第49話 草原の分かれ道は、標柱を見つけるところからです
草原で迎えた朝は、静かだった。
鳥の声がないわけではない。遠くでは短い鳴き声が聞こえ、土壁の向こうを吹き抜ける風も、低く長い音を立てている。
それでもルシルが目を覚ました時、最初に感じたのは静けさだった。
目を開けたまま、しばらく天幕の天井を見る。
昨夜、眠る前まで聞こえていた風は少し弱まったらしい。布を揺らす音はほとんどなく、代わりに外からトルクかベルクが草を食む小さな音が聞こえていた。
(朝か)
身体を起こす。
毛布から出た途端、頬へ触れる空気が思った以上に冷たかった。
「寒っ……」
思わず声が漏れる。
リュカの宿の主人から、草原の夜と朝は冷えると聞いていた。実際に夜も気温は下がっていたが、朝方はさらに一段冷えたらしい。
外套を羽織って天幕から出る。
東の空はすでに明るい。
地平近くには淡い橙色が残り、その上へ薄い青が広がっている。草には細かな朝露が付き、低い位置から差す光を受けてところどころ白く輝いていた。
「……昨日と全然違うな」
同じ場所なのに、夕方とも夜とも違う。
低い土壁。
石囲いの焚き火跡。
馬車。
そして、その向こうへ続く草原。
朝の光の中では、すべての輪郭が少し柔らかく見えた。
「おはようございます、ルシル様」
背後から声がする。
振り返ると、シモンが天幕から出てきたところだった。
「おはよう。寒いな」
「ええ。予想していた範囲ではありますが、思ったより冷えましたね」
シモンは眼鏡を直しながら空を見る。
「雲は少ない。風も昨日の夕方より弱いようです」
「今日は走りやすい?」
「朝のうちは。ただ、昼以降は分かりません」
その会話を聞いたのか、もう一つの天幕から小さな物音がした。
少ししてモモが顔を出す。
「……寒いです」
白い外套を身体へ巻きつけるようにしながら出てきた。
「おはよう」
「おはようございます」
モモは一度空を見上げ、それから両手を袖の中へ入れた。
「昨日の昼は暖かかったのに」
「宿の人が言ってた通りだったな」
「朝ごはん、温かいものにしませんか?」
「賛成」
「まず二頭と周囲の確認です」
シモンの言葉に、ルシルとモモも頷く。
焚き火を起こすのはその後だ。
三人は朝の野営地を動き始めた。
◇
夜の間に異常はなかった。
土壁の外側を一周しても、大きな動物が近づいた痕跡は見つからない。草地には小さな足跡らしいものがいくつか残っていたが、どれも野営地へ入り込んだ様子はなかった。
トルクとベルクも落ち着いている。
「おはよう」
モモがトルクの鼻先を撫でる。
トルクは鼻を鳴らし、モモの肩口へ顔を寄せた。
「何も持ってませんよ」
「本当に?」
ルシルが聞く。
「本当です」
「昨日の紙とか」
「食べ物じゃありません」
「トルクなら確認するかも」
「紙まで食べさせないでください」
その紙には高原赤実や空走鳥、黄色い花、それにルシルから自然に出てきた『写真』という言葉まで書かれている。
モモは昨夜、草花の本へ挟んで保管していた。
トルクの朝食にされては困る。
「ベルクも普通ですね」
シモンがベルクの様子を確認する。
二頭とも一晩休んだ後らしい落ち着いた状態で、食欲もある。昨日の草原道は山道ほど脚への負担も大きくなかった。
「じゃあ朝飯」
ルシルが言う。
「その前に火ですね」
「それも朝飯の一部」
「そういうことにしておきます」
昨夜使った石囲いへ薪を組む。
朝露の影響を受けていない乾いた薪を選び、火を起こす。
炎が安定すると、三人は自然とその近くへ集まった。
「あったかいです」
モモが両手をかざす。
「朝は火がありがたいな」
「夏になれば逆のことを言っていそうですけどね」
「その時はその時」
朝食は簡単にした。
硬めのパンを少し炙り、卵を焼く。
残っている保存野菜を使った薄いスープも作った。
昨夜の紫土根は一本だけ使ったため、もう一本残っている。けれど朝は使わず、別の食べ方を試すために取っておくことにした。
「焼くの、今日の夜?」
モモがパンをスープへ浸しながら尋ねる。
「今夜も野営なら」
ルシルが答える。
「今日の進み方次第ですね」
シモンは地図を膝へ広げていた。
「まず二つ目の水場。その先に、昨日教えてもらった見分けにくい分かれ道があります」
「右が旧道」
ルシルが言う。
「左が農作業道です」
モモも続ける。
「標柱はあるけど、根元が草で隠れてることがある」
「覚えていますね」
「昨日何回も確認したから」
「なら大丈夫でしょう。ただし、覚えていることと現地で確認することは別です」
「分かってる。ちゃんと標柱見る」
シモンが頷く。
その先については、今のところ大きな問題はない。
今日中にどこまで進むかは、二頭の状態と風、それから道の様子を見て決める。宿場のように必ず決まった場所へ着かなければならないわけではない。
「そういえば、黄色い花」
モモが思い出したように言った。
「今日またあったら茎を見るんだろ?」
「はい。風鈴黄花なら赤い筋があるそうです」
「なかったら別の花」
「そうなります」
シモンが地図を畳む。
「花を見るのは構いませんが、御者がよそ見しないように」
「それはしない」
「私もです」
「なら結構です」
朝食を終え、片づける。
火は完全に消す。
灰の状態を確認する。
天幕を畳み、馬車へ戻す。
トルクとベルクへ革具を着け、馬車へつなぐ。
出発準備が整った頃には、朝の冷たさも少し和らいでいた。
「最初、誰がやる?」
ルシルが御者台を見上げる。
「ルシル様でいいでしょう」
「俺?」
「昨日、最後は僕が運転しましたから。朝は風も弱いです」
「じゃあやる」
ルシルが御者台へ座る。
モモは隣へ。
シモンは車内から周囲を確認することになった。
「行くぞ、トルク、ベルク」
二頭へ声を掛ける。
手綱を動かすと、馬車は低い土壁に囲まれた野営地からゆっくり外へ出た。
朝の南平原旧道が、再び三人の前へ伸びていた。
◇
午前の草原は、昨日より穏やかだった。
風はある。
けれど馬車の進路を気にするほどではなく、草の先を揺らす程度だった。
道も乾いている。
昨日と同じ二本の轍が続き、時折、別の荷車が残した新しい車輪跡が重なっている。
「昨日より走りやすい」
ルシルが言う。
「風が弱いからでしょうか」
隣のモモが答える。
「それもある。トルクたちも真っ直ぐだし」
二頭の歩調は安定していた。
見通しのいい道だからこそ、遠くの変化がよく分かる。
前方の丘を越えてくる荷馬車。
道から少し離れた場所で草を食べている家畜。
さらに遠くでは、人らしい小さな影が二つ動いている。
「農家かな」
「昨日聞いた通り、この辺りには牧区や農地が点在しているようですね」
シモンが車内から答える。
「建物見えないけど」
「丘の向こうでしょう。水場も共同管理でしたから、街道から少し離れたところに農家が集まっているのかもしれません」
「寄れる?」
「用事もないのに農地へ入る必要はないでしょう」
「それもそうか」
旅をしていると、道の向こうが気になる。
けれど、どこへでも入っていいわけではない。
畑も牧草地も、誰かが暮らすために使っている場所だ。
ルシルは遠くの影から視線を戻した。
「ルシル様」
「ん?」
「右側」
モモが指す。
道脇に、昨日見た黄色い小花が咲いていた。
「あった」
「たくさんあります」
「止まる?」
ルシルは前後を見る。
後続なし。
対向車もかなり遠い。
道脇には馬車一台分ほどの平らな空間がある。
「シモン?」
「安全に寄せられるなら構いません。ただし短時間で」
「了解」
速度を落とし、道から少しだけ外して停車する。
馬車を降りたのはモモとルシルだけだった。
シモンは御者台へ移り、二頭と周囲を見る。
「茎」
モモがしゃがむ。
朝露はもうほとんど乾いている。
黄色い花は昨日見たものと同じに見えた。
五枚の花弁。
細長い葉。
そして茎。
「あ」
「ある?」
「赤いです」
モモが指先を近づける。
触れずに見ると、緑色の細い茎へ一本、淡い赤色の筋が通っていた。
「本に書いてたやつ?」
「はい」
「じゃあ風鈴黄花?」
「かなり可能性は高いですね」
シモンも御者台から身を傾けて確認する。
「花の大きさ、葉、茎の特徴、生育場所が一致しています」
「確定?」
「図鑑の記載だけで絶対とは言いませんが、旅先での確認としては風鈴黄花と考えてよさそうです」
「モモ、紙」
「はい」
モモが笑った。
「今は出しません。馬車へ戻ってから書きます」
「成長した」
「何がですか」
「紙をすぐ出さなくなった」
「道端ですから」
「俺よりちゃんとしてる」
「それは前からです」
「モモ?」
少し得意そうな顔をしている。
黄色い花を摘まず、そのまま立ち上がる。
二人は馬車へ戻った。
「風鈴黄花」
モモが車内から紙を出す。
昨日書いた『黄色い小花 風鈴黄花? 茎の赤い筋は未確認』の横へ、小さく追記した。
『赤い筋あり。たぶん風鈴黄花』
「まだ、たぶん付けるんだ」
「シモン君が絶対とは言わなかったので」
「良い判断です」
「シモンの影響強いな」
「正確なのは良いことです」
モモは満足そうに紙を本へ戻した。
小さな疑問が一つ減った。
それだけのことなのに、昨日から気にしていたものへ名前がつくと少し嬉しい。
「出るよ」
「はい」
再び馬車が進み始めた。
◇
二つ目の水場へ着いたのは、太陽がかなり高くなってからだった。
最初の水場より小さい。
道の右側に浅い石槽があり、地面から突き出た木管から細く水が流れている。近くには一本だけ背の低い木が生えており、その下へ古い腰掛けが置かれていた。
先客がいる。
小型の荷車一台。
馬一頭。
そして、年配の男女二人だった。
「こんにちは」
シモンが先に声を掛ける。
「こんにちは」
男の方が振り返る。
日に焼けた顔。
帽子。
服には乾いた草が何本か付いている。
「旅の人かい?」
「はい。南へ向かっています」
「旧道?」
「そのつもりです」
「なら、この先の分かれ道だけ気をつけな」
三人は顔を見合わせた。
「やっぱり分かりにくいんですか?」
ルシルが尋ねる。
女性が笑う。
「旅の人はたまに左へ行くよ。地元の荷車が左へ入っていくから、ついていっちゃうんだ」
「昨日も教えてもらいました。右が旧道で、左が農作業道」
「それなら大丈夫だ。今日は草刈りの荷車が何台か入ってるから、余計につられないようにな」
昨日すれ違った牧草を積んだ荷車を思い出す。
地元の人間にとっては左へ行く方が普通な時間帯もあるらしい。
「標柱、見えます?」
モモが聞く。
「上は見えるよ。ただ根元が草に埋もれてる。右側に『南旧道』って彫ってあるから、それを見ればいい」
「ありがとうございます」
水場を譲り合いながら二頭へ水を与える。
年配の二人は近くの牧区で働いているらしく、荷車には空の木籠がいくつも積まれていた。
「この先、風どうです?」
シモンが尋ねる。
「今日は弱いね。午後も昨日ほどじゃないと思うよ」
「路面は?」
「乾いてる。昨日の荷車が通ったなら聞いてるだろうけど、木橋も問題ない」
「橋は今日中に着きますか?」
「ここからなら、普通に行けば夕方前には着く。ただし橋の先で野営するなら、少し行ったところに平らな場所があるよ。正式な野営地じゃないから土壁はないけどね」
シモンが地図を見る。
「この辺りでしょうか」
「そうそう。大きな灰色岩が三つ並んでる。その手前は風が強いから、泊まるなら岩を越えた先の方がいい」
また一つ、地図だけでは分からない情報が増える。
「今日、橋を越える?」
ルシルが小声で尋ねる。
「まだ決めなくていいでしょう。分かれ道を越えた後の時間と二頭の様子を見ます」
「了解」
年配の二人が荷車へ戻る。
「じゃあ気をつけて」
「ありがとうございます」
「左へ行っても畑しかないからね!」
女性が最後に笑った。
「間違えたら戻ってきます!」
ルシルが返す。
「間違えないでください」
シモンにすぐ言われた。
「分かってるって」
荷車は先に出発した。
そして本当に、南ではなく少し左寄りの方向へ進んでいく。
「農作業道へ行く人たちかな」
「でしょうね」
モモがその後ろ姿を見る。
「ついていったら駄目ですね」
「うん」
水筒も補充した。
二頭も休ませた。
今度はモモが御者をする。
「分かれ道、私ですか?」
「嫌なら代わるけど」
「いえ。やります」
モモは少し緊張した顔をしながら御者台へ座った。
「間違えそうなら止まります」
「それでいいですよ」
シモンが隣へ座る。
「道を選ぶ時に止まるのは失敗ではありません。分からないまま進む方が問題です」
「はい」
ルシルは車内へ入る。
「左行ったら紫土根一本没収な」
「どうしてですか!?」
「罰」
「ルシル様に渡さないだけです」
「それ俺が困る!」
「自分で言ったんじゃないですか」
シモンが額へ手を当てる。
「分かれ道へ着く前から何をしているんですか」
馬車が動き始めた。
◇
水場を離れてしばらくすると、草原の中に人の手が入った場所が増えた。
街道の左側。
遠くの草が一定の高さで刈られている。
ところどころには刈った草を積んだ小さな山があり、その間を荷車が動いていた。
「本当に草刈りしてます」
モモが前を見ながら言う。
「だから作業道があるんですね」
シモンが答える。
「右側は?」
「こちらは自然の草地が多いようです」
ルシルも窓から左を見る。
何人もの人が作業している。
遠いので顔までは分からない。
けれど、長い道具を使って草を刈り、束ね、荷車へ積んでいるのは見えた。
「冬用?」
「家畜の飼料でしょうね」
「トルクたちが食べてる干し草も?」
「同じものとは限りませんが、用途は近いでしょう」
街道を旅しているだけでも、馬の食べ物を作る人たちがいる。
当然のことなのに、普段は出来上がった干し草しか見ない。
「トルク」
ルシルが前へ声を掛ける。
「お前の飯作ってるぞ」
トルクは当然返事をしない。
ただ耳だけが一度動いた。
「聞いてる?」
「偶然でしょう」
「シモン、夢がない」
「そこに夢が必要ですか?」
モモが笑う。
その時、前方に二台の荷車が見えた。
どちらも荷台に刈った草を積んでいる。
進行方向は同じ。
「追いつきそうですね」
モモが速度を少し落とす。
「急ぐ必要はありません。そのまま距離を取ってください」
「はい」
しばらく三台で同じ方向へ進む。
先頭の荷車。
二台目。
そしてルシルたちの馬車。
草原の中を、ゆっくり列になって走る。
「これ、ついていったら危ないやつじゃない?」
ルシルが車内から言う。
「その可能性が高いですね」
シモンは地図と前方を交互に見る。
「そろそろ分岐があってもおかしくありません」
モモの背筋が少し伸びた。
「標柱を探します」
「僕も見ます」
「俺も」
「ルシル様は右側を見てください」
「了解」
馬車は進む。
左側には刈られた草地。
右側には自然の草原。
前の荷車二台は、何の迷いもなく走っている。
やがて道が少し広くなった。
「……あれ?」
モモが速度を落とす。
前の荷車が左へ寄り始めた。
道も、確かに二つに見える。
左は車輪跡が濃い。
今日だけでも何台もの荷車が通ったのだろう。
対して右は、轍こそあるものの左より薄い。
「これ、知らなかったら左行くな」
ルシルが思わず言う。
「ええ」
シモンも前を見る。
「止まりましょう」
「はい」
モモが二頭へ声を掛け、ゆっくり停止する。
前の二台はそのまま左へ入っていった。
御者の一人がこちらを振り返り、片手を上げる。
モモも反射的に手を上げかけ、途中で止めた。
「ついていきそうになりました」
「挨拶しただけなら大丈夫」
「でも道が自然すぎます」
実際、左の方がよく使われている道に見えた。
「標柱は?」
三人で探す。
右。
左。
道の間。
「あれじゃない?」
ルシルが指した。
二つの道の間に、何か細いものが出ている。
上半分だけ。
下は腰近くまで伸びた草に埋もれていた。
「見てきます」
シモンが御者台を降りる。
ルシルも続いた。
「私、馬を見てます」
「お願い」
草を踏み荒らさないよう、標柱の近くまで歩く。
木製だ。
かなり古い。
表面は風雨で色が抜けている。
上には矢印が二つ。
左。
右。
「文字、下だ」
ルシルが草の間を覗く。
根元を隠す草を手で軽く避ける。
彫られた文字が出てきた。
『左 東牧区作業道』
『右 南旧道』
「合ってる」
「ええ。右です」
「聞いてなかったら左行ってたかも」
「可能性はありますね。今日はこちらの方が車輪跡も多い」
シモンは標柱の状態を見る。
「倒れているわけではありませんし、文字も読めます。草が伸びる時期だけ見えにくくなるのでしょう」
「草刈っていいのかな」
「勝手に手を加えるのはやめておきましょう。地元の管理物です」
「だよな」
確認できれば十分だ。
馬車へ戻る。
「右で合ってました?」
モモが聞く。
「合ってた。左は東牧区作業道」
「よかった」
「じゃあ右へ」
「はい」
モモが手綱を握り直す。
馬車はゆっくり進み、二つの轍のうち右側へ入った。
左へ向かった二台の荷車は、すでに少し遠くなっている。
その先には刈り草の山。
人。
別の荷車。
確かに農作業のための道だった。
「情報って大事だな」
ルシルが御者台の後ろから言う。
「今さらですか?」
シモンが返す。
「いや、分かってるけど。今回すごく分かりやすかった」
「地図には分岐として載っていませんでしたからね。現地の情報がなければ、少なくとも一度は迷った可能性があります」
「戻れば済むけど、時間も馬も使う」
「そういうことです」
モモが右の道を見ながら息を吐く。
「ちょっと緊張しました」
「でもちゃんと止まったじゃん」
「はい」
「俺だったら前の荷車についてったかも」
「それは困ります」
「だからモモでよかった」
「褒めてます?」
「褒めてる」
「なら受け取ります」
モモの肩から少し力が抜けた。
◇
分岐を越えると、人の気配は急に薄くなった。
左側に見えていた牧草地は丘の向こうへ消え、再び草原が広がる。
道の轍も先ほどまでより浅い。
それでも、途切れてはいない。
南へ続く旧道。
「本当に静かになった」
ルシルが言う。
「さっきまでは作業の音が聞こえてましたからね」
モモが答える。
今聞こえるのは車輪と蹄。
風。
時折、草の中から飛び立つ小鳥の声。
「空走鳥は?」
「探しながら運転しません」
「偉い」
「昨日シモン君に言われましたから」
「俺が見る」
「お願いします」
ルシルは左右を眺める。
昨日三羽を見た時と似た草丘はいくつもある。
けれど、それらしい影はない。
「いないな」
「毎回見られるものではないでしょう」
シモンが言う。
「分かってる。今日は花分かったし、分かれ道も間違えなかった」
「それを同列にするんですか」
「今日の成果」
「まだ昼前ですよ」
「じゃあ増えるかも」
その時、モモが前方へ目を凝らした。
「何かあります」
「何?」
「道の上……ではないです。右側」
ルシルも見る。
遠くに黒いものがある。
空走鳥ではない。
低い。
動かない。
「岩?」
「近づけば分かるでしょう」
シモンは特に警戒を強める様子もない。
馬車を進める。
距離が縮まる。
「木だ」
ルシルが気づいた。
枯れ木だった。
草原の中に一本だけ立っている。
幹の半分ほどが黒く、上部には枝がほとんど残っていない。
「雷でも落ちたんでしょうか」
モモが言う。
「焦げてるようには見えるな」
「古い痕ですね」
シモンが眺める。
根元には新しい草が生えている。
何か事件が起きているわけでもない。
ただ、広い草原の中に一本だけ残った枯れ木。
それだけで妙に目立つ。
「写真……」
ルシルは小さく口にした。
今度は突然出たわけではない。
知っている言葉として、自分から使った。
モモがこちらを見る。
「残したいですか?」
「ちょっと」
枯れ木。
青い空。
草。
流れる雲。
「でも、絵描けないしな」
「練習します?」
「今から?」
「旅は長いですし」
「モモも一緒に?」
「私は……」
モモが少し考える。
「花なら描けるようになりたいです」
「じゃあ今度紙買う?」
「記録用の紙はありますよ」
シモンが口を挟む。
「ただし、旅の記録に使う紙を全部絵の練習で消費しないでください」
「シモンも描く?」
「なぜ僕まで」
「三人でやった方が面白い」
「僕は遠慮します」
「絶対?」
「……時間が余っている時なら、一度くらいは」
「やるんじゃん」
「一度ですよ」
枯れ木は馬車の後ろへ流れていく。
写真というものが何なのか。
相変わらず分からない。
けれど、景色を残したいという気持ち自体は特別なものではないのかもしれない。
絵という方法は、この世界にも普通にある。
(写真が分からなくても、残す方法はあるんだよな)
その考えに、妙な安心を覚えた。
◇
昼食は街道脇の平らな場所で取った。
火は使わず、パンと乾燥肉、保存していた乳酪を少し。
高原赤実の干したものも三人で数粒ずつ食べる。
「名前分かってから食べると違う?」
ルシルが尋ねる。
モモは一粒を噛みながら考えた。
「味は同じです」
「そりゃそうだ」
「でも、高原で採れて、肉料理にも使われて、生だとすごく酸っぱいって分かりました」
「それは違うな」
「はい」
シモンが水を飲む。
「食べ物そのものは同じでも、知っていることが増えただけでしょう」
「それが面白いんだよ」
「否定していませんよ」
食後は二頭を休ませる。
ルシルも草の上へ座った。
地面は乾いている。
空を見る。
雲が流れている。
「昼寝しそう」
「寝ても構いませんが、短めにしてください」
「シモンが起こして」
「最初から寝る気ですね」
「ちょっとだけ」
外套を畳んで頭の下へ入れる。
「ルシル様、本当に寝るんですか?」
モモが覗き込む。
「十分くらい」
「では私も」
「モモ嬢まで?」
「昨日から走ってますし、休める時に休むのはいいことですよね?」
シモンが一瞬言葉に詰まる。
「……その通りです」
「シモンも寝れば?」
「誰が時間を見ているんです」
「じゃあ交代で」
「僕は後で休みます」
ルシルは笑いながら目を閉じた。
風が草を擦る音。
トルクとベルクの気配。
遠くの鳥。
山道の野営とは違う音に包まれる。
ほんの短い休憩だった。
◇
午後はシモンが御者を引き受けた。
モモは車内で本を整理し、ルシルは御者台の隣へ座る。
「橋まで行く?」
「二頭の状態は問題ありません。風も強くない。今のままなら橋を越えて、その先の野営候補地まで進めるでしょう」
「灰色岩三つの先?」
「ええ。ただし現地を見て、泊まりにくければ手前で考えます」
「了解」
道は少しずつ起伏を増していた。
急坂ではない。
緩やかな丘を上り、下る。
その繰り返し。
丘の上へ出るたび、遠くまで見える。
「橋ってどこにあるんだろ」
「小川か浅い谷でしょう。まだ見えませんね」
ルシルは前方を見る。
しばらくすると、草の色が変わった。
遠くに一本、濃い緑の帯がある。
「シモン、あれ」
「おそらく水辺でしょう」
近づくにつれ、木も増えた。
草原の中では珍しい。
低い柳のような木が何本か並び、その下へ細い流れが見える。
「橋だ」
木橋。
朝聞いていた通り、それほど大きくない。
荷馬車一台が通れる程度の幅。
手前には待避用らしい広い場所がある。
対岸にも同じような空間。
「誰かいる?」
対岸に馬車が一台止まっていた。
こちらへ向かってくるらしい。
「先に向こうを通しましょう」
シモンが馬車を待避場所へ寄せる。
対岸の御者もこちらに気づいた。
片手を上げる。
こちらも返す。
しばらく待つ。
向こうの荷馬車が木橋へ入った。
板が車輪の下で低く鳴る。
急いではいない。
ゆっくり。
一台ずつ。
「こういう橋なんだな」
ルシルが見る。
「大型の四頭立てが荷を軽くすることがあると言っていた理由も分かります」
橋そのものは丈夫そうだ。
ただ幅に余裕が少ない。
荷馬車がこちら側へ渡りきる。
御者は中年の女性だった。
「ありがとう!」
「どういたしまして!」
「南へ行くの?」
「はい!」
「橋の先、道は問題ないよ!」
「ありがとうございます!」
短いやり取りだけで、荷馬車は北へ向かっていく。
「じゃあ行きます」
シモンが二頭へ声を掛ける。
トルクとベルクが橋へ近づく。
ルシルも自然と車輪の位置を見る。
橋へ入る。
ごとん、と音が変わる。
土から木へ。
車輪が板を踏むたび、規則的な振動が御者台まで伝わった。
「幅、大丈夫」
「ええ」
シモンは中央を保つ。
下を見ると、流れはそれほど深くない。
透明な水が石の間を流れている。
「魚いるかな」
「橋の上で探さないでください」
「見てるだけ」
「前も見てください」
「御者シモンじゃん」
「だからといって隣の人が下ばかり見る必要はありません」
橋を渡りきる。
再び車輪が土へ戻った。
「通過」
ルシルが言う。
「何の報告です?」
「橋渡った報告」
「見れば分かります」
モモが車内から顔を出した。
「私、魚見えませんでした」
「探してたの?」
「少しだけ」
「二人とも同じじゃないですか」
シモンが呆れたように言った。
◇
橋を越えてから、草原の色が少しずつ変わっていった。
水辺の濃い緑が消えると再び乾いた草地になるが、北側より灌木が多い。
夕方が近づくにつれ、風も少し戻ってきた。
「灰色岩って、あれかな」
ルシルが前方を指す。
三つ。
確かに大きな灰色の岩が並んでいる。
一番大きいものは馬車より高い。
「情報通りですね」
シモンが速度を少し落とす。
岩の手前へ近づくと、風が強い。
草が大きく傾いている。
「ここで泊まるのは嫌だな」
「ええ。教えてもらった通り、岩を越えた先を見ましょう」
三つの岩の横を通る。
すると、その向こうで地形がわずかに下がっていた。
浅い窪地。
風が少し弱い。
街道から外れすぎない位置に、馬車を置けそうな平らな場所もある。
「ここ?」
「候補としては悪くありません」
シモンは一度馬車を止めた。
三人で降りる。
地面。
周囲。
風。
水は十分持っている。
枯れ草が多すぎる場所は火の扱いが危険なので避ける。
少し歩いたところに、土が露出した平らな場所があった。
「火を使うならあっち」
ルシルが指す。
「そうですね。周囲の草とも距離があります」
「馬車はこっち?」
モモが窪地の端を見る。
「風向きを考えると、その位置がいいでしょう」
大きな問題はない。
「今日はここまでにしますか?」
モモが尋ねる。
ルシルは西を見る。
まだ完全な夕方ではない。
もう少し走れる。
けれど、走れるから走らなければならないわけでもない。
トルクとベルクは元気だ。
だからこそ、余裕があるうちに止まれる。
「俺はここでいい」
「僕も賛成です」
「私もです」
決まった。
馬車を移動させる。
二頭を外す。
野営準備を始める。
◇
「焼く?」
モモが収納していた紫土根の残り一本を見る。
「焼こう」
ルシルは即答した。
「昨日から言ってたし」
「では、今日は焼いてみましょう」
シモンも反対しない。
問題はどう焼くか。
赤角亭では厚切りを焼いていた。
野営で同じような火加減にできるかは分からない。
「薄くしすぎると焦げますね」
「少し厚め?」
「そうしましょう」
皮を薄く削る。
輪切り。
昨夜より厚い。
平鍋へ少量の油を引き、弱めの火でじっくり焼く。
主菜には乾燥肉と豆。
紫土根だけでは足りないので、簡単な豆煮も作る。
「焦げてない?」
ルシルが覗く。
「まだです」
モモが木べらで持ち上げる。
裏側に焼き色がついている。
「いい感じ」
「ひっくり返します」
「慎重に」
「料理でそんな緊張しなくても」
「昨日から楽しみにしてたので」
「モモもだろ?」
「はい」
裏返す。
甘い匂いが強くなる。
「山椒実、一個だけ試す?」
ルシルが提案する。
シモンが少し考えた。
「全部へかけるのではなく、一切れだけなら」
「やろう」
焼き上がった紫土根を皿へ。
まず何も付けずに食べる。
「甘い」
モモの顔がほころぶ。
「煮たのより味が濃いな」
「水へ溶け出していない分、そう感じるのでしょう」
次。
一切れだけに、砕いた山椒実をほんの少し。
三人で分ける。
「……合う」
ルシルが最初に言った。
「甘い後に少しぴりっとします」
「量はこれくらいで十分ですね」
「残りにも?」
「全部はやめておきましょう。味を変えたい分だけ」
「賛成」
それぞれ好きな食べ方で食べる。
紫土根はこれで使い切った。
高原で買った食材が、旅の中で二晩の料理になった。
「また見つけたら買う?」
モモが尋ねる。
「俺は買いたい」
「私もです」
二人がシモンを見る。
「保存状態と荷物次第です」
「つまり買っていい」
「勝手に翻訳しないでください」
火のそばで笑う。
今日も戦うことはなかった。
困っている誰かを助けたわけでもない。
道を確認し、花の名前を確かめ、橋を渡り、夕食を作った。
それだけで一日が終わろうとしている。
◇
食後。
片づけを終えた頃には、空が薄紫色へ変わっていた。
風は窪地の上を通っている。
昨日の土壁ほどではないが、ここも十分に穏やかだった。
ルシルは馬車の段差へ腰を下ろす。
モモが隣へ来る。
シモンは少し離れたところで二頭の様子を見てから戻ってきた。
「問題ありません」
「お疲れ」
「ルシル様も」
三人で夕暮れを見る。
遠くに三つの灰色岩。
その向こうに橋。
さらに向こうには、今日通ってきた分かれ道がある。
もうここからは見えない。
「明日は?」
ルシルが尋ねる。
シモンは地図を開いた。
「この先は、共同井戸まで少し距離があります。途中に農家はありますが、補給先として当てにしない方がいいでしょう」
「水は?」
「今の手持ちで十分です。明日の朝に確認してから出発しましょう」
「道は?」
「大きな分岐は、今のところ地図にはありません」
「地図には、だろ?」
「ええ」
今日のことがある。
地図に載らない作業道。
草で隠れた標柱。
「見ながら行くしかないな」
「そういうことです」
モモが本を抱えている。
「今日は風鈴黄花が分かりました」
「たぶん、な」
「かなり、です」
「空走鳥はいなかった」
「昨日見ましたから」
「うん」
ルシルは草原へ視線を戻す。
空走鳥を毎日探す必要はない。
写真という言葉の答えを毎日考える必要もない。
分からないものがあっても、旅そのものは止まらない。
その時だった。
トルクが小さく鼻を鳴らした。
三人がそちらを見る。
「どうした?」
ルシルが立ち上がる。
ベルクも耳を前へ向けていた。
怯えている様子ではない。
ただ、二頭とも同じ方向を見ている。
草原の東側。
「何かいますか?」
モモも立つ。
シモンが目を凝らした。
夕暮れで少し見えにくい。
草が揺れる。
風とは違う動き。
「……小さいですね」
「空走鳥じゃない?」
「もっと低いです」
何かが草の間から顔を出した。
細長い耳。
丸い目。
灰褐色の毛。
「兎?」
ルシルが小声で言う。
それはしばらく三人と二頭を見ていた。
やがて、もう一つ。
少し離れた草から同じような耳が出る。
「二匹います」
モモが声を抑える。
「近づかないでくださいね」
シモンが念のため言う。
「分かってる」
二匹の小動物は、こちらへ来ることも、逃げ出すこともなく、草の間からじっと様子を見ている。
少しして、一匹が身体を出した。
普通の兎より脚が長い。
耳の先だけ黒い。
「本に載ってるかな」
「明日見ます?」
「今見ないの?」
「暗くなりますし」
モモが笑う。
「明日の楽しみにします」
「それもいいな」
二匹はやがて草の奥へ跳ねていった。
追わない。
名前も今は分からない。
明日、本を開けば候補くらいは見つかるかもしれない。
見つからなくても構わない。
「また一個増えた」
ルシルが言う。
「紙に?」
「分からないもの」
モモは少し考えてから笑った。
「じゃあ、明日調べましょう」
「うん」
完全に日が沈む前に、三人は夜の準備へ戻った。
南平原旧道の二日目。
間違えやすい分かれ道を越え、小さな木橋を渡り、昨日とは別の草原で夜を迎える。
馬車の横では火が静かに燃え、その向こうではトルクとベルクが落ち着いて草を食んでいる。
まだ海は遠い。
けれど、三人の進む道は今日も確かに南へ続いていた。




