第44話 知らない言葉は置いておいて、今日は町の坂道を歩きます
翌朝。
ルシルが目を覚ました時、最初に聞こえたのは水の音だった。
窓の外を流れる水路。そのさらに向こうでは、宿の名にもなっている小さな水車が、朝早くから一定の間隔で木の音を響かせている。昨日は町の上までその水を辿り、分水場を見て、さらに山の沢と滝まで歩いたため、同じ音なのに聞こえ方が少し違っていた。
「……ちゃんと流れてるな」
寝台の上で身体を起こし、何となく呟く。
当たり前だ。
夜の間に突然水が止まる理由などない。
それでも昨日、分水場で水門を見た。水路を掃除する人たちとも話した。上流の点検で一部を止める時には別の流れへ回し、町の暮らしへ影響が出ないようにしていることも知った。
ただ流れているように見えた水の向こうに、人の仕事がある。
ルシルは寝台から降り、窓を少しだけ開けた。
朝の冷たい空気が入ってくる。
昨日の山道ほどではないが、セイラの朝はグレイより少し冷える。水路の上には薄い朝靄が残り、向かいの屋根から落ちた露が、軒先の石へ小さな音を立てていた。
そして、そこで昨夜のことを思い出す。
「しゃしん……」
また口に出してみる。
やはり、妙な響きだった。
知っている気がする。
けれど、どこで知ったのか分からない。
意味を尋ねられても説明できないのに、昨日あの白い花を見た瞬間には、「絵みたいに一瞬で景色を残すもの」という感覚と一緒に自然に口から出てきた。
頭痛はない。
身体も普通だ。
昨夜眠れなかったわけでもない。
「……朝飯の時に話すか」
一人で考えても答えは出ない。
ルシルは顔を洗い、外套を整えて部屋を出た。
◇
食堂へ下りると、すでにシモンがいた。
窓際の席で小さな紙を広げている。
「おはよう」
「おはようございます、ルシル様」
「何見てるの?」
「昨日、受付で聞いておいた町の案内です」
紙にはセイラの主要な通りと施設が簡単に描かれていた。
正式な地図というより、旅人向けの案内図らしい。
「また地図?」
「買っていません。宿に置いてあるものを借りただけです」
「先に言われた」
「言われると思いましたので」
ルシルが向かいへ座ったところで、階段から足音がした。
「おはようございます」
モモもやってくる。
桃金色の髪はすでに整えられ、白い外套を腕に掛けていた。
「二人とも早いです」
「モモが遅いんじゃない?」
「普通です」
「何を基準に?」
「私です」
「それ基準になる?」
「私の朝なので」
モモは当然のように答え、ルシルの隣へ座った。
宿の女性が朝食を運んでくる。
今日は厚めに切った黒麦パンと、焼いた茸、薄切りの燻製肉。それから昨夜自分たちでも使った山芋根を乳で柔らかく煮た料理だった。
「山芋根」
ルシルがすぐ反応する。
「昨日と全然違いますね」
モモも木匙を取る。
乳煮は白く、とろりとしている。細かく刻んだ香草が浮かび、湯気には乳の甘い香りが混じっていた。
一口食べる。
「柔らかい」
「昨日の炒め煮より味が優しいです」
モモが目を細める。
「朝向きですね」
シモンも口にする。
「これも覚えたいな」
「料理本に書きます?」
「本に書き込むのは嫌だな」
「なら紙へ」
「帰る頃には紙が増えてそう」
そんな話をしながら食べ進める。
ルシルは半分ほど食べたところで、木匙を置いた。
「シモン」
「はい」
「昨日の変な言葉なんだけど」
モモも顔を上げる。
「しゃしん、ですか?」
「うん」
ルシルは自分の頭を指で軽く叩いた。
「昨日の夜も考えたけど、やっぱり思い出せなかった。どこで聞いたとか、誰に教わったとか」
「体調は?」
「普通。頭も痛くないし、変な夢も見てない」
「今朝、他に思い出したことはありますか?」
「ない」
「その言葉から何を連想します?」
「昨日と同じ。景色とか人とかを、一瞬で絵みたいに残す……何か」
自分で言いながらも、輪郭が掴めない。
紙に描くのか。
魔法なのか。
道具なのか。
そこまでは分からない。
モモは少し考え込んでいた。
「私、聞いたことないです」
「僕もありません」
シモンも静かに答える。
「王城の書庫で読んだ言葉だった可能性は?」
「分からない」
「古語や外国語という可能性もありますが、今の情報だけでは判断できませんね」
「調べる?」
ルシルが尋ねる。
シモンはすぐには答えなかった。
案内図から視線を外し、ルシルの表情を見ている。
「ルシル様は、今すぐ調べたいですか?」
問い返され、少し考えた。
気になる。
それは間違いない。
けれど、そのために今日一日、古い本や言葉を探し回りたいかと聞かれると違った。
「……そこまでじゃない」
「では、言葉だけ記録しておきましょう」
シモンは荷物から小さな紙片を一枚出した。
「音は『しゃしん』。ルシル様が昨日、沢沿いの白い花を見た時に口にした。意味として浮かんだのは『景色などを一瞬で絵のように残すもの』。体調変化なし。他の記憶なし」
「そこまで書くんだ」
「後で確認するなら、いつ、どういう状況で出た言葉なのかが分からなくなっては困ります」
「確かに」
「ただし、今の段階ではそれ以上の意味を持たせません」
紙片へ短く記す。
それを見ていたモモが、少し安心したように息を吐いた。
「じゃあ今日は普通に町を見ます?」
「そのつもりです」
「よかった」
ルシルが横を見る。
「モモ、心配してた?」
「少しだけ」
モモは木匙を持ったまま、素直に頷いた。
「昨日、ルシル様が知らない言葉を突然言ったので。でも今朝も普通ですし、朝ご飯もちゃんと食べてますから」
「そこ判断材料なんだ」
「大事です」
「ルシル様の場合は、多少」
シモンまで同意した。
「俺、食欲で健康判断されてる?」
「分かりやすいので」
「トルクみたい」
「そこまでは言ってません」
三人の間に笑いが戻る。
紙片はシモンがしまった。
分からないものは、分からないまま記録しておく。
それで今は十分だった。
「で、今日どこ行く?」
ルシルは案内図へ身を乗り出した。
◇
昨日は町の上側へ行った。
今日は、セイラの中を歩くことにした。
市場と鐘塔通りはすでに見ているが、宿でもらった案内図を見ると、まだ歩いていない場所がかなりある。
町の西側には職人の工房が集まる一角。
東側には小さな広場と共同浴場。
さらに斜面を一段上がったところには、山の景色を見渡せる古い見張り台跡があるらしい。
「共同浴場」
ルシルの指が止まった。
「そこですか」
シモンが予想していたような顔をする。
「山越えして二日経ったけど、宿では身体拭いただけだろ?」
「宿にも湯を使える設備はありますよ」
「でも共同浴場って書いてある」
「書いてありますね」
「大きい風呂?」
「僕に聞かれても」
モモも案内図を覗き込む。
「男女は別ですよね?」
「当然でしょう」
「じゃあ私、一人?」
「そうなるな」
「少し寂しいです」
「風呂で三人一緒には無理だろ」
「分かってます」
モモは頬を少し膨らませたが、共同浴場そのものには興味があるらしい。
「午前中から入ります?」
「それもいいけど、入った後また坂歩くの嫌じゃない?」
「汗かきますね」
「なら最後?」
「午後にしましょう」
シモンが案内図を指で辿る。
「午前は西側の工房通り。昼食を挟んで、見張り台跡へ行くかはその時の疲れ次第。最後に共同浴場なら無理がありません」
「決まり」
「今日は馬車使わない?」
「使いません。町中は坂と細い道が多いですし、昨日もかなり人通りがありました」
「じゃあトルクとベルクは今日も休みか」
「出発前に二日休ませられると思えばちょうどいいでしょう」
セイラへ来るまで、二頭は山道を歩き続けた。
昨日に続いて今日も休めるなら悪くない。
三人は朝食を食べ終え、いつものように厩へ寄ってから出かけることにした。
◇
厩へ入った瞬間、トルクが顔を出した。
「おはよう」
ルシルが近づく。
今日も元気そうだ。
ベルクも隣の馬房で落ち着いている。
右前肢については、もう昨日までのように特別な確認はしなかった。普通に立ち、普通に動き、厩番からも異常なしと聞いている。
「今日は町の中だけ見てきます」
モモが二頭へ話しかける。
「だからお留守番です」
トルクはモモの声に反応して鼻を伸ばす。
「今日は人参ありません」
鼻が止まった。
「やっぱり言葉分かってない?」
「人参がないことだけは伝わったように見えます」
シモンがベルクの首を軽く撫でる。
「夕方には戻ります」
ベルクは静かに鼻を鳴らした。
二頭の様子を見てから、三人は町へ出た。
◇
セイラの西側は、昨日まで歩いた場所より音が多かった。
金属を打つ高い音。
木を削る音。
鋸を引く音。
ときおり何か重いものを置く鈍い音も混じる。
道幅は中央坂より少し広く、工房の前には材料や完成品を積み下ろすための空間が取られていた。
「ここなら馬車も来るんだ」
ルシルが言う。
「荷物を運ぶ必要がありますからね」
シモンは道の端へ寄りながら答える。
実際、前方では一頭立ての荷車から木材を降ろしている。
荷車の御者と工房の職人が声を掛け合い、長い板を二人で持ち上げていた。
三人は邪魔にならないよう反対側を歩く。
最初に足を止めたのは木工房だった。
店先には椅子や小箱だけでなく、水車に使うらしい羽根板も並んでいる。
「これ、昨日見たやつ?」
ルシルが大きな木板を見る。
「形は似ていますね」
「水車の交換部品かな」
工房の奥から、髭の濃い男性が出てきた。
「見るだけなら好きに見ていいぞ。そっちは水車の羽根だ」
「やっぱり」
「町の?」
「ああ。小さいやつ用だけどな」
ルシルは近くまで寄る。
板はただ真っ直ぐ切っただけではない。
水を受ける部分が少し曲がり、軸へ固定する場所は厚く残されている。
「全部同じ形にするんですか?」
「なるべくな。ばらばらだと回り方が悪くなる」
「手で?」
「手で」
昨日の分水場でも同じような話を聞いた。
魔法を使わなくても直せるようにしている。
「これ作るの、どれくらいかかるんです?」
「一枚だけなら半日もかからん。ただ、水車一つ分を全部替えるなら話は別だ」
職人は作業台の方を見る。
「木も何でもいいわけじゃない。水に強いやつを選んで、乾かして、削って、合わせる」
「水車って、回ってるところしか見たことなかった」
「普通はそうだろ」
職人は笑った。
「壊れた時くらいしか中身なんて見ない」
店の端には、小さな水車の模型も置かれていた。
実用品ではなく、仕組みを確認するためのものらしい。
モモがそれを覗き込む。
「これ、回してもいいですか?」
「横の取っ手ならな」
モモが小さな取っ手を回す。
木の輪が動き、軸につながった別の棒が上下する。
「あ」
ルシルも横から見る。
「回るだけじゃない」
「こいつは粉挽き用の模型だ。実物はもっと大きい」
「昨日、町の入口で見た水車も?」
「たぶん粉挽きだな。店の前に穀物袋あっただろ?」
「見てなかった」
「薄焼きの店ばかり見てましたからね」
シモンが静かに言う。
「覚えてたの?」
「覚えていますよ」
「俺が店見てたこと?」
「かなり分かりやすかったので」
職人まで笑い始めた。
「旅人は食い物見てるくらいが平和でいい」
「ですよね」
ルシルは堂々と頷いた。
工房では何も買わなかった。
けれど出る頃には、水車の羽根がどうやって作られているのか少しだけ知っていた。
◇
次に見つけたのは金属工房だった。
ただし、こちらは中へ入らなかった。
入口近くまで熱気が届いているうえ、職人たちが忙しそうに働いている。
「見るだけにしよう」
ルシル自身から言った。
「珍しいですね」
「何が?」
「ルシル様が先に言うのが」
「仕事中に邪魔したら悪いだろ」
中では赤く熱した金属を打っている。
火花が散る。
壁には農具、釘、鎖、馬具の金具などが掛けられていた。
武器らしいものはほとんどない。
「剣より鍬の方が多いですね」
モモが呟く。
「町で毎日使うのは、ああいうものなのでしょう」
シモンの視線が、壁に並ぶ道具へ向く。
「山道の石組みに使う工具もあります」
「昨日の人たちが持ってたやつ?」
「似ています」
戦うための道具を作る場所ではない。
畑を耕す。
木を切る。
石を割る。
馬具を直す。
町で暮らすための金属が並んでいる。
三人は入口から少し眺め、作業の邪魔をする前に離れた。
◇
工房通りを歩いていると、少し変わった店を見つけた。
軒先に、小さな木製の鳥が何羽も吊るされている。
風が吹くと羽根の部分がくるくる回る。
「鳥」
モモが立ち止まった。
「風車じゃない?」
「鳥です」
「鳥の形した風車」
「両方です」
「入る?」
「入ります」
今日は迷わなかった。
店内には木のおもちゃや置物が並んでいる。
馬。
山羊。
鳥。
小さな荷馬車。
家の模型。
壁には木を組み合わせて作った簡単な仕掛け玩具もあった。
「これ……」
ルシルの目が一か所で止まる。
二頭の馬が並んで小さな馬車を引いている木製模型だった。
「トルクとベルクみたい」
モモも気づく。
「色は違いますけどね」
シモンが近づく。
模型の馬は二頭とも明るい茶色。
馬車は屋根のない荷車だ。
自分たちの馬車とはまったく違う。
それでも二頭並んだ姿を見ると、つい重ねてしまう。
「買う?」
ルシルが尋ねる。
「もう木の馬、二頭ありますよ」
モモが答えた。
ラナで買った小さな木製の馬。
今も馬車の前側の棚に置いてある。
「あれあるもんな」
「これを買ったら、馬車の模型まで増えます」
「棚埋まるな」
「見るだけにしましょう」
シモンが言う。
珍しく、ルシルもすぐ頷いた。
「うん。あの二頭いるし」
すでに持っているものがある。
似たものを見つけたからといって、全部買う必要はない。
代わりにモモが鳥の置物を一つ手に取った。
灰色の身体。
喉の部分だけが橙色に塗られている。
三人の動きが止まった。
「……昨日の鳥?」
ルシルが言う。
「似てます」
モモは置物を両手で持ったまま、店の奥を見る。
「すみません」
「はいよ」
奥から年配の男性が出てきた。
「この鳥、何ていう鳥ですか?」
「ああ、ヤマアカノドだよ」
「ヤマアカノド」
「この辺じゃよく見る。春の終わりから夏にかけて山の中へ増えるんだ」
「鳴き声、高くて短いですか? 二回くらい続けて」
「そうそう。チッ、チッて鳴くだろ」
三人が顔を見合わせる。
「たぶん昨日見たやつだ」
「ですね」
「本に載っていなかった鳥ですね」
名前が一つ分かった。
それだけなのに、妙に嬉しい。
「これ買います」
モモが言った。
「鳥の置物?」
「はい」
「本じゃなくて?」
「昨日見た鳥なので」
モモは置物を眺める。
「馬車に置いたら、見た時のことも思い出せそうです」
「棚増えるぞ?」
「小さいです」
確かに、掌へ収まるほどだ。
シモンは共有棚の状態を思い出しているらしい。
「……一つなら問題ありません」
「やった」
「僕が許可するものでもありませんが」
「でもシモン君が棚を管理してますから」
「いつから僕が棚の管理者になったんです?」
「最初から?」
「初耳です」
店主が三人のやり取りを面白そうに眺めている。
「旅の馬車に置くのか?」
「はい」
「なら底にこれ貼っときな。滑りにくい」
薄い革片を置物の底へ貼ってくれた。
「ありがとうございます」
「山道じゃ置物なんてすぐ転がるからな」
「うちの馬車、結構揺れます」
「馬車は揺れるもんだ」
当然のことを言われ、三人とも笑った。
灰色と橙色の小さな鳥が、共有物へ一つ加わった。
◇
昼が近づく頃には、工房通りをかなり歩いていた。
「腹減った」
「今日は言うと思ってました」
モモが笑う。
「朝から歩いてるから」
「何食べます?」
「今日は俺だけで決めない」
「成長しましたね」
「それくらい前からしてるよ」
三人で周囲を見る。
工房通りだけあって、豪華な食堂は少ない。
代わりに働く人向けの小さな店が何軒かある。
その中から、入口に大鍋を置いている食堂を選んだ。
看板には『坂途中の鍋』。
「そのままの名前」
「分かりやすいです」
中へ入ると、昼休みに入ったらしい職人たちで半分ほど席が埋まっていた。
三人は奥の四人席へ座る。
料理はほぼ一種類。
大鍋から取り分ける煮込みとパン。
肉と豆。
茸。
根菜。
昨日まで自分たちが作っていた旅の煮込みに近いが、汁は濃い茶色で、とろみがある。
「これ何の肉?」
ルシルが木匙で一切れ持ち上げる。
「山羊ですね」
シモンが答える。
「分かる?」
「昨日市場で見ましたから」
一口食べる。
しっかり煮込まれ、肉は柔らかい。
「美味い」
「山羊ってもっと硬いと思ってました」
モモも驚いている。
「部位と調理法でしょうね」
隣の席では職人らしい男たちが、パンを煮込みへ浸しながら勢いよく食べている。
ルシルも真似してみた。
「これいい」
「すぐ真似しますね」
「食べ方分かる人の真似が一番だろ」
「それはそうです」
モモもパンを浸す。
「美味しい」
シモンまで同じようにした。
「シモンもやるじゃん」
「美味しく食べる方法があるなら試しますよ」
「じゃあ三人とも同じ」
山を越えてきた旅人だと知る者もいない。
元王子とも、元聖女とも、元側近とも知られない。
昼時の食堂で、周りの人と同じようにパンを鍋へ浸して食べる。
それだけの時間だった。
◇
昼食を終えて外へ出ると、日差しが朝より強くなっていた。
ただ、山から吹く風は涼しい。
「見張り台、どうする?」
ルシルが尋ねる。
案内図ではここから坂を二つほど上がる。
モモは自分の脚を軽く曲げた。
「行けます」
「シモンは?」
「僕も問題ありません」
「じゃあ行くか」
工房通りから住宅の間へ入る。
見張り台跡への道は細いが、石段が整備されていた。
途中には何度か休憩用の腰掛けがある。
最初の一つは通過した。
二つ目。
「休む?」
「まだ大丈夫です」
モモが答える。
三つ目。
ルシルが立ち止まった。
「休もう」
「ルシル様が?」
「足疲れた」
「素直ですね」
「昨日も山歩いたからな」
三人で腰掛ける。
下を見ると、セイラの屋根が少しずつ広がって見え始めていた。
「昨日、向こうの山から町見たよな」
ルシルが言う。
「はい」
「あの時は屋根しか分からなかった」
「今はどの辺が市場か分かりますね」
モモが指を伸ばす。
「鐘塔があそこだから……市場はあの辺です」
「宿は?」
「水車を探せば」
三人で自分たちの宿を探す。
しばらくして、モモが先に見つけた。
「あれじゃないですか?」
「どれ?」
「あの水路の横。屋根が少し濃いところ」
「……たぶん」
「遠いと分かりにくいですね」
昨日まで歩いた場所が、上から一つにつながって見える。
「もうちょい上行ったらもっと見えるかな」
「そのための見張り台でしょう」
「じゃあ行こう」
少し休んだことで脚も軽くなった。
◇
古い見張り台跡は、町の一番上というわけではなかった。
斜面から少し突き出した岩場に、石造りの基礎だけが残っている。
昔は木造の塔が建っていたらしい。
今は安全のため低い柵が設けられ、町の人が景色を見る場所になっていた。
先客がいた。
老夫婦が一組。
子どもを連れた女性が一人。
三人が近づいても、誰も特別気にしない。
「おお……」
ルシルは柵の前へ立った。
セイラの町が見渡せる。
斜面へ沿って重なる屋根。
その間を縫う坂道。
細く光る水路。
回る水車。
市場の天幕。
工房通りからは、かすかに煙が上がっている。
さらに町の外へ目を向ければ、昨日まで越えてきた山が連なっていた。
「どこから来たんだろ」
ルシルが呟く。
シモンが隣へ立つ。
「あの尾根の向こう側でしょうね」
「昨日町を見た場所は?」
「正確には分かりませんが……」
シモンが山の形を見比べる。
「あの辺りではないでしょうか」
「遠い」
モモが驚いたように言う。
「歩いてきたんですよね」
「馬車でだけどな」
「トルクとベルクが歩いてくれました」
「そうだな」
昨日まで通ってきた道そのものは、山に隠れてほとんど見えない。
けれど、向こう側から来たことだけは分かる。
「海は?」
モモが突然尋ねた。
ルシルは反対側を見る。
山。
さらに山。
遠くまで続く稜線。
「見えない」
「まだですね」
「そりゃそうだろ」
シモンが少し笑う。
「ここで見えたら、目的地がかなり近いことになります」
「ちょっと期待しました」
「俺も少し」
「ルシル様まで」
モモが笑った。
見張り台跡の端には、方角を示す古い石板があった。
文字の一部は擦れているが、近隣の土地の名前が刻まれている。
シモンが確認する。
「次の大きな町へ向かう街道は、やはり南西ですね」
「明日出る?」
ルシルが尋ねる。
「今日中に決める必要はありませんが、出るなら朝に道の状態を確認した方がいいでしょう」
「受付か検問所?」
「宿でもある程度は分かると思います」
「じゃあ帰ったら聞く?」
「ええ」
目的地そのものを今ここで決める必要はない。
ただ、次へ進むなら何が必要かは分かる。
三人はそれ以上旅程の話を続けなかった。
せっかく上まで来たのだから、今は景色を見る。
ルシルは町へ視線を戻した。
昨日の「しゃしん」という言葉が一瞬だけ頭をよぎる。
この景色を、そのまま残せたら。
そう思う。
けれど口には出さなかった。
代わりに、自分の目でしっかり見る。
水路が光る場所。
鐘塔。
市場の天幕。
宿のある辺り。
遠くの山。
全部を覚えられるわけではない。
それでも今見ていること自体は消えない。
「ルシル様」
「ん?」
モモが隣からこちらを見ていた。
「何でもないです」
「何だよ」
「楽しそうだったので」
「うん。楽しい」
それだけ答えた。
◇
見張り台を下りた後、三人は予定通り共同浴場へ向かった。
入口は石造りの小さな建物だった。
派手な看板はない。
『セイラ共同湯』
木札にそれだけ書かれている。
「湯」
ルシルの声が少し弾む。
「さっきから楽しみにしてましたね」
「山越えの後だぞ?」
「二日経ってますけど」
「だから余計に」
入口で料金を払う。
男湯と女湯は当然分かれていた。
「じゃあ後で」
モモが少し残念そうに女湯側を見る。
「先に出ても外で待っててくださいね」
「分かった」
「ルシル様、長湯しすぎないでください」
シモンが言う。
「シモンに言われたくない」
「なぜです?」
「風呂で考え事して長く入りそう」
「偏見です」
「でもありそうです」
モモまで同意する。
「モモ嬢まで」
三人は笑い、それぞれの入口へ分かれた。
◇
男湯は想像していたより広かった。
石造りの浴槽。
壁際には身体を洗う場所。
湯気が天井近くへ溜まり、高い窓から差し込む光が白く霞んでいる。
「おお……」
ルシルは身体を洗った後、ゆっくり湯へ入った。
熱い。
最初の数秒だけ脚が止まりそうになる。
「熱っ」
「いきなり肩まで入らない方がいいですよ」
隣でシモンが呆れる。
「先に言って」
「普通は自分で確かめます」
少しずつ身体を沈める。
慣れてくる。
山道を越えた時には気づかなかった身体の重さが、湯の中でほどけていくようだった。
「……これ、いいな」
「ええ」
シモンも浴槽の縁へ背を預ける。
周囲には町の男たちが数人いる。
仕事帰りにはまだ早いためか混んではいない。
誰も大声で話していない。
水の音と、時々誰かが桶を置く音だけが響く。
ルシルは肩まで浸かり、天井を見る。
「シモン」
「はい」
「俺、こういうところ来たことあったかな」
「王城にも大浴場はありましたが、共同浴場はおそらく初めてでしょう」
「そうじゃなくてさ」
ルシルは周囲を見た。
「知らない人と一緒に風呂入るの」
「それは確実に初めてでしょうね」
「だよな」
向こうでは年配の男が目を閉じている。
別の男は身体を洗っている。
こちらを気にする者はいない。
元王子だと知らない。
誰も席を空けない。
誰も湯加減を確認しに来ない。
ただ同じ湯へ入っている。
「変な感じ」
「嫌ですか?」
「全然」
ルシルは笑った。
「むしろ、すごくいい」
シモンはその横顔を見たあと、何も言わず目を閉じた。
湯気がゆっくり流れていく。
しばらくして。
「シモン」
「何です?」
「寝てない?」
「寝てません」
「返事遅かった」
「湯に入っている時くらい静かにしてください」
「はい」
ルシルも目を閉じた。
今度こそ静かにする。
◇
外へ出ると、モモはまだだった。
「俺たちが先?」
「そのようですね」
二人は建物の前にある長椅子へ座った。
身体が温まっているため、山の風が気持ちいい。
「何か飲みたい」
「水ならありますよ」
「冷たいの」
「同じでしょう」
入口横に飲用水の桶がある。
二人で一杯ずつ飲んだ。
「美味い」
「昨日、水源を見たからですか?」
「それもあるかも」
少し待つ。
やがて女湯の入口からモモが出てきた。
頬がほんのり赤い。
桃金色の髪はいつもより少し湿り、後ろで緩くまとめられている。
「お待たせしました」
「気持ちよかった?」
「すごく」
モモは満足そうに笑う。
「広かったです。あと、町のおばあさんに髪が綺麗って言われました」
「話したの?」
「少しだけ。旅で来たって言ったら、山道大変だったでしょうって」
「何かおすすめ聞いた?」
「聞いてません」
「珍しい」
「お風呂で食べ物の話ばかりしません」
「ばかりって言った」
「ルシル様が言わせたんです」
シモンが立ち上がる。
「帰りましょう。湯冷めしますよ」
「はーい」
モモの返事に、ルシルも立ち上がった。
◇
宿へ戻る途中、昨日買った鳥の置物を思い出した。
「あれ、馬車に置きに行く?」
「今日買ったばかりですよ」
「だから」
三人は宿へ戻ると、そのまま厩の横にある馬車置き場へ向かった。
焦げ茶色の馬車は、昨日から同じ場所で休んでいる。
扉を開ける。
中には旅の途中で少しずつ増えたものがある。
鳥の本。
草花の本。
鍋料理の本。
新しい地図。
ラナで買った二頭の木製の馬。
そしてモモの菓子を置く棚。
「ここ?」
モモが小さなヤマアカノドの置物を持つ。
二頭の木馬の近く。
「馬の横に鳥?」
「いいんじゃない?」
「鳥、馬に踏まれません?」
「置物だから踏まないよ」
「そういう意味ではなくて」
結局、木馬より少し上の棚へ置くことになった。
底に貼ってもらった革のおかげで、軽く揺らしても滑りにくい。
「これで山道走っても大丈夫かな」
「実際に走ってみないと分かりませんね」
「落ちたら場所変えよう」
「はい」
モモは満足そうに一歩下がった。
「増えましたね」
「まだ少しだよ」
「本もあります」
「旅してるんだから増えるだろ」
「そのうち棚を追加することになるかもしれませんね」
シモンが何気なく言った。
ルシルとモモが同時に振り返る。
「追加できる?」
「そこへ反応しないでください」
「今シモンが言った」
「可能性の話です」
「どこにつける?」
「まだつけません」
「ガイルさんに頼めば――」
「ヘルガスまで戻るつもりですか?」
「あ」
馬車を買った町は、もうかなり後ろだ。
「別の職人でもできるかな」
「できるでしょうが、今は必要ありません」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんになりましたね」
モモが笑う。
馬車の中でしばらく過ごし、荷物の位置も軽く確認する。
明日出発すると決まったわけではない。
それでも、いつ出ることになっても慌てない程度には整えておく。
◇
夕方。
三人は宿の受付で、次の街道について尋ねた。
「南西へ抜ける道?」
受付の女性は帳面から顔を上げる。
「今朝来た荷馬車の話じゃ、通行止めはないよ。セイラから先はしばらく下りが多いけど、昨日までの雨ももう乾いてきてる」
「次に泊まれる場所は?」
シモンが尋ねる。
「馬車旅なら、街道沿いに一つ宿場がある。普通に進めば一日で届く。ただし、途中に長い下りがあるから馬次第だね」
「野営できる場所はありますか?」
「あるよ。宿場まで行かなくても、途中に二か所。水場があるのは手前の方」
女性は紙へ簡単な位置を書いてくれた。
「明日の朝、出る前にもう一度聞いた方がいい?」
「それが確実だね。夜に入ってくる荷馬車があれば新しい話も聞けるし」
「ありがとうございます」
情報はそれだけで十分だった。
部屋へ戻る前、三人は食堂の端で少しだけ話す。
「どうする?」
ルシルが尋ねた。
「セイラ、もう一日見たいところある?」
モモは考える。
市場。
鐘塔。
薬草店。
水路。
分水場。
滝。
工房通り。
見張り台。
共同浴場。
二日間でかなり歩いた。
「まだ見てないところはあります」
「うん」
「でも、今すぐ絶対見たいところはないです」
モモはそう答えた。
「シモンは?」
「僕も同じですね。必要な補給もできますし、馬も十分休ませられました」
「じゃあ……明日、道が大丈夫なら出る?」
「僕は賛成です」
「私も」
決まった。
大げさな話し合いにはならなかった。
セイラが嫌になったわけではない。
飽きたわけでもない。
ただ、次へ進みたいと思った。
「じゃあ朝、最終確認してから」
「はい」
「今夜のうちに荷物まとめる?」
「ほとんど馬車にあります。部屋へ持ってきた分だけで十分です」
「楽だな」
「忘れ物だけしないでくださいね」
「しないよ」
「グレイで宿の延長を忘れかけた人が言っても」
「それは忘れ物じゃない」
「似たようなものです」
モモが笑う。
「明日はセイラ出発ですね」
「道が問題なければな」
ルシルは食堂の窓を見る。
外では水路が夕暮れの光を映している。
来た日には、ただ綺麗な水だと思った。
今はその上に分水場があり、管理する人がいて、詰まりを掃除する人がいて、さらに山の沢と滝があることを知っている。
町を全部知ったわけではない。
それでも、来た時よりは少しだけセイラが近く感じられた。
◇
夜。
ルシルは荷物をまとめ終え、窓辺へ立った。
明日、出発する。
そう考えると、町へ着いた日の景色が思い出された。
山の向こうから初めて見えた灰色と茶色の屋根。
煙。
畑。
そして、何かを焼く匂い。
実際に町へ入ってみれば、麦焼きだけではなかった。
山青菜もあった。
山羊乳酪もあった。
山椒実もあった。
水車があった。
滝があった。
共同浴場もあった。
知らない鳥の名前も一つ覚えた。
ヤマアカノド。
小さな置物は今、馬車の棚に置いてある。
「……しゃしん」
もう一つだけ、知らない言葉も増えた。
シモンが記録してくれている。
今はそれでいい。
窓の下から人の笑い声が聞こえた。
宿へ戻ってきた旅人らしい。
馬の蹄の音もする。
明日の朝になれば、受付で新しい道の情報が聞けるだろう。
ルシルは窓を閉めた。
明日の準備はできている。
トルクとベルクも休めた。
馬車も問題ない。
あとは朝になって、実際の道を確認するだけだ。
寝台へ入り、毛布を掛ける。
水車の音が、今日も外から小さく聞こえていた。
セイラで過ごす最後になるかもしれない夜。
ルシルはその音をしばらく聞いていたが、やがて目を閉じた。
次に目を開ける頃には、また新しい道を走る朝が来る。




