第60話 旅人の町で、次の道を決めます
青道亭の一階へ降りると、夕食の匂いは二階で感じていたものよりずっと強かった。
肉を焼く香ばしさに、甘みのある香草と煮込み料理の湯気が混じっている。食堂は宿の正面側にあり、六つほど並んだ木の卓の半分以上がすでに埋まっていた。
商人らしい二人組。
外套を椅子の背へ掛けた旅人。
壁際では、日に焼けた三人の男たちが大きな皿を囲んでいる。
町そのものはハルゼより静かに見えたが、旅人向けの宿の中まで静かなわけではないらしい。
「いい匂い」
ルシルが食堂へ入った途端、目を輝かせる。
「二階でもずっと言ってましたよ」
モモが笑う。
「だって本当にいい匂いだっただろ」
「それは否定しません」
先ほど湯を使ったばかりなので、三人とも旅の埃は落としている。髪もまだ少し湿っており、特にモモの長い桃金色の髪は乾ききっていない毛先が外套の背へ張りついていた。
「三人さん、こっち空いてるよ」
声を掛けてきたのは、四十代半ばほどの女性だった。
茶色い髪を後ろでまとめ、生成り色の前掛けを着けている。
宿へ入った時にシモンが話した女将だ。
「ありがとうございます」
三人は窓際の卓へ案内された。
椅子へ座ると、ルシルはすぐ厨房の方を見る。
「今日の夕食って、何ですか?」
「そんなに腹減ってるのかい?」
「減ってます」
「正直だねえ」
女将が笑った。
「今日は香草豚の炙り焼きと、豆と根菜の白煮込み。それから黒麦パン。追加で欲しけりゃ焼き玉葱もあるよ」
「全部」
「ルシル様」
シモンの声が飛んだ。
「え?」
「まず通常の夕食を食べてからにしてください」
「焼き玉葱くらいいけるって」
「食べられるかどうかではありません」
女将が二人を見比べ、さらに笑う。
「焼き玉葱は逃げないから、足りなかったら後で言いな」
「そうします」
シモンが答えた。
「俺が頼んだのに」
「注文を管理しただけです」
「シモン君、慣れてますね」
モモが楽しそうに言う。
「慣れたくて慣れたわけではありません」
「でも、焼き玉葱はちょっと食べたいです」
「モモ嬢まで増やさないでください」
「半分なら?」
「食事が来てから考えます」
そんなやり取りを聞きながら、女将は厨房へ戻っていった。
近くの卓にいた二人組の商人が、ちらりと三人を見る。
そのうちの一人、灰色の髭を生やした男は、最初こそ若い旅人たちだと思っただけだった。
だが、窓越しに裏手へ見える馬車はかなりしっかりした造りで、二頭の馬も旅慣れている。服装は派手ではないのに、三人とも妙に落ち着いていた。
特に黒髪の男は、どう見ても財布を握っている側だろう。
金髪の青年が焼き玉葱を追加しようとしただけで止めているあたり、間違いない。
「……若いのに大変そうだな」
灰色髭の商人が小さく呟く。
向かいの商人もシモンを見て、静かに頷いた。
当のシモンは、そんな同情を向けられているとは知らなかった。
◇
夕食は、ルシルが期待していた以上だった。
厚めに切られた豚肉は表面をしっかり焼いてあり、噛むと中から肉汁が出る。香草は甘い香りのわりに味そのものはさっぱりしており、脂の多い肉によく合っていた。
「これ、うまい」
最初の一口を飲み込んだルシルが、すぐ二口目へ進む。
「香草の匂い、さっきからしてたのこれだったんですね」
モモも肉を小さく切りながら頷く。
「初めて食べる香りです」
「レグナの近くで作ってる香草だよ」
料理を運んできた女将が教えてくれた。
「乾かして肉に擦り込むんだ。町の外に畑があったろ?」
「ありました」
「その一部がこれさ。レグナじゃ昔からよく使うよ」
「名前は?」
「甘風草」
モモの手が一瞬止まる。
「甘風草……」
「書く?」
ルシルが尋ねる。
「食べ終わってからにします」
「食事中に帳面出すと汚れますからね」
シモンが白煮込みを口へ運ぶ。
豆と根菜を柔らかく煮込んだ料理は、見た目より味が濃い。乳を使っているらしく、保存食中心だった野営の食事とはかなり違っていた。
「これも美味しいです」
モモが言う。
「肉よりこっち好き?」
「比べなくても両方美味しいです」
「正解です」
「なんでルシル様が判定するんですか」
三人の卓には、しばらく食事の音が続いた。
宿の食堂は次第に賑やかになっていく。
入口の扉が開くたびに外の風が少し入り込み、新しい客が席へ案内される。厨房からは皿の触れ合う音が聞こえ、時折、誰かの笑い声が大きく響いた。
王都の格式ある食事とはまったく違う。
食器も揃っていない。
卓には細かな傷がある。
隣の客の話し声も普通に聞こえる。
それでもルシルは、こういう場所で食べる時間がかなり好きになっていた。
「おかわり欲しい人いる?」
女将が近くを通りながら声を掛ける。
「パン」
ルシルが即答する。
「はいよ」
「焼き玉葱は?」
「まだ覚えてたのかい?」
「忘れてないです」
女将は声を上げて笑った。
「じゃあ一皿持ってくるよ。三人で食べな」
「やった」
「結局頼むんですね」
シモンが言う。
「モモも食べたいって言ってたし」
「はい」
「二対一」
「多数決をした覚えはありませんよ」
だがシモンも、本気で止めるつもりはなかったらしい。
運ばれてきた焼き玉葱は丸ごとではなく、厚く輪切りにしたものだった。表面に軽く焼き色がつき、塩と香草が振られている。
三人で分ける。
「甘い」
モモが目を丸くした。
「赤玉菜より甘いな」
「比較対象がそこなんですか?」
「昨日食べた野菜だから」
ルシルはもう一切れ食べる。
「赤玉菜も焼いたら甘くなるかな」
「試してみればいいでしょう」
シモンが答える。
「まだ一個残っていますから」
「次の野営でやろう」
「宿が続けば、その次になるかもしれませんよ」
「それはそれでいい」
以前なら、買った食材をいつ使うかまで気になっていたかもしれない。
今は保存できるなら、そのうち食べればいいと思える。
荷物の中にある赤玉菜も、残った山芋根も、旅の途中で自然に出番が来るだろう。
◇
食事が一段落したところで、シモンは女将が手の空いた頃を見計らって声を掛けた。
「少し道について聞いてもいいですか?」
「どっちへ行くんだい?」
「西南です。海のある方角へ向かっています」
「海?」
女将が少し驚いた顔をする。
「そりゃまた遠くへ行くねえ」
「まだ急いではいません」
「ならミルファ街道だね」
女将は近くの空いた椅子を引き、卓の端へ座った。
忙しい時間の山を越えたらしく、厨房でも別の従業員が片づけを始めている。
「レグナから西南へ行くなら、まずミルファ街道。しばらくは一本道だよ」
「次に泊まれる場所は?」
「どこまで進むかによるね」
女将は卓の上へ指で簡単な線を描いた。
「レグナを朝出るだろ。普通の荷馬車なら、昼を少し過ぎた頃に小さな集落が一つある。名前はナハト村。宿ってほど立派じゃないけど、旅人を泊める家が二軒ある」
「馬車と馬は?」
「置ける。村の人間も荷馬車を使うからね。ただ、混んでると厩は狭いかもしれない」
ベルクのことを考え、シモンはその情報を覚えておく。
「その先は?」
「さらに進めば、夕方前に街道が二つに分かれる」
「二つ?」
ルシルが身を乗り出した。
「南寄りと西寄り?」
「そんな感じだね。南へ行く方が古い街道。西南へ行く方が新しい道」
女将は卓へ二本の線を引く。
「海を目指すなら、どちらからでも最終的には行けるよ。ただし今の時期なら、新しい方を使う人が多い」
「何か違うんですか?」
モモが尋ねる。
「古い方は森が多い。道幅も狭いところがある。その代わり、小さな村をいくつか通るから食べ物と水には困りにくい。新しい方は少し遠回りだけど道が広くて、馬車なら走りやすい」
「どっちが海に早く着く?」
「それだけなら古い方が少し短い。でも天気や道の状態次第じゃ変わらないよ」
ルシルはすぐに決めず、シモンを見る。
「明日、もっと詳しく聞けるところある?」
「あるよ」
答えたのは女将だった。
「馬車組合が中央通りの西端にある。街道係もそこへ顔を出すから、朝なら最新の状態を聞けるはずさ」
「じゃあ明日そこ行こう」
「そうですね」
シモンも頷く。
「今夜の情報だけで道を決める必要はありません」
「古い道も気になるけどな」
「森だから?」
モモが聞く。
「村がいくつかあるって言ってたから」
「そっちなんですね」
「新しい道も見たことない景色あるだろうし、どっちでも面白そう」
女将が少し不思議そうにルシルを見る。
「海へ急いでるわけじゃないのかい?」
「うん」
ルシルは自然に答えた。
「海は見たい。でも、途中も見たいから」
女将は一度瞬きをした。
遠くへ向かう旅人は珍しくない。
目的地へ少しでも早く着きたがる商人もいれば、仕事の期限に追われる者もいる。巡礼者や冒険者にも、それぞれ先を急ぐ理由がある。
けれど目の前の金髪の青年は、海へ行きたいと言いながら、その途中にある村や道にも同じくらい興味を向けているように見えた。
「変わった旅の仕方するねえ」
「そう?」
「悪い意味じゃないよ」
女将は笑った。
「なら、朝に馬車組合で聞くといい。道の状態だけじゃなくて、途中で寄れそうな場所も教えてくれるだろうさ」
「ありがとう」
「それと」
女将は少し声を落とした。
「古い街道へ行くなら、森へ入る前に水は多めに持ちな。村はあるけど、村と村の間が思ったより長い場所がある」
「分かりました」
シモンが答える。
「新しい道は?」
「井戸と休み場が整ってる。その代わり、店は少ないね」
「なるほど」
どちらにも良いところと不便なところがある。
今夜決めるには、まだ情報が足りない。
「明日決めればいいな」
ルシルが言う。
「はい」
モモも頷く。
シモンは少しだけ驚いた。
以前ならルシルは、道が二つあると知った時点でどちらへ行くか考え始めていただろう。
今も興味はある。
だが、決めるための情報を明日得られると分かれば、それ以上焦らない。
シモンは何も言わず、水を一口飲んだ。
変化をいちいち言葉にして本人へ突きつける必要はない。
それもまた、最近覚えたことの一つだった。
◇
食後。
三人はすぐ部屋へ戻らず、少しだけレグナの通りを歩くことにした。
日が落ちきるまでにはまだ時間がある。
ハルゼの五日市のような賑わいはないが、中央通りには店が並んでいた。
馬具屋。
食料品店。
小さな鍛冶屋。
旅装を扱う店。
荷札や縄、油紙などを売る店もある。
「旅人向けのもの多いな」
ルシルが店先を眺める。
「街道の分岐があるからでしょうね」
シモンが答える。
「ここから南へ行く人と西南へ行く人が分かれますし、逆方向から来た人はレグナで合流します」
「だから宿も多いんですね」
モモは通りの先を見る。
ちょうど荷馬車が一台、南側から町へ入ってきたところだった。
御者は疲れた様子で肩を回している。
別の宿の前では厩番が馬を受け取り、荷主らしい男が帳面を確認していた。
ここは観光のための町ではない。
人が通り、休み、また別の道へ進むための町なのだ。
「明日の馬車組合、あっちかな」
中央通りの先に、他より少し大きな建物が見える。
扉の上に車輪を模した看板が掛かっていた。
「おそらくそうでしょう」
「今行く?」
「今日はもう閉まりかけています」
シモンが入口を見る。
ちょうど職員らしき男が外の掲示板を片づけているところだ。
「明日にしましょう」
「了解」
ルシルも素直に通り過ぎる。
その先で、モモが一軒の店の前に止まった。
「あ」
「何かあった?」
「甘い匂いがします」
「モモ嬢」
シモンが即座に反応する。
「まだ何も言ってません」
「夕食を食べた直後です」
「見ているだけです」
店先には小さな焼き菓子が並んでいた。
丸いもの。
細長いもの。
木の実を乗せたもの。
夕方のため数は少なくなっている。
「明日の朝用なら?」
モモが振り返る。
「宿は朝食付きです」
「では、お昼用」
「明日の昼食場所も決まっていません」
「保存できますよ?」
店先にいた店主の男性が、思わず笑った。
「そっちの木の実焼きなら明日の昼くらいまでは平気だよ」
「ほら」
「店主を味方につけないでください」
シモンが額へ指を当てる。
「一人一つまでです」
「やった」
「ありがとうございます、シモン君」
「僕が買うわけではありませんよ」
三人は木の実を練り込んだ小さな焼き菓子を一つずつ買った。
その場では食べない。
明日のどこかで食べる。
モモは紙包みを大切そうに収納する。
「楽しみが増えました」
「一晩置くだけだけどな」
「一晩でも楽しみです」
「分かる」
「二人とも、食べることになると意気投合しますね」
「シモンも買ったじゃん」
「僕だけ買わないと、明日二人が食べている横で見ていることになるでしょう」
「食べたかったんだ」
「違います」
「じゃあ俺が食べる」
「自分の分を食べてください」
モモがくすくす笑う。
店主は遠ざかっていく三人を見送りながら、隣にいた妻へ顔を向けた。
「仲いいな、あの三人」
「兄妹かね?」
「似てないだろ」
「じゃあ旅仲間じゃない?」
「真ん中の黒髪の兄ちゃん、苦労してそうだったな」
「でも自分の菓子は守ってたじゃない」
「そりゃ大事だ」
二人は笑い、それから残った焼き菓子を片づけ始めた。
◇
青道亭へ戻る前に、三人は厩へ寄った。
トルクとベルクは落ち着いていた。
トルクは飼葉を食べ終えたらしく、こちらを見ると期待するように鼻先を伸ばす。
「もう食べたんだろ?」
ルシルが近づく。
トルクは答えない。
「その顔しても何もないぞ」
「ありますけど、あげません」
モモが言う。
「何持ってるの?」
「馬用に買っておいた小さな根菜です」
「じゃああるじゃん」
「今日は宿で十分もらっていますから」
トルクがモモの方を見る。
「見てもだめです」
今度はルシルを見る。
「俺も持ってない」
最後にシモンへ顔を向ける。
「順番に試すのはやめなさい」
シモンの声にも容赦はなかった。
「全滅だな」
ベルクは兄の様子を横から眺めているだけだった。
厩番の女性が奥から出てきて、その光景を見て笑う。
「栗毛の方、本当に食べるの好きなんだね」
「かなり」
「でも勝手に柵を蹴ったりはしないし、いい子だよ。灰色の方も静か」
「他の馬とは?」
シモンが尋ねる。
「大丈夫。端にしてるし、隣も空けたまま。さっき一頭入ったけど反対側にしたから」
「ありがとうございます」
「気にしなくていいよ。空いてるからできるだけだし」
女性はベルクを無理に触らず、少し離れたところから様子を見る。
「この子、人が嫌いってわけじゃないんだね」
「ええ。慎重なだけです」
「分かるよ。近づく前に見てるもん」
女性は一歩だけ横へ動く。
ベルクの耳がその動きを追う。
だが、威嚇する様子はない。
「ちゃんと相手を見てから決める子だ」
「そうですね」
シモンの声が少し柔らかくなった。
厩番の女性は、その変化に気づいた。
宿へ来た時から、この黒髪の青年は灰色の馬の状態を特に細かく確認している。だからといって栗毛を雑に扱っているわけではないが、灰色の馬が落ち着ける位置を気にする様子は明らかだった。
「兄ちゃん、この子好きだね」
「……二頭とも大事ですよ」
「そういうことにしとく」
「本当にそうです」
後ろでルシルが笑いを堪えている。
「何ですか?」
「別に」
「ルシル様」
「何も言ってないって」
モモまで口元を押さえていた。
「モモ嬢もです」
「私も何も言ってません」
「顔が言っています」
厩番の女性は事情を知らないまま、楽しそうに笑った。
◇
部屋へ戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
窓を閉めても、時折風の音が聞こえる。
昨夜は屋根のない古井戸の広場。
今夜は宿の二階。
同じ風でも、聞こえ方がまるで違った。
モモは卓へ小さな帳面を置く。
「今日の分、少しだけ書きます」
「甘風草?」
「それと道のことです」
モモは椅子へ座り、頁を開いた。
今朝の夢についてはすでに記録してある。
橋の後に出た「拡大」という言葉も書いた。
それ以外で残すのは、旅に必要なものだけだ。
『レグナ到着。青道亭泊。』
『レグナ周辺では甘風草を肉料理に使用。甘い香り。』
『西南方面はミルファ街道。途中にナハト村。さらに先で古い南寄り街道と新しい西南街道へ分岐。古道はやや短いが森・狭路あり。新道は遠回りだが道幅広め、休み場・井戸あり。明朝、馬車組合で最新状況を確認予定。』
そこまで書き、ペンを止める。
「焼き玉葱は?」
ルシルが尋ねる。
「書きません」
「美味しかったのに」
「全部書いたら食事帳になります」
「それも楽しそう」
「別の帳面が必要になります」
「作る?」
「作りません」
モモはきっぱり断り、帳面を閉じた。
シモンは地図を卓へ広げている。
「宿の女将の話と、持っている地図は一致していますね」
「道が二つあるところ?」
「ええ。ただ、この地図では古道と新道の細かな状態までは分かりません」
ルシルとモモも卓へ寄る。
レグナから西南へ一本の線が伸びている。
その途中で二つへ分かれ、少し離れた場所で再び大きな地域へ繋がっていた。
「海はまだ載ってない?」
ルシルが地図の端を見る。
「この地図の範囲では、まだ先です」
「遠いですね」
モモが言う。
けれど、その声に落胆はない。
「まだいっぱい町ある?」
「ありますよ」
「じゃあいい」
ルシルは地図を眺める。
名前の知らない村。
まだ行ったことのない道。
森。
平地。
さらにその先。
海へ着くまでに、どれだけの場所を通るのだろう。
(早く見たい。でも、途中を飛ばしたいとは思わないな)
その気持ちは、自分でもずいぶん自然なものになっていた。
「どっちの道にするか、今は決めないんですよね?」
モモが確認する。
「明日聞いてから」
ルシルが答える。
「僕もそれでいいと思います」
シモンは地図を畳んだ。
「道の状態、天気、馬車の通行量。それからベルクが休みやすい場所があるか。その辺りを確認しましょう」
「ナハト村で泊まるのもまだ決めない?」
「朝の出発時間と道の状態次第ですね。村で泊まるのも、その先まで進むのも候補です」
「分かった」
予定はある。
でも固定はしない。
明日の朝に聞き、明日の状況を見て決める。
旅を始めた頃なら、それは少し頼りなく感じたかもしれない。
今ではむしろ、その方が自然だった。
◇
「ところで」
ルシルが寝台へ腰掛けた。
「今日の夢のこと、もう考えなくていい?」
「考えたいんですか?」
シモンが聞き返す。
「いや。なんとなく確認」
「新しい材料がありませんから、今夜考えても推測が増えるだけでしょう」
「だよな」
ルシルはそのまま寝台へ仰向けになる。
柔らかい。
「おお……」
「まだ寝るには早いですよ」
「寝ない。柔らかさ確認してるだけ」
「何の確認ですか」
モモも自分の寝台へ座った。
「でも、今朝の夢は少し不思議ですね」
「写真と関係あるか分からないやつ?」
「はい。今までより範囲が広がった感じがします」
「範囲?」
「写真だけじゃなくて、知らない場所とか文字まで出てきたので」
ルシルは天井を見る。
「そうなんだよな」
夢の中では読めた気がした文字。
形も内容も思い出せない。
そして昼間には、写真を「拡大する」という感覚が突然口から出た。
何かが繋がっているのか。
まったく別なのか。
「シモンはどう思う?」
「分かりません」
あまりにも迷いのない返事だった。
ルシルは起き上がる。
「早いな」
「分からないものは分かりません」
「何か仮説とかない?」
「作ろうと思えばいくらでも作れますよ」
シモンは椅子へ座り、眼鏡を外して布で拭く。
「たとえば、写真という言葉をきっかけに、ルシル様の中にある何らかの記憶が少しずつ出てきている。あるいは、最初に生まれた違和感をもとに夢が内容を作り続けている。『光写しの箱』のような話を知ったことで、さらに夢へ影響が出た可能性もある」
「うん」
「ほかにも、僕たちが知らない魔法や現象という可能性も否定はできません」
シモンは眼鏡を掛け直した。
「ですが、どれも証拠がありません。候補を増やすだけなら簡単です」
「だから決めない?」
「ええ」
ルシルは少し笑った。
「シモンが一番答え欲しがりそうなのに」
「欲しいですよ」
シモンは否定しなかった。
「分からないことは嫌いではありません。調べる価値がありますから。ただ、答えが欲しいことと、答えを勝手に作ることは別です」
「なるほど」
「それに」
シモンの視線がルシルへ向く。
「今のところ、ルシル様に害が出ていません。なら、急いで結論を出す理由もありません」
「そっか」
モモは二人の会話を聞きながら、帳面の表紙を指先で撫でた。
「もし忘れても、ここにありますから」
「うん」
「だから、ルシル様が全部覚えておこうとしなくても大丈夫です」
ルシルは少しだけ目を見開いた。
夢を見た朝。
忘れないようにと、頭の中で何度か言葉を繰り返した。
明るい場所。
横長の何か。
たくさんの色。
文字。
夢の中では読めた。
消えてしまう前に残さなければと、無意識に力を入れていたのかもしれない。
「……それ、助かるな」
「はい」
モモが微笑む。
「私が書いておきます」
「でもモモが忘れたら?」
「帳面に書いてあります」
「帳面なくしたら?」
「縁起でもないこと言わないでください!」
モモが慌てて帳面を両手で抱える。
「冗談」
「今のは笑えません」
「ごめんごめん」
「ルシル様」
シモンが低い声で呼ぶ。
「はい」
「モモ嬢の帳面は今や旅の重要物品です。冗談でも紛失を想定して遊ばないでください」
「そこまで?」
「そこまでです」
モモは帳面を胸元へ抱えたまま、大きく頷いた。
「大事です」
「分かった。もう言わない」
三人の間に一瞬だけ沈黙が落ちた後、ルシルがふと笑う。
「でも、最初は普通の旅の帳面だったのにな」
「今も普通の旅の帳面です」
「夢とか写真とか書いてあるけど?」
「それも旅の途中で起きたことです」
モモの答えは単純だった。
ルシルは少し考え、それから頷く。
「そっか」
写真のための記録ではない。
謎を解くためだけの帳面でもない。
野兎の耳も。
小動物も。
食べ物も。
道も。
宿も。
夢も。
全部が同じ旅の途中にある。
それなら、それでいいのかもしれない。
◇
夜が深くなる前に、三人は翌朝の準備だけ済ませた。
買った焼き菓子は収納してある。
水もある。
馬の補助飼料も十分。
保存食も不足していない。
山芋根はあと一度料理に使える程度。
赤玉菜は一個。
高原赤実は今朝で食べ終えた。
乾燥した山青菜はすでに残っていない。
シモンは食料を確認しながら、必要なものだけ頭の中で整理する。
「レグナで追加購入は?」
ルシルが尋ねる。
「明日、道を聞いてからでいいでしょう。古道を使うなら水や食料を少し多めに。新道なら今の量でも余裕があります」
「じゃあ買い物も明日」
「そうなります」
「朝からやることあるな」
「馬車組合、必要なら買い物、それから出発です」
「でも焼き菓子ある」
「それは予定ではありません」
「俺には大事」
「私にも大事です」
モモが加わる。
「……分かりましたから、寝る準備をしてください」
灯りを一つ落とす。
部屋が少し暗くなった。
窓の外から聞こえる町の音も、次第に減っている。
昨夜のように空いっぱいの星を見ることはできない。
けれど今夜には、柔らかな寝台がある。
ルシルは毛布へ入る。
「夢、また見るかな」
ぽつりと呟いた。
「見ても見なくても、朝になれば分かります」
シモンが答える。
「何かあったら教えてくださいね」
モモも言う。
「うん」
ルシルは目を閉じた。
夢を待つ必要はない。
思い出そうとする必要もない。
出てくるなら出てくる。
出てこないなら、それでいい。
(明日は道を決める方が先だな)
南へ伸びる古い街道。
西南へ続く新しい街道。
どちらを選んでも、今まで見たことのない場所へ繋がっている。
それを考えているうちに、意識は自然に遠のいていった。
◇
翌朝。
夢は覚えていなかった。
ルシルは目を開け、しばらく天井を見てから身体を起こす。
頭痛なし。
吐き気なし。
目眩なし。
身体も普通。
「今日はない」
独り言のように言うと、隣の寝台からモモの声が返ってきた。
「夢ですか?」
「うん。覚えてない」
「では、それもいつも通りですね」
モモが毛布から顔を出す。
シモンもすでに起きており、窓を少し開けて外を確認していた。
「風は昨日より弱いですね」
「天気は?」
「晴れそうです」
「じゃあ馬車組合行けるな」
「天気が悪くても行きますよ」
「それもそうか」
朝食を済ませ、トルクとベルクの様子を確認する。
二頭とも問題ない。
青道亭へ荷物の一部を置いたまま、三人は徒歩で中央通りへ向かった。
朝のレグナは、昨夕より忙しい。
宿から出てくる旅人。
荷物を積み直す商人。
店先を掃く人。
馬車の車輪を確認する御者。
通りのあちこちから、今日一日の始まりを知らせる音が聞こえていた。
馬車組合の扉も、すでに開いている。
「行こう」
ルシルが中へ入る。
◇
馬車組合の内部は、ハルゼの市場とは違う種類の賑わいだった。
壁には街道図。
卓の上には帳簿。
入口近くには、道路状況を書いた板が掛けられている。
数人の御者が順番を待ち、職員へ質問していた。
「南街道、昨日の倒木は?」
「もう片づいた。大型車も通れる」
「西南は?」
「問題なし。昨日の風で枝が少し落ちてるが通行に支障なし」
そんな声が飛び交う。
ルシルは思わず壁の街道図へ近づいた。
「大きいな」
「触らないでくださいね」
「触らないよ」
レグナを中心に、北東のハルゼ。
南へ向かう道。
西南へ向かう道。
さらにその先の村や休み場が、持っている地図より細かく書かれている。
「ナハト村、これか」
モモが小さく指差す。
「その先で分かれてますね」
古道。
新道。
文字もはっきり読める。
今朝も、見慣れた文字に違和感はない。
「西南へ行くのか?」
背後から声を掛けられた。
振り向くと、五十代ほどの男性職員が立っていた。
日に焼けた肌。
短く刈った灰色混じりの髪。
胸元には車輪を模した組合章が付いている。
「はい。海の方へ向かっています」
ルシルが答える。
「なら、途中で古道と新道に分かれる。どっちを考えてる?」
「それを聞きに来ました」
シモンが一歩前へ出る。
「二頭立ての中型馬車です。急ぎではありません。馬のうち一頭が他の馬を少し苦手としているため、休憩場所の混雑も気にしています」
「なるほどな」
職員は三人を近くの卓へ案内し、小さな街道図を広げた。
「まず今日の状態だ。どっちも通れる。雨もここ数日は降ってないから、ぬかるみもほぼない」
「古道の狭い区間は?」
「ここだ」
職員が指を置く。
分岐から南へ進み、森へ入った辺り。
「馬車同士がすれ違いにくい場所が三か所ある。ただ、待避所はある。大型の荷馬車じゃなければ問題ない」
「村は?」
「森の前に一つ。森を抜けた後に一つ。その次が少し遠い」
「宿泊はできますか?」
「できる。小さいがな」
次に職員の指が新道へ移る。
「新道は広い。休み場も井戸もある。代わりに集落が少ない。商人はこっちを使うことが多い」
「他の馬と距離を取りやすいのは?」
シモンが尋ねる。
「休み場なら新道だな。広い場所が多い。ただし商隊に当たれば混む。古道の村は厩が小さいから、そっちの馬が他馬を嫌うなら事前に様子を見た方がいい」
「ベルクなら新道の方が楽かな」
ルシルが言う。
「そうかもしれませんね」
モモも地図を見る。
「でも古道は森なんですよね」
「森に行きたい?」
「少し気になります。でも、この前も森は通りましたし」
「そうなんだよな」
ルシルも考える。
森そのものが嫌なわけではない。
むしろ面白かった。
枝尾栗鼠らしき小動物を見たり、鹿が横切ったり、木々の音を聞きながら進んだ。
だからこそ、今度は別の景色でもいい。
「新道って、どんなところ通るんですか?」
ルシルが職員へ尋ねる。
「最初は草地。その後は低い岩丘が増える。途中に赤い地面が出る場所もあるな」
「赤い地面?」
ルシルの目が少し輝く。
「鉄分が多い土らしい。俺は詳しくないけどな。あと風で削れた岩が多い場所がある」
「見たことない」
「俺もです」
職員は笑った。
「旅人なら新道の方が景色は変わって見えるかもしれんな。古道は村がある分、人と会いやすいけど」
どちらにも魅力がある。
ルシルはモモを見る。
「どうする?」
「私は新道でもいいです」
「理由は?」
「ベルクが休みやすそうなのと、赤い地面を見てみたいです」
「俺も」
二人の視線がシモンへ向く。
「僕も反対する理由はありません」
「じゃあ決まり?」
「待ってください」
シモンは職員を見る。
「新道で、現在通行止めや補修予定は?」
「ない。少なくとも昨日夕方までの報告では全部通れる。今朝来た御者からも異常報告はなし」
「水場の状態は?」
「最初の休み場と、その次の石柱井戸は使える。三つ目は先週桶を交換したばかりだ」
「危険な魔物の報告は?」
「街道周辺では特になし。普通の野生動物はいる」
「ありがとうございます」
そこでようやくシモンが二人を見る。
「僕は新道で構いません」
「よし」
「決まりですね」
モモも笑った。
職員が街道図の一か所を指す。
「今日レグナを出るなら、まずナハト村までは共通道だ。そこで泊まってもいいし、昼頃に着けたなら分岐手前の休み場まで進める」
「休み場は泊まれる?」
「泊まれる。屋根付きの小屋が一つと、馬繋ぎ、水場。混んでなければな」
「じゃあ今日どこまで行くかは、ナハトで決める」
ルシルが言う。
シモンも頷いた。
「それがいいでしょう」
道は決まった。
けれど今日の宿泊地点までは固定しない。
朝の出発時刻。
馬の状態。
道の混み具合。
ナハト村へ着いた時刻。
それを見てから決めればいい。
「ありがとうございました」
三人が頭を下げる。
「気をつけてな」
職員はそう言い、次に待っていた御者の方へ向かった。
◇
馬車組合を出ると、朝の光が通りへ差していた。
「新道か」
ルシルは西南の空を見る。
「赤い地面」
モモが言う。
「風で削れた岩」
「焼き菓子」
「それは道と関係ないです」
シモンがすぐ訂正する。
「今日食べる予定だから関係ある」
「どこで食べるかも決めていないでしょう」
「ナハト?」
「昼頃に着けば、そうなるかもしれません」
「じゃあナハトで焼き菓子」
「勝手に予定を確定しないでください」
ルシルとモモが笑う。
三人は青道亭へ戻る途中、必要な食料を少しだけ追加した。
新道へ入れば店が減る。
だからといって買い込みすぎる必要はない。
硬めのパン。
日持ちする豆。
馬用の補助飼料を少量。
水は出発前に宿で補充する。
それだけだった。
青道亭へ戻る。
裏手の厩では、トルクとベルクがすでに出発できる状態になっていた。
「お待たせ」
ルシルがトルクの首を撫でる。
トルクは鼻先を寄せる。
「今日は何もないぞ」
さらに寄せる。
「本当にないって」
「ありますけど、今はあげません」
モモが後ろから言う。
トルクの顔がそちらへ向く。
「モモ、言わなきゃよかったのに」
「だってありますから」
厩番の女性が笑いながら馬具を確認してくれる。
「今日も元気だねえ」
「元気です」
「どっち行くの?」
「ミルファ街道の新道です」
「ならしばらく広い道だよ。この二頭なら走りやすいと思う」
女性はベルクの方へ無理に近づかず、少し離れた場所から脚元を見る。
「灰色の子もよく休めたみたい」
「ありがとうございました」
シモンが礼を言う。
「またレグナへ来たら寄ってよ」
「その時は」
荷物を載せる。
馬具をもう一度確認する。
忘れ物なし。
水も十分。
「最初、誰が運転する?」
ルシルが尋ねる。
「僕が町を出るまでやりましょう」
シモンが御者台へ上がる。
「昨日モモ嬢が最後を担当しましたし、町中は僕が出します」
「お願いします」
「じゃあ俺、ナハトの前くらい?」
「道の状態を見て交代しましょう」
「了解」
三人が乗り込む。
青道亭を出た馬車は、朝のレグナをゆっくり進み始めた。
昨日入ってきた道とは別の方向。
西南へ。
町の出口に近づくと、道標が見える。
『ミルファ街道』
その文字をルシルは普通に読めた。
今朝も、夢の文字について新しいことは何もない。
写真についても。
黒い箱についても。
カメという途中までの名前についても。
答えは増えていない。
けれど今日は、それでいい。
「行こう」
ルシルが前を見る。
「はい」
モモが答える。
「まずはナハト村方面ですね」
シモンが手綱を軽く動かした。
トルクとベルクが歩調を揃える。
車輪が回り始める。
レグナの建物が少しずつ後ろへ遠ざかり、やがて視界の前には一本の街道が伸びた。
その先で道は二つに分かれる。
三人が選んだのは、広い新道。
海までは、まだ遠い。
けれど次に見る景色は、もう決まっていた。
草地の先。
赤い土と、風に削られた岩のある道へ。
三人と二頭を乗せた馬車は、朝の光の中をゆっくり西南へ進んでいった。




