第46話 宿場に着いたなら、まず馬を休ませてから晩ごはんです
リュカ宿場へ入ったばかりの馬車の横で、ルシルとモモは揃って同じ方向へ顔を向けていた。
街道沿いに建つ食堂らしい建物。その軒先から細い煙が上がり、夕方の風に乗って焼けた肉の脂と香草、それに何かを煮詰めたような甘い匂いが流れてくる。
昼食からそれなりに時間が経っている。
長い下りを越え、高原を走り、途中で干し果物を少し口にしただけなのだから、腹が反応するのも当然だった。
「……いい匂いだな」
「はい。さっきより近いので、もっと分かります」
モモが鼻を小さく動かした。その視線は完全に食堂へ向いているが、足だけはそちらへ進んでいない。
理由は簡単だった。
「まず馬と宿です」
後ろからシモンの声が飛んでくる。
「分かってるって」
「分かってます」
ルシルとモモの返事がまた重なり、二人は顔を見合わせた。
シモンはそんな二人を見て眼鏡の位置を直したものの、口元にはわずかな笑みが残っている。本人も先ほど「あの匂いは気になる」と認めてしまっている以上、完全に他人事という顔はできないらしい。
「では、匂いに負ける前に決めましょう。厩つきの宿が二軒、共同馬屋が一軒見えています」
「共同馬屋に預けて、別の宿って選び方もある?」
「できます。ただ、今日は二頭ともそれなりに歩いていますから、できれば様子を見に行きやすい方がいいですね」
「じゃあ宿と厩が一緒の方から見るか」
ルシルは改めて街道沿いを見回した。
セイラとは、まるで造りが違う。
山の斜面に沿って家々が重なり、水路と坂道が町の形を決めていたセイラに対し、リュカは一本の街道を中心に細長く建物が並んでいる。旅人が立ち寄ることを前提としているのか、宿の前には馬車を寄せられる空間が広く取られ、軒下には馬を一時的につなぐ横木もあった。
街道そのものも広い。
向こうから荷馬車が来ても、こちらが端へ寄れば十分すれ違えるほどだった。
ただし人通りは思っていたより多い。荷物を背負った旅人、籠を持った近隣の住人、仕事を終えたらしい男たちが行き交い、その間を鶏が一羽だけ妙に堂々と横切っていく。
「あの鶏、自由だな」
ルシルが思わず目で追うと、少し離れた家の前から少女の声が響いた。
「ココ! そっち行っちゃ駄目!」
鶏は止まらない。
むしろ呼ばれたことで歩調を速めた。
「逃げてますね」
「逃げてるな」
モモと二人で見ていると、十歳にも届かないくらいの少女が慌てて追いかけてきた。
「すみません! すみません!」
「俺たちは大丈夫だけど……」
鶏はルシルたちの馬車の前を通り、さらに共同馬屋の方へ走っていく。
ところがトルクの姿が目に入ったところで急停止した。
トルクも鶏を見る。
数秒、両者が見つめ合った。
「……何してるんだ?」
ルシルが呟いた直後、鶏は勢いよく方向転換し、追ってきた少女の方へ戻った。
「あっ、ココ!」
少女が両手を広げる。
鶏はその脇をすり抜けた。
「ココー!」
街道の向こうから笑い声が上がる。
近所ではいつものことなのか、荷物を運んでいた男が「今日は元気だなあ」と声を掛けていた。
モモが口元を押さえる。
「トルク、勝ちました」
「何にです?」
シモンが尋ねる。
「鶏との睨み合いです」
「勝負だったんですか?」
「たぶん」
当のトルクは、もう鶏には興味を失ったらしい。道端に積まれた干し草の方へ鼻先を向けている。
「トルク、それ他所のだから食べるなよ」
ルシルが首筋を軽く叩くと、栗毛の馬は不満そうに鼻を鳴らした。
「宿を見ましょう」
「はいはい」
シモンに促され、三人はようやく本来の目的へ戻った。
◇
一軒目の宿は『高原の蹄』という名前だった。
看板に大きな馬の絵が描かれているだけあって厩は広く、馬車置き場も十分な広さがある。ただし、今夜は荷運びの一団が泊まるらしく、厩にはすでに十頭近い馬が入っていた。
ベルクが入口から中を覗いた途端、耳を少し伏せる。
嫌がって暴れるほどではない。
しかし、明らかに落ち着かない。
「ここじゃない方がよさそうだな」
ルシルが小声で言うと、シモンも頷いた。
「僕もそう思います」
宿の主人にも空き状況だけ確認したが、三人用の部屋はあるものの、二頭を並べて入れられる馬房は今夜残っていないらしい。
「弟の方が他の馬をあまり好まなくて」
シモンが事情を説明すると、主人はベルクを見て「ああ、それなら向かいの宿も見た方がいい」と嫌な顔一つせず教えてくれた。
「『麦穂の寝床』って宿だ。うちより厩は小さいけど、今日は空いてるはずだよ。旅人の馬より近所の農家が使うことが多いから、夜は静かだ」
「ありがとうございます」
「もし向こうが埋まってたら戻ってきな。離れた馬房なら二つ作れるから」
商売敵を避けるどころか、普通に紹介してくれる。
ルシルは少し意外に思いながら頭を下げた。
「助かります」
「馬が落ち着かないのに無理して入れてもしょうがないからな」
主人はそう言うと、次に入ってきた荷馬車へ向かった。
宿場では、こういうことも珍しくないのだろう。
「いい人でしたね」
モモが言う。
「うん。泊まらないのに教えてくれた」
「宿同士で客を奪い合うより、旅人にまたこの宿場を使ってもらう方が大事なのかもしれませんね」
シモンが向かい側を見る。
そこには、麦の穂を束ねた絵が描かれた木製看板が下がっていた。
「行ってみましょう」
◇
『麦穂の寝床』は、高原の蹄より一回り小さな宿だった。
二階建ての木造で、建物の下半分だけが灰色の石で補強されている。正面には長椅子が二つ置かれ、窓辺には小さな鉢植えが並んでいた。
厩は宿の裏手にある。
受付にいた初老の男性へ事情を話すと、先に馬房を見て構わないと言ってくれた。
「今日はうちの馬が二頭いるだけだよ。奥の二つなら隣同士で使える」
案内された厩は、確かに大きくない。
六頭分の馬房。
入口側に宿の馬らしい鹿毛と白斑のある馬が一頭ずつ入り、奥側は四つ空いている。
通路も清潔だった。
干し草の匂いはするが、鼻につくほどではない。小さな窓が開けられており、夕方の風が中を抜けていた。
ベルクも先ほどより明らかに落ち着いている。
「ここがいいんじゃない?」
ルシルがシモンを見る。
「僕も賛成です。モモ嬢は?」
「私も。トルクももう干し草見てますし」
トルクは空いている馬房の飼葉桶を覗き込もうとしていた。
「まだ入ってないから」
モモが首を撫でる。
初老の男性が笑った。
「栗毛の方は食べるのが好きみたいだね」
「かなり」
「よく食べるのは悪いことじゃない。働いた後ならなおさらだ」
「人間にも言えます?」
「そりゃもちろん」
「ルシル様、都合のいいところだけ聞かないでください」
「宿の人が言ってるんだから正しいだろ」
「食べ過ぎていいとは言っていませんよ」
男性が声を立てて笑った。
「部屋も見ていくかい?」
「お願いします」
宿の中へ戻り、二階を案内してもらう。
三人が別々に使える部屋が、ちょうど三室並んで空いていた。
広くはない。
寝台と小さな机、椅子、荷物台。それだけの簡素な部屋だが、窓を開けると高原側が見え、風通しもいい。
「一泊で?」
主人が尋ねる。
三人は顔を見合わせた。
「今のところは一泊で」
シモンが答える。
「明日、道を確認してから決めても?」
「構わないよ。昼までに言ってくれれば、もう一泊くらいならたぶん大丈夫だ」
「では、それでお願いします」
宿が決まった。
料金を払い、鍵を受け取る。
「食事は?」
ルシルがすぐ尋ねた。
「朝は出すよ。夜はうちじゃ出してない。向かいに食堂があるから、みんなそこへ行く」
「匂いしてたところ?」
「たぶん『赤角亭』だろうね。夕方になると肉を焼くから」
名前まで分かった。
「赤角亭」
モモが嬉しそうに繰り返す。
「今夜は羊肉の炙り焼きの日だったかな」
「羊肉」
「あと、豆と果実を煮たたれを使う。甘い匂いがしたならそれだよ」
ルシルとモモが同時にシモンを見る。
「まだ馬です」
シモンは即答した。
「何も言ってない」
「顔が言っています」
今度は宿の主人まで笑っていた。
◇
宿が決まれば、次は二頭だった。
馬車を裏手の置き場へ移し、トルクとベルクを外す。長く歩いた後なので、いきなり馬房へ入れて終わりにはせず、厩前の平らな場所を少し歩かせながら息と脚の様子を見る。
ベルクもトルクも歩様に乱れはない。
ルシルはそれを確認すると、それ以上昔の小さな違和感を探すような見方はしなかった。今日一日の疲れを見れば十分だ。
「二頭とも頑張ったな」
トルクの肩を撫でると、温かな体温が手のひらへ伝わってくる。汗はあるものの、山道を越えた時ほどではない。
モモは桶へ水を用意し、シモンは革具を外していく。
「今日は下りが長かったから、明日の朝は少し丁寧に見ましょう」
「うん」
「今日のところは?」
「普通の疲労の範囲ですね」
シモンはベルクの脚から背へ視線を移した。
「食欲もありそうです」
その言葉を証明するように、トルクが飼葉桶へ顔を突っ込もうとする。
「まだ」
ルシルが止める。
トルクの顔がこちらへ向いた。
「そんな顔しても駄目」
「どんな顔です?」
モモが覗き込む。
「俺は何もしてないのに、って顔」
「馬の表情を読みすぎでは?」
「モモだって人参って言うと反応するって言ってたじゃん」
「それは本当に反応します」
「それも怪しいです」
シモンが革具をまとめながら口を挟む。
「じゃあ試す?」
「今はやめてください。期待させたら可哀想でしょう」
「シモンが一番トルクに優しくない?」
「僕はベルク派です」
「派閥あるの?」
「ありません」
言いながら、シモンの手はベルクの首筋を撫でていた。
ルシルとモモが黙ってそれを見る。
「何です?」
「いや」
「別に」
「その顔は何ですか」
「ベルク派なんだなって」
「自分で言いましたよね?」
旅に出たばかりの頃なら、馬二頭の世話だけでももっと慌ただしかった。
今も手際が完璧なわけではないし、分からないことがあれば厩番やシモンに確認する。けれど三人で動けば、誰か一人が全部を指示しなくても必要な作業が進むようになっている。
飼葉と水を整え、二頭を隣り合った馬房へ入れる。
トルクはすぐ飼葉へ。
ベルクは一度だけ隣を確認してから、ゆっくり鼻先を下げた。
「よし」
ルシルは木戸を閉めた。
「これで飯」
「荷物です」
シモンが言う。
「……荷物」
「必要なものだけ部屋へ運びます」
「忘れてた」
「食事が近づくと全部忘れますね」
「全部じゃない」
モモが小さく笑いながら馬車の扉を開ける。
「鳥、大丈夫です」
棚に置かれたヤマアカノドの木製置物は、山道より穏やかな高原道を走ったこともあり、元の場所に収まったままだった。
「落ちなかったな」
「はい。木馬も大丈夫です」
ルシルも中へ入る。
棚には二頭の木馬。
その近くに新しく増えた鳥。
本。
料理関係の小物。
旅先で必要だから買ったものだけではなく、なくても困らない物が少しずつ増えている。
その光景を見ていると、ルシルの口元が自然に緩んだ。
(こういうの、もっと増えるんだろうな)
次の町では何が増えるのか。
海へ着く頃、この棚がどうなっているのか。
考えたところで今は分からない。それでも、その分からなさを楽しみにできることが嬉しかった。
「ルシル様?」
「ん?」
「荷物」
「ああ、ごめん」
ルシルは自分の鞄を取った。
「鳥見てたんですか?」
「棚見てた」
「増えましたよね」
「うん」
「これ以上増やすなら場所考えないと」
シモンが現実的なことを言う。
「まだ空いてる」
「空いているから全部埋める必要はありません」
「分かってるって」
「本当ですか?」
「……たぶん」
「その返事、今朝も聞きましたよ」
モモの笑い声が馬車の中へ響いた。
◇
三人が荷物を部屋へ置いて一階へ戻った頃には、夕日の色が少し濃くなっていた。
高原の夕方は山の中とは違う。
西側が開けているため、低くなった太陽の光が街道を長く照らし、建物の影を東へ伸ばしている。空にはまだ青さが残っているのに、地面だけが薄い金色へ染まっていた。
「行きましょう」
モモが白い外套の前を整える。
「赤角亭」
ルシルも宿の外へ出た。
「宿場を見るのは食事の後ですか?」
シモンが尋ねる。
「飯食ってからでいいんじゃない?」
「暗くなりますよ」
「宿場小さいし」
「雑貨屋などは閉まるかもしれません」
「何か買うものある?」
「急ぎはありません」
「じゃあ飯」
「最初から決まっているじゃないですか」
「シモンも匂い気になるって言っただろ」
「否定していません」
三人は街道を渡る。
赤角亭は宿ではなく、大きな食堂だった。
入口の横には赤く塗られた二本角の木彫りが飾られている。何の動物を模したものかまでは分からないが、太く湾曲した角だけは妙に立派だった。
扉を開ける。
途端に、外で嗅いでいた匂いが一気に濃くなった。
「おお……」
ルシルの声が漏れる。
広い店内。
十以上の卓。
壁際には長い共同卓もある。
すでに半分以上が埋まっており、旅人らしい服装の者と地元の者が混ざって食事をしていた。
奥には大きな焼き台がある。
そこで厚切りの肉が何枚も焼かれていた。
脂が炭へ落ちるたび、じゅっと音がして小さな炎が上がる。
「三人?」
給仕の女性が近づいてくる。
「はい」
「窓際なら空いてるよ」
案内されたのは街道側の四人卓だった。
三人が座ると、木の板に書かれた料理名を渡される。
ルシルは上から読む。
「羊肉の香草炙り。山羊乳酪と芋の焼き物。豆と燻製肉の煮込み。麦団子の汁物……」
「多いですね」
モモが横から覗く。
「全部食べたい」
「全部は多いでしょう」
「三人なら?」
「量を確認してからです」
シモンが給仕を呼ぶ。
「羊肉の香草炙りは、一皿どのくらいですか?」
「一人で食べるなら、それとパンで腹いっぱいになるくらい。三人で分けるなら二皿でもいいね」
「豆と果実のたれを使っているのは?」
モモが尋ねた。
「ああ、それは羊肉の方だよ。乾かした赤実と豆を潰して、香草と一緒に煮てある。甘酸っぱいから脂の多い肉に合うんだ」
三人の視線が自然に集まった。
「赤実?」
「これくらいの赤いやつ」
女性が親指と人差し指で小さな楕円を作る。
「乾かすと色が濃くなって、酸っぱくなるんだけどね」
モモが鞄の方を見る。
今日は干し果物の包みを宿へ置いてきている。
「もしかして」
「同じか?」
「分かりませんけど……」
給仕の女性が首を傾げる。
「何か?」
「今日、道で赤い干し果物を食べたんです。セイラの市場で買ったんですけど、名前を忘れてしまって」
「ああ。セイラでも売ってるなら、高原赤実かもしれないね。ここらじゃ畑の端によく植えてるよ」
「高原赤実」
モモがゆっくり繰り返した。
「それです!」
「思い出した?」
「はい! そんな名前でした!」
ルシルが笑う。
「解決した」
「すっきりしました」
「ただし、実物を見ていないので確定とは言えませんよ」
シモンが釘を刺す。
「明日持ってきて見てもらう?」
「そこまでします?」
「気になる」
「私もです」
二対一になった。
シモンは少し考え、それから諦めたように肩の力を抜く。
「では、明日の朝にでも宿の主人へ聞けばいいでしょう。この辺りのものなら知っているはずです」
「それでいこう」
名称候補は得た。
けれど、まだ確定ではない。
それで十分だった。
「ご注文は?」
「あ」
三人とも話に夢中になり、注文を忘れていた。
「羊肉二皿」
ルシルが言う。
「山羊乳酪と芋の焼き物も一つ」
モモが続ける。
「野菜は?」
シモンが料理板を見る。
「焼き根菜の盛り合わせがありますね。それも一つ。それからパンを三人分」
「飲み物は?」
「水で」
三人とも同じだった。
「はいよ」
女性が板へ印をつけ、厨房へ戻っていく。
ルシルは周囲を見る。
隣の卓では、三人の男たちが地図を広げていた。
少し離れた共同卓では、地元の農家らしい男女が麦酒を飲みながら話している。
「明日は東畑の柵だってよ」
「また山羊が抜けたのか?」
「三頭。しかも一頭は村道まで出た」
「去年直したばっかりだろ」
別の卓からは、荷物の値段や街道の話。
さらに奥からは、明日の天気についての会話が聞こえる。
誰もルシルたちを特別気にしていない。
旅人がいること自体、この宿場では日常なのだ。
「セイラと全然違うな」
ルシルが小声で言う。
「何がです?」
「店の中」
モモも見回す。
「セイラは町の人が多かったです」
「ここは旅人が多い」
「宿場ですからね」
シモンは水を一口飲む。
「情報も集まりやすそうです。明日、先の道を確認するならここか共同馬屋で聞くのがよさそうですね」
「先の道って、まだどこ行くか決めてないよな」
「ええ。地図上ではいくつかあります」
「海に近いのは?」
「それだけで選びませんよ」
「分かってる」
「本当に?」
「シモン、今日疑いすぎじゃない?」
「日頃の積み重ねです」
「ひどい」
モモが笑っている。
「モモも何か言って」
「日頃の積み重ねだと思います」
「味方がいない」
「いますよ」
「どこに?」
「トルク」
「食べ物くれるからだろ」
「じゃあ味方です」
「それ味方なのかな……」
話している間に、料理が運ばれてきた。
◇
最初に置かれたのは、羊肉の香草炙りだった。
厚めに切った肉が大きな木皿へ並び、表面には細かく刻んだ緑の香草が散らされている。端には赤褐色のたれが添えられ、湯気と一緒に炭火の香りが立ち上った。
次に山羊乳酪と芋の焼き物。
薄切りの芋へ白い乳酪を重ね、表面だけ焦げ目がつくまで焼いてある。
焼き根菜は人参に似た橙色の根、白い丸根、濃い紫色の細長い根の三種類。塩と油だけらしく、見た目は素朴だった。
「いただきます」
三人がそれぞれ皿へ取る。
ルシルはまず羊肉を一切れ。
何もつけずに食べる。
「……うまい」
表面は香ばしい。
中にはしっかり肉汁が残っている。
香草の匂いは強すぎず、羊肉特有の風味を消すのではなく、後味だけ軽くしていた。
「たれつけてみます」
モモが赤褐色のたれを少しだけ肉へ乗せる。
一口。
目が少し大きくなった。
「甘いです。でも酸っぱい」
「どっち?」
「両方です」
ルシルも試す。
確かに最初は甘い。
けれどすぐ酸味が来る。
その後から豆の濃さと香草の香りが残った。
「これ、肉の脂が重くならないな」
「ですね」
シモンも頷く。
「保存した果実を肉料理へ使うのは合理的ですね。甘味だけでなく酸味も残りますから」
「シモン、料理の時も分析するよな」
「食べて感じたことを言っただけです」
「美味しいって言えばいいのに」
「美味しいですよ」
「先にそれ言おう」
「ルシル様に決められることではありません」
シモンはもう一切れ取った。
気に入っているのは間違いない。
モモは芋の焼き物へ移る。
「こっちも美味しいです」
「乳酪強い?」
「セイラで食べたものより濃い気がします」
ルシルも一口。
熱い。
慌てて口を閉じたまま息を逃がす。
「熱っ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……」
舌を火傷するほどではない。
少し冷ましてから改めて噛むと、芋のほくほくした食感と乳酪の塩気が合う。
「これ好き」
「私もです」
「馬車で作るには難しいでしょうね」
シモンが焼き皿を見る。
「同じにはならなくても、鍋で似たの作れない?」
「乳酪が手に入れば試す価値はあります」
「買う?」
「明日ですよ」
「分かってる」
「今日はもう店が閉まり始めています」
「分かってるって」
「二回言いましたね」
「シモンが二回言うからだろ」
焼き根菜も食べる。
橙色のものは甘い。
白い丸根は水分が多く、少し辛味がある。
紫色の細長い根は意外にも柔らかく、噛むと土っぽい香りの後から強い甘味が出た。
「これ何だろ」
ルシルが紫色の根を見る。
「聞きます?」
「聞く」
近くを通った給仕へ尋ねる。
「ああ、それは紫土根。ここらじゃ家畜にも人にも食べさせるよ」
「家畜にも?」
「葉っぱは山羊が好きだね。根は焼くと甘いから人間が食べる。煮てもいい」
「紫土根」
知らない食材がまた一つ増えた。
「市場に売ってます?」
モモが尋ねる。
「朝なら向こうの共同馬屋の横に農家が野菜を持ってくるよ。大きな市場じゃないけどね」
「朝市?」
「朝市ってほど立派なもんじゃないよ。農家が余った分を売るだけ」
モモがルシルを見る。
ルシルもモモを見る。
「見る?」
「見たいです」
「買いすぎないでくださいね」
シモンが先回りする。
「まだ何も買ってない」
「明日の話です」
「じゃあ明日の俺に言って」
「今のうちに言っています」
給仕の女性が笑いながら離れていった。
◇
食事が半分ほど進んだ頃、店の扉が開いた。
冷え始めた外気と一緒に、三人組の旅人が入ってくる。
そのうち一人に見覚えがあった。
「あ」
ルシルが声を漏らす。
向こうもこちらに気づいた。
「おや」
昼過ぎ、高原道で会った徒歩旅人の一人だった。最後尾を歩き、リュカまでの道と野営地について教えてくれた杖持ちの女性だ。
「着いたんだね」
「はい。さっき」
「馬車ならやっぱり早いねえ」
「そっちもセイラへ向かってたんじゃ?」
「私だけ忘れ物に気づいて戻ってきた」
女性が苦笑する。
「途中で気づいてね。あとの三人はそのままセイラへ行ったよ」
「何忘れたんです?」
モモが尋ねる。
「宿に薬草袋を丸ごと」
「それは戻りますね」
「戻るしかないよ。明日また出直し」
女性は肩を竦めた。
徒歩でかなり進んだ後に引き返したらしい。
それでも怒っているというより、自分の失敗に呆れている顔だった。
「同じ宿?」
「私は共同馬屋の裏にある安宿。あんたたちは?」
「麦穂の寝床です」
「いいところ選んだね。静かだよ、あそこ」
「知ってるんですか?」
「この道を年に何度か通るからね」
女性は空いている隣卓へ腰を下ろす。
「先へ行くなら、どっちへ行くかもう決めた?」
「まだです」
シモンが答えた。
「海の方へは向かっていますが、途中を急いではいません」
「海か」
女性の表情が少し変わった。
何かを思い出すように、目を細める。
「それなら、明日地図を見る時に南の平原道も見ておくといいよ」
「南の平原道?」
ルシルが聞き返す。
「リュカを出て二日くらい行くと分かれ道がある。西へ行けば大きな街道、南へ行けば草原を抜ける古い道。どっちも最終的には南西の方へ出られる」
シモンが少し身を乗り出す。
「古い道というのは、整備状態が悪い?」
「昔より使う人が減っただけ。道そのものは荷馬車も通る。ただ、宿場の間が長いから、水と食料は持ってた方がいい」
「なるほど」
「景色なら南の方がいいよ」
女性はそこで笑った。
「まあ、私は景色で道を選ぶから、参考になるか分からないけどね」
「それ、かなり参考になります」
ルシルが即答する。
「ルシル様」
「まだ選んでないって」
「ならいいですが」
女性は三人のやり取りを面白そうに見ている。
「大きな街道を行けば店も宿も多い。南なら人は少ないけど、季節が良ければ一面草の丘だ。今ならまだ緑が残ってるはず」
「草の丘……」
モモの声が少し弾む。
「花は?」
「場所によっては。春ほどじゃないけどね」
「動物は?」
「野兎とか、角鹿とか。運が良ければ空走鳥も見る」
「空走鳥?」
今度はルシルが反応した。
「飛ばない鳥だよ。脚が長くて、走るのが馬鹿みたいに速い」
「見たい」
「早いですね」
シモンが呆れたように言う。
「だって飛ばないのに空走鳥って名前なんだろ?」
「走っている姿が、草の上を飛ぶみたいだからだそうだよ」
女性が教えてくれる。
「もっと見たい」
「まだ道を決めていませんよ」
「分かってるって。でも候補には入る」
シモンも否定はしなかった。
「明日、道路状況を確認しましょう。古い情報だけで決めるべきではありません」
「それでいい」
女性は給仕へ料理を注文し、それ以上三人の相談へ口を挟まなかった。
ルシルも食事へ戻る。
けれど頭の片隅には、もう広い草原と走る鳥の姿が浮かんでいた。
(空走鳥か……どれくらい速いんだろう)
馬より速いのか。
馬車と並んで走るのか。
近くまで来るのか。
聞きたいことは増えたが、今すぐ隣卓の女性を質問攻めにするのはやめておいた。
まずは目の前の羊肉が冷める。
◇
赤角亭を出る頃には、空は深い青へ変わっていた。
街道沿いの店も半分ほど戸を閉めている。
宿や食堂の窓から漏れる橙色の明かりが地面を照らし、昼間より人通りは減ったものの、厩の方からはまだ馬の鳴き声や荷物を動かす音が聞こえていた。
「美味しかったです」
モモが満足そうに言う。
「羊肉?」
「全部です。紫土根も」
「明日売ってたら買う?」
「少しなら」
「少しですよ」
シモンが念を押す。
「シモン君、さっきから買い物の警戒が強くないですか?」
「馬車に食料はすでにありますから」
「山青菜もあるな」
「山芋根もあります」
「じゃあ紫土根足したら野菜いっぱい」
「全部一度に買う必要はありません」
「分かってます」
モモが頬を少し膨らませる。
けれど次の瞬間には、街道の先へ視線を向けていた。
「空走鳥、気になります」
「だよな」
「本に載ってますかね?」
「鳥の本、川と湿地のだからなあ」
「載ってない可能性高いですね」
シモンが二人を見る。
「明日、情報を聞く時に確認すればいいでしょう」
「シモンも気になる?」
「名前は少し」
「やっぱり」
「少しです」
宿へ戻る前に厩へ寄った。
トルクは飼葉を食べ終え、水を飲んでいる。
ベルクも落ち着いていた。
隣の馬房に兄がいるからか、入口側にいる宿の馬二頭を気にする様子もほとんどない。
「おやすみ」
ルシルが声を掛ける。
トルクが顔を上げる。
「明日もよろしくな」
鼻先を撫でると、温かな息が手へ当たった。
モモもベルクへ声を掛ける。
「ベルクもおやすみなさい」
ベルクは一度モモを見て、それからシモンへ視線を移した。
「俺じゃない」
モモが笑う。
「僕を見ているだけでしょう」
「シモン君、挨拶してあげてください」
「……おやすみ、ベルク」
低い声で言うと、ベルクの耳が前へ向いた。
ルシルとモモが同時にシモンを見る。
「何です?」
「いや、ちゃんと分かってるのかなって」
「ベルク賢いです」
「モモ嬢まで」
三人は声を抑えて笑い、厩を出た。
◇
『麦穂の寝床』の二階は静かだった。
街道側ではなく高原側へ窓があるため、食堂の声もほとんど届かない。
ルシルは自分の部屋へ入り、外套を脱いで椅子へ掛けた。
窓を少し開ける。
夜の風が入ってくる。
セイラの夜には水車の音があった。
ここにはない。
代わりに、遠くから虫の声が聞こえている。
さらに耳を澄ませば、宿の裏にある厩から馬が床藁を動かす小さな音が届いた。
窓の向こうは暗い。
昼間に見た草地も畑も、今は輪郭しか分からない。
その先に道がある。
大きな街道へつながる西の道。
草原を抜ける南の古い道。
まだどちらへ行くとも決めていない。
(空走鳥は見てみたいけど、それだけで決めるのもな)
ルシルは窓枠へ腕を置いた。
以前の自分なら、目的地まで最短の道を選ぶことに疑問を持たなかったかもしれない。
けれど今は、最短かどうかだけでは道を決めていない。
だからといって、景色だけで危険な道へ入るつもりもない。
明日、実際の道路状況を聞く。
水場。
野営できる場所。
馬車が通れるか。
それから三人で決めればいい。
そこまで考えたところで、ルシルは自分の腹を軽く撫でた。
「……食ったな」
羊肉。
芋と山羊乳酪。
焼き根菜。
パン。
少し頼みすぎた気もするが、三人できれいに食べ切った。
(明日の朝も何か出るんだよな)
宿の主人は朝食があると言っていた。
すでに次の食事を考えている自分がおかしくなり、ルシルは一人で小さく笑った。
その時、隣の部屋から軽い音がした。
壁を叩いたわけではない。
何かを落としたような音。
少し待つ。
もう一度。
「……モモ?」
部屋を出て隣の扉を軽く叩く。
「モモ、大丈夫?」
「大丈夫です!」
返事はすぐだった。
「何か落とした?」
数秒の間。
「本です」
「本?」
「今日読もうと思って出したら、二冊一緒に落ちました」
「怪我してない?」
「してません」
「ならいいけど」
戻ろうとすると、扉が少し開いた。
モモが顔を出す。
「ルシル様」
「ん?」
「空走鳥、手持ちの本には載ってませんでした」
「もう調べたの?」
「気になったので」
「俺も気になってる」
「明日、宿の人に聞きましょう」
「うん」
「あと赤い干し果物も」
「忘れないようにしないとな」
「紙に書きます」
「そこまで?」
「また忘れたら嫌なので」
「じゃあ俺も覚えとく」
「二人なら大丈夫ですね」
「シモンもいるし」
「シモン君はたぶん忘れません」
「確かに」
小声で笑う。
夜の宿なので、騒がない。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉まる。
ルシルも自分の部屋へ戻った。
寝台へ横になると、身体に残っていた一日の疲れが一気に重くなる。
朝は山の町にいた。
長い坂を下り、高原へ出て、今は小さな宿場の寝台にいる。
明日になれば、また知らないものが増えるかもしれない。
紫土根。
高原赤実。
空走鳥。
それとも、今日までは名前すら知らなかった何か。
窓から入る涼しい風に目を細めながら、ルシルは毛布を引き上げた。
リュカでの最初の夜は、静かに更けていった。




