第54話 夢の中の黒い箱は、どうやら写真を撮る道具らしいです
次に目を覚ました時、天幕の布は薄い朝の光を通していた。
夜中に一度目を覚ましたあと、もう一度眠ることはできたらしい。身体を起こしたルシルは毛布の上でしばらく動かず、昨夜の夢を頭の中で確かめた。
黒い四角。
両手で持っていた。
人差し指が何かに触れていた。
少し離れた場所には誰かが立っていた。
そして、小さな音。
――カシャ。
(覚えてる)
以前の夢よりも、はっきりしている。
白い壁や一瞬の光しか残らなかった時とは違い、今回は形と動作まで覚えていた。
ただし、誰が立っていたのかは分からない。
男か女かさえ曖昧だった。
黒い四角いものについても、大きさは両手で持てる程度というところまでしか分からない。表面に何が付いていたのか、どういう仕組みなのか、何の素材なのかも思い出せなかった。
「……カシャ」
もう一度、小さく口にする。
その音を思い出すと、胸の奥に奇妙な確信が生まれる。
(写真を撮った音だ)
なぜ分かるのか。
分からない。
それでも、今回はこれまでの「たぶん」より少しだけ強かった。
黒い四角いものを誰かへ向け、人差し指で何かを押した。
カシャという音がして、写真を撮った。
そこまでは、一続きの動作だったように思える。
ルシルは額へ手を当てた。
頭痛はない。
目眩も吐き気もない。
手足の感覚にも異常はなく、魔力も普段通りだった。
(朝になったら話すって決めたしな)
天幕の外から、小さな物音が聞こえる。
誰かがすでに起きているらしい。
ルシルは毛布を畳み、外套を羽織って天幕を出た。
朝の林は昨日と同じように冷えていた。
空き地の上だけ空が開けているため、薄い朝日が斜めに差し込んでいる。草の先には露が残り、火床には昨夜の灰が黒く沈んでいた。
少し離れた場所で、シモンがベルクの様子を見ている。
「おはよう」
「おはようございます、ルシル様」
シモンが振り返る。
いつもの挨拶だった。
しかし、ルシルの顔を見たところで視線が止まった。
「何かありましたね」
「分かる?」
「昨日までと顔が違います」
「そんなに?」
「少なくとも僕には」
ルシルは苦笑した。
「夢見た」
シモンの表情が少し引き締まる。
「写真に関係するものですか?」
「たぶん。いや……今回は、たぶんよりもう少し強いかも」
「詳しく聞きます」
「モモも起きてからでいい?」
「もちろんです」
シモンは急かさなかった。
「体調だけ先に」
「全部普通。頭痛なし、吐き気なし、目眩なし。手足も普通。魔力も変な感じしない」
「夜中に目覚めた時も?」
「同じ」
「それなら、まずは朝を待ちましょう」
「うん」
その時。
隣の天幕から、布が擦れる音がした。
「……私、起きてます」
中からモモの声がする。
「聞いてた?」
「最後の方だけです」
入口が開き、モモが顔を出した。
桃金色の髪はまだ少し乱れている。
「夢、見たんですか?」
「見た」
モモは天幕から出ると、外套を肩へ掛けながら二人のところへ来た。
「帳面取ってきます」
「先に聞かなくていいの?」
「聞きながら書いた方が忘れません」
「起きたばっかりなのに仕事早いな」
「気になりますから」
モモは馬車へ向かい、すぐに薄茶色の帳面と炭筆を持って戻ってきた。
三人は消えた火床の近くへ腰を下ろす。
「じゃあ話すぞ」
「はい」
「お願いします」
ルシルは目を閉じ、一つずつ夢の内容を思い出した。
「誰かが少し離れたところに立ってた」
「誰かは分かります?」
「分からない。顔も見えてない。声も……笑ってたような感じはするけど、聞こえた言葉はない」
モモが書く。
「場所は?」
「分からない」
「以前の白い壁は?」
「今回は覚えてない。同じ場所かも分からない」
シモンが頷く。
「そこは結びつけないでおきましょう」
「うん」
「ルシル様は何をしていました?」
「両手で何か持ってた」
「何を?」
「黒くて四角いもの」
モモの炭筆が止まる。
「以前の夢にも四角い何かがありました」
「でも同じものかは分からない」
ルシルがすぐ付け加える。
「前の夢じゃ色も大きさも分からなかったから」
「その通りです」
シモンも同意する。
「今回は?」
「両手で持てるくらい。少なくとも、自分より大きいものじゃない」
「重さは?」
「分からない。でも両手で普通に持ってたから、ものすごく重い感じではなかったと思う」
「形は完全な箱?」
「そこまでは……」
ルシルは眉を寄せる。
夢の中で見ていたはずなのに、細部を思い出そうとすると輪郭がぼやける。
「四角っぽい。それ以上は分からない」
「十分です」
シモンは無理に思い出させようとしなかった。
「それを誰かへ向けていた?」
「うん」
昨日、鹿を見た時に自然に浮かんだ感覚。
写真を撮る時、何かを対象へ向ける。
昨夜の夢では、実際にそれらしい動きをしていた。
「両手で持って、前にいる誰かへ向けてた。それで……」
ルシルは右手の人差し指を少し動かす。
「ここで何かを押した」
「何を押したかは?」
「分からない。でも指で押したのは覚えてる」
「その後?」
「音がした」
モモが顔を上げる。
「カシャ、ですか?」
「うん」
昨夜、自分が目覚めた直後に口にした音。
「カシャって、小さい音。その瞬間に……写真を撮ったって思った」
「夢の中で?」
「目が覚めてからも。今もそう思う」
シモンが静かに聞く。
「『写真を撮った』という認識について、これまでより確信が強い?」
「強い」
「では、黒い四角いものは写真を撮るための道具だと思いますか?」
ルシルはすぐには答えなかった。
ここは混ぜない方がいい。
「……かなりそう思う。でも、絶対とは言えない」
「理由は?」
「夢だから」
シモンの口元が少し緩んだ。
「十分冷静ですね」
「だって夢で見ただけだし。俺の中にある変な知識が夢になっただけかもしれないだろ」
「ええ。その可能性は残ります」
モモが帳面へ書き込む。
「じゃあ、『黒い四角いものを両手で持ち、離れた人物へ向ける。人差し指で何かを押すと、カシャという音。ルシル様は写真を撮ったと強く認識。ただし夢のため、実在する道具かは未確定』」
「それでいい」
「以前の夢との関係は不明、と」
「うん」
モモは書き終えると、炭筆を止めた。
「名前は分からないんですか?」
「名前?」
「その黒いものの」
ルシルは考える。
写真を撮る道具。
黒い四角。
両手。
指で押す。
カシャ。
何かが喉元まで出かかるような感覚があった。
「……カ」
ルシルが眉を寄せる。
モモもシモンも黙って待つ。
「カ……」
出そうで出ない。
無理に追いかけようとすると、逆に遠ざかる。
「駄目だ」
ルシルは息を吐いた。
「何かありそうなんだけど、出てこない」
「無理に出さなくていいでしょう」
シモンがすぐ言った。
「頭痛は?」
「ない」
「なら、そこで止めてください」
「分かった」
モモも帳面へ余計な推測を書かなかった。
「『名称不明』にしておきます」
「それで」
ルシルは自分の両手を見た。
夢の中では、この間に黒いものがあった。
指を押す。
音。
そして写真。
「前よりは進んだな」
「かなり」
モモが頷く。
「写真を撮る時に何かを向ける、って昨日分かったばかりでしたから」
「それが夢で形になった」
シモンはそう言ったあと、少し考える。
「ただし順序には注意しましょう」
「順序?」
「昨日、ルシル様自身が『何かを向ける』と考えた。その情報を元に、脳が夢を作った可能性もあります」
「ああ」
ルシルは納得した。
「夢を見たから昨日の感覚が正しかった、とは限らないってことか」
「ええ」
「なるほど」
モモが帳面へ小さく追記する。
「それも書きます」
「何て?」
「『前日に道具らしきものを向ける感覚が先にあったため、その影響を受けた夢の可能性あり』」
「そこまで書く?」
「後で見た時、順番が分かった方がいいです」
シモンが頷く。
「それは有用ですね」
ルシルは二人を見て笑った。
「俺より二人の方が真面目に調べてない?」
「ルシル様が適当すぎるんです」
「適当って」
「昨日の夜、『分かった時に考えればいい』みたいな顔してました」
「顔で分かるの?」
「何となくです」
「また顔」
モモが笑う。
夢の話はそこで終わった。
新しいことは増えた。
しかし、答えが出たわけではない。
黒い四角い道具らしきもの。
それが写真と関係している可能性は高まったが、実在するのか、どこからルシルが知識を得たのかは何も分かっていない。
それでよかった。
「朝飯にしよう」
ルシルが立ち上がる。
「切り替えが早いですね」
「腹減った」
「いつも通りですね」
「健康ってことだろ」
モモも帳面を閉じて立ち上がった。
「今日は豆ですか?」
「なんで朝から豆に戻すんだよ!」
林の朝に、三人の笑い声が広がった。
◇
朝食を済ませ、天幕を片づける頃には、木々の間にも十分な光が入っていた。
昨夜の野営地には異常がない。
警戒魔法も一度も大きなものへ反応しなかったという。
「鹿も来なかった?」
「少なくとも設定範囲には」
「じゃあ静かな夜だったんだな」
「ルシル様は夢で忙しかったようですが」
「忙しいってほど長くないよ。すぐ終わったし」
トルクとベルクの状態も問題なかった。
今朝はモモが最初に御者台へ座る。
「昨日の午後も私でしたけど、いいんですか?」
「今日は最初の道、昨日より少し広いから練習にちょうどいい」
シモンが答える。
「疲れたらすぐ代わります」
「お願いします」
ルシルは車内へ入り、窓を少し開けた。
馬車が動き出す。
野営地を出て街道へ戻ると、朝の林は昨日の夕方より明るかった。
木漏れ日が路面へ細かな模様を作っている。
「昨日の写真の話、思い出すな」
ルシルが言う。
「木漏れ日ですか?」
「うん」
「今日は何か新しく分かります?」
「俺に聞かれても」
「試しに見てみたら?」
モモが御者台から振り返らずに言う。
ルシルは窓の外を見る。
葉。
光。
道。
動く馬車から見える景色。
写真。
撮る。
黒い四角い何か。
カシャ。
「……何も出ない」
「残念です」
「残念がるなよ」
「毎回出てきたら、それはそれで心配です」
シモンが隣で地図を確認する。
「何も出ない方が普通でしょう」
「じゃあ普通でいいや」
ルシルは窓枠へ軽く腕を置いた。
写真について考えようとすれば考えられる。
けれど、旅をしている間ずっとそれだけを考えるつもりはなかった。
今は林の道を進んでいる。
それだけでも見るものは十分にある。
◇
一時間ほど進むと、木々の種類が少し変わり始めた。
背の高い木に混じって、白っぽい樹皮を持つ細い木が増えている。
「昨日までなかった木ですね」
モモが速度を保ちながら言う。
「本に載ってるかな」
ルシルが馬車の棚を見る。
「植物の本?」
「『街道沿いの草花百選』は木も少し載ってたよな」
「ありましたね」
ルシルが本を取り出す。
頁をめくり、樹木の項目を探す。
「白い幹……これ?」
挿絵には、細い幹と小さな葉を持つ木が描かれていた。
『白皮樹』
「そのままだな」
「分かりやすくていいでしょう」
シモンが外を見る。
「特徴は似ていますが、樹皮の模様が少し違うようにも見えます」
「じゃあ別?」
「近縁種かもしれませんし、成長段階の違いかもしれません」
「確定できないな」
「そうですね」
ルシルは本を閉じた。
「モモ、書く?」
「今日は書きません」
「即答」
「見た木を全部書いていたら、本当に帳面がいっぱいになります」
「使い方分かってきたな」
「私の帳面ですから」
モモは少し得意そうだった。
道は緩やかに下り始めた。
急な坂ではない。
トルクとベルクの速度を少し抑える程度で十分だった。
前方から小さな鈴の音が聞こえる。
「何か来ます」
モモが手綱を整える。
シモンも顔を上げた。
曲がりの先から現れたのは、一頭立ての小さな荷車だった。
御者台には年配の男性。
荷台には籠がいくつも積まれている。
双方が速度を落とし、広い場所ですれ違う。
「おはようございます」
「おはよう。南へ行くのか?」
「はい」
「この先、道はいいぞ。ただ昼頃から風が出るかもしれん」
「雨ですか?」
シモンが尋ねる。
「雨じゃないと思う。東の雲も薄いしな。ただ林を抜けたところは風が通る」
「林を抜ける?」
ルシルが反応する。
「ああ。もう半日も行かないうちに開けるよ。その先は低い丘が続く」
「町や村は?」
「小さい集落ならある。道沿いじゃなく、少し西へ入ったところだ。旅人なら、今日は街道沿いの『二本松の休み場』まで行く方が分かりやすいかもな」
「二本松?」
「名前通り、大きな松が二本ある。水場と馬を繋ぐ横木があるよ。宿じゃないけどな」
「そこから次の宿場までは?」
「明日一日走れば着けるだろう。馬次第だが」
シモンが地図を見る。
「地図に名前はありませんが、位置としてはこの辺りでしょうか」
男が覗き込む。
「ああ、その辺だ」
「ありがとうございます」
「気をつけてな」
荷車が北へ進んでいく。
モモは再び手綱を動かした。
「二本松の休み場」
「今日の候補だな」
「まだ決めませんよ」
シモンが言う。
「分かってる。着いて見てから」
「なら結構です」
「最近シモンに言われる前に分かるようになってきた」
「いいことです」
「褒められた」
「普通のことです」
「すぐ戻された」
モモが笑いながら馬車を進める。
◇
昼前。
林の終わりは突然やってきた。
木々が少しずつ減っていたわけではない。
道が緩く曲がった先で、視界が一気に開いた。
「わあ……」
モモが思わず声を漏らす。
ルシルも車内から身を乗り出しすぎない程度に前を見る。
そこには低い丘が幾重にも続いていた。
南平原ほど平らではない。
山ほど高くもない。
緩やかな起伏を描く土地に、草地と低い灌木、小さな林がまだらに広がっている。
空が大きい。
「久しぶりに遠くまで見える」
ルシルが言う。
「林を何日も通ったわけではないのに、長く感じますね」
「見えない景色に慣れてたからかな」
道は丘の間を縫うように南へ伸びている。
遠くに細い煙が一筋見えるが、集落か旅人の火かは分からない。
男が言っていた通り、風も強くなった。
草が一方向へ揺れる。
モモの髪も外套の上で流れた。
「少し休憩します?」
「林を抜けたところに広い場所があります」
シモンが周囲を見る。
「風に二頭を慣らす意味でも、一度止めましょう」
「賛成」
街道脇の平らな場所へ馬車を寄せる。
トルクとベルクを休ませ、三人も外へ出た。
「風強い」
ルシルが外套の前を押さえる。
「でも気持ちいいです」
モモは髪を片手で押さえながら丘を見る。
「草原とは違いますね」
「凸凹してる」
「表現が雑です」
シモンが眼鏡を押さえた。
「丘陵地と言ってください」
「きゅうりょうち」
「なぜ今覚えたように言うんです?」
「知ってるけど、普段言わない」
三人は笑う。
休憩ついでに軽く食べることにした。
昼にはまだ少し早いが、朝食も早かった。
パン、乳酪、干し肉。
そして少量の高原赤実。
「まだ残ってたんだ」
「これでかなり減ります」
シモンが袋を見る。
「次の町までには食べ切れそうですね」
ルシルが一粒食べる。
酸味はもう慣れた。
「最初に名前分からなかった頃が懐かしいな」
「リュカで名前を聞けましたからね」
「実物を見せて確認したの、次の日だったっけ」
「はい」
モモも一粒口へ入れる。
「ちゃんと高原赤実でした」
今では、あの赤い乾燥果実に「名前の分からない食べ物」という感覚はない。
小さなことだが、それも旅の途中で分かったことの一つだった。
ルシルは丘を眺めながらパンを食べる。
風で草が波のように動く。
「これも写真にしたら綺麗かな」
モモが言った。
「たぶん」
「動いてる草も、その瞬間で止まるんですよね」
「そうだと思う」
「風は写る?」
ルシルの手が止まった。
「風?」
「風そのものって見えませんよね。でも草は揺れてます」
「……どうなんだろ」
ルシルは景色を見る。
風は見えない。
だが、揺れる草。
流れる髪。
膨らむ外套。
そういうものは見える。
「風自体は……撮れない?」
口から出た。
「でも、風で動いてるものは残るから、見たら風があったって分かる……のかな」
モモが目を輝かせる。
「それ、面白いです」
「新しい知識ですか?」
シモンが確認する。
ルシルは首を傾げた。
「いや。これは普通に考えただけな気がする」
「写真そのものについて新しく知っていたわけではない?」
「うん。見えないものは写らないだろうって考えただけ」
「では記録する必要はないでしょう」
「はい」
モモも帳面を出さなかった。
「何でも写真の新情報にしない」
「大事ですね」
「でも写真があったら撮りたい?」
ルシルが尋ねる。
「撮りたいです」
モモは迷わなかった。
「この丘、全部」
「全部入るのかな」
その瞬間。
ルシルの頭の中に、また言葉になりかけた何かが浮かんだ。
広い景色。
全部。
写真。
「……広く……」
「ルシル様?」
「いや、何か……」
目を細める。
「景色を広く撮る時……何か言い方があったような」
「言葉ですか?」
「うん。でも出ない」
「では追わないでおきましょう」
シモンがすぐ止める。
「そうだな」
ルシルも素直に諦めた。
出そうで出ないものを無理に引っ張り出す必要はない。
もし本当に自分の中にあるなら、また自然に出てくるかもしれない。
◇
休憩後はシモンが御者を担当した。
丘陵地の道は林より見通しがいい。
ただし上り下りが細かく続くため、二頭の負担を見ながら速度を調整する必要がある。
「山道ほどじゃないけど、ずっと平らでもないな」
「短い上り下りが連続しますね」
シモンは前方の傾斜を見ながら答える。
「急ぐと二頭が疲れそう」
「ええ。今日は距離より状態優先で」
モモは車内で帳面を開いていた。
「何書いてる?」
「昨日の枝尾栗鼠のところ、特徴を少し足してます」
「覚えてた?」
「本も見てます」
セイラで買った本が横に開かれている。
「丸い耳、長い尾、茶灰色。木の実を持っていた」
「キィッて鳴いた」
「それも」
「写真があったら簡単なのにな」
「またそれ言ってます」
「だって本当にそう思うから」
シモンが御者台から声をかける。
「便利さが分かるほど、存在しないことが不便に感じるようになってきましたね」
「それ」
ルシルは大きく頷いた。
「最初は何なのかも分からなかったのに」
「今は用途だけならかなり具体的になりました」
「でも作り方は全然分からない」
「仕組みもです」
「名前も、写真以外は分からない」
「黒い道具の名前ですね」
「何か出そうなんだけどなあ」
「無理に考えない」
モモとシモンの声が重なった。
ルシルは二人を見る。
「二人して」
「昨日から何度も言ってますから」
「頭痛が出てからでは遅いです」
「今まで出てないけど」
「だからといって無理をしていい理由にはなりません」
「分かったよ」
ルシルは両手を上げた。
「考えない」
そう言って窓の外を見る。
丘の上に、白い点がいくつか見えた。
「あれ何?」
モモも帳面から顔を上げる。
「石?」
「動いてる」
シモンが速度を少し落とした。
白い点の一つが、確かに歩いている。
「羊?」
「また?」
「まだ遠いので分かりません」
近づくにつれ、正体が見えてきた。
羊ではなかった。
「山羊?」
丘の斜面に、白や茶色の山羊が十数頭いる。
街道からは離れている。
近くには柵も見えた。
「放牧してるんだな」
「今度は道へ出てきませんね」
モモが安心したように言う。
「出てこなくていい」
「トルクが寂しがります」
「なんでトルクが家畜全部と友達になる設定になってるんだよ」
「羊とは仲良くなりました」
「なってないってシモンが言ってただろ」
「僕を巻き込まないでください」
山羊たちはこちらを気にする様子もなく、斜面の草を食べている。
馬車はそのまま通り過ぎた。
わざわざ止まらない。
けれど三人とも、しばらく後ろを見ていた。
◇
午後。
二本松の休み場は、本当に名前通りだった。
「でかい」
ルシルが最初に言った。
街道からでも分かるほど大きな二本の松が、少し離れて並んで立っている。
周囲の低い丘や灌木より明らかに高く、遠くから見ても目印になる。
二本の間には平らな休憩地があり、石造りの水場と馬を繋ぐ横木が設けられていた。
先客は一台。
幌付きの小型馬車が止まり、その横で男女二人が休んでいる。
「どうする?」
「まだ日没までは余裕があります」
シモンが空を見る。
「ただ、ここから先に確実な水場はしばらくありません」
「今日はここでもいい?」
モモが尋ねる。
「俺はいいと思う」
ルシルはトルクとベルクを見る。
「二頭も丘の上り下り続いたし」
「僕も賛成です」
その場で決まった。
馬車を先客から十分離れた場所へ止める。
「こんにちは」
相手の男が声をかけてきた。
「こんにちは。ここ使わせてもらっても大丈夫ですか?」
「もちろん。俺たちも旅人だよ」
女性の方も笑う。
「二本松は広いから、あと二台くらい来ても平気よ」
「ありがとうございます」
トルクとベルクを外し、まず水と休息。
先客の馬は一頭だけで、横木の反対側へ繋がれている。
ベルクも距離があるため落ち着いていた。
「今日はここで終わりだな」
ルシルが二本の松を見上げる。
枝が風を受け、低く鳴っている。
「まだ明るいです」
モモが言う。
「何する?」
「何もしなくてもいいんじゃないですか?」
「……それもそうか」
旅を始めたばかりの頃なら、早く止まった分だけ何かを探したくなったかもしれない。
今は違う。
馬を休ませる。
自分たちも休む。
景色を見る。
それだけでも一日は十分だった。
◇
夕方まで、三人は本当に大したことをしなかった。
天幕を張る。
水を補充する。
明日の分の食料を確認する。
馬車の車輪や固定具を簡単に見る。
必要なことを終えた後は、二本松の根元近くに座った。
風がある。
けれど木が大きいため、幹の近くでは少し弱まる。
「松の匂いする」
ルシルが幹へ背を預ける。
「樹脂の匂いですね」
シモンが答える。
「これ、何歳くらいなんだろ」
「分かりません」
「百年?」
「可能性はありますが、樹種によって成長速度も違います」
「じゃあ二百年?」
「なぜ増やすんです?」
「大きいから」
「大きさだけでは判断できません」
モモが木を見上げる。
「この二本、同じくらいですよね」
「そうだな」
「一緒に植えたんでしょうか」
「それも分からないですね」
「分からないことばっかり」
ルシルが笑う。
「でも、写真と違って気にならないな」
「何がです?」
「この木が何歳か分からなくても、別に答え欲しくならない」
「写真は欲しいんですか?」
「ちょっと欲しい」
ルシルは自分の両手を見る。
「昨夜の夢が、今までで一番はっきりしてたからかな」
黒い四角。
誰かへ向ける。
指で押す。
カシャ。
「使ってた感じがした」
「懐かしかったですか?」
モモの質問に、ルシルは少し驚いた。
「懐かしい?」
「夢の中で」
ルシルは考える。
怖くはなかった。
驚いてもいなかった。
黒いものを両手で持つ動作も、人差し指で何かを押す動作も、ごく普通にやっていた。
「……慣れてた感じはした」
口にすると、自分でも少し不思議だった。
「初めて触ったものじゃない感じ」
「それは新しい情報ですね」
シモンがルシルを見る。
「夢の中の感覚ですけど」
「うん」
「記録します?」
モモが尋ねる。
「しておこうかな」
帳面を開く。
『昨夜の夢の中で、黒い四角いものを扱う動作に戸惑いはなく、ルシル様本人は「慣れていた感じ」「初めて触ったものではない感じ」がした。ただし夢の中の感覚であり、現実の経験かは不明。』
「こんな感じ?」
「うん」
シモンも読んだ。
「これなら事実と推測が分かれています」
「だんだん記録が本格的になってきました」
モモが少し嬉しそうに帳面を見る。
「最初は兎の絵だったのに」
「兎の絵も大事です」
「シモンの上手いやつ」
「また戻します?」
「戻す」
ルシルは笑いながら木の幹へ頭を預けた。
その時。
少し離れた場所から声がした。
「その帳面、旅日記かい?」
先客の女性だった。
水を汲みに来たらしく、桶を手にしている。
「似たようなものです」
モモが答える。
「見つけたものを書いていて」
「いいねえ。長旅すると、意外と忘れるから」
「やっぱり忘れます?」
「忘れる忘れる」
女性は笑った。
「最初の頃は全部覚えてるつもりなんだけどね。何年かすると、『あの料理どこの町だったっけ』とか、『あの変な鳥どこで見たっけ』とか」
「何年も旅してるんですか?」
ルシルが尋ねる。
「ずっとじゃないよ。夫と季節ごとに薬草や染料を運んでるんだ」
少し離れたところにいる男が片手を上げた。
夫らしい。
「旅の記録は?」
「私は書いてない。夫が帳簿をつけてるくらい」
「写真があれば楽なのに」
ルシルは自然に言った。
女性が首を傾げる。
「しゃしん?」
三人の空気がほんの少しだけ止まった。
当然だ。
これまで写真という言葉を知っていた者はいない。
「……すみません。俺が時々使う、よく分からない言葉なんです」
ルシルはごまかさず、それでも詳しく説明しすぎない形で答えた。
「景色を絵みたいに残せたら便利だな、くらいの意味で」
「ああ、そういうことか」
女性は深く追及しなかった。
「絵が上手けりゃねえ。私なんて馬を描いても犬になるよ」
「分かります」
ルシルが即答する。
「ルシル様もですか?」
モモが笑う。
「俺は黒耳野兎を描いたら耳だけでかくなった」
「それ見たいねえ」
「帳面にあります」
「モモ!」
女性が声を上げて笑った。
「見せてくれるのかい?」
「どうぞ」
「待って、シモンのもあるから!」
「なぜ僕まで巻き込まれるんですか」
結局、三人で描いた黒耳野兎の絵を見せることになった。
女性はルシルの絵を見て笑い、モモの絵を見て「可愛い」と言い、シモンの絵を見て目を丸くした。
「この人が一番上手いじゃないか」
「でしょう?」
ルシルが得意げに言う。
「なぜルシル様が誇るんです?」
「仲間だから」
シモンが一瞬黙った。
それから、わずかに笑う。
「そうですか」
女性は水を汲み終えると、自分たちの馬車へ戻っていった。
モモは帳面を閉じる。
「写真のこと、普通に言いましたね」
「言ってから気づいた」
「隠す必要がある情報ではありませんが、説明が難しいですね」
シモンが言う。
「これから気をつける?」
ルシルが尋ねる。
「無理に隠す必要はないでしょう。ただ、相手が知らない言葉である可能性は高い。その前提で使えばいいと思います」
「分かった」
写真という言葉は、三人の間ではすでに普通に使うようになっている。
だからこそ、外では知られていないことを忘れかけていた。
それも一つの注意点だった。
◇
夕食は、先客の夫婦とは別々に取った。
同じ休憩地を使っているからといって、必ず一緒に食事をする必要はない。
互いに少し離れた火床を使い、それぞれの時間を過ごしている。
三人は乾燥山青菜と保存肉を使ったスープを作った。
「山芋根じゃない」
モモが鍋を見る。
「約束通り」
「誰との約束です?」
「昨日の俺」
「自分と約束したんですか」
「いいだろ別に」
乾燥山青菜は水で戻すと少し色が濃くなり、独特の香りが戻ってくる。
セイラで食べた新鮮なものとは違うが、保存食としては十分だった。
「これもそろそろ減ってきたな」
ルシルが食べながら言う。
「次の宿場で補充できるものを見ましょう」
「同じものじゃなくてもいいよな」
「もちろんです」
「次の土地のもの」
「また増やしすぎないようにしてください」
「今日、俺そんなに買ってないだろ」
「今日は店がありません」
「それを言ったら終わりだよ」
夕食後。
空は赤から紫へ変わり始めた。
二本の大きな松が黒い影になっていく。
先客の夫婦も火を小さくしている。
トルクとベルクは静かに休んでいた。
「明日は?」
モモが尋ねる。
シモンが地図を開く。
「今日聞いた話が正しければ、街道を一日進めば次の宿場圏へ入ります。ただ、丘陵地がどこまで続くかは地図だけでは分かりにくいですね」
「今日みたいな道なら進めそう」
「ええ。ただし二頭の状態次第です」
「宿場の名前は?」
ルシルが地図を覗く。
「この地図では……」
シモンが指を動かす。
「『ハルゼ』とあります」
「ハルゼ」
「リュカよりは少し大きいようです。南西街道と東西の地方道が交わる場所なので、旅人も多いかもしれません」
「店あるかな」
「最初にそこですか」
「食料減ってきたって今話しただろ」
「今回は正当な理由がありますね」
「今回はって何だよ」
モモが笑う。
「本屋さんもあるでしょうか」
「リュカより大きいなら可能性はありますが、分かりません」
「鳥の本?」
ルシルが尋ねる。
「それも見たいです。でも……」
モモが帳面を見る。
「写真って言葉、載ってないかなって」
「本に?」
「はい。今まで見た本にはなかったですけど、少し大きい宿場なら違う本があるかもしれません」
ルシルは少し考えた。
「探してみる?」
「無理に探すほどじゃないです。でも本屋さんがあれば」
「それくらいならいいでしょう」
シモンも同意した。
「ただし、『写真』だけを目的に町中の書物を片っ端から調べる必要はありません」
「分かってます」
「旅のついで」
「はい」
それがちょうどいい。
写真の謎を追うための旅ではない。
海へ向かう旅の途中で、もし手がかりがあれば見る。
何もなければ、そのまま次へ行く。
ルシルはその距離感が気に入っていた。
◇
夜。
三人はそれぞれの天幕へ入った。
今夜もシモンの警戒魔法が設定されている。
先客の夫婦がいるため、昨夜より少しだけ人の気配も多い。
ルシルは毛布へ入り、目を閉じる。
昨夜の夢が頭へ浮かんだ。
黒い四角。
両手。
人差し指。
カシャ。
そして、その向こうに立つ誰か。
(誰だったんだろ)
そこだけは気になった。
けれど、顔を思い出そうとしても何もない。
知らない人だったのか。
知っている人だったのか。
それさえ分からない。
(まあ、いいか)
ルシルは考えるのをやめた。
明日はハルゼ方面へ進む。
丘陵地。
新しい宿場。
食料の補充。
本屋があれば、少し見る。
旅の予定はそれだけで十分だ。
眠気が近づく。
風が二本の松を揺らし、低い葉音が続いている。
そして。
眠りへ落ちる直前。
ルシルの頭の中へ、唐突に一つの音が浮かんだ。
カ。
昨日も出かけた最初の一音。
そこから先。
「……メ……」
ルシルは薄く目を開けた。
意識はまだ半分眠っている。
「カメ……」
続きが出そうだった。
しかし、そこで途切れる。
何だったのか分からない。
ルシルはぼんやり天幕の天井を見た。
(明日でいいや)
眠気の方が強かった。
目を閉じる。
数分もしないうちに、ルシルの呼吸は静かな寝息へ変わった。
本人が眠った後も、二本の松は夜風に揺れていた。
そして、まだ形になりきらない一つの言葉だけが、答えへ近づくように、ルシルの中へ残っていた。




