第53話 林の道では、見えない先から音がやってきます
朝の林は、目を開けるより先に音で分かった。
絶えず流れている沢の音。その奥から重なるように聞こえる鳥の声。夜のあいだ葉へ溜まっていた雫が、ときおり屋根や地面へ落ちて小さな音を立てている。
ルシルは毛布の中で目を開き、古い休憩小屋の屋根を見上げた。
板と板の隙間から細い朝の光が差し込んでいる。
(……朝か)
身体を起こす前に、昨夜のことを思い返した。
白い壁は見なかった。
四角い何かも、一瞬の光もない。
ただ眠りへ落ちる頃、どこか遠くで水が流れているような音を聞いた気がした。
だが、こうして朝になっても沢の音が耳へ届いている以上、夢だったのか現実だったのかを区別する材料はない。
(これは記録しなくていいな)
夢かどうかさえ分からないものまで書き始めたら、モモの帳面が「分からないこと」だけで埋まってしまう。
ルシルは毛布を畳み、ゆっくり立ち上がった。
すぐ近くではシモンがすでに起きている。
寝具を片づけながら眼鏡を掛け、ルシルへ顔を向けた。
「おはようございます」
「おはよう」
「体調は?」
「普通。夢もなし」
ルシルは先回りして答えた。
「……早いですね」
「毎朝聞かれるから」
「変化がないことを確認しただけです」
「分かってるよ」
シモンはそれ以上尋ねず、小屋の外へ目を向けた。
「夜中に雨は降らなかったようですね」
「沢の音、ずっとしてた?」
「ええ」
「そっか」
「何か?」
「寝る前に水の音が聞こえた気がしたんだけど、たぶんこれだな」
ルシルが沢の方向を示すと、シモンも耳を澄ませた。
「夢の中で聞いたという確信は?」
「全然ない」
「なら、今は沢の音だった可能性の方が自然でしょう」
「俺もそう思う」
そこで会話は終わった。
何でも写真へ結びつけない。
何でも謎にしない。
分からないことを分からないまま置いておくのと同じくらい、普通に説明できるものを無理に特別扱いしないことも大切だった。
「……おはようございます」
眠そうな声が聞こえる。
モモが毛布から顔を出した。
桃金色の髪が片側だけ少し跳ねている。
「おはよう」
「おはようございます、モモ嬢」
「寒いです」
「林ですからね」
モモは毛布を肩へ巻いたまま身体を起こした。
「草原の朝より寒く感じます」
「風は弱いけど、日が当たらないからかな」
「それもあるでしょうね」
シモンが外へ出る。
「火を起こします。朝食を済ませたら出発しましょう」
「今日はどこまで?」
モモが尋ねる。
「まず街道の状態を見ながら南へ。昨日聞いた話では、この先はしばらく林が続きます」
「次の村は?」
「地図上では、今日中に必ず着かなければならない距離ではありません。水場はいくつかありますから、無理に進む必要もないでしょう」
ルシルも外へ出た。
朝の空気は冷たい。
だが湿った土と木の匂いは嫌ではなかった。
「じゃあ、今日も走れるところまで?」
「『走れるところまで』という言い方だと限界まで進むように聞こえます」
「違う違う。いい場所があったら止まるって意味」
「なら、そのつもりで」
小屋の中からモモの声が飛んでくる。
「私も賛成です」
「その前に起きような」
「今起きます」
そう答えながら、モモはまだ毛布を肩から外していなかった。
◇
朝食は昨日より簡単だった。
硬めのパンを火で軽く炙り、乳酪と乾燥肉を添える。温かい飲み物だけは用意し、三人で古い休憩小屋の屋根の下に座って食べた。
「昨日は豆ばっかりだったから、今日は豆なし」
ルシルがパンをちぎる。
「朝から宣言することですか?」
「シモンが昨日、明日は別のものにしようって言っただろ」
「言いましたけど」
「ちゃんと守ってる」
「僕が献立を命令したように言わないでください」
モモは乳酪をパンへ挟みながら、少しだけ首を傾けた。
「でも、豆のスープはまだ残ってますよね?」
「乾燥豆が」
「そのうち食べます?」
「もちろん」
「じゃあ豆の日がまた来ますね」
「何だよ、豆の日って」
昨日から妙に豆の話が続いている。
ルシルは自分で言いながら笑い、パンを口へ運んだ。
食後は沢で汲んだ水を補充する。
もちろん人や馬が利用する場所より上流側へ回り、水の状態を確認してからだった。
トルクとベルクも朝から落ち着いている。
脚、蹄、食欲ともに問題はない。
ベルクはシモンが近づくと、自分から少し鼻先を寄せた。
「相変わらずシモンには素直だな」
「信頼されているんでしょう」
「ベルク派だから?」
「まだそれを言うんですか」
「シモン君が自分で言ったんですよね?」
モモが横から加わる。
「一度冗談で言っただけです」
「記録帳には書いてませんよ」
「絶対に書かなくて結構です」
ルシルが笑う。
「書いたら後世に残るかもしれないぞ」
「何の後世ですか」
「この帳面が百年後に見つかったら」
「『元側近、ベルク派を名乗る』ですか?」
モモが真面目な顔で言う。
シモンが眼鏡の奥から二人を見た。
「出発準備を進めましょう」
「逃げた」
「逃げましたね」
「進めましょう」
今度は少し強めに言われ、ルシルとモモは笑いながら荷物を片づけた。
寝具を馬車へ戻し、火が完全に消えていることを確認する。
小屋の中に自分たちのごみや忘れ物が残っていないかも見て回った。
昨日まで誰かが使い、その前にも別の旅人が使い、これから先も誰かが使う場所だ。
「お世話になりました」
モモが古い小屋へ軽く頭を下げる。
「宿じゃないぞ」
「でも泊めてもらいました」
「確かに」
ルシルも振り返る。
屋根と半分ほどの壁しかない。
名前すら知らない古い休憩小屋。
それでも昨夜の寝床だった。
「じゃあ行こうか」
最初の御者はシモン。
トルクとベルクが歩き出し、馬車は林の街道へ戻っていった。
◇
午前の林道は静かだった。
誰にも会わないという意味ではない。
出発して間もなく、北へ向かう一人の旅人とすれ違った。
背負い袋と杖だけの徒歩旅らしく、互いに挨拶を交わして終わった。
その後は、小さな荷車が一台。
木材を積んでおり、御者の男から「南は問題ない」とだけ聞けた。
それ以外は、ほとんど三人だけだった。
街道は昨日より少し細くなっている。
馬車がすれ違える幅はあるが、両側から枝が張り出している場所も多い。
「上も見ないとだな」
ルシルが車内から枝を見る。
「低い枝は今のところありません」
御者台のシモンが答える。
「でも馬車の屋根に当たりそうなのがあったら言う」
「お願いします」
モモは反対側の窓から路肩を見ていた。
「昨日の水路みたいなのは、もうありませんね」
「農地を離れましたからね」
「沢は左?」
「今は少し離れています」
地形に合わせて、沢の音は近くなったり遠くなったりする。
見えない場所から水音だけ聞こえることもあった。
しばらく進んだところで、ルシルが窓から顔を少し前へ向けた。
「シモン」
「はい」
「何か聞こえない?」
シモンが手綱を保ったまま耳を澄ませる。
モモも会話を止めた。
馬車の車輪。
蹄。
葉の音。
鳥。
沢。
それらに混じり、もっと低い音がある。
「……木を叩いてる?」
ルシルが言う。
一定ではない。
コン。
少し間を置いて、またコン。
「斧でしょうか」
「木こり?」
「可能性はありますね」
シモンは速度を落とした。
音は街道の右側、林の奥から聞こえている。
「道から見えるかな」
「見に入る必要はありませんよ」
「入らないって」
「ならいいです」
馬車が進む。
音が少しずつ近くなった。
やがて木々の隙間から、人影が見えた。
「あ」
モモが先に気づく。
「人います」
街道から少し入った場所で、三人ほどの男が作業していた。
一人が斧を振るい、別の二人が切った枝をまとめている。
近くには丸太を積む小型の荷車もあった。
「やっぱり木こりだった」
「正確には伐採作業でしょうね」
「同じじゃないの?」
「職業まで分からないという意味です」
ちょうど一人がこちらに気づいた。
男は斧を下ろし、片手を上げる。
「旅人かー!」
「はい!」
シモンが馬車を止めるほどではない速度まで落とした。
「南へ行くなら、少し先で枝落としやってるぞー!」
「街道ですか?」
「道の横だ! 通れるが、声かけてから行け!」
「ありがとうございます!」
男がもう一度手を上げ、作業へ戻る。
「枝落とし」
モモが頭上を見る。
「街道へ出てる枝を切るんでしょうか」
「おそらく」
シモンも前方を見る。
「さっきルシル様が気にしていたものですね」
「ちょうどやってるんだな」
少し進むと、今度は斧ではなく鋸の音が聞こえてきた。
ギッ、ギッ、と木を引く音。
そして人の声。
「止めろー!」
「馬車来るぞ!」
前方から声が飛ぶ。
シモンが馬車をゆっくり止めた。
道の脇には、木製の赤い札が立てられている。
『作業中』
「待つみたいだな」
「そのようですね」
三人は御者台と車内から様子を見る。
街道の少し先で、二人の男が長い棒を使って枝を押さえ、別の男が高い位置の枝へ鋸を当てていた。
馬車が来たことで作業を止め、枝を縄で固定し直している。
一人がこちらへ歩いてきた。
「悪いな。すぐ通せる」
「急いでないので大丈夫です」
シモンが答える。
「枝を落としてるんですか?」
ルシルが車内から尋ねる。
「ああ。春から伸びたやつが荷車に当たるようになってきたからな」
「毎年やる?」
「場所による。ここは伸びるのが早い」
男は馬車の高さを見る。
「その馬車なら、昨日まででも通れたとは思うけどな。背の高い荷車が枝引っかけたんだ」
「危なかったんですか?」
モモが聞く。
「積み荷の布が破れただけだ。怪我はなし。ただ、次も同じとは限らんから切っとく」
「なるほど」
ルシルは頭上を見る。
自然に伸びた枝を、そのままにしておけば道が少しずつ狭くなる。
誰かが通る。
不便に気づく。
直す。
王都にいた頃、街道維持という言葉は書類の中にあった。
予算。
担当区域。
補修計画。
けれど実際には、こうして誰かが林の中で枝を切っている。
「昨日の水路もそうだったな」
「何がです?」
モモが見る。
「道とか水路って、勝手にずっと使えるわけじゃないんだなって」
シモンがわずかに振り返った。
「そうですね」
「知ってたつもりだったけど」
ルシルは作業する人たちを見る。
「実際に見ると違う」
それだけ言う。
王城の話へ戻す必要はなかった。
今目の前にいる人たちが、旅人のためにもなる仕事をしている。
それで十分だった。
「通れるぞー!」
前方から声が飛んだ。
作業員たちが道から離れる。
「ありがとうございます!」
シモンが手綱を動かし、ゆっくり馬車を進める。
切り落とされた枝が路肩へまとめられている。
作業員の一人がトルクとベルクを見ながら声をかけた。
「ゆっくりなー!」
「はい!」
枝の下を通り抜ける。
何も当たらない。
作業場所を過ぎると、後ろから再び鋸の音が聞こえ始めた。
「通れるようにする人がいるから、俺たちが通れるんだな」
ルシルが小さく言う。
「ええ」
シモンの返事も短かった。
それ以上、言葉を重ねる必要はなかった。
◇
昼前。
林の密度が少し薄くなった。
道の右側に低い草地が広がり、日差しが届く場所が増える。
「休めそう」
モモが言う。
草地の端には古い石がいくつか並んでおり、その奥に小さな水場があった。
正式な休憩地ではないらしい。
だが馬車を道から外して止められる広さがある。
「ここで昼にしますか」
「そうしよう」
シモンが馬車を入れる。
トルクとベルクを休ませ、水を確認する。
水場は小さな湧水を溜めたものらしく、濁りはない。
周囲には新しい糞や大型動物の足跡も見当たらなかった。
「今日は何食べる?」
ルシルが荷物を見る。
「朝、豆なしって言ってましたね」
モモが念を押す。
「昼も豆なし」
「では山芋根を使いませんか?」
シモンが保存していた食材を確認する。
セイラを出る前に補充した、日持ちする山芋根がまだいくつか残っている。
「焼く?」
「薄く切って焼けば早いでしょう」
「山椒実ちょっと使う?」
「合いそうですね」
昼は薄切りにした山芋根を焼き、砕いた山椒実と塩を少量振ったものにした。
保存肉も一緒に焼き、パンを添える。
「久しぶりな感じする」
ルシルが焼けた山芋根を口へ運ぶ。
表面は少し香ばしく、中は柔らかい。
山椒実の香りが後から鼻へ抜ける。
「セイラで食べた時とは調理が違いますね」
「鍋じゃなくて焼いただけだからな」
「こっちも好きです」
モモがもう一枚取る。
「山椒実、入れすぎない方がいいな」
「香りが強いですからね」
三人で食べていると、林の奥から甲高い鳴き声が聞こえた。
「キィッ、キィッ」
短い声が二回。
モモが顔を上げる。
「鳥?」
「たぶん」
ルシルも音の方向を見る。
姿は見えない。
「本?」
「食べ終わってからです」
モモはそう言ったものの、視線だけは林へ向いている。
再び声。
今度は少し近い。
「キィッ」
枝が揺れた。
「あそこ!」
ルシルが指差す。
木の幹を何かが素早く移動した。
「……鳥じゃない?」
「尻尾があります」
モモが目を凝らす。
茶灰色の小動物。
体は大人の腕ほどもない。
長い尾を使いながら、幹から枝へ素早く移動していく。
「昨日見たの、あれかも」
「長い尻尾と言っていましたね」
シモンも見る。
小動物は枝の上で一度止まった。
丸い耳。
細長い顔。
前脚で木の実らしいものを持っている。
「キィッ」
また鳴いた。
「鳥じゃなかったんですね」
モモが笑う。
「声だけじゃ分からないな」
小動物は三人を気にする様子もなく、実をかじっている。
「本に載ってるかな」
今度はモモが食事を終えてから、馬車の本を取りに行った。
セイラで買った山地の鳥や小動物をまとめた本。
頁をめくる。
「似てるの……」
ルシルとシモンも横から覗く。
「これ?」
モモが指した絵には、長い尾と丸い耳を持つ小動物が描かれていた。
『枝尾栗鼠』
「えだおりす?」
ルシルが読む。
「体の色も近いですね」
シモンが実物と絵を見比べる。
本によれば、林や山地に棲み、木の実や若芽を食べる小動物らしい。
特徴として、警戒時や仲間を呼ぶ時に短く甲高い声を出すとある。
「たぶんこれだな」
「『たぶん』にしておきましょう」
「写真があれば後で比べられるのに」
ルシルは口にした。
そして今回は、言ってから驚かなかった。
すでに分かっている範囲の使い方だからだ。
「……そうですね」
モモが本と木の上の小動物を交互に見る。
「今見えてる姿を残せたら、本の絵とゆっくり比べられます」
「だから、そういう用途にも使えるんだと思う」
「便利ですね、写真」
「実物がないけどな」
「そこが一番困ります」
小動物はやがて木の実を食べ終え、枝の奥へ消えた。
モモは帳面を開く。
「枝尾栗鼠らしき小動物、と」
「確定じゃない?」
「はい。絵と特徴は似ていたけど、近くで確認したわけではないので」
「写真の使い道も書く?」
「それは前の記録で分かります」
「全部書かないんだったな」
「はい」
モモは必要なことだけ短く残した。
少しずつ、帳面の使い方も三人の中で決まり始めている。
◇
午後はルシルが御者を担当した。
林の道にも少し慣れてきたが、だからといって速度を上げることはしない。
道幅。
枝。
路面。
向こうから来る馬車。
見通しの悪い曲がり。
草原とは気にする場所が違う。
「前、右へ曲がってます」
モモが隣から言う。
「うん」
ルシルは少し速度を落とす。
曲がりの向こうは見えない。
そこへ。
カラカラカラ、と車輪の音が聞こえた。
「馬車」
ルシルがすぐ手綱を調整する。
まだ姿は見えない。
音だけが近づいてくる。
「向こうも速度落としてるみたいですね」
モモが耳を澄ませる。
車輪の音がゆっくりになる。
数秒後。
曲がりの先から、二頭立ての荷馬車が現れた。
相手の御者もこちらに気づき、手を上げる。
「待ってくれー!」
「はい!」
道は二台がぎりぎりすれ違える程度。
だが曲がりの中央で無理に行き違うより、少し手前の広い場所まで下がった方が安全だった。
相手側にも同じ考えがあったらしい。
向こうの御者が後方を見てから、ゆっくり荷馬車を下げ始めた。
「こっちも少し戻れる」
ルシルが後ろを確認する。
「ルシル様、こちらの方が近いです」
車内からシモンの声がした。
「後方十数歩に広い場所があります」
「じゃあ俺が戻す」
「ゆっくりで」
「分かってる」
ルシルはベルクとトルクへ合図を送り、馬車を慎重に後退させる。
真っ直ぐではない。
路肩の木の根へ車輪を乗せないよう、モモが右後輪側を見る。
「まだ大丈夫です。少し左」
「このくらい?」
「はい、そのまま」
シモンは後ろから距離を確認する。
「あと半台分。そこで十分です」
馬車を広い場所へ収める。
向こうの荷馬車が前進してきた。
「悪いなー!」
「大丈夫です!」
すれ違う。
荷台には木箱がいくつも積まれていた。
御者は中年の男で、隣には若い女性が座っている。
「南へ?」
「はい」
「この先、道は平気だ。ただ夕方になると鹿が出ることあるぞ!」
「鹿?」
「林から急に出てくる! ぶつからんようにな!」
「ありがとうございます!」
荷馬車が通り過ぎる。
ルシルはすぐには動かず、完全に離れたことを確認してから馬車を街道へ戻した。
「音が先に聞こえてよかったな」
「林では姿より音が先ですね」
モモが言う。
「さっきの枝尾栗鼠もそうだった」
「作業の斧も」
ルシルは前方を見る。
草原では、遠くに何かが見えてから対応できることが多かった。
林では違う。
曲がりの先。
木々の奥。
見えないところから、音だけが先に届く。
「聞くのも大事なんだな」
「ええ。特に見通しの悪い場所では」
シモンが答える。
ルシルは耳を澄ませながら手綱を握った。
車輪。
蹄。
葉。
鳥。
水。
遠くの枝が折れる音。
今まで全部「林の音」として聞いていたものが、少しずつ別々に聞こえる気がした。
◇
午後もだいぶ進んだ頃。
林の左側から、突然大きな音がした。
ガサッ!
ルシルが反射的に手綱を引きすぎないよう力を調整する。
トルクとベルクの耳が音の方へ向いた。
「何?」
モモも身構える。
低い枝が揺れる。
次の瞬間。
一頭の鹿が街道へ飛び出してきた。
「うわっ!」
灰褐色の身体。
頭には短く枝分かれした角。
鹿は馬車のかなり前を横切り、そのまま反対側の林へ飛び込んだ。
ほんの数秒。
姿はすぐ消える。
「……本当に出た」
ルシルは速度を落としたまま、鹿が消えた方向を見る。
「今のは近かったですね」
シモンが車内から出てくる。
「二頭は?」
「驚いたけど大丈夫」
トルクもベルクも少し緊張しているが、暴れてはいない。
ルシルは完全に止め、二頭が落ち着くのを待った。
モモがトルクの方へ声をかける。
「大丈夫ですよ。もういません」
シモンもベルクへ近づき、首筋へ手を当てる。
「驚きましたね」
ベルクが鼻を鳴らす。
「怪我はないな」
「ええ。接触もありません」
「さっきの人に聞いてなかったら、もっと驚いたかも」
「情報があったので、ルシル様も速度を抑えていましたからね」
「出るって聞いてすぐ出るとは思わなかったけど」
モモが鹿の消えた林を見る。
「写真」
「え?」
「今の鹿、撮れたらすごかったでしょうね」
ルシルも鹿がいた場所を見る。
飛び出して。
道を横切って。
消えた。
絵に描こうとしても、形を覚えているだけで精一杯だ。
「確かに」
「動いてるものでも、その瞬間を残せるなら」
「……飛んでる途中の鹿とかも残るんだろうな」
言葉にした瞬間、頭の中に妙な感覚が浮かんだ。
鹿そのものではない。
もっと曖昧な何か。
動くものへ四角い何かを向ける。
そして――。
ルシルは眉を寄せた。
「どうしました?」
シモンがすぐ気づく。
「いや……」
「何か浮かびましたか?」
「一瞬だけ」
ルシルは自分の両手を見る。
「何かを……向ける?」
「何に?」
「撮りたいものに」
モモが息を止めるように黙った。
「四角い何かですか?」
「分からない」
ルシルは首を振る。
「でも、写真を撮る時……何かを相手に向ける気がする」
「道具?」
「たぶん」
「それが昨夜の夢の四角いものかどうかは?」
「分からない」
そこは明確に切り分ける。
夢の中の四角いもの。
今浮かんだ「何かを向ける」という感覚。
似ているように思えても、同じだと決める理由はない。
「頭痛は?」
「ない」
「魔力は?」
「普通」
「気分は?」
「ちょっと変な感じ。でも具合悪いとかじゃない」
シモンはルシルの顔をしばらく見た。
「分かりました」
モモが帳面を出す。
「書きますね」
「うん」
『写真――撮る時、何らかのものを対象へ向けるらしい。鹿が街道を横切った後、ルシル様が自然に認識。道具かどうかは不明。以前の夢に出た四角い何かとの関係も不明。』
書き終え、モモはルシルを見る。
「これでいいですか?」
「うん」
「鹿のことも書きます?」
「鹿は……」
ルシルは少し考える。
「道に急に出ることがある、って書いておけば?」
「旅の注意として?」
「うん。次に林を通る時、忘れてるかもしれないし」
「それはいいですね」
モモは別の場所へ短く書き足した。
『林道では夕方、鹿が急に街道へ出ることがある。音と路肩に注意。』
シモンがそれを見て頷く。
「そちらの方が実用的ですね」
「写真の記録より?」
「用途が違います」
「確かに」
ルシルは笑った。
写真の謎。
旅の注意。
同じ帳面に両方ある。
それでいい。
「二頭も落ち着いたな」
トルクとベルクはすでに普段通りになっている。
「では進みましょう。ただ、しばらくは今くらいの速度で」
「うん」
三人は馬車へ戻った。
◇
夕方。
林の中は、開けた土地より早く暗くなり始めた。
「そろそろ泊まれる場所探した方がいいな」
ルシルが言う。
「賛成です」
シモンが地図を見る。
「この先にもう一つ水場の印があります。距離から考えると近いはずです」
「そこ見てみる?」
「使えそうなら」
今度は最初から「そこへ泊まる」と決めない。
実際に見て、水、地面、馬車を置く場所、周囲の状態を確認してから決める。
しばらくすると、街道脇に小さな木札があった。
『水場』
矢印は右。
「ここだ」
脇道は昨日より狭い。
馬車で入れるか、まずシモンが歩いて確認した。
「少し先に広い場所があります。枝も問題ありません」
「入ろう」
馬車をゆっくり進める。
林の奥に、楕円形の小さな空き地があった。
端には石で囲われた湧水。
反対側には古い火床。
屋根はない。
だが地面は比較的平らで、水は澄んでいる。
「今日は天幕だな」
「そうですね」
周囲を確認する。
大きな動物の新しい痕跡はない。
他の旅人もいない。
街道から少し離れているため、車輪の音もほとんど聞こえなかった。
「ここにしよう」
三人で決めた。
馬車を止め、トルクとベルクを休ませる。
天幕を張る場所を選び、火を使う位置も決めた。
作業を分担している間、ルシルはふと耳を澄ませた。
林の音がする。
昼間と同じはずなのに、夕方になると少し違って聞こえる。
鳥の声は減り、虫の音が増えている。
遠くで枝が鳴る。
風。
水。
見えない場所で何かが動く気配。
「今日は音の日だったな」
ルシルが言った。
天幕の紐を結んでいたモモが顔を上げる。
「音の日?」
「朝から、見えないところの音ばっかり気にしてた気がする」
「斧と、枝尾栗鼠と、馬車と、鹿」
「沢も」
「本当ですね」
シモンが火床を確認しながら言う。
「林では視界が限られますから、自然と音から得る情報が増えるのでしょう」
「草原とは逆だな」
「完全に逆ではありませんが、違いは大きいですね」
ルシルは周囲を見る。
南平原では遠くまで見えた。
空走鳥も、羊の群れも、道の先も。
林では、木の向こう側が見えない。
だから先に聞く。
「場所が変わると、馬車の乗り方も変わるんだな」
「ええ」
それも旅を始める前には知らなかったことだった。
◇
夕食を終えた後、三人は火のそばに座った。
今夜は山芋根を入れた簡単なスープとパン。
昼にも食べたため山芋根は少し減ったが、まだ残っている。
「明日は別の野菜にしよう」
ルシルが言う。
「今日は山芋根の日ですか?」
モモが笑う。
「そういう意味じゃない」
「昨日は豆の日」
「だから違うって」
「食材で日を数えるのも面白いかもしれませんね」
シモンまで加わる。
「シモンが乗ってきた」
「冗談です」
「珍しい」
「僕だって冗談くらい言います」
モモが帳面を開く。
「じゃあ、『フェルナを出た翌日は山芋根の日』」
「書かなくていい!」
モモは笑いながら帳面を閉じた。
「冗談です」
「二人して……」
ルシルは呆れながらも笑っている。
火がぱちりと鳴った。
少し会話が途切れる。
モモは再び帳面を開き、今度は本当に今日の記録を確認した。
「写真について、また少し増えましたね」
「うん」
「何かを向ける」
「そういう気がするだけだけど」
「四角いものかは分からない」
シモンが確認する。
「そこは大事です」
「分かってる」
ルシルは火を見る。
「でもさ」
「はい?」
「写真って、本当にあるのかな」
モモが目を瞬いた。
「ルシル様が知ってるのに?」
「知ってるって言っても、言葉と感覚だけだろ。見たことがあるのかも分からない」
「夢では?」
「夢の四角いものが写真と関係あるかも分からない」
シモンは少し考えた。
「少なくとも、ルシル様の中には一貫した概念が存在しています」
「概念?」
「一瞬の状態を残す。後から見返せる。絵のように一つずつ描く必要がない。動いているものでも、その瞬間を残せる。そして、撮る際には何かを対象へ向けるらしい」
「並べると結構増えたな」
「ええ。ただし、それが実在する道具や技術の知識なのか、ルシル様自身が無意識に組み立てている想像なのかは分かりません」
「想像?」
「人は夢の中で、現実には存在しないものを見ることもありますから」
「なるほど」
その可能性を、ルシルは考えていなかった。
知らない世界の記憶。
失われた技術。
何か特別な秘密。
そういうものだけが答えとは限らない。
単なる夢や想像である可能性だってある。
「じゃあ、やっぱり今は分からないな」
「そういうことです」
「でも、私はあったらいいなと思います」
モモが言った。
「写真?」
「はい」
帳面の表紙を指先で撫でる。
「空走鳥とか、黒耳野兎とか、今日の鹿とか。見た時の姿をそのまま残せたら、あとで三人で見られます」
「俺も欲しい」
「僕も、存在するなら興味はあります」
シモンも否定しなかった。
「記録用途として非常に有用そうです」
「シモンらしい」
「何がです?」
「俺とモモは旅の思い出で、シモンは記録」
「用途は一つではないでしょう」
「じゃあ、ベルクの写真も撮る?」
「……それは」
シモンがベルクのいる方向を見た。
少し離れた場所で、トルクとベルクは静かに休んでいる。
「撮れるなら、あってもいいですね」
数秒遅れて返ってきた答えに、ルシルがにやりとする。
「ベルク派」
「ルシル様」
「写真があったら最初にベルク撮りそう」
「そんなことは言っていません」
「私はトルクも撮りたいです」
「じゃあ二頭一緒」
「いいですね」
「勝手に話を進めないでください」
シモンはそう言ったものの、強く止める様子はなかった。
三人の笑い声が、夜の林へ小さく広がった。
◇
寝る前。
火を落とし、周囲を確認する。
シモンは念のため警戒魔法を設定した。
以前から野営時に使っているもので、小動物まで反応しないよう範囲と感度を調整する。
「鹿は?」
ルシルが尋ねる。
「この大きさなら反応します」
「じゃあ夜中に来たら分かる?」
「設定範囲へ入れば」
「追い払う?」
「こちらへ近づくなら。通り過ぎるだけなら何もしません」
「そっか」
モモは帳面を馬車の中へしまった。
「天幕に置かないの?」
「湿気たら嫌なので」
「大事になったな」
「最初から大事です」
「買って二日目だけど」
「二日目でも大事です」
ルシルは笑い、自分の天幕へ入った。
毛布へ横になる。
外からは林の音が聞こえる。
沢は近くにないため、昨夜ほど強い水音はない。
代わりに虫。
葉。
ときどき鳥。
遠くで何かが枝を踏んだような音。
(見えないけど、いろいろいるんだな)
昼間なら気にしなかった音が、暗闇では大きく感じる。
けれど不安はなかった。
トルクとベルクがいる。
モモとシモンもいる。
警戒魔法もある。
ルシルは目を閉じた。
今日、写真についてまた少しだけ分かった。
撮る時には、何かを相手へ向けるらしい。
(何を向けるんだろう)
四角いもの。
昨夜ではなく、その前に見た夢の断片。
白い壁。
誰かの手。
光。
考えかけて、やめた。
無理に思い出そうとしても出てこない。
今までと同じだ。
分かった時に考えればいい。
眠気がゆっくり近づいてくる。
林の音が遠くなっていく。
そして、その夜。
ルシルは一度だけ夢を見た。
ほんの短い夢だった。
誰かが笑っている。
顔は見えない。
声も聞き取れない。
ただ、その誰かはこちらではなく、少し離れた場所へ立っていた。
ルシルの両手の間には、何かがある。
黒い。
四角い。
片手だけではなく、両手で持っている。
その上に、人差し指が触れていた。
そして。
小さな音がした。
――カシャ。
そこで夢は途切れた。
ルシルは暗い天幕の中で目を開いた。
「……カシャ?」
自分の口から出た音だけが、妙にはっきり耳に残った。
外では林の葉が静かに揺れている。
頭痛はない。
身体にも異常はない。
警戒魔法が反応した様子もなかった。
ルシルはしばらく暗闇を見つめていた。
(今のは……)
夢。
それだけは分かる。
昨夜の沢の音とは違う。
眠っている間に、確かに見た。
黒い四角い何か。
両手。
人差し指。
そして、カシャという音。
写真という言葉が、頭の中へ自然に浮かんだ。
だが、それ以上は何も分からない。
ルシルはすぐにモモやシモンを起こそうとはしなかった。
体調に異常はない。
危険もない。
朝になったら話せばいい。
忘れないよう、夢の断片を頭の中でゆっくり繰り返す。
黒い四角。
両手で持つ。
人差し指。
カシャ。
誰かが少し離れた場所に立っていた。
(……今度は、前より少し分かりそうだな)
それでも答えを決めるには早い。
ルシルは一度深く息を吐き、再び毛布へ身体を沈めた。
林の夜はまだ長い。
天幕の外では、姿の見えない何かが遠くで一度だけ枝を鳴らしたが、それ以上近づいてくることはなかった。




