第57話 馬車組合で道を聞いたら、次の休憩所には屋根がありませんでした
ハルゼ北口の赤い屋根は、近づいてみると遠目で見た以上によく目立った。
周囲には宿や厩、荷物を扱う倉庫が並んでいるため、建物そのものは決して大きくない。それでも入口の上に掲げられた車輪の紋章と赤く塗られた屋根のおかげで、初めて訪れた旅人でも見失うことはなさそうだった。
入口脇の壁には木札が何枚も掛けられている。
『東街道 二日前 異常なし』
『西街道 石橋補修中 軽車両通行可』
『南西街道 昨日 荷車通行あり』
ルシルは最後の札の前で足を止めた。
「これ、俺たちの道だよな?」
「ええ」
シモンも木札を確認する。
「少なくとも昨日は荷車が通っています。食堂で聞いた話とも一致しますね」
「じゃあ大丈夫?」
「道が通れることと、僕たちがどこまで進めるかは別です」
「分かってるって」
「本当ですか?」
「最近ちょっと信用なくない?」
ルシルが振り返ると、モモが少しだけ視線を逸らした。
「モモ?」
「私は何も言ってませんよ」
「顔が言ってる」
「気のせいです」
そう答えながらも、モモの口元は笑っている。
三人が入口へ向かうと、先ほど外にいた二人の御者のうち一人が道を空けてくれた。四十代ほどの男で、日焼けした顔には深い皺があり、肩から細長い荷札の束を提げている。
「南西へ行くのか?」
木札を見ていたからだろう。
男が何気なく尋ねてきた。
「はい」
ルシルが答える。
「二頭立ての中型馬車です」
シモンが補足すると、男は一度だけ三人の背後を見た。馬車は宿に置いてきているため見えるはずもないが、馬車旅の一行だと確認するような仕草だった。
「なら今日は走りやすいぞ。昨日も乾いてた」
「途中の水場は使えますか?」
「使える。昼前なら石樫の休み場、もっと先なら古井戸の広場だな」
初めて聞く名前が二つ出てきた。
ルシルとモモが同時にシモンを見る。
「中で詳しく聞きましょう」
「そうだな」
御者に礼を言い、三人は建物へ入った。
◇
馬車組合の中は、冒険者ギルドとはかなり違っていた。
入口正面に長い受付台があり、その奥には棚が並んでいる。棚に収められているのは依頼書ではなく、荷札や街道図、宿場ごとの簡単な記録らしい。
右側の壁には大きな地図が貼られ、その周囲に色の違う小さな木札が差し込まれていた。
人の出入りは多い。
荷物を運ぶ商人。
御者。
宿の使用人らしい少年。
農産物を運んできた男。
誰も長居はせず、必要なことを確認しては出ていく。
「本当に馬車のための場所なんだな」
ルシルは声を抑えながら周囲を見る。
「名前通りですね」
モモも興味深そうだった。
「冒険者ギルドとは雰囲気が全然違います」
「扱っているものが違いますから」
シモンは壁の地図を見る。
「荷物と道、それから馬車の移動情報が中心でしょう」
受付が一つ空いた。
三人が近づくと、灰色の髪を短く切った女性が顔を上げる。
「おはよう。荷の登録?」
「いえ、道の確認をしたいんですが」
「どっちへ?」
「南西街道です」
「馬車?」
「二頭立ての中型です」
「荷は?」
「外見上は軽めです」
収納魔法を使っているため、実際に積んでいる物資の大半は馬車の重量へ影響していない。
女性は頷き、手元にあった帳面を開いた。
「昨日の夕方に南西から三台入ってる。今朝はまだ向こうから来た車はないけど、問題報告もなし。雨も三日降ってない」
「路面は乾いていると聞きました」
「乾いてる。ただし、ハルゼを出てしばらくすると丘を越える。急じゃないけど、上り下りが続くよ」
シモンが地図を示す。
「今日中に宿のある場所まで行く場合、どこが現実的ですか?」
女性は三人を見る。
「馬は元気?」
「今朝確認しました。問題ありません」
「御者は?」
「三人とも交代できます」
ルシルは一瞬だけ胸を張りそうになったが、やめた。
乗れる。
御者台にも座れる。
だが、まだ長年街道を走っている人間と同じではない。
「経験は浅いです」
シモンが正確に答えた。
女性はそれを聞いて、地図の一点を指で叩く。
「だったら無理に宿場まで行かない方がいいね」
「遠い?」
「次のちゃんとした宿があるのはレグナだよ。ここからなら、慣れた御者が朝早く出て日暮れ前に入るくらい」
ルシルは窓の外を見る。
すでに朝食を済ませ、厩の確認をし、ここまで歩いてきている。
「今からだと厳しい?」
「行けなくはない。でも初めての道でやる必要はない」
女性はあっさり言った。
「途中に休める場所は?」
「二つある」
先ほど外の御者から聞いた名前だ。
「石樫の休み場と古井戸の広場」
「泊まれる?」
ルシルが尋ねる。
「泊まるなら古井戸の広場。ただし屋根はないよ」
「屋根なし」
「広場と井戸と馬繋ぎ、それだけ。昔は小屋があったらしいけど、何年も前に壊れて撤去された」
「テントですね」
モモが言う。
「そうなるな」
ルシルは特に嫌そうな顔をしなかった。
野営にはもう慣れている。
「石樫の休み場は?」
「昼休憩向け。大きな石樫が一本あって、その下に水桶と腰掛けがある。夜も使えなくはないけど、狭い」
シモンが地図上の距離を確認する。
「石樫から古井戸までは?」
「普通の馬車なら二刻半くらい。ただ、途中から丘道だから遅れることはあるよ」
「そこからレグナは?」
「さらに半日弱。古井戸で泊まって、朝出れば昼過ぎには着ける」
それなら無理がない。
ルシルにも分かった。
「古井戸で一泊がよさそうだな」
「道を実際に見てからですが、有力ですね」
シモンはまだ確定させない。
受付の女性も頷く。
「それが無難。あと、古井戸って名前だけど、井戸の水は飲める。昨日確認した記録がある」
「毎日確認してるんですか?」
モモが興味を示す。
「毎日じゃないよ。通った御者が何かあれば報告するんだ。水が濁ってたとか、倒木があったとか、橋が壊れてたとかね」
「みんなで情報を持ってくるんですね」
「街道は一人で使うもんじゃないからね」
女性はそう言って、帳面を閉じた。
ルシルは壁の木札を見た。
誰かが通った。
道を見た。
異常があれば次の町で伝える。
その情報を、今度は別の旅人が使う。
「便利だな」
「旅人には重要な仕組みです」
シモンが答える。
「僕たちも異常を見つけた場合、次の組合や宿場で伝えればいいでしょう」
「倒木とか?」
「そうですね。橋の傷みや、水場の異常も」
「覚えとく」
モモが小さく笑った。
「帳面にも書けますね」
「全部書く必要はありませんよ」
「分かってます」
最近のモモは、本当に何でも記録するわけではなくなっている。
必要なこと。
面白かったこと。
後で見返したいこと。
その区別を自分なりにつけ始めていた。
「もう一つ聞いてもいいですか?」
シモンが受付の女性へ尋ねる。
「何?」
「レグナから先、海側へ向かうなら南西街道をそのまま?」
「今のところはね。レグナで道が二つに分かれるけど、海へ行くなら西南道。南道は山側へ入る」
「ありがとうございます」
「海まで行くなら、レグナでまた聞きな。ここから先の細かい道は向こうの方が詳しい」
「そうします」
三人は礼を言い、受付を離れた。
建物を出ると、朝の日差しが少し強くなっていた。
「次、積み本亭?」
モモが尋ねる。
「その前に」
ルシルは中央市の方角を見る。
「腸詰め」
「忘れてなかったんですね」
「俺が言い出したんだから忘れないよ」
「では肉屋を探してから本屋へ行きましょう。あまり時間を使わない範囲で」
「了解」
◇
五日市の翌朝の中央市は、昨日とは驚くほど歩きやすかった。
通りの両側には常設の店が並んでいるが、道の中央まで張り出していた露店がなくなったため、向こう側まで見通せる。
昨日赤玉菜を買った場所も、今日はただの広い空間だった。
「本当に何もない」
ルシルが足を止める。
「昨日はここに野菜が山ほどあったのに」
「同じ場所なのに不思議ですね」
モモも周囲を見回す。
荷車が一台、何にも遮られず通り過ぎた。
昨日なら人を避けながら進んでいただろう。
「写真があったら比較できたのに」
ルシルはそう口にしてから、自分の右手を見た。
動いていない。
「今日は大丈夫ですね」
モモも見ていたらしい。
「昨日の一回だけかも」
「それならそれで記録は残っています」
シモンは立ち止まらずに言った。
「さあ、肉屋を探しますよ」
「はいはい」
市場通りを少し歩くと、軒先から腸詰めを何本も吊るした店が見つかった。
店主は大柄な女性で、三人が赤玉菜と一緒に食べたいと話すと、すぐに二種類を出してくれた。
「こっちが燻したやつ。日持ちはするけど香りが強い。こっちは塩と香草で作った普通の。昨日食堂で食べたなら、たぶんこっちだね」
「旅に持っていくなら?」
シモンが尋ねる。
「今日明日で食べるなら普通ので十分。長く持たせるなら燻製」
三人は相談し、普通の腸詰めを少量だけ買った。
「燻製も一本くらい……」
ルシルが見ていると、シモンが先に言う。
「保存肉はあります」
「見るだけ」
「なら構いません」
「最近、先回りするよな」
「付き合いが長いので」
店主が豪快に笑った。
「兄ちゃん、食い物好きだろ」
「はい」
ルシルは迷わず答えた。
「いいことだ。旅するなら食えるうちに食っときな」
「ほら」
「何が『ほら』なんですか」
モモがまた笑った。
腸詰めを収納し、今度こそ積み本亭へ向かう。
◇
古本屋の扉は開いていた。
昨日と同じ小さな鈴が鳴る。
店内には相変わらず本が積み上げられており、朝の光が窓から斜めに差し込んで、細かな埃を浮かび上がらせていた。
「いらっしゃい」
奥から声がする。
白髪交じりの髪を後ろで束ねた老人が、昨日と同じ机の向こうに座っていた。
三人を見ると、少し眉を上げる。
「昨日の旅人か」
「はい。少しだけ聞きたいことがあって」
「本の返品なら受けんぞ」
「しません」
ルシルは即答した。
「あの本、気に入ったので」
「ならいい」
店主は読みかけの本へ紙片を挟み、閉じた。
「何だ?」
シモンが一歩前へ出る。
「昨日教えていただいた『光写しの箱』についてです。似た話を、他の本で見た覚えはありませんか?」
店主はすぐには答えなかった。
顎に手を当てる。
「似た話、ねえ」
「黒い箱で姿を残す、光を写す、といった内容です」
「写真という言葉でなくても構いません」
モモが補足する。
「昨日から考えてたのか?」
「少しだけ」
ルシルが答える。
「でも、店中を全部探すつもりはないです。もし覚えていたら聞こうと思って」
「賢明だな」
店主は周囲の本の山を見る。
「全部探してたら、海へ着く前に爺になるぞ」
「俺たちもそう思って」
「私は思ってませんでした」
モモが小さく手を上げる。
「モモ?」
「ちょっと探したいとは思いました」
「正直だな」
店主が笑った。
その笑いが消えると、老人はしばらく目を細めた。
「光を写す……姿を残す……」
記憶を探っているらしい。
三人は急かさない。
店内の奥で、紙がわずかに擦れる音がする。
やがて店主が口を開いた。
「同じ話ではない」
三人の視線が集まる。
「でも、似た言葉なら一つ覚えてる」
「似た言葉?」
「ああ。ただし本じゃない」
店主は椅子から立ち上がった。
「昔、旅商人から聞いた言葉だ」
ルシルの胸がわずかに動く。
「何て言葉です?」
「待て。歳寄りを急かすな」
「すみません」
店主は店の奥へ歩いていき、棚の一番下から古びた木箱を引き出した。
中には紙片や古い領収書、手紙のようなものが雑多に入っている。
「本じゃないって言っただろ。昔、珍しい本を持ってきた商人がいてな。そいつが南の方で妙な道具を見たって話をしてた」
シモンの表情が少しだけ引き締まる。
「実物を?」
「そこが分からん」
「分からない?」
「酒飲みだったからな」
店主はあっさり言った。
「半分は本当で半分は法螺だと思って聞いてた」
ルシルは少し肩の力が抜けた。
シモンも頷く。
「その程度の確度ということですね」
「そういうことだ」
店主は箱の中を探りながら続ける。
「十年以上前だったか。南の古道沿いで、板みたいなものに景色を映す道具を見たとか言ってた気がする」
「板……」
モモが呟く。
「箱ではなく?」
「そいつは板と言ってた。黒かったかどうかも覚えてない」
「景色をどうやって映すと?」
「知らん」
店主は首を振った。
「そこまで覚えてない。そもそも本当に見たのかも怪しい」
ルシルは口を開きかけ、閉じた。
板。
景色を映す。
頭の奥に何か引っかかる。
しかし、それ以上は何も出てこない。
「ルシル様?」
シモンが気づく。
「いや、大丈夫。ちょっと気になっただけ」
「何か言葉は?」
「出てない」
「頭痛は?」
「ない」
店主が怪訝そうに三人を見る。
「何の話だ?」
「こちらの事情です」
シモンはそれだけ答え、話を戻した。
「その旅商人の名前は覚えていますか?」
「待て」
店主が箱から一枚の古い紙を引き出した。
「たぶん、これだ」
黄ばんだ紙には、いくつかの本の題名と金額らしい数字が並んでいる。
一番下に署名があった。
「ガルド・ネイマン」
店主が読む。
「南を回ってた古書商だ。珍しい本や紙を持ってきた」
「今も?」
「知らん。最後に会ったのは……九年か十年前だな」
「拠点は?」
「決まってなかった。少なくとも俺は知らん」
シモンはそれ以上追及しなかった。
「その人が『板に景色を映す道具』について話していた。それだけですね」
「俺が覚えてるのはな」
「場所は南の古道沿い」
「だったと思う」
「具体的な町名は?」
「覚えてない」
店主は紙を見たまま眉を寄せた。
「海に近い方だったか、山寄りだったか……そこまで曖昧だ」
「なら、場所は不明として扱います」
シモンの言葉に、モモが小さく頷いた。
帳面はまだ出さない。
店内で書き始めるより、後で三人で整理した方がいい。
「ほかには?」
ルシルが尋ねる。
「似た話」
「今思い出せるのはそれだけだ」
店主は紙を木箱へ戻した。
「ただな」
「はい」
「珍しい話だからって、本物だと思うなよ」
老人はルシルを見る。
「昔話なんてものは、土地を越える間に形が変わる。箱だったものが板になったのかもしれんし、板だったものが箱になったのかもしれん。まったく別の話が似ただけかもしれん」
「分かってます」
ルシルは素直に答えた。
「昨日の本も、昔話なんですよね」
「そうだ」
「でも、知らなかった話を知れたのは面白かったです」
店主は少しだけ目を細めた。
「なら本屋としては十分だ」
「ありがとうございました」
三人は礼を言う。
店を出ようとしたところで、モモが振り返った。
「あの」
「何だ?」
「旅の記録に、お店の名前を書いてもいいですか?」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
「ただし、『変な爺がいた』とは書くな」
「書きませんよ」
「『本がいっぱい積んであった』って書きます」
ルシルが言う。
「それは見れば分かる」
「じゃあ『全部探したら爺になる』って」
「それも書くな」
店主の声に、三人は笑いながら店を出た。
◇
積み本亭から少し離れたところで、モモが帳面を取り出した。
通りの端にある石造りの腰掛けへ三人で座る。
「整理します」
「お願いします」
ルシルも横から覗く。
モモは昨日の『光写しの箱』の記録の下へ、新しい項目を書き足した。
『積み本亭店主の記憶。十年ほど前、南を回る古書商ガルド・ネイマンから、「南の古道沿いで、板のようなものに景色を映す道具を見た」と聞いた可能性あり。店主自身は実物を見ていない。商人の話の真偽不明。場所不明。光写しの箱・写真との関連不明。』
「これでいいですか?」
「いいと思う」
シモンが確認する。
「『可能性あり』『真偽不明』は残してください」
「はい」
「ガルドって人を探す?」
ルシルが尋ねる。
「今は探しません」
シモンは即答した。
「十年近く前の旅商人で、現在地も不明です。探すだけで旅そのものが別の目的になります」
「だよな」
ルシルにも異論はなかった。
「でも、どこかで名前を聞いたら分かる」
「それで十分でしょう」
モモが帳面を閉じる。
「記録しておけば、あとで会った時に気づけます」
「会えるか分からないけどな」
「それも旅ですよ」
モモは立ち上がった。
「さて」
「さて?」
「次は宿です」
「もう?」
「出発するなら準備しないと」
「あ、そうだった」
ルシルも立ち上がる。
写真の手掛かりが一つ増えた。
けれど、それを追いかけて南の古道を探すわけではない。
自分たちが向かう先で、また何かに出会うかもしれない。
出会わないかもしれない。
今はそれでいい。
◇
風見鶏の宿へ戻ると、三人は出発することに決めた。
まだ午前の早い時間。
空は晴れ。
トルクとベルクも問題なし。
南西街道にも異常報告なし。
必要な買い物も済んだ。
宿の主人へ部屋を空けることを伝え、料金を精算する。
「もう出るのかい?」
「はい。お世話になりました」
「南西なら今日は走りやすいと思うよ。昨日より風も弱い」
「馬車組合でも聞きました」
「なら安心だ」
主人は厩まで一緒に来てくれた。
トルクとベルクを馬車へ繋ぎ、革具を確認する。
厩番の青年も手伝ってくれた。
「こっちの灰色、静かだったな」
青年がベルクを見る。
「他の馬が多い場所は苦手なんです」
シモンが答える。
「なるほど。だから端だったのか」
「助かりました」
「また来たら空いてるといいな」
青年は笑う。
ルシルはトルクの首を撫でてから御者台へ上がった。
「最初、俺でいい?」
「構いません」
「私、次やります」
「では僕は丘道の状態を見て交代しましょう」
自然に順番が決まる。
馬車が動き始めた。
風見鶏の宿を離れ、北馬車区の通りへ出る。
昨日入ってきた北口ではなく、町の西寄りから南西街道へ抜ける。
朝のハルゼには、五日市の賑わいはもうない。
それでも宿場町らしく、何台もの荷車が動いていた。
道端では桶を洗う宿の人。
馬具を磨く職人。
荷物の数を確認する商人。
昨日とは違う、普段の町の朝だった。
「昨日より走りやすい」
ルシルが手綱を持ちながら言う。
「人が少ないですからね」
モモは御者台の後ろから外を見る。
「でも昨日の方が賑やかで面白かったです」
「どっちもハルゼなんだな」
「そうですね」
町の南西端が近づく。
最後の家並みを抜けるところで、ルシルは一度だけ振り返った。
赤い屋根。
宿。
市場。
積み本亭。
光写しの箱。
知らない古書商の名前。
短い滞在だったが、思った以上にいろいろ残った町だった。
「行くぞ」
誰に言うでもなく呟き、前を向く。
トルクとベルクが街道へ出た。
◇
ハルゼを離れてしばらくは、農地が続いた。
昨日入ってきた側より畑が広く、街道沿いには低い石垣がところどころ築かれている。遠くには緩やかな丘が重なり、その間を道が南西へ伸びていた。
風は弱い。
日差しも穏やかだった。
路面は馬車組合で聞いた通り乾いている。
「走りやすいな」
「今のところは」
シモンが道を見る。
「丘へ入ってからが本番でしょう」
「今日は泥ないよな?」
「雨が降っていませんから、以前の山道ほど警戒する必要はないと思います。ただ、下りでは速度を出さないように」
「分かった」
ルシルはトルクとベルクの歩調を急がせない。
以前なら、平らな道を見ると少し速く進んでみたくなったかもしれない。
今は、今日の目的地候補が古井戸の広場だと分かっている。
急ぐ理由がない。
しばらく進むと、農地が途切れ始めた。
代わりに低い草地と林が増える。
丘の斜面には白い石が点々と露出しており、その間を小さな黄色い花が埋めていた。
モモは一度そちらを見たが、帳面は出さなかった。
「書かない?」
ルシルが尋ねる。
「遠くて分からないので」
「成長したな」
「前からできますよ」
「最初の頃なら書いてなかった?」
「……書いてたかもしれません」
モモは少し考えて認めた。
シモンが小さく笑う。
「記録するものを選ぶのも、記録のうちでしょう」
「シモン君、今日はいいこと言いますね」
「今日は?」
「いつもです」
「訂正が早い」
馬車はゆっくり丘へ入っていった。
◇
昼が近づいた頃。
街道の先に、大きな木が見えた。
「あれ?」
ルシルが目を細める。
「一本だけでかいな」
丘の間に立つその木は、周囲の木々より明らかに大きかった。
太い幹。
横へ大きく広がる枝。
葉は濃い緑色で、その下には広い影が落ちている。
「石樫でしょう」
シモンが言う。
「じゃあ休み場?」
「おそらく」
近づくと、木の根元から少し離れた場所に石造りの水桶が見えた。
その横には長い木製の腰掛け。
馬を繋ぐための横木もある。
先客はいない。
「ここで昼にする?」
「ちょうどいい時間です」
ルシルは馬車を街道脇へ寄せる。
トルクとベルクを止め、三人で安全を確認してから休憩に入った。
大きな石樫の下は涼しかった。
葉の隙間から細い光が落ち、地面の上で揺れている。
「昨日の森でも見たな、こういう光」
ルシルが見上げる。
モモも同じものを見た。
「写真の話をした時ですね」
「うん」
それ以上、新しい感覚は出てこない。
手も動かなかった。
ただ綺麗だと思う。
それだけだった。
「今日は赤玉菜?」
ルシルが収納した食材へ視線を向ける。
「昼から調理します?」
「せっかく腸詰め買ったし」
「昨日と同じものを?」
「完全に同じにはできないけど、試してみたい」
シモンは空を確認した。
「時間はあります。古井戸まで二刻半程度なら、ここで少し長めに休んでも問題ないでしょう」
「じゃあやろう」
簡単な火を用意する。
赤玉菜は二個のうち一個だけ使うことにした。
切ってみると、昨日食堂で見たものと同じように、外側は赤紫色だが内側には白い層がある。
「本当に同じだ」
「同じ野菜を買ったんですから当然でしょう」
「いや、丸のままだと中分からなかったし」
モモが薄切りにした一枚を見つめる。
「これ、生でも食べられるんですよね」
「試す?」
「少しだけ」
三人で薄い一切れをさらに分ける。
ルシルが噛んだ瞬間、眉を上げた。
「辛っ」
「そこまでではありません」
シモンは平然としている。
モモも少し目を細めた。
「後から来ますね」
生の赤玉菜は瑞々しい。
最初はわずかに甘いが、噛むほど舌の奥へ軽い辛みが残る。
「俺、火通した方が好き」
「私も昨日の方が好きです」
「僕は生でも構いません」
「シモン、こういうの強いな」
「好き嫌いが少ないだけです」
残りは腸詰めと一緒に浅い鍋へ入れ、少量の水と塩で蒸す。
蓋を開けると、赤玉菜の色が柔らかく変わり、腸詰めの脂が全体へ広がっていた。
「昨日の匂いに近い」
ルシルが嬉しそうに言う。
「香草が違うので同じではありませんけどね」
モモが皿へ取り分ける。
パンと保存肉を少し添えれば、十分な昼食になった。
一口食べたルシルは頷く。
「うまい」
「昨日より少し薄味ですね」
「旅の昼ならこれくらいでいいかも」
「洗う鍋も一つで済みます」
シモンの評価は相変わらず実用的だった。
「残り一個、どうする?」
「急いで使う必要はありません」
「次は焼いてみたい」
「覚えておきます」
モモが言う。
「帳面には?」
「赤玉菜は書きます」
「やっぱり」
「これは旅先で使えそうなので」
モモは食後に短く記録した。
『赤玉菜。生は瑞々しく少し辛い。火を通すと甘みが増す。腸詰めと蒸すと美味しい。丸のままなら日持ちする。』
その下へ小さく付け足す。
『ルシル様は火を通した方が好き。』
「そこ必要?」
「後で料理するときに必要です」
「じゃあモモは?」
モモは少し考え、自分の分も書く。
『モモも火を通した方が好き。シモン君はどちらでも平気。』
「僕まで書くんですか」
「三人の帳面なので」
シモンは何も言い返さなかった。
◇
十分に休んでから、再び街道へ出た。
午後の御者は予定通りモモが担当する。
丘道は緩やかな上りと下りを繰り返していた。
道幅は十分ある。
急な崖もない。
ただ、平地より先が見えにくいため、モモは上りの頂上付近で速度を落とした。
「向こう側が見えないの、ちょっと嫌ですね」
「その判断でいいです」
シモンが答える。
「頂上を越えた直後に荷車が止まっている可能性もありますから」
「はい」
実際、三つ目の丘を越えたところで、反対側から荷車が上ってきた。
互いに十分手前で気づいたため、道幅の広い場所ですれ違う。
向こうの御者が片手を上げる。
モモも軽く頭を下げた。
「今の、ちゃんとできました」
「できていましたよ」
ルシルが後ろから言う。
「前なら緊張した?」
「もっとしたと思います」
モモは手綱を握ったまま笑う。
「今も少ししましたけど」
それで十分だった。
慣れたからといって、何も感じなくなる必要はない。
必要な緊張を残したまま、普通に通れる。
馬車はさらに南西へ進んだ。
午後の日差しが少しずつ傾く。
丘の数が減り始め、代わりに広い草地が現れた。
遠くに小さな林。
その向こうに、一本の古い道標が立っている。
「そろそろ?」
ルシルが地図を見る。
「距離としては近いはずです」
シモンが答える。
さらにしばらく進む。
やがて街道の左側に、低い石垣で囲まれた広場が見えた。
中央に石造りの井戸。
端には馬繋ぎの横木。
そして――。
「本当に屋根ないな」
ルシルが言った。
建物らしいものは何もなかった。
広い空。
草。
石。
井戸。
それだけだ。
「聞いた通りですね」
モモが御者台から広場を見る。
「でも、広いです」
「今夜はテントですね」
シモンも周囲を確認する。
先客はいない。
井戸の周囲も荒れていない。
風は少しあるが、強くはなかった。
ルシルは空を見上げた。
雲は少ない。
まだ日暮れまで時間がある。
「ここにしようか」
「ええ。無理にレグナまで行く理由はありません」
「私も賛成です」
モモが馬車をゆっくり広場へ入れる。
トルクとベルクの蹄が、乾いた地面を踏む。
屋根はない。
壁もない。
けれど空が広い。
丘に囲まれていた道から出てきたせいか、ルシルにはその広さが妙に気持ちよく感じられた。
馬車を止め、三人はそれぞれ動き始める。
今夜は久しぶりに、きちんとテントを張る。
水を確かめる。
馬を休ませる。
残った赤玉菜は、まだ使わない。
明日の昼過ぎには、次の町レグナへ着ける見込みだ。
その先で道は二つに分かれる。
海へ向かうなら西南道。
まだ見たことのない道が、また少し先まで見えるようになった。
ルシルは井戸の向こうに広がる夕方前の草地を眺めた。
写真の新しい言葉は、今日は何も浮かばない。
それでも構わなかった。
今ここにある景色は、今の自分の目で見ればいい。
「ルシル様」
シモンに呼ばれ、振り返る。
「見ているだけではテントは立ちませんよ」
「今行く!」
モモの笑い声が風に混じる。
ルシルは広い空の下を駆け戻り、二人と一緒に今夜の寝床を作り始めた。




