第59話 知らない文字を読めた夢と、風の強い一本道
古井戸の広場を渡る朝の風は、昨夜より少しだけ強かった。
テントの布が外側から押されるたび、ぱたぱたと乾いた音がする。まだ完全に昇りきっていない朝日が薄い布を淡く染め、その向こうではトルクかベルクが身体を動かしたらしく、馬具の金具が小さく触れ合う音がした。
ルシルは毛布の上に座ったまま、自分の両手を見ていた。
右手も左手も、いつも通りだ。
指を一本ずつ曲げてみても違和感はない。
頭も痛くない。吐き気もなければ、目眩もない。胸が苦しいわけでもなく、魔力の流れにもおかしな感覚はなかった。
それでも、目を覚ました直後に残っていた夢の断片は、これまでとは少し違っている。
(明るい場所。横長の何か。色がたくさん並んでた。それから、文字……)
形は思い出せない。
何と書いてあったのかも分からない。
なのに夢の中の自分は、それを文字だと認識していた。
それどころか――読めていた気がする。
「……変なの」
小さく呟いたところで、少し離れた毛布が動いた。
「何が変なんですか……?」
眠気の残った声とともに、モモが顔を出す。
桃金色の長い髪は寝ている間に少し乱れており、普段よりふわりと広がっていた。まだ完全には開いていない緑色の目がルシルを捉え、数秒かけて焦点が合っていく。
「あ。おはようございます」
「おはよう」
「……何かありました?」
眠そうだった目が、少しだけはっきりする。
ルシルが起きているだけなら、モモも気にしなかっただろう。しかし毛布から出たまま両手を眺めていたせいで、何かあったと気づかれたらしい。
「夢見た」
「夢?」
「うん。でも、今までのとちょっと違う」
モモの表情から眠気がもう少し消えた。
その声が聞こえたのか、反対側でも毛布が動く。
「今までと違う、とは?」
シモンだった。
「起きてたの?」
「今起きました」
眼鏡を掛けながら身体を起こし、まずルシルの顔を見る。
「体調は?」
「大丈夫。頭痛なし、吐き気なし、目眩なし。身体も普通。魔力も変な感じしない」
「……先に言われましたね」
「毎回聞かれてるから覚えた」
シモンは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「それなら、同じ質問を一つずつ繰り返す必要はなさそうですね」
「俺もそう思う」
「ただし、何か変化があれば言ってください」
「分かってる」
シモンはそれ以上身体について尋ねなかった。
モモはまだ帳面へ手を伸ばしていない。まず話を聞こうとしているのか、毛布の上へ座り直し、乱れた髪を手櫛で軽く整えた。
「どんな夢だったんですか?」
「それが、あんまり残ってない」
ルシルは目を閉じる。
起きた直後より、すでに輪郭が薄くなり始めていた。
焦って追いかければ余計に崩れそうな気がして、頭に残っているものだけを順番に拾う。
「明るい場所だった。外じゃないと思う」
「建物の中ですか?」
「たぶん。でも、壁とか天井がどうだったかは覚えてない」
「前に見た白い壁と同じ場所ですか?」
モモの問いに、ルシルは少し考えてから首を横へ振る。
「分からない。同じって感じもしなかったけど、違うって言い切れるほど覚えてない」
「では同一かどうか不明ですね」
シモンが整理する。
「うん。それから、横長の何かがあった」
「黒い箱とは別ですか?」
「別だと思う。少なくとも手に持ってなかった」
ルシルは両手を軽く開いた。
「もっと大きかった気がする。俺の前にあって……そこに色がいっぱい並んでた」
「色?」
「うん。いろんな色。でも、何だったか分からない」
「絵ですか?」
「それも分からない」
夢の中で見たものを思い出そうとする。
赤。
青。
白。
もしかすると緑もあった。
だが、それが何かの絵だったのか、物だったのか、それとも別の何かなのかまでは掴めない。
「色が並んでいた。その近くに文字があった」
そこまで言うと、モモが少しだけ身を乗り出した。
「文字を見たんですか?」
「見た。……と思う」
「どんな文字でした?」
「それが思い出せない」
ルシルは眉を寄せる。
「形も分からないし、一文字も書けない。でも――」
言葉を切った。
これだけは、目覚めた瞬間から引っかかっている。
「夢の中では、読めてた気がする」
テントの中が静かになった。
外で風が吹き、布が一度大きく揺れる。
モモはすぐに何かを言わず、ルシルの顔を見ていた。シモンも同じで、驚いた様子を完全には隠していないものの、結論を急ぐ気配はない。
「読んだ内容は?」
やがてシモンが尋ねる。
「分からない」
「文字の読み方は?」
「分からない」
「起きている今、その文字を思い浮かべられますか?」
「無理。文字があったってことしか残ってない」
「では、現在のルシル様が未知の文字を読めるようになった、と確認できる状態ではありませんね」
「うん」
ルシル自身、それは分かっている。
夢の中では読めた気がする。
ただそれだけだ。
現実で見せられても、同じものだと判断できるかすら分からない。
「変ですよね」
モモが静かに言った。
「でも、今までの夢だって変でしたし」
「そうなんだよな」
ルシルは頭を掻く。
「黒い箱の方が分かりやすかったかも」
「分かりやすくはないと思います」
「カシャって鳴ったし」
「音があった分、今回より情報が多かったという意味なら分かります」
シモンが眼鏡の位置を整えた。
「今回は、夢の中で読めたという感覚そのものが新しい情報ですね。ただし、実際に何かの文字を読んだ証明にはなりません」
「書いとく?」
ルシルがモモを見る。
「はい。ただ、今話したことだけにします」
そこでようやくモモは鞄から小さな帳面を取り出した。
表紙にはまだ題名がない。
フェルナで買ってから少しずつ文字が増え、草原で見た動物や街道のこと、食べ物、そしてルシルの中に突然現れた「写真」という言葉に関する記録も収められている。
モモは新しい頁を開いた。
「明るい屋内らしき場所。横長の何か。色が多数並んでいた。文字があった……」
書きながら一度顔を上げる。
「文字は『見た』でいいですか?」
「たぶん」
「では『文字らしきものを見た記憶あり』にしておきます」
「それがいい」
ペン先が紙を擦る。
『夢の中では読めていたように感じたが、内容・文字の形・読み方は起床後すべて不明。現実で読めるかどうかも不明。以前の白い壁の夢との関連不明。写真との関連も不明。』
「こんな感じです」
「いいと思います」
シモンが確認する。
「今回は、写真と結びつけない方がいいでしょう」
「俺もそう思う」
黒い箱は出てこなかった。
カシャという音もない。
誰かの姿もない。
それでも同じ種類の夢なのかもしれないし、まったく関係のない普通の夢かもしれない。
今は判断できない。
「それと」
モモがペンを止めた。
「昨日の夜に見た流星は?」
「それは夢じゃないぞ」
「分かってます。帳面に書くかどうかです」
ルシルは少し考える。
昨夜、モモは星空について「書かなくても覚えていそう」と言っていた。
「書かなくていいんじゃない?」
「私もそう思います」
モモはあっさり帳面を閉じた。
「三人とも見ましたから」
「だな」
シモンは二人を見て、わずかに口元を緩めた。
「では夢の件はここまでにして、朝の準備をしましょう。風が少し強くなっています」
「はーい」
「朝飯だ」
「ルシル様、先にテントです」
「分かってるって」
昨日までと同じように、旅の朝が動き始めた。
◇
テントの外へ出ると、昨夜の星空が嘘のように明るかった。
東の丘から朝日が昇り、広場一面を照らしている。井戸の周囲に置かれた石は朝露で少し濡れ、草地は風が通るたび大きく波打っていた。
シモンはテントから出た瞬間、まず風向きを確認した。
昨夕にレグナの女性から聞いた通り、西から吹いている。
(雨の気配はない。問題になるとすれば、平地へ出てからの横風ですね)
空には薄い雲が少しある程度だった。
トルクとベルクも落ち着いている。
警戒用の魔法にも、夜の間に大きな反応はなかった。
シモンはそこでようやく、少し離れた場所でテントの縄を外しているルシルへ視線を向けた。
普段通りだ。
モモと何か言い合いながら杭を抜いている。
今朝聞いた夢は、これまでの「写真」に関する断片とは性質が違う。
未知の文字を読めた感覚。
それだけを切り取れば、警戒すべき現象に見えなくもない。
しかし、現実のルシルには何の変化もない。
記憶の欠落もない。
既知の文字を忘れた様子もない。
言葉遣いも判断も普段通りで、魔力にも異常は感じられない。
(今は、記録で十分ですね)
理由を知りたい気持ちがないわけではない。
むしろシモンの性格からすれば、情報があれば整理したくなる。
だが、分からないものを分からないまま置いておくことも、今では以前ほど苦ではなかった。
「シモン!」
ルシルの声が飛んでくる。
「この杭、昨日より抜けにくい!」
「風で縄に力が掛かったんでしょう。真上に引かないで、少し揺らしてください」
「こう?」
「もう少し小さくです。折らないでくださいよ」
「杭って折れる?」
「木ですからね」
シモンはそちらへ歩き出した。
夢の謎より、今は杭の方が先だった。
◇
朝食は簡単に済ませた。
パンとチーズ、保存肉。
高原赤実も残っていた分を三人で分けることにした。
「これで最後?」
ルシルが赤い実を摘まむ。
「はい。残っていたのはこれだけです」
シモンが答える。
「結構持ったな」
「少しずつ食べていましたからね」
モモも一粒口へ入れる。
「最初に食べた時より、ちょっと酸っぱくなった気がします」
「日が経ったから?」
「その可能性はありますね。傷んではいませんが、これ以上持ち歩かなくて正解でしょう」
ルシルも最後の一粒を食べる。
甘みの後に、確かに少し強めの酸味が残った。
「ごちそうさま」
「高原赤実、終了ですね」
モモが言う。
「帳面には?」
「もう書いてありますから、わざわざ『食べ終わった』とは書きません」
「本当に選ぶようになったな」
「だから前からできますって」
朝食後、井戸の水を必要な分だけ補充する。
昨日見つけた草に隠れた窪みも確認した。
四つの石はそのまま残っている。
「レグナで言うの忘れないようにしないとな」
「覚えています」
「帳面にもあるので大丈夫です」
トルクとベルクの脚や蹄、革具も確認する。
二頭とも異常なし。
丘道を越えた疲れも残っていないようで、トルクは朝から周囲の草を気にしている。
「それ食べるなよ」
ルシルが言うと、トルクが鼻を鳴らした。
「分かってる?」
「分かっていないと思います」
「でもやめたぞ」
「ルシル様が近づいたからでは?」
「どっちでもいい」
ベルクはその横で静かに立っている。
シモンが首筋へ手を当てると、わずかに顔を寄せた。
「こちらも問題ありません」
「じゃあ出発できるな」
「ええ」
テントも片づけた。
火の跡もない。
忘れ物もない。
三人は最後に広場を一周してから馬車へ乗った。
「最初は僕が運転します」
シモンが御者台へ座る。
「風がどの程度か確認します。平地へ出て安定しているようなら交代しましょう」
「了解」
「お願いします」
ルシルとモモが後ろへ乗り込む。
朝の古井戸の広場を、二頭立ての馬車がゆっくり離れていく。
ルシルは一度振り返った。
屋根のない広場。
古い井戸。
低い石垣。
昨夜、三人で星を見た場所。
昼間に見れば何も特別ではない。
それでも、もうただの休憩所には見えなかった。
◇
レグナへ向かう街道は、しばらく緩やかな丘の間を進んだ。
昨日より西風が強い。
草が一斉に東へ倒れ、時折、馬車の側面を押すような風が来る。
それでも道幅は広く、路面も乾いている。
シモンは速度を上げすぎず、トルクとベルクの歩調を一定に保った。
「結構吹くな」
ルシルが窓から外を見る。
「広い場所に出たら、もう少し強く感じるかもしれません」
「昨日のおばさん当たったな」
「この辺りを日常的に走っている方なのでしょう。こういう情報は地元の人の方が正確です」
丘を一つ越える。
その先で景色が変わった。
「おお……」
ルシルが声を漏らす。
昨日まで続いていた緩やかな丘が途切れ、その先に広い平地が開けていた。
街道はほとんど真っ直ぐ南西へ伸びている。
左右には低い草地と畑。
遠くに小さな集落らしき屋根が見えるが、街道からは離れている。
そして遮るものが減った分、西からの風がまともに馬車へ当たった。
ごう、と車体の外側で音がする。
「わっ」
モモの髪が窓から入った風で揺れた。
「窓、少し閉める?」
「お願いします」
窓を狭くする。
シモンは手綱を握ったまま、車体の挙動を確かめる。
風に煽られて進路が変わるほどではない。
ただ、時折横から押される感覚はある。
「大丈夫?」
ルシルが御者台へ顔を出す。
「問題ありません。この馬車は荷台が極端に高いわけではありませんし、重量もあります。ただし速度は上げません」
「交代する?」
「もう少し僕が走ります。風の癖を見てからの方がいいでしょう」
「分かった」
ルシルは素直に引っ込んだ。
御者をやりたいからと、無理に交代する必要はない。
シモンが今の方が安全だと判断したなら任せる。
モモは反対側の窓から平地を見ていた。
「道、すごく真っ直ぐですね」
「先まで見えるな」
「写真なら、ずっと先まで一緒に残るんでしょうか」
モモが何気なく言う。
ルシルも街道を見る。
道。
草地。
空。
遠くの屋根。
全部が視界の中にある。
「たぶん」
そこまで答えてから、ルシルは少し考えた。
何か新しい感覚が出てくるか待ってみる。
だが、何もない。
「……今のは前から分かってることだな」
「景色をまとめて残せる、ですね」
「うん」
「では新しい記録はいりません」
「了解」
モモもすぐに話題を手放した。
写真という言葉が出ても、毎回何かが起きるわけではない。
それが今では当たり前になりつつあった。
◇
平地へ出て一刻ほど進んだところで、街道脇に石の標が現れた。
腰ほどの高さの四角い石柱で、表面に文字が刻まれている。
「何て書いてある?」
モモが窓から見る。
「止まらなくても読めそうです」
シモンが速度を少し落とす。
『レグナ 二里半』
ルシルも読めた。
いつもの文字だ。
見慣れた、この世界の文字。
「……普通に読めるな」
思わず口にする。
シモンが振り返らずに尋ねた。
「何か違和感が?」
「いや。今朝の夢のこと思い出しただけ」
石標は後ろへ流れていく。
「夢で見た文字とは?」
「全然分からない。夢の文字自体を覚えてないから比べられない」
「なら、それ以上は考えなくていいでしょう」
「そうする」
ルシルは背もたれへ身体を預けた。
今読める文字が読めなくなったわけではない。
それだけでも一つの確認にはなる。
しばらくして、シモンが馬車を街道脇の広い場所へ寄せた。
「ここで一度休みましょう」
「交代?」
「休憩してからルシル様にお願いします。風は強いですが、一定方向です。急に向きが変わる様子もありません」
「任せろ」
「任せますが、張り切って速度を上げないでください」
「分かってる」
「横風が強くなったら?」
「速度落とす」
「対向車が来たら?」
「十分前から寄せる。風で車体が揺れるかもしれないから、ぎりぎりにしない」
「下りは?」
「この先ほとんど平らだろ?」
「質問には答えてください」
「速度を出さない」
「結構です」
「試験みたい」
モモが笑う。
「安全確認です」
「俺、合格?」
「今のところは」
「厳しいな」
休憩中、三人は水を飲み、トルクとベルクにも十分休ませた。
風は相変わらず吹いている。
だが、空は明るい。
雨の気配はなかった。
休憩を終えると、ルシルが御者台へ座る。
手綱を握り、前を見る。
「行くぞ、トルク、ベルク」
二頭が歩き出す。
横風の中での運転が始まった。
◇
風が来る瞬間は、意外と分かりやすかった。
遠くの草が先に倒れる。
その波が街道へ近づき、やがて馬車へ届く。
最初の数回は車体が押される感覚に身体が強張ったが、ルシルは手綱を無理に動かさなかった。
トルクとベルクは真っ直ぐ進んでいる。
必要以上に修正すれば、かえって二頭を戸惑わせる。
「今の大丈夫だった?」
「大丈夫です」
シモンが後ろから答える。
「車輪も問題ありません」
モモは反対側から車体の位置を見ている。
「道の端までまだ余裕あります」
「了解」
次の風が来る。
ルシルは肩へ力を入れすぎないよう意識した。
(馬車を真っ直ぐにしようとするんじゃなくて、トルクとベルクが真っ直ぐ歩けるようにする)
以前の山道で、路面ばかり見て疲れた時とは違う。
今は道の先。
二頭の動き。
風。
対向車。
必要なものを順番に見る。
すべてを一度に支配しようとはしない。
「ルシル様」
「ん?」
「前から荷車です」
モモが先に気づいた。
「見えた」
遠くから一台の二頭立て荷車が来る。
道幅は十分ある。
それでも横風があるため、ルシルは早めに速度を落とした。
向こうの御者も同じ判断をしたらしい。
互いに余裕を持って道の左右へ寄る。
すれ違う直前、強い風が一度吹いた。
馬車の側面が押される。
ルシルは反射的に手綱を引きそうになり、寸前で力を抑えた。
トルクとベルクは歩調を乱さない。
車輪も道の内側にある。
対向の御者が片手を上げる。
ルシルも軽く手を上げ返した。
無事に通過した。
「ふう……」
息を吐く。
「今、ちょっと焦った」
「でも余計に手綱を引きませんでしたね」
シモンが言う。
「引きそうになったけどな」
「引かなかったことが大事です」
「じゃあ褒められた?」
「ええ」
「珍しい」
「僕だって褒める時は褒めますよ」
「記録しておきます?」
モモが言う。
「それはやめて」
三人の笑い声が、風の音に混じった。
◇
昼前。
街道の右側に、小さな石造りの水場が現れた。
屋根も腰掛けもなく、細い水路から石桶へ水が流れ込んでいるだけの場所だった。
近くにはすでに荷馬車が一台止まっている。
御者らしい若い男が、馬へ水を飲ませていた。
「休む?」
ルシルが尋ねる。
「橋の前に一度休んでおきましょう」
シモンの返事を受け、ルシルは十分距離を取って馬車を止めた。
若い御者がこちらを見る。
「レグナ行き?」
「はい」
「なら橋まであとそんなにないよ」
「細い橋ですよね?」
「そうそう。一台ずつのやつ」
昨日聞いた情報と一致する。
「今朝の状態は?」
シモンが尋ねる。
「俺が来た時は問題なかった。向こうから二台続けて来たから待ったけどな」
「待つ場所はありますか?」
「両側にある。橋の手前が少し広くなってるから、先に入ってる馬車がいたらそこで待てばいい」
「ありがとうございます」
「風、橋のところは今より少し弱いぞ。低いところ通ってるから」
「それは助かる」
ルシルが言う。
若い御者はトルクとベルクを見た。
「いい馬だな」
「ありがとうございます」
「兄弟?」
「そうです。こっちが兄のトルクで、こっちが弟のベルク」
「へえ」
御者が近づこうとしたところで、ベルクが少しだけ首を上げた。
シモンが自然に間へ入る。
「弟の方は少し人と馬を選ぶので」
「ああ、悪い」
男はすぐ距離を取った。
「触らない方がいいな」
「すみません」
「いやいや。馬はそれぞれだからな」
無理に触ろうとしない。
その対応にベルクもすぐ落ち着いた。
男は自分の馬のところへ戻る。
「じゃ、俺は先行くわ。レグナで会ったらよろしく」
「気をつけて」
「そっちもな」
荷馬車が先に出発する。
三人はその後もしばらく休んだ。
「ベルク、ちゃんと嫌そうにするな」
ルシルが少し離れた場所から見る。
「以前より分かりやすくなりましたね」
シモンはベルクの首筋を撫でる。
「こちらも反応を読めるようになっただけかもしれませんが」
「シモン君には最初から結構素直でしたよね」
「相性でしょう」
「ベルク派」
ルシルがぼそっと言う。
シモンが振り返る。
「その呼び方、まだ使うんですか?」
「久しぶりだからいいだろ」
「よくありません」
モモが笑いながら水筒を閉じた。
「じゃあ出発しましょうか」
◇
細い橋は、それからあまり時間を置かずに見えてきた。
街道が緩く下り、その先で浅い谷を越えている。
橋は石造りだった。
幅は聞いていた通り、馬車一台が通れる程度。
両側には低い石壁があり、向こう側までの距離はそれほど長くない。
「向こう側、馬車いる?」
ルシルが速度を落とす。
モモが身を乗り出さない範囲で前を見る。
「いません」
「橋の上も空いています」
シモンも確認する。
「では、そのままゆっくり進んでください」
「了解」
橋の手前には確かに待機できる広い場所があった。
今は誰もいない。
ルシルはトルクとベルクを急がせず、真っ直ぐ橋へ入れる。
蹄の音が土から石へ変わる。
硬い音が規則的に響く。
風は若い御者の言った通り少し弱かった。
橋の下には細い川が流れている。
水量は多くない。
透明な水が石の間を抜け、日の光を反射している。
「下、綺麗」
モモが言う。
「見たいけど今は前見る」
「それでお願いします」
シモンの声がすぐ返ってきた。
「あとで?」
「橋を渡って安全な場所へ止められるなら」
「じゃああとで見る」
橋の中ほどを越える。
トルクもベルクも落ち着いている。
反対側から来る馬車もない。
そのまま無事に渡り切った。
「よし」
ルシルは橋を抜けて十分進んでから、広くなった場所へ馬車を寄せた。
三人で降りる。
「川見る?」
「見ます」
モモが即答した。
橋まで歩いて戻るほどではなく、道脇から谷を覗ける場所を探す。
低い草の向こうに川が見えた。
幅は狭い。
川底には白っぽい丸石が多く、ところどころに濃い灰色の石が混じっている。
「魚いるかな」
「ここからでは分かりませんね」
「写真なら拡大して……」
ルシルの口から、そこまで自然に出た。
止まった。
「……拡大?」
モモがゆっくり振り向く。
シモンもルシルを見る。
ルシル自身が一番驚いていた。
「今、俺なんて言った?」
「『写真なら拡大して』です」
「拡大……」
知っている言葉ではある。
何かを大きくする。
それ自体は、この世界でも普通に使う意味だ。
だが今の文脈は違った。
「写真を……大きくする?」
ルシルは眉を寄せる。
頭痛はない。
手も動かない。
ただ、言葉の続きだけが喉の奥に残っているような妙な感覚があった。
「無理に続けないでください」
シモンがすぐに言う。
「分かってる」
ルシルは息を吐く。
追いかけない。
今まで何度もそうしてきた。
「たぶん……写真に残ったものを、あとから大きくして見る……?」
「そう感じるんですか?」
モモが尋ねる。
「うん。でも、どうやるのかは全然分からない」
「写真そのものを大きくするのか、一部だけを大きく見るのかは?」
「……分からない」
「では、そこまでですね」
シモンが区切る。
「今確かなのは、ルシル様が『写真なら拡大して』と自然に言いかけたこと。それから、写真に残ったものを後から大きくして見るような感覚があること。それ以上は推測です」
「帳面、出します」
モモは馬車へ戻り、小さな帳面を持ってきた。
風で頁がめくれないよう押さえながら書く。
『細い石橋を渡った後、川を見て魚がいるかという話から、ルシル様が「写真なら拡大して」と自然に発言。写真に残ったものを後から大きくして見る感覚があるらしい。ただし方法不明。写真全体を大きくするのか、一部を見るのかも不明。身体・魔力の異常なし。』
「これで?」
「うん」
「いいでしょう」
モモは帳面を閉じた。
ルシルはもう一度川を見る。
魚は結局見つからない。
「……普通に近くまで行って見た方が早いな」
「今日は川へ降りませんよ」
「分かってるって」
「レグナへ行くんですから」
「はいはい」
写真の謎は少しだけ増えた。
けれど、橋を渡った事実は変わらない。
レグナはもう近い。
◇
昼食は橋から十分離れた街道脇の草地で取った。
今日は火を使わず、パンとチーズ、保存肉で簡単に済ませる。
「赤玉菜は?」
ルシルが尋ねる。
「夜でいいでしょう」
「焼く?」
「宿に泊まれたら、宿の食事を食べるんじゃないですか?」
モモに言われ、ルシルは止まった。
「そうだった」
「もうレグナですよ」
「野営続いたから、自分たちで作る気になってた」
「宿の料理を確認してからですね」
シモンがパンをちぎる。
「赤玉菜は急いで使う必要もありません」
「じゃあレグナで美味しいものあったらそっち」
「即決ですね」
「町に入る楽しみだろ」
昼食後、御者をモモへ交代することになった。
風はまだあるが、午前よりわずかに弱くなっている。
「大丈夫そう?」
ルシルが尋ねる。
「やってみます」
モモは御者台へ座り、手綱を握る。
「無理だと思ったらすぐ言います」
「それでいいです」
シモンが答える。
「風を相手にしようとせず、トルクとベルクの進む方向を見てください」
「はい」
馬車が動き出す。
モモの表情には少し緊張がある。
それでも肩へ余計な力は入っていない。
風が吹く。
草が倒れる。
車体が少し押される。
モモは手綱を大きく動かさず、そのまま二頭の歩調を保った。
「どう?」
ルシルが後ろから尋ねる。
「思ったより大丈夫です」
「上手い上手い」
「まだ始まったばかりです」
「褒めただけなのに」
「ルシル様が言うと油断させようとしてるみたいです」
「ひどくない?」
シモンが小さく笑う。
「モモ嬢、そのままで大丈夫です」
「はい、シモン君」
呼び方は今日も変わらない。
それもまた、いつもの三人だった。
◇
午後。
街道を行く馬車が少しずつ増え始めた。
レグナ側から来る荷車。
農作物を積んだ小さな馬車。
二人組の旅人。
ハルゼほど大きな町ではないかもしれないが、道の分岐点に近い場所だけあって人の流れはあるらしい。
「建物見えます!」
モモが声を上げたのは、太陽がまだ西へ大きく傾く前だった。
前方。
平地の先に、まとまった屋根が見える。
そのさらに向こうには低い丘。
町の手前で街道が少し広がり、左右へ細い道が分かれている。
「レグナ?」
「位置から見て間違いないでしょう」
シモンが地図を確認する。
「予定より少し早いですね」
「モモが速かった?」
「速度は普通です」
「道がよかったんですよ」
モモはそう言いながらも嬉しそうだった。
町が近づく。
最初に見えてきたのは畑だった。
低い柵で区切られ、その向こうに赤茶色の屋根を持つ家々が並んでいる。
ハルゼのように大きな馬車区が外側へ広がっているわけではない。
代わりに町の入口近くから、いくつもの道が枝分かれしていた。
道標が立っている。
『北東 ハルゼ』
『南 ローデン方面』
『西南 ミルファ街道』
「西南……」
ルシルが読む。
「海へ行くなら、あっち?」
「馬車組合で聞いた情報ではそうですね。ただし、レグナで改めて確認します」
「今日は行かないぞ」
「言われなくても分かっています」
「先に言っとこうと思って」
モモが笑う。
「まず宿ですね」
「その前に」
シモンが町の入口を見た。
「広場の窪みを報告できる場所も確認しましょう」
「忘れてなかった」
「忘れませんよ」
町へ入る前に、モモが馬車を止める。
入口脇に簡素な詰所があり、旅人と荷車を確認している男がいた。
「旅人か?」
「はい。ハルゼから来ました」
「泊まり?」
「その予定です」
「馬二頭、馬車一台。危険物や大型魔獣素材は?」
「ありません」
「なら入っていい。宿なら中央へ行く前に右の通りを見た方がいいぞ。厩付きが三軒ある」
「ありがとうございます」
シモンが続ける。
「一つ、街道について報告したいことがあるのですが」
「何だ?」
「古井戸の広場です。井戸から西へ十歩ほどの草地に、足首が入る程度の窪みがあります。昨夜は周囲に石を置いて目印にしてきました」
男の顔つきが少し変わる。
「怪我人は?」
「僕たちはいません。昨日会ったレグナの方から、息子さんが足を取られたと聞きました。尻餅程度だったそうです」
「分かった。場所は井戸から西に十歩くらいだな?」
「はい」
「あとで街道係に回しておく」
「お願いします」
「報告ありがとな」
それだけだった。
大事件ではない。
だが、伝えるべきことを伝えた。
ルシルは少し満足した。
「これで次の人が踏まないかもな」
「直されれば、ですが」
「石だけでも残ってるし」
「そうですね」
詰所を抜ける。
レグナの町へ馬車が入っていく。
◇
町の中は、ハルゼより少し落ち着いていた。
通りは十分広いが、露店は少ない。
代わりに旅人向けの宿や食堂、馬具屋、荷物を扱う店がまとまっている。
入口で教えられた右の通りへ入ると、すぐに厩付きの宿が二軒見つかった。
一軒目は厩がかなり混んでいる。
ベルクが入口の前を通った時点で耳を少し動かしたため、三人は中へ入らず通過した。
二軒目。
木造二階建て。
看板には、青い屋根と一本の道を描いた絵。
『青道亭』
「ここ、厩広そう」
ルシルが見る。
建物の横にある厩は、一頭ごとの間隔が比較的広く取られていた。
馬も三頭しかいない。
「確認しましょう」
モモが馬車を止める。
シモンが宿へ入って話を聞き、しばらくして戻ってきた。
「空いています。馬車も裏へ置けます。部屋は三人で使える部屋が一つ残っています」
「風呂は?」
「湯を使える時間があります」
「飯は?」
「あります」
「決まり」
「判断が早いですね」
「必要なもの全部あるじゃん」
モモも頷く。
「私もここでいいです」
「では入りましょう」
馬車を裏手へ回す。
トルクとベルクを厩へ入れると、ベルクも特に落ち着かない様子は見せなかった。
「よし」
シモンが首筋を軽く撫でる。
トルクはすでに飼葉の方を見ている。
「兄は相変わらずだな」
「元気な証拠ですよ」
宿の厩番は二十代ほどの女性だった。
「こっちの栗毛、食べるの好き?」
「かなり」
「じゃあ量は決めた分だけにしとくね。勝手に追加しないようにする」
「助かります」
「灰色の方は?」
「他の馬と距離がある方が落ち着きます」
「なら一番端を使って。隣は今空いてるから」
「ありがとうございます」
ベルクの場所もすぐ決まった。
三人は必要な荷物だけ持ち、宿の部屋へ入る。
◇
部屋は広くはなかった。
だが三つの寝台があり、窓も一つある。
何より、二晩続けて野営した後の寝台は魅力的だった。
「ベッドだ」
ルシルが荷物を置く。
「昨日もちゃんと寝られただろ?」
「寝られたけど、ベッドは別」
「分かります」
モモも自分の寝台へ腰掛ける。
「柔らかいです」
「先に横にならないでください。まだ夕方前ですよ」
シモンが言う。
「ちょっとだけ」
「その『ちょっとだけ』で寝た人を僕は知っています」
ルシルとモモが同時にシモンを見る。
「誰?」
「ルシル様です」
「俺か」
「以前、昼寝していたでしょう」
「ちゃんと起きたじゃん」
「起こしましたからね」
ルシルは笑いながら窓へ向かった。
外にはレグナの通りが見える。
遠くの道標の向こうで、道が二つへ分かれている。
南。
西南。
自分たちは西南へ行く。
その先に、いつ海が見えるのかはまだ分からない。
「今日、道のこと聞きに行く?」
「明日でいいでしょう」
シモンが答える。
「今日はもう宿も確保しました。必要なら夕食の時に宿の方へ簡単に聞く程度で十分です」
「賛成です」
モモは靴を脱ぎ、寝台へ足を上げそうになってから、シモンの視線に気づいてやめた。
「じゃあ今日は風呂と飯?」
「そうなりますね」
「最高」
ルシルは窓から離れた。
今朝見た夢。
知らない文字。
橋の先で口から出た「拡大」という感覚。
今日だけでも、分からないことは増えた。
けれど、今すぐ答えを出す必要はない。
記録は残っている。
三人とも知っている。
そして旅は、写真の謎を解くためだけに始めたものではなかった。
「飯、何かな」
「もうそっちですか?」
モモが笑う。
「町に来たんだから大事だろ」
「否定はしません」
シモンも荷物を整理し始める。
その時、階下から香ばしい匂いが上がってきた。
肉を焼いているような匂い。
それに、何か甘い香草の香りが混じっている。
ルシルが動きを止める。
「……シモン」
「何です?」
「夕食の時間、まだ?」
「まだです」
「確認だけでも」
「待ってください」
「匂いするんだけど」
「逃げませんよ」
「料理は冷める」
「まだ作っている最中です」
モモがとうとう声を上げて笑った。
朝には知らない文字の夢について真剣な顔で話していた男が、夕方には階下から漂う料理の匂いに気を取られている。
その落差が、モモには少し可笑しかった。
けれど同時に、安心もしていた。
ルシルの中に何があるのかは、まだ分からない。
写真という知らない言葉も、黒い箱も、夢の文字も、少しずつ形を持ち始めているのかもしれない。
それでもルシルは、目の前の道を見て、馬車を動かして、食べ物の匂いに喜んでいる。
(今は、それでいいですよね)
モモはそう思いながら、膝の上に置いた小さな帳面を撫でた。
答えを書くための帳面ではない。
分からないものを、分からないまま残しておくためにも使える。
「モモ?」
「はい?」
「何笑ってるの?」
「内緒です」
「なんで?」
「なんでもです」
「気になる」
「ルシル様」
シモンの声が割って入る。
「夕食まで時間がありますから、先に湯を使えるか確認してきてください」
「分かった」
ルシルはすぐ扉へ向かう。
「モモも行く?」
「お風呂は別でしょう」
「あ、そっか」
「当たり前です」
「じゃあ行ってくる」
扉が閉まる。
足音が廊下を遠ざかっていく。
モモはまだ少し笑っていた。
「モモ嬢」
「はい?」
「何か気になることが?」
シモンが尋ねる。
モモは少しだけ考え、首を横へ振った。
「いいえ。ただ、ルシル様が普通だなって思っただけです」
シモンは一瞬だけ目を細めた。
朝から何度も確認していたことを、モモも別の形で見ていたらしい。
「そうですね」
それ以上、二人は言葉を重ねなかった。
窓の外では西風がレグナの屋根を越え、通りに吊るされた宿の看板を揺らしている。
その風の向こう。
町の西南へ続く道は、さらに先へ伸びていた。
海はまだ見えない。
写真の正体も分からない。
夢の文字も読めない。
それでも今夜は、温かい湯と夕食と、屋根のある寝床がある。
旅を続ける三人にとっては、それだけで十分に楽しみな夜だった。




