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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第59話 知らない文字を読めた夢と、風の強い一本道


 古井戸の広場を渡る朝の風は、昨夜より少しだけ強かった。


 テントの布が外側から押されるたび、ぱたぱたと乾いた音がする。まだ完全に昇りきっていない朝日が薄い布を淡く染め、その向こうではトルクかベルクが身体を動かしたらしく、馬具の金具が小さく触れ合う音がした。


 ルシルは毛布の上に座ったまま、自分の両手を見ていた。


 右手も左手も、いつも通りだ。


 指を一本ずつ曲げてみても違和感はない。


 頭も痛くない。吐き気もなければ、目眩もない。胸が苦しいわけでもなく、魔力の流れにもおかしな感覚はなかった。


 それでも、目を覚ました直後に残っていた夢の断片は、これまでとは少し違っている。


(明るい場所。横長の何か。色がたくさん並んでた。それから、文字……)


 形は思い出せない。


 何と書いてあったのかも分からない。


 なのに夢の中の自分は、それを文字だと認識していた。


 それどころか――読めていた気がする。


「……変なの」


 小さく呟いたところで、少し離れた毛布が動いた。


「何が変なんですか……?」


 眠気の残った声とともに、モモが顔を出す。


 桃金色の長い髪は寝ている間に少し乱れており、普段よりふわりと広がっていた。まだ完全には開いていない緑色の目がルシルを捉え、数秒かけて焦点が合っていく。


「あ。おはようございます」


「おはよう」


「……何かありました?」


 眠そうだった目が、少しだけはっきりする。


 ルシルが起きているだけなら、モモも気にしなかっただろう。しかし毛布から出たまま両手を眺めていたせいで、何かあったと気づかれたらしい。


「夢見た」


「夢?」


「うん。でも、今までのとちょっと違う」


 モモの表情から眠気がもう少し消えた。


 その声が聞こえたのか、反対側でも毛布が動く。


「今までと違う、とは?」


 シモンだった。


「起きてたの?」


「今起きました」


 眼鏡を掛けながら身体を起こし、まずルシルの顔を見る。


「体調は?」


「大丈夫。頭痛なし、吐き気なし、目眩なし。身体も普通。魔力も変な感じしない」


「……先に言われましたね」


「毎回聞かれてるから覚えた」


 シモンは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。


「それなら、同じ質問を一つずつ繰り返す必要はなさそうですね」


「俺もそう思う」


「ただし、何か変化があれば言ってください」


「分かってる」


 シモンはそれ以上身体について尋ねなかった。


 モモはまだ帳面へ手を伸ばしていない。まず話を聞こうとしているのか、毛布の上へ座り直し、乱れた髪を手櫛で軽く整えた。


「どんな夢だったんですか?」


「それが、あんまり残ってない」


 ルシルは目を閉じる。


 起きた直後より、すでに輪郭が薄くなり始めていた。


 焦って追いかければ余計に崩れそうな気がして、頭に残っているものだけを順番に拾う。


「明るい場所だった。外じゃないと思う」


「建物の中ですか?」


「たぶん。でも、壁とか天井がどうだったかは覚えてない」


「前に見た白い壁と同じ場所ですか?」


 モモの問いに、ルシルは少し考えてから首を横へ振る。


「分からない。同じって感じもしなかったけど、違うって言い切れるほど覚えてない」


「では同一かどうか不明ですね」


 シモンが整理する。


「うん。それから、横長の何かがあった」


「黒い箱とは別ですか?」


「別だと思う。少なくとも手に持ってなかった」


 ルシルは両手を軽く開いた。


「もっと大きかった気がする。俺の前にあって……そこに色がいっぱい並んでた」


「色?」


「うん。いろんな色。でも、何だったか分からない」


「絵ですか?」


「それも分からない」


 夢の中で見たものを思い出そうとする。


 赤。


 青。


 白。


 もしかすると緑もあった。


 だが、それが何かの絵だったのか、物だったのか、それとも別の何かなのかまでは掴めない。


「色が並んでいた。その近くに文字があった」


 そこまで言うと、モモが少しだけ身を乗り出した。


「文字を見たんですか?」


「見た。……と思う」


「どんな文字でした?」


「それが思い出せない」


 ルシルは眉を寄せる。


「形も分からないし、一文字も書けない。でも――」


 言葉を切った。


 これだけは、目覚めた瞬間から引っかかっている。


「夢の中では、読めてた気がする」


 テントの中が静かになった。


 外で風が吹き、布が一度大きく揺れる。


 モモはすぐに何かを言わず、ルシルの顔を見ていた。シモンも同じで、驚いた様子を完全には隠していないものの、結論を急ぐ気配はない。


「読んだ内容は?」


 やがてシモンが尋ねる。


「分からない」


「文字の読み方は?」


「分からない」


「起きている今、その文字を思い浮かべられますか?」


「無理。文字があったってことしか残ってない」


「では、現在のルシル様が未知の文字を読めるようになった、と確認できる状態ではありませんね」


「うん」


 ルシル自身、それは分かっている。


 夢の中では読めた気がする。


 ただそれだけだ。


 現実で見せられても、同じものだと判断できるかすら分からない。


「変ですよね」


 モモが静かに言った。


「でも、今までの夢だって変でしたし」


「そうなんだよな」


 ルシルは頭を掻く。


「黒い箱の方が分かりやすかったかも」


「分かりやすくはないと思います」


「カシャって鳴ったし」


「音があった分、今回より情報が多かったという意味なら分かります」


 シモンが眼鏡の位置を整えた。


「今回は、夢の中で読めたという感覚そのものが新しい情報ですね。ただし、実際に何かの文字を読んだ証明にはなりません」


「書いとく?」


 ルシルがモモを見る。


「はい。ただ、今話したことだけにします」


 そこでようやくモモは鞄から小さな帳面を取り出した。


 表紙にはまだ題名がない。


 フェルナで買ってから少しずつ文字が増え、草原で見た動物や街道のこと、食べ物、そしてルシルの中に突然現れた「写真」という言葉に関する記録も収められている。


 モモは新しい頁を開いた。


「明るい屋内らしき場所。横長の何か。色が多数並んでいた。文字があった……」


 書きながら一度顔を上げる。


「文字は『見た』でいいですか?」


「たぶん」


「では『文字らしきものを見た記憶あり』にしておきます」


「それがいい」


 ペン先が紙を擦る。


『夢の中では読めていたように感じたが、内容・文字の形・読み方は起床後すべて不明。現実で読めるかどうかも不明。以前の白い壁の夢との関連不明。写真との関連も不明。』


「こんな感じです」


「いいと思います」


 シモンが確認する。


「今回は、写真と結びつけない方がいいでしょう」


「俺もそう思う」


 黒い箱は出てこなかった。


 カシャという音もない。


 誰かの姿もない。


 それでも同じ種類の夢なのかもしれないし、まったく関係のない普通の夢かもしれない。


 今は判断できない。


「それと」


 モモがペンを止めた。


「昨日の夜に見た流星は?」


「それは夢じゃないぞ」


「分かってます。帳面に書くかどうかです」


 ルシルは少し考える。


 昨夜、モモは星空について「書かなくても覚えていそう」と言っていた。


「書かなくていいんじゃない?」


「私もそう思います」


 モモはあっさり帳面を閉じた。


「三人とも見ましたから」


「だな」


 シモンは二人を見て、わずかに口元を緩めた。


「では夢の件はここまでにして、朝の準備をしましょう。風が少し強くなっています」


「はーい」


「朝飯だ」


「ルシル様、先にテントです」


「分かってるって」


 昨日までと同じように、旅の朝が動き始めた。


     ◇


 テントの外へ出ると、昨夜の星空が嘘のように明るかった。


 東の丘から朝日が昇り、広場一面を照らしている。井戸の周囲に置かれた石は朝露で少し濡れ、草地は風が通るたび大きく波打っていた。


 シモンはテントから出た瞬間、まず風向きを確認した。


 昨夕にレグナの女性から聞いた通り、西から吹いている。


(雨の気配はない。問題になるとすれば、平地へ出てからの横風ですね)


 空には薄い雲が少しある程度だった。


 トルクとベルクも落ち着いている。


 警戒用の魔法にも、夜の間に大きな反応はなかった。


 シモンはそこでようやく、少し離れた場所でテントの縄を外しているルシルへ視線を向けた。


 普段通りだ。


 モモと何か言い合いながら杭を抜いている。


 今朝聞いた夢は、これまでの「写真」に関する断片とは性質が違う。


 未知の文字を読めた感覚。


 それだけを切り取れば、警戒すべき現象に見えなくもない。


 しかし、現実のルシルには何の変化もない。


 記憶の欠落もない。


 既知の文字を忘れた様子もない。


 言葉遣いも判断も普段通りで、魔力にも異常は感じられない。


(今は、記録で十分ですね)


 理由を知りたい気持ちがないわけではない。


 むしろシモンの性格からすれば、情報があれば整理したくなる。


 だが、分からないものを分からないまま置いておくことも、今では以前ほど苦ではなかった。


「シモン!」


 ルシルの声が飛んでくる。


「この杭、昨日より抜けにくい!」


「風で縄に力が掛かったんでしょう。真上に引かないで、少し揺らしてください」


「こう?」


「もう少し小さくです。折らないでくださいよ」


「杭って折れる?」


「木ですからね」


 シモンはそちらへ歩き出した。


 夢の謎より、今は杭の方が先だった。


     ◇


 朝食は簡単に済ませた。


 パンとチーズ、保存肉。


 高原赤実も残っていた分を三人で分けることにした。


「これで最後?」


 ルシルが赤い実を摘まむ。


「はい。残っていたのはこれだけです」


 シモンが答える。


「結構持ったな」


「少しずつ食べていましたからね」


 モモも一粒口へ入れる。


「最初に食べた時より、ちょっと酸っぱくなった気がします」


「日が経ったから?」


「その可能性はありますね。傷んではいませんが、これ以上持ち歩かなくて正解でしょう」


 ルシルも最後の一粒を食べる。


 甘みの後に、確かに少し強めの酸味が残った。


「ごちそうさま」


「高原赤実、終了ですね」


 モモが言う。


「帳面には?」


「もう書いてありますから、わざわざ『食べ終わった』とは書きません」


「本当に選ぶようになったな」


「だから前からできますって」


 朝食後、井戸の水を必要な分だけ補充する。


 昨日見つけた草に隠れた窪みも確認した。


 四つの石はそのまま残っている。


「レグナで言うの忘れないようにしないとな」


「覚えています」


「帳面にもあるので大丈夫です」


 トルクとベルクの脚や蹄、革具も確認する。


 二頭とも異常なし。


 丘道を越えた疲れも残っていないようで、トルクは朝から周囲の草を気にしている。


「それ食べるなよ」


 ルシルが言うと、トルクが鼻を鳴らした。


「分かってる?」


「分かっていないと思います」


「でもやめたぞ」


「ルシル様が近づいたからでは?」


「どっちでもいい」


 ベルクはその横で静かに立っている。


 シモンが首筋へ手を当てると、わずかに顔を寄せた。


「こちらも問題ありません」


「じゃあ出発できるな」


「ええ」


 テントも片づけた。


 火の跡もない。


 忘れ物もない。


 三人は最後に広場を一周してから馬車へ乗った。


「最初は僕が運転します」


 シモンが御者台へ座る。


「風がどの程度か確認します。平地へ出て安定しているようなら交代しましょう」


「了解」


「お願いします」


 ルシルとモモが後ろへ乗り込む。


 朝の古井戸の広場を、二頭立ての馬車がゆっくり離れていく。


 ルシルは一度振り返った。


 屋根のない広場。


 古い井戸。


 低い石垣。


 昨夜、三人で星を見た場所。


 昼間に見れば何も特別ではない。


 それでも、もうただの休憩所には見えなかった。


     ◇


 レグナへ向かう街道は、しばらく緩やかな丘の間を進んだ。


 昨日より西風が強い。


 草が一斉に東へ倒れ、時折、馬車の側面を押すような風が来る。


 それでも道幅は広く、路面も乾いている。


 シモンは速度を上げすぎず、トルクとベルクの歩調を一定に保った。


「結構吹くな」


 ルシルが窓から外を見る。


「広い場所に出たら、もう少し強く感じるかもしれません」


「昨日のおばさん当たったな」


「この辺りを日常的に走っている方なのでしょう。こういう情報は地元の人の方が正確です」


 丘を一つ越える。


 その先で景色が変わった。


「おお……」


 ルシルが声を漏らす。


 昨日まで続いていた緩やかな丘が途切れ、その先に広い平地が開けていた。


 街道はほとんど真っ直ぐ南西へ伸びている。


 左右には低い草地と畑。


 遠くに小さな集落らしき屋根が見えるが、街道からは離れている。


 そして遮るものが減った分、西からの風がまともに馬車へ当たった。


 ごう、と車体の外側で音がする。


「わっ」


 モモの髪が窓から入った風で揺れた。


「窓、少し閉める?」


「お願いします」


 窓を狭くする。


 シモンは手綱を握ったまま、車体の挙動を確かめる。


 風に煽られて進路が変わるほどではない。


 ただ、時折横から押される感覚はある。


「大丈夫?」


 ルシルが御者台へ顔を出す。


「問題ありません。この馬車は荷台が極端に高いわけではありませんし、重量もあります。ただし速度は上げません」


「交代する?」


「もう少し僕が走ります。風の癖を見てからの方がいいでしょう」


「分かった」


 ルシルは素直に引っ込んだ。


 御者をやりたいからと、無理に交代する必要はない。


 シモンが今の方が安全だと判断したなら任せる。


 モモは反対側の窓から平地を見ていた。


「道、すごく真っ直ぐですね」


「先まで見えるな」


「写真なら、ずっと先まで一緒に残るんでしょうか」


 モモが何気なく言う。


 ルシルも街道を見る。


 道。


 草地。


 空。


 遠くの屋根。


 全部が視界の中にある。


「たぶん」


 そこまで答えてから、ルシルは少し考えた。


 何か新しい感覚が出てくるか待ってみる。


 だが、何もない。


「……今のは前から分かってることだな」


「景色をまとめて残せる、ですね」


「うん」


「では新しい記録はいりません」


「了解」


 モモもすぐに話題を手放した。


 写真という言葉が出ても、毎回何かが起きるわけではない。


 それが今では当たり前になりつつあった。


     ◇


 平地へ出て一刻ほど進んだところで、街道脇に石の標が現れた。


 腰ほどの高さの四角い石柱で、表面に文字が刻まれている。


「何て書いてある?」


 モモが窓から見る。


「止まらなくても読めそうです」


 シモンが速度を少し落とす。


『レグナ 二里半』


 ルシルも読めた。


 いつもの文字だ。


 見慣れた、この世界の文字。


「……普通に読めるな」


 思わず口にする。


 シモンが振り返らずに尋ねた。


「何か違和感が?」


「いや。今朝の夢のこと思い出しただけ」


 石標は後ろへ流れていく。


「夢で見た文字とは?」


「全然分からない。夢の文字自体を覚えてないから比べられない」


「なら、それ以上は考えなくていいでしょう」


「そうする」


 ルシルは背もたれへ身体を預けた。


 今読める文字が読めなくなったわけではない。


 それだけでも一つの確認にはなる。


 しばらくして、シモンが馬車を街道脇の広い場所へ寄せた。


「ここで一度休みましょう」


「交代?」


「休憩してからルシル様にお願いします。風は強いですが、一定方向です。急に向きが変わる様子もありません」


「任せろ」


「任せますが、張り切って速度を上げないでください」


「分かってる」


「横風が強くなったら?」


「速度落とす」


「対向車が来たら?」


「十分前から寄せる。風で車体が揺れるかもしれないから、ぎりぎりにしない」


「下りは?」


「この先ほとんど平らだろ?」


「質問には答えてください」


「速度を出さない」


「結構です」


「試験みたい」


 モモが笑う。


「安全確認です」


「俺、合格?」


「今のところは」


「厳しいな」


 休憩中、三人は水を飲み、トルクとベルクにも十分休ませた。


 風は相変わらず吹いている。


 だが、空は明るい。


 雨の気配はなかった。


 休憩を終えると、ルシルが御者台へ座る。


 手綱を握り、前を見る。


「行くぞ、トルク、ベルク」


 二頭が歩き出す。


 横風の中での運転が始まった。


     ◇


 風が来る瞬間は、意外と分かりやすかった。


 遠くの草が先に倒れる。


 その波が街道へ近づき、やがて馬車へ届く。


 最初の数回は車体が押される感覚に身体が強張ったが、ルシルは手綱を無理に動かさなかった。


 トルクとベルクは真っ直ぐ進んでいる。


 必要以上に修正すれば、かえって二頭を戸惑わせる。


「今の大丈夫だった?」


「大丈夫です」


 シモンが後ろから答える。


「車輪も問題ありません」


 モモは反対側から車体の位置を見ている。


「道の端までまだ余裕あります」


「了解」


 次の風が来る。


 ルシルは肩へ力を入れすぎないよう意識した。


(馬車を真っ直ぐにしようとするんじゃなくて、トルクとベルクが真っ直ぐ歩けるようにする)


 以前の山道で、路面ばかり見て疲れた時とは違う。


 今は道の先。


 二頭の動き。


 風。


 対向車。


 必要なものを順番に見る。


 すべてを一度に支配しようとはしない。


「ルシル様」


「ん?」


「前から荷車です」


 モモが先に気づいた。


「見えた」


 遠くから一台の二頭立て荷車が来る。


 道幅は十分ある。


 それでも横風があるため、ルシルは早めに速度を落とした。


 向こうの御者も同じ判断をしたらしい。


 互いに余裕を持って道の左右へ寄る。


 すれ違う直前、強い風が一度吹いた。


 馬車の側面が押される。


 ルシルは反射的に手綱を引きそうになり、寸前で力を抑えた。


 トルクとベルクは歩調を乱さない。


 車輪も道の内側にある。


 対向の御者が片手を上げる。


 ルシルも軽く手を上げ返した。


 無事に通過した。


「ふう……」


 息を吐く。


「今、ちょっと焦った」


「でも余計に手綱を引きませんでしたね」


 シモンが言う。


「引きそうになったけどな」


「引かなかったことが大事です」


「じゃあ褒められた?」


「ええ」


「珍しい」


「僕だって褒める時は褒めますよ」


「記録しておきます?」


 モモが言う。


「それはやめて」


 三人の笑い声が、風の音に混じった。


     ◇


 昼前。


 街道の右側に、小さな石造りの水場が現れた。


 屋根も腰掛けもなく、細い水路から石桶へ水が流れ込んでいるだけの場所だった。


 近くにはすでに荷馬車が一台止まっている。


 御者らしい若い男が、馬へ水を飲ませていた。


「休む?」


 ルシルが尋ねる。


「橋の前に一度休んでおきましょう」


 シモンの返事を受け、ルシルは十分距離を取って馬車を止めた。


 若い御者がこちらを見る。


「レグナ行き?」


「はい」


「なら橋まであとそんなにないよ」


「細い橋ですよね?」


「そうそう。一台ずつのやつ」


 昨日聞いた情報と一致する。


「今朝の状態は?」


 シモンが尋ねる。


「俺が来た時は問題なかった。向こうから二台続けて来たから待ったけどな」


「待つ場所はありますか?」


「両側にある。橋の手前が少し広くなってるから、先に入ってる馬車がいたらそこで待てばいい」


「ありがとうございます」


「風、橋のところは今より少し弱いぞ。低いところ通ってるから」


「それは助かる」


 ルシルが言う。


 若い御者はトルクとベルクを見た。


「いい馬だな」


「ありがとうございます」


「兄弟?」


「そうです。こっちが兄のトルクで、こっちが弟のベルク」


「へえ」


 御者が近づこうとしたところで、ベルクが少しだけ首を上げた。


 シモンが自然に間へ入る。


「弟の方は少し人と馬を選ぶので」


「ああ、悪い」


 男はすぐ距離を取った。


「触らない方がいいな」


「すみません」


「いやいや。馬はそれぞれだからな」


 無理に触ろうとしない。


 その対応にベルクもすぐ落ち着いた。


 男は自分の馬のところへ戻る。


「じゃ、俺は先行くわ。レグナで会ったらよろしく」


「気をつけて」


「そっちもな」


 荷馬車が先に出発する。


 三人はその後もしばらく休んだ。


「ベルク、ちゃんと嫌そうにするな」


 ルシルが少し離れた場所から見る。


「以前より分かりやすくなりましたね」


 シモンはベルクの首筋を撫でる。


「こちらも反応を読めるようになっただけかもしれませんが」


「シモン君には最初から結構素直でしたよね」


「相性でしょう」


「ベルク派」


 ルシルがぼそっと言う。


 シモンが振り返る。


「その呼び方、まだ使うんですか?」


「久しぶりだからいいだろ」


「よくありません」


 モモが笑いながら水筒を閉じた。


「じゃあ出発しましょうか」


     ◇


 細い橋は、それからあまり時間を置かずに見えてきた。


 街道が緩く下り、その先で浅い谷を越えている。


 橋は石造りだった。


 幅は聞いていた通り、馬車一台が通れる程度。


 両側には低い石壁があり、向こう側までの距離はそれほど長くない。


「向こう側、馬車いる?」


 ルシルが速度を落とす。


 モモが身を乗り出さない範囲で前を見る。


「いません」


「橋の上も空いています」


 シモンも確認する。


「では、そのままゆっくり進んでください」


「了解」


 橋の手前には確かに待機できる広い場所があった。


 今は誰もいない。


 ルシルはトルクとベルクを急がせず、真っ直ぐ橋へ入れる。


 蹄の音が土から石へ変わる。


 硬い音が規則的に響く。


 風は若い御者の言った通り少し弱かった。


 橋の下には細い川が流れている。


 水量は多くない。


 透明な水が石の間を抜け、日の光を反射している。


「下、綺麗」


 モモが言う。


「見たいけど今は前見る」


「それでお願いします」


 シモンの声がすぐ返ってきた。


「あとで?」


「橋を渡って安全な場所へ止められるなら」


「じゃああとで見る」


 橋の中ほどを越える。


 トルクもベルクも落ち着いている。


 反対側から来る馬車もない。


 そのまま無事に渡り切った。


「よし」


 ルシルは橋を抜けて十分進んでから、広くなった場所へ馬車を寄せた。


 三人で降りる。


「川見る?」


「見ます」


 モモが即答した。


 橋まで歩いて戻るほどではなく、道脇から谷を覗ける場所を探す。


 低い草の向こうに川が見えた。


 幅は狭い。


 川底には白っぽい丸石が多く、ところどころに濃い灰色の石が混じっている。


「魚いるかな」


「ここからでは分かりませんね」


「写真なら拡大して……」


 ルシルの口から、そこまで自然に出た。


 止まった。


「……拡大?」


 モモがゆっくり振り向く。


 シモンもルシルを見る。


 ルシル自身が一番驚いていた。


「今、俺なんて言った?」


「『写真なら拡大して』です」


「拡大……」


 知っている言葉ではある。


 何かを大きくする。


 それ自体は、この世界でも普通に使う意味だ。


 だが今の文脈は違った。


「写真を……大きくする?」


 ルシルは眉を寄せる。


 頭痛はない。


 手も動かない。


 ただ、言葉の続きだけが喉の奥に残っているような妙な感覚があった。


「無理に続けないでください」


 シモンがすぐに言う。


「分かってる」


 ルシルは息を吐く。


 追いかけない。


 今まで何度もそうしてきた。


「たぶん……写真に残ったものを、あとから大きくして見る……?」


「そう感じるんですか?」


 モモが尋ねる。


「うん。でも、どうやるのかは全然分からない」


「写真そのものを大きくするのか、一部だけを大きく見るのかは?」


「……分からない」


「では、そこまでですね」


 シモンが区切る。


「今確かなのは、ルシル様が『写真なら拡大して』と自然に言いかけたこと。それから、写真に残ったものを後から大きくして見るような感覚があること。それ以上は推測です」


「帳面、出します」


 モモは馬車へ戻り、小さな帳面を持ってきた。


 風で頁がめくれないよう押さえながら書く。


『細い石橋を渡った後、川を見て魚がいるかという話から、ルシル様が「写真なら拡大して」と自然に発言。写真に残ったものを後から大きくして見る感覚があるらしい。ただし方法不明。写真全体を大きくするのか、一部を見るのかも不明。身体・魔力の異常なし。』


「これで?」


「うん」


「いいでしょう」


 モモは帳面を閉じた。


 ルシルはもう一度川を見る。


 魚は結局見つからない。


「……普通に近くまで行って見た方が早いな」


「今日は川へ降りませんよ」


「分かってるって」


「レグナへ行くんですから」


「はいはい」


 写真の謎は少しだけ増えた。


 けれど、橋を渡った事実は変わらない。


 レグナはもう近い。


     ◇


 昼食は橋から十分離れた街道脇の草地で取った。


 今日は火を使わず、パンとチーズ、保存肉で簡単に済ませる。


「赤玉菜は?」


 ルシルが尋ねる。


「夜でいいでしょう」


「焼く?」


「宿に泊まれたら、宿の食事を食べるんじゃないですか?」


 モモに言われ、ルシルは止まった。


「そうだった」


「もうレグナですよ」


「野営続いたから、自分たちで作る気になってた」


「宿の料理を確認してからですね」


 シモンがパンをちぎる。


「赤玉菜は急いで使う必要もありません」


「じゃあレグナで美味しいものあったらそっち」


「即決ですね」


「町に入る楽しみだろ」


 昼食後、御者をモモへ交代することになった。


 風はまだあるが、午前よりわずかに弱くなっている。


「大丈夫そう?」


 ルシルが尋ねる。


「やってみます」


 モモは御者台へ座り、手綱を握る。


「無理だと思ったらすぐ言います」


「それでいいです」


 シモンが答える。


「風を相手にしようとせず、トルクとベルクの進む方向を見てください」


「はい」


 馬車が動き出す。


 モモの表情には少し緊張がある。


 それでも肩へ余計な力は入っていない。


 風が吹く。


 草が倒れる。


 車体が少し押される。


 モモは手綱を大きく動かさず、そのまま二頭の歩調を保った。


「どう?」


 ルシルが後ろから尋ねる。


「思ったより大丈夫です」


「上手い上手い」


「まだ始まったばかりです」


「褒めただけなのに」


「ルシル様が言うと油断させようとしてるみたいです」


「ひどくない?」


 シモンが小さく笑う。


「モモ嬢、そのままで大丈夫です」


「はい、シモン君」


 呼び方は今日も変わらない。


 それもまた、いつもの三人だった。


     ◇


 午後。


 街道を行く馬車が少しずつ増え始めた。


 レグナ側から来る荷車。


 農作物を積んだ小さな馬車。


 二人組の旅人。


 ハルゼほど大きな町ではないかもしれないが、道の分岐点に近い場所だけあって人の流れはあるらしい。


「建物見えます!」


 モモが声を上げたのは、太陽がまだ西へ大きく傾く前だった。


 前方。


 平地の先に、まとまった屋根が見える。


 そのさらに向こうには低い丘。


 町の手前で街道が少し広がり、左右へ細い道が分かれている。


「レグナ?」


「位置から見て間違いないでしょう」


 シモンが地図を確認する。


「予定より少し早いですね」


「モモが速かった?」


「速度は普通です」


「道がよかったんですよ」


 モモはそう言いながらも嬉しそうだった。


 町が近づく。


 最初に見えてきたのは畑だった。


 低い柵で区切られ、その向こうに赤茶色の屋根を持つ家々が並んでいる。


 ハルゼのように大きな馬車区が外側へ広がっているわけではない。


 代わりに町の入口近くから、いくつもの道が枝分かれしていた。


 道標が立っている。


『北東 ハルゼ』


『南 ローデン方面』


『西南 ミルファ街道』


「西南……」


 ルシルが読む。


「海へ行くなら、あっち?」


「馬車組合で聞いた情報ではそうですね。ただし、レグナで改めて確認します」


「今日は行かないぞ」


「言われなくても分かっています」


「先に言っとこうと思って」


 モモが笑う。


「まず宿ですね」


「その前に」


 シモンが町の入口を見た。


「広場の窪みを報告できる場所も確認しましょう」


「忘れてなかった」


「忘れませんよ」


 町へ入る前に、モモが馬車を止める。


 入口脇に簡素な詰所があり、旅人と荷車を確認している男がいた。


「旅人か?」


「はい。ハルゼから来ました」


「泊まり?」


「その予定です」


「馬二頭、馬車一台。危険物や大型魔獣素材は?」


「ありません」


「なら入っていい。宿なら中央へ行く前に右の通りを見た方がいいぞ。厩付きが三軒ある」


「ありがとうございます」


 シモンが続ける。


「一つ、街道について報告したいことがあるのですが」


「何だ?」


「古井戸の広場です。井戸から西へ十歩ほどの草地に、足首が入る程度の窪みがあります。昨夜は周囲に石を置いて目印にしてきました」


 男の顔つきが少し変わる。


「怪我人は?」


「僕たちはいません。昨日会ったレグナの方から、息子さんが足を取られたと聞きました。尻餅程度だったそうです」


「分かった。場所は井戸から西に十歩くらいだな?」


「はい」


「あとで街道係に回しておく」


「お願いします」


「報告ありがとな」


 それだけだった。


 大事件ではない。


 だが、伝えるべきことを伝えた。


 ルシルは少し満足した。


「これで次の人が踏まないかもな」


「直されれば、ですが」


「石だけでも残ってるし」


「そうですね」


 詰所を抜ける。


 レグナの町へ馬車が入っていく。


     ◇


 町の中は、ハルゼより少し落ち着いていた。


 通りは十分広いが、露店は少ない。


 代わりに旅人向けの宿や食堂、馬具屋、荷物を扱う店がまとまっている。


 入口で教えられた右の通りへ入ると、すぐに厩付きの宿が二軒見つかった。


 一軒目は厩がかなり混んでいる。


 ベルクが入口の前を通った時点で耳を少し動かしたため、三人は中へ入らず通過した。


 二軒目。


 木造二階建て。


 看板には、青い屋根と一本の道を描いた絵。


『青道亭』


「ここ、厩広そう」


 ルシルが見る。


 建物の横にある厩は、一頭ごとの間隔が比較的広く取られていた。


 馬も三頭しかいない。


「確認しましょう」


 モモが馬車を止める。


 シモンが宿へ入って話を聞き、しばらくして戻ってきた。


「空いています。馬車も裏へ置けます。部屋は三人で使える部屋が一つ残っています」


「風呂は?」


「湯を使える時間があります」


「飯は?」


「あります」


「決まり」


「判断が早いですね」


「必要なもの全部あるじゃん」


 モモも頷く。


「私もここでいいです」


「では入りましょう」


 馬車を裏手へ回す。


 トルクとベルクを厩へ入れると、ベルクも特に落ち着かない様子は見せなかった。


「よし」


 シモンが首筋を軽く撫でる。


 トルクはすでに飼葉の方を見ている。


「兄は相変わらずだな」


「元気な証拠ですよ」


 宿の厩番は二十代ほどの女性だった。


「こっちの栗毛、食べるの好き?」


「かなり」


「じゃあ量は決めた分だけにしとくね。勝手に追加しないようにする」


「助かります」


「灰色の方は?」


「他の馬と距離がある方が落ち着きます」


「なら一番端を使って。隣は今空いてるから」


「ありがとうございます」


 ベルクの場所もすぐ決まった。


 三人は必要な荷物だけ持ち、宿の部屋へ入る。


     ◇


 部屋は広くはなかった。


 だが三つの寝台があり、窓も一つある。


 何より、二晩続けて野営した後の寝台は魅力的だった。


「ベッドだ」


 ルシルが荷物を置く。


「昨日もちゃんと寝られただろ?」


「寝られたけど、ベッドは別」


「分かります」


 モモも自分の寝台へ腰掛ける。


「柔らかいです」


「先に横にならないでください。まだ夕方前ですよ」


 シモンが言う。


「ちょっとだけ」


「その『ちょっとだけ』で寝た人を僕は知っています」


 ルシルとモモが同時にシモンを見る。


「誰?」


「ルシル様です」


「俺か」


「以前、昼寝していたでしょう」


「ちゃんと起きたじゃん」


「起こしましたからね」


 ルシルは笑いながら窓へ向かった。


 外にはレグナの通りが見える。


 遠くの道標の向こうで、道が二つへ分かれている。


 南。


 西南。


 自分たちは西南へ行く。


 その先に、いつ海が見えるのかはまだ分からない。


「今日、道のこと聞きに行く?」


「明日でいいでしょう」


 シモンが答える。


「今日はもう宿も確保しました。必要なら夕食の時に宿の方へ簡単に聞く程度で十分です」


「賛成です」


 モモは靴を脱ぎ、寝台へ足を上げそうになってから、シモンの視線に気づいてやめた。


「じゃあ今日は風呂と飯?」


「そうなりますね」


「最高」


 ルシルは窓から離れた。


 今朝見た夢。


 知らない文字。


 橋の先で口から出た「拡大」という感覚。


 今日だけでも、分からないことは増えた。


 けれど、今すぐ答えを出す必要はない。


 記録は残っている。


 三人とも知っている。


 そして旅は、写真の謎を解くためだけに始めたものではなかった。


「飯、何かな」


「もうそっちですか?」


 モモが笑う。


「町に来たんだから大事だろ」


「否定はしません」


 シモンも荷物を整理し始める。


 その時、階下から香ばしい匂いが上がってきた。


 肉を焼いているような匂い。


 それに、何か甘い香草の香りが混じっている。


 ルシルが動きを止める。


「……シモン」


「何です?」


「夕食の時間、まだ?」


「まだです」


「確認だけでも」


「待ってください」


「匂いするんだけど」


「逃げませんよ」


「料理は冷める」


「まだ作っている最中です」


 モモがとうとう声を上げて笑った。


 朝には知らない文字の夢について真剣な顔で話していた男が、夕方には階下から漂う料理の匂いに気を取られている。


 その落差が、モモには少し可笑しかった。


 けれど同時に、安心もしていた。


 ルシルの中に何があるのかは、まだ分からない。


 写真という知らない言葉も、黒い箱も、夢の文字も、少しずつ形を持ち始めているのかもしれない。


 それでもルシルは、目の前の道を見て、馬車を動かして、食べ物の匂いに喜んでいる。


(今は、それでいいですよね)


 モモはそう思いながら、膝の上に置いた小さな帳面を撫でた。


 答えを書くための帳面ではない。


 分からないものを、分からないまま残しておくためにも使える。


「モモ?」


「はい?」


「何笑ってるの?」


「内緒です」


「なんで?」


「なんでもです」


「気になる」


「ルシル様」


 シモンの声が割って入る。


「夕食まで時間がありますから、先に湯を使えるか確認してきてください」


「分かった」


 ルシルはすぐ扉へ向かう。


「モモも行く?」


「お風呂は別でしょう」


「あ、そっか」


「当たり前です」


「じゃあ行ってくる」


 扉が閉まる。


 足音が廊下を遠ざかっていく。


 モモはまだ少し笑っていた。


「モモ嬢」


「はい?」


「何か気になることが?」


 シモンが尋ねる。


 モモは少しだけ考え、首を横へ振った。


「いいえ。ただ、ルシル様が普通だなって思っただけです」


 シモンは一瞬だけ目を細めた。


 朝から何度も確認していたことを、モモも別の形で見ていたらしい。


「そうですね」


 それ以上、二人は言葉を重ねなかった。


 窓の外では西風がレグナの屋根を越え、通りに吊るされた宿の看板を揺らしている。


 その風の向こう。


 町の西南へ続く道は、さらに先へ伸びていた。


 海はまだ見えない。


 写真の正体も分からない。


 夢の文字も読めない。


 それでも今夜は、温かい湯と夕食と、屋根のある寝床がある。


 旅を続ける三人にとっては、それだけで十分に楽しみな夜だった。

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