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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第43話 町を流れる水を辿れば、山の暮らしが少し見えてきます

セイラ滞在二日目の朝、ルシルは宿の食堂でパンを食べながら、窓の外を流れる水路を見ていた。


 昨日までなら、それはただ町の中を流れている綺麗な水だった。宿の近くを通り、水車を回し、籠や野菜を洗うためにも使われている。けれど今日に限っては、その水がどこから来ているのかということが妙に気になり、木椀へ注がれた温かい乳を飲んでいる間にも何度か視線が窓へ向いてしまう。


「ルシル様、さっきからずっと水路見てますね」


 向かいに座るモモが気づいた。


「今日、あれ辿るんだろ?」


「はい。私も楽しみです」


「水が流れてくるところを見に行くだけですよ」


 シモンはそう言いながら、焼いた卵と山青菜を挟んだパンを食べている。


「それ言ったら花谷だって花を見るだけだったじゃん」


「そうですね」


「本屋だって本を見るだけです」


「モモ嬢の場合は買っていますが」


「一冊です」


「地図を買った人もいます」


 モモがすぐ返すと、シモンの手が止まった。


「必要な地図でした」


「私の本も必要です」


「共有棚に置いた時点で、それは認めていますよ」


「じゃあ同じですね」


「完全に同じでは……」


 言いかけたシモンが、途中で諦める。


「朝から元気ですね、二人とも」


「シモンも元気そうでよかった」


 ルシルが笑うと、シモンは少し呆れた顔をしながらも、口元までは隠せなかった。


 今日の朝食にも山青菜が使われている。


 昨日の朝は乳酪へ混ぜられていたが、今日は卵と一緒に軽く焼かれていた。熱を通したことで苦味はさらに穏やかになり、葉の香りだけが残っている。


「俺たちが買ったやつ、今日の夜使う?」


 ルシルが尋ねた。


「宿の厨房を借りられるなら、という話になりますね」


 シモンは宿の奥へ視線を向ける。


「それか明日以降、野営する時でもいいでしょう。生の分は明日くらいまでには使った方がいいと言われていますから」


「今日帰ってきてから聞いてみませんか?」


 モモが提案する。


「厨房を借りられなかったら?」


「宿の人に調理をお願いできるか聞きます」


「持ち込みの野菜で?」


「駄目なら諦めます」


「いいね」


 予定が一つ増えた。


 ただし、それは夕方の話だ。


 今はまず朝食。


 その後にトルクとベルク。


 そして水路。


 三人とも昨日かなり歩いたが、朝になって足へ強い疲れが残っている者はいなかった。それでも今日は山の上側へ向かうため、朝食を食べながらシモンが念のため地図を広げる。


「昨日、宿の方から聞いた話では、町の上部までは普通の道があります。その先は水路沿いの管理道になりますね」


「馬車は?」


「使いません」


「今日は最初から歩きだな」


「ええ。管理道は人と荷を背負った小型の獣が通る程度だそうです」


「トルクとベルクも休みですね」


 モモが言う。


「昨日もほとんど休ませていますが、わざわざ連れ出す理由もありません」


 シモンの言葉にルシルも頷く。


 二日間山道を歩いた二頭に、町を見たいという自分たちの都合で坂を上らせる必要はない。


「じゃあ今日も俺たちだけ」


「途中で昼食を買っていきますか?」


「それ大事」


 ルシルの反応が早かった。


「朝食を食べながら昼食の話をしないでください」


「山の上で食べるなら持ってかないと」


「それはそうですが」


「市場で何か買う?」


「市場へ回ると遠回りになります。途中の店で携帯できるものを探しましょう」


 モモが窓の外を見る。


「昨日の麦焼きのお店、朝から開いてます?」


「あれを昼まで持ち歩く?」


「焼きたてを食べたいので駄目ですね」


「もう昼食じゃなくなってる」


 そんな話をしながら朝食を終えた。


     ◇


 トルクとベルクは今日も問題なかった。


 ルシルたちが厩へ入ると、トルクはすぐこちらを見た。昨日ほとんど働いていないせいか、山道を越えてきた翌朝より身体の動きが軽く見える。


「今日は元気だな」


 ルシルが首筋を撫でる。


 トルクは返事の代わりに鼻先を外套の辺りへ伸ばした。


「ない」


 先に言う。


 それでも探る。


「本当にないって」


「ルシル様、最近トルクと会うたび最初にそれ言ってません?」


 モモが隣で笑う。


「だって毎回探すから」


「私にはもっと来ますよ」


「モモは自分で原因作ってるだろ」


「ちゃんと人参だけです」


「分かってますよ」


 厩番の青年が笑いながら近づいてきた。


「二頭とも調子いいですよ。朝の飼葉も普通に食べてます」


「ベルクも?」


「ええ。右前も変わりなしです」


 シモンはベルクへ近づき、脚だけでなく全身の立ち方を見る。


 右前肢に偏った様子はない。


 昨日から何度も確認している以上、もう必要以上に触ることはしなかった。


「今日は町の上へ歩いて行ってきます」


 ルシルが厩番へ言う。


「水路の方ですか?」


「そうです」


「なら上の貯水場までは行けますよ。そこから先は水源管理の道になるんで、立入札があったら越えない方がいいです」


「貯水場?」


「町へ水を分けるところです。大きい池じゃないですよ。石で作った水溜めみたいなもんです」


 昨日までは聞いていなかった場所だ。


 ルシルの目が少し輝く。


「見られる?」


「外からなら。町の人も通りますし」


「ありがとうございます」


 また一つ目的地ができた。


 厩番へ二頭を頼み、三人は宿を出た。


     ◇


 朝の町を上へ向かって歩く。


 昨日通った鐘塔通りまでは同じ道だった。


 ただ、今日は市場へ曲がらない。


 水路から離れないように進む。


 宿の前では道の脇を流れていた水路が、中央坂へ近づくと一度建物の下へ潜る。最初に見た時はどこへ続いているのか分からなかったが、少し上の場所で再び石造りの溝から姿を現していた。


「地下通ってる」


 ルシルは水が出てくる石の穴を覗き込む。


「完全な地下水路ではなく、建物の下を通しているだけでしょうね」


 シモンも立ち止まる。


 水は澄んでいる。


 流れは思っていたより速い。


 小さな葉が一枚流れてきて、三人の前を通り過ぎると、そのまま坂の下へ消えていった。


「これ、昨日見た水車全部回してるのかな」


「一本の水路から枝分かれしているようです」


 モモが少し先を指差す。


 確かに、水路の途中に石の仕切りがある。


 そこで一部の水が細い別の溝へ分かれ、横道へ入っていた。


「行ってみる?」


 ルシルがそちらを見る。


「今日は上流です」


 モモが止めた。


「モモに言われた」


「私だって寄り道ばかりしません」


「昨日薬草店の前で止まってたけど」


「入りませんでした」


「帰りに入ったじゃん」


「あれは予定通りです」


「二人とも、ここで道を塞がないでください」


 シモンに言われ、ルシルとモモは同時に端へ寄った。


 背後から、籠を背負った女性が歩いてくるところだった。


「すみません」


「いいよ。水路珍しい?」


 女性は笑いながら足を止めた。


「昨日来たばかりで」


「そりゃ珍しいか。平地の町じゃ、こんなに坂へ水流さないものね」


「この水、上からずっと来てるんですか?」


「上の分水場からね。飲み水に使う方と、洗い物や水車に使う方で途中から分けてるよ」


 ルシルが水路を見る。


「同じ水じゃない?」


「元は同じだけど、飲み水の方は上から別の管で引いてる。こっちは町に入ってから色々使うから、そのまま飲まない方がいいよ」


「なるほど」


 昨日、水路が綺麗だからといって直接飲もうとはしなかったが、理由を聞けばよく分かる。


「上の分水場、見に行けます?」


「行けるよ。坂をずっと上がって、最後の家並みを抜けたら右。石の水槽があるからすぐ分かる」


「ありがとうございます」


「途中の水場なら飲めるところもあるけど、『飲用』って札があるところだけにしな」


「はい」


 女性は手を振り、そのまま坂を下りていった。


「分水場」


 ルシルが言う。


「厩番さんは貯水場って言ってました」


 モモが首を傾げる。


「町の人によって呼び方が違うのかもしれませんね」


「行けば分かる」


 ルシルは上を見る。


 道はまだ続いていた。


     ◇


 鐘塔通りへ着く前に、三人は昼食を買った。


 昨日の麦焼きとは別の小さなパン屋だった。


 店先に並んでいたのは、掌より少し大きな丸パン。中に燻製肉と潰した山芋根を詰めて焼いてあり、包んでもらえば持ち歩ける。


「三つ?」


 ルシルが尋ねる。


「一人一つでいいでしょう」


 シモンが答える。


「足りる?」


「昨日の昼も食べたでしょう」


「山歩くぞ?」


「足りなければ保存食があります」


「じゃあ一つ」


 モモは別の棚を見ていた。


「甘いのもあります」


 蜂蜜を薄く塗った小さな焼き菓子が置いてある。


 ルシルとシモンが同時にモモを見る。


「……見ただけです」


「何も言ってないよ」


「二人とも顔で言いました」


「一つなら買ってもいいんじゃない?」


 ルシルが言う。


「昼食の後に三人で分けます?」


「それなら」


 モモは嬉しそうに一枚だけ選んだ。


 シモンも止めない。


 包んでもらった昼食はシモンの収納魔法へ入れる。


「便利だなあ」


 ルシルは改めて言う。


「今さらですか?」


「だって温度まで完全に止めるわけじゃないけど、荷物持たなくていいんだろ?」


「ええ。ただし何でも無制限に入るわけではありません」


「分かってる」


「ルシル様、最初の頃は入るなら何でも入れようとしてましたよね」


 モモが思い出したように笑う。


「旅始めたばっかりだったから」


「今も始めたばかりみたいなものですよ」


 シモンの言葉に、ルシルは少し考える。


 確かにそうだった。


 いくつも町を通った。


 何度も野営した。


 馬車も少しずつ扱えるようになった。


 それでも海まではまだ遠い。


「じゃあまだ初心者?」


「馬車については確実に」


「そこは分かってる」


 三人は笑いながら再び歩き始めた。


     ◇


 鐘塔を越えると、町の雰囲気が少し変わった。


 店が減る。


 代わりに住居が増える。


 建物と建物の間隔も広くなり、小さな畑や薪置き場が目立つようになった。


 水路はまだ続いている。


 ただし下の町ほど石で綺麗に囲われておらず、一部では山側の地面を掘った溝へ石を並べただけの場所もあった。


「こっちの方が古いのかな」


 ルシルがしゃがみ込み、水路の縁を見る。


 石には苔がついている。


「下の町中は何度も整備されている可能性がありますね」


 シモンが答える。


「ここの水路も手入れされてますよ」


 モモは少し先を指差した。


 水路脇に、新しく削った木の板が置かれている。


 その近くには泥を掻き出すためらしい道具もあった。


「誰か掃除してる?」


「そうでしょうね」


 さらに進むと、その答えはすぐ見つかった。


 水路の横に二人の男がいる。


 一人は水を一時的に木板でせき止め、もう一人が底へ溜まった小石や落ち葉を掻き出していた。


「こんにちは」


 モモが声を掛ける。


 二人のうち若い方が顔を上げる。


「こんにちは。上へ行くのか?」


「分水場を見に」


「旅人か」


「昨日来ました」


「なら珍しいよな」


 男は笑い、掻き出した落ち葉を籠へ入れた。


「これ、毎日やるんですか?」


 ルシルが尋ねる。


「毎日全部は無理だよ。区画を分けて順番に。雨の後は詰まりやすいところを先に見る」


「昨日の朝まで少し濡れてたから?」


「そうそう。上で枝が落ちると、下まで流れてくるからな」


 ルシルは流れる水を見る。


 町の中で水車が普通に回っているのは、山から水が流れてくるからだけではない。


 こうして誰かが詰まりを取っている。


「水止めてる間、下は大丈夫なんですか?」


「全部止めてない」


 男が木板を示す。


 水路の半分だけを塞ぎ、残りから水を流している。


「完全に止める時は上の分水場で調整する。俺らが勝手に全部止めたら怒られるよ」


「そりゃそうか」


「上へ行くなら、今日は北側の管理道へ入らないようにな」


 年上の男が初めて口を開いた。


「何かあるんですか?」


 シモンが尋ねる。


「水源の点検やってる。立入札が出てるはずだ。分水場までは問題ない」


「分かりました」


 厩番からも同じような話を聞いている。


 三人は礼を言い、作業の邪魔にならないよう先へ進んだ。


 少し離れてから、ルシルが振り返る。


 二人はもう作業へ戻っていた。


「町って、見えてない仕事多いな」


「どこの町もそうでしょうね」


 シモンが言う。


「グレイでも街道を直してる人いました」


 モモが続ける。


「セイラでは水路か」


「他にもあるでしょう」


「明日全部探す?」


「探しません」


 シモンが即答した。


「冗談だよ」


「半分くらい本気に聞こえました」


「俺も」


「本人が言うんですか」


     ◇


 町の最後の家を過ぎると、道は急に細くなった。


 人が二人並んで歩くには十分。


 ただし馬車は無理だ。


 山側には水路。


 反対側には木々。


 地面は踏み固められているが、ところどころ木の根が露出している。


「ここから管理道かな」


「おそらく」


 シモンが地図を見る。


 地図といっても町の上側まで細かく描かれているわけではない。


 それでも方向は合っている。


 水路を辿れば迷いにくい。


 道へ入ってすぐ、木の札が立っていた。


『分水場 この先』


「分水場で合ってた」


 ルシルが読む。


「貯水場は通称でしょうか」


「それか厩番さんがそう呼んでるだけ?」


「どちらでも通じるんでしょうね」


 歩く。


 町の音が少しずつ遠くなる。


 水の音は逆に近くなった。


 下では石の溝を勢いよく流れていたが、ここでは水路の幅が少し広い。傾斜も緩いため、水面が朝日を反射して細かく揺れている。


 モモが突然足を止めた。


「魚」


「え?」


「今いました」


 三人で水路を見る。


 透明な水。


 石。


 細い水草。


「どこ?」


「そこです。石の横」


 指差された場所を見続ける。


 しばらく何も見えなかった。


 その時、小さな影が動いた。


「あ、本当だ」


 指ほどの魚が二匹。


 流れに頭を向け、ほとんど同じ場所へ留まっている。


「これも本に載ってない?」


 ルシルが言う。


「鳥と小動物です」


「魚は別か」


「本、増やす気ですか?」


 シモンが警戒する。


「今のは言っただけ」


「魚の本も面白そうですね」


「モモ嬢」


「買うとは言ってません」


「昨日からその言葉を何度聞いたでしょうね」


 魚は三人の影に気づいたのか、石の下へ消えた。


 追いかけない。


 また歩く。


     ◇


 分水場へ着いたのは、町を出てからそれほど経たない頃だった。


 厩番が言った通り、大きな池ではない。


 山肌から流れてきた水を一度受けるための、石造りの広い水槽だった。


 横幅は小さな家ほど。


 深さは外からでは分からない。


 上流側から木製の樋を通して水が入り、反対側では複数の水路へ分かれている。


「おお……」


 ルシルは思わず声を出した。


 派手な建物ではない。


 巨大な魔導具でもない。


 けれど下の町で見た水路が、ここから何本にも分けられている。


「本当に分けてる」


 モモも近づく。


 水槽の周囲には低い柵があり、勝手に触れないようになっていた。


 木札が複数ある。


『町内水路』


『工房水路』


『下段畑』


『飲用管 接触禁止』


「飲み水だけ違う」


 ルシルが読む。


 飲用と書かれた場所には蓋のされた木管が接続されていた。


「さっきの女性が言ってた通りですね」


「下で流れてるのを直接飲まない理由も分かった」


 水槽の脇には小さな小屋があった。


 中から一人の男性が出てくる。


 白髪交じりの短髪。


 厚手の作業着。


 三人を見ると、少しだけ警戒するように目を細めた。


「見学か?」


「はい。町で水路を見て、どこから来てるのか気になって」


 ルシルが答える。


「柵の外なら構わんよ。北の道には入るな。今日は点検中だ」


「聞いてます」


 シモンが答える。


 男性の表情が少し柔らかくなる。


「ならいい」


「ここ、一人で管理してるんですか?」


 モモが尋ねる。


「まさか。交代だ。今は俺の番」


 男性は水槽を見る。


「雨が強い日は水量を見る。落ち葉が増える時期は網を見る。冬は凍り方を見る。町で使う量が多い時期は流す先も変える」


「変える?」


「畑の時期と工房が忙しい時期じゃ必要な水が違うからな」


 ルシルは木札を見直す。


 水はただ均等に分かれているわけではないらしい。


「これ、全部手で?」


「基本はな」


 男性は水槽の横にある大きな木製の取っ手を示す。


 板を上下させて流れる量を変える仕組みらしい。


「魔法使わないんだ」


「使える奴が毎日ここにいるとは限らんだろ」


 あまりに当たり前の答えだった。


「ああ……そうか」


「壊れた時に魔法がなきゃ動かせない仕組みじゃ困る。木と石なら、この町の職人で大体直せる」


 シモンが水門を見る目を少し細めた。


「合理的ですね」


「昔から直しながら使ってるだけだよ」


 男性は大げさに誇ることもない。


 町にとって必要だから、必要な形で残っている。


「水源って、もっと上ですか?」


 ルシルが尋ねる。


「この上の谷だ。湧き水と沢をいくつかまとめてる」


「見には?」


「今日は北側の点検が入ってるから駄目だな。南の遊歩道から上の沢を眺めるくらいならできる」


「遊歩道?」


「分水場の向こうを南へ回る道。小さな滝が見える。町の連中も休みに行くよ」


 三人が顔を見合わせる。


 予定にはなかった。


「遠いですか?」


 シモンが確認する。


「ここから歩いて四半刻ちょい。急なところはない。滝の先へ行かなきゃ管理区域にも入らん」


 モモの目が明らかに行きたそうになっている。


 ルシルも同じだった。


「昼、持ってる」


「持っていますね」


 シモンは空を見る。


 雲は少ない。


 時間もまだ早い。


「行きますか」


「いいの?」


「ここまで来ていますし、距離も大したことはありません。ただし滝までです」


「もちろん」


「はい」


 二人の返事が揃った。


 管理の男性が笑う。


「分かりやすいな、お前ら」


「よく言われます」


 ルシルが答えると、シモンが横から小さく息を吐いた。


     ◇


 南の遊歩道は、水路沿いの管理道より少し細かった。


 けれど歩きにくくはない。


 町の人も使うというだけあり、危険な場所には木柵があり、ぬかるみやすいところには平たい石が置かれている。


 水路から離れるにつれ、人工的な水音が消えた。


 代わりに、森の奥から自然な沢の音が聞こえてくる。


「近い?」


 モモが耳を澄ませる。


「たぶん」


 道が緩く曲がる。


 そこで初めて、水が見えた。


 岩の間を流れる細い沢。


 下の町の水路より幅は広いが、深くはない。


 透明な水が大小の石へぶつかり、白い泡を作っている。


「こっちが元なんだ」


「一部でしょうね」


 シモンが答える。


「分水場の方へ入る水は別の流れも集めていると言っていましたから」


 沢の横を歩く。


 足元には小さな白い花。


 花谷で見た白風花とは違う。


 花弁が細く、葉も丸い。


「本」


 ルシルが言う。


「今日は持ってきてません」


 モモが答える。


「持ってないんだ」


「水路を見に来る予定でしたから」


「じゃあ覚える?」


「覚えます」


 三人で少しだけ見る。


 白い細い花弁。


 丸い葉。


 沢の近く。


 高さは足首より少し上。


「写真みたいに残せれば楽なのにな」


「しゃしん?」


 モモが聞き返す。


「あ」


 ルシル自身も何を言ったのか分からないような顔をした。


「今、何て言いました?」


 シモンも眉を寄せる。


「……なんか、絵みたいに一瞬で景色を残せたらって思ったら、変な言葉出た」


「どこで覚えたんです?」


「分からない」


 三人の間に一瞬だけ沈黙が落ちた。


 だが、ルシル自身に体調の変化はない。


 記憶が戻ったという感覚もない。


 単に聞き覚えのない音が口から出ただけだった。


「今の、もう一回言える?」


 モモが尋ねる。


「しゃしん?」


「しゃしん」


「何でしょうね」


「分からない」


 シモンはルシルの顔を少し注意深く見る。


「頭痛や違和感は?」


「ないよ。普通」


「なら今は覚えておくだけにしましょう」


「うん」


 ルシルはもう一度白い花を見る。


 妙な言葉は気になる。


 けれど、その場で答えが出るものでもなかった。


「とりあえず花は?」


「白くて細い花弁、丸い葉、沢の近くです」


 モモが答える。


「そっちは覚えてるな」


「はい」


 三人は再び歩き始めた。


     ◇


 滝は、それほど大きくなかった。


 高さは二階建ての家より少し高い程度。


 山肌から突き出した黒い岩を水が斜めに滑り、その途中で何度か砕けながら小さな滝壺へ落ちている。


 けれど、近づくにつれて音は想像以上に大きくなった。


「おお……」


 ルシルが立ち止まる。


 水飛沫が風に乗り、頬へ細かく触れる。


 日差しは暖かいのに、滝の周りだけ空気がひんやりしていた。


「綺麗です」


 モモはしばらく動かなかった。


 水面。


 岩。


 周囲の苔。


 落ちてくる水。


 一つずつ目で追っている。


 シモンも急かさない。


 遊歩道の終点には、丸太を組んだ簡単な柵と長椅子が二つあった。


 先客はいない。


「ここで昼にする?」


 ルシルが尋ねる。


「少し早いですが、いいでしょう」


「歩いたからお腹空きました」


「モモも?」


「歩いたからです」


「分かってる」


 三人は滝から少し離れた長椅子へ座った。


 シモンが収納から包みを取り出す。


 朝買った丸パンはまだ崩れていない。


 半分に割ると、燻製肉と山芋根が詰まっている。


「いただきます」


 一口。


 外側のパンは少し硬め。


 中の山芋根は滑らかで、燻製肉の塩気を和らげている。


「これ、持ち歩くのにいいな」


 ルシルが言う。


「汁も出ませんしね」


「野営の朝に作れる?」


 モモが中身を見る。


「パンから焼くのは難しいでしょう」


 シモンが答える。


「買ったパンに似た具を挟むならできます」


「山芋根買っておけばよかった?」


「また増やすんですか?」


「今のは聞いただけ」


「最近その逃げ方を覚えましたね」


「逃げてません」


 食事をしながら滝を見る。


 会話が途切れても、水音が空白を埋める。


 誰かが何かを言い続ける必要はなかった。


 食べ終える頃、モモが蜂蜜の焼き菓子を取り出した。


「三人で分けます」


「待ってました」


「ルシル様もですか?」


「買った時から気になってた」


 丸い焼き菓子を三つに割る。


 完全に同じ大きさではない。


 モモが一番大きく見える欠片を一度見て、それからシモンへ差し出した。


「どうぞ」


「なぜ僕に?」


「昨日、食べたいものがあるって自分から言った記念です」


「何の記念ですか」


「いいから」


 シモンは困った顔をしたが、受け取った。


 ルシルは残り二つを見る。


「俺、こっち」


「大きい方取った」


「モモ、甘いの昨日も食べたから」


「それはそれです」


 結局、どちらが大きいかよく分からない欠片を一つずつ食べた。


 蜂蜜の甘さは強すぎず、焼いた麦の香りが残っている。


「美味しい」


 モモが目を細める。


「買ってよかったな」


「はい」


 シモンも自分の分を食べ終えた。


「悪くありませんね」


 ルシルとモモが同時に彼を見る。


「何です?」


「いつもの言い方」


「最近聞いてなかった気がします」


「そうでしたか?」


 本人だけ分かっていないらしい。


 三人の笑い声が滝の音に混じった。


     ◇


 昼食の後は、少しだけ滝の周りを歩いた。


 遊歩道から外れない。


 管理区域へ入らない。


 柵を越えない。


 それだけ守れば、見るものはいくらでもあった。


 苔の生えた岩。


 水辺を飛ぶ細長い羽虫。


 沢の浅い場所を走る小魚。


 見たことのない赤い実。


 さっきの白い花も、滝の近くでは数が増えている。


「全部名前分からない」


 ルシルは楽しそうだった。


「帰ったら本を見ます?」


「草花百選にあるかな」


「山の植物がどれくらい載っているかですね」


「載ってなかったら?」


 モモとルシルが同時にシモンを見る。


「本屋へ行きませんよ」


「まだ何も言ってない」


「顔で分かります」


 昨日までとは逆になっていた。


 シモンも少しずつ二人の考えることが読めるようになっている。


 あるいは、最初から読めていたのかもしれない。


 ルシルは赤い実へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「触らない方がいい?」


「分からない植物はその方がいいでしょう」


「見るだけ」


 しゃがみ込み、形を見る。


 赤い実は五つほどまとまっている。


 葉は細長い。


 枝には小さな棘がある。


「棘」


 モモが気づく。


「覚えた」


「食べられるかな」


「そこへ戻るんですか」


「実だから」


「毒の実もあります」


「だから食べないよ」


 見るだけ。


 それでいい。


     ◇


 帰り道、分水場まで戻ったところで、午前中にはなかったものが置かれていた。


 水槽の横に大きな木箱が二つ。


 さらに荷を背負った小型の騾馬が一頭。


 管理小屋の前では、先ほどの男性と別の二人が話している。


「点検終わったのかな」


 ルシルが声を落とす。


 近づくと、管理の男性がこちらへ気づいた。


「滝、見てきたか?」


「はい。すごく綺麗でした」


「そりゃよかった」


 モモが騾馬を見る。


 茶色と灰色が混ざった毛色。


 トルクよりずっと小さい。


 背中の両側には木箱が固定されている。


「この子、点検の荷物を運ぶんですか?」


「ああ。道具や交換部品な」


「触っても?」


「こいつは知らん人間に触られるの嫌がるから、見るだけにしときな」


「分かりました」


 モモはすぐ距離を取った。


 騾馬もこちらへ一度耳を向けただけで、それ以上反応しない。


「トルクなら絶対匂い嗅ぎに行く」


 ルシルが小声で言う。


「ベルクなら距離取りますね」


「性格違うな」


 管理の男性は二人の会話を聞いて笑う。


「馬飼ってるのか?」


「二頭で馬車を引いてもらってます」


「旅馬か。なら大事にしてやれよ。山は人間より先に馬が疲れることあるからな」


「はい」


 昨日まで山道を越えてきた二頭を思い出す。


 今日休ませてきてよかった。


「点検、問題なかったんですか?」


 シモンが尋ねる。


「ああ。詰まりが一か所あったくらいだ。枝を取って終わり」


「町の水には影響なし?」


「出る前に別の流れへ回してたからな」


 その言葉で、午前中に見た水門の意味がさらに分かった。


 何か一つ止まれば全部止まる仕組みではない。


「すごいな」


 ルシルが素直に言う。


「何が?」


「水。町の下じゃ普通に流れてたから、ずっと勝手に流れてるみたいに見えた」


 男性は少し笑った。


「勝手に流れてる部分もあるさ。水は上から下へ流れる。それを邪魔しないようにしてるだけだ」


 簡単な言い方だった。


 けれどルシルは、もう一度水槽を見た。


 石。


 木。


 水。


 派手な魔法はない。


 それでも町の暮らしを支えている。


「ありがとうございました」


 三人は男性たちへ礼を言い、町へ戻る道を下り始めた。


     ◇


 帰りは上りより楽――というわけでもなかった。


 坂を下ると、別の場所へ力が掛かる。


 馬車ほど慎重になる必要はないが、濡れた石の上では人間も滑る。


「モモ、そこ濡れてる」


「はい」


 ルシルが先に気づき、モモが少し横へ避ける。


 その直後。


「ルシル様も前を見てください」


「え?」


 自分の足元にも木の根があった。


「あぶな」


 踏む直前で止まる。


「人のこと言ってる場合じゃなかった」


「私を見てたからですよ」


「そうだけど」


「二人とも、下りでは少し間を空けましょう」


 シモンが後ろから言う。


「一人が滑った時、まとめて巻き込まれます」


「それ怖いな」


 三人は少し間隔を取った。


 歩く速度も自然に落ちる。


 町の家々が見えてきた頃には、朝とは違う疲れが脚へ溜まっていた。


「休む?」


 ルシルが尋ねる。


「水飲みたいです」


 モモが答える。


 ちょうど『飲用』の札がある共同水場が見えた。


 石の口から細い水が流れ続けている。


 三人はそこで立ち止まる。


 備え付けの柄杓を一度すすぎ、順番に水を飲んだ。


「冷たい」


 ルシルは一口飲んで目を見開く。


 滝の近くで触れた水と同じような冷たさだ。


「上から管で来てるんですよね」


 モモも飲む。


「分水場で見た飲用管につながっているのでしょう」


 シモンが最後に柄杓を使う。


 朝はただの水場だった。


 今は、どこから来ているのか少し分かる。


「味変わった?」


 ルシルが聞く。


「同じ水ですよ」


「分かってるけど」


 モモが笑う。


「でも、ちょっと違う気がするのは分かります」


「だよな」


「気分の問題でしょう」


 シモンはそう言ったあと、もう一口だけ飲んだ。


「シモンも飲むんじゃん」


「喉が渇いているだけです」


「はいはい」


     ◇


 鐘塔通りまで戻った時には、三人とも寄り道を増やそうとはしなかった。


 本屋の前も通った。


 モモは一度だけ看板を見たが、入らない。


 薬草店の前ではルシルが乾いた実を見たが、立ち止まらない。


「今日は帰る?」


「帰ります」


「賛成です」


 シモンも頷く。


 朝から十分歩いた。


 宿へ戻る前に、三人は昨日の市場へ少しだけ寄った。


 目的は一つ。


「山芋根」


 ルシルが言う。


「やっぱり買うんですね」


「昼のパン美味しかったから」


「一個だけですよ」


「分かってる」


 昨日の老女の店で、小さめの山芋根を一つ買う。


 老女は三人を見るなり笑った。


「今日はそれかい」


「昼に食べたら美味しかったので」


「潰して肉と合わせてもいいし、輪切りで焼いてもいいよ」


「山青菜と一緒でも?」


「合うよ」


 モモが嬉しそうにルシルを見る。


「今夜使えます」


「厨房借りられたらな」


「聞きましょう」


 追加の買い物は、それだけ。


 市場を出る。


     ◇


 水車の枝へ戻ったのは、まだ夕食には少し早い時間だった。


 三人はまず厩へ向かった。


 トルクとベルクは今日も変わりない。


「ただいま」


 ルシルがトルクへ声を掛ける。


 トルクは顔を上げる。


 モモが持っている市場の包みへ鼻を向けた。


「あ」


「気づいた」


「山芋根です。トルクのじゃありません」


 鼻先が伸びる。


「駄目です」


「これ食べられるのかな」


 ルシルがシモンを見る。


「馬が食べられるものかどうか分からない以上、与えません」


「だよな」


「人参なら宿にありますよ」


 厩番が奥から声を掛けた。


 トルクの耳が動く。


 三人ともそれを見た。


「絶対分かってる」


 ルシルが言う。


「私もそう思います」


「偶然でしょう」


 シモンだけは否定したが、その直後にトルクが厩番の方へ顔を向けたため、説得力はあまりなかった。


「小さいの、今日も一本もらえます?」


 モモが尋ねる。


「いいですよ。二頭で半分ずつなら」


 結局、人参を分けてもらう。


 トルクは嬉しそうに食べ、ベルクもシモンの手から自分の分を受け取った。


「今日は歩いてないのにご褒美?」


 ルシルが言う。


「休むのも仕事です」


 モモが答える。


「それ、誰かに言われた?」


「今考えました」


「いいこと言ったな」


「でしょう?」


 シモンは何も言わずベルクの首を撫でていた。


     ◇


 宿の受付で厨房について尋ねると、意外にも簡単に許可が出た。


「夕食の仕込みが落ち着いてからなら、一つ空いてる竈を使っていいよ。ただし包丁と鍋はうちのを使って、終わったら洗って戻してね」


「いいんですか?」


 モモの顔が明るくなる。


「山青菜買ったんだろ? 昨日言ってたじゃないか」


「覚えてたんですか」


「旅人が自分で町の野菜を料理したいって言うの、そんなに多くないからね」


 受付の女性は笑った。


「何作るんだい?」


 三人が顔を見合わせる。


「……まだ決めてない」


 ルシルが答えた。


「山青菜と山芋根があります」


「あと山椒実」


 シモンが加える。


「肉は?」


「干し肉なら」


「それなら簡単な炒め煮にしたらどうだい。山芋根を先に焼いて、戻した干し肉と山青菜を入れる。水を少し入れて蓋。山椒は最後にほんの少し」


「それにします」


 モモが即決した。


「料理本は?」


「あとで見ます」


「宿の人に聞いた料理作るなら本いらないんじゃない?」


「手順の参考です」


「なるほど」


 夕食の時間まで少し休む。


 その後、三人で厨房へ入った。


     ◇


 厨房に三人並ぶと、思ったより狭かった。


「ルシル様、そこに立つと通れません」


「どこいればいい?」


「山芋根洗ってください」


「分かった」


「モモ嬢は山青菜を」


「はい。シモン君は?」


「干し肉を戻します」


「もうシモンが料理長じゃん」


「誰かが順番を決めないと動けないでしょう」


「じゃあ料理長」


「呼ばなくていいです」


 宿の料理人たちは少し離れた場所で自分たちの仕事をしている。


 三人の様子をちらりと見る者はいたが、手を出してはこない。


 ルシルは山芋根の土を洗う。


 表面はごつごつしている。


「皮どうする?」


「薄く剥くそうです」


 受付の女性が通りすがりに教えてくれた。


「ありがとうございます」


 包丁を持つ。


 ここで少し緊張する。


 馬車ほどではないが、料理もまだ慣れているとは言い難い。


「俺やる」


「指を切らないでくださいね」


「それ言われると怖い」


「じゃあ私が?」


「いや、やる」


 薄く。


 できるだけ実を削らないように。


 最初の一周は少し厚くなった。


「もったいない?」


「食べられないほどではありません」


 シモンが横から見る。


「次を薄くすればいいでしょう」


「うん」


 少しずつ慣れる。


 モモは山青菜を洗い、傷んだ部分を除いている。


 シモンは干し肉を薄く切り、少量の湯で戻す。


 作業は派手ではない。


 それでも三人で一つずつ進めていく。


「山椒、二粒?」


「最初は二粒にしましょう」


「潰す?」


「軽く」


 モモが木匙の背で山椒実を押す。


 ぱき、と小さな音がした。


「匂い出た」


 昨日市場で嗅いだ鋭い香りが広がる。


「入れすぎないでくださいね」


「二粒です」


「念のためです」


 鍋へ油を薄く引き、山芋根を焼く。


 表面に色がついたところで干し肉。


 続いて山青菜。


 水を少量。


 蓋。


「待つ」


 ルシルが言う。


「待ちます」


 モモも蓋を見る。


「見つめても早くはなりませんよ」


「分かってる」


「でも気になります」


 しばらくして蓋を開ける。


 湯気。


 山青菜の香り。


 肉の匂い。


 最後に山椒実。


「おお」


 ルシルが鼻を近づける。


「近づきすぎです」


「でも美味そう」


 味見をする。


 シモン。


 モモ。


 ルシル。


「……ちょっと薄い?」


「干し肉の塩気が思ったより出ませんでしたね」


「塩少し?」


「少しだけ」


 足す。


 もう一度。


「今度いい」


「はい」


「完成ですね」


 三人で作ったセイラの食材の炒め煮ができた。


     ◇


 宿の夕食にも料理は出るため、自分たちの一皿は三人で分けた。


 山芋根は外側が少し香ばしく、中は柔らかい。


 山青菜は煮込みより歯触りが残っている。


 干し肉。


 そして山椒実。


「……舌、少しぴりってする」


 ルシルが言う。


「これが山椒なんですね」


 モモも口元へ手を当てる。


「二粒で十分でしたね」


 シモンが頷く。


「三粒だったら?」


「もう少し強かったでしょう」


「当たり前の答えだ」


「他に何を言えばいいんですか」


 ルシルは笑いながらもう一口食べる。


「でも美味い」


「はい」


「野営でも作れそうですね」


「山芋根が残れば」


「一個全部使った」


「あ」


 三人が鍋を見る。


 空だ。


「じゃあ次は別の根菜で」


「それでいいですね」


 同じ料理を完全に再現する必要もない。


 山椒実と干した山青菜はまだある。


 別の土地の食材と合わせれば、また違う味になる。


 夕食後。


 三人は食器と借りた道具を洗い、厨房へ返した。


「どうだった?」


 受付の女性に聞かれる。


「美味しかったです」


 モモが答える。


「山椒二粒でちょうどよかった」


 ルシルも言う。


「ならよかった。最初から欲張って入れると、しばらく水ばっかり飲むことになるからね」


「二粒にしてよかった……」


「明日も町見るのかい?」


 三人は一度顔を見合わせた。


 延長した一泊がある。


 明日はまだセイラにいる。


「まだ決めてません」


 ルシルが答えた。


「今日結構歩いたので、朝起きてから考えます」


「それがいいよ」


 女性は笑い、仕事へ戻っていった。


     ◇


 夜。


 ルシルは寝台へ腰掛け、今日見たものを思い返していた。


 水路。


 掃除をする人たち。


 分水場。


 水門。


 滝。


 知らない白い花。


 赤い実。


 小魚。


 騾馬。


 山芋根。


 山椒を入れた料理。


 一日でずいぶん増えた。


 その中に、一つだけ妙なものが混じっている。


「しゃしん……」


 口に出してみる。


 やはり意味は分からない。


 一瞬で景色を残すもの。


 そういう感覚だけが、言葉と一緒に浮かんだ。


 王城で聞いた言葉だっただろうか。


 書物で読んだ?


 誰かが言っていた?


 思い出せない。


 無理に考えようとすると、記憶ではなく自分で答えを作ってしまいそうだった。


 だからルシルは、それ以上追わなかった。


 明日、シモンにはもう一度話しておこう。


 体調に変化がなければ、それでいい。


 忘れないようにだけしておけばいい。


 窓の外では、水車がまだゆっくり回っている。


 今日、その水がどこから来るのかを見た。


 明日になれば、また別の何かが目に入るかもしれない。


 ルシルは窓を閉め、寝台へ戻った。


 セイラでの二日目は、大きな事件も戦いもなく終わった。


 けれど町を流れる水を辿っただけで、昨日まで見えていなかった暮らしがいくつも見えた。


 そしてその一日の中で、ルシル自身もまだ知らない一つの言葉だけが、静かに残っていた。

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