第40話 分かれ道では、近そうな道より行ける道を選びます
避難小屋の前には、山を渡ってきた風がゆっくりと流れていた。
旧休憩所を出た頃より日は高くなっているものの、山腹まで上がると空気にはまだ冷たさが残っている。小屋の周囲だけは木々が少し開けており、頭上から落ちる昼前の光が湿った地面を斑に照らしていた。昨夜の雨を含んだ土と濡れた樹皮の匂いに、先客が小屋の中で焚いているらしい薪の煙が薄く混じっている。
ルシルは馬車の後ろから昼食用の袋を取り出しかけ、途中で手を止めた。先に休ませるべきなのは、自分の腹ではない。
「トルクとベルクからだな。水、ここで飲ませて大丈夫かな」
避難小屋の脇には石を組んだ細い水路があり、山側から流れてきた水が木製の桶へ落ちていた。ただ、初めて見る水場である以上、澄んで見えるからといってすぐ二頭へ飲ませる気にはならない。
シモンも水路へ近づき、桶そのものと流れの上手を見た。苔はついているが嫌な臭いはなく、水は絶えず入れ替わっている。
「先ほどの方へ聞いてみましょう。地元の方なら、この水場を使っているかもしれません」
「呼んできます?」
モモが小屋を見ると、ちょうど扉が開いた。先ほどの男が木椀を片手に出てきて、三人が水桶の前で立ち止まっているのを見る。
「水か?」
「はい。馬に飲ませても大丈夫ですか?」
シモンが尋ねると、男は迷わず頷いた。
「俺の馬も飲ませた。上の湧き水を引いてる。雨がひどく降った直後は濁ることがあるが、今日は平気だ」
男はそう言いながら桶を覗き、自分でも水面を確かめた。慣れているからと雑に扱うのではなく、その日の状態を見る仕草だった。
「ありがとうございます」
「ただ、一気に好きなだけ飲ませるなよ。上ってきた直後だろ」
「はい」
シモンの返事を聞き、男は木椀を持ったまま小屋の壁際へ戻っていった。
トルクとベルクの革具を緩め、呼吸が落ち着くのを待つ。二頭とも旧休憩所からここまでよく歩いており、身体には薄く汗が浮いていたが、息が荒れ続けるほどではない。
モモはトルクの首筋へ手を当て、毛の湿り具合を確かめた。
「頑張りましたね」
トルクは褒められた意味より、モモの手に食べ物がないことを確認しているように鼻を寄せる。朝から何度目か分からないその仕草に、モモは笑いながらも追加の餌を出さなかった。
「休んでからです。お昼は私たちだけじゃありませんから」
「そこまで言うと本当に分かって待ちそうだな」
「待ってくれたら賢いです」
「待たなくても賢い馬ですよ」
シモンはベルクの呼吸を見ながら口を挟んだ。ベルクは先客の茶色い馬を時折気にしているが、距離が十分あるため落ち着いている。
少し休ませてから水を与えると、トルクは勢いよく飲み始めた。シモンが頃合いを見て一度離し、ベルクにも飲ませる。二頭の様子に問題がないことを確かめてから、ようやく三人も自分たちの昼食へ取りかかった。
今日の昼は、火を使わなくても食べられるものを中心にした。硬めのパン、干し肉、豆を潰して塩と香草を混ぜた保存食、それにグレイを出る前に補充しておいた小ぶりの果実が三つ。午後も山道を進む以上、ここで大がかりな料理をするつもりはない。
「山の上で食べると、同じパンでも違いますね」
モモはパンへ豆のペーストを塗り、木陰から見える斜面を眺めていた。遠くまで開けた景色ではないが、木々の隙間から青空が見え、風が通るたび葉の裏側が白っぽく揺れる。
「旧休憩所の朝とも違うな」
ルシルもパンをかじる。歩いているわけではないのに、御者台で道を見続けたせいか腹はしっかり空いていた。
「今日は朝から止まったり降りたりを繰り返していますから、思っている以上に疲れているかもしれません」
シモンは干し肉を少しずつ食べながら、二頭の馬へも視線を向けている。休憩に入っても、完全に意識を切ってはいない。
「シモンも疲れた?」
「多少は。山道で馬車を動かすのは平地より見るところが多いですから」
「俺も頭が疲れたって言った」
「ルシル様の場合は、集中していた証拠でしょう」
「それ褒めてる?」
「褒めていますよ」
以前なら、シモンにそう言われるだけで妙に嬉しくなり、もっと運転したいと言っていたかもしれない。今は褒められたことを素直に喜びつつ、午後も自分がずっと手綱を持とうとは思わなかった。
できることが増えたから、全部自分でやる必要があるわけではない。三人で来ているのだから、交代すればいい。
果実を一つ取ったモモが、皮を指先で拭きながら小屋の方へ目を向けた。
「さっきの人、山仕事の人でしょうか」
「背負い籠を持っていましたね」
「聞いてみる?」
「食事中ですから、向こうが話したそうならでいいでしょう」
シモンの言葉に、ルシルも頷いた。道の情報は気になるが、相手にも相手の休憩がある。
ところが、三人が果実を食べ始めた頃、男の方からこちらへ歩いてきた。木椀は空になっており、片手には細い枝を削ったような棒を持っている。
「その馬車、グレイで見てもらったのか?」
「はい。車輪も蹄鉄も」
ルシルが答えると、男は焦げ茶色の馬車を眺めた。
「山道用にしちゃ立派だな。荷は少ないみたいだが」
「収納魔法を使ってます」
「なるほど。それなら外から見たより軽いわけだ」
男は納得したように頷いたあと、少し離れた石へ腰を下ろした。話しかけてきたからといって三人の輪へ入り込むのではなく、互いに声が届く程度の距離を残している。
「俺はバルト。セイラと山腹の集積所を行き来してる。薬草と樹皮、たまに猟師が下ろした獲物なんかを運ぶ」
「ルシルです」
「モモです」
「シモンです」
三人も名乗る。
バルトはシモンの腰元にある冒険者証へ一瞬目を向けたものの、色や等級について何も言わなかった。旅装の三人組として見ているらしい。
「セイラまで行くのか?」
「その予定です。ただ、今日中に着くって決めてはいません」
ルシルが答えると、バルトは少し意外そうな顔をした。
「その方がいい。ここから先は、距離だけなら無茶なほどじゃないが、初めての馬車で時間を決めるとろくなことにならん」
「今日、どこまで行けそうです?」
聞いてから、ルシルは少し言葉を足した。
「天気と道がこのままだった場合で」
「ちゃんと条件つけるんだな」
バルトが笑う。
「最近覚えました」
「なら話しやすい」
彼は手にしていた細い棒で、湿った土へ簡単な線を引いた。正確な地図ではなく、山道の形を説明するためのものらしい。
「ここが今いる避難小屋。少し上ると、さっき言った分かれ道がある。右がセイラへ続く街道で、左は古い山仕事道だ」
「左はどこへ?」
モモが尋ねる。
「昔の伐採地と、小さな炭焼き場の跡の方へ行く。今も猟師や採集屋が使うことはあるが、馬車で奥へ入る道じゃない」
「入口だけ広いんですね」
「ああ。昔はそこまで荷車が入ってたからな。その先で道幅が急に狭くなる」
バルトの棒が右側の線を伸ばす。
「正式街道は、分岐のあと少し上る。そこから尾根寄りへ回って、一度傾斜が緩くなる。今日は雨のあとだから、その先の石が多い区間だけ気をつけろ」
「泥じゃなくて石?」
「泥もあるが、あっちは日が当たりやすい。むしろ濡れた石の方が嫌だな。鉄輪も蹄鉄も滑る時は滑る」
三人の視線が自然にトルクとベルクの足元へ向いた。
デリアに新しい滑り止め寄りの蹄鉄をつけてもらった。それでも万能ではないと、本人から何度も言われている。
「ゆっくりですね」
モモが言う。
「ゆっくり。それで怪しいなら降りて見ろ。道は逃げん」
その言葉は、グレイで何人にも言われたことと似ていた。急がない。分からなければ止まる。自分で見てから決める。
「その石の区間を越えた先に、もう一つ休める場所はありますか?」
シモンが尋ねた。
「ある。屋根はないが、街道脇に石組みの休み場がある。馬車三台くらいなら停められる。水場もあるが、雨のあとだから使うなら見てからにしろ」
「そこからセイラまでは?」
「馬車なら、道が良ければまだ二刻ちょいってところだ。ただ、初めてならもっと見た方がいい」
「夕方までに着けなくはない?」
ルシルが尋ねると、バルトは少し考えた。
「着けなくはない。だが俺なら、今から『絶対セイラまで』とは決めん」
言い方が気に入った。
行けるかもしれない。でも、行くと決める必要はない。
「じゃあ次の休み場まで行って、そこでまた考えます」
「それがいい」
バルトは棒で描いた線を靴先で軽く消した。
「あと分岐だが、右の道標をちゃんと見ろ。『セイラ』の文字は古いが読める。左は木の標識が昔あったんだが、今は柱だけだ」
「間違えた人、いるんですか?」
「いる」
バルトは即答した。
「去年、薬売りの荷車が左へ入って、狭くなったところで戻れなくなった。馬を外して、荷を下ろして、半日かけて向きを変えた」
「うわ……」
ルシルは思わず顔をしかめる。
「怪我は?」
モモがすぐ尋ねた。
「なかった。それが救いだな」
「入口で気づかなかったんですか?」
「『広い方が街道だろう』って思ったらしい」
シモンが小さく息を吐く。
「見た目だけで選ばない方がいいということですね」
「そういうことだ」
バルトは立ち上がり、自分の馬へ目を向けた。
「俺はもう少ししたら下る。お前らは焦らず行け」
「ありがとうございます」
ルシルが頭を下げると、モモとシモンも続いた。
「情報代、何か――」
「いらん」
シモンが言い切る前に、バルトが片手を振った。
「俺も上で道を聞くことはある。山じゃ順番だ」
それだけ言い残し、彼は自分の荷物をまとめ始めた。
ルシルはその背中を見ながら、少し笑った。
「山じゃ順番、だって」
「良い言葉ですね」
モモも気に入ったらしい。
「僕たちも、誰かに聞かれた時に知っていることなら答えればいいんでしょう」
「じゃあ俺、いつか山道詳しい旅人になる?」
「まず今日の道を無事に通ってからです」
「はい」
昼休憩は、まだ少し続いた。
◇
出発前に、三人はトルクとベルクをもう一度歩かせた。
昼休憩で身体が冷えすぎていないか。脚を庇っていないか。新しい蹄鉄に変化はないか。細かな確認を済ませてから、二頭を馬車へつなぐ。
バルトは先に下っていった。
別れ際、彼は馬上から右手を上げただけだった。ルシルたちも手を上げて返し、その姿が曲がり角へ消えるまで見送った。
「次は分岐ですね」
モモが御者台へ上がる。
午前の最後に手綱を持っていたため、そのまま分岐までは彼女が運転することになった。道の傾斜が急になるようなら途中で交代する。
「右」
ルシルが隣で言う。
「分かってます」
「石の道標」
「分かってます」
「左は旧山仕事道」
「ルシル様」
「はい」
「私も聞いてました」
「確認」
「三回目です」
後方へ座ったシモンが小さく笑った。
「ルシル様、自分が間違えそうだから声に出しているんでしょう」
「……少し」
「正直ですね」
「だって入口広いんだろ? 絶対そっち行きたくなるじゃん」
「なりません。道標見ますから」
「俺だって見るよ」
「では大丈夫ですね」
モモはトルクとベルクへ声を掛け、馬車をゆっくり動かした。
避難小屋が後ろへ離れていく。
昼の光は朝より強くなったが、木々の下には昨夜の雨が残っている。枝から時折大粒の雫が落ち、馬車の屋根や道端の葉へ軽い音を立てた。
分岐までは半刻ほどだと聞いている。
その間、道は緩やかに上り続けた。
午前ほど深い泥はない。代わりに石が増え、車輪が小さく揺れる回数も増えていく。
モモは一つ一つを全部避けようとはしなかった。大きな石、尖った石、深い窪みだけを早めに選び、小さな凹凸は速度を落として通る。
「右後輪、今の石は大丈夫です」
シモンが後ろから声を掛ける。
「ありがとうございます」
「次、左側に少し大きい窪みがあります」
「見えました」
ルシルは隣で前方を見ながら、必要な時だけ補助する。
自分が運転していないと、口を出したくなる瞬間がある。もう少し右。そこで遅く。その石は避けた方がいい。けれど、モモ自身が見えているものまで全部言う必要はない。
「……」
「どうしました?」
モモが前を見たまま尋ねた。
「何も」
「今、何か言おうとしましたよね」
「右の石って言おうとした。でもモモもう避けてた」
「見えてました」
「だから黙った」
「ありがとうございます」
「何でお礼?」
「全部言われると、私が見てるのかルシル様の言う通り動いてるのか分からなくなりそうなので」
なるほど、とルシルは思った。
ヘルガスで御者を習い始めた頃、自分も隣から細かく言われると余計に身体が固くなったことがある。
「じゃあ危ない時だけ言う」
「はい」
「景色がいい時は?」
「言ってください」
「そこはいいんだ」
「見逃したくないですから」
会話の間にも、馬車はゆっくり山道を進む。
やがて前方の木々が少し開けた。
二本の道。
「来た」
ルシルが声を落とした。
バルトの言った通りだった。
正面から見ると、左の道の方が広く見える。
木々の間へ真っ直ぐ伸び、入口付近の地面も平らだ。対して右は少し上りながら曲がっており、木の枝が道側へ張り出しているため、遠くからだと狭く感じる。
「本当に左行きたくなる」
「行きませんよ」
モモは手前で馬車を止めた。
「降りましょう」
誰かに言われる前にそう判断した。
三人で御者台と馬車を降りる。トルクとベルクはその場で待たせ、まず道標を探す。
「どこ?」
ルシルが右側を見る。
「枝の奥じゃないですか?」
モモが指差した。
街道脇に石が立っている。腰より少し高い程度の古い道標で、上半分を低い枝が隠していた。
「これか」
近づく。
表面には苔がつき、彫られた文字にも土が入り込んでいる。シモンが枝を折らずに手で持ち上げると、古びてはいるものの文字を読むことができた。
『セイラ』
矢印は右。
「右だ」
「はい」
「本当に右ですね」
モモも確認する。
三人とも同じものを見た。それでも、すぐ馬車へ戻らない。
左側も入口だけ確認する。
少し奥に、朽ちかけた木柱が一本立っていた。看板部分はなく、柱だけが残っている。
「バルトさんの話通り」
「轍もありますね」
シモンが地面を見る。
古いものと新しいものが混じっている。人がまったく使わない道ではない。
「これだけ見たら、普通に行けそう」
ルシルが呟く。
「だから間違えるんでしょうね」
「地図は?」
モモに聞かれ、シモンが携帯用の地図を出した。
大まかな街道しか載っていないが、セイラへ向かう線は右へ折れている。
「道標、地図、バルトさんの話。全部右」
「決まりですね」
モモが笑う。
「右へ行きましょう」
結論は簡単だった。ただ、三人とも実際に降りて確かめたことに意味があった。
「俺、最初の頃ならバルトさんに右って聞いた時点で、そのまま右行ってたかも」
馬車へ戻りながらルシルが言う。
「それで正解なら問題ないようにも見えますけど」
モモが首を傾げる。
「でも、自分でも確認できるならした方がいいかなって」
「そうですね」
シモンが道標から手を離す。
「人の情報を信じないという意味ではありません。現地で確認できるものを確認しておけば、もし状況が変わっていた時にも気づけます」
「道標が倒れてたとか?」
「ええ。右が崩れて通れなくなっている可能性だってあります」
「今日は通れそう」
「見える範囲では」
「じゃあ行こう」
馬車へ乗る。
モモが再び手綱を取った。
右。正式街道。
トルクとベルクが道標の横を通り、馬車も続く。左の旧山仕事道は、木々の向こうへ静かに伸びたまま残された。
◇
分岐を越えると、バルトの話通り傾斜が少し増した。
モモは無理をせず、最初の広い場所で馬車を止めた。
「交代します」
「まだいけそうだけど?」
ルシルが尋ねる。
「いけそうです。でも、もう少し急になったらシモン君にお願いしようと思ってました」
「じゃあ今?」
「はい。止まりやすい場所なので」
自分の限界まで続けてから交代するのではなく、余裕があるうちに変わる。
シモンも異論を挟まなかった。
「分かりました。では僕が」
「私、後ろ見ます」
「俺は隣」
自然に役割が決まる。
交代の間に、トルクとベルクの呼吸も見る。二頭とも問題なし。
再出発。
ここからは道の石が目立ち始めた。
拳大の丸い石が散らばっている場所もあれば、地面から平たい岩が顔を出している場所もある。濡れた表面は日の当たり方で鈍く光り、乾いている場所との違いが分かりやすい。
「これが言ってた区間かな」
ルシルが前方を見る。
「おそらく」
シモンは速度を落とした。
「ここからはさらにゆっくり行きます」
トルクとベルクの蹄が石へ触れる音も、土の道とは変わった。
硬い音が響き、時折、蹄鉄と石が擦れる。
新しい蹄鉄があるから大丈夫だ、と考えない。滑りにくくする工夫があるだけで、濡れた石が消えるわけではない。
シモンはできるだけ土の残る部分を選ぶ。
それでも全面が石になっている短い場所では、二頭を急かさず一歩ずつ進ませた。
「ベルク、今少し滑った?」
ルシルが気づいた。
右前肢だった。
大きく体勢を崩したわけではない。石へ置いた蹄がわずかに横へずれ、すぐ戻った。
「止めます」
シモンは先の平らな土まで数歩だけ進み、そこで馬車を止めた。
三人が降りる。
ベルクの右前肢を確認する。
「痛そうにはしてない」
モモは少し離れて立ち姿を見る。ベルクは右前を浮かせず、普通に体重を乗せている。
シモンが声を掛けてから蹄周りを見る。
「蹄鉄もずれていません。石の表面で一瞬滑っただけに見えますが……」
「少し歩かせる?」
「ええ」
馬車を安全に止めたまま、ベルクを一度外して短く歩かせる。数歩進ませ、曲がり、戻る。歩様に乱れはない。
「大丈夫そう?」
「今のところは」
シモンは安堵を隠さなかった。
ベルクの首筋へ手を置き、いつもより少し長く撫でる。
「驚いたな」
低い声に、ベルクが鼻を寄せた。
ルシルはその様子を見ながら、さっき通った濡れた石へ目を戻した。
「蹄鉄替えてても滑るんだな」
「デリアさんの言った通りですね」
モモも石を見る。
「道の方がなくなるわけじゃないです」
「うん」
ここで初めて、新しい蹄鉄をつけてもらった意味を本当に理解した気がした。
装備を良くする。準備をする。それは危険を消すことではない。危険へ向き合う余裕を少し増やすことなのだ。
「この先も同じ感じなら、もっとゆっくりでいい」
ルシルが言った。
「ええ」
シモンはベルクを再びつなぎながら頷く。
「次の休み場までの距離より、二頭の足元を優先しましょう」
「場合によっては戻る?」
モモが尋ねた。
シモンは一度、進んできた道を見た。
「必要なら。ただ、今の一度だけで戻る判断をするほどではないと思います」
「じゃあ、進んで様子を見る」
「はい」
ルシルも異論はなかった。
再び馬車へ乗る。
さっきよりさらに速度を落とす。
歩いている人とほとんど変わらないほど遅い。それでも誰も急かさなかった。
後ろから別の馬車が来れば、広い場所で譲ればいい。今日はセイラへ着くと決めていないのだから、遅くても困らない。
◇
石の多い区間は、思ったより長く続かなかった。
慎重に進んだため時間はかかったが、道そのものは半刻もしないうちに再び土が増え始めた。日当たりも良くなり、昨夜の雨の名残は路肩に少し湿り気がある程度へ変わっていく。
「抜けたかな」
ルシルが後ろを見る。
「まだ先にも石はあるでしょうが、まとまった区間は越えたようですね」
シモンの声にも少し余裕が戻った。
ベルクはその後一度も滑っていない。トルクも歩調を崩していない。
少し先に、道が尾根側へ回り込む場所が見える。
そこへ差しかかった時、山の景色が急に開けた。
「うわ……」
ルシルは言葉を失った。
左手の木々が低くなり、その向こうに幾重もの山並みが見えた。
近い山は濃い緑。その向こうは少し青みを帯び、さらに遠い峰は空へ溶けるように淡くなっている。谷間には細い白い筋が見え、川なのか、濡れた岩肌なのか、ここからでは分からない。
「モモ、見て」
「見えてます」
後ろから返る声が、いつもより小さい。
モモも見入っていた。
シモンは御者をしているため長く横を見ることはできない。それでも道が広がった場所を見つけると、自分から馬車を止めた。
「少しだけ休みましょう」
「シモンも見たい?」
「見たいですよ」
素直だった。
三人で降りる。
トルクとベルクも短く休ませる。
そして改めて景色を見る。
風が吹く。
低地より少し冷たい。
モモの長い髪が外套の上で揺れ、ルシルの黒い外套も裾を持ち上げられる。
「すごいですね」
モモはそれだけ言った。
いつもなら何か食べ物へたとえたり、遠くの景色に名前をつけたりすることもあるのに、今は余計な言葉が出てこないらしい。
「海じゃないけど」
ルシルが言う。
「はい」
「でも、見たことなかった」
「私もです」
二人の少し後ろで、シモンが山並みを見ている。
「シモンは?」
「こういう景色自体は、仕事で何度か」
「じゃあ珍しくない?」
「そうでもありません」
シモンは眼鏡の位置を直し、遠くの山から近くの谷へゆっくり視線を移した。
「仕事の時は、景色を見るために馬車を止めませんでしたから」
その一言で十分だった。
ルシルは王城での暮らしへ話を広げなかった。モモも過去の忙しさを掘り返さない。
ただ三人で同じ景色を見る。
風が通り過ぎる。遠くで鳥が鳴き、山のどこかから水の流れる音もかすかに届いた。
「止まっていい旅で良かったな」
ルシルがぽつりと言った。
シモンはすぐには答えなかった。
少しして、穏やかに頷く。
「ええ」
それ以上、言葉を重ねる必要はなかった。
◇
景色の良い場所を離れてから一刻ほど。
午後の日差しが少し西へ傾き始めた頃、バルトの言っていた石組みの休み場が見えてきた。
街道の山側を削るように作られた平地で、低い石壁が風除け代わりに積まれている。屋根はないが、馬車を停めても街道を塞がない広さがあった。
「着いた!」
ルシルが声を上げる。
セイラではない。目的地でもない。それでも、朝に決めた次の判断地点へ無事に着いた。
シモンは馬車をゆっくり休み場へ入れた。
他に利用者はいない。
平らな場所へ停車し、まず二頭を休ませる。
「ベルクから見よう」
ルシルが降りる。
「はい」
シモンもすぐ右前肢だけへ飛びつかず、ベルク全体の立ち方から確認した。
普通に立っている。
呼吸は少し速いが、長い上りを歩いた直後として不自然ではない。右前肢も庇っていない。
トルクも同様だった。
「ここまで問題なし」
モモがほっと息を吐く。
「でも休憩」
「もちろんです」
革具を緩める。
水場は休み場の奥にあった。石の口から細い水が流れ、小さな槽へ溜まっている。
「これもすぐ飲ませない」
ルシルが言う。
「覚えましたね」
「バルトさんにも見てからって言われたし」
三人で水を見る。
濁りなし。嫌な臭いなし。流れも続いている。
ただ、地元の人間がいないため、持ってきた水もある。
「無理に使わなくてもいいんじゃない?」
モモが提案した。
「今日はまだ手持ちがあります」
シモンが残量を確認する。
「二頭へ全部持参分で賄うと、今夜の場所次第では余裕が減りますが……ここで少し汲んで、人間用には煮沸して使う手もあります」
「馬は?」
「槽の状態は悪くありません。二頭が嫌がらなければ少量からでいいでしょう」
慎重に確認してから与える。
トルクは普通に飲んだ。
ベルクも続く。
異常なし。
三人も腰を下ろした。
朝からここまで、思った以上に身体が疲れていた。
ルシルは石壁へ背を預け、脚を伸ばす。
「山道、疲れる」
「楽しくないですか?」
モモが隣へ座る。
「楽しい。でも疲れる」
「私もです」
「両方あるんだな」
「当たり前では?」
シモンが少し離れた場所から答えた。彼も珍しくすぐ立ったまま次の準備へ移らず、石へ腰を下ろしている。
「楽しいなら疲れないわけではありません」
「シモンがそれ言うと説得力ある」
「どういう意味です?」
「前は楽しくなくても疲れるまで働いてそうだったから」
言ってから、ルシルは少しだけ失敗したかと思った。
だがシモンは嫌な顔をしなかった。
「否定しにくいですね」
「ごめん」
「謝るほどではありません」
シモンは水筒から一口飲み、山道の先を見た。
「今は疲れたら休めますから」
その言葉で、会話は自然に今へ戻った。
モモが保存食の袋から小さな干し果実を三つ出す。
「一個ずつにします?」
「お菓子じゃなくて?」
「行動食です」
「言い方が強い」
「本当に行動食として買ったんです」
モモは少しむっとしながら一つをルシルへ渡し、もう一つをシモンへ差し出した。
「ありがとうございます」
「シモン君は疑わないんですね」
「用途が適切なら疑う理由がありません」
「ほら」
「俺だって疑ってないよ」
「顔が疑ってました」
酸味の強い干し果実を噛む。
口の中が少し乾いていたため、思った以上に美味しかった。
休みながら、三人は地図を開いた。
「ここ」
シモンが現在地と思われる位置を指す。
「バルトさんの話が正しければ、セイラまではここから二刻前後。ただし僕たちは彼より遅いでしょう」
「今から行くと?」
ルシルが空を見る。
日はまだ高い。
夕暮れまでは時間がある。
「着ける可能性はあります」
「可能性」
「ええ」
「今日行く?」
モモが二人を見る。
今朝から、何度も小さな判断をしてきた。
泥を通る。
御者を交代する。
分岐で道を確かめる。
濡れた石では速度を落とす。
ベルクが滑れば止まる。
景色が見えれば休む。
そして今、今日どこまで進むかを決める。
ルシルはすぐ答えず、トルクとベルクを見た。
二頭とも疲れてはいる。
倒れ込むほどではない。
飼葉にも反応している。
ベルクの右前肢にも今のところ問題はない。
「俺は……今日はここより先、もう少しだけ行ってもいいと思う」
「セイラまで?」
「そこまでは決めない」
自分で言って、少し笑った。
「前だったら『行けそうならセイラまで行こう』って言ってた気がする」
「今も行きたいですか?」
モモが尋ねる。
「行きたい。でも、着くことより二頭が元気な方がいい」
それは綺麗に言おうとして出た言葉ではなかった。ここまで一緒に歩いてきた二頭を見れば、自然にそう思う。
「モモは?」
「私も、もう少し進むのは賛成です。でも暗くなる前に泊まれる場所を見つけたいです」
「シモン?」
「同意見です」
シモンは地図を指でなぞる。
「この先、一刻ほどの範囲に街道所が記した小さな野営適地が二か所あります。最初の場所を見て、良ければそこで止まる。まだ余裕があって条件も悪ければ次へ。セイラ到着は結果として着けそうなら考える程度でいいでしょう」
「それでいこう」
三人の方針が決まった。
セイラへ行かないと決めたわけではない。今日着くと決めるのをやめただけだ。
「じゃあ、もう少し休んでから」
ルシルは石壁へ背を預け直した。
「すぐ出ないんですね」
モモが笑う。
「休むって決めたから」
「良いと思います」
風が吹く。
午後の山の匂いがした。
◇
休憩を終えた頃、トルクとベルクの呼吸はすっかり落ち着いていた。
二頭を歩かせても異常なし。
ベルクの右前肢も問題なし。
馬車の車輪も、午前の泥と石で汚れてはいるが、目立つ傷や緩みは見つからない。
「次、俺やる」
ルシルが御者台を見上げる。
「大丈夫ですか?」
「休んだし、道も今のところ緩そうだから」
「ではお願いします」
シモンは反対しなかった。
モモは後方。
シモンは隣。
午後の後半は、再びルシルが手綱を持つ。
「トルク、ベルク。もう少しだけ付き合って」
二頭が歩き出す。
石組みの休み場を離れる。
道はしばらく尾根に沿って続いた。
傾斜は午前より緩い。
日も差している。
木々の種類も少し変わり、背の低い針葉樹が混じり始めた。
「匂い違わない?」
ルシルが尋ねる。
「少し」
シモンも鼻から息を吸う。
「樹木が変わったからでしょうね」
「薬みたいな匂いします」
後ろからモモが言う。
「薬草?」
「木の方だと思います。樹脂の匂いでしょう」
「これも本に載ってるかな」
「植物の本は草花中心ですよ」
「じゃあ木の本も必要?」
「増やしすぎると棚が本で埋まります」
「収納魔法あるじゃん」
「すぐ読みたい本を全部収納していたら意味がありません」
「棚増やす?」
「馬車を改造する話へ進めないでください」
ルシルは笑う。
後ろからもモモの笑い声が聞こえた。
森の謎を追っていた数日間とは違う。
今、気になるのは目の前の木の匂いだ。次の曲がり角だ。トルクとベルクの歩調だ。まだ見たことのないセイラと、その先の道だ。
馬車が緩い坂を越える。
その先に、街道脇へ積まれた小さな石標が見えた。
「何かある」
ルシルが速度を落とす。
石標の横には、踏み固められた平地がある。
地図にあった最初の野営適地だろう。
ただし、屋根も井戸もない。
木々に囲まれた小さな空間で、古い焚き火跡らしい石囲いが一つある。
「ここかな」
馬車を止める。
三人で降りる。
まだ日は傾ききっていない。
セイラへ進む時間も残っている。
けれど、野営場所として悪くは見えなかった。
「平らですね」
モモが地面を見る。
「水は?」
「地図だと少し先に沢があります」
シモンが答える。
「馬車を停める場所もある」
ルシルは周囲を歩く。
昨日の旧休憩所ほど整ってはいない。
石壁もない。
けれど街道から少し離れており、地面は比較的乾いている。木々が風を弱めてくれそうで、天幕を張れる平らな場所も十分にあった。
「ここで泊まれる」
「泊まれますね」
「でもまだ進める」
ルシルは口にしてから、二人を見る。
モモもシモンも、答えを急がない。
空を見る。
馬を見る。
道を見る。
そして、自分たちの疲れも考える。
ルシルは今日一日を思い返した。
旧休憩所を出た。
泥を越えた。
避難小屋で休んだ。
分岐を確かめた。
濡れた石を越えた。
ベルクが一度滑った。
山の景色を見た。
石組みの休み場まで来た。
もう十分に進んでいる。
「俺、ここでいいかも」
最初にそう言ったのはルシルだった。
「セイラ、行きたいけど」
胸の中には、まだ先へ進みたい気持ちがある。
それを否定する必要はない。ただ、その気持ちだけで今日の残りを決めなくてもいい。
「ここなら明るいうちに天幕張れるし、トルクとベルクもゆっくり休める。俺たちも疲れてるし」
モモは小さく頷いた。
「私もここがいいです。夕方の山道を急ぐより、明日の朝に進みたいです」
シモンも周囲をもう一度確認する。
「異論ありません。沢の水と周囲の安全だけ見て、問題なければここにしましょう」
「決まり」
今日の目的地が、ようやく決まった。
セイラではない。
名前もない、街道脇の小さな野営地。
けれどルシルは、不思議と残念ではなかった。
◇
三人は馬車を適切な位置へ移し、まず周囲を確認した。
沢は地図通り、野営地から少し山側へ歩いた場所にあった。昨夜の雨で水量はやや多いようだが、濁流というほどではなく、流れも澄んでいる。
それでも飲み水は煮沸する。
馬には状態を見ながら与える。
天幕を張る場所は、木の根が少なく、水が流れ込む跡のないところを選んだ。
「ここ?」
ルシルが地面を見る。
「少し右の方が平らです」
モモが答える。
「でも右、上に大きい枝ある」
見上げる。
太い枝が一本、天幕の真上になりそうな位置へ伸びていた。
「落ちそう?」
「見ただけでは分かりませんが、わざわざ真下を選ぶ必要はありません」
シモンが言う。
「じゃあこっち」
三人で場所をずらす。
旅を始めた頃なら、平らかどうかだけで決めていたかもしれない。今は上も見る。水の流れも見る。馬車との距離も考える。火を使う場所も離す。
「俺たち、結構ちゃんと野営できるようになったな」
ルシルが天幕の布を広げながら言う。
「まだ慣れたと言い切るのは早いですよ」
「シモンはすぐそう言う」
「でも、最初よりは早くなりましたね」
モモが杭を持って笑う。
「私、もう強く打ちすぎません」
「俺も弱すぎない」
「それは成長です」
「シモン、そこは認めるんだ」
「事実ですから」
杭を打つ。
一度で完璧ではない。
少し傾いて打ち直すものもある。
それでも三人で作業を続ければ、天幕は少しずつ形になった。
トルクとベルクも落ち着いている。
馬車も無事。
空にはまだ青さが残っている。
今日中にセイラへ着かなかった。
けれど、失敗したとは誰も思わなかった。むしろルシルは、明るいうちに野営の準備を進められることが少し嬉しかった。
「夕飯、何にする?」
天幕を張り終えたモモが、さっそく次の楽しみへ意識を移す。
「昼が簡単だったから、温かいもの食べたい」
ルシルも賛成する。
「残っている野菜を使いましょう。傷む前に使いたいですし」
シモンが収納していた食料を確認する。
「豆もあります。干し肉も少し」
「スープ?」
「それが無難ですね」
「山の野営スープ」
「名前をつけても中身は豆と野菜ですよ」
「山で食べるから山の野営スープ」
「ではそういうことにしておきましょう」
シモンが以前より簡単に折れた。
モモが嬉しそうに笑う。
「シモン君、今日は優しいです」
「普段も優しいつもりですが」
「優しいですよ。でも今日は反論が短いです」
「疲れてるんじゃない?」
ルシルが言う。
シモンが少し考え、否定しなかった。
「それもあるかもしれません」
「じゃあシモン、座ってていいよ。俺とモモで最初やる」
「大丈夫ですか?」
「火と鍋くらいなら」
「くらいって言いましたね」
「モモ、そこ拾う?」
「料理を簡単だと思うと失敗します」
「朝、豆混ぜすぎそうだった人が言ってる」
「だから学んだんです」
二人が言い合っている間に、シモンは本当に一度腰を下ろした。
それを見て、ルシルは少しだけ嬉しくなる。
休めと言われなければ休まなかった頃とは違う。
誰かが休んでいる間に、別の誰かが動けばいい。三人ならそれができる。
火を起こす。
今度はルシルが二回目で成功した。
「朝と同じ」
「安定していますね」
「一回にならない」
「失敗してないならいいじゃないですか」
モモは野菜を切る。
以前ほど大きさがばらばらではない。ただ、一つだけ妙に大きい。
「これ」
ルシルが指差す。
「見なかったことにしてください」
「鍋の主役にする?」
「切り直します」
包丁を入れ直す。
少し離れたところでシモンが笑った。
「聞こえた」
「何も言っていません」
「笑った」
「笑うくらいはいいでしょう」
「もちろん」
夕方の山に、鍋の匂いが広がっていく。
干し肉と豆。
根菜。
乾燥香草。
特別な料理ではない。
けれど一日山道を進んだ身体には、湯気だけでも十分に魅力的だった。
空の青が薄くなる。
木々の影が長くなる。
鳥の声も昼とは変わり始めた。
三人は鍋を囲んで座る。
「いただきます」
最初の一口。
ルシルは熱さに少し息を吹きかけ、それから飲む。
「うまい」
「本当ですか?」
モモが自分でも食べる。
「あ、おいしい」
「今日は焦げていませんからね」
シモンも口にする。
「塩加減もちょうどいいです」
「やった」
モモが小さく拳を握る。
「俺も作った」
「火担当ですね」
「大事だよ」
「大事です」
今度は素直に認められた。
食事をしながら、明日の予定を細かく決めすぎることはしなかった。
朝、天気を見る。
馬を見る。
道を見る。
問題がなければセイラへ向かう。
それだけだ。
「明日は着くかな」
ルシルが何気なく言う。
「着けたらいいですね」
モモは鍋を両手で持ちながら答えた。
「着かなかったら?」
「また泊まります」
「だよな」
「食料もまだあります」
シモンが付け加える。
「急ぐ理由はありません」
ルシルは頷いた。
山道へ入る前なら、セイラという町が次の目標に見えていた。
今は違う。
今日泊まるこの場所も、すでに旅の一部だった。
◇
夕食を終え、片付けも済ませた頃には、山の夜がすぐそこまで来ていた。
焚き火は必要以上に大きくしない。
食べ物も出しっぱなしにしない。
周囲に野生動物の新しい痕跡がないか確認する。
グレイ近郊の森で起きていた異変とは場所も違うが、山で野営する以上、普通の警戒は必要だった。
「足跡、これ何?」
ルシルが街道から少し外れた柔らかい土を指す。
小さな跡がいくつかある。
シモンが屈んだ。
「小型の獣でしょうね。僕は種類までは断定できません」
「本ある?」
モモが尋ねる。
「買ったのは鳥と草花です」
「動物の本もいるな」
「また増やすんですか」
「見るだけ」
「紙梟はもう遠いですよ」
「セイラにも本屋あるかも」
「本当に増えそうですね」
笑いながらも、足跡には触れない。
大きな獣のものではなさそうだ。
周囲に荒らされた跡もない。
「明日の朝、増えてたら見よう」
「そうしましょう」
三人は馬のそばへ戻る。
トルクはすでに落ち着いている。
ベルクもシモンが近づくと耳を向けた。
「今日は滑ったから心配した」
ルシルが言う。
シモンはベルクの首筋へ手を置いたまま頷く。
「僕もです」
「でもその後は普通だった」
「ええ。だからこそ、明日の朝も見ます」
「うん」
モモはトルクの横へ立つ。
「二頭とも、お疲れさまでした」
トルクが鼻先を寄せる。
「今日はもう人参ありません」
またそれだった。
ルシルは笑い、シモンも小さく肩を揺らす。
空を見上げる。
木々の間に、最初の星が見え始めていた。
「山の星、石原の時と違って見えるな」
「木が多いから、空が狭いです」
モモも見上げる。
「でも近く感じます」
「実際、少し高い場所にはいますね」
シモンが答える。
「シモン、そこは『そうですね』だけでいいんじゃない?」
「説明したくなっただけです」
「じゃあ許す」
「なぜルシル様の許可が必要なんです?」
小さな笑い声が夜へ溶けた。
明日はセイラへ着くかもしれない。
着かないかもしれない。
その先には山道が続き、さらに遠くには海がある。
グレイで残してきた森の謎も、いつか別の誰かの手で答えが見つかるのかもしれない。
けれど今、三人の前にあるのは、今日自分たちで選んだ小さな野営地だった。
ルシルは天幕へ入る前に、街道の先を一度だけ見た。
暗くなり始めた道は、昼間よりずっと先が見えない。
それでも不安はなかった。
見えないなら、明るくなってから進めばいい。
「おやすみ、トルク。ベルク」
二頭へ声を掛け、ルシルは仲間たちの待つ天幕へ戻った。
山道の一日目は、セイラへ到着しないまま終わった。
それで十分だった。




