
馬車をつなぐ。
トルクとベルクが並ぶ。
金具。
革具。
連結部。
車輪。
荷物。
いつもの確認を三人で分担する。
昨日までと違うのは、これから走る場所が山道だということだった。
ルシルは右後輪のそばへしゃがみ、車輪と地面の位置を見た。
「下りじゃないけど、今日は車輪の方も気にした方がいいよね」
「ええ。石を踏んだ時の衝撃もありますし、急な段差は避けたいですね」
シモンが答える。
「ただ、車輪ばかり見て前を疎かにしないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「最近信用上がったんじゃなかったの?」
「上がったから確認しています」
「それ上がってる?」
「最初なら僕が御者をすると言っています」
ルシルは少し黙った。
「……それなら上がってる」
「でしょう?」
今日の最初の御者はルシルになった。
自分からやりたいと言ったわけではない。
三人で相談し、昨日までの走り方と道の状態を考えた結果だった。
シモンは隣へ座る。
モモは最初、馬車の後方寄りで左右と後輪を見やすい位置につく。
「最初の坂で駄目そうなら交代する」
ルシルが手綱を持ちながら言った。
「ええ。それでいいです」
「トルク、ベルク。今日はゆっくり行こう」
二頭の耳が前を向く。
手綱を強く引かない。
合図を送る。
馬車が動き始めた。
旧休憩所の平地から街道へ。
前輪が湿った土を踏む。
続いて後輪。
大きな沈み込みはない。
ルシルは昨日歩いて確認した道を、歩くより少し速い程度で進んだ。
最初の曲がり角。
山側へ寄りすぎない。
谷側へも寄せすぎない。
馬車の幅を考え、トルクとベルクが通った位置だけでなく、後輪がどこを通るかを意識する。
「右後輪、余裕あります」
後ろからモモの声が届く。
「ありがとう」
曲がる。
後輪も石へ当たらない。
そのまま坂へ入った。
ルシルの背筋が少し伸びる。
昨日までの街道とは違う。
はっきりと、山道だった。
◇
最初の坂は、思っていたより急ではなかった。
ただし長い。
緩やかに見える上りが続き、途中から少し傾斜が増す。
トルクとベルクは一定の歩調を保っていた。
馬車は二頭引きで、荷物も収納魔法のおかげで外から見えるほど多くはない。それでも車体そのものが普通の中型馬車より重い。
ルシルは速度を上げなかった。
「後ろ、大丈夫?」
「大丈夫です!」
モモの声が返る。
「左の後輪、次の石だけ少し内側です!」
「見えた」
前方の路面に、拳より少し大きい石が半分埋まっている。
トルクとベルクは避けられる。
問題は後輪。
ルシルは急に進路を変えず、少し早めに右へ寄せた。
「そのままで大丈夫です!」
モモの声。
前輪が石の横を通る。
後輪も当たらない。
「通った!」
「よし」
嬉しくなる。
だが、すぐ次を見る。
以前なら一つ避けただけで振り返って喜んでいたかもしれない。今は山道で、次の石も次の窪みもある。
隣のシモンは何も言わなかった。
それが少し嬉しかった。
「何?」
ルシルが前を見たまま尋ねる。
「何も言っていませんが」
「今、ちょっと笑った?」
「笑っていません」
「絶対笑った」
「前を見てください」
「はい」
その時、馬車が小さく揺れた。
左前輪が浅い窪みを踏んだだけだった。
ルシルは慌てない。
トルクもベルクも歩調を崩していない。
「今の大丈夫?」
「後ろも問題ありません」
モモが答える。
「この程度なら普通です」
シモンも言う。
「全部避ける必要はありません。避けるために急に進路を変える方が危険です」
「うん」
完璧に揺らさないことが目的ではない。
安全に進む。
馬へ無理をさせない。
車輪を壊さない。
それでいい。
少し先で、昨日の荷馬車の男が話していた日陰の場所へ出た。
道の山側に背の高い木が集まり、朝になっても日がほとんど差していない。土の色が明らかに濃く、轍も他より深い。
「ここかな」
「おそらく」
シモンの声も少し低くなる。
「止める?」
「手前で一度止まりましょう」
ルシルはゆっくり速度を落とした。
トルクとベルクが止まる。
馬車も安定する。
三人は降りた。
泥の区間は長くない。
二十歩ほど。
だが中央には昨日の荷車が通ったらしい轍が残り、その底はまだ湿っていた。
シモンが靴で端を踏む。
「昨日より柔らかいですね」
「雨降ったから?」
「可能性は高いでしょう」
モモも反対側を見る。
「端の方が少し硬いです」
「でも端に寄せすぎると山側の石に当たりそう」
ルシルが言う。
山側には岩が少し露出している。
谷側は道幅こそあるが、必要以上に寄りたくない。
「真ん中を避けて、少し山側寄り?」
「それが良さそうですね。ただし轍を跨ごうとしすぎない方がいいでしょう」
シモンは泥の深さをもう一度確かめる。
「車輪が完全に取られるほどではありません。低速でまっすぐ抜けます」
「トルクとベルクは?」
「歩けると思います。ただ、無理に引かせません。滑るようなら止めましょう」
ルシルは二頭を見る。
トルクは落ち着いている。
ベルクも泥を気にしている様子はない。
「俺がそのままやる?」
「どうしたいですか?」
シモンは判断を奪わなかった。
ルシルは道を見る。
怖くないと言えば嘘になる。
失敗して馬車を泥へ入れたくない。
トルクとベルクへ無理もさせたくない。
だからといって、自分にはできないと感じるほどの場所でもなかった。
「やる。でも、モモは後輪見てて。シモンは前と馬を一緒に見てほしい」
「分かりました」
「任せてください」
再び御者台へ。
手綱を握る。
「ゆっくり行くよ」
二頭へ声を掛ける。
馬車が動く。
最初にトルクの蹄が湿った土へ入った。
少し沈む。
滑らない。
ベルクも続く。
前輪が泥へ入った瞬間、抵抗が少し増した。
ルシルは焦って馬を急かさない。
「そのままで大丈夫です」
シモンが前方から声を掛ける。
「右後輪、まだ硬いところです!」
モモの声も届く。
馬車がゆっくり進む。
左後輪が浅い轍へ入った。
ぐっと車体が傾きかける。
ルシルの手に力が入る。
「ルシル様、そのまま!」
モモの声。
進路を急に変えない。
トルクとベルクが一歩。
もう一歩。
後輪が轍から上がる。
馬車が戻った。
「抜けました!」
まだ終わりではない。
前を見る。
残り十歩ほど。
路面は少し硬くなっている。
そのまま進む。
やがて四輪すべてが乾いた地面へ出た。
「止めるよ」
馬車を止める。
ルシルは大きく息を吐いた。
「……緊張した」
「見ていて分かりました」
シモンが言う。
「手、固くなってた?」
「少し」
「やっぱり」
モモも後ろから降りてくる。
「でも急に曲げなかったです」
「モモがそのままって言ったから」
「私も、言いながらちょっと怖かったです」
「そうなの?」
「後輪が沈んだ時だけ」
三人で馬車の周囲を見る。
泥は付いている。
だが車輪に異常はない。
トルクとベルクの脚も確認する。
蹄周りへ泥が付着しているため、簡単に落として状態を見る。
「滑った感じは?」
ルシルが尋ねる。
「見ていた範囲ではありません」
シモンがベルクを確認する。
「二頭とも歩調は崩していませんでした」
「じゃあ進める?」
モモの問いに、シモンはすぐ答えなかった。
二頭を見る。
坂を見る。
そしてルシルへ視線を向ける。
「まず少し休ませましょう」
「ここで?」
「ええ。難しい場所を抜けた直後です。先が急になる前に、呼吸を見たいです」
「分かった」
街道脇に少し広くなった場所がある。
馬車を寄せ、二頭を休ませる。
ルシルは御者台から降りた。
泥の区間を越えた達成感はある。
でも、それ以上に強かったのは、無事に抜けられて良かったという安堵だった。
山道はまだ始まったばかりだった。
◇
休憩場所から振り返ると、旧休憩所はもう見えなかった。
曲がりくねった街道と木々に隠れている。
ほんの少し進んだだけなのに、昨日泊まった場所が見えなくなった。
「山って感じする」
ルシルは水を飲みながら言った。
「さっきも言ってませんでした?」
モモがトルクの様子を見ながら笑う。
「さっきより山だから」
「じゃあ上へ行くたびに言うんですか?」
「もっと山って感じする、すごく山って感じする、ものすごく山って感じする」
「語彙が減っていますよ」
シモンが呆れた。
「じゃあシモンが言って」
「何をです?」
「山が深くなった感じ」
シモンは周囲を見る。
街道の左右には木々。
低い場所より空が狭く見える。
斜面には苔のついた石が増え、雨水が細く流れた跡も残っている。
「標高が上がるにつれて植生と地形が――」
「難しい」
「まだ一言目です」
「旅っぽく」
「注文が多いですね」
モモがくすくす笑う。
「シモン君の感想を聞きたいです」
そう言われると、シモンは少し困ったように黙った。
説明ではなく感想。
それを求められることにも、以前より慣れてきている。
「……空気が変わりましたね」
やがて、彼はそう言った。
ルシルもモモも周囲を見る。
「グレイを出た時とも、花谷とも違います。湿っていますが、町の水路や川の匂いとは違う。木と土の匂いが強いです」
「分かる」
「はい」
「あと、静かですが、何もいない静けさではありません」
シモンは少し遠くを見る。
「鳥もいますし、虫もいる。風で葉が動く音もする。僕は……こういう場所を、自分の予定でゆっくり歩いたことはほとんどありませんでした」
最後の言葉だけ、少し声が柔らかくなった。
「好き?」
ルシルが尋ねる。
「今のところは」
「また悪くありませんって言うかと思った」
「最近それを言うと二人が反応するでしょう」
「好きなんだ?」
「今のところは、と言いました」
「はいはい」
「聞く気あります?」
「あるよ」
ルシルは笑いながら立ち上がる。
休憩は長く取りすぎない。
トルクとベルクの呼吸も落ち着いている。
水を少量。
脚を確認。
異常なし。
「次、御者代わる?」
ルシルが尋ねた。
「もう少しやりますか?」
シモンから返ってきたのは質問だった。
ルシルは少し考える。
泥の区間を抜けた。
緊張した。
だからこそ、ここで交代するのもありだと思う。
自分が最後までやらなければならない理由はない。
「代わる」
「分かりました」
「疲れた?」
モモが聞く。
「ちょっと。腕じゃなくて、頭が」
道を見る。
石。
後輪。
馬。
泥。
坂。
全部を考えながら進むのは、平地よりずっと疲れる。
「じゃあ休んでください」
「うん」
シモンが御者台へ座る。
ルシルはその隣ではなく、今度は後方へ移った。
「モモ、前行く?」
「いいんですか?」
「後輪見るの代わる」
「じゃあお願いします」
役割を交代する。
誰か一人がずっと同じことをする必要もない。
馬車は再び動き始めた。
◇
シモンの運転は、相変わらず静かだった。
急な操作をしない。
坂へ入る前に速度を落とす。
路面の悪い場所を見つけると、かなり手前から進路を整える。
最初の頃なら慎重すぎるほど遅く走っていたが、今は必要以上に速度を落とすこともない。
モモは隣で前方を見ている。
ルシルは後方から車輪を見る。
役割が変わると、同じ道でも見え方が違った。
御者台では前方ばかり気にしていた。
後ろへ来ると、前輪が通ったあとに後輪がどれだけ内側へ入るかがよく分かる。
「次の右曲がり、後輪かなり内側入りそう!」
ルシルが声を掛ける。
「見えています」
「右に石ある!」
「分かりました」
シモンは曲がる前に少し左へ膨らませる。
ただし谷側へ寄りすぎない。
トルクとベルクが曲がる。
前輪。
後輪。
「通った!」
「ありがとうございます」
「俺、後ろの方が役に立てるかも」
「御者もやってください」
「分かってる」
モモが振り返る。
「後ろ、楽しいですか?」
「楽しい。車輪めちゃくちゃ見える」
「私は前も楽しいです」
「次、モモ運転する?」
「もう少し道が落ち着いてからがいいです」
「それでいいと思います」
シモンも同意した。
やりたいからすぐ交代するのではない。
自分が運転できそうな場所を選ぶ。
モモも旅を始めた頃より、ずっと自然にそう判断するようになっていた。
街道はさらに山の内側へ入っていく。
時々、木々が途切れる。
その隙間から下の景色が見えた。
「あっ」
最初に声を上げたのはモモだった。
「ルシル様、後ろじゃなくて左!」
「何?」
「景色!」
ルシルは安全を確認してから左側を見る。
木々の向こう。
かなり下に、細い街道が見えた。
その先には淡い緑の土地が広がっている。
「花谷?」
「たぶん!」
昨日歩いた谷が、今はずっと下にある。
白い花までは見えない。
けれど、木々の間に開いた緑の帯が続いている。
「こんなに上ったんだ」
「距離以上に高低差がありますからね」
シモンも速度をさらに落とし、景色を横目で見る。
「止まれるところあったら止まりたい」
「少し先に待避場所があります」
街道の先が少し広くなっていた。
荷馬車同士がすれ違うための場所らしい。
他に車両はいない。
シモンは邪魔にならない端へ馬車を寄せ、止めた。
三人で降りる。
トルクとベルクも短く休ませる。
そして改めて景色を見る。
山の間から、グレイ方面の平地までうっすら見えた。
町そのものは木々や地形に隠れている。
けれど、自分たちが進んできた方向は分かる。
「昨日あそこにいたんですよね」
モモが谷を指す。
「花谷で昼飯食べて」
「その前はグレイ」
「その前は白い花のところ」
「もっと前はミレ村」
三人の旅路が、全部見えるわけではない。
それでも地図の線ではなく、自分たちが実際に通ってきた場所として思い出せる。
「結構来たな」
ルシルが言った。
「まだ海まではかなりありますよ」
「分かってる。でも、来た」
シモンは否定しなかった。
「そうですね」
モモは景色を見たまま、少しだけ目を細めた。
「海も、いつかこうやって見えるんでしょうか」
「山の上から?」
「違います。ずっと行った先で、急に見えるのかなって」
「どうだろ」
ルシルもまだ見たことのない海を想像する。
シモンだけは遠くから一度見たことがある。
けれど、その時のことを詳しく聞き出そうとは思わなかった。
モモが最初に海を見る時。
自分も隣で見たい。
今はそれで十分だった。
「行けば分かる」
ルシルが言う。
「はい」
モモが笑った。
少し休んでから、また進む。
◇
昼前になる頃には、街道の傾斜が一度緩んだ。
山腹を横切るように道が続き、右手は斜面、左手は木々越しの谷になっている。道幅も少し広く、先ほどまでより馬車を走らせやすい。
「ここなら私も運転できそうです」
モモが言った。
シモンも周囲を見る。
「そうですね。ただし、左側へ寄りすぎないように」
「はい」
「速度は?」
「上げすぎない」
「曲がる時は?」
「前だけじゃなく後輪も考える」
「馬が嫌がったら?」
「無理に進ませない」
「よろしいです」
「試験みたい」
ルシルが笑う。
「安全確認です」
「でも全部答えた」
「覚えていますから」
モモは少し得意そうだった。
待避場所のように道幅が広がったところで止まり、御者を交代する。
モモが手綱を持つ。
ルシルは隣。
シモンは後方へ。
「トルクさん、ベルクさん。お願いします」
二頭が歩き始める。
モモの運転は、最初の頃と比べてかなり落ち着いていた。
以前はトルクへ意識が向きすぎることがあった。
今はベルクも見る。
道も見る。
速度も見る。
「右に小石多いです」
後ろからシモン。
「少し左へ寄せます」
「それで大丈夫です」
モモは急に動かさない。
ゆっくり進路を変える。
「上手くなったな」
ルシルが言う。
「本当ですか?」
「うん」
「まだ見てください。褒めるのはあとで」
「分かった」
モモの顔は真剣だった。
けれど緊張しすぎてもいない。
少し先に緩い左曲がり。
前方から音がする。
「馬車?」
モモがすぐ速度を落とす。
鈴の音。
車輪。
やがて曲がり角から、荷を積んだ二頭引きの大きな馬車が姿を現した。
向こうの御者もこちらへ気づく。
道幅はある。
しかし、すれ違うなら慎重にした方がいい。
「止まります?」
「この先より今の場所の方が広いですね」
ルシルが周囲を見る。
「止まろう」
「はい」
モモは街道の山側へ寄せすぎない位置で馬車を止めた。
向こうの荷馬車も速度を落とす。
御者は年配の女性だった。
隣には若い男性が座っている。
「先に行かせてもらっていいかい?」
女性が声を掛ける。
「どうぞ!」
モモが答える。
相手の馬車がゆっくり近づく。
大きい。
荷台には樽がいくつも固定されている。
モモはトルクとベルクを落ち着かせたまま待つ。
ベルクが相手の馬へ耳を向ける。
少し首が動く。
「ベルク」
後ろからシモンが穏やかに声を掛けた。
ベルクの耳が一度後ろへ向き、それから前へ戻る。
暴れない。
相手の馬車が横を通る。
車輪同士の距離には十分余裕がある。
「ありがとうよ」
女性が手を上げた。
「この先、どうですか?」
ルシルが尋ねる。
「避難小屋までは問題ないよ。朝の雨で一か所だけ水が道を横切ってるけど、浅い。うちの荷でも通れた」
「避難小屋から先は?」
「今日はまだ行ってない。あたしらは山腹の集積所から下りてきただけだからね」
「ありがとうございます」
「そっちも気をつけな」
荷馬車が下っていく。
モモはすぐ動かさず、完全に距離が開くまで待った。
「行けます」
シモンの声。
「はい」
再び馬車を進める。
「今の、ちゃんとできた?」
少ししてからモモが尋ねた。
「できた」
ルシルが答える。
「ベルクも落ち着いていました」
シモンも後ろから言う。
モモの肩から少しだけ力が抜けた。
「良かった」
それ以上はしゃがない。
まだ道は続いている。
モモは再び前を向いた。
◇
昼を少し過ぎた頃、道を横切る細い水の流れが見えた。
先ほどの荷馬車が教えてくれた場所だろう。
山側の斜面から染み出した水が、小さな溝を通りきれず、街道の表面へ薄く広がっている。
モモは手前で馬車を止めた。
「ここですね」
三人で降りる。
水深は靴底が濡れる程度。
流れも弱い。
しかし水の下に小石があるため、馬の蹄や車輪が滑らないか確認する。
「ここも通れそう」
ルシルが言う。
「ええ。ただ、水の上で急に止まらない方がいいでしょう」
シモンが水の出口を見る。
「路面自体は流されていません」
「私がそのまま行ってもいいですか?」
モモが尋ねた。
「どうします?」
シモンはまた判断を返す。
モモは水の幅と道を見た。
「行きます。浅いですし、向こう側も平らです」
「では、ゆっくり一定の速度で」
「はい」
御者台へ戻る。
ルシルは隣。
シモンは水際から最初の動きを見て、そのあと後方へ移る。
「行きます」
トルクとベルクが水へ入る。
ぱしゃ、と小さな音。
トルクは気にしない。
ベルクも一瞬だけ足元を見るように首を下げたが、そのまま歩く。
前輪。
後輪。
水を跳ね上げながら通過する。
馬車は滑らない。
「抜けました!」
モモが嬉しそうに言った。
「そのまま少し進んで、乾いたところで止めよう」
「はい」
十数歩進んで停車。
また確認する。
異常なし。
「山道って、進むたびに止まってる気がします」
モモが御者台から降りながら言う。
「嫌?」
「いいえ。むしろ面白いです」
「俺も」
平地なら、目的地まで走り続ける時間の方が長かった。
山では違う。
道を見る。
止まる。
歩く。
考える。
通る。
また休む。
その一つ一つが旅になっている。
「急いだら疲れそうだな」
ルシルが言う。
「馬も人もですね」
シモンが答える。
「だから、避難小屋で昼休憩にしましょう」
「もう近い?」
「地図上では、そろそろです」
「お腹空きました」
モモが即座に反応する。
「さっきまで運転に集中してたのに」
「止まったら気づきました」
「俺も少し空いた」
「ではちょうどいいですね」
馬車へ戻る。
もう一度、ゆっくり進む。
そして一つ大きな曲がりを越えたところで、木々の間に人工物が見えた。
「建物!」
モモが指差す。
旧休憩所とは違う。
屋根がある。
低い石壁と木材で作られた、小さな山小屋。
その横には馬をつなげる横木と、馬車二台ほどを停められそうな平地がある。
「避難小屋かな」
「地図の位置と合います」
シモンが答える。
小屋の前には、すでに一頭の馬がいた。
鞍をつけた茶色い馬。
近くの横木につながれている。
「先客いる」
「そのようですね」
モモは速度を落とした。
小屋の前へ近づく。
すると扉が開き、中から一人の男が出てきた。
三十代くらいだろうか。
灰緑色の外套を着て、腰には短い山刀。背負い籠が小屋の壁際に置かれている。
冒険者というより、山仕事に慣れた人間に見えた。
男は三人の馬車を見ると、少し驚いたように眉を上げた。
「グレイから上がってきたのか?」
「はい」
モモが馬車を止め、ルシルが答える。
「旧休憩所で一泊して、今朝から」
「二頭引きでここまでなら順調そうだな」
男はトルクとベルクを見る。
「昼休憩か?」
「そのつもりです」
「なら場所は空いてる。俺も飯食ってるだけだ」
「ありがとうございます」
三人は男の馬から十分距離を取り、馬車を停めた。
ベルクが先客の馬を気にしたため、シモンが先に降りてそばへ行く。
ベルクは耳を向けたままだったが、無理に近づこうとはしない。
「ここで休もう」
ルシルが御者台から降りた。
旧休憩所を出てから半日ほど。
まだ山頂ではない。
セイラにも着いていない。
それでも、今日はもういくつもの道を越えたような気がしていた。
男が小屋へ戻りかけ、ふと思い出したように振り返る。
「ああ。これから上へ行くなら、一つだけ覚えといた方がいい」
三人の視線が向く。
「この先、避難小屋から半刻くらい上ったところで道が二つに見える場所がある」
「二つ?」
「正式な街道は右だ。左は昔の山仕事道。入口が広いから、初めてだと間違える奴がいる」
シモンの表情が少し引き締まる。
「標識は?」
「ある。ただ、枝が伸びて見えにくくなってる。昨日通った時はまだあった」
「左へ行くと?」
「馬なら通れるところもあるが、馬車はやめとけ。先で狭くなる」
「分かりました」
「右ですね」
モモも確認する。
「ああ。右。石の道標に『セイラ』って彫ってある方だ」
男はそれだけ言うと、今度こそ小屋へ戻っていった。
三人は顔を見合わせた。
「聞けて良かった」
ルシルが言う。
「ええ」
「でも、まずご飯ですね」
モモの言葉に、ルシルは笑った。
「そうだな」
山道はまだ続く。
分かれ道もあるらしい。
その先に何があるのかは、まだ見えない。
けれど、急いで確かめる必要はなかった。
まずはここでトルクとベルクを休ませる。
自分たちも食べる。
それから午後の道を考える。
ルシルは馬車の後ろへ回り、昼食に使う荷物を取り出し始めた。
山頂まで行けるか。
今日どこまで進むか。
そんなことは、まだ決めなくていい。
進んだ先で、また三人で決めればいいのだから。




