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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第47話 高原の朝は、野菜と鳥と二つの道で迷います


 リュカで迎えた最初の朝、ルシルは聞き慣れない音で目を覚ました。


 セイラにいた間は、水路を流れる水と小さな水車の音が朝の始まりだった。けれど『麦穂の寝床』の窓の外から聞こえてきたのは、低く長く鳴く家畜の声と、木製の荷車が街道を進んでいく車輪の音だった。


 薄い毛布の中で目を開き、しばらく天井を見る。


 身体には昨日一日の移動による疲れが少し残っているものの、重さを感じるほどではない。寝台から起き上がって窓を開けると、冷たい朝の空気が部屋へ入り、眠気が一気に薄くなった。


「……晴れたな」


 高原の空には薄い雲が浮かんでいるだけだった。


 昨夜は暗くてほとんど見えなかった草地が、朝の光を受けて淡い緑色に広がっている。遠くには低い丘が重なり、その手前を一本の道が横切っていた。


 宿の裏では、すでに人が動いている。


 桶を運ぶ宿の主人。


 厩から顔を出している鹿毛の馬。


 そして、そのさらに奥にある牧草地では、数頭の山羊が朝露の残る草を食べていた。


「高原だなあ」


 昨日も同じ景色を見たはずなのに、朝の光の中では印象が違う。


 ルシルはしばらく窓辺に立っていたが、ふと昨夜のことを思い出した。


(赤い干し果物と、空走鳥だったな)


 モモが忘れないよう紙へ書くと言っていた。


 自分も覚えておくと約束した。


 なら、朝食前に忘れていたら格好がつかない。


「よし」


 身支度を整え、部屋を出る。


 ちょうど隣の扉も開いた。


「おはようございます」


 モモだった。


 白い外套ではなく、宿の中なので簡素な上着姿だ。その手には、小さな紙片が握られている。


「おはよう。それ何?」


「これです」


 紙をこちらへ向ける。


 そこには二つだけ書かれていた。


『赤い干し果物』


『空走鳥』


「本当に書いたんだ」


「忘れませんでした」


「俺も覚えてた」


「では完璧です」


「何が完璧なんです?」


 反対側の部屋からシモンが出てきた。


 すでに眼鏡も外套も整っており、寝起きらしさがほとんどない。


「昨日の宿題」


「宿題なんてありましたか?」


「赤い干し果物の名前と空走鳥です」


 モモが紙を見せる。


 シモンは一度読み、モモを見る。


「紙に書いたんですか」


「はい」


「それなら忘れませんね」


「シモン君も覚えてました?」


「覚えていますよ」


「やっぱり」


 モモが満足そうに紙を畳む。


「まず馬を見て、その後に朝食でしょうか」


 シモンの言葉に、ルシルは頷いた。


「うん。今日は出るかどうかもまだ決めてないし、急がなくていい」


「その判断は二頭を見てからですね」


 三人は階段へ向かった。


     ◇


 朝の厩は静かだった。


 宿の馬二頭はすでに外へ出されたらしく、入口側の馬房は空いている。


 奥ではトルクが飼葉桶へ顔を入れ、ベルクは通路へ顔を出していた。


「おはよう」


 ルシルが声を掛ける。


 トルクは一瞬だけ顔を上げたものの、すぐ飼葉へ戻った。


「挨拶より朝ごはんです」


 モモが笑う。


「俺より食いしん坊じゃない?」


「張り合わないでください」


 シモンはベルクの方へ近づいた。


 昨夜しっかり休めたからか、二頭とも落ち着いている。昨日の長い下りと高原道を歩いた疲れは残っているだろうが、食欲もあり、立ち姿にも気になるところはなかった。


 シモンが馬房から出し、短く歩かせる。


 ルシルとモモも左右から様子を見る。


「普通ですね」


 モモが言う。


「ええ。昨日の疲れも問題ない範囲でしょう」


「じゃあ今日は動ける?」


「動けます。ただし、だから出発するという意味ではありません」


「分かってる」


 ルシルはトルクの首筋を撫でる。


 今日出るか。


 もう一泊するか。


 どちらでもいい。


 まずはこの宿場で知りたいことがある。


「朝飯食べて、野菜見て、道聞く?」


「順番としてはそれでいいでしょう」


「干し果物もです」


 モモが忘れず付け加える。


「持ってく?」


「宿のご主人に聞くだけなら、持っていきます」


「じゃあ朝飯の後だな」


 二頭を馬房へ戻し、三人も宿へ戻った。


     ◇


 『麦穂の寝床』の朝食は、昨夜の赤角亭ほど豪快ではなかった。


 大きな丸パンを切ったもの。


 炒めた豆と玉葱。


 山羊乳を使ったらしい白い乳酪。


 そして、浅い木皿に入った黄色い卵料理。


 どれも素朴だが、湯気と一緒に漂う香りは朝の空腹には十分すぎた。


「これ、昨日食べた乳酪より柔らかい」


 ルシルがパンへ白い乳酪を塗る。


「作り方が違うんでしょうか」


 モモも少し取った。


 昨夜の焼き物に使われていたものは、熱を加えても形が残るほどしっかりしていた。こちらは匙で掬えるほど柔らかく、口へ入れるとわずかな酸味がある。


「それは朝乳酪だよ」


 料理を運んできた宿の主人が教えてくれた。


「朝乳酪?」


「うちじゃそう呼んでるだけだけどね。水を切りすぎない柔らかいやつさ。長くは持たないから、近所で食べる」


「馬車で持っていくのは?」


「今日中に食べるならともかく、旅には向かないね。持っていくなら固い方にしな」


「なるほど」


 ルシルはもう一度パンへ塗る。


 旅先で美味しいものを見つけても、何でも持っていけるわけではない。


 ここで食べるから美味しいものもある。


「そうだ」


 モモが匙を置いた。


「ご主人、これ分かりますか?」


 足元に置いていた小さな鞄から、布包みを取り出す。


 昨日、高原の水場で食べた赤い干し果物だった。


 主人は一粒手に取り、表裏を見る。


「ああ、高原赤実だね」


「やっぱり!」


 モモの顔が明るくなる。


「昨日、赤角亭でもそうじゃないかって言われたんです」


「この辺じゃ珍しくないよ。生だともっと丸くて赤い。酸っぱいから、そのまま食べるより煮たり干したりすることが多いけどね」


「じゃあ名前、確定だ」


 ルシルも干し果物を見る。


 セイラの市場でモモが買い、名前を忘れたまま高原で食べたもの。


 これでようやく名前が戻ってきた。


「高原赤実……高原赤実……」


 モモが二度繰り返す。


「また忘れそう?」


「もう大丈夫です」


「紙に書いとけば?」


「書き足します」


「書くんだ」


「今度は正式名称です」


 モモは本当に紙片を取り出し、『赤い干し果物』の横へ『高原赤実』と書き足した。


 宿の主人が面白そうに笑っている。


「そんなに気に入ったのかい?」


「美味しかったです」


「朝、馬屋の横へ行けば生のもあるかもしれないよ。今はちょうど採れる時期だから」


「見たいです」


「買うなら干した方が旅向きだけどね」


「まだ残ってますから、見るだけにします」


 シモンが少しだけ意外そうにモモを見る。


「何です?」


「いえ。買うと言うかと思いました」


「必要なら買いますけど、今はあります」


「失礼しました」


「シモン君、私を何だと思ってるんですか?」


「お菓子棚を一段確保した人です」


「それは必要です」


「即答なんだ」


 ルシルが笑う。


 主人も肩を揺らしていた。


     ◇


 朝食を終える頃には、宿場全体がすっかり動き始めていた。


 昨夜は閉まっていた雑貨屋の戸が開き、共同馬屋には荷馬車が二台入っている。鍛冶場からは金属を打つ音が響き、街道の向こうでは農家の男が大きな籠を地面へ並べていた。


「あれかな?」


 モモがすぐ見つける。


 赤角亭の給仕が言っていた、農家が余った野菜を売る場所。


 正式な市場ではない。


 共同馬屋の脇に、農家がそれぞれ敷布や木箱を置き、採れたものを並べているだけだった。


 店は六つ。


 野菜が中心だが、卵や固い乳酪を置いているところもある。


「本当に小さいな」


 ルシルが言う。


「でも、昨日見た紫色のあります」


 モモの視線の先には、細長い紫色の根菜が積まれていた。


「紫土根」


「覚えてる」


「行きましょう」


 三人で近づく。


 紫土根を売っていたのは、日に焼けた顔の中年女性だった。


「旅の人?」


「はい。昨日、赤角亭でこれ食べたんです」


 ルシルが紫土根を指す。


「それで気になって」


「焼いてあった?」


「はい」


「なら甘かったろ」


「かなり」


 女性は一本持ち上げる。


 土を落としてはあるが、表面にはまだ細かな筋が残っている。


「煮るなら太いの。焼くなら細い方が火が通りやすいよ」


「馬車で料理するなら?」


「鍋かい?」


「そうです」


「だったらこれくらい」


 女性が選んだのは、ルシルの手首より少し細い一本だった。


「皮を薄く削って、輪切りにして煮ればいい。肉と一緒でもいいし、豆と煮てもいい」


「買う?」


 ルシルが二人を見る。


 モモは頷いた。


 シモンは積まれた量ではなく、三人の持っている食料を頭の中で確認しているようだった。


「二本程度なら」


「じゃあ二本」


「毎度」


 必要な分だけ購入する。


 隣では、橙色の根菜と葉物が売られていた。


 さらにその隣には、小さな赤い実が木籠いっぱいに入っている。


「あれ!」


 モモが指を差しかけ、途中で手を下ろした。


「高原赤実?」


「そうだよ」


 売り手の老人が答える。


 生の高原赤実は、干したものより一回り大きかった。小さな丸い実で、表面には薄い艶がある。


「一個食べてみるかい?」


「いいんですか?」


「酸っぱいぞ」


 老人が笑いながら三粒渡してくれる。


 三人で一粒ずつ。


 ルシルは口へ入れ、噛んだ。


「っ……」


 思った以上に酸っぱい。


 眉間に力が入る。


 隣ではモモも片目を細めていた。


 シモンだけは表情の変化が小さい。


「酸味が強いですね」


「シモン、平気なの?」


「平気ではあります」


「顔変わってない」


「変える必要がありますか?」


「俺とモモ見て」


「二人が分かりやすすぎるんです」


 老人が楽しそうに笑っている。


「干すと甘みが出るんだよ。煮る時は蜜を足す家もある。赤角亭の肉だれなら、豆と一緒に煮てるはずだ」


「昨日食べました」


「ならあれだ」


 ルシルは口の中に残る酸味を水で流したくなったが、嫌な味ではなかった。


 むしろ、肉料理に使った時に脂を軽く感じさせた理由がよく分かる。


「買わないんですか?」


 シモンがモモを見る。


「干したの、まだあります」


「確認しただけです」


「疑ってましたよね?」


「少し」


「シモン君」


 モモが頬を膨らませる。


 その横で、ルシルは生の高原赤実をもう一度見た。


 旅の途中で名前の分からないものを食べ、翌日には生の姿まで見ることになった。


 知らなかった食べ物が、少しずつ土地とつながっていく。


「面白いな」


「何がです?」


「昨日、ただの名前分かんない干し果物だったのに、今は畑の端に植えてて、肉のたれにも使うって分かった」


 モモも籠の赤い実を見る。


「セイラで買った時は、そこまで聞きませんでした」


「また見つけたら使い方も聞こう」


「全部聞いていたら買い物が終わらなくなりますよ」


 シモンの指摘は正しい。


「じゃあ気になったやつだけ」


「それなら」


 朝の小さな売り場をもう少し歩く。


 卵は十分ある。


 乳酪も気になったが、旅用の保存食は足りている。


 結局、買ったのは紫土根二本だけだった。


「俺たち、偉くない?」


 売り場を離れながらルシルが言う。


「何がです?」


「いっぱいあったのに二本しか買ってない」


「普通です」


「モモは?」


「少し偉いと思います」


「ほら」


「モモ嬢を基準にしないでください」


「どういう意味ですか、シモン君」


 朝の街道に三人の笑い声が混じった。


     ◇


 次に向かったのは共同馬屋だった。


 昨日会った徒歩旅人の女性から、先の道を調べるなら共同馬屋か赤角亭がいいと聞いている。


 馬屋の正面には大きな地図板が立っていた。


 リュカを中心に、セイラ方面、西方面、南方面へ伸びる道が太い線で描かれている。


「これだ」


 ルシルは南へ伸びる線を見る。


 途中で西へ分かれる大きな街道。


 さらに南へ続く細めの線。


「南平原旧道」


 シモンが文字を読む。


「正式な名前もそのままですね」


「古い道って聞いたから、もっと細いかと思った」


「地図だけでは幅は分かりません」


 共同馬屋では、三人ほどの職員が朝の仕事をしていた。


 そのうち、灰色の髪を短く刈った五十代くらいの男性が声を掛けてくる。


「道を調べてるのか?」


「はい。南西へ向かいたくて」


「荷馬車?」


「二頭立てです。中型くらい」


「どっちの道を考えてる?」


 シモンが地図を示す。


「西へ出る街道と、南平原旧道です」


「ああ」


 男性はすぐ理解した。


「今なら両方通れるぞ」


 ルシルとモモの視線が少し明るくなる。


「旧道も?」


「旧道って名前だけど、廃道じゃない。昔は南側の農場や村から荷を運ぶ主道だったんだ。西の新街道が整備されてから、長距離の商人がそっちへ移っただけだよ」


「馬車は問題なく?」


「普通の荷馬車なら通ってる。ただし、こっち」


 男性の太い指が南の線をたどる。


「リュカから一日目は問題ない。水場も二つある。野営地もある」


「二日目は?」


「途中から店がなくなる。農家はあるが、旅人相手の商売をしてるとは限らない。水は街道沿いの共同井戸が一つ。その次は小川だな」


 シモンが詳細地図を開いた。


「この辺りですか?」


「そう。今の季節なら小川は枯れてない。昨日南から来た荷馬車も普通に通ってる」


「路面は?」


「乾いてる。雨が続くと草地の低いところが泥になるが、今は問題ない」


「急坂は?」


「山道みたいなのはない。丘越えが何回かあるくらい」


「橋は?」


「小さい木橋が一つ。中型二頭立てなら問題なし。大型の四頭立ては荷を軽くすることがある」


 シモンは質問しながら、地図へ小さく印を加えていく。


 ルシルは横で聞いていた。


 昨日の女性が言っていた通りだ。


 人通りが少なく、宿場の間隔が長い。


 それでも、危険だから使われていない道ではない。


「西の街道は?」


「そっちは楽だよ。宿場も多いし、道幅も広い。荷馬車の往来も多い。補給に困ることはほぼない」


「どっちが海に近づく?」


 ルシルが尋ねる。


 男性は笑った。


「ずいぶん大雑把な目的地だな」


「まだ、どこの海岸へ行くかも決めてなくて」


「なら、どっちでも南西には出る。西街道の方が途中で大きな町を通るから、その先の情報は集めやすい。南平原旧道は途中で南西街道へ合流する」


「何日くらい違います?」


 モモが尋ねる。


「馬車なら、順調なら一日違うかどうかだな。南が特別な近道ってわけでもない」


「じゃあ本当に、道の違いなんだ」


 ルシルが地図を見る。


 便利で、人が多く、宿場も多い西。


 草原を通り、補給場所が少ない南。


 目的地への大きな差はない。


「空走鳥って南にいるんですか?」


 モモがとうとう尋ねた。


 男性が目を瞬かせ、それから笑った。


「それ目当てか?」


「目当てというか、昨日聞いて気になって」


「いるよ。ただ、見られるとは限らん。人の多いところにはあまり寄らないから、むしろ旧道の方が可能性はある」


「どんな鳥?」


 ルシルも身を乗り出す。


「背丈は俺の腰より高いくらい。茶褐色で、首と脚が長い。翼はあるが飛ばない」


「本当に速い?」


「速い。草原で驚かせると、とんでもない勢いで走る」


「馬より?」


「短い距離なら良い勝負するんじゃないか? 追いかけたことはないから知らん」


「追いかけない方がいいですよね」


 モモが言う。


「当たり前だ。追い回すと農場へ逃げ込むこともある。見るなら遠くからにしな」


「はい」


 そこは三人とも異論がない。


 珍しい動物を見たいからと追い回すつもりはなかった。


「危険な動物は?」


 シモンが話を戻す。


「今の時期なら特別増えてる報告はない。夜に草狼が出ることはあるが、街道の野営地には火を焚く場所がある。食料を外へ放置しなきゃ普通は寄ってこない」


「草狼の群れの規模は?」


「多くても五、六頭だな。最近は家畜被害も聞いてない」


 シモンが頷く。


 ルシルたちにとって戦闘能力の面で問題になる相手ではない。


 それでも、馬を驚かせたり、夜営の邪魔になったりする可能性はある。強いから無視していい情報ではなかった。


「ありがとうございます」


 シモンが礼を言う。


「今日出るのか?」


「まだ決めていません」


「なら昼前にまた来てもいいぞ。南から荷馬車が一本来る予定だから、もっと新しい路面情報が聞ける」


「何時頃?」


「いつも通りなら鐘二つ目くらいかな」


 まだ朝だ。


 それなら待つ価値はある。


「分かりました」


 共同馬屋を離れる。


 三人は街道の端へ寄り、地図をもう一度見る。


「どうする?」


 ルシルが尋ねた。


「道そのものは両方通行可能です」


 シモンが答える。


「南の旧道も、僕たちの馬車なら問題なさそうですね。ただし補給間隔は西より長い」


「食料は?」


「あります。水も、今聞いた範囲なら十分対応できます」


「じゃあ南でも行ける」


「現時点では」


 モモが南の線を見る。


「空走鳥……」


「気になるよな」


「気になります」


「俺も」


 二人の視線がシモンへ向く。


「僕も少し気にはなりますが」


「少し?」


「少しです」


「昨日からずっと少しって言ってる」


「ルシル様たちほどではありません」


 シモンは地図を畳む。


「ですが、景色を見ることも僕たちの旅の目的の一つでしょう。安全面と補給面に問題がないなら、南を選ばない理由もありません」


「お」


「ただし、昼前に来る荷馬車の話は聞きます」


「了解」


 ルシルは南へ続く街道の方向を見る。


 宿場の建物が並んでいるため、ここから草原そのものは見えない。


 それでも、その向こうに昨日聞いた草の丘がある。


「それまで何する?」


 モモが尋ねる。


「宿場見てない」


 ルシルが答える。


「昨日は飯食って終わったし」


「雑貨屋もありますね」


「鍛冶場もある」


「必要なものは?」


 シモンが尋ねる。


「……特にない」


「では、見るだけですね」


「見るだけでもいいだろ?」


「駄目とは言っていません」


 三人は顔を見合わせる。


 午前中いっぱい、予定が空いた。


     ◇


 リュカの宿場は、本当に小さかった。


 街道を端から端まで歩いても、それほど時間はかからない。


 けれど、歩いてみると昨日馬車の中から見ただけでは気づかなかったものがいくつもあった。


 鍛冶場では武器より、農具と馬車部品の修理が中心だった。


 壁には鍬、鎌、馬蹄、車輪の鉄輪が並び、店先では若い職人が曲がった金具を熱して叩いている。


「馬車の部品、多いな」


「宿場ですからね」


 シモンが足を止める。


「予備の留め具だけ見てもいいでしょう」


「買うの?」


「今の予備で足りますが、どういう規格を置いているか知っておきたいだけです」


 今度はシモンが店へ入る。


 ルシルとモモも続いた。


 鍛冶場の主人は四十代くらいの大柄な男だった。


 シモンが馬車の車軸や留め具について尋ねると、店の奥から数種類を出してくれる。


「西街道なら大抵の宿場でこの辺は手に入る。南へ行くなら、予備があるなら持っとけ」


「特殊な車軸の場合は?」


「現物見ないと何とも言えん。あんたらの馬車、どこにある?」


「麦穂の寝床です」


「後で見るか?」


 シモンが少し考える。


「故障はしていません」


「なら無理に見なくていい。音がおかしいとか、熱を持つとかあったら来な」


「ありがとうございます」


 結局、何も買わなかった。


 店を出る。


「シモンが見るだけだった」


「僕だって見るだけの時はあります」


「俺たちには買いすぎ注意するのに」


「必要な確認です」


「俺たちだって必要な確認」


「木彫りの鳥は必要品でしたか?」


「必要」


「即答しないでください」


 モモが横で笑っている。


「私は可愛かったので必要だと思います」


「二対一にしないでください」


 次は雑貨屋。


 こちらには旅人向けの商品が多かった。


 油。


 縄。


 針と糸。


 火打ち石。


 簡単な食器。


 保存食。


 安価な雨除け布。


 さらに壁の一角には、この地域で採れる植物を乾かした香草まで並んでいる。


「山椒実ある」


 ルシルが見つける。


「セイラで買ったものと同じでしょうか」


 モモが近づく。


 見た目は似ている。


 ただ、こちらは少し色が濃かった。


 店番の若い男性へ聞くと、セイラ周辺から仕入れたものだという。


「やっぱり山から下りてきてるんだ」


「こっちじゃ採れないからね。その代わり、高原赤実とか乳酪は山へ上がる」


 昨日見た荷馬車のことを思い出す。


 山から来るもの。


 高原から上がるもの。


 一本の街道を通って、食べ物や道具が行き来している。


「旅してると、こういうの見えるな」


 ルシルが小声で言う。


「市場だけ見てると、そこで作ってるように思っちゃいます」


 モモも頷く。


「実際には複数の地域から集まっていますからね」


 シモンは棚を眺める。


「街道が止まれば、食卓も変わります」


「急に仕事っぽい話になった」


「普通の話です」


「シモンが言うと仕事っぽい」


「偏見ですよ」


 雑貨屋でも特に買うものはなかった。


 店を出る。


 少し先には、昨夜食事をした赤角亭。


 朝はまだ食堂営業をしていないらしく、扉は半分閉まっていた。


「昼も行く?」


 ルシルが尋ねる。


「朝食を食べたばかりですよ」


「昼の話」


「出発するなら、その前に軽く食べるか、持っていくものを買ってもいいですね」


「羊肉もう一回?」


「朝から夕食みたいなものを考えないでください」


「でも美味かった」


「否定はしません」


 結局シモンも気に入っている。


     ◇


 宿場の南端まで歩くと、建物が途切れた。


 その先には高原が広がっている。


 昨日入ってきた道とは別方向。


 低い草の丘が重なり、その間を土の街道が伸びていた。


「あれが南?」


「方角的には」


 シモンが地図を確認する。


 三人は街道脇の低い石垣に腰掛けた。


 風が強い。


 山の風とは違い、木々に遮られないため、遠くから一気に吹き抜けてくる。


 草が大きく波打った。


「すごい」


 モモの長い桃金色の髪が風に持ち上がり、慌てて片手で押さえる。


「大丈夫?」


「大丈夫ですけど、髪が全部前に来ました」


 顔へ掛かった髪を払いながら笑う。


 シモンの外套も大きく揺れた。


「馬車だと横風は少し気をつけた方がよさそうですね」


「このくらいでも?」


「平地なら大きな問題ではありません。ただ、急に強くなる場所はあるでしょう」


 ルシルは草原を見る。


 道の先には誰もいない。


 山道では、曲がり角の向こうが見えなかった。


 ここでは逆に、ずっと先まで見える。


「空走鳥、あそこ走るのかな」


「まだ見えてませんよ」


「分かってる」


「いたらすぐ分かりそうです」


 モモも目を凝らす。


 しばらく二人で草原を見ていた。


 動いているものは、遠くの山羊くらい。


「いないな」


「宿場のすぐ近くには来ないって言ってました」


「そうだった」


 風がもう一度吹く。


 今度は少し弱い。


 三人はそのまま少しだけ座っていた。


 何かを決めるためではなく、ただ景色を見るために。


 やがてシモンが太陽の位置を確認した。


「そろそろ戻りましょう。南からの荷馬車が来る時間に近づきます」


「了解」


 三人は立ち上がった。


     ◇


 共同馬屋へ戻った時、ちょうど一台の荷馬車が南側から入ってきた。


「あれ?」


 モモが立ち止まる。


 馬車の側面には、白い布へ緑色の三本線を描いた印がある。


 御者は三十代くらいの男性。


 荷台には大きな麻袋と木箱が積まれていた。


「南から?」


 ルシルが呟く。


 朝話した灰髪の職員がこちらに気づき、手を上げる。


「ちょうど来たぞ!」


 三人は近づいた。


 御者の男性は馬へ水をやった後、職員から事情を聞いたらしい。


「南平原旧道を通りたいんだって?」


「候補にしています」


 シモンが答える。


「今朝通ってきましたか?」


「ああ。昨日は南側の農場で泊まって、今朝ここまでだ」


「路面は?」


「乾いてるよ。昨日も雨なし。木橋も問題なし」


「水場は?」


「一つ目も二つ目も使える。共同井戸も昨日見た時は普通だった」


 朝聞いた情報と一致している。


「馬車で困ったところは?」


「ないな。そっちの馬車、どれくらいだ?」


「中型二頭立てです」


「ならうちより軽いだろ」


 男性が自分の荷馬車を親指で示す。


 確かに大きい。


 荷物もかなり積んでいる。


「ただ、風はあるぞ」


「さっき南側で感じました」


「午後はもう少し強くなる日もある。今日出るなら最初の野営地までは余裕で着くが、荷を外へ高く積んでる馬車は気をつけた方がいい」


 ルシルたちの荷物の大半は馬車内部と収納魔法で管理している。


 外へ高く積んだ荷はない。


「空走鳥、見ました?」


 モモが尋ねる。


 男性は一瞬きょとんとしてから笑った。


「見たいのか?」


「はい」


「昨日は遠くに三羽いたぞ」


「三羽!」


 ルシルまで声が弾む。


「どこです?」


「最初の野営地より先だ。草丘の東側。今日もいるかは知らんけどな」


「どのくらい遠く?」


「百歩どころじゃなかった。近づこうとはしなかったから、ちゃんとは分からん」


「走ってました?」


「一羽だけ。残りは草食ってた」


「本当に速かった?」


「速い速い。あれは追うもんじゃない」


 朝の職員と同じことを言う。


「追いません」


 モモが答える。


「見るだけです」


「それがいい。驚かせなきゃ向こうも逃げないことがある」


 御者はそれから少し考え、南の方角を指した。


「あと、最初の野営地を過ぎると道が二本に見える場所があるけど、右だぞ」


 シモンの表情が変わる。


「地図には分岐がありませんが」


「道じゃないんだ。左は牧草を刈る荷車が入る作業道。途中で農地に入って終わる。標柱があるから見れば分かるけど、草で根元が隠れてることがある」


「重要ですね」


 シモンが地図へ書き込む。


「右が旧道。左が農作業道」


「そう。迷っても大事故にはならんが、戻るのが面倒だ」


「助かりました」


「他は?」


 シモンはいくつか確認する。


 木橋の幅。


 水場までのおおよその時間。


 野営地の広さ。


 最近の草狼の目撃。


 御者は知っている範囲で答えてくれた。


 危険な異常はない。


 昨日まで実際に荷馬車が通っている。


 必要な情報は揃った。


「ありがとうございました」


 三人が礼を言う。


「気をつけてな」


 御者は自分の荷物の確認へ戻った。


 共同馬屋を離れたところで、ルシルが足を止める。


「どうする?」


 今度の問いは、朝より具体的だった。


 シモンは地図を見る。


「南平原旧道について、現時点で避けるべき理由は見当たりません」


「俺は南行きたい」


 ルシルはすぐ言った。


 景色も見たい。


 空走鳥も見たい。


 便利な大街道ではなく、少し人の少ない草原道を馬車で走ってみたい。


 どれか一つだけが理由ではなかった。


「私も南がいいです」


 モモも答える。


「シモンは?」


 二人に見られ、シモンは地図を畳んだ。


「僕も南で構いません。補給は十分ありますし、路面も確認できました。馬車の外へ高く荷物を積んでいるわけでもありませんから、風についても通常の注意で対応できます」


「じゃあ決まり?」


「はい」


 三人の次の道が決まった。


 南平原旧道。


 広い草原を抜け、いずれ南西の街道へ合流する道。


「今日出る?」


 モモが尋ねる。


 ルシルは太陽を見る。


 まだ昼前。


 最初の野営地までは十分間に合う。


 二頭の状態も朝確認している。


 シモンも同じことを考えたらしい。


「昼食を取ってからでも問題ないでしょう。宿をもう一泊する理由も特にありません」


「じゃあ飯食って出発」


「赤角亭?」


 モモが言う。


「また羊肉?」


「違うものも食べてみたいです」


「俺も」


「出発前に食べすぎないでくださいよ」


「分かってる」


 三人は宿へ戻る方向へ歩き出した。


 途中、共同馬屋の横にある小さな売り場をもう一度通る。


 紫土根。


 高原赤実。


 乳酪。


 卵。


 朝見たものが並んでいる。


 その向こうには南へ続く道がある。


 ルシルは一度だけ振り返った。


 建物の間から見える空は広い。


 雲がゆっくり東へ流れていた。


(草原か)


 山を越えたばかりなのに、次はまったく違う景色の中を走る。


 それが妙に嬉しい。


「ルシル様」


 少し先でモモが振り返る。


「置いていきますよ」


「今行く!」


 ルシルは二人へ追いついた。


 昼食。


 荷物の確認。


 トルクとベルクを馬車へつなぐ。


 それが終われば、また出発だ。


 今度の道には、水車の音も、山の斜面もない。


 どこまで続くのか分からない草の丘と、運が良ければ、その上を飛ぶように駆ける鳥が待っている。


 三人の次の道は、南へ決まった。

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