第51話 変な夢を見た朝も、旅の一日はいつも通り始まります
目を覚ました時、ルシルが最初に聞いたのは木の葉が擦れ合う音だった。
昨夜より風は弱くなっているらしい。天幕の布を押すほどではなく、旅人休憩地を囲む十数本の木々の枝先だけが揺れ、さらさらと乾いた音を立てている。
薄い朝日が布越しに差し込んでいた。
ルシルは毛布の中で目を開いたまま、しばらく動かなかった。
(……覚えてる)
白い壁。
四角い何か。
誰かの手。
そして、一瞬の光。
夜中に目を覚ました直後ほど鮮明ではない。それでも、忘れないよう何度も頭の中で繰り返したおかげか、四つの断片だけは残っていた。
問題は、それ以上が何も出てこないことだった。
白い壁がどこにあったのか分からない。
四角いものが何なのかも分からない。
手が男のものだったのか女のものだったのか、自分のものだったのか誰かのものだったのか、それさえ思い出せない。
最後の光だけは、妙に印象に残っている。
眩しいというほど強くはない。けれど、一瞬だけ視界が白くなったような感覚があり、その直後にルシルは目を覚ました。
(写真……なのかな)
昨夜も同じ言葉が浮かんだ。
だが、そうだと断言できる理由はない。
写真という言葉そのものについてさえ、ルシルが知っていることは少なかった。景色や物を一瞬の状態で残せるらしいこと、後から見返したり比べたりできるらしいこと。その程度の曖昧な感覚しかない。
そこへ夢が一つ加わった。
ただ、それだけだ。
「……よし」
ルシルは小さく呟き、毛布から身体を起こした。
頭痛はない。
吐き気もない。
身体が重いわけでもない。
額へ手を当ててみても、熱があるようには感じなかった。
昨夜決めた通り、朝になったらモモとシモンへ話そう。
そう考えて天幕の入口を開けると、朝の冷たい空気が一気に入り込んできた。
「寒っ」
思わず肩を縮めながら外へ出る。
東の空はすでに明るいが、太陽はまだ木々の間から低く差し込んでいる。草の先には露が残り、馬車の屋根にも薄く水滴がついていた。
少し離れた場所では、トルクとベルクが静かに立っている。
そして、その手前。
紺色の外套を羽織ったシモンが、ベルクの首筋を撫でていた。
「おはよう、シモン」
「おはようございます、ルシル様」
シモンは振り返ると、いつものようにルシルの顔を見た。
ほんの一瞬。
だが、その視線がいつもより少し長かった。
「……何?」
「いえ」
「今、顔見たよな」
「毎朝見ていますよ」
「そういう見方じゃなかった」
「よくお気づきで」
シモンは眼鏡の位置を直す。
「少し眠そうでしたので」
「夜中に一回起きた」
そこでルシルは言葉を止めた。
ちょうど、もう一つの天幕が開く。
「おはようございます……」
モモが白い外套を片手に出てきた。
長い桃金色の髪はまだ少し乱れている。外へ出た途端、冷えた空気に触れたのか、眠そうだった目が少しだけ開いた。
「寒いです」
「俺も出た瞬間そう思った」
「昨日の朝より木があるから暖かいと思ってました」
「風は弱いんですけどね」
モモは外套を羽織り、両手を袖の中へ引っ込めるようにしてから二人のところへ歩いてきた。
「トルクとベルクは?」
「今のところ問題ありません。もう少し明るくなってから脚も確認しますが、夜中に騒いだ様子もありませんでした」
「よかったです」
モモはトルクへ近づき、首筋を軽く撫でた。
トルクが鼻を鳴らす。
「おはようございます。今日は羊さんいませんよ」
「朝から昨日の話するの?」
「トルクと仲良くなってましたから」
「確定事項のように言わないでください」
シモンがすぐ訂正した。
いつものやり取りにルシルは少し笑ったが、胸の奥には昨夜の夢が残っている。
隠す理由はない。
「二人とも、ちょっといい?」
声の調子が変わったことに、二人とも気づいた。
モモの手がトルクの首筋で止まり、シモンもルシルへ顔を向ける。
「どうしました?」
「昨日の夜さ。俺、一回起きたって言っただろ」
「はい」
「その時、夢を見た」
シモンの表情がわずかに引き締まった。
「写真に関係する夢ですか?」
「……たぶん」
断定しなかったことに、シモンは何も言わない。
モモがルシルのそばへ一歩近づいた。
「どんな夢だったんですか?」
「それが、ほとんど分からないんだ」
ルシルは昨夜から覚えているものを、一つずつ言葉にしていった。
「明るい場所だった。でも、どこかは分からない。白い壁があって、四角い何かが見えた。それから誰かの手があって……最後に、一瞬だけ光った」
「光った?」
「うん。目の前が一瞬だけ白くなったような感じ。その直後に起きた」
モモはすぐには返事をしなかった。
若草色の瞳がルシルの顔を見つめる。
「それで、『写真』って思ったんですか?」
「起きた後にな」
「夢の中で誰かが言ったわけではない?」
「言ってないと思う。少なくとも覚えてない」
シモンが一歩近づいた。
「今、頭痛は?」
「ない」
「吐き気、目眩、息苦しさは?」
「何もないよ」
「昨夜目覚めた時は?」
「それもなかった」
「夢を見て怖かった、ということは?」
ルシルは少し考えた。
「怖くはなかった。不思議だっただけ」
「動悸は?」
「普通だったと思う」
「魔力の違和感は?」
「ない」
シモンはさらにいくつか確認した。
手足の痺れ。
身体の重さ。
記憶が抜け落ちた感覚。
知らない誰かの声。
場所の名前。
文字。
匂い。
どれもない。
「本当に映像だけ?」
「映像って言っていいのかも微妙だけどな。白い壁と、四角い何かと、手と光。それだけ」
「四角いものの大きさは?」
「分からない」
「手で持てる程度でしたか?」
ルシルは眉を寄せる。
思い出そうとすると、夢の輪郭がかえって遠ざかる。
「……たぶん。でも自信ない」
「では、そこは『不明』にしておきましょう」
「また記録する?」
「した方がいいでしょう。ただし、覚えていない部分を想像で補わないように」
「それ大事ですね」
モモが頷いた。
「私、紙取ってきます」
「あ、今?」
「忘れる前に書いた方がいいです」
モモは馬車へ向かった。
ルシルはその背中を見送り、それからシモンを見る。
「シモン」
「はい」
「変だと思う?」
問いかけると、シモンはすぐには答えなかった。
朝日が少しずつ高くなり、眼鏡の端に細い光が当たる。
「変ではあります」
「やっぱり?」
「知らないはずの言葉が突然出てきて、その言葉についての感覚が少しずつ増えている。さらに昨夜は、それと関係するかもしれない夢を見た。普通の出来事とは言いにくいでしょう」
シモンはそこで一度言葉を切った。
「ですが、『変だ』ということと『危険だ』ということは別です」
ルシルは黙って聞く。
「今のところ身体症状はない。魔力にも異常を感じない。人格や記憶に急激な変化が起きたわけでもない。夢を一度見ただけで原因を決める材料もありません」
「じゃあ?」
「昨日までと同じです。覚えておく。変化があれば共有する。体調に異常が出れば、その時点で対応する。それで十分でしょう」
「そっか」
胸の奥にあった小さな固さが、少しだけ緩んだ。
ルシル自身、何か恐ろしいことが起きたとは感じていなかった。それでも、知らないものが自分の中から出てくるという状況を、完全に気にせずいることもできない。
(分からないなら、分からないままでいいか)
少なくとも今は。
答えを急いでも、材料がない。
モモが紙と炭筆を持って戻ってきた。
「ありました」
「その紙、もういっぱいじゃなかった?」
「端が少し残ってます」
「そこまで使うの?」
「次の記録帳を買うまでです」
三人は朝露を避けるため、屋根だけの雨除けの下へ移動した。
古い木製の腰掛けに座り、モモが紙を膝へ広げる。
「白い壁」
「うん」
「四角い何か」
「うん」
「誰かの手」
「うん」
「一瞬の光」
「それで全部」
モモが慎重に書いていく。
「『写真との関係は不明。ただし目覚めた直後、ルシル様本人が写真を連想』……これでいいですか?」
「いいと思う」
「身体異常なし、と」
横からシモンが付け加える。
「夢を見たのは一度。以前に同じ夢を見た記憶なし」
「それも書きます」
「紙、本当にいっぱいだな」
ルシルが覗き込むと、旅先で気になったものを書き始めた紙は、もう余白の方が少なかった。
植物。
鳥。
兎。
食べ物。
そして写真。
最初から何か大きな目的があって始めたものではない。
気になったものを書いているうちに、いつの間にか旅の記録になっていた。
「次の村に本あるかな」
「記録帳です」
モモが訂正する。
「本でもいいだろ」
「まだ何も書いてないなら本じゃないです」
「書いたら本になる?」
「……なるかもしれません」
「じゃあ本」
「ルシル様が言うと、急に大げさに聞こえます」
モモは笑いながら紙を畳んだ。
「フェルナにあればいいですね」
「なかったら次の町で探せばいいし」
「はい」
夢についての話は、そこでいったん終わった。
シモンも、それ以上原因を推測しなかった。
モモも心配そうにルシルを見続けることはしない。
ただ、紙の最後に新しい記録が一つ増えた。
今はそれでよかった。
◇
朝食を終える頃には、木々の間へ差し込む光もかなり強くなっていた。
昨夜の豆と乾燥肉の煮込みは残っていなかったため、今朝は硬めのパンと卵、少量の保存肉、それから温かい飲み物で済ませた。
高原赤実も数粒だけ出す。
「朝に食べると目が覚めます」
モモが一粒噛み、酸味に目を細めた。
「昨日は朝から食べなくて正解だったな」
「今日は食べてますよ」
「今日は食べる気分だった」
「気分で変わるんですね」
「食事なんだから変わるだろ」
ルシルも一粒口へ入れる。
最初に強い酸味が来て、その後から干した果実らしい甘さが広がった。
「まだ結構ある?」
「一袋の半分より少ないくらいですね」
シモンが確認する。
「そろそろ次の土地の保存食も補充したいところです」
「フェルナで何かあるかな」
「農村なら野菜や穀物は期待できますが、旅人向けに加工された保存食がどの程度あるかは分かりません」
「その場で食べるだけでもいい」
「そちらが本命でしょう?」
「ばれた」
食後は天幕を畳み、火の跡を確認する。
トルクとベルクの脚や蹄にも問題はなかった。
昨日は羊の群れを待つ時間もあり、二頭に無理な負担はかかっていない。餌もよく食べ、水も普段通り飲んでいる。
「今日もよろしくな」
ルシルがトルクの首を軽く叩く。
トルクは穏やかに鼻を鳴らした。
隣ではシモンがベルクの額へ手を当てている。
「今日は羊いないといいですね」
モモが言った。
「羊が悪いわけじゃないだろ」
「分かってます。でも道の真ん中にはいない方がいいです」
「それはそう」
「昨日の一頭、ちゃんと群れに戻ったかな」
「牧童が連れて戻ったでしょう」
シモンが答える。
「また抜け出してたりして」
「それは飼い主が心配することです」
「シモン、昨日から羊には厳しいな」
「どこがですか」
「トルクと仲良くなったのも認めなかった」
「事実として確認できないことを確定させないでください」
モモが小さく笑った。
「写真と同じですね」
「……そう言われると反論しづらい」
ルシルも笑い、馬車へ乗り込む。
最初の御者はシモンが担当することになった。
昨夜から風向きが変わっているため、まずは路面と風の状態を見ながら進み、その後で交代する。
馬車がゆっくり動き出す。
十数本の木に囲まれた小さな旅人休憩地が、少しずつ後ろへ離れていった。
◇
昨日までの景色との違いは、出発して一時間もしないうちに現れ始めた。
草原そのものが消えたわけではない。
遠くにはまだ広い草地が見えている。
だが、街道沿いの木が明らかに増えていた。
一本ずつ離れて立っていた木が、数本のまとまりになり、その間に背の高い灌木も混じっている。
「昨日より緑が濃く見える」
モモが窓の外を眺めながら言った。
「草の種類も少し変わってる?」
ルシルも反対側を見る。
丈の低い乾いた草だけでなく、葉の幅が広い草が混ざり始めている。
「土の色も違いますね」
御者台からシモンの声がした。
「少し黒くなっています」
「農地が近いから?」
「それだけとは限りませんが、水分は草原中央部より多そうです」
街道の脇には、細い溝も現れ始めた。
自然にできたものではなく、人の手で掘られた形をしている。
「水路?」
「排水溝かもしれません」
「セイラのとは全然違うな」
「用途も土地も違いますからね」
山の斜面を流れていたセイラの水路は、石や木樋を使って水を細かく分けていた。
今見えているものは、土を浅く掘っただけに近い。
水も流れていない。
「雨の時だけ使うのかな」
「可能性はありますね」
それ以上、三人は答えを決めなかった。
気になるものは増える。
けれど、そのすべてに名前や理由を付けなくても旅は続く。
しばらくすると、街道の右側に最初の畑が見えた。
「あ」
ルシルが窓へ寄る。
「畑」
「本当です」
低い木柵の向こうに、長い畝が何本も並んでいる。
まだ芽を出したばかりなのか、土の色の方が目立つ。畑の端には小さな木造の小屋があり、その脇へ農具らしいものが立て掛けられていた。
人の姿はない。
「ここからフェルナの畑?」
「まだ村までは距離があります」
シモンが地図を確認する。
「周辺の農地が広いのでしょう。小さな農家が点在している可能性もあります」
さらに進むと、その言葉通り、街道から離れた場所に一軒の家が見えた。
石を低く積んだ土台。
木壁。
傾斜のある屋根。
隣には納屋らしい建物がある。
「家だ」
「昨日までは牧区の小屋ばかりでしたね」
「人が住んでる感じする」
煙突から細い煙が上がっている。
その近くには洗濯物らしい布も揺れていた。
馬車が近くを通っても、特に誰かが出てくることはない。
街道を旅人が通るのは珍しくないのだろう。
ルシルは窓越しにその家を眺めた。
王城にいた頃なら、地図上の農村を見ても、その土地で暮らす一軒一軒の家まで想像することはほとんどなかった。
税収。
収穫量。
街道整備。
人口。
書類には数字が並んでいた。
今は、畑の横に干された布や、納屋の前に積まれた薪の方が先に目へ入る。
(同じ場所でも、見えるものが違うんだな)
その考えをわざわざ口にすることはなかった。
ただ、通り過ぎる家を少し長く眺めた。
◇
昼前になると、街道を行き交う人も増えてきた。
最初にすれ違ったのは、荷車を引く一頭の馬と年配の夫婦だった。
荷台には空の木籠が積まれている。
「こんにちは」
シモンが速度を落として挨拶すると、御者の男も片手を上げた。
「こんにちは。南へ行くのかい?」
「フェルナ方面へ」
「ならこのままでいいよ。昼過ぎには着くんじゃないか」
ルシルが車内から顔を出す。
「道、問題ないですか?」
「問題ない。昨日も雨はなかったからな」
「ありがとうございます」
「ただ、村の手前で畑の荷車が増えるぞ。今日は豆を運ぶ日だから」
「豆?」
ルシルが反応した。
男が笑う。
「食う方に反応したな」
「分かりました?」
「顔に出てる」
隣に座る女性も笑っている。
「今年の早豆が出始めたのよ。まだ保存用じゃなくて、若いうちに食べる方だけどね」
「美味しいですか?」
「採れたてを塩茹でにすると美味しいよ」
「ルシル様」
御者台からシモンの声が飛んだ。
「まだ買うって言ってない」
「顔が買う気です」
「顔で決めつけるなよ」
夫婦が声を上げて笑う。
「村に着けば売ってるよ。宿でも出るかもしれん」
「ありがとうございます!」
「気をつけてな」
荷車とすれ違う。
見えなくなるまで待ってから、モモがルシルを見る。
「早豆」
「気になるだろ?」
「気になります」
「ほら」
「僕は止めていませんよ」
シモンが前を見たまま答える。
「ただ、会話の途中で食材の話に飛びつかないでください」
「地元の人が言ったんだからいいだろ」
「まあ、今回は」
「シモンも食べたい?」
少し間が空いた。
「採れたてなら興味はあります」
「ほら!」
「何に勝ったつもりなんですか」
馬車の中に笑い声が広がる。
昨夜の夢について話した朝だったが、それだけで一日全部の空気が変わることはなかった。
◇
昼食は、街道脇の小さな休憩場所で取った。
大きな木が一本あり、その下に古い腰掛けが置かれているだけの場所だったが、木陰は十分広い。
先客として、小型の荷車が一台止まっていた。
御者らしい中年の女性と、十代半ばほどの少年が二人でパンを食べている。
「こんにちは」
「こんにちは」
互いに軽く挨拶する。
シモンは馬車を少し離して止め、トルクとベルクへ水を与えた。
昼食はパンと保存肉、乳酪。
火を使わない簡単なものだ。
「フェルナ、もう近いって」
ルシルがパンをちぎりながら言う。
「さっきの方の話なら、今の進み方で午後の早い時間には着けそうですね」
シモンが答える。
「今日は宿に泊まれます?」
「空いていれば」
「お風呂あるかな」
モモが期待を込めて尋ねる。
「農村の宿に浴場があるとは限りません」
「身体を拭くだけでもいいですけど、お湯に入りたいです」
「俺も」
「着いてから聞きましょう」
隣の荷車の女性が会話を聞いていたらしい。
「フェルナの宿なら、湯は頼めるよ」
三人がそちらを見る。
「浴場ではないけど、裏に小さな湯小屋がある。空いていれば使わせてもらえるはずだよ」
「本当ですか?」
モモの表情が明るくなる。
「ああ。ただし一度に何人も入れるような広さじゃないけどね」
「十分です」
「宿って一軒だけですか?」
ルシルが尋ねる。
「旅人向けは一軒。『麦風亭』ってところ」
「麦風亭」
「食事も出るよ。今の時期なら早豆もあるんじゃないかね」
「早豆」
またルシルが反応する。
少年の一人が吹き出した。
「兄ちゃん、豆好きなの?」
「まだ食べたことないから気になってる」
「うまいよ。塩だけで」
「やっぱり?」
「でも俺は焼いた方が好き」
「焼くの?」
「鞘ごと焼くんだよ」
少年が身振りを交えて説明し始めた。
「外側が少し焦げるまで焼いて、中の豆だけ食う」
「それもいいな」
「茹でるより味が濃い」
「へえ……」
「ルシル様、今夜の献立を勝手に決めないでくださいね」
「まだ決めてないって」
「顔が」
「今日はみんな俺の顔で判断するな」
モモが笑いを堪えながら水を飲む。
「分かりやすいんですよ」
「モモまで」
女性はそんな三人を面白そうに眺めていた。
「旅は長いのかい?」
「まだ途中です」
シモンが答える。
「南西へ向かっています」
「ならフェルナは一晩くらいがちょうどいいかもね。大きな村じゃないけど、水と食料はあるし、馬も休ませられる」
「雑貨屋はありますか?」
今度はモモが尋ねた。
「あるよ。何が欲しいんだい?」
「小さな記録帳みたいなものを探していて」
「紙を綴じたやつ?」
「はい」
「それならあると思う。農家も収穫や売り買いを書き留めるからね。ただ、町の文具屋みたいに種類は多くないよ」
「十分です!」
モモの顔がさらに明るくなる。
「よかったな」
「はい」
「まだ実物を見るまでは分かりませんよ」
シモンはそう言いながらも、否定する様子はなかった。
「店はどの辺ですか?」
「村へ入ったら、井戸のある広場がある。その東側。軒先に木の桶をぶら下げてる店だから分かりやすいよ」
「ありがとうございます」
食事を終えた女性と少年は、先に荷車へ戻った。
「じゃあ、お先に」
「ありがとうございました」
「フェルナでまた会うかもね」
荷車が街道へ戻り、南へ進んでいく。
ルシルは見送りながら笑った。
「早豆と記録帳と湯」
「到着前から目的が三つになりました」
モモが指を折る。
「宿も」
「それは目的というより必要事項です」
「じゃあ三つ」
「全部今日やる?」
ルシルが尋ねる。
モモは少し考えた。
「記録帳は見たいです。でも、着く時間次第ですね」
「宿が先だな」
「はい」
以前なら、町へ着いた途端に気になる場所へ向かいたくなっていたかもしれない。
今はまず馬と宿。
それから時間があれば歩く。
三人の中で、わざわざ確認しなくても順番が共有されるようになっていた。
◇
午後になると、街道の景色はさらに変わった。
草原はまだ遠くに残っている。
けれど道の周囲は畑の方が多くなり、木柵の向こうには豆、麦らしい穂、葉の大きな野菜が並んでいた。
人の姿も増えている。
畑で腰を曲げて作業する者。
籠を運ぶ者。
荷車へ木箱を積む者。
子どもが二人、道から離れた畑の端を走っている。
街道を通る三人の馬車へ顔を向ける者はいるが、珍しそうに見続ける者はいない。
「本当に農村が近い感じするな」
御者を交代したルシルが言う。
昼休憩後からは、ルシルが手綱を握っていた。
「道も平らになりましたね」
隣のモモが周囲を見渡す。
南平原旧道に入った頃に比べれば、轍もずっと安定している。
ただし、聞いていた通り荷車は増えていた。
前方に一台。
さらにその先にも一台。
後ろから来る荷車もある。
「急がない方がいいな」
「ええ。追い越せる場所も少ないですし、この速度で十分です」
車内からシモンが答える。
前を走る荷車には、麻袋が積まれている。
ルシルは十分な距離を取ったまま進んだ。
道が広くなった場所で、前の荷車が左へ寄る。
御者の男が手を上げた。
「先行くかー?」
「大丈夫です! このままで!」
ルシルが返す。
「そうかー!」
男は再び中央へ戻った。
「追い越さないんですね」
モモが尋ねる。
「急いでないし。あの荷車もそんなに遅くないから」
「そうですね」
しばらく同じ速度で進む。
その間にも畑の種類が変わった。
「これ豆かな」
「たぶん」
道の右側に、膝ほどの高さの植物が列になっている。
緑の鞘らしきものも見えた。
「早豆?」
「そうかもしれませんが、勝手に採ったら駄目ですよ」
シモンが車内から言う。
「採らないよ!」
「念のためです」
「俺、そこまで食い意地張ってないぞ」
モモが無言でルシルを見る。
「何その顔」
「何でもありません」
「絶対何か思っただろ」
「お腹が空いたらどうかなって」
「採らない!」
前の荷車の御者が、こちらの声を聞いたのか肩を揺らして笑っている。
「聞かれてるじゃん!」
「ルシル様の声が大きいからです」
「シモンが変なこと言うからだろ!」
男が振り返った。
「豆なら村で買えー!」
「買います!」
「ははは!」
今度は完全に笑われた。
モモは口元を押さえ、シモンは車内で小さくため息をついている。
ルシルは少しだけ顔を熱くしながら、それでも笑ってしまった。
◇
フェルナが見えたのは、それから一時間ほど後だった。
最初に目へ入ったのは、高い建物ではない。
風に揺れる大きな麦畑だった。
街道の左側いっぱいに金色に近い穂が広がり、その向こうに低い屋根がいくつも見える。
「あれ?」
ルシルが目を細める。
「村ですね」
モモが身を乗り出しすぎない程度に前を見る。
大きな壁も門もない。
街道がそのまま村の中へ続いている。
入口には石柱が二本立っており、その片方へ木札が取り付けられていた。
『フェルナ』
「着いた」
ルシルが自然に笑う。
リュカを出てから、南平原旧道を何日か進んできた。
広い草原。
風。
空走鳥。
黄色い花。
黒耳野兎。
木橋。
羊の群れ。
それらの景色が少しずつ後ろへ積み重なり、今度は畑に囲まれた農村へ着いた。
「まず宿ですね」
モモが言う。
「分かってる」
「早豆より?」
「宿」
「記録帳より?」
「宿」
「お風呂より?」
「……宿」
一瞬だけ間が空いた。
「今、迷いました?」
「迷ってない」
「お風呂で迷いましたね」
「モモだって入りたいだろ」
「入りたいです」
「二人とも、まず馬車を進めてください」
シモンの声が後ろから飛んだ。
ルシルは笑いながら手綱を整える。
「はいはい」
「返事は一回で十分です」
「はい」
「素直ですね」
村へ入る。
街道沿いには木造の家が並んでいるが、建物同士の間隔は広い。
家の裏まで畑が続いているところも多く、軒下には農具や籠、乾燥させている植物が吊るされていた。
土と草の匂いに混じり、どこかからパンを焼く香りが流れてくる。
「いい匂い」
「また食べ物」
モモが笑う。
「モモも気づいただろ」
「気づきました」
少し進むと、話に聞いていた井戸のある広場が見えた。
大きな広場ではない。
中央に屋根付きの共同井戸があり、その周囲に荷車が三台止まっている。
農作物を積んだ籠も並び、人が行き交っていた。
「雑貨屋、東側って言ってたよな」
ルシルが視線を動かす。
「あ」
モモが先に見つけた。
「桶」
軒先に木の桶が二つぶら下がった店がある。
「あれですね」
「後でな」
「はい」
モモは素直に頷いた。
広場を越えた先に、木製の看板が見える。
風に揺れる麦の穂が描かれ、その下に文字があった。
『麦風亭』
「見つけた」
「馬車を入れられそうですね」
宿の横には、十分な広さの通路がある。
その奥に厩舎らしい屋根も見えた。
ルシルは速度を落とし、入口へ馬車を寄せる。
ちょうど宿から中年の女性が出てきた。
「泊まりかい?」
「はい。三人と馬二頭、馬車一台です」
「空いてるよ。馬車はそのまま横から裏へ回して」
「ありがとうございます」
女性が先に歩き、案内する。
裏手には思っていたより広い空間があった。
厩舎は八頭ほど入れそうで、今いる馬は三頭。
奥の二つの区画が並んで空いている。
トルクとベルクを隣同士にできる。
「ここならいいな」
ルシルが小さく言う。
「ベルクも落ち着いていますね」
シモンも様子を確認する。
リュカで混み合った厩舎を避けた時とは違い、ベルクの耳も普段通りだった。
「二頭は隣でお願いできますか?」
「もちろん。飼葉は宿代に入ってる。追加が必要なら言っておくれ」
「助かります」
三人はまず二頭を外し、水を与える。
長距離を歩いた後なので、いきなり大量に飲ませず様子を見ながら休ませる。
蹄や脚にも異常はない。
馬車を指定された場所へ止め、固定する。
ここまで済ませてから、ようやく宿の中へ入った。
◇
麦風亭は二階建てだった。
一階は食堂。
奥に厨房。
二階が客室らしい。
昼食の時間は過ぎているが、食堂にはまだ数人の客がいた。
農作業の合間らしい男たちが飲み物を飲みながら話している。
厨房からは煮物の匂いが漂っていた。
「部屋は三つ?」
宿の女性が尋ねる。
「空いていれば」
シモンが答える。
「空いてるよ。今日はまだ旅人が少ないからね。二階の奥三部屋を使っていい」
「一泊でお願いします」
「分かった。夕食はどうする?」
三人の視線が一瞬だけ揃った。
「お願いします」
「何があります?」
ルシルがすぐ尋ねる。
女性が笑う。
「今日の夕飯なら豆と鶏肉の煮込み、焼き野菜、パン。それと早豆の塩茹で」
「早豆」
「聞いてきた顔だね」
「そんなに顔に出ます?」
「出てるよ」
今日三回目だった。
モモがもう隠すことなく笑っている。
「塩茹で以外もあります?」
「鞘ごと炙るのもできるよ」
「それも聞いた!」
「なら両方食べ比べるかい?」
「お願いします!」
「ルシル様」
「何?」
「僕は何も言っていません」
「言いそうな顔しただろ」
「顔で決めつけないでいただけますか?」
自分が散々言われた言葉を返され、ルシルは黙った。
宿の女性が声を上げて笑う。
「仲がいいねえ」
「まあ」
ルシルは少し照れくさくなりながら答えた。
「長く一緒に旅してるので」
「そうかい。じゃあ夕食は少し多めにしとくよ」
「ありがとうございます」
「あと、湯小屋があるって聞いたんですが」
モモが尋ねる。
「ああ、使えるよ。夕方に湯を足すから、その後なら。三人なら順番に入っておくれ」
「ありがとうございます!」
早豆を聞いた時のルシルと同じくらい、モモの声が明るくなった。
「モモも顔に出てる」
「お風呂は別です」
「何が別なんだよ」
部屋の鍵を受け取り、三人は二階へ上がった。
部屋は簡素だが清潔だった。
窓からは村の畑が見える。
ルシルは荷物を置くと、窓を開けた。
午後の風が入ってくる。
草原で受けていた風より、少しだけ土と植物の匂いが濃い。
遠くでは農具が何かに当たる音がしている。
「フェルナか」
口にしてみる。
大きな町ではない。
豪華な建物もない。
けれど、昨日まで眠っていた草原とは全く違う場所だった。
扉が軽く叩かれる。
「ルシル様」
「開いてるよ」
モモが顔を出した。
「厩舎、もう一回見に行きます?」
「行く」
「その後、雑貨屋」
「まだ開いてたらな」
「はい」
モモの手には、例の折り畳んだ紙が握られている。
「持ってくの?」
「大きさを比べたいので」
「記録帳と?」
「これを挟めるくらいがいいです」
「なるほど」
廊下へ出ると、シモンも部屋から出てきた。
「どちらへ?」
「馬見て、その後雑貨屋」
「僕も行きます」
「シモンも記録帳欲しい?」
「僕は消耗品を確認します。紐や紙類も補充しておいて困りませんから」
「じゃあ三人で」
三人は階段を下りた。
◇
トルクとベルクは、すでに落ち着いて飼葉を食べていた。
特に問題はない。
「大丈夫そうだな」
「ええ。今日は路面も安定していましたから」
シモンがベルクの様子を見ながら答える。
「では、長居しすぎない範囲で村を見ましょう」
「まず桶の店」
モモが言う。
「名前覚えてないもんな」
「まだ見てませんから」
三人は表通りへ戻る。
午後も遅くなり始めているが、村はまだ仕事の途中だった。
広場では籠の中身を別の荷車へ移している者がいる。
共同井戸では子どもが桶を汲み、少し離れた家へ運んでいた。
農村らしい生活の音が途切れない。
目的の店へ着く。
軒先には、確かに木桶が二つぶら下がっていた。
看板には『ハル爺の雑貨店』と書かれている。
「ハル爺」
「店主の名前でしょうか」
中へ入る。
扉に付いた小さな鐘が鳴った。
「いらっしゃい」
奥から声がする。
現れたのは、白髪の老人だった。
名前通りなら、この人がハル爺なのだろう。
店内には農具の小物、縄、針、糸、木製食器、油、蝋燭、塩、布、簡単な薬、紙などが所狭しと並んでいる。
モモの視線がすぐ紙の棚へ向かった。
「記録帳ありますか?」
「帳面か?」
「はい。小さくて、持ち歩けるものがいいです」
「農家用ならあるぞ」
老人は棚の下から数冊取り出した。
厚いもの。
細長いもの。
手のひらより少し大きいもの。
「これ」
モモが一冊を手に取る。
薄茶色の丈夫そうな表紙。
中には少し厚めの紙が綴じられている。
装飾はない。
農作物の数や売買を書き留めるための、ごく普通の帳面らしい。
「ちょうどよくない?」
ルシルが覗き込む。
「はい」
モモは今までの記録紙を横へ置いた。
広げた紙をそのまま貼るには少し大きいが、折り畳めば十分収まる。
「これにします」
迷いは短かった。
「貼り付けたい紙があるんですが、紙を傷めにくいものってありますか?」
「貼るのか?」
老人が紙を見る。
「だったら糊より、端を糸で留めた方がいいかもしれんな。何度も開くなら、糊は剥がれることがある」
「糸で?」
「帳面の紙へ直接穴を増やすのが嫌なら、最初の頁に細い布を縫って、そこへ紙を挟む手もある」
モモは真剣に聞いている。
シモンも帳面を確認した。
「その方が元の紙を傷めにくそうですね」
「では細い布も買います」
「針と糸は馬車にあります」
「じゃあ布だけ」
ルシルは帳面を眺めた。
「表紙、何もないな」
「農家の帳面だからな」
老人が答える。
「名前でも書けばいい」
「名前」
モモが表紙を見る。
「何て書く?」
ルシルが尋ねる。
「まだ決めません」
「『旅で見つけたもの』」
「昨日それ言ってましたね」
「いいじゃん」
「もう少し考えます」
「シモンは?」
急に振られたシモンが眼鏡を直した。
「僕に聞くんですか?」
「三人の記録でもあるだろ」
「モモ嬢が中心に書いていますが」
「シモンの兎も入る」
「それは忘れてください」
「もう紙に残ってる」
老人が不思議そうに三人を見る。
「兎?」
「絵を描いたんです」
モモが説明する。
「三人で」
「シモンが一番上手かった」
「ルシル様」
「本当じゃん」
「旅の記録か」
老人は少し笑った。
「なら、表紙の名前は急いで決めなくてもいいんじゃないか。書いてるうちに決まることもある」
モモは帳面を両手で持ち、表紙を見た。
「そうします」
「決めない?」
「はい。まだ空けておきます」
帳面と細い布。
シモンはついでに丈夫な細紐と紙を少量購入した。
ルシルは店内を見回したが、食べ物に手を出すことはなかった。
「何も買わないんですか?」
モモが意外そうに聞く。
「俺?」
「ずっと見てたので」
「木の匙、形違うなって」
「買います?」
「今あるからいらない」
シモンが少しだけ目を細めた。
「何?」
「いえ。成長したなと」
「俺を何だと思ってるんだ」
「以前なら『形が違う』という理由だけで手に取っていた可能性はあります」
「……否定できない」
モモが笑う。
必要な買い物を終え、三人は店を出た。
外は夕方へ近づいていた。
斜めから差す光が、広場の井戸や荷車の影を長く伸ばしている。
「買えました」
モモは帳面を胸元に抱えている。
「よかったな」
「はい」
「最初に何書く?」
「今までの紙を整理してからです」
「写真の夢?」
モモは少し考え、首を振った。
「最初から順番に書きたいです」
「最初?」
「この紙に書き始めたところから」
「じゃあ草原?」
「はい」
その答えに、ルシルは何となく安心した。
昨夜の夢は大事なことかもしれない。
けれど、それだけが旅の記録ではない。
黄色い花も。
黒耳野兎も。
空走鳥も。
食べたものも。
三人で描いた妙な兎の耳も。
全部が同じ帳面に入る。
(それくらいがいいな)
写真という分からないものだけが、自分たちの旅を塗り替える必要はない。
◇
麦風亭へ戻る頃には、厨房から夕食の匂いが漂い始めていた。
モモは順番が来ると湯小屋へ向かい、しばらくして頬を赤くしながら戻ってきた。
「最高でした」
「そんなに?」
「草原で何日も野営した後ですよ?」
「俺も早く入りたい」
「次、空いてます」
ルシルも湯小屋を借りた。
小さな木造の小屋で、大人一人が脚を曲げて入れる程度の湯桶があるだけだったが、それでも温かい湯へ肩まで浸かれるのはありがたい。
「……ああ」
思わず声が出た。
湯気の向こうに小さな窓があり、外は夕暮れの色に変わり始めている。
数日前まで広い草原で風に吹かれながら眠っていた。
今は農村の小さな湯小屋にいる。
旅をしていると、昨日と今日の違いが大きい。
ルシルは湯の中で腕を伸ばした。
昨夜の夢のことも、頭の隅には残っている。
それでも今は、温かい。
身体が緩む。
(朝に話してよかったな)
一人で考え続けていたら、もっと気になっていたかもしれない。
答えは出なかった。
だが、答えが出なかったこと自体に不安はなかった。
ルシルは十分に温まってから湯小屋を出た。
◇
夕食の食卓には、期待していた早豆が二種類並んだ。
一つは塩茹で。
もう一つは鞘ごと炙ったもの。
それに鶏肉と豆の煮込み、焼いた根菜、焼きたてのパンが付く。
「来た」
ルシルが早豆を見る。
「まず普通の方から?」
モモも興味津々だった。
「食べ比べるならそうだな」
「好きに食べてください」
シモンは呆れながらも、すでに自分の皿へ両方取っている。
「シモンもやる気じゃん」
「比較するなら同じ条件で食べた方がいいでしょう」
「食べたいって言えばいいのに」
「食べたいですよ」
あっさり認められ、ルシルが一瞬止まる。
「……素直」
「僕だって食事を楽しみます」
「じゃあ三人で」
まず塩茹で。
若い豆は皮が薄く、噛むと柔らかい甘さが広がった。
「甘い」
モモが目を丸くする。
「高原赤実みたいな甘さじゃなくて、豆の甘さ」
「当然でしょう」
「分かってます」
次に炙った方を食べる。
焦げた鞘の香りが中の豆へ移り、塩茹でより香ばしい。
「俺、こっち好き」
「私は塩茹でかもしれません」
「シモンは?」
「どちらも違っていいですね」
「一番ずるい答え」
「本当にそう思っただけです」
鶏肉と豆の煮込みも、派手ではないが温かく、旅の保存食とは違う味がした。
周囲の食卓では地元の人たちが今日の畑仕事や明日の天気について話している。
笑い声。
皿の触れ合う音。
厨房から聞こえる鍋の音。
外から戻ってきた旅人が扉を開けるたび、夕方の冷え始めた空気が少しだけ入ってくる。
三人はその中で、ゆっくり夕食を食べた。
◇
食後。
モモの部屋に三人が集まった。
卓上には、今日買ったばかりの薄茶色の帳面が置かれている。
「開けます」
「買ったんだから開ければいいだろ」
「最初ってちょっと緊張しません?」
「分かる気はする」
モモが表紙を開く。
まだ何も書かれていない紙が続いている。
シモンは細い布を確認し、古い記録紙を傷めず挟めるよう簡単な留め方を考えていた。
「今日は仮に挟むだけにしましょう。縫うなら明るい時間の方がいい」
「はい」
最初の頁へ、折り畳んだ古い紙を挟む。
そこには三人の旅の断片が詰まっている。
「次の頁から書く?」
ルシルが尋ねる。
「はい」
モモは炭筆を持った。
しかし、すぐには書かない。
「何から?」
「……南平原旧道」
ようやく最初の文字を書く。
それから、少しずつ。
風鈴黄花らしき黄色い花。
空走鳥。
黒耳野兎。
三つの灰色岩。
羊。
「羊も書くんだ」
「書きます」
「トルクと仲良くなったって?」
「そこは書きません」
「なんで?」
「シモン君に怒られるので」
「怒りませんが、事実ではないでしょう」
三人の間に笑いが落ちる。
そして最後に。
モモの炭筆が少しだけ止まった。
「写真」
小さく呟く。
ルシルは隣から頁を見る。
「書く?」
「はい。でも、決めつけないように」
モモは短くまとめた。
『写真――ルシル様から自然に出た、由来不明の言葉。景色や物、その時の状態を一瞬で残し、後から見返したり比べたりできるものらしい。詳細不明。』
その下へ、昨夜の夢について書く。
『白い壁。四角い何か。誰かの手。一瞬の光。写真との関係は不明。身体の異常なし。』
「これでいいですか?」
ルシルはゆっくり読んだ。
「うん」
シモンも確認する。
「十分でしょう。これ以上は分かっていません」
モモは炭筆を置いた。
余白はまだたくさんある。
「空いてるな」
「これから増えます」
「何が?」
「分かりません」
モモは笑った。
「分からないから、空けておくんです」
ルシルは真っ白な次の頁を見る。
明日、何を見るかは知らない。
フェルナで何か見つけるかもしれないし、何も見つけないかもしれない。
また草原へ戻るかもしれない。
違う町へ着くかもしれない。
写真という言葉の意味が少し増える日もあれば、何日も何も起きないかもしれない。
それでいい。
「表紙の名前は?」
ルシルが尋ねる。
モモは閉じた帳面を見た。
「まだ空けておきます」
「本当に?」
「はい」
薄茶色の表紙には、まだ何も書かれていない。
シモンが立ち上がる。
「では、今日はそろそろ休みましょう。明日の予定は朝に決めれば十分です」
「フェルナ、一泊?」
「今のところは。ただ、明日少し村を見てから出ても問題ないでしょう」
「早豆買う?」
「保存には向きませんよ」
「明日の昼に食べればいい」
「それなら可能ですね」
「買うんだ」
モモが笑う。
「まだ決めてない」
「顔が」
「今日はもうそれ禁止!」
ルシルの声に、モモがとうとう吹き出した。
シモンまで小さく笑っている。
窓の外では、農村の夜が静かに深まっていた。
草原のようにどこまでも風が走る音はしない。
代わりに遠くで犬が一度鳴き、どこかの家の扉が閉まる音が聞こえた。
ルシルは部屋へ戻る前に、もう一度だけモモの新しい帳面を見た。
最初の数頁しか使われていない。
その先には、まだ何もない。
(次は何が書かれるんだろうな)
今夜また同じ夢を見るのか。
写真という言葉に新しい何かが加わるのか。
それとも、何も起きないのか。
分からない。
だからこそ、今は答えを作らなくていい。
「おやすみ」
「おやすみなさい、ルシル様」
「おやすみなさい」
三人はそれぞれの部屋へ戻った。
その夜、ルシルは夢を見なかった。
白い壁も、四角い何かも、光も現れない。
ただ静かに眠り、翌朝まで一度も目を覚ますことはなかった。
そしてモモの新しい帳面だけが、窓辺の卓上で次の空白を残したまま、フェルナの夜を迎えていた。




