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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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52/99

第52話 農村の朝は早くて、旅人の朝ごはんも少し豪華です

 フェルナの朝は、ルシルが思っていたよりずっと早かった。


 まだ窓の外が青みを帯びている頃から、麦風亭の前を荷車が通っていく。車輪が土の道を転がる低い音に混じって、馬の蹄、誰かが短く交わす挨拶、遠くで鳴く鶏の声まで聞こえてきた。


 目を覚ましたルシルはしばらく寝台の上で天井を眺めていたが、昨夜のような夢の名残がないことを確かめると、ゆっくり身体を起こした。


(何も見なかったな)


 白い壁も、四角い何かも、誰かの手も、一瞬の光もなかった。


 昨夜は一度も目を覚まさず、身体もよく休んでいる。頭痛や目眩はもちろん、魔力に妙な感覚もない。


 だからといって、あの夢がただの夢だったと決められるわけではない。


 反対に、何か重大な意味があるとも決められない。


 今分かっているのは、一度だけ見たということ。それだけだった。


「……うん」


 ルシルは寝台から下りると、軽く伸びをした。


 窓を開ける。


 冷たい朝の空気と一緒に、湿った土と草の匂いが部屋へ流れ込んできた。


 昨日までの南平原とは違う匂いだった。草原では風そのものが広い土地の匂いを運んできたが、フェルナでは畑の土、家畜、薪の煙、朝露を含んだ植物の匂いが近い。


 窓から見える畑では、すでに人が動いていた。


 二人の男が籠を荷車へ積み、その少し先では女性が畝の間を歩いている。


「早いなあ……」


 王城でも朝は早かった。


 だが、それは決められた時刻に起こされ、決められた予定を始めるための朝だった。


 目の前の畑で働く人々は、日が高くなる前に済ませたい仕事があるのだろう。誰かに号令をかけられるわけでもなく、それぞれが当たり前のように動いている。


 ルシルは少しだけ窓辺に立っていたが、やがて廊下から足音が聞こえた。


 扉を開ける。


 ちょうど隣の部屋からシモンが出てきたところだった。


「おはようございます、ルシル様」


「おはよう」


 シモンは身支度を済ませている。


「よく眠れましたか?」


「うん。一回も起きなかった」


 ルシルが答えると、シモンの視線が少しだけ変わった。


「夢は?」


「見てない。少なくとも覚えてない」


「体調は?」


「普通」


「頭痛も?」


「ないって」


「確認です」


 昨日の朝と同じように問い詰められるのかと思ったが、シモンはそこで終わった。


「なら結構です」


「もっと聞くかと思った」


「毎朝同じ質問を十個もされたら、ルシル様も嫌でしょう」


「嫌っていうか、病人になった気分になる」


「ですから、変化がなければ簡単な確認だけにします」


「助かる」


 シモンは必要以上に心配しない。


 だが、忘れているわけでもない。


 その距離感が、今のルシルにはありがたかった。


「モモは?」


「まだ部屋では?」


 言った直後、二人の間にある扉が開いた。


「起きてます」


 モモが顔を出す。


 すでに髪も整えられていたが、右手には昨日買った薄茶色の帳面が握られている。


「おはようございます」


「おはよう」


「朝からそれ持ってるの?」


「昨日の紙をちゃんと留めようと思って」


「今?」


「早く起きたので」


 モモが帳面を開く。


 昨日は仮に挟んだだけだった古い記録紙が、細い布を使って最初の頁へ留められていた。


「もうやったの?」


「はい。針を使うので明るくなってからにしようと思ってたんですけど、窓辺なら見えました」


 シモンが留め方を確認する。


「きれいにできていますね」


「本当ですか?」


「ええ。紙そのものにはほとんど穴を開けていませんし、これなら外すこともできます」


 モモの表情が嬉しそうに緩んだ。


「よかったです」


「昨日の夜に買ったばかりなのに、もう使い込んでる感じするな」


「これからです」


 モモは表紙を撫でた。


「そういえば、ルシル様は夢を見ました?」


「今日はなし」


「本当ですか?」


「うん。朝までぐっすり」


「じゃあ、『変化なし』って書きます?」


 ルシルは少し考えた。


「毎日書くの?」


「……毎日何もなかったって書いてたら、それだけで頁が埋まりますね」


「でしょうね」


 シモンが苦笑する。


「何か変化があった時だけでいいでしょう。夢を見なかった日を全部記録する必要はありません」


「じゃあ書きません」


 モモは帳面を閉じた。


「今日は何を書けるでしょう」


「朝から探すものじゃないだろ」


「探しませんよ。見つかったら書くんです」


「それならいいけど」


「ルシル様こそ、何でも食べようとしないでくださいね」


「なんで記録の話から食べ物になった?」


「昨日、早豆で三回くらい顔に出てたので」


「今日それ禁止だからな」


「昨日禁止したのは昨日だけじゃないんですか?」


「ずっと禁止!」


 廊下にモモの笑い声が響く。


 下の階から、宿の女主人らしい声がした。


「起きてるなら朝飯できてるよー!」


 三人は顔を見合わせた。


「行こう」


「ルシル様、今の返事が一番早かったです」


「朝飯できたって言われたからだよ」


「やっぱり食べ物」


「朝なんだから普通だろ!」


 笑いながら階段を下りると、麦風亭の食堂にはすでに温かな匂いが満ちていた。


     ◇


 朝食の卓を見たルシルは、椅子へ座る前に一度足を止めた。


「……朝から結構あるな」


「農村だからねえ」


 女主人が大きな籠を置く。


「畑へ出る連中は朝を食べないと昼まで持たないよ。旅人だって歩くんだから食べな」


 卓には焼きたての丸パン、卵、薄切りの乳酪、豆と刻んだ野菜を煮たスープ、それから小さな皿に昨日の早豆が並んでいた。


 昨日の夕食で食べたものより少し小粒だ。


「これも早豆?」


「ああ。今朝採ったやつだよ」


「今朝?」


「さっき裏の畑から来た」


 ルシルは思わず豆を見る。


 女主人が笑った。


「そんなに珍しいかい?」


「旅してると、干した豆の方が多いから」


「そりゃ持ち歩くなら干すさ。これは今日明日で食べるもんだからね」


 ルシルは一粒口へ運んだ。


 昨日のものも十分柔らかかったが、今朝の豆はさらに皮が薄く、噛んだ瞬間に瑞々しさがあった。


「違う」


「分かります?」


 モモも食べる。


「あ、本当です。昨日より柔らかいです」


「味も少し青い感じがする」


「青い味って何ですか?」


「なんて言えばいいんだろ。草じゃないけど……新しい感じ?」


「それでは記録に書けませんね」


 シモンがスープを口へ運びながら言った。


「書かなくていいよ!」


 女主人がまた笑う。


「気に入ったなら、広場で売ってるよ。昼までなら今朝採ったのが並んでるはずだ」


「今日の昼用に買えるかな」


「買えるよ。ただ暑い日に何日も持ち歩くもんじゃないから、今日食べる分くらいにしな」


「分かりました」


「もう買うことになってますね」


 シモンが指摘する。


「昼に食べるならいいって昨日言ったじゃん」


「止めてはいません」


「じゃあ買う」


 モモは丸パンを割りながら女主人へ尋ねた。


「この辺って、豆が多いんですか?」


「多いね。麦も作るけど、村の東側は豆畑が多いよ。土が合うんだとさ」


「種類もいくつかあります?」


「あるよ。今食べてるのは早採り用。もっと大きくして乾かすやつもあるし、煮込み向きの硬いのもある」


「同じ豆じゃないんだ」


 ルシルが畑の景色を思い返す。


 昨日は道沿いに豆らしい植物が並んでいたが、どれも同じように見えていた。


「見れば分かります?」


「慣れてりゃね。あんたたちが見ても、葉っぱだけじゃ難しいかもしれない」


「見てみたいです」


 モモが言う。


 女主人は窓の外を指した。


「村の東へ行けば畑だらけだよ。ただし勝手に中へ入っちゃ駄目だ。道から見るだけなら誰も文句は言わない」


「もちろんです」


 シモンが答える。


「今日、村を出るんだろ?」


「その予定です。ただ、少し周囲を見てからと思っています」


「なら南の道へ戻る前に、東の外れまで歩いてみるといい。ぐるっと回っても大した距離じゃない」


「馬車は?」


「宿へ置いときな。昼前までなら構わないよ」


 ルシルとモモの視線がシモンへ向く。


「なぜ僕を見るんです?」


「どうする?」


「僕に決めさせるんですか?」


「三人で決めるけど、時間とか道とか」


 シモンは窓の外を一度見た。


「出発を昼前にするなら問題ないでしょう。今日中に次の宿場へ着く予定ではありませんし、地図上の次の水場までなら十分余裕があります」


「じゃあ見に行こう」


「早豆を買うのも忘れずに」


 モモが付け加える。


「それはルシル様でしょう」


「モモも食べるだろ?」


「食べます」


「ほら」


「何の確認ですか」


 三人は朝食を続けた。


 写真の話は出なかった。


 夢を見なかったことも、それ以上掘り下げない。


 温かいスープを飲み、採れたての豆を食べ、今日どこを歩くか話す。


 それが今朝の三人にとって一番自然だった。


     ◇


 食後、まず厩舎へ向かった。


 トルクとベルクはすでに飼葉を食べており、二頭とも人が来たことに気づくと顔を上げた。


「おはよう」


 ルシルがトルクへ近づく。


 栗毛の馬は鼻先を寄せてきたが、何か食べ物を持っていないと分かると、そのまま首を下げた。


「今、絶対期待しただろ」


「朝ごはんはもう食べていますよ」


 モモがトルクの首を撫でる。


「人の朝ごはんとは別腹なのかもしれません」


「馬に別腹を作らないでください」


 シモンはベルクの脚を簡単に確認する。


 昨日まで何日か旧道を走ってきたが、腫れや熱はない。蹄鉄にも問題はなく、二頭とも休息後の状態としては良好だった。


「今日は昼前まで休ませるんだよな」


「ええ。歩いて村を見るだけですから」


「じゃあゆっくりしててくれ」


 ルシルがトルクの額を撫でる。


「昼からまた頼むな」


 ベルクにも声をかけてから、三人は宿を出た。


 朝の広場は昨日より賑やかだった。


 共同井戸の周囲には籠や木箱が並び、簡単な朝市のようになっている。


 正式な市場ではないのだろう。


 農家が余ったものや、その朝採ったものを持ち寄って売っているらしい。


「昨日はこんなになかったよな」


「時間が遅かったからでしょうね」


 シモンが周囲を見る。


 豆。


 葉物野菜。


 卵。


 小さな乳酪。


 麦粉を詰めた袋。


 乾燥させた香草。


 籠の横には値段を書いた木札が立てられ、売り手同士も話をしながら客を待っている。


「早豆」


 ルシルが見つける。


「本当にすぐ見つけますね」


「今探してたから!」


 豆を売っていたのは、日に焼けた顔の女性だった。


「旅人さんかい?」


「はい。今日の昼に食べる分だけ欲しいんですけど」


「ならこれくらいでいいだろ」


 女性は小さな籠一つ分を示す。


「三人?」


「三人です」


「塩茹でなら十分。火で炙るなら少し余るくらいだね」


「どっちにする?」


 ルシルが振り返る。


「昼なら茹でる方が簡単では?」


 シモンが答える。


「でも昨日、炙ったの美味しかった」


「では半分ずつにすればいいでしょう」


「両方?」


「それくらいの量なら」


「シモン、分かってきたな」


「何をですか」


 女性が二人を見て笑った。


「仲間がしっかりしてるといいねえ」


「そうなんです」


「ルシル様が言うんですか」


 代金を払い、早豆を受け取る。


 モモが隣の籠を見た。


「これは?」


「豆の若葉だよ」


「葉も食べるんですか?」


「柔らかいところだけね。炒めたり、汁に入れたりする」


 モモが興味を示したが、ルシルはすぐには買おうと言わなかった。


 昨日までの食材もまだある。


 新しいものを見つけるたび全部買っていたら、いくら収納魔法があっても使い切れない。


「今日は豆だけにしよう」


 ルシルが言うと、モモが少し驚いた顔をした。


「私もそう思ってました」


「何その反応」


「ルシル様が先に言ったので」


「俺だって考えるよ」


「えらいです」


「子ども扱いしてない?」


「してません」


 シモンが横で笑っている。


「シモンも笑うなよ」


 早豆を宿へ一度預け、三人は村の東側へ歩き始めた。


     ◇


 フェルナの中心部を離れるにつれ、家と家の間隔が広くなった。


 代わりに畑が増える。


 朝の光を受けた葉にはまだ露が残っており、風が通るたびに小さく揺れている。


 畑の間には細い土道が何本も走っていた。


 荷車用の道。


 人が歩く道。


 水を逃がすための溝。


 昨日、馬車から見ていただけでは分からなかった細かな区切りが、歩いていると見えてくる。


「これ、昨日見た豆かな」


 ルシルが道端から畑を見る。


 腰より少し低い植物が、整然と列になっている。


 緑色の鞘がいくつも下がっていた。


「朝食の豆と同じでしょうか」


 モモが少し屈む。


「畑には入らないように」


「分かってます」


 道からでも十分近い。


 鞘の大きさや葉の形が見える。


「昨日の女将さん、葉っぱだけじゃ難しいって言ってたな」


「鞘があれば少し分かりやすいですね」


「記録する?」


 ルシルが聞く。


「まだしません」


 モモは帳面を持ってきていたが、開こうとはしなかった。


「全部書いてたら大変なので」


「お」


「何です?」


「もう選ぶようになった」


「昨日買ったばかりですよ?」


「最初は何でも書きそうだったから」


「失礼ですね」


 モモは頬を少し膨らませたが、すぐに笑った。


「でも、確かに全部は無理です」


 旅をしていれば、知らないものはいくらでもある。


 道端の草。


 畑の作物。


 鳥の声。


 家の形。


 食事。


 全部を書き残そうとしたら、帳面が何冊あっても足りない。


「気になったものだけでいいんじゃない?」


 ルシルが言う。


「そうします」


「写真があれば全部残せるかもしれないのにな」


 口にしてから、ルシルは自分で気づいた。


「あ」


 モモとシモンも足を止める。


 ルシルは畑を見たまま、眉を寄せた。


「今の……また自然に出た」


「そうですね」


 シモンの声は落ち着いている。


「『全部残せる』ですか」


「……うん」


 ルシルは自分の中に浮かんだ感覚を探る。


「たぶん、絵みたいに一個ずつ描かなくても、その時見えてるものをまとめて残せる……気がする」


 モモが帳面へ手をかけた。


「書きます?」


「待って」


 ルシルは畑を見渡す。


 緑の豆畑。


 奥の木柵。


 青い空。


 土道。


 少し離れた場所で作業している農夫。


 風に揺れる葉。


「今ここを……そのまま残せる感じ」


「景色を?」


「景色っていうより、見えてるもの全部」


「一瞬で?」


「たぶん」


 答えながら、ルシル自身も奇妙な感覚を覚えていた。


 考えて思いついたというより、質問されると「そうだった」と分かる。


 けれど、その知識をどこで得たのかだけが完全に抜けている。


(やっぱり変だな)


 怖くはない。


 ただ、知らない知識が自分の中にあるという事実は、何度経験しても不思議だった。


 シモンがルシルの横顔を見る。


「頭痛は?」


「ない」


「他に何か思い出しましたか?」


「何も」


「昨日の夢と今の感覚がつながった感じは?」


 ルシルは目を閉じてみた。


 白い壁。


 四角い何か。


 誰かの手。


 一瞬の光。


 しかし、今見ている豆畑と夢の光景が結びつくことはない。


「分からない」


「なら、分からないままで」


 シモンはそれ以上追わなかった。


 モモが帳面を開く。


「短く書きますね」


『写真――一つずつ描かなくても、その時見えている範囲をまとめて、そのまま残せるものらしい。ルシル様が豆畑を見て自然に発言。身体異常なし。』


「こんな感じです」


「うん」


 モモが炭筆を止める。


「でも、不思議ですね」


「何が?」


「写真が本当にそういうものなら、私の帳面と全然違います」


「そりゃそうじゃない?」


「帳面は、私が何を残すか決めますよね」


「うん」


「写真は?」


 ルシルは返事をしようとして、止まった。


「……撮るものは決める?」


 口から出た。


 三人とも黙る。


 風が豆畑を通り抜け、葉が一斉に揺れた。


「ルシル様」


 シモンの声が少し低くなる。


「今、何と?」


「撮る……」


 ルシルは自分でその言葉を繰り返す。


「写真を、撮る?」


 違和感がない。


 むしろ、それが正しい言い方だと感じる。


「写真は『描く』ではなく、『撮る』んですか?」


 モモが尋ねる。


「たぶん」


「なぜ?」


「分からない」


「『取る』では?」


 シモンが確認する。


「それも分からない。でも……」


 ルシルは眉間へ指を当てる。


 痛みはない。


 ただ、言葉の形を探す。


「物を手に取る感じじゃない。写真を……撮る」


「別の意味の言葉、という感覚ですか」


「うん」


 シモンは数秒考えた。


「記録しましょう。ただし文字は決めない方がいいですね」


「はい」


 モモが先ほどの記述へ追加する。


『写真は「撮る」と表現するらしい。ただし、ルシル様本人も文字・語源・理由は不明。』


「また増えたな」


 ルシルが帳面を見る。


「少しずつですね」


「夢は見なかったのに」


「夢と関係なく増える場合もある、ということですね」


 シモンが言った。


「それも確定ではありませんが」


「確定してないことばっかりだな」


「今はそれでいいでしょう」


「うん」


 ルシルはもう一度豆畑を見る。


 写真を撮る。


 その言葉だけが、妙に自然だった。


 けれど、どうやって撮るのかは分からない。


 道具が必要なのか。


 魔法なのか。


 何かを描くのか。


 昨夜の夢に出てきた四角い何かが関係しているのか。


 そこから先へ進もうとすると、何も浮かばなかった。


「行こうか」


 ルシルが言う。


「はい」


 モモは帳面を閉じた。


 立ち止まっていた時間は、それほど長くない。


 三人は再び農道を歩き始めた。


     ◇


 村の東端には、小さな用水池があった。


 山の池のような自然な形ではなく、土を掘って周囲を固めた四角に近い池だ。


 そこから何本かの細い水路が畑へ伸びている。


「ここは水あるんだ」


「南平原中央部より農業用水を確保しやすいのでしょう」


 シモンが水路を見る。


 池の脇では、一人の老人が木製の板を動かしていた。


 三人が近くを通ると、老人が顔を上げる。


「旅の人か?」


「はい。道から見せてもらってます」


「畑へ入らなきゃ好きに見ていいぞ」


「これ、池から水を分けてるんですか?」


 ルシルが尋ねる。


「ああ。今日は東の豆畑へ流す日だ」


 老人が動かしていた板は、水路の入口を塞ぐ小さな水門だった。


「毎日違う?」


「畑ごとに順番がある。好き勝手流したら下の畑まで届かんからな」


 ルシルはセイラの分水場を思い出した。


 規模も形も違う。


 こちらには石造りの受け場も木樋もない。


 だが、水を必要な場所へ順番に分けるという考え方は似ていた。


「町によって全然作り方違うんだな」


「そりゃ土地が違うからな」


 老人は当たり前のように答えた。


「ここで山の町みたいな水路を作っても仕方ないし、山でここの池を真似しても水が逃げるだけだ」


「山の町を知ってるんですか?」


「若い頃に荷運びで行ったことがある。どこの町だったかまでは忘れたがな」


 老人は笑った。


「水は水だが、扱い方は土地ごとに違うもんだ」


 その言葉を聞き、ルシルは池から伸びる水路を見た。


 旅をしていると、同じものを何度も見る。


 水。


 畑。


 道。


 馬。


 食事。


 宿。


 けれど、同じ形ではない。


 それを比べるのも面白かった。


「ありがとうございます」


「おう。南へ行くなら気をつけてな」


「何かあるんですか?」


 シモンがすぐ確認する。


「危ないって意味じゃない。ここから先、林が増えるから道が乾きにくいところがある。雨が降った翌日は車輪が取られる場所もあるんだ」


「最近は?」


「昨日も一昨日も晴れだ。今日は平気だろう」


「橋や崩れは?」


「この辺じゃ聞いてないな」


「助かります」


 シモンは地図を取り出し、簡単に場所を確認した。


「次の水場までは?」


「南へ半日もかからん。石の道標があるから見落とさんよ。その先は林の中に古い休憩小屋があるが……」


 老人が少し考える。


「屋根はある。壁は半分くらいない」


「小屋?」


「昔の荷運び用だ。今も旅人が使う。泊まるなら使えるが、立派な宿だと思うなよ」


「馬を休ませる場所は?」


「横に繋げる。水は近くの沢。ただ、飲ませるなら上流側で汲め」


 シモンが頷く。


「ありがとうございます」


 新しい情報を得たが、そこで今夜の宿泊地を決めることはしなかった。


 昼前に出れば、進み方次第で休憩小屋へ着く可能性はある。


 だが、道の状態や二頭の様子を見て決めればいい。


 三人は老人へ礼を言い、村の中心へ戻る道を歩き始めた。


     ◇


 麦風亭へ戻る途中、モモが急に立ち止まった。


「どうした?」


「あれ」


 指差した先に、小さな木が一本立っている。


 家の庭先。


 枝には白い花がいくつも咲いていた。


「花?」


「はい。でも、前に見たのとは違います」


 ルシルも見る。


 セイラ近くの小滝へ向かう道で見た白い花とは、花弁の形も葉も違う。


「果物の木かな」


「どうでしょう」


 家の前にいた女性が、三人の視線に気づいた。


「花が珍しい?」


「すみません。勝手に見て」


「見るくらい構わないよ」


「何の木ですか?」


「白蜜梨」


「梨?」


 ルシルは聞き慣れない名を繰り返す。


「夏の終わりに実がなるよ。小さいけど甘い」


「食べられるんですね」


「うちじゃ煮て保存する方が多いけどね」


 モモは帳面へ手を伸ばしかけ、止めた。


 ルシルが気づく。


「書かないの?」


「……実を見てからにします」


「夏の終わりだぞ」


「じゃあ、どこかで実を見たら」


 女性が笑った。


「旅人なら南でも見るかもしれないよ。ここの木だけじゃないから」


「覚えておきます」


 モモは帳面を開かなかった。


 それでも白蜜梨という名前は、三人の頭に残った。


 旅の全部を書かなくてもいい。


 忘れたなら、それはそれでいい。


 もう一度出会った時に思い出せれば、それも旅の楽しみになる。


     ◇


 麦風亭へ戻ると、昼前だった。


 預けていた早豆を受け取り、荷物を馬車へ積む。


 女主人が表へ出てきた。


「もう行くのかい?」


「はい。お世話になりました」


「南へ?」


「その予定です」


「なら今日は天気もいい。林へ入ると少し涼しくなるから、上着をすぐ出せるところに置いときな」


「分かりました」


「また通ることがあったら寄りな」


「早豆の時期に?」


 ルシルが言うと、女主人が笑った。


「豆がなくても飯はあるよ」


「それもそうだ」


 トルクとベルクを馬車へ繋ぐ。


 二頭とも十分休めた。


 最初の御者はルシル。


 フェルナの道は平坦で、村を出た後もしばらく農地が続くため、走り出しとしては難しくない。


「忘れ物ない?」


「ありません」


「帳面」


「持ってます」


「早豆」


「積みました」


「それ、ルシル様が一番心配していたのでは?」


「食料だから大事だろ」


「はいはい」


「モモ、その返事シモンみたい」


「えっ」


「僕を何だと思っているんですか」


 三人が笑う。


 馬車が動き始めた。


 広場を抜ける。


 昨日買い物をしたハル爺の雑貨店の前を通ると、老人が軒先で桶を並べていた。


「おーい!」


 ルシルが手を上げる。


 老人も片手を上げた。


 村の南側へ向かう。


 やがて石柱が見えてきた。


 振り返れば、麦風亭の屋根も、井戸の広場も、少しずつ遠くなっていく。


「短かったですね」


 モモが御者台の隣で言う。


「一泊だからな」


「でも帳面買えました」


「豆も」


「お風呂も」


「結局、昨日言ってた三つ全部やったな」


「本当ですね」


 シモンが車内から顔を出す。


「目的を達成するために滞在したわけではありませんけどね」


「結果的に全部できた」


「それで十分です」


 フェルナを出る。


 しばらくは畑の間を走る道だった。


 午前の光が広がり、農作業をする人たちの姿が見える。


 道端には昨日までより高い草が増えていた。


 やがて畑が途切れ始める。


 代わりに木が増える。


「本当に林になってきた」


 ルシルが前を見る。


 南平原を走っていた時には、ずっと先まで見渡せることが多かった。


 今は街道の両側に木々が並び、その向こう側が見えない場所も増えている。


 頭上では枝が近づき、日差しが細かく途切れた。


 風の音も変わった。


 広い草原を渡る低い風ではなく、葉を揺らして頭上を通り抜ける音になる。


「少し涼しいです」


 モモが外套の前を整える。


「女将さんの言った通りだな」


「路面も確認してください」


 シモンが後ろから言う。


「分かってる」


 土はまだ乾いている。


 ところどころ木の根が近くまで伸びているが、車輪を取られるほどではない。


 ルシルは速度を少し落とし、木陰の道へ馬車を進めた。


     ◇


 昼食場所を探し始めた頃、石の道標が見えた。


「あれかな」


 街道脇に、腰ほどの高さの石柱が立っている。


 苔が少し付いているが、文字は読めた。


『南道 水場 東へ百二十歩』


「水場」


「昼にちょうどいいですね」


 道標の横には、馬車一台が通れる程度の脇道がある。


 シモンが一度下りて路面を確認した。


「入れます。戻る場所もありそうです」


「じゃあ行こう」


 脇道を進む。


 百二十歩という表示は人が歩いた場合の距離らしく、馬車ならすぐだった。


 木々の間が少し開け、小さな石組みの水場が現れる。


 湧水を木樋へ流し、下の石槽へ落としている。


 先客はいない。


「ここで昼にしよう」


 馬車を平らな場所へ止める。


 トルクとベルクを休ませ、三人も木陰へ入った。


「早豆」


 ルシルが荷物から出す。


「本当に嬉しそうですね」


「今日食べるために買ったんだから」


 小鍋へ水を入れ、半分を塩茹でにする。


 残りは串を使わず、薄い金網の上へ鞘ごと並べて炙った。


 火が入るにつれ、青い豆の匂いと焦げた鞘の香りが広がる。


「村で食べたばかりなのに」


 モモが言いながら炙った豆を見る。


「場所が変われば違う」


「味は同じでは?」


「外で食べると違う」


「それは分かります」


 シモンがパンを切り分ける。


「結局二人とも楽しみにしているでしょう」


「シモン君もですよね?」


「もちろん食べますよ」


 昼食は早豆、パン、乳酪、少量の保存肉。


 豪華ではない。


 それでも、今朝フェルナで採れた豆を、村を出た日の昼に食べるというだけで妙に楽しかった。


「やっぱり炙った方が好き」


 ルシルが言う。


「私は今日も塩茹でです」


「シモンは?」


「昨日と同じです」


「両方?」


「両方」


「絶対決める気ないだろ」


「優劣をつける必要がありますか?」


「ないけどさ」


 三人で笑う。


 水場の周囲では、小さな虫が光の中を飛んでいる。


 鳥の声も聞こえたが、姿は見えない。


 モモは帳面を取り出さなかった。


 代わりに、木々の間から落ちる光をぼんやり眺めている。


「どうした?」


「写真って、こういうのも撮れるんでしょうか」


 ルシルの手が止まった。


 モモが指差したのは、木漏れ日だった。


 葉が風で揺れるたび、地面に落ちた光の形が変わっている。


「……どうだろ」


 ルシルは眺める。


 今朝の豆畑を見た時には、「その時見えているものをまとめて残せる」という感覚が自然に浮かんだ。


 なら、この光も。


「たぶん、撮れると思う」


「動いてるのに?」


「撮った瞬間の形になる……?」


 また言葉が出た。


 ルシルは自分で驚き、口を閉じる。


 モモもシモンも黙った。


 木漏れ日だけが、風に合わせて地面を揺れている。


「瞬間」


 シモンが静かに確認する。


「はい」


 ルシルは自分の中を探った。


「動いてるものでも、写真にしたら……その瞬間だけ止まったみたいになる気がする」


「空走鳥でも?」


 モモが尋ねた。


「たぶん」


「走ってるのに?」


「走ってる途中の形で残る……と思う」


「黒耳野兎も?」


「うん」


「羊も?」


「羊は別に例に出さなくてよくない?」


「分かりやすいので」


 ルシルは苦笑した。


「でも、そうだと思う」


 シモンが考え込む。


「絵なら、動いているものを正確に一瞬で描くのは難しい」


「そうですね」


「写真というものは、それが可能?」


「……たぶん」


 ルシルの返事は、何度目か分からない「たぶん」だった。


 それ以上は出てこない。


 どうやって一瞬を止めるのか。


 なぜ残せるのか。


 何に残るのか。


 全く分からない。


「記録します?」


 モモが聞く。


「しておこう」


 今度はルシルから答えた。


 モモが帳面を開く。


『写真――動いているものでも、撮った瞬間の姿を止めたように残せるらしい。木漏れ日を見てルシル様が自然に認識。仕組みは不明。』


 少し考え、モモがその下に小さく書き足す。


『空走鳥でもできるかもしれない。』


「それ必要?」


「いつか試したくなりません?」


「写真そのものがないのに?」


「だから、いつかです」


 モモは楽しそうに帳面を閉じた。


 シモンも止めなかった。


「もし写真というものの正体が分かった時に、確認項目にはなりますね」


「シモンまで」


「記録とはそういうものでしょう」


「……まあいいか」


 ルシルは残っていた早豆を一粒食べた。


 今日だけで、写真について二つ新しい感覚が増えた。


 見えている範囲をまとめて残せる。


 写真は「撮る」。


 動いているものでも、その瞬間の姿を残せる。


 昨夜は夢を見なかったのに、言葉の輪郭だけが少しずつはっきりしている。


(何なんだろうな、本当に)


 疑問は消えない。


 けれど、今すぐ答えが必要だという焦りもなかった。


 分かったことは帳面に残った。


 身体に異常もない。


 なら、今日はまだ旅を続けられる。


     ◇


 昼食後、火を完全に消してから街道へ戻った。


 午後の御者はモモが担当する。


 林の道は平坦だが、木の根が路肩近くへ出ている場所があり、モモは中央寄りを保ちながら慎重に進んだ。


「このくらいなら大丈夫です」


「無理に端へ寄らなくていいですよ」


 シモンが隣から路面を見ている。


 ルシルは車内から反対側を確認していた。


 昨日までの草原では遠くを見ることが多かったが、林では近くの景色が次々と変わる。


 苔の付いた倒木。


 細い沢。


 低い白花。


 赤茶色の樹皮を持つ木。


 木の上を走る小動物の影。


「あ、何かいた」


「どこです?」


「もういない」


「何でした?」


「分からない。尻尾長かった」


「帳面?」


「見えてないから書かなくていいんじゃない?」


「そうですね」


 モモは前を見たまま笑った。


 何でも追わない。


 何でも止まらない。


 見えたものの一部は、そのまま後ろへ流れていく。


 それでも十分だった。


 午後の光が傾き始めた頃、道の左側から水音が聞こえるようになった。


「沢かな」


「おそらく」


 地図と今朝の老人の話が一致している。


 この先に古い休憩小屋があるはずだ。


 ただ、まだ日没までは時間がある。


「小屋まで行ってみます?」


 モモが尋ねる。


「見てから決めよう」


 ルシルが答えた。


「使いやすければ今日はそこ。微妙なら、まだ明るいうちに別の場所探せるし」


「そうですね」


 シモンも同意する。


 しばらく進むと、林の中に開けた場所が見えた。


 そして、その端に古い木造の屋根がある。


「……あれだな」


 老人が「壁は半分くらいない」と言っていた意味が分かった。


 建物というより、大きな屋根付き休憩所に近い。


 三方のうち一方だけにしっかりした板壁があり、もう一方は腰ほどまで、残る側はほとんど開いている。


 だが屋根は丈夫そうで、傾きもない。


 横には馬を繋ぐための太い横木。


 少し離れた場所には石囲いの火床。


 沢へ下りる踏み跡も見える。


「思ったよりいい」


 ルシルが言う。


「雨風を完全に防ぐ場所ではありませんが、今日は天気も安定しています」


「先客はいませんね」


 モモが周囲を見る。


「ここにする?」


 三人はすぐには決めず、まず馬車を止めた。


 シモンが小屋の床や屋根を確認する。


 ルシルとモモは沢まで歩き、水の状態と上流側を見た。


 水は澄んでいる。


 周辺に大型動物の新しい痕跡も見当たらない。


 戻ってくると、シモンも確認を終えていた。


「使えそうです。床の一部は傷んでいますが、寝る場所には問題ありません」


「じゃあ今日はここ」


「はい」


 トルクとベルクを休ませ、馬車を平らな場所へ移動する。


 昨日は木々に囲まれた休憩地。


 今日は古い屋根付きの休憩小屋。


 似ているようで、空気は全く違った。


 周囲を林が囲み、沢の音が絶えず聞こえる。


 風は木々の上を通るため、地面近くは静かだった。


「天幕張る?」


 ルシルが尋ねる。


「小屋の床を使えるなら、今日は必要ないでしょう」


 シモンが答える。


「雨の可能性も低いですし、三人分の寝具を置けます」


「屋根の下で寝るんですね」


 モモが小屋へ入る。


「壁がないから外みたいだけど」


「でも天幕より広いです」


 荷物を運び込み、寝る場所を決める。


 完全な宿ではない。


 だが野営より少しだけ楽ができる。


「こういう場所もいいな」


 ルシルが柱へ手を当てる。


 木は古く、表面が滑らかになっていた。


 長い間、何人もの旅人がここを使ってきたのだろう。


 柱の一部には小さな傷がいくつもある。


「文字?」


 モモが覗き込む。


「違うと思う」


 名前らしきものもあれば、ただ削れただけのものもある。


「新しく刻まないでくださいね」


 シモンが先回りする。


「しないよ」


「ルシル様なら『旅の記念』と言い出す可能性が」


「言わないって」


「私はちょっと思いました」


「モモ!?」


「でもしません」


「よかった」


 三人の声が古い屋根の下に響く。


     ◇


 夕食は簡単なものにした。


 昼に早豆を食べたため、夜は保存肉と豆のスープ、パン、それから高原赤実を少し。


「結局また豆ですね」


 モモが鍋を見る。


「こっちは乾燥豆だから別」


「同じ豆です」


「種類違うし」


「今日は豆の日ですね」


「フェルナ出た日だからいいだろ」


 シモンが火を調整しながら口を挟む。


「明日は別のものにしましょう」


「賛成」


「私もです」


 食後、モモが帳面を取り出した。


 今日だけでも書くことが増えている。


「豆畑で写真のこと」


「木漏れ日でも」


「白蜜梨は?」


「まだ書きません」


「休憩小屋は?」


「どうしましょう」


 モモは小屋の中を見回す。


 古い柱。


 広い屋根。


 沢の音。


 火の明かり。


「……書きます」


「何て?」


「『林の古い休憩小屋。壁は少ないけれど屋根は丈夫。沢が近い』」


「普通だな」


「普通でいいんです」


 モモはそう言って書いた。


 ルシルは横から見ていたが、その言葉に少し笑った。


「そうだな」


「何です?」


「いや。普通でいいなって」


 帳面には、写真の謎だけが書かれているわけではない。


 食べた豆。


 見た鳥。


 泊まった場所。


 分からなかった花。


 旅の途中で気になったこと。


 その中に、写真という妙な言葉も混ざっている。


 それが三人には合っている気がした。


     ◇


 夜が深くなる。


 火を小さくし、寝る準備を終えた。


 沢の音は暗くなっても変わらない。


 林の向こうでは、ときどき夜鳥の声が聞こえた。


 ルシルは毛布へ入る前に、小屋の外へ出た。


 木々の間から空を見る。


 草原ほど広くはない。


 枝に切り取られた狭い夜空。


 それでも星はいくつか見えた。


「ルシル様?」


 後ろからモモの声がする。


「まだ寝ないんですか?」


「もう寝る」


「何見てたんです?」


「空」


 モモも横へ来る。


「草原と全然違いますね」


「うん」


 写真があれば。


 そんな言葉が頭に浮かびそうになった。


 だが、今度は口にしなかった。


 写真がなくても、見ていることはできる。


 覚えていられるかもしれないし、忘れるかもしれない。


 忘れたとしても、旅がなくなるわけではない。


「寒くなる前に戻りましょう」


「そうだな」


 二人が小屋へ戻る。


 シモンはすでに自分の寝具へ入っていた。


「夜更かしはほどほどにしてください」


「ちょっと空見てただけ」


「なら結構です」


「おやすみ、シモン」


「おやすみなさい、ルシル様」


「おやすみなさい、シモン君」


「おやすみなさい、モモ嬢」


「……まだ嬢です」


「今そこをやります?」


「今日はやりません」


「今日は、なんですね」


 ルシルが笑いを堪えながら毛布へ入る。


 火の明かりが古い柱を照らしている。


 やがてモモも横になり、会話が途切れた。


 沢の音だけが残る。


 ルシルは目を閉じた。


 今朝は夢を見なかった。


 昼間には、写真について知らなかったはずの言葉がまた増えた。


 写真を撮る。


 見えているものをまとめて残す。


 動いているものも、その瞬間の姿で残せる。


(四角い何かが、それに関係してるのかな)


 昨夜の夢を思い出す。


 白い壁。


 四角い何か。


 誰かの手。


 一瞬の光。


 けれど、それ以上を無理に考えるのはやめた。


(また何か分かったら、その時でいいか)


 そう考え、呼吸を整える。


 ほどなく眠気が訪れた。


 その夜。


 白い壁は現れなかった。


 一瞬の光もなかった。


 代わりにルシルは、どこか遠くで水が流れるような音を聞いた気がした。


 だが、それが夢だったのか、すぐそばを流れる沢の音だったのか。


 朝になった時には、もう区別がつかなかった。

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