第56話 宿場町の夕食では、赤い野菜の正体まで分かりました
風見鶏の宿を出ると、ハルゼの空はすっかり夕方の色へ変わっていた。
西の空にはまだ橙色が残っているものの、北馬車区の建物の間にはすでに薄い影が落ち始めている。昼間は荷車の車輪や人々の呼び声で賑わっていた通りも少しずつ落ち着き始め、中央市の方角から戻ってくる農家らしい人々が、空になった籠や畳んだ布を荷台へ積み込んでいた。
「昼と全然違うな」
宿の前で足を止めたルシルは、通りを見渡しながら呟いた。
市場を歩いていた時には、左右から声を掛けられ、少し立ち止まるだけでも次々に知らない食べ物が目へ飛び込んできた。それが今は、店仕舞いを始めた露店の木箱が重ねられる音や、仕事を終えた馬の鼻息まで聞こえてくる。
「五日市が終わり始めているんでしょうね。常設の店はまだ開いているでしょうが、露店は日が落ちる前に片づけるところが多そうです」
シモンはそう言ってから、宿の主人に教えてもらった道を確かめるように通りの先へ目を向けた。
「食堂はここから歩いてそれほどかかりません。『麦車亭』という店です」
「麦車亭」
モモが名前を繰り返し、少し笑う。
「馬車区らしい名前ですね」
「旅人や御者が多く使う店だそうです。量もそれなりにあると言っていました」
「それなりに」
ルシルの声がわずかに弾んだ。
シモンが横目で見る。
「市場で食べたものを忘れていませんよね?」
「三分の一だぞ?」
「量の話ではなく、夕食前にも食べたという話です」
「でも三分の一だぞ?」
「二回言っても増えません」
モモが口元を押さえて笑いながら二人の間を歩く。
「私は普通にお腹空いてますよ」
「ほら」
「モモ嬢を基準にしないでください」
「どういう意味ですか?」
今度はモモがシモンを見る。
「食事を楽しめるのは健康で結構だという意味です」
「今、言い直しました?」
「気のせいでしょう」
三人のやり取りに、近くで荷車の紐を結んでいた中年の男がちらりと振り返った。何か揉めているわけではないと分かったのか、すぐに小さく笑って自分の作業へ戻っていく。
ルシルもそれに気づいたが、特に気まずくはならなかった。
知らない町を歩き、宿を決め、市場を見て、本屋で思いがけない本を見つけた。
そして今から夕食を食べに行く。
(今日は結構いろいろあったな)
頭の片隅には、もちろん『光写しの箱』が残っている。
黒い箱を景色や人へ向け、光を紙へ写して姿を残す。
自分の夢に出てきた黒い四角いものと、あまりにもよく似た昔話だった。
それでも、今すぐ答えを出せるものではない。
ルシルは夕暮れの通りへ意識を戻し、二人と並んで歩き出した。
◇
麦車亭は、北馬車区と中央市の間にある広い通り沿いに建っていた。
二階建ての木造で、一階部分の窓は大きく開け放たれている。入口の横には麦の穂と車輪を組み合わせた看板が下がり、そこから漏れる橙色の明かりと一緒に、焼いた肉と香草の匂いが通りまで流れていた。
「ここだな」
「分かりやすいです」
モモが看板を見上げる。
中からは何人もの話し声が聞こえてくる。
昼間の市場ほどではないが、かなり賑わっているらしい。
扉を開けると、暖かな空気が三人を包んだ。
「いらっしゃい!」
店員の女性が、片手に木皿を三枚重ねたまま声を掛けてくる。
店内には長机と四人掛けの卓が並び、半分以上が埋まっていた。服装を見る限り、農家らしい者もいれば、外套を椅子へ掛けた旅人、仕事を終えた御者、商人らしい男女もいる。
奥では大きな鉄板から湯気が上がり、その横に置かれた鍋からは香草と肉の混じった濃い香りが漂っていた。
「三人?」
「はい」
「窓際なら空いてるよ。こっち」
三人は店員に案内され、通りへ面した四人掛けの卓へ座った。
窓の外では、夕暮れの中を荷車が一台ゆっくり通り過ぎていく。
「何があります?」
ルシルが尋ねると、店員は卓の端に立ててあった木札を指した。
「今日は五日市だから多いよ。羊肉と豆の煮込み、鶏肉の香草焼き、赤玉菜と腸詰めの蒸し焼き、白根芋の潰し焼き。あとはパンと麦粥。大皿なら焼き野菜盛りもある」
「赤玉菜」
三人の声がほぼ同時に重なった。
店員が目を丸くした。
「好きなの?」
「今日初めて買ったんです」
モモが答える。
「市場で二個」
「なら食べてみたら? 家で初めて料理する前に、どんなもんか分かるよ」
「それいいな」
ルシルはすぐ頷いた。
シモンも反対しない。
「調理法を知る意味でもいいでしょう。では、それを一皿」
「一皿でいいの?」
「他の料理も頼みますから」
「なるほどね」
店員は慣れた手つきで注文を聞いていく。
赤玉菜と腸詰めの蒸し焼きを一皿。
羊肉と豆の煮込みを一皿。
鶏肉の香草焼きも一皿。
焼き野菜盛り。
パンを三人分。
「……多くない?」
注文を終えたところで、ルシルがシモンを見る。
「あなたがそれを言うんですか?」
「いや、シモンが止めなかったから」
「三人で分けるなら問題ない量です。足りなければ追加できますし、最初から頼みすぎる必要もありません」
「なるほど」
「それに」
シモンは店内を軽く見回した。
「周囲の卓を見る限り、一皿が極端に大きい店ではなさそうです」
ルシルも周りを見る。
確かに、近くの卓では四人組が五、六枚の皿を囲んでいる。
「そこまで見てたんだ」
「注文前に量を見るのは普通でしょう」
「俺、匂いしか見てなかった」
「匂いは見るものではありません」
「細かい」
モモが楽しそうに笑った。
料理を待つ間、店内の賑わいが耳へ入ってくる。
少し離れた長机では、農家らしい男たちが今日の市場の値段について話している。反対側では二人組の御者が南へ向かう道の状態を話しており、ときおり「橋」「荷車」「東道」という言葉が聞こえた。
ルシルは無意識にそちらへ耳を向けた。
「気になります?」
モモに聞かれる。
「ちょっと。でも俺たちが行く道の話か分からない」
「食べ終わってから必要なら店員さんに聞きましょう」
シモンは他人の会話を聞き取ろうとはせず、水の入った杯を手に取った。
「今は夕食です」
「今日のシモン、よく食事に戻すな」
「あなたが別のものへ気を取られすぎるんです」
「本屋でもそうだったしな」
その言葉で、三人の間にほんの少しだけ別の空気が流れた。
積み本亭。
古い奇譚集。
光写しの箱。
モモも自然と声を少し落とす。
「本、馬車に置きますか?」
「今夜は部屋でもいいんじゃない?」
ルシルが答える。
「もう一回読みたい?」
「……読みたいけど」
モモは少し考え、首を傾けた。
「同じところを何回読んでも、今は増えないですよね」
「そうだな」
本文そのものは短い。
すでに三人で確認した。
黒い箱を景色や人へ向ける。
光を紙へ写し取る。
姿を残す。
職人が消え、技術も失われた。
最後は光の精霊に箱を取り上げられたという、いかにも昔話らしい結末だ。
「店主も史実として扱ってなかったし」
「ええ」
シモンが頷く。
「今夜もう一度読むこと自体に問題はありませんが、読めば答えが増えるという状態ではありません。むしろ、記述されていないことまで読み取ったつもりにならない方がいいでしょう」
「じゃあ今日は飯食って寝る?」
「それでいいと思います」
「なんか写真のことが分かり始めてから、逆に考えない時間が増えた気がする」
ルシルは自分で言ってから、不思議そうに眉を寄せた。
最初に知らない言葉が口から出た時は、何なのかさえ分からなかった。
今は情報が増えている。
普通なら、もっと調べたくなってもおかしくない。
それなのに、シモンとモモが一緒に整理してくれるからなのか、分からないものを無理に追いかける必要はないと思えるようになっていた。
「記録してあるからじゃないですか?」
モモが言った。
「忘れないって分かってるので」
「ああ、それあるかも」
ルシルは納得する。
「思い出したことを忘れたら困るって思わなくていいんだ」
「そのための帳面でもありますね」
「モモの帳面、かなり重要になってきたな」
「なくさないようにします」
「予備の帳面も買っとく?」
「まだ半分以上空いてます」
「じゃあまだいいか」
「はい」
そこで料理が運ばれてきた。
「お待たせ!」
卓の上へ最初に置かれたのは、赤玉菜と腸詰めの蒸し焼きだった。
三人の視線が集まる。
「おお……」
市場で見た赤玉菜は、外側が濃い赤紫色だった。
だが火を通したものは少し色が柔らかくなり、薄く切られた断面には白と赤紫の層が見えている。その上には斜めに切った腸詰めが並び、透明な肉汁と溶けた脂が野菜へ染み込んでいた。
「思ったより中が白いです」
モモが覗き込む。
「市場じゃ切ってなかったもんな」
「まず食べてみましょう」
三人で取り分ける。
ルシルは赤玉菜だけを一切れ口へ運んだ。
柔らかい。
噛むと水分が出て、そのあとに野菜らしい甘みが広がる。
「……あれ?」
「どうです?」
「辛くない」
市場の女性は、生だと少し辛みがあると言っていた。
火を通したためだろう。
もう一口食べる。
「甘いな、これ」
「本当です」
モモも頷く。
「少しだけ香りがありますけど、嫌な感じじゃないです」
シモンは腸詰めと一緒に食べている。
「脂との相性がいいですね。野菜自体に甘みがあるので、塩気の強いものと合わせやすい」
「買った二個、これにする?」
「同じ料理を作るには腸詰めがありません」
「買えばよかった」
「まだ町にいますよ」
「あ、そうか」
ルシルは一瞬で納得した。
「明日買える?」
「店があれば」
「市場は今日だけでも、肉屋くらいあるだろ」
「確認してからですね」
「じゃあ明日」
モモが笑う。
「もう赤玉菜の食べ方決まりました?」
「一個はこれやってみたい」
「もう一個は違うのにしましょう」
「焼くだけとか?」
「店員さんが生でも食べられるって言ってましたよ」
「辛いって」
「少しなら試してみたいです」
「モモ、辛いの平気?」
「すごく辛いのは嫌ですけど、少しくらいなら」
三人で赤玉菜の話をしている間に、残りの料理も届いた。
羊肉と豆の煮込みは、濃い茶色の汁に柔らかな肉と白い豆がたっぷり入っている。鶏肉の香草焼きは皮が香ばしく、焼き野菜には橙色の根菜、緑の豆、白い茸が盛られていた。
「茸」
ルシルが反応する。
「知ってる種類ですか?」
「いや」
「なら勝手に採らないでくださいね」
「料理になってるの見ただけでそこまで言う?」
「ルシル様は知らないものを見ると近づくので」
「食べ物全部拾うわけじゃないぞ」
「当たり前です」
モモが茸を一つ取り分ける。
「これは店員さんに名前を聞けばいいですね」
「それなら安全」
しばらく三人は料理を楽しんだ。
羊肉の煮込みは見た目より香辛料が控えめで、豆の甘さがよく分かる。鶏肉には細かく刻んだ香草が擦り込まれており、皮の香ばしさとよく合っていた。
ルシルが気に入ったのは、やはり赤玉菜だった。
「これ旅でも使いやすそう」
「丸のままなら日持ちするという話でしたからね」
「鍋にも入れられる」
「市場の方は煮てもいいと言っていました」
「じゃあ二個じゃ少なかった?」
シモンが無言でルシルを見る。
「……まだ食べ始めたばっかりだしな」
「学習しましたね」
「買いすぎないってことくらい分かるよ」
そう答えながらも、ルシルは赤玉菜をもう一切れ取った。
◇
食事の後半、先ほどから店内を忙しく動き回っていた店員が、水を足しに来た。
モモが焼き野菜の皿を指す。
「すみません。この白い茸って何ですか?」
「それ? 丘白茸」
「丘白茸」
「この辺じゃ普通だよ。秋口になるともっと出るけど、今の時期でも林の縁なら採れる」
ルシルが何気なく尋ねる。
「似た毒茸とかあります?」
「あるよ」
即答だった。
ルシルの手が止まる。
店員は笑った。
「だから知らないなら採らない方がいい。丘白茸は慣れれば分かるけど、若い時は灰斑茸と間違える人がいるから」
「聞いてよかった」
「でしょう?」
シモンの視線が来る。
「採らないって言っただろ」
「今の顔は覚えようとしていました」
「見るくらいいいじゃん」
「見るだけなら」
店員が三人のやり取りを聞いて笑う。
「旅の人?」
「はい。南西へ向かってます」
「なら茸は町で買いな。知らない土地の茸は地元の人でも間違う時があるから」
「そうします」
ルシルは素直に頷いた。
「あと、明日この町を出るかもしれないんですけど、南西の道って今どうですか?」
シモンが自然に話題を変える。
店員は少し考えた。
「南西街道?」
「おそらく。海側へ向かう道です」
「それなら今は通れるはずだよ。今日も向こうから荷車が来てたし」
「大きな工事や通行止めは?」
「私は聞いてないね。でも道のことなら北口の馬車組合で聞いた方が確実。朝なら、その日の荷車も集まるから」
「馬車組合」
「宿から近いよ。北口の案内板の横に、赤い屋根の建物あったでしょ?」
ルシルは思い出そうとする。
「……見てない」
「案内板しか見てませんでした」
モモも同じらしい。
シモンだけが頷いた。
「ありました。荷札を持った人が出入りしていた建物ですね」
「それそれ」
「明日の朝、確認してみます。ありがとうございます」
「どういたしまして」
店員は空いた皿を二枚重ねる。
「海まで行くの?」
モモが嬉しそうに頷いた。
「はい。まだ先ですけど」
「いいねえ。私は見たことないよ」
「私もないんです」
「じゃあ楽しみだね」
「はい」
その返事は迷いがなかった。
店員は笑い、別の卓から呼ばれてそちらへ向かっていく。
ルシルはパンの最後の一切れを煮込みの汁へ浸した。
「明日は馬車組合か」
「出発するなら、その前に寄る価値はあります」
シモンが答える。
「出発するなら?」
「まだ決めていませんよ」
「二頭の状態見てから?」
「それもあります。今日ここまで来たばかりですし、必要な買い物が残っているなら午前だけ町を見る選択もできます」
「腸詰め」
「それだけで延泊を決めないでください」
「分かってるって」
モモが少し考える。
「本屋さんは、もう一回行かなくていいですかね」
「行きたい?」
ルシルが聞く。
「少し迷ってます」
モモは水の杯を両手で持ち、視線を落とした。
「今日の本、気になります。でも、同じような昔話が他にもあるかもしれないって思ったら、探したくなる気持ちもあって」
「俺も少しある」
ルシルは正直に答えた。
積み本亭には大量の本があった。
一冊の奇譚集に光写しの箱が載っていたのなら、別の本にも何かあるのではないか。
そう考えるのは自然だった。
だが、店内の本をすべて調べるとなれば、一日どころでは終わらない。
「シモンは?」
二人から見られ、シモンは少しだけ考える。
「僕なら、明日の出発前に店主へ一つだけ確認します」
「一つ?」
「『光写しの箱』と似た話を、他の本で見た覚えがあるか」
「あ」
モモが顔を上げる。
「全部自分たちで探さなくても、店主さんに聞けばいいんですね」
「今日もあの方が本を出してくれましたからね。あれだけの蔵書を扱っているなら、少なくとも僕たちよりは店内の内容を把握しているでしょう」
「それいい」
ルシルも頷く。
「なければ出発。あるって言われたら、その本だけ見る」
「それくらいなら旅程を大きく変える必要もありません」
「決まりですね」
モモの表情が明るくなる。
そこでシモンが念を押した。
「ただし、店主が『分からない』と言った場合に、三人で一日中棚を探し始めるのはなしです」
「……俺、やりそうに見える?」
「見えます」
「私も少しやりそうです」
「モモまで」
「気になりますから」
ルシルは苦笑し、残っていた水を飲んだ。
(確かに、気になり始めたら探したくなるか)
だからこそ、先に区切りを決めておくのは悪くない。
写真の謎は気になる。
けれど、自分たちはそれを探すために旅へ出たわけではない。
そのことを何度も言葉にする必要はないが、行動の順番としては忘れたくなかった。
◇
麦車亭を出る頃には、すっかり夜になっていた。
通りの店先には小さな灯りが下がり、昼間とは違う柔らかな明かりが道を照らしている。五日市の露店はほとんど片づけられ、中央市へ続く道には空の荷車が何台か残っているだけだった。
「静かになったな」
ルシルが息を吐く。
昼間より気温も下がっている。
食堂の中が暖かかった分、外の冷気が頬に気持ちよかった。
「食べましたね」
モモが満足そうに言う。
「ちょうどよかった」
「追加しなくて正解でした」
シモンが答える。
「俺、追加するって言ってないだろ」
「途中で鶏肉をもう一皿見ていました」
「見ただけ」
「僕も見ていました」
「シモンが鶏肉を?」
「あなたをです」
「そっちかよ」
モモの笑い声が夜の通りへこぼれる。
三人は急がず宿へ戻った。
途中、昼間に人で埋まっていた中央市の一角を通る。
今は露店の跡だけが残っていた。
地面には木箱を置いていた四角い跡や、野菜の葉が数枚落ちている。清掃をしている人たちが箒を動かし、通りの端へごみを集めていた。
「朝にはまた普通の通りになるのかな」
「常設店はありますから、完全に静かにはならないでしょう」
「五日市じゃない日のハルゼも見てみたいな」
ルシルが言うと、シモンは少し意外そうに見た。
「延泊したいという意味ですか?」
「いや、そうじゃなくて。同じ町でも日で全然違うんだなって」
今日見たハルゼは、市の日のハルゼだ。
荷車が集まり、農家が声を上げ、露店が道を埋めていた。
明日になれば、同じ道でも別の顔を見せるのだろう。
「全部を見るのは無理ですね」
モモが静かに言った。
「町も、道も」
「そうだな」
「だから帳面に残すのかもしれません」
モモは肩に掛けた小さな鞄へ触れる。中には旅の帳面が入っている。
「今日のハルゼは今日しか見られないので」
ルシルは返事をする前に、片づけられた市場をもう一度見た。
写真。
その言葉が自然に浮かぶ。
昼間の人混み。
赤玉菜が積まれた籠。
積み本亭の本の山。
夕方には店を畳んでいた農家。
今はもう消えた景色が、もし本当に一瞬で残せるのなら。
「……やっぱり便利だな、写真」
小さく呟く。
モモとシモンには聞こえたらしい。
「何か新しく思い出しました?」
シモンがすぐ確認する。
「いや」
ルシルは首を振った。
「今日の市場、昼と今で全然違うだろ。昼の景色をそのまま残せたら、あとで比べられるなって思っただけ」
「なるほど」
「帳面だけだと、全部は書けませんからね」
モモも市場跡を見る。
「人の顔とか、店の並びとか」
「そうそう」
ルシルは右手を軽く持ち上げた。
無意識だった。
何かを構えるような形になりかけて、途中で止まる。
シモンがその手を見る。
モモも気づいた。
「今の……」
「え?」
ルシル自身は遅れて自分の手を見る。
右手だけ。
左手は動いていない。
「何かしました?」
「いや……市場見てただけ」
「右手を上げました」
「そう?」
ルシルはもう一度同じ動きをしようとしたが、今度はどうすればいいのか分からない。
指を曲げるのか。
手のひらを向けるのか。
夢の中では両手で黒いものを持っていた。
「……分からない」
「なら、そのままで」
シモンの声は落ち着いていた。
「無理に再現しないでください」
「うん」
モモは鞄へ手を伸ばしかけ、止める。
「帳面、今出します?」
「宿に戻ってからでいいんじゃない?」
「覚えてます?」
「右手を上げた、だろ?」
「はい」
「それくらいなら」
三人はそこで立ち止まり続けず、再び歩き始めた。
写真を思い出した時、右手が自然に動いた。
それだけだ。
夢の中の動作と関係があるかも分からない。
ルシルは手を外套のポケットへ入れ、夜のハルゼを歩いた。
◇
風見鶏の宿へ戻る前に、三人は厩へ寄った。
トルクはルシルたちの足音に気づくと顔を上げた。
「ただいま」
ルシルが近づく。
トルクは鼻を寄せてくる。
「何も持ってないぞ」
「食べ物の匂いはするんじゃないですか?」
モモが笑う。
「赤玉菜と肉の匂い?」
「それはルシル様だけではありません」
ベルクも隣の区画からこちらを見ていた。
シモンがそちらへ行き、柵越しに首筋を撫でる。
「落ち着いていますね」
周囲の馬は昼と同じ三頭。
新しく増えた様子はない。
厩の外から通りの音はわずかに聞こえるが、建物が一枚隔てているためかなり小さい。
「ここ選んでよかったな」
ルシルが言う。
「今のところは」
シモンはベルクの耳や呼吸を見てから、トルクの方も確認する。
「二頭とも問題なさそうです。明朝、脚と蹄を改めて見ます」
「明日出られそう?」
「今の状態だけなら。ただし朝に確認してからです」
「了解」
ルシルはトルクの鼻先を軽く撫でた。
「明日も頼むかもしれないから、今日は寝とけよ」
トルクが鼻を鳴らす。
「返事しました」
モモが言う。
「したな」
「してません」
シモンが即座に否定した。
「鼻を鳴らしただけです」
「夢がないなあ」
「馬の意思を勝手に翻訳しないでください」
厩番の青年が少し離れたところで飼葉桶を片づけながら笑っている。
ルシルと目が合うと、青年は気まずそうに視線を逸らした。
「笑った?」
「笑ってませんよ」
「絶対笑ってた」
「ルシル様」
モモが小声で呼ぶ。
「困らせないでください」
「はい」
ルシルは素直に引いた。
◇
二階へ戻った後、三人はルシルの部屋へ集まった。
昼間に情報を整理した机の上へ、再びモモの帳面が置かれる。
「右手のことだけ書きますね」
「うん」
モモが炭筆を持つ。
『夜、市の片づけ跡を見ながら、昼の景色を写真で残せれば比較できると考えた際、ルシル様の右手が無意識に少し持ち上がった。本人に動かした意識なし。動作の意味、夢の黒い道具との関連は不明。再現しようとしても分からず。』
「体調も」
シモンが言う。
「あ、そうですね」
『頭痛・吐き気・目眩等なし。』
「魔力も普通」
「それも」
モモが追記する。
ルシルは椅子に座ったまま、自分の右手を見た。
「本当に俺、上げた?」
「上げました」
「ほんの少しですが」
「何しようとしたんだろ」
「考えない」
二人から同時に言われる。
ルシルは口を閉じた。
数秒後、モモが吹き出した。
「ごめんなさい。シモン君と同時でした」
「僕も言うと思いました」
「俺だけ何も言えない」
「言っていいですよ」
「何を?」
「今日はもう考えない、とか」
ルシルは少し考えた。
「今日はもう考えない」
「はい」
「素直ですね」
「言えって言ったのモモだろ」
三人の間に笑いが戻る。
シモンは椅子の背へ身体を預け、机の端に置かれた奇譚集へ視線を向けた。
「明日の予定を決めておきましょう」
「馬車組合」
「積み本亭」
ルシルとモモがそれぞれ答える。
「両方です」
シモンは地図を広げる。
「朝食後、まず二頭の状態を確認。その後、北口の馬車組合で南西街道の最新情報を聞きます」
「それから本屋?」
「積み本亭の開店時間次第ですが、開いていれば寄りましょう。店主へ『光写しの箱と似た話を他に知っているか』だけ確認する」
「腸詰め」
ルシルが付け加える。
シモンの目が止まる。
「赤玉菜用」
「分かっています」
「忘れてた?」
「忘れていません」
「じゃあ買う?」
「日持ちするものがあれば少量」
「よし」
モモが帳面の余白へ小さく「腸詰め」と書いた。
「そこに書くの?」
「買い物を忘れないように」
「写真の記録のすぐ下だけど」
「旅の帳面ですから」
「便利だな、その帳面」
写真の謎も。
兎の耳も。
知らない花も。
買い物も。
全部同じ旅の途中にある。
ルシルはそれが妙に気に入った。
「出発するかは、その後?」
「ええ」
シモンが地図を指でなぞる。
「道に問題がなく、二頭の状態も良く、買い物も午前中に終われば、そのまま出る選択ができます。時間が遅くなれば、もう一泊しても構いません」
「次の場所は?」
「ここから南西街道を進むことになりますが、今日聞いた情報だけでは、次にどこで泊まるのが適切か判断できません。馬車組合で聞きましょう」
「海はまだ遠い?」
モモが地図を覗き込む。
「まだ遠いです」
シモンは即答した。
「ですよね」
「残念?」
ルシルが尋ねる。
「いいえ」
モモは地図のずっと先にある、まだ具体的な線を追えていない方角を見る。
「楽しみがまだ先にあるってことですから」
ルシルも地図を見る。
海。
自分も見たことがない。
モモもない。
シモンだけは昔、仕事で見たことがある。
けれど今度は、三人で見る。
「海の写真も撮りたいな」
ルシルの口から自然に出た。
誰もすぐには反応しなかった。
モモが少しだけ笑う。
「その頃までに、撮り方まで思い出してるでしょうか」
「どうだろ」
「思い出しても、道具がありませんよ」
シモンが現実的なことを言う。
「そうなんだよな」
ルシルは机へ頬杖をついた。
「写真が何か分かっても、黒い箱がなきゃ撮れない」
「そもそも、黒い箱が本当に写真を撮る道具なのかも確定していません」
「光写しの箱もあるけど」
「昔話です」
「分かってるって」
ルシルは笑った。
「じゃあ、海は目で見る」
「それが一番確実ですね」
「帳面にも書きます」
「絵も描く?」
モモが少し黙った。
そしてシモンを見る。
「シモン君に」
「なぜですか」
「一番上手いので」
「兎を一度描いただけです」
「海もお願いします」
「断ります」
「まだ海に着いてもいないのに断られた」
ルシルが笑い、モモも肩を揺らす。
シモンは眼鏡を直したが、その口元にはほんの少し笑みが残っていた。
◇
話を終え、それぞれの部屋へ戻る前。
ルシルは奇譚集を手に取った。
「これ、今日は俺の部屋でいい?」
「もちろんです」
「共有の本扱いで構いませんが、傷めないように」
「分かってる」
モモは旅帳面を自分の鞄へ戻す。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
二人が部屋を出ていく。
扉が閉まると、急に静かになった。
外から聞こえるのは、通りを走る最後の荷車らしい車輪の音と、一階で宿の主人が誰かと話している声くらいだった。
ルシルは寝台へ腰を下ろす。
手には『南西諸地方 奇譚拾遺』。
開こうとして、やめた。
(さっき決めたばっかりだしな)
今日はもう考えない。
同じ文章を何度読んでも、新しい事実が増えるわけではない。
ルシルは本を机へ置き、代わりに外套を脱いだ。
窓の外には、ハルゼの夜の灯りが見える。
昼間の市場とはまったく違う。
人で埋まっていた通りも、今は静かだった。
(昼の景色、残せたらよかったな)
また写真のことを考えている。
ルシルは自分で気づき、苦笑した。
「考えないって難しいな」
声に出してから、寝台へ横になる。
目を閉じる。
黒い箱を思い出そうとはしない。
「カメ」の続きを探そうともしない。
光写しの箱についても考えない。
代わりに思い浮かべたのは、夕食で食べた赤玉菜だった。
(明日、腸詰め買えるかな)
写真よりずっと答えの出しやすいことだった。
少しだけ笑い、毛布を肩まで引き上げる。
その夜。
ルシルは夢を見なかった。
◇
翌朝。
風見鶏の宿の窓から入る光は明るく、外からはすでに馬車の音が聞こえていた。
ルシルが身支度を整えて一階へ降りると、食堂には焼いたパンと温かな麦粥の匂いが漂っている。
モモはすでに席についていた。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
「私も今来たところです」
少し遅れてシモンも現れる。
三人が揃うと、宿の朝食が運ばれてきた。
麦粥。
焼いたパン。
薄く切った乳酪。
塩漬け野菜。
昨日の夕食よりずっと簡素だが、朝にはちょうどいい。
「夢は?」
シモンが麦粥を一口食べてから尋ねる。
「見てない」
「体調は?」
「普通」
「右手が勝手に動いたりは?」
「してない」
ルシルは両手を見せる。
「ちゃんと俺の言うこと聞いてる」
「それが普通です」
「昨日だって、ほんのちょっと上げただけだぞ」
「だから記録だけに留めています」
モモも頷く。
「今朝は追加なしですね」
「なし」
それで写真の話は終わった。
朝食を食べ終えると、三人は厩へ向かう。
朝の空気は冷えていたが、空はよく晴れている。
厩へ入ると、トルクがすぐにこちらを見た。
ベルクも隣で耳を動かす。
「おはよう」
ルシルが声を掛ける。
シモンはまずベルク、それからトルクの順に脚と蹄を確認していく。昨日の丘陵地を歩いた後だが、腫れや熱感、歩様に影響しそうな異常はない。
厩の外へ短く出して歩かせても、二頭とも普段通りだった。
「問題ありません」
「じゃあ出発できる?」
「馬の状態としては」
「次は道ですね」
モモが北口の方角を見る。
「馬車組合」
「その前に宿の朝食代と部屋の確認を済ませましょう。出発する可能性があると主人へ伝えておきます」
「本屋と腸詰めも」
「覚えています」
三人は一度宿へ戻り、必要な手続きを済ませた。
部屋は昼前まで確保できる。
荷物の大半は馬車か収納魔法の中にあるため、出発準備にも時間はかからない。
そして三人は、朝のハルゼへ出た。
昨日の五日市が嘘だったかのように、中央市へ続く通りは広く見える。
露店の多くが消え、常設店の扉が少しずつ開き始めている。
「本当に違う町みたい」
モモが言う。
「昨日ここ、人だらけだったよな」
「今日はこれが普段のハルゼに近いのでしょう」
シモンが北口へ目を向ける。
その先には、昨日は意識していなかった赤い屋根の建物が見えた。
入口には荷札を持った御者が二人立ち、壁には何枚もの道路情報らしい札が掲げられている。
「あれか」
「ええ」
三人は馬車組合へ向かって歩き出した。
海へ続く次の道を知るために。
そして、その後には積み本亭で、もう一つだけ確かめたいことがある。
ただし、どちらも答えを急ぐためではない。
今日進める道を知り、今ある手掛かりを一つだけ確認する。
ハルゼで迎えた二日目の朝は、そんな二つの小さな予定から始まった。




