第55話 あと一文字が出てこないまま、次の宿場へ向かいます
目を覚ましたルシルが最初に思い出したのは、昨夜の夢ではなかった。
「……カメ」
毛布の中で、ぽつりと呟く。
天幕の向こうでは、朝の風が二本松の枝を揺らしている。昨夜より弱い風らしく、低く連続していた葉音も、今はときおり大きくなる程度だった。
ルシルは仰向けのまま天幕の天井を見つめる。
(確かに、ここまでは出た)
眠りへ落ちる直前だった。
前から喉元まで出かかっていた、写真を撮る道具らしきものの名前。それが昨夜は「カメ」というところまで自然に浮かんだ。
だが、その先がない。
「カメ……」
もう一度。
「カメ……カメ……」
何か続くはずだ。
そんな感覚だけはある。
「カメ……ル?」
違う。
「カメ……ロ?」
これも違う。
言葉として口にした瞬間、妙な違和感がある。
(何だこれ。あとちょっとな気がするのに)
考えれば考えるほど、逃げていく。
昨日シモンとモモから、無理に思い出そうとしないよう言われたばかりだった。
ルシルは額を押さえ、そこで追いかけるのをやめる。
「……朝飯にしよう」
写真を撮る道具の名前より、今は腹の方がはっきりしている。
毛布を畳み、外套を羽織って天幕を出た。
朝の二本松の休み場には、すでに人の気配があった。
昨日から一緒になった旅人夫婦の夫が、一頭の馬へ飼葉を与えている。少し離れたところでは妻が鍋を火へ掛けており、湯気が朝の冷たい空気へ細く上がっていた。
「おはよう」
夫の方が先に気づいた。
「おはようございます」
「よく眠れたか?」
「はい。そっちは?」
「こいつが夜中に一度鼻鳴らしたくらいだな」
男が自分の馬の首を撫でる。
「鹿でも近くを通ったのかもしれん」
「鹿……」
昨日、街道へ突然飛び出してきた鹿を思い出す。
「この辺も出るんですね」
「そりゃ出るさ。畑の近くじゃ嫌われることもあるけどな」
「作物食べるから?」
「そういうこと」
男は笑い、飼葉桶へ視線を戻した。
昨夜の警戒魔法は反応していなかったはずなので、鹿がいたとしても設定範囲の外だったのだろう。
ルシルもトルクとベルクの方へ向かう。
そこでシモンを見つけた。
すでに二頭の様子を確認していたらしく、ベルクの前脚から顔を上げる。
「おはようございます」
「おはよう」
「体調は?」
「普通。夢も見てない」
「それなら結構です」
「ただ……」
ルシルが言葉を切る。
シモンの眼鏡の奥の目が、わずかに細くなった。
「何か思い出しましたか?」
「思い出したっていうか、寝る直前に出てきた」
「何が?」
「名前」
その一言で、シモンの表情が変わる。
「写真を撮る道具の?」
「たぶん」
「全部?」
「いや」
ルシルは指を二本立てるようにしてから、三本目を出しかけてやめた。
「『カメ』まで」
「……カメ」
「そこから先が出ない」
シモンはすぐに答えを推測しようとはしなかった。
「その言葉が、例の黒い四角いものの名称だという確信は?」
「まだない。でも昨日、名前を思い出そうとした時に最初の『カ』だけ出ただろ?」
「ええ」
「寝る直前に、その続きみたいに『メ』が出た」
「なるほど」
「それで今朝ちょっと続きを考えてみたけど、分からなかった」
「頭痛は?」
「ない」
「吐き気や目眩も?」
「なし」
「では、続きは考えないでください」
「もうやめた」
「珍しく素直ですね」
「昨日二人に言われたからな」
「それを昨日のうちに覚えているなら安心しました」
「俺を何だと思ってるんだよ」
シモンが答える前に、後ろから足音がした。
「おはようございます」
モモだった。
片手には、すでに例の帳面を持っている。
「おはよう。何で帳面持ってるの?」
「ルシル様とシモン君が話してたので」
「まだ何も聞いてないだろ」
「何かあった顔でした」
「二人とも顔で判断するのやめない?」
モモは笑いながら近づいてくる。
「何かあったんですよね?」
「……あった」
「ほら」
ルシルは諦めた。
「道具の名前らしい言葉が、『カメ』まで出てきた」
モモの表情から眠気が消えた。
「カメ?」
「うん。そこまで」
「続きは?」
「分からない」
「じゃあ書きます」
帳面を開き、炭筆を走らせる。
昨日までの記録の続きに、新しい一行が加わった。
『就寝直前、写真を撮る道具らしきものの名称として「カメ」まで自然に浮かぶ。以前に出た「カ」から一音増えた。ただし名称との確定的な結びつきはなく、続きも不明。体調変化なし。』
「これで?」
「いいと思う」
ルシルが覗き込む。
「『カメ』だけ見ると、何か変な感じだな」
「何か別の意味があるんですか?」
「いや、ない……と思う」
答えながら、また妙な引っかかりがあった。
カメ。
何か別のものを指す言葉だった気もする。
けれど、それもはっきりしない。
「今、また考えましたね」
シモンに見抜かれた。
「ちょっとだけ」
「朝食にしましょう」
「はいはい」
「返事は一回で結構です」
モモが帳面を閉じる。
「でも、少しずつ増えてますね」
「増えてるな」
「最初は『写真』だけだったのに」
景色を一瞬で絵のように残すもの。
物や足跡も残せる。
あとで見返し、比較できる。
動いているものも、その瞬間を残せるらしい。
何かを対象へ向ける。
夢の中では黒い四角いものを両手で持ち、人差し指で何かを押した。
カシャという音がした。
そして今度は、その道具らしきものの名前が「カメ」まで出てきた。
「増えたけど、結局何なのかは分からないな」
「それでいいでしょう」
シモンが言う。
「分からないものを、分からない状態で正確に残しておく。そのための帳面です」
「旅の記録帳だったはずなのに」
ルシルが笑う。
「旅の途中で起きていることですから、旅の記録です」
モモは当然のように答えた。
確かにその通りだった。
◇
朝食を済ませた頃、先客の夫婦は一足先に出発することになった。
「俺たちは東へ曲がるから、途中まで同じ道だな」
夫が馬車の固定具を確認しながら言う。
「ハルゼまで行くんだったね?」
妻がモモへ尋ねる。
「今日中に着ければ、です」
「それがいいよ。昼を過ぎると風が強くなる日があるから、無理はしない方がいい」
「ありがとうございます」
「ハルゼは宿も何軒かある。馬連れなら町の南側より北側で探した方がいいかもね」
「北側?」
シモンが反応する。
「荷馬車向けの宿が多いの。南側は人だけ泊まる小さい宿が多かったはず」
「参考になります」
「ただ、最後に行ったのは半年前だから、変わってたらごめんよ」
「それでも助かります」
ルシルは二人の馬車を見る。
昨日聞いた通り、季節ごとに薬草や染料を運んでいるという。荷台には布を掛けた箱や籠が積まれており、旅そのものが仕事なのだろう。
「じゃあ、気をつけて」
「そっちもな」
夫婦の馬車が街道へ戻り、ゆっくり東寄りの丘へ向かっていく。
ルシルたちは急がない。
トルクとベルクの状態を確認し、天幕を片づけ、火の始末をしてから出発する。
最後にモモが二本の大きな松を見上げた。
「写真があったら、撮りたかったです」
「二本とも入れて?」
「はい」
「結構離れないと入らないかも」
「そうなんですか?」
「……たぶん」
ルシルは自分で言ってから首を傾げた。
「また何か出ました?」
「いや。大きいもの全部入れようとしたら離れるだろ、普通に」
「絵でもそうですね」
「だろ?」
今回は不思議な知識ではなさそうだ。
シモンも特に記録を勧めなかった。
「では出発しましょう」
最初の御者はルシル。
トルクとベルクが歩き出し、二本松が少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
◇
丘陵地の朝は明るかった。
昨日の林とは違い、少し高い場所へ出るたびに遠くまで見渡せる。
道の両側には背の低い草が広がり、ときどき灌木の集まりや小さな林がある。さらに遠くには畑らしい四角い土地も見え始めていた。
「人の住んでるところが増えてきたな」
ルシルが前を見る。
「ハルゼが近づけば、農地も増えるでしょう」
シモンは隣で地図を確認している。
モモは車内の窓から右側を眺めていた。
「あそこ、黄色い畑です」
「花?」
「たぶん」
丘の向こうに、淡い黄色の帯が見える。
距離があるため何を育てているのかは分からない。
「見に行く?」
ルシルが聞く。
「街道から外れるほどじゃないです」
モモはすぐ答えた。
「近くを通ったら見たいですけど」
「了解」
以前なら、気になるものを見つけるたびに止まりたくなっていた。
今も興味がなくなったわけではない。
ただ、全部へ近づく必要はないと三人とも分かってきている。
遠くから見るだけの景色もある。
名前を知らないまま通り過ぎるものもある。
それでも旅の一部には変わらない。
「前から荷車」
シモンが言った。
ルシルも気づいている。
丘を下ってくる小さな荷車が一台。
道幅は十分あるため、互いに少し端へ寄れば問題なくすれ違えそうだった。
近づいてくると、荷台に積まれているものが見えた。
「籠?」
「野菜みたいです」
モモが窓から見る。
葉の付いた根菜や、大きな丸い野菜らしきものが籠いっぱいに積まれている。
御者は若い男性だった。
「おはようございます」
「おはよう!」
明るい声が返ってくる。
「ハルゼへ?」
「はい!」
「今日は市の日だから、北門側は混んでるぞ!」
「市?」
「五日市! 農家が集まる日だ!」
男は荷車を止めるほどではない速度で教えてくれた。
「昼前が一番混む! 馬車なら気をつけて!」
「ありがとうございます!」
「いい旅を!」
荷車が通り過ぎる。
ルシルは前を向いたまま笑った。
「市だって」
「嬉しそうですね」
「だって店いっぱいあるんだろ?」
「常設の店とは限りませんが、食料補充にはちょうどよさそうですね」
「本もあるかな」
モモが言う。
「市に?」
「古本とか」
「可能性はありますが、期待しすぎない方がいいでしょう」
シモンの言葉にも、モモはがっかりしなかった。
「なかったら普通の本屋さんを探します」
「町へ着いてからですね」
「はい」
ハルゼ。
まだ見えてはいないが、少し楽しみが増えた。
◇
午前の後半になると、街道を行き交う人が明らかに増えた。
徒歩の旅人。
農産物を積んだ荷車。
空の荷台で北へ向かう者。
小さな家畜を連れた農夫。
ときには三台ほどの荷車が続いてくることもあり、そのたびにルシルは速度を調整した。
「町が近いって感じするな」
「ええ。今朝聞いた市の影響もあるでしょう」
シモンが前方を見る。
「次の丘を越えた辺りで、一度休憩しましょう。人通りが増えているので、町へ入る前に二頭を休ませたいです」
「賛成」
丘を一つ越える。
そこで街道脇に石造りの小さな水場を見つけた。
すでに二台の荷車が止まっている。
「混んでる?」
「待てば使えます」
「じゃあ少し先は?」
シモンが周囲を見る。
水場そのものは混んでいるが、その先に草地がある。
「馬車を止めるだけなら問題なさそうです」
「そこにしよう」
水場の利用を急がず、まず草地へ馬車を寄せる。
トルクとベルクを休ませ、順番が空いてから水を使った。
近くでは農家らしい老夫婦が荷車から籠を下ろしている。
中身は赤紫色の丸い野菜だった。
「見たことない」
ルシルが小声で言う。
「あとで市にあるかもしれません」
モモも気になっているらしい。
「聞いてみる?」
「買う時でいいでしょう」
シモンに止められた。
「何でもその場で聞かなくていいってことね」
「相手も作業中ですから」
「確かに」
三人は自分たちの昼食を用意する。
今日は簡単にパンと保存肉、それに残っていた乳酪を少し。
高原赤実も残りわずかになっていたため、三人で分けた。
「これで最後?」
モモが赤い実を一粒摘まむ。
「あと数粒あります」
シモンが袋を確認する。
「今日中に食べ切ってもいい量ですね」
「じゃあ夜かな」
「ハルゼで別のもの買ったら忘れそうです」
「それありそう」
ルシルは笑った。
市へ着けば、きっとまた知らない食べ物がある。
全部買うつもりはない。
だが、少しくらいなら試したい。
「ルシル様」
「何?」
「顔に出ています」
「まだ何も言ってないぞ」
「買いすぎないでくださいね」
「まだ町にも着いてない!」
モモが隣で肩を揺らして笑った。
◇
昼食を終えて少し休み、今度はシモンが御者台へ座った。
人通りが増えているため、三人の中で最も馬車の扱いに慣れているシモンへ任せる。
ルシルは車内へ戻り、窓から外を眺めていた。
農地が増えていく。
畑の間には細い水路があり、ところどころに小屋が建っている。作業中の人の姿も見え、街道を通る馬車へ軽く手を上げる者もいた。
「ハルゼ、まだ見えないな」
「もう近いはずです」
シモンが答える。
「次の高い丘を越えれば、地形的には見える可能性があります」
「本当に?」
「地図が正確なら」
「見よう」
「僕は前を見ています」
「シモンはそれでいい」
馬車が緩い坂を上っていく。
トルクとベルクは一定の歩調を保っている。
頂上へ近づくにつれ、風が少し強くなった。
そして丘を越えた。
「あ」
ルシルが声を漏らす。
見えた。
低い丘に囲まれた広い盆地。
その中央近くに、まとまった建物が並んでいる。
リュカより明らかに大きい。
石と木で造られた家々。
何本もの煙。
街道へ続く荷車の列。
町の外側にも畑や牧草地が広がり、北側には大きな馬車置き場らしき空間まで見えた。
「あれがハルゼ?」
「位置から考えて間違いないでしょう」
「大きいですね」
モモも反対側の窓から身を乗り出さない程度に見る。
「セイラとは違う感じ」
「山の町ではありませんからね」
シモンが速度を調整する。
「ここから下りです。見るのは構いませんが、しばらく話しかけすぎないでください」
「分かった」
「はい」
下り道は広く整備されていた。
だが市の日だからか、上ってくる荷車も多い。
シモンは前後の間隔を見ながら慎重に進む。
ルシルは邪魔をしないよう黙って町を眺めた。
(また新しい町だ)
それだけで胸が少し弾む。
宿を探す。
馬を休ませる。
市を見る。
食べ物を補充する。
本屋があれば覗く。
やることはある。
けれど全部を今日中にする必要はない。
町は逃げない。
◇
ハルゼ北側の入口へ着いたのは、午後に入ってからだった。
大きな城壁はない。
街道脇に石柱が二本立ち、その間に木製の看板が掲げられている。
『ハルゼ宿場町 北口』
「宿場町なんだ」
「複数の街道が交わりますからね」
入口の脇には簡単な案内板もあった。
『北馬車区』
『中央市』
『南宿区』
『東街道』
『西街道』
「分かりやすい」
ルシルが感心する。
「初めて来る人が多いのでしょう」
「まず北馬車区?」
「ええ。昨日の方の話もありますし、二頭と馬車を置ける宿を探しましょう」
町へ入る。
すぐに人の多さが分かった。
農作物を積んだ荷車が何台も並び、空いた場所では商人が声を上げている。
「根菜安いよ! 今朝採れたばっかりだ!」
「干し豆あるよー!」
「東丘の乳酪! 味見できるよ!」
モモが右を見る。
ルシルが左を見る。
「見たい」
「まず宿です」
シモンの声が前から飛んでくる。
「分かってる!」
「今すぐ降りそうな顔でした」
「降りないって!」
北馬車区には、厩付きの宿が何軒も並んでいた。
大きな看板。
馬車を入れられる広い門。
荷運びの人々。
リュカの静かな宿とはまるで違う。
「ベルク大丈夫かな」
ルシルが心配する。
「そこは見て選びます」
シモンも同じことを考えていたらしい。
一軒目。
広い。
しかし厩には十頭以上の馬がいる。
「ここはやめましょう」
シモンの判断は早かった。
「ベルクが落ち着かない可能性があります」
「次」
二軒目。
馬車置き場は十分だが、宿の主人から「今日は厩がほぼ埋まっている」と言われた。
三軒目。
通りから一本奥へ入った場所にあった。
看板には『風見鶏の宿』。
馬車置き場は一軒目ほど広くないが、厩は建物の裏側にあり、通りの喧騒がかなり弱い。
「見せてもらえますか?」
シモンが宿の主人へ尋ねる。
「もちろん」
案内された厩には八つの区画があった。
使用中は三つ。
しかも端に二つ並んで空いている。
ベルクは他の馬を気にして耳を動かしたが、距離があるため強く警戒する様子はない。
トルクはいつも通りだった。
「ここどう?」
ルシルが小声で尋ねる。
「悪くありません」
シモンは厩の床、水桶、馬車置き場への動線まで確認する。
「部屋は?」
「三人なら二階に空きがあるよ。個室三つ並びも取れる」
主人が答える。
「食事は?」
「朝だけ。夜は中央市か、近くの食堂へ行った方がいい」
「何泊?」
ルシルがシモンを見る。
「まず一泊でいいでしょう。町を見て、必要なら延長を相談すればいい」
「賛成」
モモも頷いた。
宿が決まった。
まずはトルクとベルクを厩へ入れる。
水と飼葉を確認し、二頭が落ち着いたところで馬車の固定も済ませた。
「よし」
ルシルはようやく宿の前へ戻る。
通りの向こうから、市の賑やかな声が聞こえてくる。
「行っていい?」
「何をそんなに待っていたんですか」
「市!」
「分かっています」
シモンは呆れながらも止めなかった。
「ただし、最初に必要な食料を確認します。その後で見て回りましょう」
「本屋さんも」
モモが言う。
「それも場所を聞きましょう」
「写真の本」
「写真の本があると決まったわけではありません」
「分かってます」
三人は宿の主人から中央市への道を聞いた。
「本屋もあるよ」
主人は教えてくれた。
「中央市の西側。『積み本亭』って店だ」
「積み本亭」
モモの目が輝く。
「古本も置いてる?」
「新しいのも古いのも。店主が何でも集める人でね。旅の本なら結構あると思う」
「ありがとうございます!」
宿を出る。
ルシルは中央市へ続く通りを見た。
「食料が先」
「はい」
「それから本屋」
「はい」
「そのあと食べ歩き?」
「量次第です」
「シモン厳しい」
「夕食が食べられなくなるほど買わないでくださいと言っているだけです」
「じゃあ少しならいい?」
「僕に許可を取る必要はありません。共有の旅費を無駄にしない範囲なら」
「よし」
「急に元気になりましたね」
モモが笑う。
人の流れへ混じり、三人は中央市へ向かった。
◇
中央市は、北口から見た以上に賑やかだった。
常設の店の前へ、今日だけの露店が並んでいる。
野菜。
果物。
穀物。
乳酪。
乾燥肉。
布。
籠。
木工品。
農具。
香辛料。
旅人向けの保存食まである。
「全部見たい」
「一日では無理ですよ」
「明日もある?」
「五日市なら今日だけの店もあるでしょう」
「じゃあ今日見ないと」
「必要なものからです」
シモンはぶれない。
まず保存食。
乾燥豆はまだあるため買わない。
硬いパンを補充。
日持ちする根菜を少量。
塩。
馬用の補助飼料。
さらに、先ほど街道で見た赤紫色の丸い野菜を見つけた。
「あった」
ルシルが立ち止まる。
露店の籠に、拳より少し大きな赤紫色の野菜が積まれている。
「これ何ですか?」
店番の女性へ尋ねる。
「赤玉菜だよ」
「どうやって食べる?」
「煮ても焼いてもいい。生でも薄く切れば食べられるけど、ちょっと辛みがあるね」
モモが一つ持たせてもらう。
「重いです」
「中が詰まってるからね」
「日持ちは?」
シモンが尋ねる。
「丸のままならそこそこ。旅なら二、三個で十分じゃない?」
三人で顔を見合わせる。
「二個?」
「二個で」
シモンが決めた。
「三個じゃなくて?」
「初めて食べるものを大量に買わない」
「はい」
ルシルは素直に引いた。
必要な買い物を終える頃には、荷物が少し増えていた。
もちろん大半は収納魔法へ収めるため、持ち歩く必要はない。
「次、本屋さん?」
モモが尋ねる。
「その前に」
ルシルが屋台を見る。
「一個だけ」
「何です?」
「あれ」
三人の視線の先。
薄い生地で乳酪と刻んだ野菜を包み、鉄板で焼いている店がある。
香ばしい匂いが流れてくる。
「一個を三人で?」
「味見」
シモンが店と時間を見た。
「それなら」
「やった」
焼きたてを一つ買い、三等分してもらう。
外側は薄くぱりっとしており、中から溶けた乳酪と刻んだ青菜が出てくる。
「熱っ」
「気をつけてください」
「でもうまい」
モモも小さく息を吹きかけてから食べる。
「これ好きです」
「夕飯前ですよ」
「三分の一です」
「分かっています」
シモンも食べた。
「どう?」
「悪くありません」
「出た」
「何がです?」
「シモンの『悪くありません』」
「普通の感想です」
三人は笑いながら市場を抜けていった。
◇
『積み本亭』は、名前の通りだった。
「……本当に積んである」
ルシルが入口で足を止める。
店の中。
棚に本が並んでいる。
それだけではない。
棚の上にもある。
机にもある。
壁際には、床から腰の高さまで本が積まれている場所まである。
「崩れないんですかね」
モモが小声で言う。
「僕に聞かないでください」
奥から声がした。
「崩さなきゃ崩れんよ」
三人が見る。
白髪交じりの髪を後ろで束ねた、小柄な老人が座っていた。
分厚い本を読んでいる。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「旅の本か? 地図か? 料理か? 魔物か? 古い記録か?」
次々に出てくる。
「色々あるんですね」
「本屋だからな」
老人は本から目を上げた。
「何を探してる?」
モモがルシルを見る。
ルシルもモモを見る。
シモンが小さく息を吐いた。
「まず、旅先の景色や出来事を記録する方法について書かれた本はありますか?」
「絵か?」
「絵も含みます」
「なら奥の左。写生、測量記録、旅日誌、その辺だ」
「ありがとうございます」
三人は言われた棚へ向かう。
モモが一冊ずつ背表紙を見る。
『旅人のための簡易写生』
『植物記録の描き方』
『街道測量入門』
『西方旅日誌集』
「写真は……」
小声で呟く。
当然ながら見当たらない。
ルシルも本の題名を追う。
写生。
記録。
絵。
風景。
どれも写真とは違う。
「店主さんに聞く?」
モモが囁く。
「聞いてみよう」
三人は老人のところへ戻った。
「すみません」
「見つからんかったか?」
「一つ、言葉を探してるんです」
「言葉?」
老人が本を閉じる。
ルシルは少し迷ってから口にした。
「『写真』って言葉、知ってますか?」
「しゃしん?」
老人の眉が寄る。
数秒。
「知らんな」
「そうですか」
「何の言葉だ?」
「俺にも分からないんです。ただ……景色とか人とかを、一瞬で絵みたいに残すものらしくて」
「魔法か?」
「それも分かりません」
老人は顎を撫でる。
「一瞬で絵ねえ」
「そういう技術や道具が書かれた本、ありませんか?」
「似た話ならあるぞ」
三人の空気が変わった。
「本当ですか?」
モモが一歩前へ出る。
「待て待て。『写真』って言葉じゃない」
老人は椅子から立ち上がった。
「昔話だ」
「昔話?」
「西の方の話だったかな……いや、南だったか」
ぶつぶつ言いながら、本の山の間へ入っていく。
「どこだったかな。確かこの辺に……」
本を一冊抜く。
違う。
戻す。
別の山から一冊。
また違う。
「店主さん、崩れません?」
ルシルが心配になる。
「崩さん」
「さっきと同じこと言った」
「静かに待ちましょう」
シモンに袖を引かれる。
老人はしばらく探し続けた。
やがて。
「あった」
取り出したのは、薄い古本だった。
表紙は色褪せ、角が丸くなっている。
『南西諸地方 奇譚拾遺』
「昔話を集めた本だ」
老人は頁をめくる。
「確か……ここだ」
三人が覗き込む。
そこには、短い話が載っていた。
『光写しの箱』
「ひかりうつし?」
モモが読む。
ルシルの胸が、わずかに鳴った。
老人が説明する。
「南西のどこかに伝わる昔話だ。箱へ景色を映して残す職人がいたとか、そういう話だったはずだ」
ルシルは頁を見る。
挿絵はない。
文章だけ。
シモンが静かに尋ねる。
「これは史実として扱われているものですか?」
「まさか」
老人は笑った。
「奇譚だぞ。空を泳ぐ魚とか、月を瓶に入れた婆さんとか、そういう話と一緒だ」
「では、実在した技術の記録ではない?」
「少なくとも俺はそう思ってない。編者も各地の昔話を集めただけだ」
ルシルは頁から目を離さない。
「どういう箱なんです?」
「読んでみるか?」
「はい」
老人が本を渡す。
ルシルは該当箇所を読む。
話は短かった。
昔、南西のどこかに「光写し」と呼ばれる旅の職人がいた。
職人は黒い箱を持ち歩き、その箱を景色や人へ向けると、光を紙へ写し取って姿を残したという。
しかし、箱の作り方を誰にも教えず、職人がいなくなった後には技術も失われた。
最後には「美しいものを箱へ閉じ込めすぎたため、光の精霊に箱を取り上げられた」と結ばれている。
ルシルは黙った。
モモも黙っている。
シモンだけが、文章を最初から最後までゆっくり確認していた。
「……黒い箱」
ルシルが呟く。
「景色や人へ向ける」
モモが続ける。
「姿を残す」
そしてシモンが、二人へ釘を刺すように言った。
「似ています。ただし、同じものだとはまだ言えません」
「分かってる」
ルシルは本から顔を上げた。
夢で見た黒い四角いもの。
誰かへ向ける。
写真を撮る。
この昔話に出てくる黒い箱。
景色や人へ向ける。
光を紙へ写して姿を残す。
似すぎている。
それでも。
昔話だ。
実在した証拠ではない。
写真という言葉も出てこない。
カシャという音もない。
ルシルの中に浮かび始めている「カメ」という言葉とも繋がっていない。
「この本、買えますか?」
ルシルが老人へ尋ねた。
「売り物だからな」
「買います」
「即決ですね」
シモンが言う。
「これはいいだろ?」
「止めていません」
老人が笑った。
「そんなに気に入ったか」
「ちょっと、探してるものに似てたから」
「奇譚を本気にするなよ?」
「分かってます」
ルシルは本を受け取った。
胸の奥には、奇妙な高揚がある。
初めてだった。
三人の外側から、写真に似た何かが出てきた。
ただし、それが答えとは限らない。
だからこそ。
今は、そのまま持っておけばいい。
◇
宿へ戻ったのは、夕方近くになってからだった。
市場で買ったものを整理し、トルクとベルクの様子を確認する。
二頭とも落ち着いている。
夕食は宿の主人に教えてもらった近くの食堂へ行くことにした。
だが、その前に。
三人はルシルの部屋へ集まっていた。
机の上には二冊。
モモの旅の帳面。
そして、積み本亭で買った『南西諸地方 奇譚拾遺』。
「もう一回読む?」
ルシルが尋ねる。
「その前に整理しましょう」
シモンが椅子へ座る。
「今日分かったのは二つです」
「『カメ』と、光写しの箱」
「ええ。ただし、互いに関係があるとはまだ確認できません」
モモが帳面を開いた。
「書きます」
シモンがゆっくり話す。
「まず、光写しの箱は南西地方の昔話集に収録されている奇譚。黒い箱を景色や人へ向け、光を紙へ写し取って姿を残す職人の話」
「うん」
「店主は史実ではなく昔話として認識している。編者も実在の技術として記録したものではない」
「はい」
モモが書いていく。
「写真という語はない。音についての記述もない。箱の構造や具体的な仕組みもない」
「『カメ』もない」
「ええ」
「でも似てる」
ルシルが言う。
シモンは否定しない。
「非常によく似ています」
そこで一度区切った。
「だからこそ、同一視しない方がいい」
「分かってる」
「偶然似た昔話である可能性もあります。逆に、何らかの実物や古い技術を元に生まれた昔話である可能性もあります。ただ、今の情報ではどちらとも言えません」
「じゃあ、進んだけど答えは出てない」
「そういうことです」
モモが最後の一文を書いた。
『写真との関連は不明。今後、同種の伝承・技術・語があれば比較可能。』
「これでどうです?」
「いい」
ルシルは椅子の背へ身体を預けた。
朝には「カメ」しかなかった。
午後には、黒い箱の昔話が見つかった。
一日で二つも増えた。
それでも、妙に焦る気持ちはなかった。
「この本、持っていこう」
「そのために買ったんでしょう」
「そうだけど」
ルシルは古い本の表紙へ触れる。
「いつか別の町で似た話を聞いたら、比べられる」
「帳面と同じですね」
モモが言う。
「今すぐ答えが出なくても、後で繋がるかもしれません」
「繋がらないかもしれないけどな」
「それでもいいです」
ルシルは頷いた。
その時。
廊下の向こうから、食事時を知らせる鐘が聞こえた。
ルシルの顔が上がる。
「夕飯」
「切り替えが早いですね」
「朝も言われた」
「では行きましょう」
モモが帳面を閉じる。
「今日買った赤玉菜、食堂にありますかね?」
「市場で買ったものを持ち込まないでくださいよ」
「食堂の料理に使われてるかなって意味です」
「ああ」
シモンが眼鏡を直した。
「それなら僕も少し興味があります」
「シモンも食べ物気になってるじゃん」
「旅先の食文化を知るのは有意義です」
「俺が言うと食いしん坊で、シモンが言うと調査になるのずるくない?」
「日頃の言動の差でしょう」
「ひどい」
三人は笑いながら部屋を出た。
机の上には、古い奇譚集が残されている。
黒い箱。
光を写す。
人や景色の姿を残す。
そして、まだ完成していない一つの言葉。
カメ。
答えには届いていない。
けれど、最初に「写真」という意味不明な言葉がこぼれた時とは、確実に違っていた。
今はもう、三人の手元に比較できるものがある。
それが本当に同じものなのか。
まったく別のものなのか。
答えを決めるのは、まだ先でよかった。




