第45話 山の町を出たら、今度は長い下り道が待っていました
セイラを出る朝は、水車の音から始まった。
こつ、こつ、と一定の間隔で響く木の音に混じり、窓の下を流れる水路から絶え間ない水音が聞こえてくる。三日も滞在していないはずなのに、その二つはすっかり『水車の枝』の朝の音として耳に馴染んでいた。
ルシルは寝台から身体を起こすと、まず窓の外を見た。
空は明るい。
薄い雲が何本か伸びているものの、山を覆うような厚い雲ではない。屋根も石畳も乾いており、昨夜のうちに雨が降った様子もなかった。
「よし」
今日、出る。
昨夜そう決めた。
もちろん、道の状態を確認して問題がなければという条件つきだが、今の空を見る限り、天気の方から止められることはなさそうだった。
荷物はすでにまとめてある。
洗面を済ませ、外套を羽織る。
忘れ物がないか部屋を見回したところで、ルシルは一度扉へ向かい、それから窓際へ戻った。
「……これも」
窓枠の端に置いていた小さな布袋を取る。
昨日、共同浴場へ行く前に外套から出した小銭入れだった。
「危なかった」
誰にも見られていないのに、小さく呟く。
そのまま廊下へ出ると、ちょうど隣の部屋からシモンが出てきた。
「おはようございます」
「おはよう」
シモンの手には旅鞄が一つだけある。
ほとんどの荷物を馬車へ置いているため、部屋へ持ち込んでいたものは少ない。
「忘れ物は?」
「ありません」
「確認した?」
「二度」
「さすが」
「ルシル様は?」
「ない」
一拍置く。
「たぶん」
「今の間は何です?」
「ちゃんと確認したよ」
「なら結構です」
シモンが歩き出す。
そこへ、さらにもう一つの扉が開いた。
「おはようございます」
モモが顔を出す。
白い外套を羽織り、肩から小さな鞄を掛けている。
「モモ、忘れ物ない?」
「ありません」
「確認した?」
「しました」
「何回?」
「一回です」
「俺より自信ある」
「ルシル様は何回したんです?」
「一回」
「同じじゃないですか」
「でも途中で一個見つけた」
「それは忘れ物があったということでは?」
「出発前に見つけたから忘れてない」
モモが笑い、シモンは何も言わず階段へ向かった。
「シモン、今呆れた?」
「朝食へ行くだけです」
「絶対呆れた」
「早く行かないと、出発前から食堂で時間を使いますよ」
「行く」
それにはすぐ反応した。
◇
朝食は黒麦パンと卵、それに刻んだ山青菜を入れた温かなスープだった。
セイラへ着いた日に食べたものとは違う。
昨日とも違う。
短い滞在だったのに、宿では毎朝少しずつ違う料理が出てきた。
「この青菜、最後か」
ルシルがスープの中を木匙で掬う。
「市場で買いましたよ」
モモが答えた。
「馬車にあるのは分かってる。でもセイラで食べるのは最後かもしれないだろ」
「そういう意味ですか」
昨日のうちに、旅へ持っていける食料は補充してある。
硬いパン。
干し肉。
根菜。
山青菜。
それから、セイラで覚えた山芋根も少し。
保存が利く範囲だけだ。
「今度、山芋根の乳煮やってみる?」
「乳をどうするかですね」
シモンが言う。
「町を出た後では新鮮なものを長く持てません」
「じゃあ次に乳が買える町で」
「覚えていれば」
「覚えてるよ」
「料理の話ならルシル様は覚えてそうです」
モモが笑う。
「モモもだろ」
「私はお菓子の方が得意です」
「得意って何が?」
「覚えるのが」
「そこは否定しないんだ」
朝食を食べながら、シモンは受付で聞くことを簡単に確認した。
南西街道の今朝の状況。
昨夜、新しい馬車がセイラへ入ってきたか。
長い下りの路面。
最初の野営適地の水場。
その先の宿場までの距離。
全部を細かく調べ尽くすわけではない。
今日、自分たちが走る道について必要な分だけ知る。
「宿場の名前、まだ聞いてなかったよな」
ルシルが気づく。
「位置ばかり聞いてました」
モモも思い出したらしい。
「受付で確認しましょう」
シモンが言う。
「名前知らないまま向かうのも面白そうだけど」
「道を尋ねる時に不便です」
「それはそう」
朝食を終える。
木椀を置いたルシルは、食堂を一度見回した。
初めて入った時より、ずっと普通の場所に見える。
宿の女性が食器を運び、別の卓では二人組の旅人が朝食を食べている。窓の外を町の人が歩き、水車はいつも通り回っている。
旅人が一組出ていくことなど、この宿にとって珍しくもないのだろう。
「行こうか」
「はい」
三人は立ち上がった。
◇
「南西街道なら、今朝入ってきた荷馬車が一本あるよ」
受付の女性は、シモンの質問を聞くとすぐ答えてくれた。
「夜明け前に向こうの宿場を出てきたって。路面は乾いてる。通行止めもなし」
「長い下りは?」
「そこも問題ない。ただし朝は木陰が湿ってる場所が少し残ってるそうだ。昼にはだいぶ乾くだろうけどね」
「分かりました」
「手前の水場も使える。昨日、水路番が見てきてる」
セイラの町の水だけではなく、街道沿いの水場まで誰かが確認しているらしい。
「次の宿場の名前は?」
ルシルが尋ねる。
「リュカだよ」
「リュカ」
「小さい宿場さ。セイラみたいに町ってほどじゃない。旅人宿と食堂、馬屋、雑貨屋、それから周りの農家が使う店が少しあるくらい」
「普通なら今日中に?」
「馬車なら着ける。ただし、あんたたちは二頭を大事にしてるみたいだからね」
女性は三人の顔を順番に見る。
「途中で泊まってもいいと思うよ。手前の野営地なら水もあるし、翌朝リュカまで半日もかからない」
「ありがとうございます」
「あと長い下りを抜けた先から景色が変わるよ」
モモが反応した。
「どう変わるんですか?」
「見た方が早い」
「教えてくれないんですか?」
「旅人に全部教えたらつまらないだろ?」
受付の女性が笑った。
ルシルも笑う。
「それ、いいな」
「でしょ?」
「じゃあ聞かない」
「ルシル様が我慢しました」
モモが少し驚いた顔をする。
「俺だってできる」
「何か言おうとしましたよね?」
「言ってない」
「顔に出てました」
シモンが受付へ宿代の精算を申し出る。
二泊分。
食事。
馬と馬車。
追加の飼葉。
必要な料金を確認し、共有資金から支払った。
「またセイラへ来ることがあったら寄っておくれ」
女性が鍵を受け取る。
「水車の枝、覚えました」
ルシルが答えた。
「次は山芋根の乳煮、作り方聞きます」
「厨房の人に聞いてくれ」
「教えてもらえる?」
「暇な時間ならね」
「じゃあ次は暇な時間に来る」
「そこまで決めなくてもいいでしょう」
シモンが苦笑する。
最後に礼を言い、三人は宿の裏へ向かった。
◇
厩では、トルクが朝の飼葉をほとんど食べ終えていた。
「元気だな」
ルシルが馬房を覗く。
トルクはすぐこちらへ鼻先を向けた。
ベルクも隣で落ち着いている。
二日間まとまって休めたこともあり、山越え直後より身体の張りが取れているように見えた。
厩番の青年もやってくる。
「二頭とも問題ないですよ。濃灰の方も、右前は昨日一日変なところなし」
「ありがとうございます」
シモンが礼を言う。
これでベルクが濡れた石で滑った件は、ひとまず気にし続ける必要はなさそうだった。
「今日は南西へ?」
「はい。リュカ方面です」
「なら最初の下りだけ気をつけて。道は悪くないけど長いから」
厩番はベルクの首へ触れ、それからトルクを見る。
「こいつらなら大丈夫そうだけど、途中で一回休ませるといい」
「そうします」
馬房から二頭を出す。
ルシルも革具を運び、モモは留め具を確認する。
初めて馬車を買った頃なら、何をどの順番でするのか一つ一つシモンへ尋ねていた。
今はそれぞれが自然に動く。
だからといって、慣れたつもりで確認を省くことはしない。
「こっちよし」
ルシルが留め具を見る。
「私の方も」
モモが反対側から答える。
シモンが最後に全体を確認した。
「問題ありません」
馬車置き場へ二頭を連れていく。
焦げ茶色の馬車も、二日間静かに置かれていた。
扉を開ければ、昨日置いたばかりのヤマアカノドの木製置物が棚の上にいる。
「あ」
モモがすぐ確認した。
「ちゃんといます」
「まだ走ってないからな」
「今日が試験です」
「置物の?」
「はい」
「落ちないといいな」
その下にはラナで買った二頭の木馬。
隣には本。
旅を始めた時にはなかったものが、少しずつ馬車の中へ増えている。
ルシルは扉を閉じた。
「よし。行ける」
トルクとベルクをつなぎ、馬車をゆっくり宿の裏手から出す。
今日はシモンが最初の御者を務めることになった。
町を出た直後から長い下りが始まると聞いている。
ルシルも運転したかったが、そこへ無理に割り込むつもりはなかった。
「下り終わったら代わる」
「道次第ですね」
「予約だけ」
「予約制ではありませんよ」
「じゃあ希望」
「それなら聞いておきます」
ルシルとモモは馬車へ乗る。
シモンが手綱を取った。
「行きますよ」
「うん」
「お願いします」
馬車が動き出した。
◇
セイラの朝は、すでに動いていた。
宿の前の水路では、店の女性が籠を洗っている。
工房へ向かうらしい男たちが坂を上り、昨日歩いた市場の方からは荷車が一台下りてきた。
シモンは端へ寄せて道を譲る。
「おはよう!」
荷車の御者が声を掛けた。
「おはようございます」
三人も返す。
ただそれだけですれ違う。
鐘塔の近くを通る。
昨日とは違い、今日は立ち止まらない。
工房通りへ続く道も見える。
「あそこで鳥買ったんだよな」
「昨日ですよ」
「もうちょっと前に感じる」
「色々歩きましたからね」
モモが窓の外を見る。
薄焼きを売る店の前も通った。
窯にはすでに火が入り、店主が生地を並べている。
「あ」
ルシルの声に、シモンが前を向いたまま言う。
「止まりませんよ」
「何も言ってない」
「声で分かります」
「朝飯食べたばっかだし」
「持ち帰りなら――」
モモが言いかける。
「モモまで」
「冗談です」
「今ちょっと本気だっただろ」
「少しだけです」
店の前を通り過ぎる。
焼けた麦と香草の匂いが馬車へ入り込んだ。
「また来たら食べよう」
ルシルは店を振り返った。
買わなかったことを後悔するほどではない。
ただ、次に来た時の楽しみが一つ残った。
やがて、町の南西側の出入口が見えてきた。
花谷側から入った検問所とは別の、小さな街道口だ。
ここにも石壁と木柵がある。
馬車は二台ほど並んでいた。
シモンが最後尾へつける。
「本当に出るんですね」
モモが言った。
「昨日決めたじゃん」
「決めましたけど、入口まで来ると実感します」
「俺も」
前の荷馬車が一台進む。
その向こうには、セイラの外へ続く道が見える。
山の斜面に沿い、緩く曲がりながら下っていた。
順番が来る。
「三人、二頭、馬車一台ですね」
係員の男性が確認する。
「はい」
「行き先は?」
「リュカ方面です」
「今朝の街道情報は聞いてますか?」
「長い下りの木陰に湿った箇所が残る可能性があることと、手前の野営地の水場が使えることは聞きました」
「なら大丈夫だ。下りの途中に待避所が三つある。後ろから速い荷馬車が来たら、無理に速度合わせないでそこで譲ってください」
「分かりました」
「あと、今日のところは落石報告なし。風も弱い」
「ありがとうございます」
係員が木札を動かす。
通行可能の合図。
「気をつけて」
「はい」
トルクとベルクが歩き出す。
木柵を抜ける。
セイラの町が、馬車の後ろへ回った。
◇
町を出てすぐ、道は下り始めた。
最初は緩い。
それでもシモンは速度を上げない。
山側には木々。
谷側には低い石組み。
街道そのものはよく整備されている。
ルシルは馬車の後ろからセイラを振り返った。
まだ屋根が見える。
高い位置には昨日登った見張り台跡らしい場所も見えた。
「あそこ行ったんだよな」
モモも隣から覗く。
「上から見た時より、町が大きく見えます」
「近いからな」
「当たり前ですけど」
「水車は見えないな」
「音ももう聞こえません」
少し前まで毎朝聞いていた音が、町を出ただけで消えた。
代わりに聞こえるのは、車輪の音と蹄の音。
木々を抜ける風。
山鳥の声。
「鳥」
モモが反応する。
「昨日の?」
「違います。声が違います」
「見える?」
「見えません」
「じゃあ本も無理だな」
「見えても今は本を開きません」
「学んだ」
「最初から分かってました」
二人の会話を聞きながら、シモンが小さく笑った。
下りは次第に長くなる。
急斜面ではないが、平らになる場所がなかなか来ない。
トルクとベルクの歩調も、上りとは違っていた。
前へ引くのではなく、後ろの馬車の重さを受けながら進む。
ルシルは二頭の脚だけでなく、馬車との距離を見る。
シモンは一定の速度を保っている。
「こういう下り、俺がやるなら何に一番気をつける?」
ルシルが尋ねる。
「まず、速度を出さないことです」
「うん」
「次に、前だけを見て急な操作をしないこと。下りでは車体の重さがあります。曲がり角を見てから慌てて速度を落とすのでは遅い」
「曲がる前に?」
「ええ。先が見えないなら、その前から落とす」
ルシルは前を見る。
ちょうど道が右へ曲がっている。
シモンはかなり手前から速度を抑えていた。
「あと、馬が嫌がる動きをしたら?」
「無理に進ませず、まず原因を見ます。路面かもしれませんし、音や匂いかもしれない」
「ベルクは他の馬もあるな」
「ありますね」
本人の名前が出たからではないだろうが、ベルクの耳が少し動いた。
「聞いてる?」
モモが笑う。
「さすがに内容までは分からないでしょう」
「人参は分かってそうなのに」
「それも怪しいです」
下りの途中、最初の待避所が見えた。
道の山側を削って作った平らな場所だ。
今は誰もいない。
シモンはそこへ馬車を入れた。
「休憩?」
「短く。最初の区間を下りましたから」
三人が降りる。
トルクとベルクの息は少し上がっているが、苦しそうではない。
水を少量。
脚と革具。
車輪。
必要なところだけを見る。
「下りって、本当に馬が楽じゃないんだな」
ルシルがトルクの肩へ触れる。
上りほど身体を前へ押し出しているようには見えない。
それでも筋肉はしっかり使っている。
「後ろから馬車が来ます」
モモが道の上を見た。
遠くから鈴の音がする。
「じゃあちょうど譲れる」
三人は馬車を待避所の奥へ寄せたまま待つ。
ほどなく、二頭立ての荷馬車が下ってきた。
かなり大きい。
荷台には布で覆われた樽が積まれている。
御者は五十代くらいの女性だった。
「休憩かい?」
「はい!」
ルシルが答える。
「先どうです?」
「乾いてるよ! 二つ目の待避所を過ぎた先に日陰があるけど、そこだけまだ少し湿ってる!」
「ありがとうございます!」
「そっちの馬、いい体してるね!」
女性は速度を落としたままトルクとベルクを見る。
「セイラまで上るんですか?」
「そうさ! 向こうの農場から乳酪を運んできた!」
モモが反応する。
「乳酪!」
「お嬢ちゃん、好きかい?」
「好きです!」
「セイラの市場に昼前には並ぶよ!」
「私たち今出てきたところです!」
「あら、それは残念!」
女性が大きく笑った。
「また来た時に食べな!」
「はい!」
荷馬車が通り過ぎる。
モモはその後ろ姿を見送った。
「乳酪……」
「昨日食べたじゃん」
「違う農場かもしれません」
「戻らないよ?」
「分かってます!」
シモンが眼鏡の位置を直す。
「出発しますよ」
「シモン君、冷たいです」
「昼食前にセイラへ戻る理由にはなりません」
「戻りませんって」
笑いながら馬車へ戻った。
◇
二つ目の待避所を越えた先で、教えられた通り木陰が濃くなった。
シモンは手前で速度を落とす。
路面の一部がまだ黒い。
「降りて見る?」
ルシルが尋ねる。
「ここから見える範囲では浅い湿り方ですが、一度確認しましょう」
馬車を平らな位置で止める。
三人で歩いて見る。
泥ではない。
水が溜まっているわけでもない。
木々から落ちた露と、斜面から染み出したわずかな水分で表面だけ湿っているようだった。
「石は?」
モモがしゃがまずに路面を見る。
「少ないですね」
シモンが靴底で土を軽く押す。
沈み込みもほとんどない。
「これなら通れます」
「シモンのまま?」
「ええ。この下りを抜けるまでは」
ルシルも異論はなかった。
馬車へ戻る。
速度を十分落とし、湿った区間へ入る。
蹄の音が少し鈍くなる。
車輪も乾いた道より重い音を立てた。
けれど滑らない。
沈まない。
ベルクも嫌がる様子はなかった。
「抜けた」
モモが後ろを見る。
「うん」
ルシルも振り返る。
ただ湿っていた道が後ろへ離れていく。
それだけだった。
シモンはしばらく進み、三つ目の待避所で再び馬車を止めた。
「ここで交代しましょう」
「俺?」
「希望していたでしょう」
「する!」
「道を見てからですよ」
ルシルは先を見る。
長かった下りは、ここから少しずつ緩くなっている。
曲がりも大きく、先まで見通せる。
「やる」
「では僕は隣に座ります」
「私、後ろ見ます」
役割が自然に決まる。
ルシルは御者台へ上がり、シモンから手綱を受け取った。
「トルク、ベルク。もう少し頼むな」
二頭の耳が動く。
馬車が再び進み始めた。
◇
長い下りの終わりは、はっきりした坂の終点ではなかった。
気づけば傾斜が緩くなり、馬車の重さを強く意識しなくても進めるようになっている。
そして、周囲の木々が変わり始めた。
「……あれ?」
最初に気づいたのはモモだった。
「木、低くなってません?」
ルシルも周囲を見る。
セイラ周辺に多かった背の高い針葉樹が減っている。
代わりに枝を横へ広げる木が増え、地面にも低い草が目立つ。
「受付の人が言ってた景色の変化、これ?」
「まだ分かりません」
シモンが言う。
道はさらに進む。
左へ大きく曲がった。
そこで、木々が途切れた。
「おお……」
ルシルは思わず声を上げた。
山が終わったわけではない。
けれど、目の前にはこれまでとはまったく違う景色が広がっていた。
山と山の間に、広い高原のような土地が伸びている。
緩やかな起伏。
薄い緑の草地。
ところどころに畑。
遠くには小さな家々。
その間を一本の街道が蛇行しながら続いていた。
空が広い。
山道では左右を斜面や木々に囲まれていたため、余計にそう感じる。
「広いです……」
モモが馬車の後ろから顔を出す。
「セイラへ行く前の花谷とも違いますね」
「花少ないな」
「畑が多いです」
シモンも遠くを見る。
「この辺りから農地が増えるのでしょう。先ほどの荷馬車も農場から来たと言っていましたから」
「乳酪の」
「そこだけ覚えてる?」
「大事です」
道の横には、低い石垣で囲まれた草地がある。
その中で白と茶色の動物が何頭か草を食べていた。
「山羊?」
ルシルが目を向ける。
「山羊ですね」
「セイラで食べた肉とか乳酪、ああいうところから来るのかな」
「可能性はあります」
今まで町で見ていた食べ物の向こう側が、少しだけ見えた気がした。
ルシルは手綱を持ったまま、道へ意識を戻す。
路面は山道よりずっと穏やかだ。
乾いている。
幅も広い。
それでも速度は急に上げない。
トルクとベルクは長い下りを終えたばかりだ。
「次の休憩、どこ?」
「地図だと少し先に街道脇の水場があります」
「野営地とは別?」
「別です。小さな休憩所のようですね」
「そこまで行こう」
「はい」
◇
高原へ下りてから、風の匂いも変わった。
針葉樹の樹脂の匂いが薄れ、代わりに草と乾いた土の匂いが強くなる。
遠くから家畜の鳴き声も聞こえた。
街道脇には、ときどき低い石柱が立っている。
道標ではなく、土地の境界を示すものらしい。
「セイラの山の中と全然違うな」
ルシルが言う。
「半日も走ってないのに」
「高さが変われば植生も変わりますから」
シモンが答える。
「植生」
「生えている植物の種類や状態です」
「それは分かる」
「ならなぜ繰り返したんです?」
「シモンが難しい言葉使ったなと思って」
「この程度で?」
「ルシル様、王子様だったんですよね?」
モモが後ろから言う。
「元な」
「勉強してたんですよね?」
「してたよ」
「じゃあ植生くらい」
「分かってるって!」
笑い声が馬車の中へ広がる。
やがて、前方に小さな石造りの水場が見えた。
低い屋根。
水桶。
馬をつなぐための横木。
先客はいない。
「休もう」
ルシルは馬車をゆっくり寄せた。
平らな場所へ止める。
三人が降りる。
まず二頭。
水をすぐ大量に飲ませず、息を整えさせる。
ルシルはトルクの首へ触れた。
「お疲れ。長かったな」
シモンはベルクを見る。
二頭とも疲れはある。
だが、セイラへ着いた日のような山越え直後の疲れ方とは違う。
まとまった休養を挟んだ分、余裕があるようだった。
「今日はどこまで行く?」
モモが水場の屋根の下へ入りながら尋ねる。
「もう決める?」
ルシルも日陰へ入る。
「今の状態なら、まだ進めますよね?」
「ええ。ただ、ここからリュカまでの正確な所要時間は僕たちの速度では分かりません」
シモンが地図を広げる。
「手前の野営地はこの先です。まずそこまで進んで、着いた時間と二頭の状態を見ましょう」
「それでリュカ行くか、泊まるか」
「はい」
「じゃあそれで」
モモも頷いた。
今いる場所で夕方までの予定を全部決める必要はない。
ただし、何も考えず進むわけでもない。
次に判断する場所だけ決める。
水場で少し休み、三人も水を飲む。
モモが荷物から小さな包みを出した。
「食べます?」
「何?」
「昨日市場で買った干し果物です」
「いつ買ったの?」
「ルシル様が山芋根見てた時です」
「知らなかった」
「言ってませんでした」
包みを開く。
薄く切って乾燥させた赤い果物。
「甘い?」
「少し酸っぱいって言ってました」
一枚ずつ取る。
ルシルが口へ入れる。
最初に酸味。
噛むと遅れて甘さが出る。
「美味い」
「行動食にいいですね」
「前も干し果物、山で食べたな」
「種類は違います」
「これ何?」
モモの手が止まる。
「……聞いたんですけど」
「忘れた?」
「名前が少し長くて」
シモンを見る。
「僕は購入時にいませんでしたよ」
「じゃあ名前分からない干し果物?」
「市場へ戻れば分かります」
「戻らないって」
「次に似たものを見つけたら聞きます」
モモはもう一枚食べた。
「美味しいので問題ありません」
「名前知らないまま食べてる」
「買う時には聞きました」
「忘れただけか」
「はい」
それなら仕方ない。
三人で少しずつ食べ、残りは包み直した。
◇
休憩を終え、再び出発する。
今度もルシルが手綱を持った。
道が穏やかなため、シモンも交代を求めない。
高原の街道は見通しがいい。
ただし、遠くまで見えるせいで距離感が狂う。
「あの家、近そうで全然近づかない」
ルシルが前方の農家を見る。
「目印が少ないからでしょうね」
「山道だと曲がったらすぐ景色変わったのに」
「こっちはずっと見えます」
モモが後ろから言う。
しばらく進んで、ようやく農家の横を通過した。
木柵の向こうで山羊が草を食べている。
その近くにいた少年が馬車を見て手を振った。
モモがすぐ振り返す。
ルシルも片手を上げたいところだったが、今は手綱を持っている。
「俺の分も振って」
「はい」
モモが両手で振った。
「両手だと俺の分か分からなくない?」
「二人分です」
「なるほど」
少年は楽しそうにさらに大きく手を振った。
馬車が通り過ぎる。
それだけの出来事だった。
さらに進むと、道の脇に白い花が咲いていた。
ルシルは一瞬だけ目を向ける。
昨日の沢で見た花とは違う。
花谷で見た白風花とも違いそうだ。
「モモ」
「見ました」
「本?」
「今は出しません」
「やっぱ学んでる」
「だから最初からです!」
少し先に休む場所があれば、その時に見ればいい。
なければ覚えている範囲だけで後から探す。
名前を知らない花は、名前を知らないまま道端に咲いている。
◇
午後へ入ってしばらくした頃、前方の街道に人影が見えた。
「歩いてる人?」
ルシルは速度を少し落とす。
一人ではない。
四人。
近づくにつれて、背負い籠を持った旅人だと分かった。
先頭は年配の男性。
その後ろに若い男女が二人。
最後にもう一人、杖を持った女性。
全員徒歩だ。
馬車の音に気づき、道の端へ寄ってくれる。
「こんにちは!」
モモが声を掛ける。
「こんにちは」
先頭の男が返す。
ルシルは十分距離を取り、歩く程度の速度ですれ違おうとした。
その時、最後尾の女性が馬車を見上げた。
「リュカへ行くの?」
「その方向です」
「なら、手前の野営地を使うなら今日は少し混むかもしれないよ」
シモンが反応する。
「何かあるんですか?」
「さっき追い抜いていった行商の馬車が二台。たぶんあそこへ入るって言ってたから」
「二台」
「場所はある?」
ルシルが尋ねる。
「五、六台なら停められるよ。ただ、水場の近くから埋まるだろうね」
「ありがとうございます」
「リュカまで行くなら、この先も道はいいよ。私たちはセイラまでだけど」
「歩いて?」
モモが驚く。
「そう。朝にリュカを出た」
「どれくらいかかりました?」
「私らは歩き慣れてるから参考にならないよ」
女性が笑った。
「でも、あんたたちの馬車なら夕方前にはリュカへ着けるんじゃないかな。馬を無理させなければね」
「分かりました」
四人へ礼を言う。
馬車を再び進める。
「野営地、先客二台」
ルシルが言う。
「まだ満杯ではなさそうですね」
「リュカまで行ける可能性もある」
モモが前を見る。
「でも今決めなくていいんですよね?」
「野営地で一回止まる」
ルシルが答えた。
「その時に見る」
「はい」
◇
手前の野営地へ着いたのは、太陽がまだ十分高い時間だった。
街道から少し外れた平坦な草地。
低い石囲い。
共同の水場。
聞いていた通り、すでに二台の行商馬車が停まっていた。
一台は幌つき。
もう一台は荷台へ木箱を積んだ大型馬車。
それでも場所にはかなり余裕がある。
「ここか」
ルシルは入口近くで馬車を止めた。
行商人らしい男が一人、馬へ水をやっている。
「こんにちは」
「おう、こんにちは」
「少し休ませてもらっても?」
「街道の野営地なんだから俺に聞かなくていいよ」
男が笑う。
「場所なら空いてる」
「ありがとうございます」
三人は邪魔にならない位置へ馬車を寄せた。
トルクとベルクを休ませる。
長い下り。
その後の高原道。
二頭ともよく歩いている。
シモンが状態を見る。
「疲れてはいますが、まだ余力はありますね」
「リュカまで行けそう?」
「行くこと自体は可能だと思います」
ルシルは二頭を見る。
トルクは水を飲みたそうにしている。
ベルクも落ち着いている。
今日ここで泊まれば、かなり早い時間の野営になる。
進めば夕方前には宿場へ着ける可能性がある。
「モモは?」
「私はどっちでも」
「それ一番困る答え」
「じゃあ……リュカ行ってみたいです」
「理由は?」
「宿場のご飯が気になります」
「よし、俺も」
「判断基準が食事になりましたね」
シモンが言う。
「シモンは?」
「二頭の状態、時刻、路面を考えるなら進んでも問題ないと思います。ただし、途中で状態が変われば止まります」
「じゃあ行こう」
決まった。
野営地へ着いたから泊まるわけではない。
宿場まで行けそうだから必ず行くわけでもない。
今の状態なら進める。
だから進む。
「少し長めに休んでからですね」
「うん」
三人も石囲いの近くへ座った。
行商の馬車から話し声が聞こえる。
風が草を揺らす。
セイラの水車の音は、もうどこにもない。
代わりに広い高原を渡る風の音が続いていた。
◇
休憩後、御者はモモへ交代した。
「私?」
「やる?」
ルシルが尋ねる。
「やります」
モモは御者台へ座った。
シモンが隣。
ルシルは後方へ回る。
「道広いですね」
「その分、速度を出しすぎないように」
「はい」
「後ろは俺見る」
「お願いします」
馬車が野営地を出る。
二台の行商馬車が後ろへ離れる。
モモの運転は、以前よりずっと落ち着いていた。
真っ直ぐな道だからといって、無闇に速くしない。
前方に小さな石があれば早めに進路を選ぶ。
後輪まで同じ場所を通ることを考える。
ルシルは後ろから見ていたが、口を挟む場面はほとんどなかった。
「ルシル様」
「何?」
「静かですね」
「言うことないから」
「景色は言っていいですよ」
以前、山の分岐を越えた後にモモ自身が言ったことだった。
危険は教えてほしい。
けれど自分が見えていることまで全部先回りして言われると、自分で判断しているのか分からなくなる。
景色なら教えてほしい。
ルシルは左右を見る。
「あ、右に山羊めっちゃいる」
「どこです?」
「柵の向こう。白いの十……いや、もっと」
モモは前方から視線を外さない範囲で一瞬だけ見る。
「本当です」
「子どもいる」
「見たいです」
「運転中」
「分かってます」
「あとで似たのいたら止まる?」
「そこまではしなくて大丈夫です」
「じゃあ俺が見とく」
「お願いします」
シモンが隣で小さく息を吐いた。
「良い役割分担なのか分からなくなってきましたね」
「いいんじゃない?」
「平和です」
モモが笑う。
それにはシモンも否定しなかった。
◇
夕方が近づく前。
高原の向こうに、屋根がいくつか見え始めた。
セイラのように斜面へ広がる町ではない。
街道沿いに建物が集まり、その周囲へ畑と牧草地が広がっている。
「リュカ?」
モモが声を上げる。
「位置的にはそうでしょう」
シモンが地図を確認する。
ルシルは後ろから身を乗り出した。
「小さいな」
「宿場ですからね」
近づくにつれ、建物が増える。
街道沿いに大きな厩。
二階建ての宿。
食堂らしい建物。
雑貨屋。
鍛冶場。
その後ろには民家が十数軒。
さらに畑。
セイラよりずっと小さい。
けれど街道には馬車が何台も停まっていた。
「旅人多くない?」
「宿場ですから」
「そっか」
ここは観光の町ではない。
山を越える人。
セイラへ向かう人。
その先へ行く人。
荷物を運ぶ人。
そうした者たちが途中で休む場所なのだろう。
入口に大きな門はなかった。
代わりに街道脇へ石柱が立っている。
文字が刻まれていた。
『リュカ宿場』
「着いた」
モモが笑う。
「着いたな」
ルシルも笑った。
朝にはセイラにいた。
水車の音を聞きながら朝食を食べた。
それが今は、高原の小さな宿場まで来ている。
「まず馬」
「はい」
「宿探しはその後」
「分かっています」
三人の答えが自然に重なった。
モモは宿場へ入ってすぐの広い場所で馬車を止める。
看板がいくつかある。
厩つきの旅人宿が二軒。
共同馬屋が一軒。
「どこにする?」
ルシルが降りる。
「馬車置き場を見ましょう」
シモンも降りた。
セイラへ着いた時と同じように、宿の名前だけでは決めない。
トルクとベルクが休みやすいところ。
馬車を安全に置けるところ。
部屋。
食事。
必要なものを順番に見る。
その時。
風に乗って、何かの匂いが流れてきた。
ルシルが止まる。
モモも止まった。
二人が同じ方向を見る。
「……焼いてる」
「焼いてますね」
街道の向こう。
食堂らしい建物の前から煙が上がっている。
肉の脂が焼ける匂い。
香草。
それから、少し甘い香り。
「何だろ」
「後で見に行きましょう」
「モモ、さっき宿場のご飯気になるって言ってたもんな」
「はい」
二人が同時にシモンを見る。
「まず馬と宿です」
「分かってる」
「分かってます」
また返事が揃う。
シモンは一度だけ空を見上げ、それから小さく笑った。
「それが終わったら行きましょう」
「シモンも食べたい?」
「匂いは気になります」
「よし」
「なぜルシル様が勝ち誇るんです?」
セイラを出た日の夕方。
三人と二頭と一台の馬車は、新しい宿場へ辿り着いた。
山を越えた先の道には、もう山道とは違う景色が広がっている。
けれど、着いた場所で最初にすることだけは変わらない。
まずトルクとベルクを休ませる。
宿を決める。
それから――。
「何焼いてるか見に行こう」
「はい!」
「まだ宿を決めていませんよ」
香ばしい匂いの向こうで、誰かの笑い声が聞こえた。
リュカでの最初の夜は、まだこれからだった。




