第41話 山の朝は、町へ着くことより今日の道を見てから始めます
山の朝は、鳥の声より先に冷たさでやってきた。
天幕の布越しに差し込む光はまだ薄く、夜の名残を含んだ青白さが地面の近くに沈んでいる。昨夜消した焚き火の跡から煙はもう上がっておらず、木々の枝先には細かな露が残り、ときおり膨らんだ雫が葉を滑って湿った土へ落ちていた。
ルシルは毛布の中で一度だけ身体を丸め、それから目を開けた。山へ入る前の朝より空気が明らかに冷たい。外套を掛けて寝て正解だったと思いながら身体を起こすと、少し離れた場所ではシモンがまだ横になっており、反対側ではモモの桃金色の髪が毛布から少しだけはみ出していた。
昨夜は、特に何も起きなかった。
街道を通過する馬車もなく、近くで大型の獣が鳴くこともなかった。夜半に一度だけ遠くから何かの鳴き声が聞こえた気はするが、それも眠気の中で聞いたため鳥なのか獣なのか判別できず、その後に続く物音もなかった。
ルシルは二人を起こさないよう、ゆっくり天幕の入口を開いた。
外へ出た瞬間、頬へ触れる冷たい空気に肩が少し縮む。
「……寒っ」
声を抑えて呟き、外套の前を合わせる。
けれど嫌な寒さではなかった。空気が澄んでいるせいか、一度大きく息を吸うと胸の奥まで冷たさが入り、寝起きだった頭が一気に目を覚ます。
東側の木々の向こうはすでに明るい。雲はあるが空全体を覆うほどではなく、枝の隙間から淡い金色の光が少しずつ差し込み始めていた。
まずルシルが見たのは空だった。
次に木の枝。
風は弱い。
それから街道を見る。夜露で表面は湿っているが、水が流れた跡や新しく崩れた場所は見当たらない。
最後に、少し離して休ませている二頭へ目を向けた。
トルクはすでに起きていた。
栗毛の身体を朝露の光に浮かべながら、こちらへ耳を向けている。ベルクも立っており、ルシルが天幕から出たことに気づくと頭を少し上げた。
「おはよう」
近づきながら声を掛ける。
トルクはすぐ鼻を伸ばしてきた。
「まだ何も持ってないよ」
それでも鼻先はルシルの外套を探る。
「本当に朝から元気だな、お前」
笑いながら首筋へ触れた。
身体が冷えすぎている様子はない。夜の間に暴れた形跡もなく、足元の地面にも不自然に掘り返されたところはなかった。
ただし、ベルクは昨日一度、濡れた石の上で右前肢を滑らせている。
ルシルは自分だけで判断せず、まず立ち方を眺めた。
四肢へ自然に体重をかけているように見える。右前だけを浮かせたり、前へ出したままにしたりもしていない。
「見た感じは大丈夫そうだけど……」
「おはようございます、ルシル様」
後ろから声がした。
振り返ると、シモンが眼鏡を掛けながら天幕から出てくるところだった。紺色の外套を羽織り、まだ完全に整えていない黒髪を手で軽く直している。
「起こした?」
「いいえ。外へ出る音で自然に」
シモンは一度空を見上げ、それからルシルの隣まで歩いてきた。
「ベルクを見ていたんですか?」
「うん。昨日、右前が一回滑っただろ。立ってるだけなら普通に見える」
「僕にもそう見えます。少し歩かせてみましょう。ただ、その前にトルクも同じように確認しておきます」
「ベルクだけ特別扱いしない?」
「問題があった方へ注意を多く向ける必要はありますが、もう一頭を見なくていい理由にはなりませんから」
シモンがそう言ったところで、天幕の入口から白い外套が覗いた。
「二人とも早いです……」
モモは髪を片側へ寄せながら外へ出てきた。眠そうに目を細めていたものの、トルクとベルクの姿を見た途端、表情が少し引き締まる。
「ベルク、大丈夫そうですか?」
「今から歩かせるところ」
「私も見ます」
顔を洗うより先にこちらへ来るらしい。
ルシルはそれを指摘しようとしたが、モモ自身も途中で気づいたのか、自分の頬へ手を当てた。
「……その前に顔だけ洗ってきます」
「うん。その方がいいと思う」
「笑わないでください」
「笑ってない」
「口が笑ってます」
モモは近くに用意していた水を使いに戻った。
その間にルシルとシモンはトルクから確認する。昨夜休ませた後と大きな変化はなく、脚を触られることも嫌がらない。短く歩かせても歩調は自然だった。
続いてベルク。
シモンが手を差し出すと、ベルクは鼻先でその手に触れた。
「おはよう。少し歩くぞ」
声を掛け、手綱を取る。
野営地の平らな部分を真っ直ぐ歩かせる。昨日滑った右前肢だけを見るのではなく、頭の上下、肩の動き、四肢の着地、身体全体の揺れを見る。
ベルクは普通に歩いた。
一往復。
もう一往復。
途中で緩く向きを変えても、右前肢を庇う様子はない。
顔を洗い終えたモモも戻ってきて、少し離れた場所から歩き方を見ていた。
「昨日より変になった感じはしませんね」
「僕もそう思います」
シモンはベルクを止め、右前肢の蹄鉄周辺も確認した。浮きや目立つずれはなく、昨日の石で擦ったらしい浅い跡がある程度だった。
「少なくとも、今朝の時点で昨日の滑りが怪我につながった様子はありません」
その言葉を聞いて、ルシルの肩から少し力が抜けた。
「よかった」
「ただし、今日も濡れた石があれば同じように注意します」
「もちろん」
ルシルはベルクの額を撫でようと手を伸ばした。
ベルクは避けなかったが、シモンの時ほど自分から寄ってはこない。
「差があるなあ」
「何の話です?」
「俺とシモンへの態度」
「ベルクにも好みがありますから」
「俺、嫌われてる?」
ルシルが少しだけ本気で気にすると、ベルクはその手の匂いを嗅いだあと、鼻先で軽く押した。
「お」
「嫌われてはいないみたいですよ」
モモが笑う。
「シモン君が特別なだけです」
「それはそれで悔しい」
「競うものではありません」
シモンはそう言いながらも、ベルクの首を撫でる手つきがどこか満足そうだった。
◇
朝食は、昨夜の残りを使った簡単なものになった。
鍋には豆と野菜が少し残っていたため、水を足して温め直し、硬いパンを小さくちぎって入れる。干し肉の塩気も残っているので、味を整えるための塩はほんの少しだけでよかった。
火のそばへ座ると、朝の冷たさが余計にはっきり分かる。
鍋から立つ湯気が白く見え、木椀を両手で包んだモモは、食べる前から幸せそうに指先を温めていた。
「これ、朝にちょうどいいです」
「昨日の夜と同じ鍋だけど」
「朝はパンが入ってます」
「じゃあ別料理?」
「別料理です」
「そこまで言い切るんだ」
ルシルも一口食べた。
柔らかくなったパンが豆の汁を吸っている。見た目は地味だが、冷えた朝には昨日の夕食より美味しく感じた。
「これ、料理の本に似たのなかった?」
「ありましたね」
シモンが思い出す。
「硬くなったパンを煮込みへ入れる料理が載っていました。地方によっては朝食によく食べると」
「じゃあ俺たち、知らないうちに本の料理作ってた?」
「似ているだけでしょう」
「でも今度ちゃんと見て作りたいです」
モモは湯気越しに馬車の方を見る。
共有棚には、グレイで買った『街道沿いの鍋料理』も収めてある。
「セイラで食材を買えたら、一つ選びませんか?」
「いいね。セイラの食材で」
「まず町へ着いてからです」
シモンが穏やかに釘を刺した。
以前のルシルなら、そこからすぐ「今日着こう」と話をつなげたかもしれない。
けれど今は、木椀の中へ視線を戻す。
「着いたらな」
それだけだった。
朝食を終えた後も、すぐには出発しなかった。
食器を片付け、火を完全に消し、灰へ水を掛ける。天幕を乾かせる間に馬車を確認し、昨夜のうちに変化がなかったか車輪と連結部を見ていく。
昨日は泥と濡れた石を通っている。
右後輪には以前からの浅い旅傷があるが、それが急に深くなった様子はない。車輪の間へ枝や石も噛んでいなかった。
ルシルが馬車の下を覗こうとして、シモンに外から声を掛けられる。
「車体の下へ入る必要はありませんよ」
「入らないよ。見るだけ」
「ならいいです」
「バルガンさんにも言われたから覚えてる」
支えもなく馬車の下へ潜らない。
グレイで教わったことの一つだ。
ルシルはしゃがんだ位置から見える範囲だけを確認し、立ち上がった。
「見えるところは大丈夫」
「こちらも問題ありません」
シモンは反対側から戻ってくる。
モモは乾き始めた天幕を畳みながら、ふと昨夜見つけた足跡の方へ顔を向けた。
「そういえば、昨日の足跡」
「あ」
ルシルも思い出した。
三人で柔らかな土の場所まで行ってみる。
昨夜見た小さな足跡はそのまま残っていた。その近くに新しい跡が増えたようにも見えたが、朝露や落ち葉で輪郭が曖昧になっており、昨日のものとの区別は難しい。
「何か来た?」
「断定できません」
シモンが屈み込むものの、触らずに見る。
「食料を荒らされた形跡もありませんし、馬も騒いでいません。小型の動物が通った可能性はありますが、それ以上は分かりませんね」
「本があれば分かったかな」
モモが呟く。
「足跡だけでは本があっても難しいと思いますよ」
「でも、少しは候補が出るかも」
「セイラで動物の本を探す?」
ルシルが言うと、シモンは眼鏡越しに二人を見た。
「本当に増やすつもりですか?」
「絶対買うとは言ってない」
「見てからです」
モモも続ける。
「二人とも同じことを言っていますね」
シモンは呆れたように息を吐いたが、本屋へ行くこと自体を否定はしなかった。
足跡は、ただの足跡のまま残す。
何の動物だったのか気にはなるが、それを調べるために野営地へ居残るほどではない。
天幕を畳み、荷物を収納する。
最後に焚き火跡をもう一度確認する。
自分たちが来た時より散らかさない。
それを済ませてから、トルクとベルクを馬車へつないだ。
出発できる頃には、朝の青白かった光がすっかり暖かさを帯びていた。
「今日は誰から?」
モモが御者台を見る。
「俺、やっていい?」
ルシルが手を上げる。
「昨日の最後もルシル様でしたよ」
「でも一晩寝た」
「理由になってるような、なってないような」
モモは笑いながらシモンを見る。
「シモン君は?」
「道が穏やかなうちはルシル様でいいと思います。昨日の続きとして、路面の変化を自分で見た方が経験にもなりますから」
「よし」
「ただし、難しい区間へ入ったら交代を提案します」
「分かってる」
ルシルは御者台へ上がった。
隣にはモモが座る。シモンは最初、後方から馬車と道を見る役になった。
「じゃあ、行こうか」
トルクとベルクへ声を掛ける。
馬車がゆっくり動き出す。
名前も知らない野営地が後ろへ離れていく。
ルシルは一度だけ振り返った。
昨夜張っていた天幕はもうない。火も消えている。残っているのは以前からあった石囲いと、自分たちが馬車を停めたことで少しだけ乱れた地面くらいだった。
次にここへ来ることがあるかは分からない。
それでも、一晩過ごした場所だ。
「行っちゃいますね」
隣のモモが同じ方向を見ていた。
「うん」
「名前も分からない場所でした」
「地図にも野営適地ってだけだったな」
「でも覚えてると思います」
「俺も」
道が曲がる。
野営地は木々の向こうへ隠れた。
ルシルは前を向き、手綱を持つ手へ意識を戻した。
◇
朝の山道は、昨日の午後とは表情が違っていた。
日がまだ斜めから差しているため、山側の斜面が長い影を落としている。日向は乾き始めているのに、影の中へ入ると路面がまだ黒く湿り、石の表面にも薄い水気が残っていた。
ルシルは昨日ベルクが滑ったことを思い出し、濡れた石が見えるたび早めに速度を落とした。
「ここ、右の方が土多いな」
「後輪も通せそうです」
隣のモモが身体を少し傾け、馬車の側面から後ろを確認する。
「じゃあ右寄り」
大きく切らない。
前輪だけ避けて後輪を石へ乗せる失敗は、旅の最初に一度やっている。
トルクとベルクをゆっくり進ませ、前輪、後輪の順に湿った石を外す。
「通りました」
後方のシモンから声が来る。
「よし」
上手くいくと嬉しい。
だからといって、次も同じようにできるとは限らない。
道は一つ曲がるだけで状態が変わる。
しばらくすると、右側の斜面から細い水が街道へ流れ込んでいる場所が現れた。深さは指一本分もないが、道を横切るように水が走り、その先の谷側へ落ちている。
「止める?」
モモが尋ねる。
「うん。見たい」
ルシルは手前の平らな場所で馬車を止めた。
三人で降りる。
水そのものは浅い。底も見えている。
問題は、水の下が土なのか石なのかだ。
シモンが杖ではなく道端の細い落ち枝を拾い、水の中へ差し込む。
「中央は締まった土ですね。こちら側に平たい石があります」
「車輪、どこ通す?」
ルシルが自分でも足元を見る。
「真ん中?」
「馬の足元も考えましょう」
モモが先に水際へ寄り、トルクとベルクが通る位置を見る。
浅い水を避けようとして路肩へ寄せすぎる方が危ない。谷側は少し低く、雨で柔らかくなっている。
「真ん中をゆっくりが一番良さそうです」
「僕もそう思います」
シモンが頷いた。
馬車へ戻る。
「俺のままでいい?」
「ここなら」
「もし嫌な感じしたら言って」
「はい」
ルシルは手綱を握り直した。
トルクとベルクへ声を掛ける。
二頭が水へ足を入れる。
ぱしゃり、と小さな音がした。
トルクは気にせず進んだ。ベルクは一瞬だけ水面へ耳を向けたものの、兄の後へ続く。
前輪が入る。
少し抵抗。
すぐ抜ける。
後輪も続いた。
車体が小さく揺れたが、それだけだった。
「抜けました」
シモンの声がする。
ルシルは水場を完全に越えてから馬車を一度止めた。
「車輪見る?」
「念のため」
三人で確認する。
泥が少しついた程度。
異常なし。
「こういうの、前ならそのまま行ってたかもしれない」
ルシルが車輪についた泥を見ながら言う。
「私も、水が浅いから大丈夫って思いそうです」
モモも頷いた。
「浅さと地面の硬さは別ですからね」
シモンが言う。
「でも今回は大丈夫だった」
「確認した上で、ですが」
「そこ大事だな」
馬車へ戻り、再び進む。
たった数歩分の水だった。
通過するだけなら、ほんの短い時間で済む。
それでも止まって見たことで、三人とも何を通ったのか分かっていた。
◇
それからしばらく、道は穏やかだった。
緩い上りと平坦な区間を繰り返し、木々の間からときどき遠くの山が覗く。昨日見たような大きく開けた眺望はないが、朝の光が葉の間を動くたび、森全体の色が少しずつ変わって見えた。
モモが突然、前方を指差した。
「ルシル様、あれ」
「何?」
「鳥です」
街道脇の低い枝に、小さな鳥が一羽止まっていた。
灰色がかった身体に、喉元だけが淡い橙色をしている。
「本!」
「今出したら逃げるんじゃない?」
「じゃあ見ます」
モモは声を抑えた。
「灰色。喉が橙。大きさは……街道羽雀より少し大きいです」
「尾は?」
「短め?」
「嘴」
「細いです」
ルシルも運転をしながら、無理に鳥へ視線を固定しない範囲で見る。
「脚、黒っぽい」
「鳴かないですね」
シモンも後ろから覗く。
馬車が近づくと、鳥は一度だけ首を傾けた。
そして、甲高い短い声を二度鳴らして枝から飛び立つ。
「あっ」
モモは飛んでいく方向を目で追った。
「二回。高い声」
「覚えました?」
「たぶん」
「後で本を見ましょう」
シモンが言う。
「今?」
「今は馬車が動いています」
「ですよね」
モモは名残惜しそうに枝を見たが、本を取りに行こうとはしなかった。
少し先に休める場所があれば、その時に調べればいい。
「昨日の足跡もそうだけど、分からないもの増えるな」
ルシルが笑う。
「旅をすると、知らないものが減るんじゃないんですね」
モモが少し不思議そうに言う。
「増える?」
「知ってないものがこんなにあるって分かるので」
「それ、面白いな」
「はい」
シモンは二人の会話を聞きながら、何か言いかけた。
けれど今回は説明を加えず、少しだけ笑った。
◇
一刻ほど進んだ頃、街道の先から鈴の音が聞こえてきた。
最初は小さい。
風で木の葉が擦れる音に混じり、金属が規則的に鳴っている。
「前から馬車?」
ルシルはすぐ速度を落とした。
「おそらく」
シモンが後方から前へ移動してくる。
道幅を見る。
今いる場所は二台が余裕を持ってすれ違えるほど広くない。少し先に膨らんだ場所が見える。
「ルシル様、あそこまでなら行けます」
「分かった」
トルクとベルクを急がせない範囲で進み、広い部分へ寄せて止まる。
ほどなく、曲がり角の向こうから馬が現れた。
二頭立ての荷馬車。
昨日のバルトより大きな車体で、荷台には布を掛けた木箱や樽が積まれている。御者台には年配の男と若い女性が座り、後ろにも一人、荷物の脇へ腰掛けていた。
向こうもルシルたちに気づき、速度を落とす。
「先にどうぞ!」
ルシルが声を掛ける。
下り側の荷馬車の男が片手を上げた。
「助かる!」
大きな馬車が慎重に近づいてくる。
すれ違う瞬間、相手の車輪にはかなり泥がついているのが見えた。
「上からですか?」
シモンが尋ねる。
「ああ、セイラからだ!」
年配の男は馬を止めるほどではないが、歩く速度まで落として答えた。
「この先どうです?」
「朝は悪くない! ただ、ここから半刻ちょい上がったところで道普請やってるぞ。崩れじゃないが、路肩の石組みを直してる!」
「通れますか?」
「通れる! 作業の人間が誘導してる。馬車は一台ずつだ!」
「ありがとうございます!」
「そっちも気ぃつけてな!」
荷馬車が通り過ぎる。
後ろに座っていた若い男も軽く手を上げた。モモが振り返って手を振る。
鈴の音が少しずつ遠ざかっていく。
「セイラから来たんだ」
ルシルは前方を見る。
町そのものはまだ見えない。
けれど、今朝まで地図と人の話の中にあった場所から、実際に誰かがやってきた。
「半刻ちょいで道普請」
「そこまでは僕が代わりましょうか」
シモンが提案する。
ルシルは少し考えた。
疲れてはいない。
道もここまでは走れている。
それでも、この先に工事区間があると分かった。
「作業場所の手前まで俺でもいい?」
「構いません。ただ、そこで一度止まって状況を見ましょう」
「うん」
「ルシル様、疲れたらその前でも交代してくださいね」
モモにも言われる。
「分かってるって」
返事をしながら、ルシルは少し笑った。
以前なら、二人から同じように言われれば「大丈夫」と先に証明したくなったかもしれない。
今は、疲れたら代わればいいと思える。
馬車を再び進める。
◇
道普請の場所は、聞いた通り半刻ほど先にあった。
近づく前から、石を打つ乾いた音が森へ響いていた。
カン、カン、と一定ではない間隔で音がする。やがて木々の間に、道端へ積まれた石と数人の作業員が見えてきた。
ルシルは十分手前で速度を落とす。
作業場所は谷側の路肩だった。
街道そのものが崩れたわけではない。谷側を支える低い石組みの一部を積み直しており、そのため道幅が半分ほどまで狭くなっている。
手前には赤い布を巻いた杭。
その横に、作業員の一人が立っていた。
「止まってくれ!」
男が片手を上げる。
ルシルは指示通り停車した。
「向こうから一台来てる! それ通したら案内する!」
「分かりました!」
待つ。
作業員たちはルシルたちを急かさない。
こちらも急がない。
谷側から風が上がってきて、石を削った粉の匂いと湿った土の匂いが混ざる。
やがて狭い区間の向こうから、小型の一頭立て荷車が現れた。
荷台には空の籠が積まれている。
作業員の合図に従ってゆっくりこちらまで来ると、御者の女性がルシルたちへ会釈した。
「お待たせしました」
「いえ」
すれ違ってから、作業員がこちらへ来た。
四十代くらいの男で、厚手の作業着の膝と袖に灰色の石粉がついている。
「二頭立てか。幅は……通れるな。初めてか?」
「はい」
「なら俺が横につく。谷側へ寄せすぎるなよ。山側の車輪を、この白い石の内側に通せばいい」
路面を見ると、目印として白っぽい小石が数個並べられていた。
「途中で止まっても大丈夫ですか?」
ルシルが尋ねる。
「もちろん。嫌だと思ったら止めろ。馬が嫌がっても止めろ」
その返事に安心する。
「俺が行っていい?」
ルシルが二人を見る。
シモンは作業区間を見た。
長さはそれほどない。
路面も大きく傾いてはいない。
「作業員の指示を優先してください。それなら」
「分かった」
モモは御者台の横から後輪を確認する役につく。
シモンは一度降り、谷側ではなく馬車の山側後方を歩くことにした。
「行きます」
「ゆっくりな!」
作業員が先導する。
トルクとベルクが歩き始めた。
狭い。
右側では作業途中の石組みが一段低くなっており、その向こうはすぐ崖というほどではないものの、斜面が落ちている。左は山肌に近く、馬車を寄せすぎれば車体が張り出した枝や岩へ触れる。
「そのまま!」
作業員が前から声を掛ける。
ルシルは目印を見る。
馬を見る。
左前輪を見る。
全部を同時に見ようとして、一瞬だけ視線が忙しくなる。
「ルシル様、前で大丈夫です。後ろはこちらで見ます」
モモの声がした。
「分かった」
後輪まで自分で見ようとしない。
今はモモがいる。
「左後ろ、余裕あります」
モモが続ける。
「そのまま」
シモンの声も落ち着いている。
トルクが一歩。
ベルクも一歩。
馬車が進む。
作業員の男は馬の前へ入りすぎず、少し斜めの位置から手で進路を示す。
「いいぞ。あと車体一台分」
ルシルは手綱を強く握りすぎないよう意識した。
自分が緊張して引けば、馬にも伝わる。
「トルク、ベルク。そのまま」
二頭は歩いた。
最後の後輪が工事区間を抜ける。
「抜けた!」
モモの声が明るくなる。
ルシルは広い場所まで進んでから馬車を止めた。
「ありがとうございました!」
「おう!」
作業員は笑い、こちらへ歩いてきたシモンへも軽く手を上げた。
「馬、落ち着いてるな」
「二頭とも頑張ってくれています」
「この先はしばらく普通だ。セイラまでもう遠くないぞ」
ルシルの胸が少し跳ねる。
「どれくらいです?」
「この馬車なら……まあ、昼前には見えてくるんじゃないか。急がなきゃな」
最後の一言に、三人とも笑った。
「急ぎません」
ルシルが答える。
「それがいい」
作業員はすぐ持ち場へ戻っていった。
三人は邪魔にならない場所で、短く車輪と馬を確認する。
異常なし。
シモンが御者台へ上がる。
「ここからは交代しましょう」
「うん。ちょうどいい」
ルシルは素直に手綱を渡した。
緊張していたことを、降りた瞬間に自覚した。肩が少し硬い。
モモがその様子を見て笑う。
「疲れました?」
「ちょっと」
「頑張りましたね」
「今のは言われて嬉しい」
「いつも嬉しそうですけど」
「そうかも」
ルシルは後方の席へ移り、背もたれへ身体を預けた。
馬車が再び動き出す。
工事の石を打つ音が、少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
◇
道普請を越えてから、山道は驚くほど穏やかになった。
大きな石は減り、道幅も少し広がる。上りは続いているものの傾斜は緩く、昨日から何度もあった「降りて確認する」場面もしばらくなかった。
ルシルは後方から景色を見る。
御者台に座っている時とは、見えるものが違う。
前ばかり見なくていい分、道端の草や木々の間を飛ぶ鳥、斜面の下を流れる細い沢にも目が行く。
「モモ」
「はい?」
「さっきの鳥、本で見ない?」
「見ます!」
待っていたらしい。
モモは共有棚から『西部河川と湿地の鳥』を取り出しかけ、途中で手を止めた。
「……これ、山の鳥も載ってます?」
「題名からすると少なそうですね」
ルシルも気づく。
「買う本間違えた?」
「川と湿地で見つけた鳥を調べるために買った本ですから、間違ってはいません」
シモンが前から答える。
「山の鳥の本が別に必要なだけです」
「やっぱり本増えるじゃん」
「僕が増やすと言ったわけではありません」
「でも必要って言った」
「必要性と購入は別です」
「シモン君も本屋へ行ったら見ると思います」
モモの指摘に、シモンが黙った。
ルシルは笑う。
「見るんだ」
「……見るだけなら」
「俺たちと同じだ」
「購入するとは言っていません」
「はいはい」
結局、手元の本を開いて索引を見る。
山地にも分布する種類がいくつか載っていたが、灰色の身体と橙色の喉に完全に一致する鳥は見つからなかった。
「載ってないですね」
モモは残念そうというより、むしろ少し楽しそうだった。
「じゃあセイラで本屋」
「まだ言いますか」
「だって分からなかったので」
「本屋があるとは限りませんよ」
「そしたら次の町」
「本を探す旅になってきた」
ルシルが笑う。
「海へ行く途中で本も探すんです」
「お菓子も?」
「もちろんです」
「そこは即答なんだ」
三人の笑い声が、ゆっくり進む馬車の中へ広がった。
山道へ入る前は、もっと緊張するものだと思っていた。
実際、濡れた石もあった。泥もあった。分岐も、工事区間もあった。
けれど山道の全部が危険なわけではない。
こうして何も起こらない時間も長い。
その何も起こらない時間に、鳥を見つけたり、木の匂いを嗅いだり、本の話をしたりする。
ルシルは、そういう時間がかなり好きになっていた。
◇
昼が近づくにつれ、空の見える範囲が広くなっていった。
木々が減ったわけではない。
山の形そのものが変わり、街道が緩やかな尾根へ近づいているらしい。
そして、前を走らせていたシモンが不意に馬車の速度を落とした。
「どうした?」
ルシルが身を起こす。
「前が開けます」
モモも御者台の横から先を見る。
道が大きく左へ曲がっていた。
その先だけ、木々が途切れている。
シモンは曲がり角へ慎重に入る。
視界が開いた。
「……あ」
モモの声が漏れる。
ルシルも立ち上がりかけ、すぐ馬車の中で立つのは危ないと思って座り直した。
山の向こう側。
谷を挟んだ先の斜面に、人の作ったものが見えた。
灰色と茶色の屋根。
段々になった畑。
細く伸びる道。
煙突から上がる白い煙。
まだ距離はある。
大きな町ではない。
けれど明らかに集落だった。
「セイラ?」
ルシルが尋ねる。
シモンは馬車を安全な路肩の広い部分へ寄せて止めた。
地図を出す。
現在の道の曲がり方。
谷。
向こう側の集落。
地図上の位置を照らし合わせる。
「おそらく」
シモンはすぐ断定せず、周囲をもう一度確認した。
「位置関係から見て、セイラで間違いないと思います」
「見えた……」
ルシルは馬車を降りた。
モモも続く。
三人で街道脇へ立つ。
山の風が吹き抜ける。
花谷で感じた甘い香りとも、グレイの町にあった木材と川の匂いとも違う。ここでは針葉樹の樹脂と乾き始めた土の匂いが強く、その向こうから、ごく薄く薪を燃やす煙の匂いが流れてくる。
「町からかな」
「風向きが合えば、そうかもしれません」
シモンも隣へ立つ。
モモは両手を目の上へかざした。
「畑があります。あっち、何を育ててるんでしょう」
「遠くて分からないな」
「屋根もグレイと違いますね。傾きが急です」
「雪対策でしょうか」
シモンが言う。
「ここ、冬は雪降る?」
「標高がありますから可能性は高いですが、セイラの冬について詳しくは調べていません」
「じゃあ着いたら聞ける」
「そうですね」
着いたら。
その言葉が、今度は現実味を持って聞こえた。
昨日は山道の向こうにある町だった。
今は目で見える。
けれど、ルシルはすぐ御者台へ戻ろうとはしなかった。
「ちょっと見てていい?」
「もちろんです」
誰も急かさない。
三人はしばらく立ったまま、谷の向こうのセイラを眺めた。
町が見えたからといって、山道が終わったわけではない。
ここから一度少し下り、谷の上流側へ回り込む必要がありそうだ。地図を見る限り、町へ入るまでまだそれなりに距離がある。
それでも、次の土地が見えた。
「腹減った」
景色を眺めていたルシルが突然言うと、モモが吹き出した。
「町を見た感想がそれですか?」
「煙見たら何か焼いてそうで」
「それは分かります」
「モモもじゃん」
「セイラの名物、何でしょうね」
「まだ着いていませんよ」
シモンはそう言いながらも、口元には笑みがあった。
「昼、町まで我慢する?」
ルシルが尋ねる。
「しません」
シモンが即答した。
「お」
「ここからどれくらいか、まだ正確には分かりません。空腹のまま下りへ入る理由もないでしょう」
「じゃあ食べる?」
「少し先に休める場所があれば、そこで軽く」
モモが谷の向こうの町をもう一度見た。
「セイラで美味しいものを食べる分は残したいです」
「それ大事」
「二人とも食事基準ですね」
「シモンは食べたくない?」
問われたシモンは、煙の上がる町を眺める。
「何があるかは気になります」
「ほら」
「否定していませんよ」
セイラが見えても、三人は馬車を急がせなかった。
◇
見晴らしの場所から少し進むと、道沿いに大きな平石が置かれた小さな休憩場所があった。
屋根も水場もない。
それでも馬車一台を停める余裕があり、谷側には低い木柵もある。
ここで昼食にする。
朝にしっかり食べているため、簡単なもので十分だった。硬いパンを薄く切り、残っていた干し肉と葉野菜を挟む。そこへ少量の香草塩を振るだけ。
「これ、食べやすい」
ルシルは平石へ腰掛け、片手でパンを持った。
「馬車の中でも食べられそうですね」
モモも隣で同じものを食べる。
「運転しながらは駄目ですよ」
シモンが念のため言う。
「言ってないよ」
「先に言っておきました」
「信用ないなあ」
「ルシル様は食べ物を持ったまま御者台へ乗りそうなので」
「乗るだけならいい?」
「運転前に食べ終えてください」
「はい」
軽い昼食の間、トルクとベルクも休ませる。
ベルクの右前肢はここでも問題なし。
朝から何度も同じところだけを触って嫌がらせないよう、歩き方と立ち方を中心に見る。二頭とも飼葉への反応もよく、山道二日目の午前を歩いた疲れはあるものの、異常な消耗は見られなかった。
食事を終えたモモが、柵の向こうへ視線を向けた。
「町、ここからは見えないですね」
「曲がったからな」
「見えたのに、また見えなくなりました」
「消えたわけじゃないよ」
「分かってます」
モモは笑い、残ったパン屑を丁寧に布へ集めた。
「でも、ちょっと不思議です。見える前は『どんな町だろう』だったのに、一度見たら早く近くで見たくなりました」
「俺も」
「だからこそ、昼を抜いて急がないでくださいね」
シモンが食器を片付けながら言う。
「もう食べたから大丈夫」
「次は馬車を急がせない、です」
「それも分かってる」
ルシルは笑った。
早く見たい。
早く着きたい。
その気持ちは消えていない。
消す必要もない。
ただ、その気持ちにトルクとベルクの歩調まで合わせさせる必要はなかった。
休憩を終え、再び馬車へ乗る。
午後はシモンがそのまま手綱を持つことになった。
「町へ入るところ、俺やりたいって言ったら?」
ルシルが尋ねる。
「道を見てからです」
「だよな」
「町の入口が平坦で混雑していなければ交代しても構いません」
「じゃあその時考える」
それで十分だった。
◇
午後の道は、少しずつ下りへ変わった。
急な坂ではない。
けれど上りより馬車の重さが二頭へ掛かることを、ルシルたちはグレイで何度も教わっている。
シモンは速度を抑えた。
トルクとベルクに馬車が追いつくような動きをさせない。坂が少し強くなる前にはさらに速度を落とし、必要なら止まれる余裕を残す。
「下りって、乗ってる方は楽そうなのに」
モモが車内から前を見る。
「馬はそうじゃないんだな」
ルシルも二頭の後ろ姿を見る。
「馬車の重量を受けながら下る必要がありますからね。上りとは別の負担があります」
シモンが答える。
「バルガンさんも言ってた」
「ええ」
道は乾いている。
それだけでもありがたかった。
下りで濡れた石が続けば、昨日以上に慎重さが必要だっただろう。
やがて前方に、人の気配が増えてきた。
最初に見えたのは、山側へ積まれた切り薪だった。
街道から少し離れた場所に、同じ長さへ揃えた薪が何段にも積まれている。
その先には小さな作業小屋。
さらに進むと、背負い籠を持った二人組とすれ違った。
「こんにちは」
モモが声を掛ける。
「こんにちは」
年配の女性が笑って返す。
「セイラへ?」
「はい」
「もうすぐだよ」
女性は足を止めず、そのまま山側へ歩いていった。
「もうすぐ」
ルシルが繰り返す。
「今度こそ?」
「町が見えた時点で十分近かったでしょう」
「でも道って曲がるから距離分からない」
「それはそうですね」
さらに半刻ほど。
道沿いの木々が急に少なくなった。
石垣。
畑。
細い用水路。
人の手で整えられた景色が増えていく。
段々畑には背の低い緑の作物が並び、その間を腰に籠を下げた人々が歩いていた。
馬車へ気づいた子どもが一人、畑の端から顔を上げる。
珍しいものを見るほどではないらしく、少し眺めただけでまた作業中の大人の方へ戻っていった。
「何育ててるんだろ」
ルシルが言う。
「葉の形、見たことないです」
モモも興味を示す。
「町で売っているかもしれませんね」
「食べられる?」
「なぜ最初にそこなんです?」
「畑だから」
「理屈は通っていますけど」
馬車は畑の間を抜ける。
空気にも変化があった。
山の樹脂の匂いに混じって、薪の煙、土、家畜、そして何かを焼く香ばしい匂いが流れてくる。
「何か焼いてる!」
ルシルが反応した。
「さっきも煙で同じこと言ってましたよ」
「今度は本当に匂いする」
「私もします」
モモも鼻を動かす。
「パン?」
「麦っぽい?」
「二人とも、まず町へ入る手続きを済ませてからですよ」
シモンが言う。
「分かってる」
「分かってます」
返事だけは揃った。
シモンの肩が少し揺れた。
◇
セイラの町は、山の斜面を利用するように広がっていた。
グレイのように平らな土地へ道が伸びる町ではない。家々は高さの違う場所に建ち、石積みの土台と短い坂道、階段があちこちに見える。
屋根は遠くから見た通り傾斜が強い。
木造の建物が多いが、一階部分だけ石造りになっている家もある。
町の手前で街道は一度広くなり、簡素な検問所が設けられていた。
高い城壁はない。
代わりに腰ほどの石壁と木柵があり、その中央を馬車が通れるようになっている。
「止まります」
シモンが馬車を列の後ろへつけた。
前には二台。
一台は荷車。
もう一台は小さな幌馬車。
人の出入りもある。
山仕事帰りらしい男たち、籠を持った女性、背中に大きな荷を背負った旅人。検問の係員は一人一人を長く引き止めることなく、荷物や行き先を確認して通している。
「ここから俺に代わる?」
ルシルは町の中を覗き込みながら尋ねた。
シモンは入口の道を見る。
入ってすぐは緩い上り。
人通りもそれなりにある。
「今日は僕のままで行きましょう」
「了解」
ルシルはすぐ頷いた。
「町の坂に慣れてからですね」
モモも納得している。
「明日、走れそうならやりたい」
「宿と馬車置き場を確認してからにしてください」
「はい」
前の幌馬車が進む。
次が三人の番になった。
係員は三十代くらいの女性だった。短い茶髪を布でまとめ、厚手の緑色の上着を着ている。
「こんにちは。セイラへようこそ。三人と二頭、馬車一台でいい?」
「はい」
シモンが答える。
「どこから?」
「グレイからです」
「山道を?」
「ええ。昨日、花谷側から入りました」
「なら旧休憩所か途中で一泊?」
「街道脇の野営地で一泊しました」
女性は慣れた様子で頷いた。
「道はどうだった?」
「濡れた石が一部ありましたが、通行に問題はありませんでした。途中の路肩で石組みの補修作業をしていました」
「そこはこっちでも把握してる。ありがと」
簡単な記録板へ何かを書き込む。
「滞在目的は?」
「旅です」
今度はルシルが答えた。
女性が顔を上げる。
「観光?」
「食べたり、町を見たり、次の道を調べたり」
答えるうちに、自分でも少し嬉しくなる。
「なるほど。冒険者仕事が目的じゃないのね」
「今のところは」
シモンの冒険者証を確認した女性は、それ以上詳しく尋ねなかった。
「宿は決めてる?」
「まだです」
「馬車と二頭なら、中央坂を上がる前に右へ入ったところの宿が何軒か使いやすいよ。上の方は階段が増えるから馬車で行かない方がいい」
「助かります」
「あと、町中は坂が多い。荷車優先の細い道もあるから標識見てね」
「分かりました」
「ようこそ、セイラへ」
木柵の内側が開く。
シモンがトルクとベルクへ声を掛けた。
二頭が歩き出す。
焦げ茶色の馬車が、山の町へ入っていく。
ルシルは窓から外を見た。
最初に目へ入ったのは、石造りの水路だった。
山側から流れてきた水が町の中央を細く走り、ところどころに木製の小さな水車がついている。水車の一つは店先でゆっくり回り、その回転を使って何かを挽いているらしい。
次に見えたのは、軒先から吊るされた束。
「何あれ?」
乾燥させた草のようなものが、店の屋根下に何十束も並んでいる。
「薬草でしょうか」
モモが窓へ寄る。
「香草かもしれません」
シモンは運転しながら周囲を見る。
町の人々は旅人の馬車を珍しそうに凝視することもなく、自分たちの生活を続けている。
水路の横で籠を洗う女性。
木箱を運ぶ若者。
軒下で縄を編む老人。
小さな店先からは、豆を煎るような香りが漂ってきた。
そして、少し先。
ルシルが畑の近くからずっと気にしていた香ばしい匂いが、急に濃くなった。
「これだ!」
「声大きいです」
モモが笑う。
右側に、小さな店があった。
石造りの窯が店先から見える。
その窯の前で、丸く平たい生地のようなものを焼いている。
表面には何か緑色のものが散らされ、端がこんがり色づいていた。
「パン?」
「薄焼きですね」
シモンも横目で確認する。
「止まる?」
「先に宿です」
「はい」
即答された。
けれどルシルは落ち込まなかった。
店の位置を覚える。
中央坂へ入る手前。
右側。
緑色の布が軒から下がっている。
「覚えた」
「何をです?」
「店」
「聞く必要ありませんでしたね」
モモが笑った。
◇
検問所の女性に教えられた一角には、確かに馬車旅向けの宿が並んでいた。
どの宿にも小さいながら厩があり、裏へ馬車を回せる道がついている。
三人は最初の一軒へ即決せず、馬車を邪魔にならない共同待機場所へ一度入れた。
「三軒ありますね」
モモが看板を見る。
一軒目は『山鳥亭』。
二軒目は『水車の枝』。
三軒目は『二本角亭』。
「名前だけなら山鳥亭」
ルシルが言う。
「さっきの鳥が分からなかったからですか?」
「ちょっと」
「宿名と鳥の本は関係ないと思います」
「分かってる」
シモンは看板だけではなく、厩と馬車置き場の入口を見る。
「まず二頭を預けやすいところを見ましょう」
三人で一軒ずつ外から確認し、必要なら宿の人へ尋ねる。
山鳥亭は食堂が広く、人の出入りも多い。ただし厩が小さく、今日はすでに数頭入っている。
水車の枝は裏手に広い厩があり、二頭を隣同士で入れられる空きもある。馬車置き場も平らで、坂の町としてはかなり使いやすそうだった。
二本角亭は静かで悪くないが、馬車置き場へ入る道が少し狭い。
「水車の枝かな」
ルシルが言う。
「私も」
モモは厩の様子を見ている。
「シモンは?」
「同意見です。部屋が空いているか聞きましょう」
宿へ入る。
扉を開けると、外より少し暖かい空気が迎えた。
受付の奥には小さな水車を模した木飾りがあり、壁には山の植物を押し葉にした額がいくつか掛けられている。
「いらっしゃい」
受付にいたのは、肩幅の広い中年の女性だった。
「三人です。個室を三部屋、できれば同じ階で。あと馬二頭と馬車一台をお願いします」
シモンが伝える。
「三部屋なら二階に並びで取れるよ。馬は?」
「栗毛のトルクと、濃灰色のベルクです。二頭を隣にできますか?」
「今ならできる。うちの厩番に見せてくれればいい」
「何泊?」
その質問で、三人は一瞬顔を見合わせた。
グレイでは最初に短く取りすぎ、途中で延長を忘れかけた。
ルシルが少し笑う。
「今回はどうする?」
「町をまだ見てません」
モモが答える。
「道の情報も集めたいです」
シモンも考える。
「二泊を基本にして、その後は延長が可能か先に聞いておきましょう」
受付の女性が頷いた。
「今の時期なら、急に団体が入らなきゃ延長できるよ。明日の夕方までに言ってくれれば確実」
「では二泊でお願いします」
「はいよ」
今度は忘れない。
鍵を受け取る前に、三人はまず裏手へ回った。
部屋より先にトルクとベルク。
それも、もう誰かに言われてすることではなかった。
◇
水車の枝の厩は、山鳥亭より静かだった。
木造の建物の中央に通路があり、左右へ馬房が並ぶ。奥側の壁には高い位置に細長い窓があり、風は通るが冷えすぎない作りになっている。
厩番は二十代後半くらいの青年だった。
「隣同士で大丈夫ですよ。こっちの二つが空いてます」
案内された馬房は清潔で、敷き藁も新しい。
「今日、山越えてきたんですか?」
「途中で一泊してます」
ルシルが答える。
「ならまず休ませましょう。水はすぐがぶ飲みさせない方がいいですね。飼葉は持ち込みですか?」
「一部あります。足りない分はこちらでお願いできますか?」
「できます」
シモンと厩番が必要な量や料金を確認する。
ルシルとモモはその間に二頭の革具を外すのを手伝った。
トルクは馬房へ入ると、周囲の匂いを嗅いだあと、すぐ落ち着いた。
ベルクは隣の馬房にいるトルクを一度確認する。それからシモンが近くにいることを見て、ようやく頭を下げた。
「山道、終わったぞ」
シモンが声を掛ける。
正確には、この先も山は続くかもしれない。
けれど少なくとも、グレイからセイラまでの区間は越えた。
ベルクがシモンの手へ鼻を寄せる。
ルシルはその様子を見てから、トルクの首筋を撫でた。
「ありがとう。二日間お疲れ」
トルクは目を細めたあと、ルシルの手に何もないことを確かめるように鼻を動かした。
「今日は本当に何も持ってないって」
「あとで人参、少しなら聞いてみます?」
モモが言う。
厩番が会話を聞いていたらしく笑った。
「人参ならありますよ。落ち着いてからなら、小さいの一本を二頭で分けるくらいなら」
トルクがその声に反応したように耳を動かす。
「今、人参って分かった?」
「まさか」
「トルクならありそうです」
三人とも笑った。
ベルクの右前肢については、厩番にも一度滑ったことを伝えた。
「今は歩き方に問題ありません。ただ、昨日一度だけ濡れた石で右前を滑らせています」
シモンの説明を聞き、厩番はベルクの立ち方を見る。
「分かりました。こっちでも様子見ときます。腫れたり、変な立ち方したらすぐ宿へ知らせますよ」
「お願いします」
これで少し安心できる。
三人は馬車も指定場所へ入れ、最後に荷物と戸締まりを確認した。
ここまで済ませて、ようやく宿の部屋へ向かう。
◇
二階の部屋は、グレイの石樽亭より少し小さかった。
けれど窓から町の斜面が見える。
ルシルは荷物を置くなり窓を開けた。
下には細い水路。
その向こうに屋根が重なり、さらに上へ坂道が続いている。
遠くから水車の回る音がした。
一定の間隔で、こつ、こつ、と木が触れ合う音も聞こえる。
風に乗って、またあの焼いた生地の匂いがした。
「……行こう」
部屋へ入ってまだそれほど経っていない。
けれど、今度は馬も馬車も休ませた。
部屋も取った。
必要なことは済ませた。
廊下へ出ると、ほぼ同時に隣の扉が開いた。
モモだった。
「あ」
「あ」
二人で顔を見合わせる。
「行く?」
「行きます?」
さらに向こうの扉が開き、シモンが出てきた。
「二人とも早いですね」
「シモンも出てきたじゃん」
「僕は今後の道情報をどこで確認するか受付へ聞こうと」
「先にあの薄焼き食べない?」
ルシルが誘う。
「さっき昼食を食べましたよね」
「軽くだった」
「セイラの名物かもしれません」
モモも援護する。
「まだ名物と決まったわけではありません」
「だから確かめる」
シモンは二人を見た。
断る理由を探しているように見えたが、やがて眼鏡の位置を直す。
「一枚を三人で分ける。それなら、まあ」
シモンがそう言った瞬間、ルシルとモモの顔が同時に明るくなった。
「決まり」
「行きましょう、シモン君」
「まだ店の場所を確認していませんよ」
「覚えてる。中央坂へ入る手前の右側。緑の布が下がってた店」
ルシルが迷いなく答えると、シモンはわずかに眉を上げた。町へ入ってから厩や宿の位置、通行人の流れまで気にしていたはずなのに、食べ物の店だけはしっかり覚えているらしい。
「そういうところだけ妙に記憶がいいですね」
「大事だから」
「否定はしませんけど」
三人で階段を下り、受付へ向かう。
宿の女性は帳面へ何かを書き込んでいるところだったが、外出する三人に気づくと顔を上げた。
「もう町を見るのかい?」
「はい。あと、入口の近くで薄い生地を焼いていた店があったんですけど」
ルシルが尋ねると、女性はすぐに分かったらしく「ああ」と笑った。
「緑の布が出てるところだろ。麦焼きの店だよ」
「麦焼き」
モモが初めて聞く名前を確かめるように繰り返した。
「この辺じゃ珍しくない食べ物さ。麦の粉を薄く伸ばして、刻んだ山菜や香草を混ぜて焼く。店によって乗せるものが違うけど、あそこは塩漬け乳酪を少し使うから旅人には人気だね」
「食べたい」
説明の途中でルシルの気持ちは完全に決まっていた。
「さっき昼を食べてきた顔には見えないねえ」
「軽くです」
「その説明、今日二度目です」
シモンの指摘に受付の女性が声を立てて笑う。
「まあ、町へ来たなら食べてみるといい。ただし夕飯が入らなくなってもうちのせいじゃないよ」
「一枚を三人で分けます」
「それなら平気だろうね」
宿を出ると、午後のセイラには山の町らしい涼しい風が流れていた。
山道では木々の匂いが強かったが、町へ入るとその中に生活の匂いが混ざっている。薪を燃やす煙、乾燥させた草、どこかの家から漂う煮込み料理、それに水路から立つ冷たい水の匂い。少し歩くだけでも、グレイとはまったく違う町だと分かった。
三人は中央坂へ向かって歩いた。
道そのものは石敷きだが、完全な平坦ではない。緩やかに上がったかと思えば短い階段が横道へ伸び、家々も斜面に合わせて高さを変えている。
町へ入る時に馬車をシモンへ任せたのは正解だった。
ルシルは歩きながら振り返り、宿へ続く道を確認した。
「これ、馬車で上の方まで行くの大変そうだな」
「だから入口で注意されたんでしょうね」
シモンも周囲を見る。
「荷車が通る道と、人が主に使う道がある程度分かれているようです。水路もありますから、知らずに入ると曲がれない場所がありそうですね」
「明日もし馬車動かすなら、先に道見てからだな」
「そうしてください」
言いながら歩いていると、左手の高い場所から子どもたちの声が聞こえた。
石段の途中に三人ほど集まり、細い木の板へ小さな水車を取り付けている。上から流した水を当てて回しているらしく、一人が水を流すたびに残りの二人が歓声を上げていた。
「小さい水車です」
モモが足を緩める。
「町の水路、こういう遊びにも使うんだ」
「生活用の水路でしょうから、勝手に塞いではいけないと思いますけどね」
シモンが言った直後、近くの家から女性の声が飛んだ。
「水止めるんじゃないよー!」
「止めてないー!」
子どもが大声で返す。
見ると、板は水路全体を塞がず端へ寄せてある。
「ちゃんと分かってるみたい」
「怒られ慣れてる返事でしたね」
モモが小さく笑う。
旅人である三人にとって珍しいものも、ここで暮らす人々にはいつもの午後なのだろう。
その横を通り過ぎると、目的の香りが強くなった。
「あった」
ルシルが先に見つけた。
緑色の布。
石造りの窯。
店先には長い木台が置かれ、焼き上がったばかりの丸い麦焼きが並んでいる。
近づくにつれて、香ばしい麦の匂いの中に少し酸味のある乳酪と青い香草の香りが混ざった。
「いらっしゃい」
窯の前にいた男性が声を掛ける。腕まくりした太い腕には粉がつき、額にも汗が浮かんでいた。
「三人かい?」
「はい。これ、一枚を三人で分けられます?」
「もちろん。切ろうか?」
「お願いします」
焼き上がったものの中から一枚が選ばれる。
直径は大きめの皿ほど。薄い生地の上に刻んだ濃緑色の葉と白い乳酪が散らされ、ところどころに焦げ目がついている。
店主が大きな刃物で三つに切った。
「熱いから気をつけな」
紙に似た厚手の植物繊維で包まれ、一切れずつ渡される。
ルシルは受け取った瞬間、指先に伝わった熱で持ち方を変えた。
「本当に熱い」
「だから言われたでしょう」
「シモンも気をつけて」
「僕はまだ食べていません」
モモはふうふうと息を吹きかけている。
三人は店先の端へ寄り、通行人の邪魔にならない場所で最初の一口を食べた。
表面は薄く焼けているのに、中央は少しだけ柔らかい。
麦そのものの香ばしさ。
塩気のある乳酪。
そして山菜らしい葉にはわずかな苦味があり、その後から爽やかな香りが抜けた。
「うまい」
ルシルの言葉は早かった。
「美味しいです」
モモも目を丸くしている。
「この葉、何ですか?」
店主へ尋ねると、男性は次の生地を窯へ入れながら答えた。
「山青菜だよ。この辺じゃ春から秋口まで採れる。町の外の畑でも育ててる」
「あ」
ルシルとモモが同時に顔を見合わせた。
「町へ来る前の畑!」
「葉っぱ、こんな形でしたよね」
「たぶんこれだ」
「よく見てるな」
店主が感心したように笑った。
「この時期は柔らかい葉がまだ採れるからね。もう少し寒くなると苦味が強くなる。それを干して冬に煮込むのも旨いよ」
「冬も食べるんですか?」
「ああ。セイラじゃ昔から使う。乳酪とも合うしな」
モモは残りの麦焼きを改めて眺めた。
町へ入る前に見た畑の作物が、もう手の中にある。
「こういうの、いいですね」
嬉しそうに呟いてから、もう一口食べる。
「何が?」
「さっきまで名前も知らなかったものを、今食べてるところです」
「確かに」
ルシルも畑を思い出した。
遠くから見ただけだった緑色。
食べられるのかと話していたもの。
それが山青菜という名前で、セイラでは昔から食べられている。
たったそれだけなのに、町へ着いたという実感が少し強くなった。
シモンもゆっくり食べ終える。
「乳酪の塩気が強すぎないのがいいですね」
「お、兄さん分かるね」
店主が嬉しそうに言った。
「山青菜の香りを消さないように少なめなんだ。旅人向けに乳酪を増やす店もあるけど、うちは昔からこれくらいだ」
「僕はこちらの方が好きです」
シモンが自然に答えた。
ルシルとモモが同時に彼を見る。
「何です?」
「いや」
「別に」
二人が揃って首を振る。
「何か言いたそうですが」
「シモンもちゃんと町の食べ物楽しんでるなって」
ルシルが結局言うと、シモンは一瞬黙った。
けれど否定せず、手元に残った最後の一口を食べる。
「食べるために寄ったんですから、味を見るのは当然でしょう」
「そういうことにしておきます」
モモが笑った。
「モモ嬢まで何ですか」
「何でもありません」
呼び方は今日も変わらない。
それでも三人の間に流れる空気は、山道に入る前よりずっと軽かった。
◇
麦焼きを食べ終えても、すぐ宿へ戻る理由はなかった。
まだ午後の時間は残っている。
ただし山越えの後なので、町中を端から端まで歩き回るつもりもない。
「まず、道の情報でしたね」
モモが思い出したように言う。
「そうでした」
シモンも本来の目的へ戻る。
「受付で聞こうとしてたんだっけ」
「ええ。宿へ戻ってからでも構いませんが、町を歩くなら先に場所だけ確認しておきたいですね」
店主へ尋ねると、旅人向けの街道情報は町の入口近くにある管理所でも聞けるが、次の土地までの細かな状況なら中央坂の途中にある荷運び組合の掲示板が詳しいという。
「上へ行くなら、あの水路沿いを歩くといい。階段より楽だぞ」
「ありがとうございます」
三人は教えられた道へ向かった。
中央坂そのものより少し緩やかで、水路に沿って石畳が続いている。
水は澄んでいた。
ところどころに小さな取水口があり、木の樋を通って家や店の裏へ分かれていく。グレイでも水場は見たが、町全体が山からの水を使って動いているような景色は新鮮だった。
「これ、どこから来てるんでしょう」
モモが水面を見る。
「上流に湧水か沢があるのでしょうね」
「町の一番上まで行けば見られる?」
「今日は行きませんよ」
「まだ何も言ってないです」
「顔に書いてありました」
シモンの返事にルシルが笑う。
モモは頬を少し膨らませたものの、自分でも図星だったのか強く反論しなかった。
「今日は道の情報と、少し町を見るくらい」
ルシルが言う。
「山を越えた日ですからね」
「トルクたちも休ませてるし、俺たちもあんまり歩きすぎない方がいいか」
「その通りです」
昨日までなら、町へ着いた高揚のまま店や道を次々見て回りたくなったかもしれない。
今も興味は尽きない。
坂の上には何があるのか。
吊るされていた草は何なのか。
水車は何に使われているのか。
さっきの山青菜は市場でも売っているのか。
分からないものばかりだ。
だからこそ、全部を今日知る必要はなかった。
水路沿いを歩いていると、右手に小さな広場が現れた。
荷車が二台停まり、その脇で数人の男たちが縄を締め直している。壁際には大きな木板があり、紙や木札が何枚も留められていた。
「ここかな」
「荷運び組合と書いてあります」
シモンが看板を読む。
三人は荷車の邪魔にならない端から掲示板を確認した。
セイラから先の街道。
近隣の村。
山の別道。
荷運び人向けの注意。
古い紙には線が引かれ、新しい情報が上から貼られている。
シモンは一枚ずつ日付を見る。
「僕たちが今すぐ必要なのは、次の大きな街道へ出る西側の道ですね」
「海は?」
「まだ先です」
「それは分かってる」
ルシルも地図を広げ、掲示板と見比べた。
セイラから先はいくつか道が分かれている。
一つは山間の集落をつなぐ北寄りの道。
一つは南西へ下り、広い街道へ合流する道。
もう一つは西側の高地を抜ける短い道だが、荷車向けの札には「勾配強し」と書かれている。
「これ、短いけど馬車には向かなそう」
モモが西の道を指す。
「そうですね。距離だけなら短いですが、今の僕たちが選ぶ利点は薄いでしょう」
「急いでないし」
ルシルもすぐに外す。
南西の道には、途中の橋についての注意書きがあった。
「橋?」
ルシルが読む。
「『二日前、増水後の点検済み。通行可。ただし大型荷車は一台ずつ』」
「日付も新しいですね」
シモンが確認する。
「今のところ問題はなさそうですが、出発前に管理所でも聞きましょう」
「明日出る?」
モモが尋ねた。
三人は顔を見合わせた。
宿は二泊取った。
今日着いたばかり。
町はまだ入口周辺しか見ていない。
「出ない」
ルシルが先に答えた。
「俺も明日はセイラ見たい」
「私もです」
モモも迷わない。
シモンは地図を畳みながら頷いた。
「では明日は町を見ながら、必要な情報と食料を集めましょう。出発を決めるのはその後で十分です」
「本屋も」
「ありましたね、その話」
「鳥の本です」
「動物の本も」
ルシルが足跡のことを付け加える。
「増えてますよ」
「見るだけ」
「その言葉、今日だけで何度目でしょうね」
シモンがため息をついたところで、背後から笑い声がした。
荷車の縄を直していた男の一人が、こちらの会話を聞いていたらしい。
「本なら上の鐘塔通りに一軒あるぞ」
三人が同時に振り返る。
「あるんですか?」
モモの反応が早かった。
「ああ。でかい店じゃないが、山の植物とか獣とか、土地の本は結構置いてる。荷運び人も地図を買うからな」
「ありがとうございます!」
「明日行きます」
ルシルもすぐ決める。
「今日じゃないんだな」
男が少し意外そうに笑った。
「今日は山越えてきたので」
「そりゃ休んだ方がいい」
男は納得し、自分の荷車へ戻っていった。
モモは坂の上を見た。
おそらく鐘塔通りはあちらだろう。
「明日ですね」
「明日」
ルシルも頷く。
店があると分かれば、それで十分だった。
◇
帰り道では、来た時と反対側の店を眺めながら歩いた。
乾燥した草を束ねていた店は、やはり薬草と香草を扱う店だった。軒先には小さな木札があり、料理用、湯用、虫除け用など用途ごとに分けられている。
モモは足を止めたが、今日は中へ入らなかった。
「これも明日」
「明日が忙しくなってきたな」
「全部行かなくてもいいです」
「モモ嬢からその言葉が出るとは」
シモンが少し驚く。
「だって、二泊だけって決めたわけじゃないでしょう?」
モモは当然のように言った。
「足りなかったら延ばせます」
ルシルは一瞬、彼女の言葉を聞いてから笑った。
「そうだな」
グレイでは延長を忘れかけた。
今度は最初から、必要なら延ばせると確認している。
町を一日で全部見る必要もない。
見たいものが残れば、もう一日いればいい。
そんな単純な選択が、今では当たり前になりつつあった。
宿へ戻る前、三人は小さな食料店にも寄った。
何かを大量に買うためではない。
明日以降の品揃えを見るだけのつもりだった。
ところが店先に山青菜が束で置かれているのを見つけ、ルシルが足を止める。
「これだ」
「麦焼きに乗ってましたね」
モモも葉を確認する。
細長い葉の縁に小さな切れ込みがあり、畑で遠目に見た時より色が濃い。
店番の老女が、二人の視線に気づいた。
「山青菜が珍しいのかい?」
「今日セイラに着いたばかりで」
「なら食べたかい?」
「麦焼きで」
「ああ、それなら一番分かりやすいね。煮ても旨いよ」
「鍋にも?」
「もちろん」
三人の視線が同時に合った。
馬車には『街道沿いの鍋料理』がある。
グレイで買ったばかりの本だ。
「明日、買おうか」
ルシルが言う。
「今日は?」
「夕飯は宿で食べたい」
「賛成です」
モモも頷く。
老女はそんな三人を面白そうに眺めていた。
「明日まだ欲しかったらおいで。朝の方が葉はいいよ」
「じゃあ朝来ます」
「買うことになってるじゃないですか」
シモンが横から言った。
「欲しかったら、だよ」
「今の返事は買う人の返事でした」
「シモンも鍋食べるだろ?」
「買うなら食べます」
「ほら」
「何が『ほら』なんですか」
店を出たあとも、三人の会話はしばらく続いた。
◇
水車の枝へ戻る頃には、午後の日差しが少し傾き始めていた。
まず向かったのは部屋ではなく厩だった。
山越えの後だからといって何度も脚を触り続けるつもりはない。厩番へ様子を聞き、二頭の立ち方と食欲を離れたところから見る。
「二頭とも問題ないですよ」
青年が言った。
「栗毛の方は飼葉をよく食べてます。濃灰色の方も最初は周りを気にしてましたけど、隣に兄貴分がいるから落ち着いたみたいで」
「右前は?」
「変な立ち方はしてません。熱っぽくも見えないですね。今は休ませとけばいいと思います」
「ありがとうございます」
シモンが頭を下げる。
ベルクはこちらに気づくと顔を上げた。
シモンが馬房の前へ寄ると、ゆっくり鼻先を伸ばしてくる。
「今日はもう歩かなくていいぞ」
首筋を軽く撫でる。
トルクも隣から顔を出した。
「はいはい、トルクも」
ルシルが近づくと、トルクは当然のように鼻先を彼の手元へ向けた。
「だから何も――」
「あ、人参ならもうあげて大丈夫ですよ」
厩番が奥から声を掛けた。
トルクの耳が動いた。
三人の視線が集まる。
「絶対分かってますよ」
モモが真顔で言う。
「偶然でしょう」
シモンはそう答えたが、さすがに少し笑っていた。
小さめの人参を一本だけ分けてもらう。
モモが二つへ折ろうとして、一度左右を見比べた。
「こっちの方が大きい」
「また始まった」
ルシルが笑う。
「だって同じくらいにしたいです」
「馬はそこまで気にしないと思いますよ」
「私が気にします」
結局、モモは少し太い方をさらに端だけ折り、ほぼ同じくらいの大きさにした。
トルクへ一つ。
ベルクへ一つ。
二頭とも迷わず食べた。
トルクは食べ終えたあと、もうないのかという顔でモモの手を嗅ぐ。
「今日は終わりです」
モモが両手を見せる。
トルクはしばらく確認していたが、本当にないと分かると飼葉へ戻った。
「切り替え早いな」
「そこは偉いですね」
「食べ物に関してだけは非常に合理的です」
「シモン君、その言い方だとトルクが食いしん坊みたいです」
「実際そうでは?」
三人は笑いながら厩を出た。
二頭が落ち着いている。
馬車も宿も決まった。
山道も、今日の分は終わった。
そこでようやくルシルは、身体の奥に残っていた力が抜けていくのを感じた。
「疲れた?」
モモが気づく。
「ちょっとだけ」
「朝から山道でしたからね」
「でも嫌な疲れじゃない」
ルシルは宿の建物を見上げた。
窓の向こうに夕方の光が当たり、木枠が橙色に染まっている。
「ちゃんと着いたなって感じ」
「はい」
モモも隣に並ぶ。
シモンは二人の後ろで一度厩を振り返り、それから宿へ向き直った。
「夕食まで少し休みましょう。町を見るのは明日でも逃げません」
「麦焼きは食べたし」
「鳥の本屋も見つけました」
「山青菜も」
「明日の予定がすでに多いですね」
「全部やらなくてもいいんだろ?」
ルシルが振り返る。
シモンは一瞬だけ目を細めた。
「ええ。その通りです」
◇
夕食の時間。
水車の枝の食堂には、宿泊客だけでなく近所の人らしい客も何組か入っていた。
窓の外では日が山の向こうへ沈み始め、水路を流れる水が夕焼けを細く反射している。昼間から聞こえていた水車の音もまだ続いていたが、食堂の話し声や食器の音に混ざると、不思議と落ち着く背景音になっていた。
三人の前へ運ばれてきたのは、大きな木皿だった。
山青菜と豆を煮込んだもの。
焼いた鶏肉。
少し固めの丸パン。
それに、淡い黄色の根菜を潰して香草を混ぜた料理。
「山青菜、また出た」
ルシルが嬉しそうに言う。
「今度は煮込みです」
モモは麦焼きとの違いを確かめるように一口食べた。
「……こっちの方が苦味が少ないです」
「煮たからかな」
「豆の味もありますね」
シモンも口にする。
「昼の麦焼きより葉が柔らかいですね。宿で使っているのは若い葉なのかもしれません」
「明日買う時に聞いてみよう」
「本当に買う気ですね」
「鍋で食べたい」
「私もです」
二対一。
シモンはもう止めなかった。
「保存できる量にしてください」
「はーい」
「分かってる」
返事が重なる。
食事の途中、隣の卓から聞こえてくる会話に、ルシルは何度か耳を傾けた。
山仕事の話。
明日の天気。
どこの畑で山青菜がよく採れたか。
水車の修理。
どれも王国の大きな出来事とは関係がない。
それでも、この町では大切な話なのだろう。
グレイでもそうだった。
ミレ村でもそうだった。
旅を始める前のルシルは、地図に載る町を名前と位置で覚えることが多かった。
今は違う。
グレイと聞けば石樽亭や川灯り亭、バルガンやデリアの顔が浮かぶ。
ラナと聞けば輪走りをした子どもたちや、町へ入った時の大きな交差点を思い出す。
そしてセイラは、今日だけでもう水路と急な屋根、山青菜と麦焼きの匂いを持ち始めている。
「ルシル様?」
モモの声で顔を上げる。
「何?」
「パン持ったまま止まってました」
「ああ、ごめん」
「何か考えてたんですか?」
「町って、着く前と着いた後で全然違うなって」
モモは少し考えたあと、窓の外へ目を向けた。
「遠くから見た時は、屋根がいっぱいある場所でした」
「うん」
「今は麦焼きの町です」
「そこ?」
「水路もあります」
「後から足した」
「ちゃんと最初から思ってました」
二人が笑う。
シモンは木杯の水を飲みながら、そのやり取りを聞いていた。
「明日になれば、また増えるでしょう」
静かに言う。
「本屋とか?」
「本屋だけではなく」
「上の方の道も見たいです」
「市場も」
「薬草の店も」
「水路の上流も」
「一日で全部回ろうとしないでください」
シモンがすぐ付け加える。
ルシルとモモは顔を見合わせた。
「じゃあ明日の朝決める?」
「そうしましょう」
「天気見て、トルクたち見て、それから」
今日と同じだ。
町へ着いたからといって、明日の予定を今夜すべて決める必要はない。
食事を終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
山の町は夜になるのが早く感じられる。
高い斜面の向こうへ日が隠れるせいだろう。
店先には小さな灯りが点き、水路の音だけが昼より少し大きく聞こえる。
三人は食堂を出る前に、受付の女性へ明日の朝食時間と町の市場について尋ねた。
市場は朝から昼過ぎまで。
鐘塔通りの本屋は朝の遅い時間から。
街道管理所は日の出後から開いている。
聞けば聞くほど行きたい場所は増えた。
それでも、ルシルは焦らなかった。
二階へ上がる途中、廊下の窓から町の灯りが見えた。
坂に沿って高さの違う灯りが並び、その間を暗い水路が細く走っている。
朝は山の中で目を覚ました。
冷たい空気の中でトルクとベルクの脚を見て、朝食を食べ、天幕を畳んだ。
濡れた道を越えた。
工事中の狭い場所を通った。
遠くに初めてセイラを見つけた。
それでも昼を抜かず、馬車を急がせず、二頭の歩調でここまで来た。
その一日の終わりに、今は山の町の灯りを見ている。
「ルシル様」
先に自分の部屋へ入ろうとしていたシモンが呼んだ。
「明日のことは、明日の朝で構いませんからね」
「分かってる」
ルシルは窓から離れる。
「今日はもう寝るよ」
「それがいいです」
「おやすみなさい、ルシル様」
モモも自分の扉の前で手を振る。
「おやすみ」
三人はそれぞれの部屋へ入った。
ルシルは窓を少しだけ開けたまま、寝台へ腰を下ろす。
遠くで水車が回っている。
こつ。
こつ。
一定ではない、ゆっくりした音。
その向こうから、誰かが家の戸を閉める音が聞こえた。
セイラへ着いた。
けれど、今日の旅で一番大事だったのは、町へ早く着いたことではなかった気がする。
朝に空を見たこと。
二頭の脚を確かめたこと。
水の流れる道で一度止まったこと。
狭い工事区間で周りの声を聞いたこと。
町が見えても昼食を取ったこと。
その全部を重ねた先に、セイラがあった。
ルシルは寝台へ横になる。
明日は、まだ知らない山の町を歩く。
本屋へ行くかもしれない。
市場へ行くかもしれない。
山青菜を買うかもしれない。
それ以外の何かを見つけるかもしれない。
決めるのは、朝になってからでいい。
窓の外で水車がもう一度、こつ、と鳴った。
山を越えた最初の夜は、そんな穏やかな音とともに更けていった。




