第58話 屋根のない夜は、星が近く見えました
古井戸の広場には、本当に空を遮るものがほとんどなかった。
低い石垣の外には緩やかな草地が続き、その向こうには午後に越えてきた丘が重なっている。広場の中央にある古い井戸と、街道側へ設けられた馬繋ぎの横木を除けば背の高いものはなく、ハルゼで見上げていた空よりもずっと広く感じられた。
「風、こっちから来てますね」
モモが髪を押さえながら西側を見る。
強くはないものの、草地を渡ってきた風が途切れず吹いていた。
「なら入口を風上へ向けない方がいいですね」
シモンは地面の状態を確かめ、広場の北東寄りを指した。
「この辺りにしましょう。井戸にも近すぎず、馬車からも離れすぎていません」
「了解」
ルシルは収納魔法から畳んだテントを出す。
以前なら、広げた布と棒を前にしてシモンの指示を待っていたかもしれない。だが旅を続けるうちに設営の順番は身体へ馴染み始めており、今では三人がいちいち相談しなくても自然に役割が分かれる。
ルシルとモモが布を広げ、シモンが風向きと地面を見ながら位置を微調整する。
「もう少し右です」
「これくらい?」
「そこです」
杭を打ち込み、支柱を立てる。
風を受けた布が一度大きく膨らみ、モモが慌てて端を押さえた。
「わっ」
「大丈夫?」
「大丈夫です。でも、屋根がない場所ってこういうところが違うんですね」
「森だと木が結構止めてくれてたんだな」
ルシルも反対側を押さえながら答える。
先ほどまで気持ちいいと思っていた風も、薄い布を広げれば急に存在感が増す。
シモンが固定用の縄を一本追加した。
「夜に強くなる可能性もあります。念のため補強しておきましょう」
「天気悪くなる?」
「今の空を見る限り、その可能性は低そうです。ただ、開けた場所では風だけ強まることがありますから」
「じゃあ追加」
ルシルは杭をもう一本受け取った。
打ち込むたびに乾いた音が広場へ響く。
少し離れたところでは、馬車から外したトルクとベルクが水を飲んでいた。長い移動ではなかったが、丘道を何度も上り下りしたため、二頭とも落ち着いて休んでいる。
テントが立つ頃には、太陽が丘の上へ近づいていた。
「できた」
ルシルは数歩離れ、三人で立てたテントを見る。
「今日は早かったな」
「慣れてきましたね」
モモも満足そうだ。
「最初の頃より、シモン君に聞く回数が減りました」
「聞かれる前に止める回数も減りました」
「それ褒めてる?」
「褒めていますよ」
「じゃあ素直に受け取っとく」
ルシルが笑う。
シモンはテントの縄を最後に一度確認し、それから井戸へ向かった。
「次は水です」
◇
古井戸は、名前の通りかなり年季が入っていた。
丸く積まれた石の一部は角が削れ、縁には何本もの縄が擦れた跡が残っている。新しい桶と縄が用意されているところを見ると、井戸そのものは古くても今なお街道を行き交う人々に使われているらしい。
「昨日確認済みって言ってたよな」
「ええ。ただし、僕たちも自分で確認します」
シモンが桶を下ろす。
滑車が小さく軋み、縄が井戸の中へ吸い込まれていく。
少しして水を汲み上げると、三人で覗き込んだ。
透明。
変な匂いもない。
シモンが簡単な魔法による確認も行ったが、異常は見つからなかった。
「問題なさそうです」
「じゃあ補充しよう」
飲み水を確保し、必要な分を容器へ移す。
モモは桶から小さな器へ水を取り、一口飲んだ。
「冷たいです」
「俺も」
ルシルも飲む。
ひんやりした水が喉を通る。
歩いているわけではないとはいえ、午後の日差しの中でテントを張った後にはちょうどよかった。
「うまい」
「水ですよ?」
「水もうまいだろ」
「それはそうですけど」
モモももう一口飲む。
シモンは二人を見ながら、自分の分も器へ注いだ。
「井戸の水を飲んで喜べるなら、旅向きではありますね」
「王城にいた頃は井戸の水なんて気にしたことなかったし」
ルシルは井戸の石縁を眺める。
水がどこから運ばれてくるのか。
誰が汲むのか。
桶が壊れたら誰が直すのか。
昔なら考える必要さえなかったことが、旅に出てから一つずつ目に入るようになった。
だが、それをいちいち過去と比べて感慨に浸るほど、今では珍しいことでもなくなっている。
「この桶、新しいな」
ルシルは縁に置かれた木桶を見る。
「井戸は古いのに」
「誰かが交換したのでしょうね」
シモンが答える。
「馬車組合の管理か、近隣の町か、それとも街道を使う人たちが共同で維持しているのか。そこまでは聞いていませんが」
「次に壊れてるの見つけたら報告すればいいんだよな」
「ええ」
ルシルは頷き、それ以上は考えなかった。
今は桶も縄も使える。
それで十分だ。
◇
馬の世話と水の補充を終えても、まだ夕食には少し早かった。
三人は木製の簡易椅子を出し、井戸から少し離れた場所で休むことにした。
何もない広場だからこそ、遠くまで見える。
南西へ伸びる街道は草地の間を通り、やがて緩い丘の陰へ消えていた。反対側を見れば、自分たちが越えてきた丘道があり、さらにその向こうにハルゼがあるはずだが、町の建物までは見えない。
「静かですね」
モモが言う。
「森とは違う静かさだな」
ルシルは椅子の背へ身体を預ける。
林の中では、静かに思えても鳥や葉、水の音が絶えなかった。
ここでは風が草を撫でる音が一番大きい。
時折、遠くで鳥が鳴く。
それ以外は何もない。
「街道なのに誰も来ないな」
「時間帯もあるでしょう。ハルゼを朝出た馬車なら、僕たちより先へ進んでいる可能性があります。レグナ側から来る馬車なら、石樫の休み場より先へ行くか、すでにハルゼへ入っている頃かもしれません」
「ここで泊まる人って少ない?」
「慣れた御者ならハルゼとレグナを一日で移動できますからね。僕たちのように途中で一泊する方が少数かもしれません」
「じゃあ今日は貸し切りかもしれないですね」
モモが広場を見回す。
「まだ分かりませんよ」
「誰か来ても広いから大丈夫だろ」
「そうですね」
三人分の椅子の前を、乾いた草の小さな塊が風に転がっていく。
ルシルはそれを目で追った。
ころころと不規則に転がり、途中で石にぶつかって止まる。
しばらくして風が吹くと、また動き始めた。
「……なんか面白い」
「何がです?」
「あれ」
ルシルが指差す。
モモも見る。
「草?」
「ずっと転がってる」
「風で飛ばされてるだけでは?」
シモンが言う。
「分かってるけど、見てるとどこまで行くのか気になる」
「ルシル様って、時々すごく小さいものを長く見ますよね」
「そう?」
「川の泡とか、蟻とか」
「蟻は荷物運んでたから」
「それを見ていたんです」
「面白かったぞ」
モモが椅子から少し身を乗り出す。
「どこまで行くと思います?」
「石垣まで」
「私は井戸の横」
「賭け事にしないでくださいよ」
シモンが呆れた声を出す。
「何も賭けてないです」
「予想です」
「なら構いませんが」
三人で草の塊を見る。
風が吹く。
草は石から離れ、少し斜めへ転がった。
「井戸側!」
モモが声を上げる。
「いや、まだ曲がる」
次の風で方向が変わる。
今度は石垣側へ向かった。
「ほら!」
「まだです」
「二人とも、そんな真剣に見ます?」
そう言いながら、シモンも見ている。
やがて草の塊は広場の中央を越え、石垣まであと数歩というところで止まった。
「勝った」
「まだ石垣についてません」
「次の風で行く」
「じゃあまだ勝ってないです」
「何の勝負なんですか」
シモンが眼鏡の位置を直した。
その時。
草の塊とは反対方向、街道の向こうから音が聞こえた。
車輪。
三人がそちらを見る。
「誰か来るな」
ルシルが立ち上がる。
南西側の丘の陰から、小さな荷馬車が姿を現した。
◇
荷馬車は一頭立てだった。
御者台に座っているのは、日に焼けた顔の年配の女性。
荷台には空の木箱がいくつも積まれている。
女性も広場の馬車に気づき、少し手前で速度を落とした。
「泊まりかい?」
広場へ入ってくるなり、よく通る声で聞いてくる。
「その予定です」
シモンが答える。
「そうかい。じゃあ井戸だけ借りるよ」
「もちろんです」
女性は荷馬車を馬繋ぎの反対側へ止める。
一頭の鹿毛馬を休ませてから、桶を持って井戸へ来た。
「水は大丈夫だった?」
「確認しました。問題ありません」
「昨日も平気だったからね」
女性は慣れた手つきで桶を下ろす。
「昨日も?」
ルシルが尋ねる。
「あたしじゃないよ。うちの息子がハルゼへ行った。今朝、家で聞いた」
「レグナの人ですか?」
「そうさ」
女性は水を汲み上げ、まず馬へ運ぶ。
「今日はハルゼまで?」
「そのつもり。市の翌日は空箱を返す仕事があるんだよ」
荷台の木箱を指す。
確かに中身は空だ。
「五日市で使った箱?」
「野菜を運んだやつさ。昨日は息子が荷を持って行って、あたしが今日回収分を運ぶ。帰りに向こうの品を積むけどね」
「毎日いろんな馬車が行き来してるんだな」
「そりゃそうさ。町は勝手に食べ物が生えてくるわけじゃないからね」
女性は笑った。
その言葉に嫌味はない。
ただ当たり前のことを言っているだけだった。
「レグナまで、明日なら昼過ぎに着けると聞きました」
シモンが確認する。
「この二頭ならそれくらいだろうね。道も悪くない。ただ、明日の午前は少し風が出るかもしれないよ」
「天気が崩れますか?」
「雨じゃない。西風。あの辺は丘が切れて平らになるから、横から風を受ける」
女性は街道の先を指す。
「荷が高い馬車だと気をつけるけど、あんたらのは大丈夫そうだね」
「ありがとうございます」
「あと、レグナの手前に細い橋が一本ある。馬車一台分しかないから、向こうから来てたら手前で待ちな」
「橋の状態は?」
「今朝通った時は何ともない」
新しい情報だった。
モモが鞄へ手を伸ばす。
「書いておきます」
「旅の記録かい?」
「はい。必要なことと、覚えておきたいことだけ」
「偉いねえ」
女性は笑う。
「うちの息子にも見習わせたいよ。何度言っても荷札をどこかへ突っ込む」
「それは記録とは別の問題では?」
シモンが言う。
「同じようなもんさ。必要なものを必要な時に出せない」
「……確かに」
シモンが少し納得してしまい、ルシルが笑った。
女性は自分の飲み水も補充すると、荷馬車へ戻っていく。
「もう行くんですか?」
「ああ。日が落ちる前に丘道を越えたいからね」
「気をつけて」
「あんたらもな。夜は冷えるよ」
女性は御者台へ乗り、手綱を取る。
「それと、井戸の西側に穴が一個あるから、暗くなってから踏むんじゃないよ!」
「穴?」
ルシルが見る。
「草で隠れてる。昨日、息子が足突っ込んだ」
「怪我は?」
「尻餅ついただけ!」
女性は大声で笑った。
荷馬車が動き出す。
ハルゼへ向かう後ろ姿を三人で見送った。
「穴、見ておこう」
「そうですね」
言われた場所を探すと、本当にあった。
井戸から西へ十歩ほど。
草に隠れた窪みがあり、大人の足首が入る程度には深い。
「これは夜だと分からないな」
ルシルはしゃがみ込む。
「埋める?」
「勝手に土を入れるより、目印を置く程度にしましょう」
シモンの提案で、近くに落ちていた拳ほどの石を四つ、窪みの周囲へ置いた。
暗くなっても気づきやすい。
「明日レグナで言う?」
「馬車組合があれば伝えましょう。大きな危険ではありませんが、広場の管理情報としてはあった方がいいでしょう」
「帳面にも書きます」
モモが短く記録する。
橋。
風。
広場の窪み。
それだけ書くと、すぐ帳面を閉じた。
「さっきのおばさんの息子さんが尻餅ついたのは?」
「書きません」
「よかった」
◇
夕方になると、風が少し冷たくなった。
女性の言った通り、夜は冷えそうだ。
三人は日が沈みきる前に夕食の準備を始める。
「赤玉菜は使わないんですよね」
「昼に食べたしな」
「では普通にしましょう」
今夜は保存肉と豆、残っている山芋根を使った煮込みにした。
山芋根はまだ少量残っている。
薄めに切って鍋へ入れ、豆と保存肉と一緒に煮る。味付けは塩を中心にして、山椒実は使わなかった。
「今日は辛くない」
ルシルが鍋を覗く。
「昼に赤玉菜を生で食べたからですか?」
「別にあれもそんな辛くなかったけど」
「最初に『辛っ』って言ってました」
「思ってたより辛かっただけ」
「同じでは?」
「違う」
モモが木杓子で鍋を混ぜながら笑う。
「ルシル様は甘い方が好きなんですね」
「野菜は甘い方がうまくない?」
「ものによります」
シモンはパンを切り分けている。
「何でも甘ければいいわけではありません」
「分かってるよ」
「では次に赤玉菜を使う時は、焼くだけにしてみます?」
モモが尋ねる。
「やってみたい」
「覚えておきます」
煮込みが完成する頃には、太陽の半分が丘の向こうへ沈んでいた。
空の色が変わっていく。
橙色。
薄紫。
さらに上には、まだ明るい青。
三人は椅子へ座り、鍋から取り分けた夕食を食べる。
温かな汁が、少し冷え始めた身体へ染み込む。
「山芋根、あとどれくらい?」
ルシルが尋ねる。
「もう一度料理に使える程度ですね」
シモンが答える。
「じゃあ次で終わりか」
「また似たものがあれば買えばいいでしょう」
「セイラで買ったんだっけ」
「ええ」
ルシルは柔らかく煮えた山芋根を口へ入れる。
旅をしていると、買った場所と食べる場所がどんどん離れていく。
セイラで手に入れたものを、ハルゼを越えた先の何もない広場で食べている。
「なんか面白いな」
「何がです?」
「これ買った町、もう結構後ろだろ」
「そうですね」
「でもまだ食べてる」
「保存できる食材ですから」
シモンの答えは現実的だった。
「いや、そうなんだけど」
ルシルは笑う。
「旅してる感じするなって」
モモも自分の器を見る。
「高原赤実もまだ少しありますよね」
「あります」
「じゃあ、それも別の場所で食べるかも」
「そう考えると、食べ物も一緒に旅してますね」
「それいいな」
ルシルは妙に気に入った。
「赤玉菜もハルゼから一緒」
「残り一個ですけど」
「十分」
シモンが小さく息を吐く。
「食材に仲間意識を持つのはやめてください。最終的に食べるんですから」
「食べるけど」
「食べますけど」
モモまで同意した。
シモンは何も言わずパンを一口食べた。
◇
夕食を終え、片づけを済ませた頃。
空は完全に暗くなっていた。
シモンは広場の周囲を確認してから、いつもの警戒用の魔法を調整する。
ここは森ではない。
見通しがよく、周囲に大きな動物が隠れられる場所も少ない。
それでも夜間に何が近づくかは分からないため、一定以上の大きさのものが範囲へ入れば気づけるようにしておく。
「これでいいでしょう」
「今日も鹿くらいから?」
「その程度を目安にしています。小動物で何度も起こされるのは避けたいですから」
「お願いします」
モモが毛布を一枚持ってテントへ向かいかけた。
その途中で、ふと足を止める。
「あ」
「どうした?」
「星」
ルシルも上を見る。
いつの間にか、空には星が出始めていた。
まだ東の空にわずかな明るさが残っているのに、頭上にはいくつもの白い光が見える。
「ここ、すごく見えそうだな」
「周りに明かりがありませんからね」
シモンも空を見上げた。
ハルゼでは夜になっても宿や店の灯りがあった。
森では木々が空を隠していた。
草原でも星は見たが、今夜の広場は丘の間が開けており、視界を遮るものがほとんどない。
「もう少し待ったら増えるかな」
「増えるというより、暗くなって見える星が増えるでしょう」
「同じじゃない?」
「意味は違います」
「シモン君、こういう時も細かいです」
「正確と言ってください」
三人はテントへ入らず、そのまま椅子へ戻った。
特に相談したわけではない。
ただ、今すぐ寝るには少し惜しい空だった。
◇
時間が経つにつれ、星は本当に増えていった。
昼間はどこまでも青かった空が、今は深い紺色へ変わっている。
小さな光が無数に散らばり、その中にははっきり明るいものもあれば、目を凝らしてようやく見えるものもある。
「すごい……」
モモは椅子の背へ身体を預け、ほとんど真上を見ていた。
長い桃金色の髪が背もたれから落ちる。
「こんなにあったんですね」
「星?」
「はい」
「神殿じゃ見えなかった?」
「庭から見たことはあります。でも、建物がありましたし、夜にずっと外にいることもあまりなかったので」
「俺も王城ではこんな感じで見たことないかも」
夜空そのものを見たことがないわけではない。
窓から。
庭から。
儀式や夜会の帰り。
けれど、用事もなく椅子へ座り、ただ星を見る時間などほとんどなかった。
今は誰にも呼ばれない。
明日の朝まで、ここにいていい。
「シモンは?」
ルシルが尋ねる。
「何がです?」
「こういう星空」
「遠征や移動で見たことはあります」
「仕事で?」
「ほとんどは」
「じゃあ今日は仕事じゃないな」
シモンは一瞬だけ黙った。
眼鏡越しに空を見上げる。
「そうですね」
それだけ答えた。
ルシルはそれ以上何も言わなかった。
シモンが以前より休めるようになったことを、わざわざ口にする必要はない。
三人で座っている。
それで十分分かる。
モモが突然、空の一角を指差した。
「見てください。あそこ、三つ並んでます」
「どれ?」
「あの明るいのから右です」
「……分からん」
「ルシル様、もっと右」
「これ?」
「それは四つです」
「星多すぎない?」
「当たり前でしょう」
シモンが呆れる。
「じゃあシモン分かる?」
「どれを指しているかによります」
「ほら」
「何が『ほら』なんですか」
モモが笑いながら立ち上がった。
「こっちから見てください」
ルシルの椅子の横へ移動し、同じ方向から空を見る。
「あの一番明るい星がありますよね?」
「うん」
「そこから右下に二つ」
「ああ……これか」
「そうです」
「本当に三つ並んでる」
「でしょう?」
「名前あるのかな」
「星の本、持ってましたっけ?」
モモがシモンを見る。
「ありません」
「買ってないか」
「鳥と植物と料理の本はありますけどね」
「次、本屋で見つけたら欲しい」
ルシルが言う。
「また本が増えますよ」
「収納できるし」
「そういう問題ではありません」
「でもシモンも読むだろ?」
「内容によります」
「読むやつだ」
「まだ買ってもいません」
ルシルは笑い、もう一度空を見る。
知らないものばかりだ。
花。
鳥。
小動物。
食べ物。
道。
町。
そして今度は星。
全部の名前を知る必要はない。
知らないまま綺麗だと思ってもいい。
それでも、名前が分かったら少し嬉しい。
「帳面に星も書く?」
ルシルが尋ねる。
モモは少し迷った。
「今日は書かなくてもいい気がします」
「珍しい」
「なんでも書かないって決めたので」
モモは椅子へ戻る。
「それに、書かなくても覚えていそうです」
ルシルは空を見た。
確かにそう思った。
◇
星を見ているうちに、時間の感覚が薄れていった。
風は少しずつ冷たくなる。
草地から上がってくる冷気もあり、外套を着ていても指先が冷え始めた。
「そろそろ入りますか」
シモンが言う。
「もうちょっと」
ルシルは反射的に答えた。
「風邪を引いても知りませんよ」
「あと少し」
「ルシル様、子どもみたいです」
モモが笑う。
「モモだってまだ見てるだろ」
「私は今入ろうと思ってました」
「本当に?」
「……あと少し見てから」
「同じじゃん」
シモンが立ち上がる。
「僕は先に寝具を確認します」
「シモンはもういいの?」
「十分見ました」
「本当に?」
「本当です」
そう答えてテントへ向かいかけたシモンが、二歩進んだところで止まった。
「……ただ」
「ただ?」
「月が出る前の方が、暗い星は見やすいですね」
ルシルとモモが顔を見合わせる。
「まだ見る?」
「寝具を確認してからです」
「見るんだ」
「確認してからです」
シモンはそのままテントへ入った。
モモが小さく笑う。
「シモン君も楽しんでますね」
「言ったら否定するぞ」
「言わないでおきましょう」
やがてシモンも戻ってきた。
今度は自分の肩へ薄い毛布を掛けている。
「準備いいな」
「冷えるので」
「俺たちの分は?」
「自分で取ってきてください」
「はい」
結局、ルシルとモモも毛布を取りに行った。
三人が毛布を肩に掛けて星を眺める姿は、少し妙だったかもしれない。
だが、周囲には誰もいない。
気にする必要もなかった。
◇
「あ」
どれくらい経った頃だろう。
ルシルの視界の端を、白いものが走った。
一瞬。
星とは違う。
「今、何か光った」
「どこです?」
「向こう」
ルシルが空を指差す。
だが、もう何もない。
「流星でしょうか」
シモンが言う。
「流星?」
「星が流れるように見える現象です」
「見たことない」
「私は見えませんでした」
モモが残念そうに空を見る。
「もう一回来ませんかね」
「来るかもしれませんし、来ないかもしれません」
「見たいです」
三人はしばらく同じ方向を見る。
何も起きない。
「見ようとすると来ないな」
「そういうものではありません」
「でもさっきは見てない時に来た」
「空を見ていたでしょう」
「別の星見てた」
モモが笑う。
「次は私が先に見つけます」
「競争?」
「競争です」
「では僕は参加しません」
「見つけたら言ってね」
「参加しないと言ったでしょう」
再び空を見上げる。
しばらくして。
「あっ!」
今度はモモが声を上げた。
「見ました!」
「どこ!?」
「あっち! 今!」
「もう消えてる!」
「見ましたよ!」
「ずるい」
「ずるくないです!」
モモは本当に嬉しそうだった。
ルシルが悔しがっている横で、シモンが静かに空を見ている。
「シモンは?」
「見ました」
「見たの!?」
「視界に入りました」
「参加してないのに二人とも見てる」
「流星に参加資格はありません」
「次は絶対見る」
ルシルはさらに真剣に空を見上げた。
首が痛くなってくる。
それでも待つ。
風が吹く。
草が鳴る。
遠くで何か小さな鳥か虫が一度だけ鳴いた。
そして。
白い線が、夜空を短く横切った。
「見た!」
ルシルが思わず立ち上がる。
「今の見た!」
「見ました」
「私も!」
三人の声が重なった。
ほんの一瞬だった。
写真に残す暇などない。
構える暇も。
何かを考える暇もない。
ただ目の前を通り過ぎて、消えた。
ルシルはしばらく、その消えた場所を見ていた。
「……こういうのは、写真に残せなくてもいいかもな」
自然に出た言葉だった。
モモが隣で首を傾ける。
「どうしてです?」
「分かんない」
ルシルは笑う。
「三人とも見たから」
モモも少しだけ笑った。
「そうですね」
シモンは何も言わなかったが、否定もしなかった。
そのまま三人で、もう少しだけ夜空を眺めた。
◇
さすがに身体が冷えてきたところで、今度こそテントへ入った。
警戒用の魔法に異常はない。
トルクとベルクも落ち着いている。
広場の窪みには石の目印がある。
火もきちんと始末した。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
暗いテントの中で、それぞれ毛布へ入る。
外から聞こえるのは風の音だけだった。
ルシルは目を閉じる。
今夜は夢を見るだろうか。
黒い四角いもの。
誰かの姿。
カシャという音。
頭の中へ一瞬だけ浮かんだが、追いかけなかった。
(今日は星の方がいいな)
最後に思い出したのは、三人で同時に見た流星だった。
白い線。
ほんの一瞬。
残らないからこそ、目を離せなかった光。
そのまま意識がゆっくり沈んでいった。
◇
翌朝。
ルシルは鳥の声で目を覚ました。
テントの布越しに朝の光が差し込んでいる。
身体を起こし、しばらくぼんやりする。
「……夢」
見た気がする。
ルシルは動きを止めた。
昨日の夜空ではない。
黒い箱でもない。
白い壁でもない。
何か、別のもの。
(なんだ?)
無理に思い出そうとせず、目を閉じたまま待つ。
輪郭が少しだけ戻ってくる。
明るい場所。
横長の何か。
色がたくさん並んでいる。
そして――文字。
読めない。
いや。
違う。
読めなかったのではない。
夢の中では、読めていた気がする。
「……え?」
ルシルは目を開いた。
胸が速くなるほどではない。
頭痛もない。
吐き気もない。
ただ、今までの夢とは少し違う。
黒い道具ではなかった。
写真を撮る動作でもなかった。
それなのに、自分が知らないはずの場所だという感覚だけは妙にはっきり残っている。
隣では、まだモモが眠っている。
シモンも起きていない。
ルシルは声を掛けようとして、やめた。
危険はない。
身体にも異常はない。
なら、起きてから話せばいい。
(明るい場所。横長の何か。色がいっぱい。文字……)
忘れないように、頭の中でもう一度だけ並べる。
だが文字の形を思い出そうとすると、霧がかかったようにぼやけてしまう。
内容も出てこない。
夢の中では読めた。
それだけ。
ルシルは毛布の上で自分の手を見た。
勝手に動く様子はない。
昨日の夜、三人で見た星空とはまったく違う朝だった。
写真の夢なのかさえ、まだ分からない。
だから今は、決めない。
ルシルはもう一度だけ深く息を吸い、テントの外から聞こえる朝の風へ耳を澄ませた。
レグナへ向かう一日は、まだ始まったばかりだった。




