第52話 農村の朝は早くて、旅人の朝ごはんも少し豪華です
フェルナの朝は、ルシルが思っていたよりずっと早かった。
まだ窓の外が青みを帯びている頃から、麦風亭の前を荷車が通っていく。車輪が土の道を転がる低い音に混じって、馬の蹄、誰かが短く交わす挨拶、遠くで鳴く鶏の声まで聞こえてきた。
目を覚ましたルシルはしばらく寝台の上で天井を眺めていたが、昨夜のような夢の名残がないことを確かめると、ゆっくり身体を起こした。
(何も見なかったな)
白い壁も、四角い何かも、誰かの手も、一瞬の光もなかった。
昨夜は一度も目を覚まさず、身体もよく休んでいる。頭痛や目眩はもちろん、魔力に妙な感覚もない。
だからといって、あの夢がただの夢だったと決められるわけではない。
反対に、何か重大な意味があるとも決められない。
今分かっているのは、一度だけ見たということ。それだけだった。
「……うん」
ルシルは寝台から下りると、軽く伸びをした。
窓を開ける。
冷たい朝の空気と一緒に、湿った土と草の匂いが部屋へ流れ込んできた。
昨日までの南平原とは違う匂いだった。草原では風そのものが広い土地の匂いを運んできたが、フェルナでは畑の土、家畜、薪の煙、朝露を含んだ植物の匂いが近い。
窓から見える畑では、すでに人が動いていた。
二人の男が籠を荷車へ積み、その少し先では女性が畝の間を歩いている。
「早いなあ……」
王城でも朝は早かった。
だが、それは決められた時刻に起こされ、決められた予定を始めるための朝だった。
目の前の畑で働く人々は、日が高くなる前に済ませたい仕事があるのだろう。誰かに号令をかけられるわけでもなく、それぞれが当たり前のように動いている。
ルシルは少しだけ窓辺に立っていたが、やがて廊下から足音が聞こえた。
扉を開ける。
ちょうど隣の部屋からシモンが出てきたところだった。
「おはようございます、ルシル様」
「おはよう」
シモンは身支度を済ませている。
「よく眠れましたか?」
「うん。一回も起きなかった」
ルシルが答えると、シモンの視線が少しだけ変わった。
「夢は?」
「見てない。少なくとも覚えてない」
「体調は?」
「普通」
「頭痛も?」
「ないって」
「確認です」
昨日の朝と同じように問い詰められるのかと思ったが、シモンはそこで終わった。
「なら結構です」
「もっと聞くかと思った」
「毎朝同じ質問を十個もされたら、ルシル様も嫌でしょう」
「嫌っていうか、病人になった気分になる」
「ですから、変化がなければ簡単な確認だけにします」
「助かる」
シモンは必要以上に心配しない。
だが、忘れているわけでもない。
その距離感が、今のルシルにはありがたかった。
「モモは?」
「まだ部屋では?」
言った直後、二人の間にある扉が開いた。
「起きてます」
モモが顔を出す。
すでに髪も整えられていたが、右手には昨日買った薄茶色の帳面が握られている。
「おはようございます」
「おはよう」
「朝からそれ持ってるの?」
「昨日の紙をちゃんと留めようと思って」
「今?」
「早く起きたので」
モモが帳面を開く。
昨日は仮に挟んだだけだった古い記録紙が、細い布を使って最初の頁へ留められていた。
「もうやったの?」
「はい。針を使うので明るくなってからにしようと思ってたんですけど、窓辺なら見えました」
シモンが留め方を確認する。
「きれいにできていますね」
「本当ですか?」
「ええ。紙そのものにはほとんど穴を開けていませんし、これなら外すこともできます」
モモの表情が嬉しそうに緩んだ。
「よかったです」
「昨日の夜に買ったばかりなのに、もう使い込んでる感じするな」
「これからです」
モモは表紙を撫でた。
「そういえば、ルシル様は夢を見ました?」
「今日はなし」
「本当ですか?」
「うん。朝までぐっすり」
「じゃあ、『変化なし』って書きます?」
ルシルは少し考えた。
「毎日書くの?」
「……毎日何もなかったって書いてたら、それだけで頁が埋まりますね」
「でしょうね」
シモンが苦笑する。
「何か変化があった時だけでいいでしょう。夢を見なかった日を全部記録する必要はありません」
「じゃあ書きません」
モモは帳面を閉じた。
「今日は何を書けるでしょう」
「朝から探すものじゃないだろ」
「探しませんよ。見つかったら書くんです」
「それならいいけど」
「ルシル様こそ、何でも食べようとしないでくださいね」
「なんで記録の話から食べ物になった?」
「昨日、早豆で三回くらい顔に出てたので」
「今日それ禁止だからな」
「昨日禁止したのは昨日だけじゃないんですか?」
「ずっと禁止!」
廊下にモモの笑い声が響く。
下の階から、宿の女主人らしい声がした。
「起きてるなら朝飯できてるよー!」
三人は顔を見合わせた。
「行こう」
「ルシル様、今の返事が一番早かったです」
「朝飯できたって言われたからだよ」
「やっぱり食べ物」
「朝なんだから普通だろ!」
笑いながら階段を下りると、麦風亭の食堂にはすでに温かな匂いが満ちていた。
◇
朝食の卓を見たルシルは、椅子へ座る前に一度足を止めた。
「……朝から結構あるな」
「農村だからねえ」
女主人が大きな籠を置く。
「畑へ出る連中は朝を食べないと昼まで持たないよ。旅人だって歩くんだから食べな」
卓には焼きたての丸パン、卵、薄切りの乳酪、豆と刻んだ野菜を煮たスープ、それから小さな皿に昨日の早豆が並んでいた。
昨日の夕食で食べたものより少し小粒だ。
「これも早豆?」
「ああ。今朝採ったやつだよ」
「今朝?」
「さっき裏の畑から来た」
ルシルは思わず豆を見る。
女主人が笑った。
「そんなに珍しいかい?」
「旅してると、干した豆の方が多いから」
「そりゃ持ち歩くなら干すさ。これは今日明日で食べるもんだからね」
ルシルは一粒口へ運んだ。
昨日のものも十分柔らかかったが、今朝の豆はさらに皮が薄く、噛んだ瞬間に瑞々しさがあった。
「違う」
「分かります?」
モモも食べる。
「あ、本当です。昨日より柔らかいです」
「味も少し青い感じがする」
「青い味って何ですか?」
「なんて言えばいいんだろ。草じゃないけど……新しい感じ?」
「それでは記録に書けませんね」
シモンがスープを口へ運びながら言った。
「書かなくていいよ!」
女主人がまた笑う。
「気に入ったなら、広場で売ってるよ。昼までなら今朝採ったのが並んでるはずだ」
「今日の昼用に買えるかな」
「買えるよ。ただ暑い日に何日も持ち歩くもんじゃないから、今日食べる分くらいにしな」
「分かりました」
「もう買うことになってますね」
シモンが指摘する。
「昼に食べるならいいって昨日言ったじゃん」
「止めてはいません」
「じゃあ買う」
モモは丸パンを割りながら女主人へ尋ねた。
「この辺って、豆が多いんですか?」
「多いね。麦も作るけど、村の東側は豆畑が多いよ。土が合うんだとさ」
「種類もいくつかあります?」
「あるよ。今食べてるのは早採り用。もっと大きくして乾かすやつもあるし、煮込み向きの硬いのもある」
「同じ豆じゃないんだ」
ルシルが畑の景色を思い返す。
昨日は道沿いに豆らしい植物が並んでいたが、どれも同じように見えていた。
「見れば分かります?」
「慣れてりゃね。あんたたちが見ても、葉っぱだけじゃ難しいかもしれない」
「見てみたいです」
モモが言う。
女主人は窓の外を指した。
「村の東へ行けば畑だらけだよ。ただし勝手に中へ入っちゃ駄目だ。道から見るだけなら誰も文句は言わない」
「もちろんです」
シモンが答える。
「今日、村を出るんだろ?」
「その予定です。ただ、少し周囲を見てからと思っています」
「なら南の道へ戻る前に、東の外れまで歩いてみるといい。ぐるっと回っても大した距離じゃない」
「馬車は?」
「宿へ置いときな。昼前までなら構わないよ」
ルシルとモモの視線がシモンへ向く。
「なぜ僕を見るんです?」
「どうする?」
「僕に決めさせるんですか?」
「三人で決めるけど、時間とか道とか」
シモンは窓の外を一度見た。
「出発を昼前にするなら問題ないでしょう。今日中に次の宿場へ着く予定ではありませんし、地図上の次の水場までなら十分余裕があります」
「じゃあ見に行こう」
「早豆を買うのも忘れずに」
モモが付け加える。
「それはルシル様でしょう」
「モモも食べるだろ?」
「食べます」
「ほら」
「何の確認ですか」
三人は朝食を続けた。
写真の話は出なかった。
夢を見なかったことも、それ以上掘り下げない。
温かいスープを飲み、採れたての豆を食べ、今日どこを歩くか話す。
それが今朝の三人にとって一番自然だった。
◇
食後、まず厩舎へ向かった。
トルクとベルクはすでに飼葉を食べており、二頭とも人が来たことに気づくと顔を上げた。
「おはよう」
ルシルがトルクへ近づく。
栗毛の馬は鼻先を寄せてきたが、何か食べ物を持っていないと分かると、そのまま首を下げた。
「今、絶対期待しただろ」
「朝ごはんはもう食べていますよ」
モモがトルクの首を撫でる。
「人の朝ごはんとは別腹なのかもしれません」
「馬に別腹を作らないでください」
シモンはベルクの脚を簡単に確認する。
昨日まで何日か旧道を走ってきたが、腫れや熱はない。蹄鉄にも問題はなく、二頭とも休息後の状態としては良好だった。
「今日は昼前まで休ませるんだよな」
「ええ。歩いて村を見るだけですから」
「じゃあゆっくりしててくれ」
ルシルがトルクの額を撫でる。
「昼からまた頼むな」
ベルクにも声をかけてから、三人は宿を出た。
朝の広場は昨日より賑やかだった。
共同井戸の周囲には籠や木箱が並び、簡単な朝市のようになっている。
正式な市場ではないのだろう。
農家が余ったものや、その朝採ったものを持ち寄って売っているらしい。
「昨日はこんなになかったよな」
「時間が遅かったからでしょうね」
シモンが周囲を見る。
豆。
葉物野菜。
卵。
小さな乳酪。
麦粉を詰めた袋。
乾燥させた香草。
籠の横には値段を書いた木札が立てられ、売り手同士も話をしながら客を待っている。
「早豆」
ルシルが見つける。
「本当にすぐ見つけますね」
「今探してたから!」
豆を売っていたのは、日に焼けた顔の女性だった。
「旅人さんかい?」
「はい。今日の昼に食べる分だけ欲しいんですけど」
「ならこれくらいでいいだろ」
女性は小さな籠一つ分を示す。
「三人?」
「三人です」
「塩茹でなら十分。火で炙るなら少し余るくらいだね」
「どっちにする?」
ルシルが振り返る。
「昼なら茹でる方が簡単では?」
シモンが答える。
「でも昨日、炙ったの美味しかった」
「では半分ずつにすればいいでしょう」
「両方?」
「それくらいの量なら」
「シモン、分かってきたな」
「何をですか」
女性が二人を見て笑った。
「仲間がしっかりしてるといいねえ」
「そうなんです」
「ルシル様が言うんですか」
代金を払い、早豆を受け取る。
モモが隣の籠を見た。
「これは?」
「豆の若葉だよ」
「葉も食べるんですか?」
「柔らかいところだけね。炒めたり、汁に入れたりする」
モモが興味を示したが、ルシルはすぐには買おうと言わなかった。
昨日までの食材もまだある。
新しいものを見つけるたび全部買っていたら、いくら収納魔法があっても使い切れない。
「今日は豆だけにしよう」
ルシルが言うと、モモが少し驚いた顔をした。
「私もそう思ってました」
「何その反応」
「ルシル様が先に言ったので」
「俺だって考えるよ」
「えらいです」
「子ども扱いしてない?」
「してません」
シモンが横で笑っている。
「シモンも笑うなよ」
早豆を宿へ一度預け、三人は村の東側へ歩き始めた。
◇
フェルナの中心部を離れるにつれ、家と家の間隔が広くなった。
代わりに畑が増える。
朝の光を受けた葉にはまだ露が残っており、風が通るたびに小さく揺れている。
畑の間には細い土道が何本も走っていた。
荷車用の道。
人が歩く道。
水を逃がすための溝。
昨日、馬車から見ていただけでは分からなかった細かな区切りが、歩いていると見えてくる。
「これ、昨日見た豆かな」
ルシルが道端から畑を見る。
腰より少し低い植物が、整然と列になっている。
緑色の鞘がいくつも下がっていた。
「朝食の豆と同じでしょうか」
モモが少し屈む。
「畑には入らないように」
「分かってます」
道からでも十分近い。
鞘の大きさや葉の形が見える。
「昨日の女将さん、葉っぱだけじゃ難しいって言ってたな」
「鞘があれば少し分かりやすいですね」
「記録する?」
ルシルが聞く。
「まだしません」
モモは帳面を持ってきていたが、開こうとはしなかった。
「全部書いてたら大変なので」
「お」
「何です?」
「もう選ぶようになった」
「昨日買ったばかりですよ?」
「最初は何でも書きそうだったから」
「失礼ですね」
モモは頬を少し膨らませたが、すぐに笑った。
「でも、確かに全部は無理です」
旅をしていれば、知らないものはいくらでもある。
道端の草。
畑の作物。
鳥の声。
家の形。
食事。
全部を書き残そうとしたら、帳面が何冊あっても足りない。
「気になったものだけでいいんじゃない?」
ルシルが言う。
「そうします」
「写真があれば全部残せるかもしれないのにな」
口にしてから、ルシルは自分で気づいた。
「あ」
モモとシモンも足を止める。
ルシルは畑を見たまま、眉を寄せた。
「今の……また自然に出た」
「そうですね」
シモンの声は落ち着いている。
「『全部残せる』ですか」
「……うん」
ルシルは自分の中に浮かんだ感覚を探る。
「たぶん、絵みたいに一個ずつ描かなくても、その時見えてるものをまとめて残せる……気がする」
モモが帳面へ手をかけた。
「書きます?」
「待って」
ルシルは畑を見渡す。
緑の豆畑。
奥の木柵。
青い空。
土道。
少し離れた場所で作業している農夫。
風に揺れる葉。
「今ここを……そのまま残せる感じ」
「景色を?」
「景色っていうより、見えてるもの全部」
「一瞬で?」
「たぶん」
答えながら、ルシル自身も奇妙な感覚を覚えていた。
考えて思いついたというより、質問されると「そうだった」と分かる。
けれど、その知識をどこで得たのかだけが完全に抜けている。
(やっぱり変だな)
怖くはない。
ただ、知らない知識が自分の中にあるという事実は、何度経験しても不思議だった。
シモンがルシルの横顔を見る。
「頭痛は?」
「ない」
「他に何か思い出しましたか?」
「何も」
「昨日の夢と今の感覚がつながった感じは?」
ルシルは目を閉じてみた。
白い壁。
四角い何か。
誰かの手。
一瞬の光。
しかし、今見ている豆畑と夢の光景が結びつくことはない。
「分からない」
「なら、分からないままで」
シモンはそれ以上追わなかった。
モモが帳面を開く。
「短く書きますね」
『写真――一つずつ描かなくても、その時見えている範囲をまとめて、そのまま残せるものらしい。ルシル様が豆畑を見て自然に発言。身体異常なし。』
「こんな感じです」
「うん」
モモが炭筆を止める。
「でも、不思議ですね」
「何が?」
「写真が本当にそういうものなら、私の帳面と全然違います」
「そりゃそうじゃない?」
「帳面は、私が何を残すか決めますよね」
「うん」
「写真は?」
ルシルは返事をしようとして、止まった。
「……撮るものは決める?」
口から出た。
三人とも黙る。
風が豆畑を通り抜け、葉が一斉に揺れた。
「ルシル様」
シモンの声が少し低くなる。
「今、何と?」
「撮る……」
ルシルは自分でその言葉を繰り返す。
「写真を、撮る?」
違和感がない。
むしろ、それが正しい言い方だと感じる。
「写真は『描く』ではなく、『撮る』んですか?」
モモが尋ねる。
「たぶん」
「なぜ?」
「分からない」
「『取る』では?」
シモンが確認する。
「それも分からない。でも……」
ルシルは眉間へ指を当てる。
痛みはない。
ただ、言葉の形を探す。
「物を手に取る感じじゃない。写真を……撮る」
「別の意味の言葉、という感覚ですか」
「うん」
シモンは数秒考えた。
「記録しましょう。ただし文字は決めない方がいいですね」
「はい」
モモが先ほどの記述へ追加する。
『写真は「撮る」と表現するらしい。ただし、ルシル様本人も文字・語源・理由は不明。』
「また増えたな」
ルシルが帳面を見る。
「少しずつですね」
「夢は見なかったのに」
「夢と関係なく増える場合もある、ということですね」
シモンが言った。
「それも確定ではありませんが」
「確定してないことばっかりだな」
「今はそれでいいでしょう」
「うん」
ルシルはもう一度豆畑を見る。
写真を撮る。
その言葉だけが、妙に自然だった。
けれど、どうやって撮るのかは分からない。
道具が必要なのか。
魔法なのか。
何かを描くのか。
昨夜の夢に出てきた四角い何かが関係しているのか。
そこから先へ進もうとすると、何も浮かばなかった。
「行こうか」
ルシルが言う。
「はい」
モモは帳面を閉じた。
立ち止まっていた時間は、それほど長くない。
三人は再び農道を歩き始めた。
◇
村の東端には、小さな用水池があった。
山の池のような自然な形ではなく、土を掘って周囲を固めた四角に近い池だ。
そこから何本かの細い水路が畑へ伸びている。
「ここは水あるんだ」
「南平原中央部より農業用水を確保しやすいのでしょう」
シモンが水路を見る。
池の脇では、一人の老人が木製の板を動かしていた。
三人が近くを通ると、老人が顔を上げる。
「旅の人か?」
「はい。道から見せてもらってます」
「畑へ入らなきゃ好きに見ていいぞ」
「これ、池から水を分けてるんですか?」
ルシルが尋ねる。
「ああ。今日は東の豆畑へ流す日だ」
老人が動かしていた板は、水路の入口を塞ぐ小さな水門だった。
「毎日違う?」
「畑ごとに順番がある。好き勝手流したら下の畑まで届かんからな」
ルシルはセイラの分水場を思い出した。
規模も形も違う。
こちらには石造りの受け場も木樋もない。
だが、水を必要な場所へ順番に分けるという考え方は似ていた。
「町によって全然作り方違うんだな」
「そりゃ土地が違うからな」
老人は当たり前のように答えた。
「ここで山の町みたいな水路を作っても仕方ないし、山でここの池を真似しても水が逃げるだけだ」
「山の町を知ってるんですか?」
「若い頃に荷運びで行ったことがある。どこの町だったかまでは忘れたがな」
老人は笑った。
「水は水だが、扱い方は土地ごとに違うもんだ」
その言葉を聞き、ルシルは池から伸びる水路を見た。
旅をしていると、同じものを何度も見る。
水。
畑。
道。
馬。
食事。
宿。
けれど、同じ形ではない。
それを比べるのも面白かった。
「ありがとうございます」
「おう。南へ行くなら気をつけてな」
「何かあるんですか?」
シモンがすぐ確認する。
「危ないって意味じゃない。ここから先、林が増えるから道が乾きにくいところがある。雨が降った翌日は車輪が取られる場所もあるんだ」
「最近は?」
「昨日も一昨日も晴れだ。今日は平気だろう」
「橋や崩れは?」
「この辺じゃ聞いてないな」
「助かります」
シモンは地図を取り出し、簡単に場所を確認した。
「次の水場までは?」
「南へ半日もかからん。石の道標があるから見落とさんよ。その先は林の中に古い休憩小屋があるが……」
老人が少し考える。
「屋根はある。壁は半分くらいない」
「小屋?」
「昔の荷運び用だ。今も旅人が使う。泊まるなら使えるが、立派な宿だと思うなよ」
「馬を休ませる場所は?」
「横に繋げる。水は近くの沢。ただ、飲ませるなら上流側で汲め」
シモンが頷く。
「ありがとうございます」
新しい情報を得たが、そこで今夜の宿泊地を決めることはしなかった。
昼前に出れば、進み方次第で休憩小屋へ着く可能性はある。
だが、道の状態や二頭の様子を見て決めればいい。
三人は老人へ礼を言い、村の中心へ戻る道を歩き始めた。
◇
麦風亭へ戻る途中、モモが急に立ち止まった。
「どうした?」
「あれ」
指差した先に、小さな木が一本立っている。
家の庭先。
枝には白い花がいくつも咲いていた。
「花?」
「はい。でも、前に見たのとは違います」
ルシルも見る。
セイラ近くの小滝へ向かう道で見た白い花とは、花弁の形も葉も違う。
「果物の木かな」
「どうでしょう」
家の前にいた女性が、三人の視線に気づいた。
「花が珍しい?」
「すみません。勝手に見て」
「見るくらい構わないよ」
「何の木ですか?」
「白蜜梨」
「梨?」
ルシルは聞き慣れない名を繰り返す。
「夏の終わりに実がなるよ。小さいけど甘い」
「食べられるんですね」
「うちじゃ煮て保存する方が多いけどね」
モモは帳面へ手を伸ばしかけ、止めた。
ルシルが気づく。
「書かないの?」
「……実を見てからにします」
「夏の終わりだぞ」
「じゃあ、どこかで実を見たら」
女性が笑った。
「旅人なら南でも見るかもしれないよ。ここの木だけじゃないから」
「覚えておきます」
モモは帳面を開かなかった。
それでも白蜜梨という名前は、三人の頭に残った。
旅の全部を書かなくてもいい。
忘れたなら、それはそれでいい。
もう一度出会った時に思い出せれば、それも旅の楽しみになる。
◇
麦風亭へ戻ると、昼前だった。
預けていた早豆を受け取り、荷物を馬車へ積む。
女主人が表へ出てきた。
「もう行くのかい?」
「はい。お世話になりました」
「南へ?」
「その予定です」
「なら今日は天気もいい。林へ入ると少し涼しくなるから、上着をすぐ出せるところに置いときな」
「分かりました」
「また通ることがあったら寄りな」
「早豆の時期に?」
ルシルが言うと、女主人が笑った。
「豆がなくても飯はあるよ」
「それもそうだ」
トルクとベルクを馬車へ繋ぐ。
二頭とも十分休めた。
最初の御者はルシル。
フェルナの道は平坦で、村を出た後もしばらく農地が続くため、走り出しとしては難しくない。
「忘れ物ない?」
「ありません」
「帳面」
「持ってます」
「早豆」
「積みました」
「それ、ルシル様が一番心配していたのでは?」
「食料だから大事だろ」
「はいはい」
「モモ、その返事シモンみたい」
「えっ」
「僕を何だと思っているんですか」
三人が笑う。
馬車が動き始めた。
広場を抜ける。
昨日買い物をしたハル爺の雑貨店の前を通ると、老人が軒先で桶を並べていた。
「おーい!」
ルシルが手を上げる。
老人も片手を上げた。
村の南側へ向かう。
やがて石柱が見えてきた。
振り返れば、麦風亭の屋根も、井戸の広場も、少しずつ遠くなっていく。
「短かったですね」
モモが御者台の隣で言う。
「一泊だからな」
「でも帳面買えました」
「豆も」
「お風呂も」
「結局、昨日言ってた三つ全部やったな」
「本当ですね」
シモンが車内から顔を出す。
「目的を達成するために滞在したわけではありませんけどね」
「結果的に全部できた」
「それで十分です」
フェルナを出る。
しばらくは畑の間を走る道だった。
午前の光が広がり、農作業をする人たちの姿が見える。
道端には昨日までより高い草が増えていた。
やがて畑が途切れ始める。
代わりに木が増える。
「本当に林になってきた」
ルシルが前を見る。
南平原を走っていた時には、ずっと先まで見渡せることが多かった。
今は街道の両側に木々が並び、その向こう側が見えない場所も増えている。
頭上では枝が近づき、日差しが細かく途切れた。
風の音も変わった。
広い草原を渡る低い風ではなく、葉を揺らして頭上を通り抜ける音になる。
「少し涼しいです」
モモが外套の前を整える。
「女将さんの言った通りだな」
「路面も確認してください」
シモンが後ろから言う。
「分かってる」
土はまだ乾いている。
ところどころ木の根が近くまで伸びているが、車輪を取られるほどではない。
ルシルは速度を少し落とし、木陰の道へ馬車を進めた。
◇
昼食場所を探し始めた頃、石の道標が見えた。
「あれかな」
街道脇に、腰ほどの高さの石柱が立っている。
苔が少し付いているが、文字は読めた。
『南道 水場 東へ百二十歩』
「水場」
「昼にちょうどいいですね」
道標の横には、馬車一台が通れる程度の脇道がある。
シモンが一度下りて路面を確認した。
「入れます。戻る場所もありそうです」
「じゃあ行こう」
脇道を進む。
百二十歩という表示は人が歩いた場合の距離らしく、馬車ならすぐだった。
木々の間が少し開け、小さな石組みの水場が現れる。
湧水を木樋へ流し、下の石槽へ落としている。
先客はいない。
「ここで昼にしよう」
馬車を平らな場所へ止める。
トルクとベルクを休ませ、三人も木陰へ入った。
「早豆」
ルシルが荷物から出す。
「本当に嬉しそうですね」
「今日食べるために買ったんだから」
小鍋へ水を入れ、半分を塩茹でにする。
残りは串を使わず、薄い金網の上へ鞘ごと並べて炙った。
火が入るにつれ、青い豆の匂いと焦げた鞘の香りが広がる。
「村で食べたばかりなのに」
モモが言いながら炙った豆を見る。
「場所が変われば違う」
「味は同じでは?」
「外で食べると違う」
「それは分かります」
シモンがパンを切り分ける。
「結局二人とも楽しみにしているでしょう」
「シモン君もですよね?」
「もちろん食べますよ」
昼食は早豆、パン、乳酪、少量の保存肉。
豪華ではない。
それでも、今朝フェルナで採れた豆を、村を出た日の昼に食べるというだけで妙に楽しかった。
「やっぱり炙った方が好き」
ルシルが言う。
「私は今日も塩茹でです」
「シモンは?」
「昨日と同じです」
「両方?」
「両方」
「絶対決める気ないだろ」
「優劣をつける必要がありますか?」
「ないけどさ」
三人で笑う。
水場の周囲では、小さな虫が光の中を飛んでいる。
鳥の声も聞こえたが、姿は見えない。
モモは帳面を取り出さなかった。
代わりに、木々の間から落ちる光をぼんやり眺めている。
「どうした?」
「写真って、こういうのも撮れるんでしょうか」
ルシルの手が止まった。
モモが指差したのは、木漏れ日だった。
葉が風で揺れるたび、地面に落ちた光の形が変わっている。
「……どうだろ」
ルシルは眺める。
今朝の豆畑を見た時には、「その時見えているものをまとめて残せる」という感覚が自然に浮かんだ。
なら、この光も。
「たぶん、撮れると思う」
「動いてるのに?」
「撮った瞬間の形になる……?」
また言葉が出た。
ルシルは自分で驚き、口を閉じる。
モモもシモンも黙った。
木漏れ日だけが、風に合わせて地面を揺れている。
「瞬間」
シモンが静かに確認する。
「はい」
ルシルは自分の中を探った。
「動いてるものでも、写真にしたら……その瞬間だけ止まったみたいになる気がする」
「空走鳥でも?」
モモが尋ねた。
「たぶん」
「走ってるのに?」
「走ってる途中の形で残る……と思う」
「黒耳野兎も?」
「うん」
「羊も?」
「羊は別に例に出さなくてよくない?」
「分かりやすいので」
ルシルは苦笑した。
「でも、そうだと思う」
シモンが考え込む。
「絵なら、動いているものを正確に一瞬で描くのは難しい」
「そうですね」
「写真というものは、それが可能?」
「……たぶん」
ルシルの返事は、何度目か分からない「たぶん」だった。
それ以上は出てこない。
どうやって一瞬を止めるのか。
なぜ残せるのか。
何に残るのか。
全く分からない。
「記録します?」
モモが聞く。
「しておこう」
今度はルシルから答えた。
モモが帳面を開く。
『写真――動いているものでも、撮った瞬間の姿を止めたように残せるらしい。木漏れ日を見てルシル様が自然に認識。仕組みは不明。』
少し考え、モモがその下に小さく書き足す。
『空走鳥でもできるかもしれない。』
「それ必要?」
「いつか試したくなりません?」
「写真そのものがないのに?」
「だから、いつかです」
モモは楽しそうに帳面を閉じた。
シモンも止めなかった。
「もし写真というものの正体が分かった時に、確認項目にはなりますね」
「シモンまで」
「記録とはそういうものでしょう」
「……まあいいか」
ルシルは残っていた早豆を一粒食べた。
今日だけで、写真について二つ新しい感覚が増えた。
見えている範囲をまとめて残せる。
写真は「撮る」。
動いているものでも、その瞬間の姿を残せる。
昨夜は夢を見なかったのに、言葉の輪郭だけが少しずつはっきりしている。
(何なんだろうな、本当に)
疑問は消えない。
けれど、今すぐ答えが必要だという焦りもなかった。
分かったことは帳面に残った。
身体に異常もない。
なら、今日はまだ旅を続けられる。
◇
昼食後、火を完全に消してから街道へ戻った。
午後の御者はモモが担当する。
林の道は平坦だが、木の根が路肩近くへ出ている場所があり、モモは中央寄りを保ちながら慎重に進んだ。
「このくらいなら大丈夫です」
「無理に端へ寄らなくていいですよ」
シモンが隣から路面を見ている。
ルシルは車内から反対側を確認していた。
昨日までの草原では遠くを見ることが多かったが、林では近くの景色が次々と変わる。
苔の付いた倒木。
細い沢。
低い白花。
赤茶色の樹皮を持つ木。
木の上を走る小動物の影。
「あ、何かいた」
「どこです?」
「もういない」
「何でした?」
「分からない。尻尾長かった」
「帳面?」
「見えてないから書かなくていいんじゃない?」
「そうですね」
モモは前を見たまま笑った。
何でも追わない。
何でも止まらない。
見えたものの一部は、そのまま後ろへ流れていく。
それでも十分だった。
午後の光が傾き始めた頃、道の左側から水音が聞こえるようになった。
「沢かな」
「おそらく」
地図と今朝の老人の話が一致している。
この先に古い休憩小屋があるはずだ。
ただ、まだ日没までは時間がある。
「小屋まで行ってみます?」
モモが尋ねる。
「見てから決めよう」
ルシルが答えた。
「使いやすければ今日はそこ。微妙なら、まだ明るいうちに別の場所探せるし」
「そうですね」
シモンも同意する。
しばらく進むと、林の中に開けた場所が見えた。
そして、その端に古い木造の屋根がある。
「……あれだな」
老人が「壁は半分くらいない」と言っていた意味が分かった。
建物というより、大きな屋根付き休憩所に近い。
三方のうち一方だけにしっかりした板壁があり、もう一方は腰ほどまで、残る側はほとんど開いている。
だが屋根は丈夫そうで、傾きもない。
横には馬を繋ぐための太い横木。
少し離れた場所には石囲いの火床。
沢へ下りる踏み跡も見える。
「思ったよりいい」
ルシルが言う。
「雨風を完全に防ぐ場所ではありませんが、今日は天気も安定しています」
「先客はいませんね」
モモが周囲を見る。
「ここにする?」
三人はすぐには決めず、まず馬車を止めた。
シモンが小屋の床や屋根を確認する。
ルシルとモモは沢まで歩き、水の状態と上流側を見た。
水は澄んでいる。
周辺に大型動物の新しい痕跡も見当たらない。
戻ってくると、シモンも確認を終えていた。
「使えそうです。床の一部は傷んでいますが、寝る場所には問題ありません」
「じゃあ今日はここ」
「はい」
トルクとベルクを休ませ、馬車を平らな場所へ移動する。
昨日は木々に囲まれた休憩地。
今日は古い屋根付きの休憩小屋。
似ているようで、空気は全く違った。
周囲を林が囲み、沢の音が絶えず聞こえる。
風は木々の上を通るため、地面近くは静かだった。
「天幕張る?」
ルシルが尋ねる。
「小屋の床を使えるなら、今日は必要ないでしょう」
シモンが答える。
「雨の可能性も低いですし、三人分の寝具を置けます」
「屋根の下で寝るんですね」
モモが小屋へ入る。
「壁がないから外みたいだけど」
「でも天幕より広いです」
荷物を運び込み、寝る場所を決める。
完全な宿ではない。
だが野営より少しだけ楽ができる。
「こういう場所もいいな」
ルシルが柱へ手を当てる。
木は古く、表面が滑らかになっていた。
長い間、何人もの旅人がここを使ってきたのだろう。
柱の一部には小さな傷がいくつもある。
「文字?」
モモが覗き込む。
「違うと思う」
名前らしきものもあれば、ただ削れただけのものもある。
「新しく刻まないでくださいね」
シモンが先回りする。
「しないよ」
「ルシル様なら『旅の記念』と言い出す可能性が」
「言わないって」
「私はちょっと思いました」
「モモ!?」
「でもしません」
「よかった」
三人の声が古い屋根の下に響く。
◇
夕食は簡単なものにした。
昼に早豆を食べたため、夜は保存肉と豆のスープ、パン、それから高原赤実を少し。
「結局また豆ですね」
モモが鍋を見る。
「こっちは乾燥豆だから別」
「同じ豆です」
「種類違うし」
「今日は豆の日ですね」
「フェルナ出た日だからいいだろ」
シモンが火を調整しながら口を挟む。
「明日は別のものにしましょう」
「賛成」
「私もです」
食後、モモが帳面を取り出した。
今日だけでも書くことが増えている。
「豆畑で写真のこと」
「木漏れ日でも」
「白蜜梨は?」
「まだ書きません」
「休憩小屋は?」
「どうしましょう」
モモは小屋の中を見回す。
古い柱。
広い屋根。
沢の音。
火の明かり。
「……書きます」
「何て?」
「『林の古い休憩小屋。壁は少ないけれど屋根は丈夫。沢が近い』」
「普通だな」
「普通でいいんです」
モモはそう言って書いた。
ルシルは横から見ていたが、その言葉に少し笑った。
「そうだな」
「何です?」
「いや。普通でいいなって」
帳面には、写真の謎だけが書かれているわけではない。
食べた豆。
見た鳥。
泊まった場所。
分からなかった花。
旅の途中で気になったこと。
その中に、写真という妙な言葉も混ざっている。
それが三人には合っている気がした。
◇
夜が深くなる。
火を小さくし、寝る準備を終えた。
沢の音は暗くなっても変わらない。
林の向こうでは、ときどき夜鳥の声が聞こえた。
ルシルは毛布へ入る前に、小屋の外へ出た。
木々の間から空を見る。
草原ほど広くはない。
枝に切り取られた狭い夜空。
それでも星はいくつか見えた。
「ルシル様?」
後ろからモモの声がする。
「まだ寝ないんですか?」
「もう寝る」
「何見てたんです?」
「空」
モモも横へ来る。
「草原と全然違いますね」
「うん」
写真があれば。
そんな言葉が頭に浮かびそうになった。
だが、今度は口にしなかった。
写真がなくても、見ていることはできる。
覚えていられるかもしれないし、忘れるかもしれない。
忘れたとしても、旅がなくなるわけではない。
「寒くなる前に戻りましょう」
「そうだな」
二人が小屋へ戻る。
シモンはすでに自分の寝具へ入っていた。
「夜更かしはほどほどにしてください」
「ちょっと空見てただけ」
「なら結構です」
「おやすみ、シモン」
「おやすみなさい、ルシル様」
「おやすみなさい、シモン君」
「おやすみなさい、モモ嬢」
「……まだ嬢です」
「今そこをやります?」
「今日はやりません」
「今日は、なんですね」
ルシルが笑いを堪えながら毛布へ入る。
火の明かりが古い柱を照らしている。
やがてモモも横になり、会話が途切れた。
沢の音だけが残る。
ルシルは目を閉じた。
今朝は夢を見なかった。
昼間には、写真について知らなかったはずの言葉がまた増えた。
写真を撮る。
見えているものをまとめて残す。
動いているものも、その瞬間の姿で残せる。
(四角い何かが、それに関係してるのかな)
昨夜の夢を思い出す。
白い壁。
四角い何か。
誰かの手。
一瞬の光。
けれど、それ以上を無理に考えるのはやめた。
(また何か分かったら、その時でいいか)
そう考え、呼吸を整える。
ほどなく眠気が訪れた。
その夜。
白い壁は現れなかった。
一瞬の光もなかった。
代わりにルシルは、どこか遠くで水が流れるような音を聞いた気がした。
だが、それが夢だったのか、すぐそばを流れる沢の音だったのか。
朝になった時には、もう区別がつかなかった。




