第61話 ナハト村までは、寄り道も悪くありません
レグナの町並みが背後へ遠ざかっていくにつれて、街道を行き交う馬車の数も少しずつ減っていった。
朝のミルファ街道にはまだ涼しさが残っており、道の両側に広がる草地では、細長い葉の先に残った露が朝日を受けて光っている。進行方向から吹いてくる風には昨夜まで滞在していた宿場町の匂いはもうなく、湿った土と草、それから遠くの畑から流れてくるらしい青い匂いが混じっていた。
「いい道だなあ」
御者台に座ったルシルが、手綱を握ったまま素直な感想を口にする。トルクとベルクの蹄が固く締まった土を一定の調子で踏み、四つの車輪がその後ろを滑らかについていく感触は、昨日までの横風が強かった道とはまるで違っていた。
隣に座っているシモンは前方を見ながら、眼鏡の位置を指先で直す。
「レグナからナハト村までは、荷馬車の往来も多い区間ですからね。昨日、馬車組合で聞いた話でも、大きな傷みはないとのことでした」
「道幅もあるし、今のところ穴もほとんどないな」
「だからといって、余所見をしていいという意味ではありませんよ」
「してないって」
そう答えた直後、ルシルは右手側の草原に何かを見つけて顔を向けかけた。けれど、ほんの少し首を動かしたところで前へ戻し、何事もなかったように手綱を持ち直す。
シモンが横からじっと見ている。
「……何だよ」
「いえ。成長されたな、と」
「今のは絶対に褒めてないだろ」
「褒めていますよ。以前でしたら、あちらに何があるのか確認するために馬車を止めるか相談していた可能性がありますので」
馬車の中から、小さな笑い声が聞こえた。
後ろの窓から右側を覗いていたモモが、御者台との仕切り近くまで身を寄せてくる。
「ちなみに、白い鳥が三羽いましたよ」
「やっぱり鳥だったのか!」
「ルシル様」
「見ない。ちゃんと前を見る」
声だけは明らかに残念そうだったが、ルシルは本当に振り返らなかった。
モモは口元を緩めながら長椅子へ戻り、膝の上に置いていた小さな綴じ帳面を閉じる。鳥については書かなかった。遠目に白く見えただけで種類も分からず、特別な行動をしていたわけでもない。
旅を始めた頃なら、目についたものを片端から覚えておきたいと思っていたかもしれない。けれど今は、残さなかったものまで含めて旅なのだと、少しだけ分かるようになっていた。
窓の外へ視線を戻すと、三羽の鳥はもう遠い。
代わりに、街道沿いの低い柵の向こうへ畑が見えてきた。背の低い葉が規則正しく並んでおり、そのさらに奥には小さな農家らしい建物が二軒寄り添っている。
「今日もいい天気ですねえ」
モモが呟く。
「昼頃は少し暑くなるかもしれません」
シモンが空を確認するように見上げた。雲は少なく、雨を予感させる色もない。
「ナハト村には昼を少し過ぎるくらいだったか?」
「通常の荷馬車ならその程度だと聞いています。ただ、急ぐ必要はありません。途中で一度、馬を休ませましょう」
「賛成。昨日も走ってるしな」
ルシルが答えると、まるで自分の話をされていると分かったかのように、トルクが小さく鼻を鳴らした。
「お前は休憩って言葉に反応してないか?」
「休憩そのものではなく、休憩すると何か食べられると覚えている可能性はありますね」
「トルク君、賢いですからねえ」
「そこは褒めていいのか?」
三人の声に混じって、車輪の音が続いていく。
街道は緩やかに西南へ延びていた。
やがて後方から、荷を高く積んだ二頭立ての大型馬車が近づいてきた。御者が前方を確認しているのを見たルシルは、道の左側へ寄りすぎない程度に進路を整え、速度を少しだけ落とす。
相手の馬車も無理に抜こうとはせず、道幅が広くなる場所まで一定の距離を保ってついてきた。
しばらく進んだ先で、街道脇の草地が大きく開ける。
ルシルが右手を軽く上げて後方へ合図すると、大型馬車の御者も手を上げて応えた。そのまま相手が横を通過していく。
「助かるよ!」
四十代ほどに見える男性の御者が声をかけてきた。
「どういたしまして!」
ルシルが返す。
大型馬車の荷台には布をかけられた木箱がいくつも積まれていた。その後ろに座っていた若い男性が、ルシルたちの馬車へ軽く頭を下げる。
相手からすれば、それだけの出来事だった。
旅慣れていない者が御者をしているとは思わなかったし、まして御者台にいる金髪の青年がかつて王宮で暮らしていた人物だなどと想像する理由はどこにもない。ただ、追い越しやすい場所で道を譲ってくれた旅人。その程度の認識で、大型馬車は少しずつ前へ離れていった。
ルシルは遠ざかる後ろ姿を見送ることもせず、再び一定の速度へ戻す。
シモンが何も言わなかったので、ルシルは横目を向けた。
「今のは?」
「何がです?」
「いや、何か言うかと思って」
「特に問題ありませんでしたから」
「それだけ?」
「それだけです」
ルシルは数秒黙ったあと、妙に嬉しそうに笑った。
「そっか」
シモンはその横顔を一度だけ見てから、前方へ視線を戻す。
最初の頃なら、うまくできたことを一つ一つ確認していた。それは必要なことだったし、ルシル自身も初めて経験することばかりだった。
今は、道を譲る程度のことなら何も言わなくても済む。
それは大きな変化ではない。けれどシモンには、そういう小さな変化のほうが、むしろ旅の日々をよく表しているように思えた。
◇
太陽が少し高くなった頃、三人は街道脇に設けられた小さな休憩場所で馬車を止めた。
立派な施設というほどではない。低い石囲いの水場と馬繋ぎ用の横木があり、その横に数本の木がまとまって生えているだけだったが、枝葉が作る影は十分に広かった。
先客は一台。
荷台に籠を積んだ小さな一頭立て馬車があり、年配の夫婦らしい二人が木陰で水を飲んでいる。
「こんにちは」
馬車から降りたモモが声をかけると、白髪混じりの女性が笑顔で会釈した。
「こんにちは。レグナからかい?」
「はい。ナハト村のほうへ向かっています」
「それなら同じ道だね。私たちは途中で北へ曲がるけど」
それ以上、お互いの行き先を詳しく尋ねることはなかった。
街道の休憩所では、こうした短いやり取りが珍しくない。どこから来たのか、道はどうだったか、水場は使えるか。その程度を交わしたあと、それぞれが自分たちの休憩へ戻っていく。
シモンはトルクとベルクを順番に確認した。
汗は軽い。呼吸も正常で、脚にも問題はない。ベルクは先客の馬を一度見たものの、距離が十分にあると分かると興味を失ったように水桶へ鼻先を寄せた。
「問題ありませんね。少し長めに休ませれば十分でしょう」
「じゃあ俺たちも何か食べるか」
ルシルが待っていましたとばかりに言う。
「まだ昼食には早いですよ」
「知ってる」
「では、なぜその顔をしているのです?」
「レグナで買ったやつ」
モモの表情も明るくなった。
「あっ。木の実の焼き菓子!」
「昨日食べなかったからな」
「お二人とも、出発前から休憩で食べるつもりだったのではありませんか?」
シモンが呆れたように言いながらも止めなかったので、三人は馬車から小さな包みを取り出した。
レグナの店で買った焼き菓子は、手のひらより少し小さい丸形をしている。表面は薄い茶色で、ところどころに細かく砕かれた木の実が見えていた。
昨日買ったものなので焼きたてではない。それでも包みを開くと、香ばしい匂いがほんのり残っている。
「いただきます」
モモが両手で持って一口齧った。
さくり、というほど硬くはない。外側は少し締まっているが、中は意外にしっとりしていた。細かく砕いた木の実の食感が残り、甘さは控えめで、噛んでいると穀物と木の実の香りがじわじわ広がる。
「これ、好きです」
モモがすぐに言った。
「甘いから?」
「それもありますけど、甘すぎないところがいいです。旅の途中で食べても喉が渇きにくそうですし」
「確かに」
ルシルも一口齧り、しばらく噛んでから頷いた。
「昨日の夕食のあとに食べなくてよかったかもな。こういう場所で食べるほうがうまい」
「場所で味が変わるのですか?」
「変わるだろ」
「では王――」
そこまで言いかけたシモンが口を閉じた。
ルシルも気づいたが、何も言わなかった。
代わりに、木陰の向こうへ目を向ける。
風が通るたび、街道沿いの草が一方向へゆっくり傾いていた。少し離れた場所ではトルクが水を飲み終え、ベルクの桶へ顔を寄せようとして、ベルクに鼻先で押し返されている。
「ほら。あれ見ながら食うと、ちょっと面白いだろ」
「トルク君、完全に自分の分を飲み終わってますね」
「兄だから弟の水も確認しているのかもしれません」
「シモン、それ本気で言ってる?」
「まさか」
三人が笑う。
少し離れた木陰にいた年配の女性が、その声に気づいてちらりとこちらを見た。三人とも年齢はそれほど離れていないように見えるのに、紺の外套の青年だけ妙に落ち着いていて、残る二人が時々彼へ楽しそうに話しかけている。
けれど、世話役とその連れという雰囲気でもなかった。
御者をしていた金髪の青年は馬の様子を何度も確認し、桃金色の髪の少女も水桶を運ぶのを手伝っている。眼鏡の青年が全部やっているわけではなく、それぞれが自分のできることを自然にしている。
「仲がいいねえ」
女性が夫へ小声で言う。
「旅が長いんだろうさ」
夫はそれだけ答え、自分の水筒を傾けた。
もちろん二人は、三人がどこから来たのかも、どこまで行くのかも知らない。
ただ、旅人が楽しそうに菓子を食べている。
街道の木陰では、それだけで十分だった。
◇
休憩を終えたあとは、シモンが御者を担当することになった。
ルシルが馬車の中へ入ると、モモはすでに帳面を開いていた。
「焼き菓子も書くの?」
「書きますよ。木の実入りで、甘さ控えめ。冷めても美味しい」
「かなり個人的な感想じゃないか?」
「旅の記録ですから、いいんです」
モモはそう言ってから、少し考えて一行を付け加えた。
「あと、休憩所の木陰で食べるともっと美味しい、と」
「それは俺の感想」
「採用しました」
「勝手に」
口ではそう言いながら、ルシルは笑っている。
窓の外では、先ほどまでの草地に少しずつ畑が増えていた。
遠くに見える家屋の数も増えている。街道から分かれる細い農道がいくつか現れ、荷車を引いた農夫や、籠を背負って歩く人とすれ違うようになった。
ナハト村が近いのだろう。
昼を過ぎる頃には日差しも強くなり、馬車の屋根を照らす光が白さを増していた。ただ、窓から入ってくる風はまだ心地よく、車内が暑くなりすぎるほどではない。
ルシルは窓枠へ肘を置かないよう気をつけながら外を眺める。
畑の一角で、数人の子供たちが何かを拾っていた。
丸い籠を持ち、土の間を行ったり来たりしている。
「何してるんだろ」
ルシルが呟く。
モモも窓から覗いた。
「収穫でしょうか?」
「でも、大人がいないな」
ちょうどそのとき、一人の少年が立ち上がった。
十歳前後だろうか。手には細長い茶色のものを握っている。少年はこちらの馬車に気づくと、特に警戒する様子もなく、その物を高く掲げた。
「旅の人ー!」
突然呼ばれ、ルシルが目を丸くする。
「俺たち?」
「ほかに馬車はありませんよ」
御者台からシモンの声が返ってきた。
「これ、食べるー!?」
少年が手にしているものを振る。
ルシルは一瞬迷った。
街道から畑まではそれほど遠くない。しかし、子供に呼ばれたからといって馬車を道の真ん中で止めるわけにはいかない。
「どうする?」
「少し先に道幅が広くなっています。止めるのであれば、あちらで」
「じゃあ、寄っていい?」
「私に聞く必要はありませんよ。馬の状態にも余裕があります」
その言葉を聞いたモモが、すでに帳面を閉じている。
「行きましょう」
「早いな」
「何を持っているのか気になります」
「俺も」
「でしょう?」
シモンが小さく息を吐く。
ただし、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。
道幅が広くなったところで馬車を端へ寄せる。
完全に通行を塞がない位置を選び、トルクとベルクを止めた。三人が降りる頃には、先ほどの少年が畑の端まで走ってきていた。
後ろから、もう一人の少年と少女もついてくる。
「これ!」
最初の少年が差し出したものを見て、ルシルは首を傾げた。
長さは指二本分ほど。細長く、薄茶色の殻に覆われている。
「……豆?」
「そう!」
少年は嬉しそうに頷いた。
「煎ったやつ!」
「畑で煎ったものが採れるんですか?」
モモが真顔で尋ねた。
少年が一瞬固まる。
後ろの少女が吹き出した。
「違うよ! これは昨日煎ったの! 畑では生のを採るの!」
「あっ、そういうことですか」
モモは恥ずかしそうに頬を掻いた。
「モモ嬢、さすがに畑から調理済みの食べ物は生えません」
「分かっていますよ、シモン君。ちょっと聞き方を間違えただけです」
「本当ですか?」
「本当です」
子供たちが笑い出す。
モモも途中から一緒になって笑っていた。
ルシルは差し出された豆を一粒受け取り、殻をどうすればいいのか迷って少年を見る。
「割るんだよ。こう」
少年が自分の分を両手で持ち、殻を軽く捻った。
ぱき、と乾いた音がする。
中から現れたのは、小さな淡褐色の実だった。
ルシルも真似をする。
「おお」
「そこまで感動することですか?」
「初めてやったんだからいいだろ」
実を口へ入れると、香ばしい。
塩は使っていないらしく味そのものは淡いが、噛むほどに油分とわずかな甘みが出てくる。
「うまい」
「だろ!」
少年が、まるで自分で育てたものを褒められたかのように胸を張った。
「これ、何ていう豆?」
「土房豆!」
「つちふさまめ?」
モモが聞き返す。
今度は少女が説明してくれた。
「花が咲いたあと、土の中に実ができるの。だから土房豆」
「土の中?」
ルシルとモモの声が重なった。
シモンだけは驚かなかった。
「ご存じなのですか?」
モモが尋ねる。
「名前と特徴だけは。王――以前、農産物に関する資料で見たことがあります。実物を見るのは私も初めてですね」
「へえ……」
ルシルは畑を見る。
地上には低い葉が広がっているだけで、そこから先ほどの豆が採れるようには見えない。
「掘るの?」
「うん。今は落ちたの拾ってるだけ。ちゃんと掘るのは父ちゃんたちがやる」
少年が答える。
「勝手に掘ったら怒られるから」
「それはやめたほうがいいな」
「前に兄ちゃんがやって怒られた」
「経験者がいるんだ」
「俺じゃないぞ!」
必死に否定する少年の後ろで、少女ともう一人の少年が笑っている。
そのとき畑の奥から、大人の声が飛んできた。
「おーい! 旅の人の邪魔するんじゃないぞー!」
「邪魔してないー!」
少年が大声で返す。
遠くで鍬を持った男性が片手を上げている。
ルシルも反射的に手を上げた。
「豆もらいましたー!」
「だったらちゃんと礼を言えー!」
「俺があげたんだよ!」
「お前じゃなくて旅の人に言ってるんだ!」
一瞬の沈黙のあと、モモが肩を震わせた。
ルシルも耐えられなくなり、声を上げて笑う。
少年だけは納得できないらしく頬を膨らませていたが、やがて自分でもおかしくなったのか笑い始めた。
街道を通る別の荷車の御者が、何事かとこちらを見る。
しかし子供たちと旅人が笑っているだけだと分かると、そのまま通り過ぎていった。
「ナハト村って、もう近い?」
笑いが収まってからルシルが尋ねる。
「すぐだよ。この道まっすぐ!」
少女が答える。
「大きい木が見えたら、そこが村の入口」
「泊まれるところもあるんだよな?」
「あるよ。うちの叔母ちゃんとこも泊めてる」
少年が言ったあと、少し考えるように首を傾げる。
「でも昨日、荷馬車がいっぱい来たって言ってた」
シモンが反応した。
「まだ泊まっているか分かりますか?」
「分かんない。朝には出たのもいると思う」
「ありがとうございます。それだけ分かれば十分です」
シモンが丁寧に頭を下げると、少年は少し照れたように鼻の下を擦った。
モモは帳面を取り出しかけて、一度手を止める。
「土房豆、書いてもいいですか?」
「いいよ!」
「俺の名前も書く?」
「必要?」
「……別にいらない」
即座に返され、ルシルがまた笑った。
モモは豆の名前と特徴、それから「ナハト村手前の畑」とだけ記した。子供たちの名前は聞かなかったし、必要もない。
別れ際、少年が煎った土房豆を数粒ずつ三人へ分けてくれた。
「今度はちゃんと村で買ってね!」
「商売上手だな」
「父ちゃんが、ただでいっぱいやるなって言ってた!」
「なるほど」
シモンが妙に納得した顔をする。
「優秀ですね」
「そこ評価するところなの?」
「重要ですよ」
子供たちへ手を振り、三人は馬車へ戻った。
再び動き出した車内で、モモはもらった土房豆を一粒だけ大切そうに殻から出す。
「美味しいです」
「村で売ってたら買う?」
ルシルが尋ねる。
「少しだけ」
「そこは大量にじゃないんだな」
「旅を続けるんですから、何でもたくさん買うわけにはいきません」
以前ならシモンが言いそうな言葉をモモが口にしたため、御者台から沈黙が返ってきた。
「シモン君?」
「いえ。私の仕事が減っている気がしまして」
「いいことじゃないか」
「良いことのはずなのですが、少し複雑ですね」
ルシルとモモが顔を見合わせ、同時に笑った。
◇
それから半刻もしないうちに、子供たちが言っていた大きな木が見えてきた。
街道の左側に一本だけ立つ、枝を横へ大きく広げた木だった。その先には木柵が続き、さらに向こうへ二十数軒ほどの家が点在している。
ナハト村。
レグナのように明確な門があるわけではない。
街道沿いに木製の標識が立っており、そこへ村名と簡単な道案内が彫られていた。家々の周囲には畑が広がり、村の中央付近には少し大きな井戸と共同作業場らしい屋根付きの建物が見える。
「着いた」
ルシルが御者台から顔を出す。
「まだ昼を少し過ぎたくらいですね」
モモも空を見上げた。
シモンは馬車の速度を落としながら周囲を確認する。
街道沿いには数台の馬車が停まっていた。
そのうち二台は荷下ろし中で、残る一台は馬を外している。村人の往来もあるが、宿場町ほど騒がしくはない。
家の前で籠を編んでいた老人が、馬車を見て軽く手を上げた。
「泊まりかい?」
「まだ決めていません。馬を休ませられる場所はありますか?」
シモンが尋ねる。
「中央の井戸の向こうに共同の馬繋ぎがあるよ。水も使える。長く休むなら、端へ寄せとくれ」
「ありがとうございます」
馬車を進める。
共同井戸の周辺は、村の小さな広場になっていた。
荷物を積み替えている商人、桶を運ぶ女性、農具を抱えた若者。子供が二人、邪魔にならない場所で木片を転がして遊んでいる。
突然現れた旅人を珍しそうに見る者はいたが、街道沿いの村だけあって、それ以上の反応はない。
三人は馬車を端へ寄せ、まずトルクとベルクを休ませる。
水を飲ませている間、シモンは脚と蹄を確認した。
「問題ありません。疲れも強くないですね」
「じゃあ、まだ先へ行けそう?」
モモが尋ねる。
「行こうと思えば。ただ、今決める必要はありません。昼食を取って、村の宿泊状況と分岐手前の休み場について少し聞いてからでも遅くないでしょう」
「それがいいな」
ルシルは村の中を見回した。
大きな村ではない。
けれど、漂ってくる匂いが気になった。
「……何か焼いてない?」
モモも鼻を動かす。
「焼いてますね」
「土房豆でしょうか」
シモンの言葉に、二人の視線が同時に彼へ向いた。
「行ってみよう」
「行きましょう」
「馬の世話を終えてからです」
「分かってるって」
そう答えながら、ルシルはすでに匂いの方向を確認している。
少し離れた共同作業場の脇に、小さな露店があった。
鉄板のような平たい板の上で、何か薄い生地を焼いている。脇には殻付きの土房豆が籠いっぱいに積まれていた。
馬の世話を終えてから三人が近づくと、露店に立っていた中年の女性が笑顔を向けた。
「旅の人かい。昼飯ならちょうどいいよ」
「何を焼いてるんですか?」
「土房豆の粉を混ぜた薄焼きさ。中に刻んだ野菜と塩漬け肉を挟む。腹いっぱい食べたいなら二枚、軽くなら一枚で十分」
ルシルが鉄板を見る。
薄い生地には細かな茶色の粒が混ざっており、焼かれるにつれて香ばしい匂いが強くなっていた。
「三人とも一枚ずつ?」
モモが尋ねる。
「そのあと足りなかったら追加でいいんじゃないか?」
「賛成です」
シモンも頷く。
三人分を注文すると、女性は慣れた手つきで生地を裏返した。焼けた面には薄い焦げ目が付き、そこへ細切りの塩漬け肉と、軽く火を通した青菜を載せていく。
「この先へ行くのかい?」
女性が作業しながら尋ねた。
「はい。西南の新しい街道へ」
シモンが答える。
「ああ、新道ね。それなら分かれ道の手前で一晩休む人も多いよ。今日はどうするんだい?」
「まだ決めていません。馬と時間を見てからにしようかと」
「それがいいさ。あそこの休み場は便利だけど、屋根のある小屋は一つしかないからね。晴れてりゃ外でも困らないけど」
昨夜レグナで聞いた情報と一致する。
「今日は混みそうですか?」
「どうだろうねえ」
女性は生地を折りながら首を傾げた。
「朝、新道へ向かった荷馬車を三台見たよ。でも全部があそこで泊まるとは限らない。今の時期なら日が落ちるまで走る人もいるから」
「なるほど」
シモンはそれ以上、無理に情報を引き出そうとはしなかった。
出来上がった薄焼きを受け取る。
生地は温かく、表面が少しだけぱりっとしている。齧ると土房豆の香ばしさが先に来て、そのあとから塩漬け肉の旨味と青菜のほろ苦さが重なった。
「うまっ」
ルシルが思わず声を上げる。
「朝、豆をもらってなかったら、土房豆って分からなかったかもしれませんね」
モモは断面を見ながらもう一口食べる。
「粉にもできるんだな」
「潰して混ぜるだけだからね。ここじゃ珍しくないよ」
女性はそう言って、次の客のための生地を鉄板へ流した。
少し後ろで待っていた村人の男性が、三人を見ながら笑う。
「初めて食う顔してるな」
「初めてです」
ルシルが素直に答える。
「じゃあ、煎ったのも食ったほうがいいぞ」
「それはさっき、村の手前で子供にもらいました」
「どこの子だ?」
「名前は聞いてないんですけど、畑に三人いて……」
細長い豆を振っていた少年の特徴を軽く話すと、男性が「ああ」と納得した。
「たぶんギルんとこの坊主だな。また旅人に配ってたのか」
露店の女性が呆れたように笑った。
「父親に、ただで配りすぎるなって怒られてるのにねえ」
「本人も言ってました」
「懲りてないね」
周囲に小さな笑いが広がる。
ルシルたちは少年本人から名前を聞いてはいなかったので、モモも帳面へ書き加えようとはしなかった。村人同士の会話で耳にした呼び名を、勝手に旅の記録へ残す必要はない。
三人は広場の端にある長椅子へ移動し、薄焼きを食べ終えた。
一枚でも意外に腹持ちがよく、追加は必要なさそうだった。
「赤玉菜は夜に回せそうですね」
モモが言う。
「残ってる一個か」
「山芋根もあと一回分程度ですから、野営するならどちらかを使えます」
「なら、休み場まで行っても食事には困らないな」
ルシルは水を一口飲んだあと、広場を見る。
昼下がりの村は穏やかだった。
荷物を積み終えた商人の馬車がゆっくり出発し、井戸では女性たちが順番に桶を満たしている。先ほど遊んでいた子供たちは、今度は地面へ枝で何かを描いていた。
ここで泊まってもいい。
もう少し進んでもいい。
以前なら、どちらが正しいのか考えたかもしれない。
けれど今は、どちらも間違いではないと分かる。
(トルクとベルクも元気だし、まだ明るい。だったら今日は、もう少し進んでもいいかな)
ルシルは自分の考えをすぐ決定にせず、二人を見る。
「俺は、分岐手前の休み場まで行ってみてもいいと思う。二頭とも元気そうだし、まだ時間もある。でも、混んでたら無理に小屋を使わなくても外で野営できるし」
「私も賛成です」
モモは迷わなかった。
「ここもいい村ですけど、今日はまだ進めそうです。それに、明日の朝から新道へ入れるなら、ゆっくり景色を見られますし」
二人の視線がシモンへ向く。
シモンはすぐには答えず、空と馬、それから街道の先を順番に見た。
「日没までには十分着けるはずです。天候も問題ありませんし、二頭の状態も良好です。ただし、途中でベルクかトルクに疲れが見えたら、その時点で予定を変更します」
「もちろん」
「異議ありません」
「では、そうしましょう」
三人の予定が決まった。
大げさな相談ではない。
今日どこで眠るかを、今の空と馬と自分たちの気分で決めただけだった。
◇
出発前、三人は村の小さな売り場で煎った土房豆を一袋だけ購入した。
モモが「少しだけ」と言った通り、本当に小さな袋だった。
「もっと買わなくていいの?」
ルシルが尋ねる。
「次の土地には次の土地の食べ物がありますから」
モモは袋を大切そうに収納しながら答える。
その言葉にシモンが一度だけ彼女を見る。
「何ですか?」
「いえ。本当に私の仕事が減りそうだと思いまして」
「シモン君が止めなくても、私はちゃんと考えて買えます」
「では次に菓子屋を見つけた際も期待しています」
「それとこれとは別問題です」
「別なんだ」
ルシルが笑った。
近くで商品を並べていた露店の女性まで笑っている。
「兄さん、大変だねえ」
女性がシモンへ言った。
「お察しいただけますか」
「シモン君まで!」
モモが頬を膨らませる。
ルシルは笑いながら馬車へ乗り込んだ。
シモンも口元を緩めたまま御者台へ上がる。
村人から見れば、少し賑やかな三人組の旅人だった。
その印象だけを残して、焦茶色の馬車はナハト村の中央広場を離れていく。
大きな木の横を通り過ぎ、家々が少しずつ背後へ遠ざかった。
◇
ナハト村から先も、しばらくは同じミルファ街道が続いた。
ただ、畑は徐々に少なくなり、代わって背の低い草原が増えていく。
道そのものは広い。
午後の日差しは強かったが、風があるため不快な暑さではない。午前中に比べて雲が少し増え、その影が地面の上をゆっくり流れていた。
御者は引き続きシモン。
ルシルとモモは車内で、買ったばかりの土房豆の袋を棚へしまいながら話していた。
「土の中にできる豆か」
「面白かったですね」
「知らない食べ物、まだまだあるんだろうな」
「海の近くなら、今度は海の食べ物もありますよ」
「魚?」
「魚もですけど、貝とか」
「貝」
ルシルの声が少し変わった。
モモも気づく。
「春雫のお店の人に持って帰る約束、覚えてます?」
「もちろん」
ルシルは頷いた。
旅の途中で立ち寄った店で交わした、小さな約束。
いつ海へ着くかも分からないし、そのあと同じ道を戻るかさえ決まっていない。それでも、海へ行ったら貝殻を探してみようという話は、今も忘れていなかった。
「綺麗なのが見つかるといいな」
「一個じゃなくてもいいんじゃないですか?」
「何個か拾って、その中から選ぶ?」
「それも楽しそうです」
御者台からシモンの声がする。
「持ち帰る量は常識的な範囲にしてください」
「貝殻まで管理するの?」
「お二人の場合、海岸で気に入ったものを全部拾いかねませんから」
「そんなことしないって」
「私は少しくらいならするかもしれません」
「モモ」
「冗談です」
声が笑っているので、本当にどこまで冗談なのか分からない。
シモンは追及しなかった。
馬車はさらに進む。
しばらくすると、前方の地形が少し変わった。
草地の中に低い盛り上がりが増え始め、ところどころに灰色の岩が地面から顔を出している。
「岩が増えてきた」
ルシルが窓から見る。
「新道に入る前から少し地形が変わるようですね」
シモンが答える。
「赤い土はまだですか?」
「馬車組合の話では、新道へ入ってさらに先だったはずです」
モモは窓の外を眺めながら頷いた。
すぐに帳面を開くことはしない。
まだ、ただ岩が増えただけだ。
けれど明日になれば、今まで見たことのない景色へ続いていくかもしれない。
その期待は、書かなくても胸の中に残っていた。
◇
日が西へ傾き始めるより少し前。
街道の先に、低い屋根が見えた。
「あれかな?」
ルシルが御者台へ出る。
シモンも前方を確認した。
「位置としては合っていますね」
近づくにつれ、休み場の全体が見えてくる。
街道から少し外れた平坦な土地に、三方を板壁で囲った屋根付きの小屋が一つ。その横には馬を繋ぐための長い横木と、石で囲われた水場がある。
さらに少し離れた場所には、野営に使えそうな草地が広がっていた。
「馬車が二台」
モモが数える。
小屋の前に一台。
草地の端にもう一台。
どちらも荷馬車らしく、旅人たちがすでに休憩や野営の準備を始めている。
「思ったより空いてるな」
「屋根の下を使えるかは別ですが、野営場所には困らなそうです」
シモンが馬車をゆっくり休み場へ入れる。
先にいた商人らしい男性が顔を上げた。
「泊まりか?」
「その予定です」
「水は使えるよ。小屋は俺たちが半分使ってるが、荷物を寄せればまだ入れる」
「ありがとうございます。ただ、天気も良さそうですので、外で問題ありません」
「そうか。なら好きなところへ」
それだけの会話で場所が決まった。
三人は他の馬車から少し距離を取り、ベルクが落ち着ける場所を選ぶ。
馬車を止め、二頭を外し、水を飲ませる。
ベルクは先客の馬を一度だけ見たが、距離があるため特に警戒しない。トルクはそれよりも水桶のほうが重要らしく、すぐに鼻先を突っ込んでいる。
「今日も問題なし」
ルシルがトルクの首筋を撫でる。
シモンもベルクの脚を確認し、頷いた。
「ええ。十分余裕があります」
「じゃあ、ここで決まりですね」
モモが両腕を軽く伸ばした。
午後の風が桃金色の髪を揺らす。
ナハト村を出てから、それほど長時間走ったわけではない。それでも一日の終わりに馬車を止めると、体の奥に残っていた揺れがようやく消えていくような感覚があった。
ルシルは休み場の向こうを見る。
街道は、もう少し先で緩やかに曲がっている。
その先に、明日通る分かれ道があるはずだ。
古い南寄りの道。
新しい西南の道。
三人が選んだのは後者。
「明日から新道か」
「はい」
モモが隣へ立つ。
「赤い地面、本当にあるんでしょうか」
「馬車組合の人が嘘をつく理由はないだろ」
「そうですけど、どのくらい赤いのか気になりません?」
「それは分かる」
「夕焼けみたいに真っ赤だったりして」
「そこまでではないと思いますよ」
シモンが後ろから現実的な言葉を差し込む。
二人が同時に振り返る。
「想像くらいさせてよ」
「想像するのは自由ですが、明日実際に見て『思ったより赤くない』と落ち込まないでください」
「落ち込まないって」
「私はちょっと落ち込むかもしれません」
「モモ嬢」
「冗談ですって」
夕食の準備を始める。
今夜は残っている山芋根を使うことにした。
あと一度料理に使える程度なので、ここで使い切ってしまう。薄く切った山芋根を焼き、塩と少量の山椒実で味を付ける。レグナで補充した硬めのパンと保存肉も添えれば、十分な夕食になる。
「赤玉菜は?」
ルシルが尋ねる。
「明日以降にしましょう。丸ごとならまだ持ちますし」
シモンが答える。
「新しい道で食べる赤玉菜」
「場所で味が変わるんでしたっけ?」
「今日それ言ったの俺だけど、使い方が違う気がする」
鍋ではなく平たい焼き板を使い、山芋根を並べる。
火に当たった表面が少しずつ色づき、香ばしい匂いが漂い始めた。
先客の商人がこちらをちらりと見る。
「いい匂いだな」
「山芋根です。よかったら――」
モモが言いかけたところで、シモンが視線を向ける。
「少量しか残っていませんよ」
「あ」
モモが焼き板を見る。
三人分でちょうどいい程度しかない。
商人が笑った。
「いいっていいって。こっちも飯はある。匂いだけもらっとくよ」
「すみません」
「旅の飯なんて、自分の分をちゃんと食うのが一番だ」
そう言って、男性は自分たちの荷馬車へ戻っていく。
モモは少しだけ申し訳なさそうにその背中を見送ったが、すぐに山芋根へ視線を戻した。
「次から、分けられる量があるか確認してから言います」
「それがいいですね」
「でもモモらしいけどな」
「どういう意味です?」
「そのままの意味」
焼き上がった山芋根を三人で分ける。
外側には軽い焼き目が付き、中にはほくりとした食感が残っている。山椒実の刺激は強すぎず、保存肉と一緒に食べるとちょうどいい。
「これで山芋根は終わりか」
ルシルが最後の一切れを見ながら言う。
「またどこかで見つけるかもしれませんよ」
「見つからなかったら?」
「別のものを食べます」
モモの答えは簡単だった。
ルシルは一瞬だけ彼女を見たあと、笑って最後の一切れを口へ入れる。
「それでいいか」
「それでいいんです」
食事を終える頃には、空の色がゆっくり変わり始めていた。
西側は淡い橙色。
反対側には青がまだ残り、その境目が少しずつ薄紫へ変わっていく。
先客たちも火の始末や馬の確認をしている。
誰かが大声で騒ぐこともなく、時折馬が鼻を鳴らす音と、小さな話し声だけが休み場に流れていた。
モモは帳面を開いた。
「今日は……レグナ出発、木の実の焼き菓子、土房豆、ナハト村、薄焼き、それからここですね」
「結構あるな」
「全部細かく書くわけじゃないですよ」
「写真のことは?」
ルシルが何気なく尋ねる。
モモの筆先が止まる。
シモンも火のそばで顔を上げた。
「今日は何もありませんでしたよね?」
「うん。夢のことも、文字のことも、拡大って言葉も、それ以上は何も」
ルシルは自分の頭の中を探るようなことはしなかった。
あの黒い物。
カシャという音。
カメ、までしか出てこない名前。
夢の中では読めていた気がするのに、目覚めれば何一つ残っていなかった文字。
どれも消えたわけではない。
けれど、今ここで無理に続きを探す必要もない。
「じゃあ、今日は書かなくていいな」
「はい」
モモは迷わず頷いた。
帳面へ書かれたのは、土房豆のことだった。
土の中に実ができること。
煎って食べられること。
粉にして薄焼きへ混ぜても美味しかったこと。
その下に、ナハト村と休み場の位置を簡単に記す。
写真という文字は、今日のページには一度も書かれなかった。
シモンはそれを見て何も言わない。
ただ、少しだけ肩の力を抜いた。
分からないことを毎日考え続ければ、旅そのものが謎を解くための移動になってしまう。
彼らがしているのは、そのための旅ではない。
◇
夜。
警戒用の魔法を調整し終えたシモンが戻ってくる頃には、空に星が増えていた。
昨夜のような流星は見えない。
それでも雲が少ないため、十分に綺麗だった。
三人はすぐに眠ることもせず、馬車の横へ椅子を並べて座っていた。
「明日、分かれ道に着いたら、右とか左とか間違えないよな?」
ルシルが尋ねる。
「標識があるそうです」
「なかったら?」
「地図を確認します」
「地図でも分からなかったら?」
「通行人がいれば聞きます」
「誰もいなかったら?」
シモンがルシルを見る。
「ルシル様は何を心配しているのです?」
「いや。どこまで対策があるのかなって」
「最終的には一度止まり、位置を確認します。分からないまま進むことだけはしません」
「なるほど」
ルシルは満足したように頷いた。
モモが横から口を挟む。
「でも、ちょっと間違えるくらいなら面白そうですけどね」
「モモ嬢」
「危ない道へ行くとかじゃなくてですよ。少しだけ違うところへ出ちゃって、戻るくらいなら」
「それを迷子と言います」
「旅の寄り道です」
「言い換えても迷子です」
ルシルが吹き出した。
「俺はモモのほうが好きだな。旅の寄り道」
「ですよね」
「お二人が同時にそちら側へ行くと、私が非常に困るのですが」
「でもシモンがいるから戻れる」
「それを前提に迷わないでください」
静かな休み場に、三人の笑い声が広がった。
少し離れた荷馬車のそばで毛布を広げていた商人が、呆れたようにこちらを見る。
けれど怒ってはいない。
むしろ、若い旅人たちの会話を聞いて口元を緩めていた。
「元気だなあ」
仲間の男が小さく言う。
「明日も走るんだろ。あれくらいがいいさ」
二人はそれ以上気にせず、自分たちの寝床へ戻っていった。
三人も、しばらくして椅子を片付ける。
ルシルは最後に街道の先を見た。
暗闇の中では、明日進む道も、まだ見たことのない赤い大地も見えない。
それでも、その先に何かがあることだけは分かっている。
(明日は、どんな景色なんだろうな)
答えを想像しながらも、決めつけることはしなかった。
実際に見ればいい。
知らないなら、行って確かめればいい。
そして気に入ったなら、モモの帳面に残せばいい。
ルシルは馬車へ入る前に、もう一度だけ星空を見上げた。
「おやすみ、トルク。ベルク」
二頭がこちらを見る。
トルクが鼻を鳴らし、ベルクは耳だけを少し動かした。
「ルシル様、冷えてきますよ」
「今行く」
シモンに呼ばれ、ルシルは馬車へ戻った。
その夜、黒い四角い物の夢は見なかった。
未知の文字も現れなかった。
カシャという音も聞こえない。
ただ朝まで穏やかに眠り、目を覚ましたときに覚えていたのは、夢ではなく、昨夜眠る前に考えていたことだった。
――今日は、新しい道へ入る。
外へ出ると、東の空が薄く明るみ始めている。
草には朝露が付き、冷たい空気の中でトルクとベルクが静かに立っていた。
ルシルは大きく伸びをしてから、まだ完全には昇っていない朝日を眺める。
街道の先。
ナハト村よりさらに西南。
そこにある分かれ道を越えれば、三人にとって初めての道が始まる。
赤い土がどれほど赤いのか。
風に削られた岩がどんな形をしているのか。
その先にどんな町があり、どんな料理があり、どんな人たちが暮らしているのか。
今は、まだ何も知らない。
だからこそ、ルシルは自然と笑っていた。




