第42話 山の町では、朝の市場から知らないものが増えていきます
セイラで迎えた最初の朝は、水の音から始まった。
目を覚ましたルシルが最初に聞いたのは、宿の裏を流れる水路のせせらぎだった。昨夜は町の生活音に混じっていた水音が、まだ人通りの少ない朝にはずっと近く感じられ、ときおり水車の木部が触れ合う、こつ、という乾いた音も重なっている。
窓から差し込む光はすでに明るかったが、山の朝らしく空気には冷たさが残っていた。ルシルが寝台から起き上がって窓を開けると、冷えた風と一緒に、薪を燃やし始めたばかりらしい煙の匂いが部屋へ入ってくる。
「晴れてる」
昨日の山道で見た雲はほとんど残っていない。
斜面に沿って並ぶ家々の屋根は朝日を受け、まだところどころ夜露を光らせていた。細い煙突から上がる煙は風に大きく流されず、今日は少なくとも朝のうちは穏やかな天気になりそうだった。
ルシルは身支度を済ませると、廊下へ出た。
まだ二人は出ていない。
だからといって扉を叩いて起こす必要もない。昨日は三人とも山道を越えてきたのだから、少しくらい長く眠っても問題はなかった。
先に下へ行こう。
そう思って階段へ向かったところで、背後から扉の開く音がした。
「おはようございます、ルシル様」
振り返ると、シモンが部屋から出てくるところだった。
「おはよう。起きてた?」
「少し前に。外の水車の音で目が覚めました」
「俺も水の音聞こえた」
二人で階段へ向かう。
「天気、よさそうだな」
「ええ。雲も少ないです。ただ、山ですから午後まで同じとは限りません」
「今日は馬車で遠くへ行く予定ないし、降ったら戻ればいいか」
「そのくらいでいいでしょう」
階段を半分ほど下りたところで、上から軽い足音が聞こえた。
「待ってください」
モモだった。
白い外套を羽織りながら降りてくる。桃金色の長い髪はすでに整えられていたが、最後の留め具だけ歩きながら直していた。
「おはよう」
「おはようございます。二人とも早いです」
「モモも十分早いよ」
「市場へ行くんでしょう?」
朝の挨拶の直後にそれが出た。
ルシルは笑う。
「やっぱり覚えてた」
「山青菜です」
「そこなんだ」
「本屋は朝の遅い時間からでしたよね。市場は朝からです」
「ちゃんと順番考えてる……」
「何ですか、その反応」
「いや、偉いなって」
「子ども扱いしないでください」
モモが少し頬を膨らませる。
その横でシモンが眼鏡の位置を直した。
「市場へ行くこと自体は構いませんが、その前に朝食とトルクたちです」
「もちろんです」
モモは即答した。
「山青菜は逃げませんから」
「昨日、全部回らなくてもいいって言ってたもんな」
「はい。でも朝の方が葉がいいって言われました」
「ちゃんと買う気じゃん」
「欲しかったら来てって言われたので」
「それ、俺がシモンに言ったやつ」
「二人とも都合のいいところだけ覚えていますね」
三人の声が重なりながら、一階へ下りていった。
◇
朝食の前に厩へ寄った。
昨日、山越えを終えたトルクとベルクは、二頭とも落ち着いていた。
トルクは三人の姿を見るとすぐ顔を上げたが、ベルクは一度だけこちらを見たあと、隣の馬房に兄がいることを確かめるように耳を動かした。
「おはよう」
ルシルがトルクへ近づく。
昨日の人参を覚えているのか、栗毛の鼻先がすぐ手元へ伸びてきた。
「今日はない」
鼻が外套の袖へ移る。
「本当にない」
「朝から元気ですね」
モモが笑いながら反対側へ回った。
厩番の青年もすでに働いていた。二頭の馬房を整えたらしく、敷き藁の一部が新しくなっている。
「おはようございます」
「おはよう。二頭とも夜は静かでしたよ」
青年はベルクの方へ目を向けた。
「濃灰色の方も、右前を気にする感じはなかったです。朝も普通に立ってました」
「ありがとうございます」
シモンが礼を言う。
念のため、ベルクを馬房から少しだけ出して歩かせてもらう。
昨日までのように長く確認する必要はない。
真っ直ぐ数歩。
緩く向きを変える。
それだけで、右前肢を庇う様子がないことは分かった。
「問題なさそうですね」
シモンがベルクの肩へ手を置く。
ベルクは鼻先を彼の胸元へ近づけた。
「今日は休ませる?」
ルシルが尋ねる。
「町中で馬車を使う必要がなければ、その方がいいでしょう。山道を二日歩いていますから」
「じゃあ歩いて町見るか」
「私もそれがいいです」
モモはトルクの首筋を撫でながら頷いた。
セイラは坂が多い。
昨日、入口から宿まで来ただけでも、知らないまま馬車を入れない方がいい道があることは分かった。
「明日以降、必要なら馬車を使う?」
「道と二頭の状態を見てからですね」
「了解」
トルクとベルクには休んでもらう。
それが決まると、三人は朝食のため宿へ戻った。
◇
食堂には、昨夜とは違う匂いが満ちていた。
焼いたパン。
温かい乳。
香草。
それから、少し甘い香り。
三人が席へ着くと、木皿に丸いパンと卵料理、それに山青菜を細かく刻んで混ぜた柔らかな乳酪が運ばれてきた。
「また山青菜」
ルシルはもう驚かない。
「本当にこの町でよく食べるんですね」
モモはパンへ乳酪を塗る。
昨夜の煮込みとも、昨日の麦焼きとも違う。生に近い山青菜は香りが強く、乳酪の柔らかな酸味と混ざると苦味がほとんど気にならなかった。
「これも美味しいです」
「買う量増えそう?」
「それとこれは別です」
「本当に?」
「……少しだけ増やしてもいいかもしれません」
「増えるんじゃん」
モモは反論する代わりにパンを食べた。
シモンは卵料理を口へ運びながら、昨日受付で聞いた町の情報を簡単に整理している。
「市場は中央坂の東側。鐘塔通りはその上です。街道管理所は町の入口寄りなので、順番としては市場を見てから鐘塔通りへ上がり、帰りに管理所へ寄る形でもいいでしょう」
「薬草の店は?」
「昨日見た店なら市場から鐘塔通りへ向かう途中です」
「水路の上流は?」
モモが加える。
「今日は候補から外しましょう」
「まだ何も言ってないのに」
「昨日から気にしていたでしょう」
「覚えてました?」
「覚えていますよ」
シモンは水を一口飲む。
「鐘塔通りがどの程度高い場所にあるか分かりませんし、市場も初めてです。最初から予定を増やしすぎる必要はありません」
「じゃあ、市場。本屋。薬草のお店は前を通った時に入りたかったら入る。管理所」
ルシルが指を折る。
「そのくらい?」
「十分だと思います」
「お昼も食べたいです」
モモが当然のように追加した。
「それは予定に入れなくても食べます」
「セイラの料理です」
「それも市場を見れば何か見つかるかもしれませんね」
「よし」
今日の大まかな動きが決まった。
分刻みの予定ではない。
市場で面白いものがあれば長くいてもいい。
本屋へ着くのが遅くなっても構わない。
その程度の予定だった。
朝食を食べ終え、部屋へ戻って最低限の荷物を整える。
共有資金はシモンが持つ。
ルシルとモモも小さな買い物に使える分を持ち、三人は宿を出た。
◇
朝のセイラは、昨日の午後より人が多かった。
宿の前を流れる水路では、店の者らしい女性が籠を洗っている。少し上の道では荷車が止まり、木箱を何個も下ろしていた。
中央坂へ近づくにつれ、声が増えていく。
「市場、あっちですね」
モモが言うまでもなく分かった。
建物の間から、人の話し声がまとまって聞こえる。
さらに香りも流れてきた。
野菜の青い匂い。
乾いた香草。
焼いた麦。
燻製。
昨日の麦焼きとは違う、何か甘いものを煮詰めたような香りもある。
「市場だけで昼までいそう」
ルシルが言った。
「まだ入口も見えてませんよ」
「匂いで分かる」
「ルシル様の判断基準、食べ物に寄りすぎてません?」
「町の市場だぞ。食べ物大事だろ」
「否定はしません」
シモンも少し笑う。
石造りの建物を一つ曲がると、広場が現れた。
山の斜面に作られた町だけあって、完全な平地ではない。広場そのものが緩く段になっており、低い石壁で三つほどの区画に分かれている。
上段には乾物や薬草。
中央には野菜や果物。
下段にはパンや乳製品、燻製肉などの加工品。
固定の店だけでなく、布を張った露店も多かった。
「広い」
ルシルは足を止めた。
グレイの市場とは違う。
並ぶ品物だけではない。
籠も違う。
平地の町でよく見た大きな木箱より、背負いやすい縦長の籠が多い。坂道で荷物を運ぶためなのだろう。
「どこから見る?」
モモが左右を見る。
「山青菜」
「迷わないな」
「朝の方がいいって言われましたから」
「じゃあ野菜から」
三人は中央の区画へ向かった。
昨日寄った食料店の老女もいた。
店ではなく、市場の一角に野菜を並べている。
「あら、本当に来たのかい」
三人を見るなり笑った。
「来ました」
ルシルが答える。
「山青菜ください」
モモはさらに早かった。
「どれくらい?」
聞かれて、三人が止まる。
「どれくらい保存できます?」
シモンが先に確認した。
「生なら涼しいところで二日か三日だね。濡らしすぎると傷みやすい。長く持たせたいなら軽く干したのもあるよ」
「次の出発日はまだ決めていません」
「なら生を一束と、気に入ったなら干したのを少しでいいんじゃないかい」
「一束ってこれ?」
ルシルが指差す。
両手で抱えるほどではない。
三人で二度ほど料理すれば使い切れそうな量だった。
「これなら多すぎませんね」
シモンも頷く。
「じゃあ一束」
「干したのは?」
モモが見る。
老女は店の奥から、色の濃くなった細い葉の束を出した。
「煮込みに入れるならこっちもいい。生より苦味が出るけど、肉と煮ると旨いよ」
「料理の本に合わせられるかな」
ルシルが呟く。
「本の料理をそのまま作る必要はありませんよ」
「じゃあ買う?」
「少量なら」
結局、生の山青菜一束と、乾燥させたものを小袋一つ。
支払いを済ませると、老女が紙に似た乾いた葉で包んでくれた。
「生の方は今日か明日には食べな。干した方はしばらく持つよ」
「ありがとうございます」
「山青菜以外も見ていくかい?」
そう言われて初めて、三人は店先に並んでいる他の野菜へ目を向けた。
淡い黄色の根菜。
拳ほどの丸い紫色の野菜。
細長く曲がった豆。
「昨日の夕飯にあった黄色いの、これ?」
ルシルが根菜を見る。
「たぶん山芋根だね。潰して食べただろ?」
「はい」
「煮ても焼いても食べられるよ」
モモが興味を示した。
「これも保存できます?」
「山青菜よりはずっと持つ」
シモンが嫌な予感を覚えたのか、二人を見る。
「馬車には根菜がまだありますよ」
「見るだけ」
ルシルが答える。
「今日は山青菜を買いました」
モモも頷く。
老女が二人を見て笑った。
「しっかりした財布番がいるんだね」
「財布番というか……」
シモンは一度言葉を止めた。
「まあ、似たようなものです」
「否定しないんだ」
「共有資金を管理しているのは事実ですから」
「でもシモンも本買うじゃん」
「まだ買っていません」
「昨日料理本買ってよかったって言ってた」
「それはグレイで買った本の話です」
「今日も本屋行くよ?」
「行くことと買うことは別です」
老女は完全に楽しんでいた。
「仲いいねえ」
三人が同時に少し黙る。
最初に笑ったのはモモだった。
「はい。仲良しです」
あまりに自然な返事だった。
ルシルも笑う。
「うん」
シモンだけがわずかに視線を外したが、否定はしなかった。
「次のお客さんの邪魔になりますから、行きましょう」
「照れた?」
「行きますよ」
「シモン君、耳が――」
「モモ嬢」
「はい」
それ以上は言わなかった。
けれどモモの顔には笑みが残っていた。
◇
市場を歩いていると、セイラで暮らす人々が山青菜以外に何を食べているのかも少しずつ見えてきた。
乳酪を売る店では、硬いものと柔らかいものが分けられている。
燻製肉の店には、旅用として薄く切って乾かしたものもあった。
上段へ近づくと香草や乾物が増え、匂いだけでも店ごとの差が分かる。
「これ、昨日宿に吊ってあったのと似てる」
ルシルが立ち止まったのは、赤茶色の小さな実を束ねた店だった。
「香辛料でしょうか」
モモが覗き込む。
店主の男性が一粒を指で示した。
「山椒実だよ。噛むと辛いから、そのまま食べない方がいい」
「どんな辛さです?」
「舌がぴりっとする。肉の臭み消しに使うことが多いな」
「少しだけ試せますか?」
シモンが尋ねた。
店主は乾燥した実をほんの欠片だけ砕き、三人へ順番に匂いを嗅がせた。
「……強い」
ルシルは思わず鼻を離した。
「でも、いい匂いです」
モモはもう一度だけ慎重に嗅ぐ。
木のような香りの奥に、鼻へ抜ける鋭さがある。
「料理本に香辛料を使う鍋がありましたね」
シモンが言った。
「買う?」
「すぐ使うなら少量でしょう」
「買うんだ」
「まだ決めていません」
そう言いながらシモンは値段を聞いた。
結局、小さな袋を一つ買った。
「シモン君が買いました」
店を離れた瞬間、モモが嬉しそうに言う。
「共有の食料です」
「でも選んだのはシモン」
ルシルも加わる。
「僕だって必要なものは買いますよ」
「必要だった?」
「……試してみたいと思ったのは認めます」
少し間を置いてからの答えだった。
「じゃあ今度シモンが料理する?」
「なぜそうなるんです?」
「選んだ人」
「三人で作ればいいでしょう」
「それでいこう」
新しく買ったのは山青菜と山椒実。
それだけで、次の野営で作る食事が少し変わりそうだった。
市場をさらに歩く。
モモが足を止めたのは、食べ物ではない店だった。
小さな木工品が並んでいる。
水車。
鳥。
山羊。
家。
どれも掌に乗るくらいの大きさで、素朴な彫り方をしていた。
「馬もあります」
モモが見つけた。
ルシルも覗く。
二頭並んだ馬の飾りだった。
「……馬車にもういるよな」
グレイへ来る前、ラナで買った二頭の木製馬。
今も共有棚の前側に取り付けてある。
「いますね」
モモも思い出す。
「これは買わない?」
「はい」
少し眺めて、それだけで離れた。
旅先で見つけたものを全部持っていく必要はない。
ラナで買った二頭があるから、今回は見るだけで十分だった。
代わりにルシルが気になったのは、小さな水車の飾りだった。
「これ、セイラっぽい」
「買います?」
「……いや」
一度手に取ったが、戻す。
「まだ初日だし。もっと欲しいの見つかるかもしれない」
「珍しいですね」
シモンが言う。
「何が?」
「ルシル様が一度手に取ったものを戻すのが」
「俺、そんなに何でも買ってた?」
「旅の最初よりは減りました」
「最初は?」
「財布を任せて正解だったと思っています」
「ひどい」
笑いながら市場を歩く。
気づけば朝の賑わいはさらに増していた。
買い物籠を持った町の人々。
山仕事へ向かう前らしい男たち。
荷物を背負った旅人。
店主たちの声。
子どもを連れた母親。
人の流れを避けながら歩いているだけでも時間が過ぎていく。
それでも三人は急がなかった。
◇
市場を出た頃には、朝の冷たさがかなり薄れていた。
日向を歩くと外套が少し暑いくらいだ。
「本屋、開いてる時間ですね」
モモが鐘塔通りへ続く坂を見る。
「行くか」
「荷物をどうします?」
シモンが買った山青菜を見る。
生の葉を持ったまま坂を長く歩き回るのはあまりよくない。
「一回宿戻る?」
「その方がいいでしょう」
「近いしな」
市場から宿まではそれほど遠くない。
三人は一度、水車の枝へ戻ることにした。
厩へ寄る必要まではない。
受付の女性に声を掛け、生の山青菜を涼しい場所へ置かせてもらえるか尋ねる。
「いいよ。夕方までなら厨房の野菜置き場へ入れといてあげる」
「助かります」
「町見てるのかい?」
「市場に行ってきました」
モモが答える。
「山青菜買った?」
「買いました」
「やっぱりね」
女性は笑った。
「旅人は一度食べると買ってく人が多いよ。干したのなら旅にも向いてるし」
「今度鍋にします」
「山椒実も買いました」
ルシルが袋を見せる。
「ああ、それなら肉と煮るといい。入れすぎると舌が大変なことになるから気をつけな」
「どれくらい?」
「最初は三人分で二、三粒潰すくらいから試しな。足りなきゃ後で足せる」
シモンがその量を覚える。
「ありがとうございます」
「鐘塔通りへ行くなら、坂の途中の右側にある石段は使わない方がいいよ」
「何かあるんですか?」
「近道だけど急なんだ。市場帰りにあれ上って、途中で後悔する旅人が多い」
ルシルは少し興味を持って窓から坂を見た。
「どれくらい急?」
「行こうとしないでください」
シモンが即座に止める。
「見るだけ」
「その言葉を信用しにくくなってきました」
「本当に見るだけだって」
受付の女性が笑う。
「若いなら上れないほどじゃないけど、普通の坂の方が町を見られていいよ」
「じゃあ普通の方」
ルシルは素直に決めた。
◇
鐘塔通りへ向かう坂は、思っていたより長かった。
急勾配ではない。
その代わり、山の斜面を横切るように何度も曲がっている。
登るにつれて、下の町並みが少しずつ見えるようになった。
屋根。
水路。
市場の布屋根。
さらに遠くには、昨日越えてきた山の一部も見える。
「昨日、あっちから来たんですよね」
モモが振り返る。
「たぶん。どの道かまでは分からないけど」
「こうして見ると高いですね」
昨日は馬車で少しずつ上り、少しずつ下ってきた。
町へ着いてから改めて眺めると、二日かけて進んだ距離が一つの景色の中に収まっているようで不思議だった。
途中、昨日見た薬草店の前を通る。
軒下には今日も草の束が並んでいた。
モモの足が少し遅くなる。
ルシルも気づく。
「入る?」
「……本屋の後でもいいです」
「いいの?」
「はい。今入ったら長くなりそうなので」
自分で分かっているらしい。
シモンは何も言わず、ただ小さく頷いた。
「帰りにまだ開いてたら寄ろう」
「そうします」
さらに坂を上る。
やがて、建物の隙間から石造りの塔が見えてきた。
それほど高い塔ではない。
四角い塔の上部に大きな鐘が吊るされている。
「鐘塔」
「だから鐘塔通りなんですね」
「そのままだな」
鐘塔の周辺は少し開けていた。
小さな広場になっており、中央には水飲み場がある。
山から引いた水が石の口から流れ続け、下の水路へつながっていた。
モモが水を眺める。
「この水も上から来てるんですね」
「上流はさらに上でしょうね」
シモンが答える。
「今日は行きません」
「自分から言った」
「分かってますから」
鐘塔の向かい側。
木製の看板に、本を開いた絵が描かれていた。
「本屋」
ルシルが見つける。
店の名前は『山灯書房』。
大きくはない。
けれど窓越しに見える棚には、かなりの数の本が並んでいる。
モモの歩く速度が少しだけ上がった。
「走らない」
「走ってません」
「速くなった」
「気のせいです」
扉を開ける。
小さな鈴が鳴った。
紙と革、それに乾いた木の匂いがした。
◇
「いらっしゃいませ」
奥の机から声がする。
店主は五十代くらいの細身の男性だった。白髪の混じった髪を後ろで束ね、片眼鏡を掛けている。
「旅の方ですか?」
「はい」
シモンが答える。
「山の鳥が載ってる本を探してます」
モモは挨拶の次に目的を言った。
「鳥ですか」
店主は嬉しそうに立ち上がる。
「どの辺りで見ました?」
「グレイからセイラへ来る山道です。灰色っぽい身体で、喉が薄い橙色でした。街道羽雀より少し大きくて、尾は短め。嘴は細かったです」
「鳴き声は?」
「高い声で二回鳴きました」
店主の表情が少し変わった。
「よく見ていますね」
「本を持ってたんですけど、山の鳥があまり載ってなくて」
「何をお持ちで?」
「『西部河川と湿地の鳥』です」
「ああ。あれは良い本ですが、山地は弱いですね」
シモンがわずかに笑う。
「やはりそうですか」
「ええ。川沿いを旅するなら役に立ちますが、この辺りなら別のものがいいでしょう」
店主は棚へ向かう。
三人もついていく。
取り出されたのは、深緑色の表紙をした本だった。
『西部山地の鳥と小動物』
「鳥だけじゃない」
ルシルが題名を見る。
「小動物も?」
モモの目がさらに輝いた。
「足跡も載ってますか?」
「簡単なものなら」
「これです」
「まだ中を見ていませんよ」
シモンが止める。
「そうでした」
店主は笑いながら本を開いた。
鳥の絵。
羽の色。
大きさ。
生息する場所。
鳴き声の特徴。
さらに後半には、小動物の姿と足跡の簡単な図もある。
「昨日の足跡、これで分かるかな」
「記憶だけですから断定は難しいでしょう」
「でも似てるの探せる」
「それはできますね」
モモはすでに鳥のページをめくっていた。
「あ」
指が止まる。
灰色の身体。
喉元に橙色。
短い尾。
「これ……似てます」
項目には『橙喉山鳥』と書かれていた。
セイラ周辺を含む西部山地に生息。
森林と開けた斜面の境を好む。
高い二声から三声の短い鳴き方をすることが多い。
「これじゃない?」
ルシルも覗く。
「かなり近いです」
モモは昨日の姿を思い出そうと目を細める。
「でも、羽の横に白い線があったかは見てません」
本の絵には、翼の端に細い白線がある。
「なら『たぶん』ですね」
シモンが言う。
「花谷の時と同じだ」
「はい。橙喉山鳥かもしれません」
モモはそれで満足そうだった。
無理に確定しない。
次に見た時、白い線まで見られれば少し確かになる。
「この本、買います」
「早い」
「足跡もあります」
「値段見た?」
モモが裏を確認する。
高価な専門書というほどではないが、安い本でもない。
シモンも中身を確認する。
「旅の経路を考えると使う機会はありそうですね」
「買っていい?」
「共有の本にするなら」
「します」
「じゃあ決まり」
ルシルも賛成する。
また馬車の共有棚に一冊増えることになった。
「他には?」
店主が尋ねる。
その一言で、三人の視線が店内へ向いた。
植物。
地図。
山の料理。
各地の風習。
小さな棚には昔話の本まである。
「見るだけ」
ルシルが先に言った。
「誰に言っているんです?」
「シモン」
「まだ何も言っていませんよ」
「言われる前に」
「では、見るだけにしてください」
それからしばらく、三人は別々の棚を見ることになった。
モモは動物と植物。
ルシルは旅や各地の暮らし。
シモンは地図と街道資料。
同じ店にいるのに、興味の向く先は少しずつ違う。
ルシルが手に取ったのは『西の町と村の暮らし』という本だった。
有名な観光地を紹介する本ではない。
各地で使われる道具や食べ物、家の作りを簡単な絵と一緒にまとめたものらしい。
ページをめくると、水車の町についての項目があった。
セイラとは書かれていない。
けれど似たような山間の町で、水路を生活や製粉に利用する例が紹介されている。
「面白い」
声が出た。
「買います?」
いつの間にかモモが隣にいた。
「まだ決めてない」
「さっき私に早いって言ったので、ちゃんと考えてください」
「分かってる」
「何の本です?」
二人で中を見る。
少し離れた場所では、シモンが地図を二枚並べていた。
「シモン、何見てる?」
「セイラから南西へ下る街道の簡易図です。手持ちの地図より細かいですね」
「買う?」
「……検討しています」
「シモン君、今日二冊目ですか?」
「一冊目は共有の鳥と小動物の本でしょう」
「これも共有?」
「買うなら、ですが」
結局、三人は店内でかなり長い時間を過ごした。
そして店を出た時。
モモの腕には『西部山地の鳥と小動物』。
シモンはセイラから南西方面の詳細な街道図。
ルシルは――何も持っていなかった。
「買わなかった」
店を出た直後、自分で少し驚く。
「珍しいです」
モモも言う。
「面白かったんだけど、馬車に似た本が増えすぎてもなって」
「欲しくなくなったんですか?」
「欲しいは欲しい。でも今じゃなくてもいいかな」
またどこかで似た本に出会うかもしれない。
その時もっと欲しいと思えば買えばいい。
「成長しましたね」
シモンが言う。
「その言い方やめて」
「では、良い判断でした」
「それもなんか先生みたい」
「難しいですね」
モモが笑う。
「私は欲しい本を買えたので満足です」
「あとで足跡見る?」
「見ます。でも覚えてる範囲だけです」
「それでいい」
鐘塔の鐘が鳴った。
低く、太い音。
三人とも思わず見上げる。
一度。
間を置いて、もう一度。
広場の人々は驚かない。
時刻を知らせる鐘なのだろう。
「……腹減った」
鐘が鳴り終わった直後、ルシルが言った。
「鐘を聞いて最初の感想がそれですか?」
「朝から結構歩いたし」
「私も少しお腹空きました」
「モモまで」
シモンは空を見た。
太陽はすでに高い。
「昼にしましょうか」
「何食べる?」
「今から探します」
「市場に戻る?」
「戻らなくても、この辺りに店がありますよ」
鐘塔広場の周囲には、小さな食堂や茶店も並んでいる。
その一軒から、香ばしい匂いが流れてきた。
「肉?」
ルシルが反応する。
「たぶん」
モモも同じ方向を見る。
シモンは二人の顔を見て、諦めたように息を吐いた。
「まず店先の献立を見てから決めますよ」
「はーい」
「分かりました」
三人は匂いのする方へ歩き出した。
◇
昼食に選んだのは、鐘塔広場の端にある小さな食堂だった。
店の前では鉄板のような厚い石板を熱し、その上で薄切りの肉と山青菜を焼いている。
注文したのは、それを麦の平たいパンに挟んだ料理だった。
「また山青菜」
ルシルは受け取って笑う。
「今日は山青菜の日ですね」
モモも楽しそうだ。
「セイラにいる間は何度か出るでしょう」
シモンはもう受け入れている。
焼いた肉の脂と山青菜の苦味。
そこへ少し酸味のある白いソースが加わっている。
「これ好き」
ルシルは二口目をすぐ食べた。
「昨日の麦焼きより食事っぽいです」
「肉が入ってるから?」
「たぶん」
広場の木椅子に座り、三人で昼食を取る。
目の前を町の人々が行き交う。
鐘塔の水飲み場では、背負い籠を持った男性が水を汲んでいる。反対側では老夫婦がゆっくり坂を上り、途中で一度休んでいた。
「午後どうする?」
ルシルが食べながら尋ねる。
「薬草のお店」
モモが答える。
「それから街道管理所ですね」
シモンが続ける。
「ちょうどいいくらいか」
「ええ。水路の上流はまた別の日です」
「分かってます」
モモは今度こそ素直だった。
「宿の延長、どうする?」
ルシルが尋ねる。
現在は二泊。
つまり明日もう一日泊まり、その次の日が一応の出発予定になる。
「今日の夕方までなら確実に延長できるって言ってたよな」
「そうでしたね」
シモンが考える。
「明日一日あれば町を見る時間はあります。街道情報にも今のところ大きな問題はなさそうです」
「でも水路の上流」
モモが小さく言う。
「行きたい?」
「少し」
「俺も行ってみたい」
「ルシル様まで」
「だって町の水がどこから来てるのか気になる」
シモンはすぐ答えず、残った昼食を食べる。
延長する必要があるほど重要な目的ではない。
けれど、急いで出発する理由もない。
「今日決める必要はありません」
シモンはそう答えた。
「宿へ戻る頃に、明日見たい場所がどれくらい残っているか考えましょう」
「それでいこう」
「はい」
昼食を終える。
三人は鐘塔広場を離れ、来た坂を下り始めた。
◇
薬草店の中は、外から見る以上に香りが強かった。
扉を開けた瞬間、乾いた葉、木の皮、花、少し苦い根の匂いが一度に押し寄せてくる。
「すごい」
モモは入ってすぐ立ち止まった。
天井から草束。
壁にも草束。
棚には瓶。
籠には乾燥した根や実。
料理用と薬用は場所が分けられ、木札に用途が書かれている。
店番は小柄な老爺だった。
「いらっしゃい。何を探してる?」
「まだ決めてません」
モモが正直に答える。
「昨日町へ来たばかりで、外から見て気になって」
「なら見るだけでもいいよ。触る時は声掛けてな」
「ありがとうございます」
三人は店内を見る。
モモは最初、薬草の方へ行きかけた。
元聖女として薬草の知識も多少あるのだろう。
けれどすぐ料理用の棚にも興味を移す。
「これ、宿の朝食に入ってた香りに似てます」
「山香葉だな」
老爺が教える。
「肉にも乳酪にも使う。生でも使うが、旅なら乾燥した方が楽だ」
「山椒実と一緒に使えます?」
「使える。両方入れすぎると香りが喧嘩するけどな」
シモンが真面目に聞いている。
「どちらかを少なめに?」
「そうそう。山椒実を利かせるなら香葉はほんの少しでいい」
「……買う?」
ルシルがシモンを見る。
「なぜ僕に聞くんです?」
「料理担当になりそうだから」
「三人で作ると言ったでしょう」
「じゃあ三人で決める?」
結局、山香葉は買わなかった。
山椒実を買ったばかりなので、まずそちらを試してからでいいという結論になった。
モモも納得する。
「次に来た時でもいいです」
「セイラに?」
「セイラでも、別の町でも」
旅を続ければ、似た香草にまた出会うかもしれない。
店を出る前、モモが最後に見たのは小さな布袋だった。
「これは?」
「虫除けだよ。香りの強い葉を混ぜてある。馬房や天幕の近くに吊るす人もいる」
その説明には三人とも少し興味を持った。
「馬に使って大丈夫ですか?」
シモンが確認する。
「近づけすぎなきゃね。ただ、馬によって嫌がる香りもある。最初から馬房に吊るすんじゃなく、離して匂いを嗅がせた方がいい」
「なるほど」
今すぐ必要ではない。
今回は買わず、そういうものがあると覚えるだけにした。
「ありがとうございました」
「またどうぞ」
外へ出る。
モモは満足そうだった。
「買わなかったけど楽しかったです」
「それもありだな」
「二人ともようやく分かってきましたね」
「シモン、何目線?」
「共有資金管理者です」
「やっぱり財布番じゃん」
「違うと言った覚えはありません」
三人は笑いながら坂を下った。
◇
最後に寄った街道管理所では、セイラから南西へ下る道について改めて確認した。
橋は点検済み。
現在は通行可能。
大型荷車は一台ずつ渡るよう注意が出ているが、ルシルたちの馬車なら通常の指示に従えば問題ない。
ここ数日は大雨の予報もない。
ただし山を下る区間には朝霧が出ることがあり、早朝すぎる出発は視界が悪くなる場合があるという。
「出るなら日の出直後より、少し明るくなってからの方がいいですか?」
シモンが尋ねる。
「急ぎじゃなきゃそうだね」
管理所の男性が地図を指す。
「この辺りまでは山道。そこから先はだいぶ緩くなる。途中に小さい宿場が一つあるから、一日で無理に平地まで下りなくてもいい」
「宿場」
ルシルが地図を見る。
「名前は?」
「ロッカ。小さいよ。宿が二軒と食堂、雑貨屋くらいだ」
「いいな」
「何がです?」
「小さい宿場」
「まだ行ってませんよ」
「だから」
知らない場所の名前がまた一つ増えた。
ロッカ。
いつ行くかはまだ決めない。
セイラを出れば、自然にその方向へ進むことになるだろう。
「ありがとうございます」
三人は礼を言って管理所を出た。
午後の日差しは少し傾き始めている。
朝から歩き続けた足にも、そろそろ疲れが溜まっていた。
「帰ろうか」
ルシルが言う。
「はい」
モモも異論はない。
「宿へ戻ったら、鳥の本見ます」
「足跡?」
「それもです」
「休んでからにしてくださいね」
「寝ながら見ます」
「本を顔に落としますよ」
「それは痛そうです」
「じゃあ座って見よう」
そんな話をしながら、水車の枝へ戻った。
◇
宿へ着くと、三人はまず厩へ顔を出した。
トルクもベルクも変わりない。
二頭とも今日はほとんど歩かせていないため、昨日より明らかに身体が休まっているように見えた。
「明日も馬車使わなくてよさそうだな」
ルシルがトルクの首を撫でる。
「町を見るだけなら、ですね」
シモンはベルクの様子を見ている。
「出発する時にしっかり働いてもらいましょう」
モモは二頭へ今日は食べ物を持っていないことを最初から両手を見せて伝えた。
「ありませんよ」
トルクが鼻を伸ばす。
「本当にありません」
もう一度。
「朝からそれやってるな」
「ちゃんと説明しないと」
「トルクは匂いで分かってると思うけど」
結局、トルクはモモの手を嗅いでから納得したように離れた。
厩を出て受付へ向かう。
そこで三人は一度止まった。
「延長、どうする?」
ルシルが尋ねる。
明日はまだ一日ある。
本屋へも行った。
市場へも行った。
街道情報も確認した。
薬草店も見た。
それでもセイラには、まだ見ていない場所がいくつもある。
水路の上流。
町の上側。
市場も今日見たのは一部だけ。
そして何より、三人とも明後日に必ず出たいとは思っていなかった。
「一泊、延ばしませんか?」
モモが言った。
「明日は町の上の方を見て、水路も見たいです。その次の日に出るか考える」
「俺は賛成」
二人の視線がシモンへ向く。
シモンは少しだけ考えた。
「道に問題はありません。物資にも余裕があります。滞在を急いで切り上げる理由もありませんね」
「じゃあ」
「一泊延長しましょう」
決まった。
受付の女性へ伝える。
「三部屋とも一泊延長したいんですが」
「はいよ。明後日までだね」
「お願いします」
手続きはあっさり終わった。
グレイでは延長を忘れかけた三人が、今回は自分たちから余裕を持って申し出た。
「これで明日、水路行けます」
モモが嬉しそうに言う。
「天気よかったらな」
「はい」
「町の上の方も」
「疲れたら途中で戻ります」
「完璧ですね」
シモンが言った。
「何が?」
「いえ。何でもありません」
◇
部屋へ戻る前、三人は一つの部屋へ集まった。
モモが買った『西部山地の鳥と小動物』を見るためだ。
机の上へ本を広げる。
まず昨日見た鳥。
『橙喉山鳥』
灰色の身体。
橙色の喉。
翼の細い白線。
高い二声から三声。
「やっぱりかなり近いです」
モモは絵を見つめる。
「次に見たら羽の白い線」
ルシルも覚える。
「鳴き声だけで断定はしないようにしましょう」
「分かってます」
次は足跡。
昨夜ではなく、一昨日の朝。
山道途中の野営地に残っていた小さな跡。
三人の記憶は完全ではない。
「指、何本だった?」
ルシルが尋ねる。
「そこまでは……」
モモも首を傾げる。
「細長くはなかった気がします」
「丸っぽかった?」
「たぶん」
ページをめくる。
山兎。
小狐。
岩鼠。
樹狸。
いくつか似た足跡がある。
「分からないな」
ルシルは素直に諦めた。
「はい」
モモも残念そうではあるが、無理に一つを選ばない。
「でも、次に見つけたらもう少し見られます」
「大きさ測るものもいる?」
「物差しまで持ち歩くんですか?」
シモンが尋ねる。
「手と比べるとか」
「それならできますね」
「あと指の数」
「爪跡があるかどうかも」
本には見分ける時の簡単な注意が書かれている。
ルシルはそこを読む。
「歩幅もだって」
「足跡一個だけじゃなく、続いてるところを見るんですね」
「面白い」
一昨日は、ただ「何かの足跡」で終わった。
それで困ることはなかった。
けれど次に見つけた時、見る場所が少し増える。
それだけでも本を買った意味はありそうだった。
「共有棚、空いてましたよね?」
モモが尋ねる。
「まだ余裕はあります」
「じゃあ鳥の本の隣」
「山の本だから草花の本の隣でもいい?」
「分類を始めるつもりですか?」
シモンが二人を見る。
「増えてきたから」
「まだ四冊程度ですよ」
「これから増えるかもしれない」
「それを前提にしないでください」
三人の笑い声が部屋へ広がった。
◇
夕方。
ルシルは一人で部屋の窓を開けた。
今日は朝からずいぶん歩いた。
市場。
鐘塔通り。
本屋。
薬草店。
街道管理所。
昨日は遠くから屋根しか見えなかった町の中に、今ではいくつもの場所ができている。
下の水路を人が歩いていく。
籠を背負った女性。
仕事を終えたらしい男性。
走る子ども。
水車は今日も回っている。
こつ、こつ、と音を立てながら。
明日は、あの水がどこから来るのか見に行く。
それだけで一日全部を使う必要はない。
途中に何かあれば止まるだろう。
疲れたら戻る。
市場へもう一度行ってもいい。
何もしない時間があってもいい。
ルシルは窓枠へ腕を置き、少し上の斜面を見た。
セイラの屋根はまだ続いている。
その先に木々があり、さらに上へ山が伸びていた。
旅を始めた頃なら、あの上に何があるのか知った瞬間、すぐ行きたくなったかもしれない。
今だって行きたい。
その気持ちは変わらない。
ただ、今日歩いた足が少し疲れていることも分かる。
「明日でいいな」
小さく呟く。
扉が叩かれた。
「ルシル様、夕食行きませんか?」
モモの声。
「行く!」
窓から離れ、扉を開ける。
廊下にはモモとシモンがいた。
「今日の夕飯、何でしょうね」
「山青菜はあると思う」
「またですか?」
「ありそうじゃん」
「僕は別のものも食べてみたいですね」
シモンが言う。
ルシルとモモが同時に彼を見る。
「何です?」
「シモンから食べたいって言った」
「別に珍しくないでしょう」
「いや、いいと思う」
「私もです」
「だから何なんですか」
三人は笑いながら階段を下りていく。
明日の予定は、まだ水路の上流を見に行くことしか決まっていない。
その先で何を見るのか。
どこまで歩くのか。
何を食べるのか。
まだ何も決まっていなかった。
けれど今は、それで困らなかった。
セイラでの一日は、知らないものを一つずつ知るだけで十分に長い。
そして三人の旅には、明日もまだ、この山の町で過ごす時間が残っていた。




