第48話 南へ出発したら、草原は思ったよりずっと広かったです
南平原旧道を進むと決めた三人が『麦穂の寝床』へ戻った頃、リュカ宿場には昼前の賑わいが広がっていた。
共同馬屋へ入る荷馬車の車輪が土を鳴らし、赤角亭の煙突からは朝より濃い煙が上がっている。農家が開いていた小さな売り場では品物を片づけ始めた者もおり、朝には山羊乳や野菜の匂いが目立っていた街道へ、今度は焼いた肉や煮込み料理の香りが混ざっていた。
「まず宿?」
モモが尋ねると、シモンは頷いた。
「ええ。出発することを伝えて、荷物をまとめます。その後に昼食ですね」
「馬車の確認は?」
「昼食後です。食事をしている間に二頭を休ませておけますから」
「じゃあ、出発は昼過ぎか」
「最初の野営地までなら十分です。ただし、予定より風が強くなれば無理はしません」
朝、南側の草原へ出た時にも風は感じている。さらに南から来た荷馬車の御者から、午後には強くなる日があるとも聞いた。
道が安全だからといって、何も考えず走ればいいわけではない。
ルシルはそのあたりを頭の中で整理しながら、宿の扉を開けた。
「おや、お帰り」
受付にいた主人が顔を上げる。
「道は決まったかい?」
「はい。南へ行きます」
「旧道か」
主人は驚く様子もなく頷いた。
「今ならいい時期だよ。真夏ほど暑くないし、冬ほど風も冷たくない。雨の後でもないなら、馬車も走りやすい」
「昼を食べてから出ようと思ってます」
「それでいいだろうね。最初の野営地なら、日暮れよりずっと前に着ける」
共同馬屋で聞いた話とも一致する。
「一泊ありがとうございました」
「こっちこそ。また通ることがあったら寄ってくれ」
主人はそう言ってから、ふと思い出したように三人を見た。
「南へ行くなら、夜は思ったより冷えるからね。昼が暖かくても油断しない方がいい」
「高原だから?」
「それもある。風を遮るものが少ないんだよ。野営地には低い土壁があるから、馬車はその内側へ入れるといい」
新しい情報だった。
シモンがすぐに確認する。
「風除け用ですか?」
「そう。昔はもっと大きかったらしいけど、今は腰より少し高いくらいかな。それでもあるのとないのじゃ違うよ」
「ありがとうございます」
「空走鳥を見るなら、騒がないことだね」
主人が続ける。
三人の顔が揃って上がった。
「知ってるんですか?」
モモが聞く。
「そりゃ知ってるさ。ここで生まれ育ってるからね」
「宿場の近くにも来ます?」
「昔は来たよ。今は人も馬車も多いから、南へ行かないとなかなか見ない」
「どのくらい近くで見たことあります?」
ルシルが身を乗り出す。
「子供の頃なら、畑の向こうを群れで走ってたなあ。十羽くらいだったかな」
「十羽!」
「ルシル様」
「分かってる。追わない」
「まだ何も言っていません」
「顔が言ってた」
「便利ですね、その理屈」
昨日、自分がシモンに言われた言葉を返した形になり、ルシルは少し得意になる。
主人は笑いながら受付台へ肘を置いた。
「空走鳥は臆病だけど、遠くから静かに見てる分には危険な鳥じゃない。ただ、馬が初めて見ると驚くことがある」
「馬が?」
「背が高いし、急に走るからね。若い馬なんかはびっくりすることがあるよ」
それは重要だった。
ルシルの頭から、鳥を見る楽しみだけが一度消える。
「トルクとベルク、大丈夫かな」
「見つけた時に距離があるなら、まず馬の反応を見るべきですね」
シモンもすぐに答えた。
「僕たちが鳥へ気を取られて、二頭の反応を見落とす方が危険です」
「分かった」
モモも真面目な顔で頷く。
「私も先にトルクたちを見ます」
「それがいいだろうね。まあ、会えるかどうかも運次第だけど」
「それは分かってます」
見たい。
けれど、必ず見られるわけではない。
そのくらいがちょうどいい。
三人は主人へもう一度礼を言い、それぞれの部屋へ上がった。
◇
荷物をまとめるといっても、大した量ではなかった。
一泊分として部屋へ持ち込んだものを鞄へ戻し、忘れ物がないか確認するだけだ。
ルシルは寝台の脇、机の下、窓辺を順番に見る。
「……よし」
特にない。
扉を開けたところで、隣の部屋からモモが出てきた。
鞄を持っている。
もう片方の手には例の小さな紙片。
「それも持ってくの?」
「記録です」
「赤い干し果物、高原赤実って書いた紙だろ?」
「空走鳥もまだ残ってます」
「見つけたら何て書くの?」
「見た、って」
「そのままだな」
「分かりやすいです」
そこへシモンも出てくる。
「二人とも忘れ物は?」
「ない」
「ありません」
「では馬車へ戻しましょう」
階段を下りる。
宿の主人へ鍵を返し、荷物を馬車へ運んだ。
扉を開けると、見慣れた車内が迎えてくれる。
二頭の木馬。
ヤマアカノドの木製置物。
鳥や植物の本。
料理関係の本。
地図。
旅を始めた頃より、確実に物が増えている。
「紫土根は?」
ルシルが尋ねる。
「こちらです」
シモンが収納魔法から朝買った二本を一度出して見せる。
「傷んでいません」
「今日使う?」
「今夜でもいいですが、まだ決めなくていいでしょう」
「山椒実と合わせたら?」
モモが言う。
「合うかな」
「試すなら少量ですね。紫土根自体が甘いそうですから」
「肉も入れたい」
「昼食前に夕食の相談ですか」
「夜は野営だろ? 考えといてもいいじゃん」
「それはそうですが」
シモンは少し考える。
「乾燥肉を使うならできます。豆を入れて煮てもいいでしょう」
「じゃあ夜考えよう」
「結局まだ決めないんですね」
「食べる時に決める」
「それで失敗しても知りませんよ」
「シモンがいるから大丈夫」
「料理について僕を万能扱いしないでください」
そんな会話をしながら荷物を戻し終える。
トルクとベルクはまだ馬房だ。
出発準備は昼食後にする。
「じゃあ赤角亭?」
モモが待ってましたとばかりに言う。
「行こう」
「軽めですよ」
シモンの念押しを聞きながら、三人は再び宿場の街道へ出た。
◇
昼の赤角亭は、昨夜とは少し雰囲気が違った。
夜は酒を飲む客や仕事を終えた地元の者が多かったが、今は出発前の旅人や荷運びの途中らしい客が中心だ。卓の回転も早く、食べ終えた者が席を立つと、すぐ別の客が入ってくる。
「三人? 昨日も来たね」
同じ給仕の女性が気づいた。
「今日、南へ出ます」
「なら食べすぎない方がいいよ。馬車でも揺れるからね」
「シモンと同じこと言われた」
「僕の判断は間違っていなかったでしょう」
「まだ食べすぎてない」
「これからの話です」
給仕が笑いながら料理板を渡してくる。
昨日食べた羊肉の香草炙りもある。
けれど、昼には別の料理が増えていた。
「高原赤実の肉包み?」
モモが読む。
「それ、昼だけだよ」
給仕が教えてくれる。
「薄い麦生地で燻製肉と葉野菜を包んで、高原赤実を煮たたれを少し入れてる。持って歩く人も多いね」
「それにします」
モモが早い。
「俺も」
「僕もそれで」
珍しく三人とも同じものになった。
「汁物つける?」
「何です?」
「豆と根菜。今日は紫土根も入ってる」
「それも」
ルシルが答えた。
「三人分?」
「はい」
「軽めとは?」
シモンが横を見る。
「肉包みと汁物だけだぞ?」
「まあ、それなら」
許可が出た。
しばらくして運ばれてきた肉包みは、片手で持てる細長い形だった。
焼いた麦生地の中に燻製肉と青い葉野菜が詰められ、赤褐色のたれが薄く絡んでいる。
ルシルは端からかじった。
「これ、馬車でも食べやすそう」
「だから持っていく人が多いんでしょうね」
モモも食べる。
昨日の羊肉に使われていたものより、たれは少し甘い。
燻製肉の塩気が強い分、味を変えているのだろう。
「高原赤実、料理で全然違うな」
「生だとあんなに酸っぱかったのに」
「保存方法と調理法で用途が広がる食材なんでしょう」
シモンは肉包みの断面を見る。
「旅用に干したものを持っているなら、肉料理以外にも試せるかもしれませんね」
「甘いもの?」
モモがすぐ反応する。
「なぜ最初にそちらなんです」
「果実なので」
「間違ってはいませんが」
「煮て蜜入れたら何か作れそう」
ルシルも乗る。
「二人とも、今は昼食です」
「食べながら次の食べ物の話するの駄目?」
「駄目とは言っていません」
シモンも少し笑った。
汁物には、朝買ったものと同じ紫土根が入っていた。
焼いた時より柔らかく、甘さも汁へ溶け出している。豆と塩味のある肉片が入った素朴な汁だったが、これなら野営でも作れそうだった。
「今夜これ真似する?」
ルシルが匙を止める。
「完全に同じ材料はありませんが、似たものなら」
「決まり?」
「まだです。野営地へ着いてから考えます」
「さっきの俺と同じじゃん」
「状況を見て決めるのと、何も考えず決めないのは違います」
「言い方」
モモがくすくす笑っている。
昼食は予定通り軽めに終わった。
少なくとも昨夜ほど腹いっぱいではない。
店を出る時、給仕の女性から南へ行くなら風に気をつけるよう言われた。
宿の主人。
共同馬屋。
荷馬車の御者。
そして食堂。
同じ注意を何度か聞いた。
なら、この土地では本当に当たり前に気をつけるべきことなのだろう。
◇
『麦穂の寝床』へ戻ると、いよいよ出発準備に入った。
まず馬車。
車輪。
車軸。
固定具。
扉。
棚。
外側の荷物。
シモンだけに任せず、三人で確認する。
「右後ろ、問題なし」
ルシルが言う。
「左も大丈夫です」
モモは車輪の周囲を見ている。
「固定具も緩みなし。今日は路面が乾いているので、泥の心配も少なそうですね」
シモンが立ち上がる。
「ただ、草地の道です。轍から外れすぎないようにしましょう」
「分かった」
次は二頭。
朝にも確認しているので、異常探しを繰り返すのではなく、出発前の通常確認だ。
水。
蹄。
革具。
馬体。
そして気分。
トルクは馬房から出た瞬間、宿の裏に積まれた干し草へ首を伸ばそうとした。
「それ朝も見てただろ」
ルシルが手綱を軽く引く。
トルクが不満そうに鼻を鳴らす。
「今食べたばっかりだろ?」
「馬は一日のかなり長い時間を食事に使いますからね」
「じゃあトルクが正しい?」
「だからといって他所の干し草を勝手に食べていいわけではありません」
「だよな」
ベルクはシモンの横で大人しく待っている。
モモが二頭を見比べる。
「性格違いますね」
「今さら?」
「改めてです。トルクは食べ物、ベルクはシモン君」
「僕は食べ物と同じ分類なんですか?」
「好きなもの」
「それならまだ……いや、納得していいんでしょうか」
ルシルが笑いながらトルクを馬車へつなぐ。
ベルクも隣へ。
二頭立ての形が整う。
旅に出たばかりの頃なら、この作業だけでも緊張していた。
今は確認すべきところを確認しながら、三人で自然に手を動かせる。
「町を出るまでは僕が御者をします」
シモンが言う。
「その後は?」
「道幅と風を見て交代しましょう」
「俺もやる」
「私も」
「もちろんです。ただし無理はしないこと」
二人とも頷いた。
宿の主人が裏口から出てくる。
「もう行くのかい?」
「はい。お世話になりました」
「南なら今日は天気も持つだろう。良い旅を」
「ありがとうございます」
モモも頭を下げる。
「朝乳酪、美味しかったです」
「また来たら食べていきな」
「はい」
ルシルも礼を言い、御者台へ上がるシモンの隣へ乗った。
モモは最初、車内へ。
「行きますよ」
「うん」
手綱が動く。
トルクとベルクが歩き出した。
馬車の車輪が、リュカ宿場の乾いた土をゆっくり転がり始めた。
◇
南へ向かうには、宿場の中央を抜ける。
昨日入ってきた北側とは逆方向だ。
共同馬屋の前を通ると、朝話を聞いた灰髪の職員が気づき、片手を上げた。
「南にしたか!」
「はい!」
ルシルが返す。
「作業道に入るなよ!」
「右ですよね!」
「そうだ!」
馬車はそのまま進む。
朝に紫土根を買った場所は、すでにほとんど片づけられていた。高原赤実を売っていた老人も木籠を荷車へ載せている。
赤角亭。
鍛冶場。
雑貨屋。
小さな建物が一つずつ後ろへ流れていく。
やがて家の数が減った。
最後の柵。
最後の倉。
そして、道の両側から建物が消える。
「うわ……」
車内から御者台へ顔を出したモモが声を漏らした。
朝にも見た景色だ。
けれど、馬車に乗ってその中へ進み始めると印象がまるで違った。
草原。
右も。
左も。
前も。
緩やかな起伏を描く草の丘が、視界の端まで続いている。
背後にはリュカの建物がある。
それでも、数百歩も進めば、もう宿場は小さく見え始めた。
「広いな」
ルシルは思わず呟いた。
山では、景色にはいつも壁があった。
斜面。
森。
岩。
谷。
遠くまで見える場所もあったが、必ずどこかに山の輪郭があった。
ここでは空そのものが大きい。
淡い青の下を、白い雲がゆっくり流れている。
風が草を押し、一面に濃淡の波が生まれた。
「すごいですね」
モモが御者台の後ろから身を乗り出す。
「落ちないでくださいよ」
「大丈夫です」
「座って見ても景色は変わりません」
「少し変わります」
「そういう問題ではありません」
モモは笑いながら車内へ戻った。
「窓、両方開けますね」
「風が強くなったら閉めて」
「はい」
左右の窓が開く。
風が馬車の中を抜けていった。
乾いた草と土の匂い。
山とは違う、広く薄い匂いだった。
◇
最初の一時間ほどは、シモンが手綱を持った。
路面は聞いていた通り悪くない。
土の道には荷馬車が通った轍が二本続き、その中央には背の低い草が生えている。大きな石もほとんどなく、山道を越えてきた三人からすれば拍子抜けするほど穏やかだった。
ただし、風は一定ではない。
弱くなったと思えば、丘を越えたところで急に横から吹く。
馬車が傾くほどではないが、外套の裾が大きく揺れる。
「確かに風は気をつけた方がいいな」
ルシルが言う。
「ええ。特に丘の頂上付近ですね。遮るものがありません」
「俺、次やっていい?」
「この丘を下りたら交代しましょう」
「了解」
下りといっても緩い。
シモンは速度を抑えながら進み、平らな場所へ出たところで馬車を止めた。
トルクとベルクにも異常はない。
ルシルが御者台へ移る。
「久しぶりな気がする」
「セイラでは馬車を休ませていましたからね」
「山を下りてる時はシモンが多かったし」
「ここなら練習には向いています。ただ、広いからといって気を抜かないでください」
「分かってる」
手綱を受け取る。
トルクとベルクへ声を掛ける。
「行こう」
二頭が歩き出す。
道は前へ伸びている。
急な曲がり角もない。
崖もない。
濡れた石もない。
けれど、何も考えなくていいわけではなかった。
風。
轍。
緩い起伏。
二頭の歩調。
遠くから来る荷馬車。
見る場所が変わっただけだ。
(山より簡単、って決めつけない方がいいな)
ルシルは肩の力を抜く。
前から来る小型の荷車が見えた。
距離は十分ある。
道幅も広い。
それでも早めに右側へ寄りすぎないよう位置を調整する。
相手の御者もこちらを見ていた。
すれ違う直前、互いに片手を上げる。
「こんにちは!」
向こうから声が飛ぶ。
「こんにちは!」
ルシルも返した。
荷車には刈った草が山のように積まれていた。
その後ろ姿を見送り、少ししてモモが車内から言う。
「さっきの、牧草でしょうか」
「たぶん」
「左の作業道へ行く人かもしれませんね」
「それなら朝聞いておいてよかったな」
見た目だけなら、街道を走る普通の荷車と変わらない。
地元の人間がどこへ向かっているかなど、外からは分からない。
◇
午後の太陽が少し傾き始めた頃、最初の水場が見えてきた。
道の左側に低い石囲いがあり、その脇へ木製の水桶が置かれている。
水は細い管から流れ続けていた。
「止まる?」
モモが尋ねる。
「まだ二頭とも大丈夫そうだけど」
ルシルはシモンを見る。
「休憩にはちょうどいいでしょう。次の水場まで行く必要はありません」
「じゃあ止める」
道から外れすぎない平らな場所へ馬車を寄せる。
二頭を休ませる。
水場には先客はいなかった。
石囲いの内側を覗くと、小さな湧き水が溜まり、そこから木管へ流れているようだった。
「飲用?」
モモが周囲を見る。
木札が立っている。
『旅人・家畜用 水汲み可』
「大丈夫そうですね」
シモンが確認する。
二頭へ水を与える。
人間も水筒を補充する。
ルシルは木杯で一口飲んだ。
「冷たい」
「湧き水ですね」
モモも飲む。
セイラで見た水路のような大がかりな仕組みはない。
ただ、石で囲い、旅人と家畜が使えるよう桶と管を整えてある。
「誰が管理してるんだろ」
ルシルが木札を見る。
「下に小さく書いてあります」
シモンが指す。
『東牧区共同管理』
「近くの農家かな」
「おそらく」
それ以上、仕組みを調べる必要はなかった。
使わせてもらい、汚さず離れる。
それで十分だ。
モモが草地の方へ歩きかけ、数歩で止まった。
「花があります」
ルシルも見る。
黄色い小花が、低い草の間にいくつも咲いていた。
花弁は五枚。
中心だけ少し濃い。
「本にあるかな」
「今出します?」
「いや、休憩短いし、覚えてたら後で見る」
「では形を覚えておきます」
モモがしゃがむ。
摘まない。
ただ見る。
「葉は細長いです。花はルシル様の親指の爪くらい」
「そんな小さい?」
「はい」
ルシルも近づいて見る。
「黄色。五枚。葉が細い」
「覚えました?」
「たぶん」
「たぶんですか」
「モモが覚えてるから大丈夫」
「私頼みです」
「二人で覚えればもっと大丈夫」
シモンは二人を見て、少しだけ笑った。
「出発する時に忘れていなければいいですね」
「シモンも覚えて」
「僕までですか?」
「三人なら完璧」
「昨日も似たことを言っていましたね」
休憩を終える。
まだ空走鳥はいない。
だからといって落胆するほどでもない。
今日見られるとは限らないのだ。
◇
再び走り出してしばらくすると、景色が少し変わった。
平らに見えた草原にも、実際には緩い谷や丘がある。
低い場所には背の高い草が増え、ところどころに小さな灌木がまとまっている。丘の上では風が強く、谷へ下りると急に静かになった。
「面白いな」
ルシルは手綱を持ったまま言う。
「何がです?」
隣へ座ったモモが尋ねる。
最初の休憩後、シモンが車内へ入り、モモが御者台へ出ていた。
「遠くから見ると全部同じ草原なのに、走ると結構違う」
「草の高さも違います」
「風も」
「虫もいます」
モモの視線が道脇を飛ぶ小さな羽虫を追う。
「鳥は?」
「まだです」
「空走鳥じゃなくて普通の鳥」
「あ」
少し先の草から、小さな茶色い鳥が飛び上がった。
低く飛び、また草へ入る。
「今のは飛びました」
「空走鳥じゃないな」
「空走鳥も翼はあるって言ってましたけど」
「飛ばないんだろ?」
「そう聞きました」
名前だけ知っていて、実物を知らない。
その状態が少し楽しい。
「モモ」
「はい?」
「御者やる?」
「いいんですか?」
「次の平らなところで交代しよう。俺もそろそろ肩休めたい」
「やります」
ルシルは後ろへ声を掛ける。
「シモン、次モモに代わる!」
「分かりました。止まる場所は選んでください」
「了解!」
谷を抜け、平らな直線へ出たところで止める。
モモと交代。
「風、右から来てる」
「はい」
「トルクが少し左へ寄りやすいから、強くなったら早めに声掛けた方がいい」
「分かりました」
「ルシル様」
車内からシモンが顔を出す。
「何?」
「ちゃんと引き継ぎできていますね」
「できるよ、そのくらい」
「褒めただけです」
「なんか子供扱いされてる気がする」
「気のせいです」
モモが笑いながら手綱を持つ。
「行きますよ」
二頭が再び歩き始めた。
◇
モモの運転は、以前よりずっと落ち着いていた。
最初の頃は慎重になりすぎて、道の端や車輪の位置を何度も確認していた。今は前方を広く見ながら、必要な時だけルシルやシモンへ確認する。
「風、少し強くなりました」
「うん」
ルシルは隣で周囲を見る。
「馬車は大丈夫そう」
「トルクたちも普通ですね」
草の波が左から右へ流れていく。
モモの長い髪は後ろでまとめてあるため、朝のように顔へ掛かることはない。
「気持ちいいです」
「運転?」
「それもですけど、景色が」
「分かる」
視界のほとんどが空と草。
それだけなのに飽きない。
雲の影が草原の上を移動している。
遠くの丘だけ暗くなり、その暗い場所がゆっくりこちらへ近づいてくる。
「雲の影って、こんなにはっきり見えるんですね」
モモが言う。
「山だと木とか斜面で分かりにくかったからな」
影が馬車へ届く。
一瞬だけ陽射しが弱くなり、空気が涼しくなる。
そしてまた明るくなった。
「……あ」
モモの声が変わった。
手綱を乱すほどではない。
ただ、視線が左前方へ向いている。
「何?」
「あそこ」
ルシルも見る。
遠い。
かなり遠い。
草の丘の中腹。
最初は灌木かと思った。
けれど、一つが動いた。
「……いる?」
「分かりません」
モモは馬車を進めたまま、ちらりとトルクとベルクを見る。
二頭に変化はない。
ルシルは目を凝らす。
茶色いもの。
一つ。
二つ。
三つ。
「シモン!」
声を大きくしすぎないよう抑えながら呼ぶ。
「どうしました?」
車内からシモンが出てくる。
「左の丘。あれ鳥かな?」
シモンも目を向ける。
数秒。
「……可能性はありますね」
「止める?」
モモが尋ねる。
「道幅は十分です。後続も来ていません。端へ寄せて止めましょう」
モモが速度を落とす。
急停止はしない。
トルクとベルクへ声を掛けながら、道の右側へゆっくり寄せた。
馬車が止まる。
まず馬を見る。
二頭とも耳を動かしているが、怯えてはいない。
「大丈夫そう」
ルシルが言う。
「距離がありますからね」
シモンも確認する。
そこで初めて、三人は丘の方をじっくり見た。
三つの影。
茶褐色。
首が長い。
脚も長い。
一羽が頭を上げる。
「鳥だ」
ルシルの声が自然に小さくなった。
「大きいです」
モモも囁く。
宿の主人から聞いた通り、背丈は大人の腰を越えるほどありそうだった。
距離があるため細かな羽の色までは分からない。
それでも、普通の鳥とは明らかに形が違う。
一羽は草の間へ頭を下げている。
もう一羽も同じ。
最後の一羽だけが首を伸ばし、こちらの方向を見ていた。
「空走鳥……?」
「特徴は一致します」
シモンが答える。
「三羽って言ってた」
モモが小さく言う。
「昨日の御者が見たのと同じ群れかな」
「可能性はありますが、断定はできません」
「分かってる」
三人とも馬車から降りない。
近づかない。
ただ見る。
風が草を揺らす。
三羽の姿が一瞬隠れ、また現れる。
「本当に飛ばないのかな」
ルシルが呟いた。
「今は歩いてます」
「走ってほしいような、走らせたくないような」
「驚かせて走らせるのは駄目です」
「しないって」
すると、見張るように首を上げていた一羽が突然向きを変えた。
「動いた」
次の瞬間だった。
走る。
「速っ……!」
ルシルの口から声が漏れた。
羽ばたかない。
長い脚が地面を蹴り、茶褐色の身体が草の上を滑るように進んでいく。
残る二羽も続いた。
三羽が横へ広がりながら丘を駆ける。
草が高いため脚の下半分は時折見えなくなる。
そのせいで、本当に草の上を飛んでいるようにも見えた。
「だから空走鳥……」
モモが目を見開いている。
誰も追っていない。
こちらから音も立てていない。
何か別の理由で移動しただけなのだろう。
それでも三羽は驚くほど速かった。
丘を一つ横切る。
少し速度を落とす。
そして、向こう側へ姿を消した。
三人はしばらく何も言わなかった。
風だけが通り抜ける。
「……見たな」
最初に口を開いたのはルシルだった。
「見ました」
モモが答える。
その顔には、抑えきれない笑みが浮かんでいる。
「シモン」
「見ましたよ」
「速かったな」
「ええ。想像していたよりも」
「少し気になるだけじゃなかった?」
「実際に見れば感想くらい変わります」
「気に入った?」
「そういう聞き方をしないでください」
眼鏡を直すシモンの口元も、わずかに上がっている。
モモが急に鞄を探った。
「紙」
「持ってきてたな」
「はい」
小さな紙片を出す。
『赤い干し果物 → 高原赤実』
その下。
『空走鳥』
モモはその横へ、小さく書き加えた。
『見た。三羽。すごく速い』
ルシルが覗き込む。
「感想まで書いた」
「大事です」
「絵は?」
「描けません」
「俺も無理」
そこでルシルの頭に、ふいに別の言葉が浮かびかけた。
景色を。
一瞬で。
絵のように。
「……」
セイラの小さな滝の近くで、理由も分からず口から出た言葉。
写真。
今も、その言葉が何なのかは分からない。
頭が痛むわけでもない。
新しい記憶が蘇るわけでもなかった。
ただ、走る三羽を見た瞬間、あれを残せたらと思った。
その感覚と、あの言葉が静かにつながった。
「ルシル様?」
モモがこちらを見る。
「ん?」
「どうしました?」
ルシルは少し迷い、それから隠さず答えた。
「前に言った、写真って言葉」
モモの表情から笑みが少し薄れる。
不安というより、真面目に聞く顔になった。
「今、また出てきたんですか?」
「言葉は覚えてた。そうじゃなくて……空走鳥が走ってるの見て、残せたらいいなって思ったら、あの言葉が合う気がした」
シモンもルシルを見る。
「頭痛や眩暈は?」
「ない。何もない」
「何か新しく思い出したことは?」
「ないよ」
ルシルは正直に答える。
「相変わらず、写真が何なのかもちゃんとは分からない。でも、景色とか、さっきみたいな一瞬を絵みたいに残すもの……って感じはする」
シモンは数秒黙った。
風で外套が揺れている。
「分かりました」
それだけ言う。
「それだけ?」
「今のところ、他に判断材料がありません。体調にも異常がなく、新しい記憶が戻ったわけでもないのでしょう?」
「うん」
「なら、前と同じです。覚えておきましょう」
モモも頷く。
「私も覚えてます」
「怖くない?」
ルシルは二人を見た。
自分でも正体の分からない言葉だ。
自分の中から出てきたのに、自分の知識ではないような妙な感覚がある。
モモは少しだけ首を傾げた。
「不思議ではあります」
「うん」
「でも、ルシル様はルシル様です」
あまりにも普通の口調だった。
シモンも眼鏡越しにルシルを見る。
「少なくとも、意味の分からない単語を一つ口にしただけで、急に別人になったとは考えません」
「そっか」
胸の奥にあった小さな引っかかりが、少しだけ軽くなる。
(分からないなら、今は分からないままでいいか)
答えがない。
だから無理に作らない。
それでいい。
「じゃあ、空走鳥見たって記録は紙で残すしかないな」
「はい」
モモが紙を大事そうに畳む。
「なくさないでよ?」
「なくしません」
「それ自体なくしたら、記録が消えるな」
「縁起でもないこと言わないでください」
「ごめん」
シモンが小さく息を吐く。
「そろそろ進みましょう。馬たちも落ち着いています」
「うん」
三人は改めてトルクとベルクを見る。
二頭とも問題ない。
空走鳥が走った時に少し耳を動かした程度で、暴れることもなかった。
「よかった」
モモがトルクの首筋を撫でる。
「びっくりしませんでしたね」
「距離があったからかも」
「今後もっと近くで見かけたら、その時は馬を優先しましょう」
「はい」
モモが再び御者台へ座る。
ルシルも隣へ。
シモンは車内へ戻った。
「行きます」
モモが二頭へ声を掛ける。
馬車が再び動き始めた。
◇
空走鳥を見た丘から先も、道は穏やかだった。
ただし、午後が進むにつれて風は少し強くなった。
横から吹くたび、モモは速度を落とし、二頭の様子を確認する。
「無理しなくていいよ」
ルシルが言う。
「大丈夫です。でも、さっきより手に力が入ります」
「代わる?」
「もう少しだけ」
「分かった」
自分で続けるか、交代するか。
モモはしばらく走った後、自分から言った。
「次の低いところで代わってください」
「了解」
丘を下り、風が弱まったところで停止する。
今度はシモンが御者台へ。
「僕が野営地まで行きます」
「俺じゃなくていい?」
「ルシル様も十分運転しました。夕方に近づくほど風が変わりやすいそうですから、今日は僕が」
「分かった」
無理に自分がやる理由はない。
ルシルは素直に車内へ入った。
モモも隣へ座る。
「空走鳥、見られましたね」
「うん」
「三羽」
「速かった」
「はい」
モモは紙片をもう一度取り出す。
「まだ見るの?」
「ちゃんと入ってるか確認しました」
「鞄に入れたんだからあるだろ」
「あります」
「それならいいけど」
窓の外を見る。
空走鳥はもう見えない。
代わりに黄色い小花が道脇に増えている。
「あ」
「どうしました?」
「水場の花」
モモも窓へ寄る。
「あれです」
「いっぱいある」
水場では数株しか気づかなかったが、ここでは草の間に点々と咲いていた。
「後で本見よう」
「覚えてましたね」
「三人で覚えたから」
「シモン君にも言わないと」
前の御者台へ声を掛ける。
「シモン! 黄色い花、またある!」
「見えています!」
「覚えてる?」
「覚えていますよ!」
少し大きな声で返ってきた。
モモが笑う。
「完璧です」
「三人いると便利だな」
「そういう便利ですか?」
「忘れ物減る」
「それはそうかもしれません」
馬車は草原を進む。
◇
最初の野営地が見えたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
「あれでしょう」
シモンの声がする。
ルシルとモモが窓から前を見る。
街道の左側。
草原の中に、不自然な半円形の土壁があった。
宿の主人から聞いていた風除けだ。
近づくにつれて形が分かる。
高さは大人の腰ほど。
厚い土を盛り、ところどころ石で補強してある。
内側には平らな地面が広がり、火を焚くための石囲いが三つ。馬をつなぐための太い杭も何本か立っていた。
「誰もいない?」
ルシルが見る。
「今のところは」
シモンは馬車を入口から入れる。
土壁の内側へ入った途端、風が少し弱くなった。
「おお」
モモも気づく。
「全然違います」
「完全には止まりませんが、かなりましですね」
シモンは馬車の向きを調整する。
風上側へ土壁。
馬車も風除けの一部になる位置。
以前の野営で覚えたことを使いながら、三人で場所を決める。
「ここでいい?」
「ええ」
「じゃあ今日はここまで」
馬車が止まる。
トルクとベルクを外す。
二頭とも一日の移動を終えたことが分かるのか、どこか力が抜けたように見えた。
「お疲れ」
ルシルがトルクの首を撫でる。
モモは水の準備。
シモンは周囲の確認。
いつもの役割を固定しているわけではないのに、自然に動きが分かれる。
夕方の草原は、昼とは別の色になっていた。
低い太陽が草の先を橙色に染める。
遠くの丘には長い影が伸び、空の青も少しずつ薄くなっている。
「テント、土壁の内側?」
「そうしましょう。馬車との間に置けば風もかなり避けられます」
「火は?」
「既存の石囲いを使います」
準備を進める。
火を起こす。
水を用意する。
寝床を整える。
そして、食事。
「紫土根」
ルシルが言った。
「やっぱり使います?」
モモが嬉しそうに反応する。
「一本だけ?」
「二本とも使う必要はありませんね」
シモンが一本を取り出す。
「残りは保存しておきましょう」
「乾燥肉と豆?」
「それでいきます。山椒実は?」
モモが少し考える。
「今日は入れない方がいいです」
「どうして?」
「紫土根の味をちゃんと知りたいので」
シモンが頷く。
「僕も賛成です。昼の汁物を参考にするなら、塩味を基本にした方がいいでしょう」
「じゃあそれで」
鍋へ水。
豆。
戻した乾燥肉。
皮を薄く削って輪切りにした紫土根。
他の保存野菜も少し。
火にかける。
煮えてくると、昼に赤角亭で嗅いだものに少し似た香りが広がった。
「甘い匂いします」
モモが鍋を覗く。
「紫土根かな」
「たぶん」
味を見る。
塩を足す。
さらに煮る。
派手な料理ではない。
けれど、草原の夕方に温かい鍋から立つ湯気は、それだけで十分だった。
三人で椅子を出し、鍋を囲む。
「いただきます」
紫土根を食べる。
昼より少し大きく切ったため、中心に柔らかな食感が残っていた。
「うまい」
「甘いです」
「乾燥肉の塩気とも合いますね」
シモンも満足そうだ。
「残り一本、別の食べ方したいな」
「焼きます?」
モモが言う。
「昨日の赤角亭みたいに?」
「焚き火ならできますよね」
「次の野営でやる?」
「他に食べたいものがなければ」
「予定が食べ物から決まっていく」
シモンが呟く。
「いいじゃん」
「否定はしていません」
三人の間に笑いが落ちる。
食事をしながら、今日見たものを話す。
高原赤実の生の姿。
紫土根。
広い草原。
雲の影。
黄色い小花。
そして空走鳥。
「走るところ見られたの、運よかったな」
ルシルが言う。
「追わなくても走りました」
「うん」
「トルクたちも驚かなかったです」
「距離があったからだろうけど、それもよかった」
シモンが鍋から豆を掬う。
「明日以降、近くで見かけた場合は今日と同じ対応でいいでしょう。止まれる場所なら安全に寄せて、まず馬の反応を見る。こちらから近づかない」
「了解」
「はい」
食事を終える頃には、太陽の半分が丘の向こうへ沈んでいた。
◇
片づけを終えた後、モモが馬車から本を持ってきた。
『街道沿いの草花百選』。
「黄色い花?」
「はい」
三人で火の近くへ座る。
ページをめくる。
黄色。
五枚の花弁。
細長い葉。
高原。
「これ?」
ルシルが一つ指す。
「似てますけど、花が大きいです」
「じゃあ違う」
次。
また次。
似たものはいくつかある。
けれど、完全には一致しない。
「これが一番近い?」
モモが指したのは『風鈴黄花』という植物だった。
高原の草地に生える。
黄色い五弁花。
細い葉。
花の大きさも近い。
「でも、本には茎に赤い筋があるって書いてあります」
シモンが説明文を読む。
「見た?」
「見てません」
「俺も」
「では確定できませんね」
「また候補か」
ルシルは笑う。
「鳥も候補だったし、花も候補」
「分からないものは無理に決めない方がいいです」
「うん。それでいい」
本を閉じる。
明日また見つけたら、今度は茎も見る。
見つからなければ、それまで。
旅は植物調査のためだけにしているわけではない。
「そういえば」
モモが小さな紙片を見る。
「ここに花も書きます?」
「その紙、どんどん増えるぞ」
「裏が空いてます」
「書くんだ」
モモは裏返した。
『黄色い小花 風鈴黄花? 茎の赤い筋は未確認』
「ちゃんとしてる」
「忘れたくないので」
「じゃあ写真も書く?」
ルシルが何気なく言った。
モモの手が止まる。
シモンもルシルを見る。
「あ」
自分から言っておいて、ルシルも少し驚く。
けれど嫌な感じはない。
「書いておく?」
モモが静かに尋ねた。
ルシルは少し考えた。
「うん」
「どう書きます?」
「……写真。景色とか一瞬を、絵みたいに残すもの……たぶん」
「たぶん、も書きます」
「そこ大事?」
「大事です。確定してないので」
「シモンみたいになってきたな」
「良いことです」
シモンは否定しなかった。
モモが紙の端へ書く。
『写真――景色や一瞬を絵のように残すもの? ルシル様が知っていた言葉。詳細不明』
「俺が知ってたっていうか、勝手に出てきたんだけど」
「では」
少し書き直す。
『ルシル様から自然に出た言葉』
「これなら?」
「うん」
小さな紙。
高原赤実。
空走鳥。
黄色い花。
そして写真。
旅の途中で見つけたものと、まだ分からないものが同じ紙へ並んだ。
「なくすなよ?」
「だからなくしません」
「大事になってきたから」
「ちゃんと本に挟んでおきます」
モモは紙を『街道沿いの草花百選』の後ろ側へ挟んだ。
シモンがそれを見てから、夜空へ目を向ける。
「そろそろ冷えてきましたね」
確かに昼よりかなり気温が下がっている。
風除けの内側でも、頬へ当たる空気が冷たい。
「火、もう少し?」
「寝るまでなら」
薪を一本足す。
火の粉が小さく舞った。
草原には、町の明かりがない。
完全に日が沈むと、空の星が一つずつ増えていった。
「……星も広いな」
ルシルが上を見る。
「空が広いからでしょうか」
モモも顔を上げる。
山の中でも星は見えた。
けれどここでは、地平に近いところまで空が続いている。
ルシルは一瞬だけ、また写真という言葉を思い浮かべた。
この星空も残せたら。
けれど、それ以上の何かは出てこない。
記憶も。
答えも。
だから今は、ただ目で見る。
「明日は?」
モモが尋ねる。
シモンが地図を開く。
「この先、もう一つの水場を通り、例の分かれ道へ向かいます。右が旧道、左が農作業道です」
「間違えないようにしないとな」
「標柱を確認します」
「その先で空走鳥またいるかな」
「分かりません」
「いなくてもいいよ」
ルシルは火へ手をかざした。
「今日見たし」
見られたら嬉しい。
見られなくても、道は続く。
そのくらいでいい。
風が土壁の向こうを通り抜け、低い音を立てた。
内側では火が静かに揺れている。
トルクとベルクも落ち着いていた。
三人はもうしばらく火のそばで過ごし、それから翌日に備えて休むことにした。
リュカを出て初めての夜。
広い草原の真ん中で、三人の馬車は低い土壁に守られながら、静かに夜を迎えていた。




