第50話 草原の兎を調べていたら、今度は道の真ん中に羊がいました
夜の間に風向きが変わったらしい。
ルシルが目を覚まして天幕の外へ出ると、昨日まで南西から流れていた風が、今朝は東から緩く吹いていた。浅い窪地のおかげで強く当たることはなく、草の先に残った露だけが、朝日を受けるたび細かく揺れている。
少し離れた場所では、三つの灰色岩が朝の光を片側だけ受けていた。
昨日、あの岩を目印にして野営場所を探した時には、夕日に照らされて赤みを帯びていた。今は反対側から光が当たり、灰色と黒の境目がくっきりしている。
「おはようございます」
声に振り返ると、モモが天幕から出てきた。
白い外套を羽織りながら大きく息を吸い、すぐに肩をすくめる。
「今日も朝は冷たいです」
「昼との違いがすごいよな」
「昨日もお昼は暖かかったですもんね」
二人で話している間に、もう一つの天幕からシモンも姿を現した。眼鏡を掛け直しながら空と草原を順番に確認し、それから馬車の方へ視線を向ける。
「雨の心配はなさそうですね。風も今のところ穏やかです」
「今日は共同井戸まで行くんだっけ?」
「まずはそこを目安にします。その先は到着した時間と二頭の状態を見て決めましょう」
「了解」
ルシルは頷いたところで、昨夜の出来事を思い出した。
「あ、兎」
「私も覚えてます」
モモの反応は早かった。
「耳の先が黒くて、普通の兎より脚が長かったです」
「二匹」
「灰褐色でした」
「よく覚えてるな」
「ルシル様も覚えてるじゃないですか」
「俺は耳と脚と二匹くらい」
「十分では?」
シモンが二人を見ながら苦笑する。
「図鑑を開くのは朝食後にしてください。明るくなったからといって、最初に本を読み始めると出発が遅れますよ」
「シモン、俺たちが今すぐ本出すと思った?」
「思いました」
「信用ないな」
「昨日の夜に『明日調べる』と二人で決めていたでしょう」
「覚えてたんだ」
「僕もその場にいましたからね」
モモがくすくす笑う。
「では先に朝の確認ですね」
「そうしよう」
三人はまず野営地と二頭の様子を確認することにした。
◇
トルクとベルクに異常はなかった。
昨夜、二頭が耳を向けたのは草原にいた小動物の気配だったらしく、それ以降に何か大きな動物が近づいた形跡もない。
草の上には小さな足跡がいくつか残っていた。
「これ、昨日の兎かな」
ルシルがしゃがむ。
四つ一組のように残った跡が、草の薄い場所を横切っている。
「可能性はありますが、これだけでは分かりませんね」
シモンが答える。
「写真があったら比べられるのにな」
口にしてから、ルシルは自分で少しだけ目を丸くした。
昨日までは景色を見て残したいと思った時に浮かんでいた言葉が、今度は何かを記録して後から比べる方法として自然に出てきた。
モモも気づいたらしい。
「今の写真は、景色を残すのと少し違いましたね」
「うん。足跡を……そのまま残して、後で本の絵と比べる感じ」
「頭痛などは?」
シモンの確認に、ルシルは首を振る。
「何もない。気分も普通」
「では、それも覚えておきましょう」
シモンはそれ以上追及しなかった。
ルシルも無理に意味を探そうとはしない。
ただ、自分の中で『写真』というものの輪郭だけが、ほんの少しずつ増えているような気はした。
(景色だけじゃないのか)
見たものを、そのままの形で残す。
おそらくそういうものなのだろう。
それ以上は分からない。
「足跡、絵に描きます?」
モモが尋ねる。
「朝から?」
「記録できます」
「紙もったいなくない?」
「小さく描けば大丈夫です」
「描ける?」
「……やってみます」
「モモ嬢、その前に朝食です」
シモンの声が飛んでくる。
「はい」
モモが素直に立ち上がる。
「あとで描きます」
「本気だったんだ」
「記録ですから」
三人は火の準備へ移った。
朝食は昨夜よりさらに簡単だった。
パン。
卵。
少量の乾燥野菜を入れた温かい汁物。
高原赤実も残っているが、朝から酸味の強いものを食べたい気分ではなかったため、今日は出さない。
食事を終えてから、ようやくモモが待っていた本の時間になった。
「どっち?」
ルシルが馬車の棚を見る。
「小動物なので、こちらでしょう」
モモが取り出したのは、セイラの山灯書房で買った『西部山地の鳥と小動物』だった。
「草原まで載ってる?」
「題名は山地ですけど、周辺地域の動物も載っていたと思います」
シモンも横からページを確認する。
三人で本を囲む。
鳥。
鼠。
狐。
兎。
「あった」
ルシルが言った。
一つの頁に、耳の長い灰褐色の小動物が描かれている。
「これ、似てます」
モモが絵へ顔を近づけた。
名前は『黒耳野兎』。
草原や疎らな低木地に暮らす小型獣。
普通の森林性の兎より後脚が長く、耳の先端が黒い。夕方から早朝に姿を見せることが多く、危険を感じると草の中を長く跳ねて逃げる。
「ほぼこれじゃない?」
「特徴は一致しますね」
シモンも説明を読む。
「生息域にも、この南平原が含まれています」
「じゃあ黒耳野兎」
「昨日の個体が絶対にそうだったとまでは言いませんが、かなり可能性は高いでしょう」
「また『かなり』ですね」
モモが笑う。
「生き物の確認は慎重なくらいでいいんです」
「紙に書く?」
「もちろんです」
草花の本へ挟んでいた小さな紙を取り出す。
すでに表と裏の両方へ書き込みが増えている。
「そろそろ別の紙にした方がよくない?」
ルシルが覗き込む。
「私もそう思ってました」
「なら最初から新しい紙にすれば」
「これはリュカから草原に出て最初の記録なので、この辺りまでは一緒にしたいんです」
「そういう分け方なんだ」
「今決めました」
「今かよ」
モモは紙の下端へ小さく書く。
『黒耳野兎? 二匹。耳先が黒い。後脚が長い』
その横へ、簡単な耳らしきものを描いた。
「……何これ」
「耳です」
「角じゃなくて?」
「耳です」
「二本の棒に見える」
「ルシル様も描いてください」
「俺?」
「昨日、絵の練習をする話をしました」
「したけど、いきなり兎?」
「耳だけです」
紙と炭筆を渡される。
ルシルは少し考えた後、モモの絵の隣へ二本の長い耳を描いた。
先だけ黒く塗る。
「どう?」
「……モモ嬢の方がまだ生き物に見えますね」
シモンが冷静に言った。
「シモンも描け」
「なぜそうなるんです」
「昨日、一回くらいならって言った」
「覚えていたんですか」
「こういうのは覚えてる」
「もっと別のことにもその記憶力を使ってください」
それでもシモンは炭筆を受け取った。
数秒で二本の耳と、頭部の輪郭まで描く。
ルシルとモモが黙った。
「……うまくない?」
「普通です」
「普通じゃないです」
モモが紙を見る。
「ちゃんと兎です」
「簡単な図ですよ」
「ずるい」
ルシルは自分の二本線を見る。
「何がずるいんです?」
「シモン、何でもできるじゃん」
「美術家のような絵を描いたわけではありません」
「もう一回描いて」
「嫌です」
「花も」
「描きません」
シモンは炭筆をモモへ返した。
「そろそろ片づけて出発しますよ」
「逃げた」
「出発準備です」
紙の上には、三種類の兎の耳らしきものが並んだ。
モモはそれを見て楽しそうに笑い、紙を丁寧に畳んだ。
◇
朝の片づけを終える頃には、草の露もほとんど消えていた。
火を完全に消し、灰を確認する。
天幕を畳む。
馬車の車輪と固定具を見る。
トルクとベルクをつなぐ。
「今日は最初、私がやってもいいですか?」
モモが尋ねた。
「もちろんです」
シモンが答える。
「風も弱いですし、道も今のところ難しくありません。ただ、昨日より灌木が増えています。小動物が急に出てくる可能性は考えておいてください」
「はい」
「俺、隣乗る」
「では僕は車内で地図を見ます」
モモが御者台へ上がる。
ルシルも隣へ座った。
「トルク、ベルク。今日もお願いします」
二頭へ声を掛ける。
馬車が動き始める。
浅い窪地を出て街道へ戻ると、東からの風が少しだけ強く感じられた。
「土壁ほどじゃないけど、あそこも結構風避けになってたな」
「地形だけでも違いますね」
モモは前を見ながら答える。
三つの灰色岩が後ろへ遠ざかっていく。
昨日渡った木橋も、もう見えない。
今日の目標は共同井戸。
それより先へ進むかは、まだ決めていない。
馬車は南へ向かって走り始めた。
◇
午前の道は昨日より少し狭かった。
馬車同士がすれ違えないほどではない。
ただ、街道の両側へ低い灌木が増え、場所によっては枝が道の近くまで伸びている。
「右、少し枝出てる」
ルシルが言う。
「見えてます」
モモはわずかに左へ寄せる。
車輪が轍から外れすぎない範囲で位置を調整し、枝を避ける。
「大丈夫」
「はい」
以前なら、モモが御者をしている間、シモンが横から細かく指示することも多かった。
今は必要な時だけだ。
ルシルも、自分が隣にいるからといって何でも口を出さない。
モモが見えているものまで繰り返して言えば、かえって邪魔になる。
しばらく進むと、道の左側から小さな影が飛び出した。
「モモ」
「見えてます」
小さな灰色の獣。
昨日の黒耳野兎よりずっと小さい。
道を横切り、右側の草へ消える。
モモは驚いて手綱を引くこともなく、少し速度を落としただけだった。
トルクとベルクも耳を動かした程度で歩調は乱れない。
「今の何?」
「鼠に見えました」
「でかくなかった?」
「草原鼠の類かもしれませんね」
車内からシモンが答える。
「止まって調べる?」
「止まりません」
モモが即答した。
「え?」
「全部調べてたら進みません」
「昨日までのモモと違う」
「本は夜でも読めます。今のは特徴もあまり見えませんでした」
「確かに一瞬だったな」
「灰色で、少し大きい鼠っぽかった。それだけです」
「紙は?」
「書きません」
「成長したな」
「何でも記録する人みたいに言わないでください」
「昨日までは結構書いてたじゃん」
「気になったものだけです」
ルシルは笑いながら前へ視線を戻した。
その時、草原の向こうから低い音が聞こえた。
「……何?」
モモも気づいたらしい。
風の音ではない。
一定の間隔で、少し鈍い。
シモンが車内から顔を出す。
「車輪ですね」
「前?」
「おそらく」
丘を一つ越える。
そこで対向してくる荷馬車が見えた。
大きさは中型。
二頭立て。
荷台には木箱が積まれている。
「すれ違える?」
「この先の方が少し広いですね」
シモンが前方を見る。
「そこで待ちましょう」
「はい」
モモが早めに速度を落とし、道幅が広がっている場所へ馬車を寄せる。
対向車の御者もこちらへ気づいた。
互いに十分な間隔を取る。
「こんにちは!」
相手は若い男だった。
「こんにちは!」
ルシルが返す。
「南へ?」
「はい!」
「共同井戸ならもう少しだよ!」
「ありがとうございます!」
すれ違う。
荷馬車の後ろ姿を見送ってから、モモが再び二頭を進ませた。
「共同井戸、近いって」
「予定より早く着きそうですね」
シモンが地図を見る。
「昼前には十分でしょう」
「そこに誰かいるかな」
「共同井戸ですから、地元の人が使っている可能性はあります」
「何か売ってる?」
「井戸に何を期待しているんですか」
「いや、農家の人とかいたら」
「ルシル様」
「分かってる。勝手に買い物場所にしない」
モモが横で笑っている。
◇
共同井戸は、遠くからでも分かった。
草原の中に木製の屋根が見えたからだ。
街道から少し外れた場所に、石積みの丸井戸と小さな屋根。隣には家畜用の長い水槽があり、その周囲だけ土が踏み固められている。
さらに、その向こうに柵があった。
「羊?」
ルシルが目を凝らす。
白っぽい塊がいくつも動いている。
「羊ですね」
モモも見る。
柵の中には二十頭ほどの羊がいた。
少し離れたところに小屋もある。
「農家?」
「牧区の共同施設かもしれません」
シモンが答える。
井戸の近くには、人が二人いた。
一人は水槽の縁を掃除している年配の男。
もう一人は、柵の近くで羊へ干し草を与えている若い女性だった。
モモが馬車をゆっくり近づける。
「こんにちは」
シモンが先に声を掛けた。
年配の男が振り返る。
「おう、旅人か」
「水を使わせてもらっても?」
「もちろんだ。街道用の井戸だからな」
モモは邪魔にならない場所へ馬車を止めた。
トルクとベルクを休ませる。
ルシルが井戸を見ると、横には木札が立っていた。
『南平原共同井戸 旅人・家畜利用可 水槽へ直接桶を入れないこと』
「水槽へ直接?」
「家畜が飲む場所だから、汲み桶を入れると汚れるだろ」
年配の男が説明してくれた。
「井戸から汲んで、そっちの注ぎ口へ入れるんだ」
「なるほど」
石槽の端には、確かに水を注ぐための浅い木樋が付いている。
三人で水を汲む。
トルクとベルクへ飲ませる。
水筒も補充する。
「この辺り、昨日より木が増えましたね」
シモンが男へ尋ねる。
「ああ。南へ行くほど少しずつな。ただ森になるほどじゃない。この先もしばらく草原だ」
「路面は?」
「今日は問題ないよ。雨が降ったら窪地がぬかるむけどな」
「今日中に次の野営地まで行けますか?」
「どこを考えてる?」
シモンが地図を見せる。
男は指で道をなぞる。
「この辺なら行ける。昼過ぎに出ても余裕はある。ただ、その手前に羊の移動路が横切ってるから、群れに当たったら待つことになるぞ」
「羊の移動路?」
ルシルが反応する。
「牧区と南の放牧地をつないでる道だ。街道を横切る」
「羊が道を渡るんですか?」
モモが尋ねる。
「そりゃ渡るさ。人間の道だけじゃないからな」
男は笑った。
「大きな群れだと百頭以上いる。急いで馬車を通そうとしないことだ。馬が羊を嫌がることもあるし、羊が馬車に驚くこともある」
「分かりました」
シモンが頷く。
「今日は移動の予定がありますか?」
「うちの群れじゃないから知らんな。南牧区の連中が動かす時期ではある」
つまり、遭遇するかどうかは分からない。
「空走鳥もいる?」
ルシルが聞く。
「いるよ」
男は即答した。
「この辺じゃ珍しくもない」
「珍しくない?」
「毎日見るってほどじゃないがな。南の放牧地まで行けば、遠くを走ってることはある」
昨日、三人で大喜びして見ていた鳥が、地元ではそこまで珍しい存在ではない。
「なんか悔しい」
「何がです?」
モモが首を傾げる。
「俺たち、すごいの見たって思ってた」
「私たちにとってはすごかったのでいいんじゃないですか?」
「……それもそうか」
地元で普通でも、自分たちが初めて見たことには変わりない。
男が笑っている。
「旅人はそういうもんだ。俺だって山へ行けば、そこらの石見て珍しがるかもしれん」
「山の鳥も?」
「鳥は見ても分からんな」
「俺たちも分からなくて本買いました」
「楽しそうでいいじゃないか」
ルシルは素直に頷いた。
「楽しいです」
少し離れた羊の柵から、メェ、と鳴き声が聞こえた。
見ると、一頭が柵へ前脚を掛けている。
若い女性がすぐに近づき、額を押し戻した。
「こら、出ないの」
羊は不満そうに鳴く。
「元気ですね」
モモが笑う。
「元気すぎるんだよ」
女性がこちらを見る。
「特にあの子は隙があると出ようとするから」
「柵を越えるんですか?」
「越えない。押すの」
「押す?」
「弱いところを見つけて、頭でずーっと」
ルシルは羊を見る。
丸い。
白い。
そんなに策を考えて柵を押すようには見えない。
「頭いい?」
「変なところだけね」
女性は笑いながら柵の留め具を確認した。
トルクは羊たちを見ているが、特に気にしていない。
ベルクも同じだ。
「この二頭は羊、大丈夫そうですね」
モモが言う。
「ここまで距離がありますからね。街道上で群れに近づいた場合は別でしょう」
シモンはあくまで慎重だった。
◇
共同井戸の脇には、旅人が休める木製の腰掛けが二つあった。
三人はそこで少し早めの昼食を取ることにした。
火は使わない。
パン。
乾燥肉。
乳酪。
干した山青菜を少量戻し、塩をほんの少し振る。
「山青菜、まだ残ってたな」
ルシルが食べながら言う。
「乾燥分は少しあります」
シモンが答える。
「セイラの味、結構長く残ってる」
「乾燥品はそのためのものでもありますから」
「山椒実もある?」
「ありますよ」
「高原赤実も」
モモが言う。
「食材が混ざってきましたね」
「旅の食料っぽい」
「最初から旅の食料です」
「そうじゃなくて、いろんな町のが一緒にある感じ」
ルシルは荷物の方を見る。
山で買ったもの。
高原で買ったもの。
以前から持っている保存食。
少しずつ使い、また別の町で補う。
「次は何が増えるかな」
「食べ物前提なんですね」
「食べ物じゃなくてもいいよ」
「例えば?」
「……分からない」
「考えてなかったじゃないですか」
モモが笑う。
昼食を食べている間、柵の羊たちは時々鳴いた。
先ほど外へ出ようとしていた一頭は、今度は干し草の山へ顔を突っ込みすぎて女性に引き戻されている。
「あの羊、トルクに似てない?」
ルシルが言う。
トルクがこちらを向いた。
「聞こえた?」
「偶然です」
シモンが即座に否定する。
「食べ物に積極的なところは似ているかもしれません」
モモが真面目に言う。
「モモまで」
「でもトルクの方が賢いです」
トルクが鼻を鳴らした。
「ほら」
「だから偶然です」
食後、二頭をもう少し休ませる。
ルシルも腰掛けへ背を預けた。
共同井戸には、しばらくして別の荷車が一台やってきた。
御者は三人へ軽く挨拶し、水を汲んでから北へ向かっていく。
ここは町でも宿場でもない。
それでも、旅人と地元の人間が水を使い、少し休んでまた離れていく。
道の途中に必要な場所なのだろう。
「そろそろ行きますか」
シモンが立ち上がった。
「うん」
「次、俺やる」
「ではお願いします」
ルシルが御者を担当することになった。
◇
共同井戸を離れてから一時間ほどは、何事もなかった。
道は緩やかに南西へ曲がり、左右の草原には低い柵が見えるようになった。
柵といっても、街道を完全に囲っているわけではない。
放牧地の境界らしい。
「羊いる?」
ルシルは前を見ながら尋ねる。
「右の遠くにいます」
隣のモモが答えた。
白い点がいくつも見える。
かなり遠い。
「あれ全部羊?」
「たぶん」
「多いな」
「共同井戸にいた数よりずっと多いです」
シモンも車内の窓から確認している。
「この辺りが放牧地なのでしょう」
トルクとベルクは特に気にしていない。
道も空いている。
「これなら予定の野営地まで早く着くかも」
「そうですね。ただし、先ほど聞いた移動路はまだ通っていないはずです」
「羊の道」
「ええ」
「どんなのだろ」
「街道を横切ると言っていましたから、分岐というより柵の切れ目があるのでは?」
少しして、その予想が当たった。
左右の柵が途切れている。
街道に対してほぼ直角に、草の踏み固められた幅広い道が延びていた。
「ここ?」
「おそらく」
シモンが地図を見る。
「移動路自体は載っていませんが、位置としてはこの辺りです」
「羊いないな」
「いないならそのまま通りましょう」
ルシルは速度を変えずに進む。
左右を見る。
近くに群れはない。
移動路を横切る。
「終わり?」
「一か所とは言っていませんでしたよ」
「あ、そうか」
共同井戸の男は『羊の移動路が横切っている』としか言っていない。
同じような道が複数あってもおかしくない。
ルシルは前へ視線を戻した。
さらに進む。
次の丘を越える。
その時だった。
「……何だあれ」
道の真ん中に、白いものがいた。
一つ。
丸い。
動いている。
「羊です」
モモが答える。
「一頭?」
「一頭に見えます」
街道の中央。
羊が一頭、こちらへ尻を向けた状態で立っていた。
草を食べている。
「なんで?」
「僕に聞かれても分かりません」
シモンも車内から前を見る。
「速度を落としてください」
「うん」
ルシルは早めに二頭へ声を掛ける。
馬車の速度が落ちる。
羊は動かない。
草を食べている。
「気づいてない?」
「耳は動いてます」
モモが言う。
「じゃあ気づいてる?」
「たぶん」
近づきすぎない位置で馬車を止める。
トルクとベルクは羊を見ている。
耳は前。
けれど、怯えたり興奮したりはしていない。
「どうする?」
ルシルが聞く。
「まず周囲を見ます」
シモンが御者台へ出てきた。
「一頭だけなら、どこかの群れから外れた可能性があります」
「迷子?」
「決めつけないでください」
「でも道の真ん中だぞ」
羊はまだ草を食べている。
「声掛けたら退くかな」
「大声は避けましょう。馬もいます」
「じゃあ普通に」
ルシルは御者台から少し身を乗り出した。
「おーい」
羊の耳が動いた。
顔を上げる。
こちらを見る。
白い毛。
丸い身体。
黒っぽい鼻。
「……見た」
「見ましたね」
「退いてくれる?」
羊は数秒こちらを見た。
そして。
また草を食べ始めた。
「退かない」
「ですね」
「強いな」
「感心している場合ですか」
シモンが周囲を見る。
道の左右には柵。
少し先に、また切れ目がある。
「近くに移動路があります」
「あそこから出た?」
「可能性はあります」
その時、遠くから声が聞こえた。
「おーい!」
三人が同時に振り返る。
右側の草原。
柵の向こうから、人が走ってくる。
若い男。
手には長い杖のようなもの。
さらにその後ろを犬が一頭走っていた。
「いたー! そこにいたのか!」
どうやら羊へ向けた声らしい。
「飼い主?」
「牧童でしょう」
ルシルたちは馬車を動かさず待つ。
男は柵の切れ目から街道へ出てきた。
「すみません!」
息を切らしながら頭を下げる。
「道塞いでましたよね!」
「大丈夫です」
ルシルが答える。
「この羊、そちらの?」
「そうです。群れを移してる途中で、一頭だけ逆へ抜けまして」
「逆へ?」
「犬を嫌がって、変な方へ逃げたんです」
男の後ろにいる犬は、茶と白の毛をした中型犬だった。
今は座っている。
羊を見る目だけが真剣だ。
「犬が嫌いなの?」
モモが尋ねる。
「この一頭だけ妙に嫌うんですよ。他の羊は平気なのに」
男は困ったように頭を掻いた。
「すぐ退かします」
「馬がいるので、急に走らせないようにだけお願いします」
シモンが伝える。
「分かりました」
男は犬へ短く合図を出した。
犬はその場で伏せる。
動かない。
「賢い」
ルシルが小さく言う。
「よく訓練されていますね」
シモンも感心したように見る。
男は一人で羊へ近づく。
「ほら、戻るぞ」
羊は顔を上げる。
「戻るぞ」
一歩近づく。
羊が一歩下がる。
「そっちじゃない」
さらに一歩。
羊は横へ動く。
「そう。そっち」
男が身体の位置を調整する。
羊が街道の端へ向かう。
順調に見えた。
ところが。
羊は突然方向を変えた。
「あ」
ルシルの声と同時に、羊がこちらへ歩いてきた。
「え?」
モモも目を丸くする。
羊は馬車の前。
正確には、トルクの方へ向かっている。
トルクが首を伸ばす。
「トルク、待て」
ルシルが声を掛ける。
トルクは動かない。
羊も止まる。
馬と羊が向かい合う。
「何してるんだ、お前……」
牧童の男が呆然としている。
羊はトルクの鼻先を見ている。
トルクも羊を見ている。
数秒。
トルクが鼻を鳴らした。
羊が一歩下がった。
「……会話した?」
「していません」
シモンが即座に否定する。
「でも今」
「動物同士で相手を確認しただけでしょう」
モモが口元を押さえている。
「トルク、少し得意そうです」
「表情で分かる?」
「なんとなく」
ベルクは隣で、興味が薄そうに前を向いている。
男が羊の横へ回り込む。
「今度こそ戻るぞ」
羊はトルクを一度振り返ったものの、今度は素直に柵の切れ目へ向かった。
伏せていた犬は動かない。
羊が十分離れたところで、男が犬へ合図する。
犬は立ち上がり、羊の後ろへ大きく回った。
追い立てるというより、逃げる方向を限定している。
「すごいな」
ルシルが見入る。
「犬が羊を追うって、こうやるんだ」
「近づきすぎていませんね」
モモも興味深そうに見ている。
羊は柵の向こうへ戻った。
そこでようやく男が大きく息を吐く。
「助かりました!」
「俺たち何もしてないよ」
「馬車を止めて待ってくれただけでも助かります。たまに無理に横を抜けようとする人がいるんで」
「危なくない?」
「危ないですよ。羊が飛び出すこともあるし、馬が驚くこともある」
共同井戸で聞いた話そのままだ。
「群れは近く?」
「この先の移動路を渡ってます」
「じゃあ俺たちも待った方がいい?」
男が少し考える。
「そうですね。今行くとちょうどぶつかるかも。十分……いや、十五分くらい待ってもらえれば全部渡りきると思います」
「分かりました」
急ぐ理由はない。
「ここで待ちます」
「ありがとうございます!」
男はもう一度頭を下げ、犬と羊を連れて草原へ戻っていった。
「……羊、トルクのこと気に入ったのかな」
ルシルが呟く。
「一度鼻を合わせかけただけですよ」
「シモンはすぐ現実的なこと言う」
「事実です」
「モモは?」
「少し仲良くなったように見えました」
「ほら」
「モモ嬢まで」
トルクが鼻を鳴らす。
「トルクもそう言ってる」
「だから、なぜ都合よく解釈するんですか」
◇
十五分ほど待つなら、馬車の中にいる必要もない。
道の端に十分な空間があったため、三人は二頭をつないだまま周囲を確認してから休憩することにした。
少し先の移動路を見ると、確かに羊の群れが街道を横切っている。
「多い」
モモが驚く。
共同井戸の男が言っていた百頭以上という話も、大げさではなかった。
白。
灰色。
少し茶色がかったもの。
大きさも微妙に違う羊たちが、まとまって道を渡っている。
数人の牧童と何頭かの犬が群れの周囲を動いていた。
「近くまで行かないで、ここから見よう」
ルシルが言う。
「その方がいいでしょう」
シモンも頷く。
距離があるので、トルクとベルクも落ち着いている。
羊たちは、全員が同じ方向へ真っ直ぐ歩くわけではなかった。
途中で草を食べようとするもの。
隣の羊へ身体をぶつけるもの。
急に立ち止まるもの。
それらを牧童と犬が少しずつ動かしている。
「大変そう」
モモが言う。
「百頭いたら、一頭いなくなってもすぐ分からないんじゃない?」
ルシルは先ほどの迷子を見る。
どこにいるかまではもう分からない。
「だから人数と犬がいるのでしょうね」
シモンが答える。
「羊を数える方法とかあるのかな」
「当然あるでしょう」
「一、二、三って百まで?」
「それも方法の一つでしょうが、毎回一頭ずつ数えるだけでは効率が悪いでしょうね。群れを区切って確認する方法があるのでは?」
「聞けばよかった」
「今度機会があれば聞けばいいでしょう」
ルシルは頷く。
知らないことが次々出てくる。
全部をその場で聞く必要はない。
それでも、気になったことを覚えておけば、また似たものに出会った時に話がつながることもある。
「犬もすごかったです」
モモが言う。
「伏せろって言われてすぐ伏せてた」
「ベルクより言うこと聞く?」
「ルシル様」
シモンの声が少し低くなる。
「冗談」
「ベルクは必要な指示には従います」
「分かってるって」
シモンはベルクに関してだけ少し反応が早い。
モモがそれに気づいたのか、声を抑えて笑っている。
「何です?」
「何でもありません」
「顔が笑っていますよ」
「シモン君、ベルク大好きですね」
「馬を大切にするのは当然でしょう」
「ベルクだけじゃなくトルクも?」
「もちろんです」
トルクが鼻を鳴らした。
「トルクも安心した」
「だから通訳しないでください」
待っている時間も退屈ではなかった。
やがて羊の列が細くなり、最後の数頭が街道を渡る。
牧童の一人がこちらに気づき、大きく手を上げた。
「もう大丈夫だー!」
「ありがとうございます!」
ルシルも手を振る。
道が空いた。
「行こうか」
「はい」
「次は僕が運転しましょう」
シモンが言う。
「俺まだいけるよ?」
「待っている間に風が少し強くなりました。午後の変化を見る意味でも僕がやります」
確かに、草の揺れは午前より大きい。
「じゃあ頼む」
ルシルは素直に御者台を譲った。
◇
羊の移動路を越えてからは、道の両側に柵が続く区間が増えた。
時折、遠くに群れが見える。
牛らしい大きな影もあった。
「この辺、完全に放牧地なんだな」
ルシルは車内の窓から外を見る。
「街道が牧区の中を通っている形なのでしょう」
シモンの声が御者台から聞こえる。
「柵が途切れてる場所、多いですね」
モモは反対側の窓を見ていた。
「移動路でしょうか」
「全部が羊用とは限りません。人や荷車が通る場所もあるでしょう」
午後の陽射しは暖かい。
朝の寒さが嘘のようだ。
風があるため暑くはない。
「モモ」
「はい?」
「紙、羊書く?」
「書きません」
「即答」
「羊は名前も分かってます」
「でも道の真ん中にいた」
「それは面白かったですけど」
「トルクと仲良くなった」
「そこは書いてもいいかもしれません」
「モモ嬢」
前からシモンの声が飛ぶ。
「冗談です」
「本当ですか?」
「半分くらい」
「書く気だったじゃん」
三人で笑う。
やがて柵が減り始めた。
放牧地の中心を抜けたらしい。
再び自然の草地が増える。
ただ、昨日までと違って低い木がところどころに立っている。
「景色変わってきた」
「南へ進んでいますからね」
同じ草原でも、少しずつ違う。
その変化は急ではない。
昨日の場所と今日の場所を並べて見なければ分からないほど緩やかだ。
「海、まだ全然見えないな」
ルシルが言う。
「見えたら驚きます」
モモが返す。
「まだ遠い?」
「かなり遠いでしょうね」
「楽しみ?」
「はい」
モモの返事は迷いがなかった。
「海って、どんな匂いなんでしょう」
「俺も知らない」
「ルシル様も?」
「王都から出る機会なんてほとんどなかったし」
知識として海を知っている。
地図にもある。
塩水で満ちた広大な水域。
船が行き交い、魚が捕れ、港町がある。
それでも、実際の匂いも音も知らない。
「シモンは?」
「見たことはあります」
二人が同時に御者台を見る。
「あるの!?」
「ありますよ」
「いつ?」
「以前、王家の使節に同行した時です」
「聞いてない」
「聞かれていませんから」
「どんなだった?」
「今ここで全部説明したら、モモ嬢が初めて見た時の楽しみが減りませんか?」
モモが口を閉じる。
「……それは嫌です」
「なら、着いてから比べればいいでしょう」
「シモンは知ってるのに」
ルシルが少し不満そうに言う。
「仕事でしたからね」
「楽しかった?」
数秒、返事がなかった。
「ほとんど覚えていません」
「景色は?」
「港に着いた時間と会談の予定と、宿へ運ぶ書類の確認をしていたので」
「もったいない」
「今なら僕もそう思います」
シモンの声には、重さより苦笑が混じっていた。
「じゃあ今度はちゃんと見る?」
モモが聞く。
「ええ。そのつもりです」
「三人で?」
「当然でしょう」
ルシルは窓枠へ腕を置いた。
「じゃあシモンも、実質初めてみたいなもんだな」
「それは少し違う気もしますが」
「仕事じゃなく見るのは初めて」
「……それなら、そうかもしれません」
「決まり」
「何が決まったんです?」
「三人とも初めての海」
「僕の過去を勝手に消さないでください」
「仕事の海は別」
「分類が雑ですよ」
モモが楽しそうに笑う。
海はまだ遠い。
だから今、詳しく聞く必要はなかった。
◇
午後の後半。
風は強くなったものの、危険を感じるほどではなかった。
シモンは何度か二頭を休ませ、速度を調整しながら進んだ。
予定していた野営地が近づいた頃、道の左側に木の標識が現れた。
「何か書いてある」
ルシルが気づく。
シモンが馬車を少し寄せ、速度を落とした。
『旅人休憩地 南へ半里』
「正式な野営地?」
「休憩地、とありますね」
「行ってみる?」
「もともとその辺りで泊まる予定でしたから、確認しましょう」
半里ほど進む。
草原の中に、小さな林が見えてきた。
林と呼んでも十数本程度の木だ。
その内側に平らな場所がある。
簡素な石囲い。
馬をつなぐ杭。
古い木製の腰掛け。
そして、屋根だけの小さな雨除け。
「昨日より設備ある」
モモが言う。
「今日はここでよさそうですね」
シモンが馬車を止める。
先客はいない。
周囲を確認する。
危険な痕跡なし。
地面も乾いている。
風は木々が少し遮ってくれる。
「ここにしよう」
「はい」
「賛成です」
今日の移動はここまでとなった。
◇
トルクとベルクを外し、水と餌を用意する。
馬車を安定させる。
天幕を張る。
火を使う場所を確認する。
昨日とは違い、周囲に木があるため枯れ枝や落ち葉にも気をつける。
「今日は何食べる?」
ルシルが荷物を見ながら尋ねる。
「昼が簡単だったので、夜は温かいものがいいですね」
モモが言う。
「乾燥山青菜を使い切りますか?」
シモンが小袋を確認する。
「残り少ない?」
「三人で一食分くらいです」
「じゃあ使おう」
「山椒実は?」
「まだあります」
「高原赤実も?」
「ありますよ」
「全部入れる?」
「やめてください」
「冗談」
「ルシル様の場合、たまに本気なのか分かりません」
今夜は豆と乾燥肉を煮て、戻した山青菜を最後に加えることになった。
山椒実は一粒だけ砕く。
高原赤実は入れず、食後に少しだけ食べる。
「セイラとリュカが同じ鍋に入った」
ルシルが言う。
「山椒実だけですけどね」
「でも混ざった」
鍋から湯気が上がる。
乾燥山青菜は生の時より色が濃い。
煮ると少し戻り、独特の青い香りが立つ。
「これで山青菜なくなりますね」
モモが言った。
「また別の町で別のもの買えばいい」
「次は何でしょう」
「まだ決められないから面白いんだろ」
味を整える。
三人で食べる。
山椒実は少量でも存在感があった。
「やっぱり一粒で十分」
ルシルが舌先へ残る刺激を確かめる。
「最初に二粒使った時より少ないですが、鍋の量も違いますからね」
「まだ結構残ってる?」
「ええ。しばらく使えます」
「今度は魚にも使いたい」
「魚が手に入れば」
「海で?」
「そこまで残すつもりですか?」
「さすがに途中でなくなるか」
食事を終える。
乾燥山青菜はこれで使い切った。
山椒実と高原赤実はまだ残っている。
◇
夜になる前に、モモが昨日の紙を取り出した。
「やっぱり書くの?」
ルシルが尋ねる。
「羊じゃありません」
「じゃあ何?」
「写真です」
モモは紙に書かれた一文を見る。
『写真――景色や一瞬を絵のように残すもの? ルシル様から自然に出た言葉。詳細不明』
「今朝、足跡でも言いましたよね」
「うん」
「景色だけじゃなくて、見たものをそのまま残して、後で比べるためにも使えそうって」
「そんな感じがした」
「書き足しておこうかなって」
ルシルは少し考える。
「いいよ」
モモが追記する。
『景色だけではなく、物や足跡なども残せる? 後で見返したり比べたりできる?』
疑問符が二つ。
「分からないこと増えたな」
「でも、前より少しだけ分かりました」
「そうかな」
「最初は『景色を絵みたいに残すもの』だけでした」
シモンも紙を見る。
「今のところ、ルシル様が何かを見て『その状態を残したい』と考えた時に、関連する感覚が出ているようには見えます」
「記憶?」
「そこまでは断定できません」
「だよな」
「夢を見た、具体的な場所を思い出した、誰かの顔が浮かんだ、といったこともないのでしょう?」
「ない」
ルシルは首を振る。
「写真って言葉と、こういうものなんだろうなって感覚だけ」
「なら、今はそこまでです」
シモンの答えは変わらない。
急いで結論を出さない。
分かったことだけ覚えておく。
「紙、もういっぱいです」
モモが表裏を確認した。
「次から新しい紙?」
「はい」
「何て名前にする?」
「名前?」
「記録なんだから」
モモが考える。
「草原で見つけたもの?」
「そのまま」
「いいじゃん」
「でも写真も入ってます」
「じゃあ『旅で見つけたもの』」
「もっと広くなりました」
「ずっと使える」
「一枚じゃ足りなくなりますよ」
「本にすれば?」
ルシルが何気なく言った。
モモが止まる。
「本?」
「紙増えるなら、最初からまとめて綴じたやつ買えばいいじゃん」
「……いいですね」
目が少し輝いた。
「次の町で探します」
「買うの?」
「小さいのでいいです。持ち歩けるもの」
「絵も描ける」
「はい」
「シモンの兎も残せる」
「それは残さなくていいでしょう」
「もう残ってるじゃん」
「今の紙にね」
モモは紙を眺める。
三人が描いた耳。
食べ物の名前。
鳥。
花。
分からない言葉。
「これ、貼れますかね」
「新しい本に?」
「はい」
「糊があればできるんじゃない?」
「紙を傷めない方法を店で聞きましょう」
シモンが答える。
「シモン君も書きます?」
「必要な時なら」
「絵も?」
「なぜ絵にこだわるんです」
「一番上手だったので」
「一度描いただけでしょう」
「また描いて」
「考えておきます」
「断らなかった」
ルシルが笑う。
「シモン、絵担当な」
「勝手に役割を決めないでください」
旅の記録。
それを作ることが、次の町での小さな予定になった。
◇
完全に暗くなる前、三人は明日の道を確認した。
シモンが地図を広げる。
「この先は、草原が少しずつ終わりに近づきます」
「もう?」
「まだ一日以上はかかるでしょう。ただ、地図上では小さな林と農地が増えています」
「次の町は?」
「大きな町ではありません。街道沿いに『フェルナ』という農村があります」
「宿ある?」
「地図では一軒。ただ、情報が古い可能性はあります」
「店は?」
「雑貨屋の印があります」
モモがすぐに反応する。
「小さい本、あるでしょうか」
「農村の雑貨屋に記録帳があるかは分かりませんね」
「なかったら次で探せばいい」
ルシルが言う。
「急がないし」
「そうですね」
「フェルナまで明日着く?」
「順調なら可能性はあります。ただ、無理に着く必要はありません」
「分かった」
地図を畳む。
外では、昼より弱くなった風が木の葉を揺らしている。
昨夜の草原では、周囲にほとんど木がなかった。
今夜は枝葉の擦れる音がする。
たった一日の距離でも、眠る場所の音は違った。
ルシルが立ち上がろうとした時、モモが小さく「あ」と声を上げた。
「何?」
「今日、空走鳥見ませんでした」
「そういえば」
「黒耳野兎も」
「朝、本で見た」
「本だけです」
「羊はいっぱい見た」
「はい」
モモは少し考えた後、笑った。
「今日は羊の日でしたね」
「道塞いでた一頭が強かった」
「トルクと仲良くなった子です」
「だからそこは確定していません」
シモンの訂正が入る。
「シモン、あの羊に名前付ければよかったな」
「他人の羊へ勝手に名前を付けないでください」
「白くて丸かったから……マル」
「そのまますぎます」
モモが笑い、ルシルもつられて笑う。
シモンは呆れた顔をしながら、それでも口元にはわずかな笑みが残っていた。
「明日は羊が道を塞いでいないことを願います」
「いたら?」
「待ちます」
「結局それしかないか」
「街道は僕たちだけのものではありませんからね」
三人は翌朝の準備を済ませ、それぞれ休むことにした。
火を消す。
トルクとベルクを最後に確認する。
馬車の扉を閉める。
やがて小さな休憩地から明かりが消えた。
その夜。
ルシルは一度だけ夢を見た。
どこなのか分からない場所だった。
草原でもない。
王城でもない。
セイラでも、リュカでもない。
明るい。
白い壁。
四角い何か。
誰かの手。
そして――一瞬だけ、光。
そこで目が覚めた。
「……?」
天幕の中は暗い。
外では風が木の葉を揺らしている。
ルシルは毛布の中で瞬きをした。
(今の……何だ?)
胸が苦しいわけではない。
頭痛もない。
怖さもなかった。
ただ、夢の中で何を見たのか思い出そうとすると、白い壁も、手も、四角い何かも、指の間から砂が落ちるように輪郭を失っていく。
残ったのは、最後の光だけだった。
ほんの一瞬。
目の前が白くなるような、小さな光。
「……写真?」
誰にも聞こえないほど小さな声で、ルシルは呟いた。
答えは返らない。
隣の天幕から物音もしない。
しばらく暗闇を見つめていたが、身体に異常はなかった。
(朝になったら、二人に言おう)
それだけ決める。
今ここで起こす必要はない。
ルシルは忘れないよう、夢に残ったものを頭の中でもう一度並べた。
(白い壁。四角い何か。誰かの手。最後に光)
写真という言葉との関係は分からない。
自分の記憶なのかどうかさえ分からない。
けれど、これまで言葉と曖昧な感覚しかなかったものに、初めて映像らしいものが加わった。
ルシルはゆっくり息を吐き、もう一度毛布へ身体を沈める。
木々を揺らす夜風の音が続いている。
今夜はそれ以上、同じ夢を見ることはなかった。




