第62話 新しい街道は、思ったより赤かった
朝の休み場には、昨夜とは違う静けさがあった。
屋根付きの小屋を使っていた商人たちはまだ荷物をまとめており、草地の端に停められていたもう一台の荷馬車では、御者らしい男性が馬の背を布で拭いている。東から差し始めた朝日は低く、露を含んだ草の先だけを先に明るく照らしていた。
ルシルたちも、朝食を済ませて出発の準備を進めていた。
レグナで補充した硬めのパンに保存肉を挟み、湯を沸かして簡単な朝食にした。昨夜で山芋根を使い切ったため、収納に残る野菜類は少し寂しくなったものの、日持ちする豆や赤玉菜が一個、ほかの保存食も十分にある。
「今日か明日、どこかで野菜を補充できるといいですね」
モモがパンを食べ終えながら言った。
「次の町まで何もないわけじゃないだろ?」
「新道は休み場と井戸が整っているとは聞きましたが、集落については詳しく聞いていませんね」
シモンが湯を飲みながら答える。
「必要なら途中で確認しましょう。今の備蓄なら、すぐ困ることはありません」
「じゃあ問題なし」
ルシルは最後の一口を食べ、立ち上がった。
トルクとベルクの様子も良好だった。
昨夜はほかの馬との距離を取って繋いでいたこともあり、ベルクは落ち着いている。トルクは朝食後にもかかわらず、近くの草へ視線を向けていた。
「食べたよな?」
ルシルが問いかけると、トルクが耳を動かす。
「その顔は食べてないって言いたそうだな」
「食べました」
シモンが即答した。
「私も見てました」
モモまで加わる。
「二対一だぞ、トルク」
もちろんトルクは反論しない。
ただ、鼻先をルシルの肩へ近づけた。
「追加はなし」
「ルシル様が最初に話しかけるからですよ」
「いや、何か言いたそうだったから」
「馬の無言の訴えを都合よく解釈しないでください」
そう言いながら、シモンはベルクの蹄を最後に確認して立ち上がる。
「二頭とも問題ありません。出発できます」
テントや椅子も収納し、火の跡が残っていないことを確認する。
休み場を使った痕跡は、車輪と足跡以外ほとんど残っていない。
出発準備が整った頃、小屋のほうにいた商人の一人が声をかけてきた。
「西南へ行くのか?」
「はい。新道へ入る予定です」
シモンが答える。
商人は四十代半ばほどの男性で、昨夜ルシルたちの夕食の匂いに声をかけてきた人物だった。
「それなら分かれ道はすぐだ。ここから半刻もかからん。標識もでかいから見落とさないよ」
「ありがとうございます」
「古いほうへ行く荷車もいるから、前の馬車について行くだけはやめたほうがいいぞ」
ルシルが頷く。
「ちゃんと標識を見ます」
「それがいい。俺たちは古道だから、途中まで一緒だな」
男性はそれだけ言うと、自分たちの馬車へ戻っていった。
詳しい事情を聞くことも、目的地を尋ねることもない。
道を使う者同士、必要なことだけ伝える。
そういう距離感にも、三人はすっかり慣れていた。
今日最初の御者はルシルが担当することになった。
「じゃあ行くか」
手綱を持つ。
トルクとベルクが歩き始め、焦茶色の馬車がゆっくりと休み場を離れた。
モモが窓から振り返り、小さく手を振る。
昨夜同じ場所で眠った商人たちも、それぞれ手を上げて応えた。
朝日が少しずつ高くなる。
三人の一日は、静かな街道から始まった。
◇
分かれ道は、商人の言った通り近かった。
最初に見えたのは、道の左右へ立てられた二本の標柱だった。
そのさらに先で街道が緩やかに二つへ分かれている。
左寄りに延びる道は、これまで走ってきたミルファ街道と似た土色をしていた。少し先から木々が増えており、その奥へ道が吸い込まれていく。
右寄りの道は幅が広い。
まだこの辺りでは地面の色に大きな違いはないが、木々は少なく、遠くまで空が開けていた。
分岐中央に、大きな木製標識が立っている。
「止める?」
ルシルが尋ねる。
「速度を落とせば読めます」
隣に座ったシモンが答えた。
馬車をゆっくり進める。
標識には複数の行き先が彫られていた。
南寄りの古道。
西南へ延びる新道。
さらに、それぞれの道を進んだ先にあるらしい村や休み場までの大まかな方向が記されている。
「新道、こっちで合ってるな」
「はい」
「では右へ」
モモが後ろから言う。
ルシルは手綱をわずかに操作し、二頭を右寄りの道へ導いた。
ちょうどそのとき、後方から昨夜の商人たちの馬車がやってきた。
向こうは左。
こちらは右。
御者の男性が片手を上げる。
「じゃあな!」
「お気をつけて!」
ルシルも手を上げて返す。
二台の馬車は分岐で離れた。
商人たちの荷馬車は木々の増える古道へ。
三人の馬車は、広い空の下へ延びる新道へ。
ほんの数十歩進んだところで、モモが窓から後ろを見る。
古道を進む馬車はすでに木々に隠れ始めていた。
「本当に別れちゃいましたね」
「道が違うからな」
「昨日まで同じ休み場にいたのに、今日から全然違うところを見るんですね」
その声には寂しさより、純粋な面白さが混じっていた。
シモンが前を見たまま言う。
「向こうには向こうの旅があります」
「ですね」
モモは窓から顔を戻した。
帳面は開かなかった。
ただ、分岐の形を目で覚えるように一度振り返り、それから前方の景色へ視線を移した。
◇
新道は、聞いていた通り走りやすかった。
馬車二台が余裕を持ってすれ違える幅があり、路面もよく締まっている。車輪が深く沈む場所もなく、今のところ大きな轍も見当たらない。
両側には低い草原が広がっていた。
ところどころに小さな灌木があり、その向こうへ緩やかな丘が重なっている。
空が広い。
「これは気持ちいいな」
ルシルが言う。
「前がよく見えるのは助かりますね」
シモンも周囲を確認する。
遠くに一台の馬車が見えるが、かなり距離がある。
対向車も今のところいない。
風は横からではなく、やや前方から穏やかに吹いていた。昨日経験した強い横風とは比べものにならない。
トルクとベルクの歩調も安定している。
しばらくすると、地面に小さな石が増え始めた。
灰色。
薄茶色。
ところどころ黒っぽいものも混じっている。
道の脇には、腰ほどの高さしかない岩がいくつか顔を出していた。
「低い岩丘って、この辺からかな」
「まだ丘というほどではありませんが、地形は変わってきましたね」
シモンが答える。
ルシルは前方から視線を外さないまま、道の端にある岩を見る。
角が丸い。
割れたばかりの鋭さではなく、長い時間をかけて削られたような形をしていた。
「風で削れるって言ってたよな」
「風食岩については、もう少し先だと思います」
「どんな形なんだろ」
「見れば分かりますよ」
「シモン、最近それ言うようになったな」
「何がです?」
「見れば分かるって」
シモンは一瞬黙った。
「……以前から言っていたと思いますが」
「そうだっけ?」
「少なくとも、何でも事前に説明する必要はないとは思うようになりました」
ルシルは横を見る。
シモンは前を向いたままだ。
「それ、結構変わったんじゃない?」
「そうでしょうか」
「前なら、風食岩が何でできてて、どう削れて、どこに多いかまで説明してた気がする」
「資料に確かな記述があれば説明します。しかし私はこの地方の地質専門家ではありません」
「昔なら、それでも知ってる範囲全部言ってた」
「ルシル様」
「はい」
「前を見てください」
「見てるって」
馬車の中でモモが笑っている。
シモンは聞こえないふりをした。
◇
一刻ほど進んだ頃、三人は新道で最初の休み場を見つけた。
大きな施設ではない。
街道脇に石造りの水槽と馬繋ぎがあり、その奥に低い屋根の休憩小屋が建っている。壁は二面だけで、風を完全に防ぐ造りではない。
先客はいなかった。
「休むか」
ルシルが馬車を寄せる。
「ちょうどいい頃ですね」
シモンも賛成した。
馬車を止め、トルクとベルクを休ませる。
水場を確認すると、水は澄んでいた。水槽の横には小さな木札があり、数日前の日付とともに点検済みであることが記されている。
「新道って感じがする」
ルシルが木札を見る。
「何がです?」
「いや、こういうの。ちゃんと整備されてるって聞いてたから」
「確かに、利用者が多いのでしょうね」
シモンは水の匂いや状態も確認してから、二頭へ飲ませた。
モモは休憩小屋へ入り、長椅子へ座る。
「朝から結構進みましたね」
「道がいいからな」
ルシルも隣へ座った。
シモンは最後まで馬を確認してから二人のところへ来る。
「ここでは長く休む必要はないでしょう。二頭とも問題ありません」
「じゃあ、おやつ?」
モモが言う。
「朝食からそれほど経っていません」
「土房豆」
「昨日買ったやつか」
「少しだけです」
モモは小袋を取り出した。
本当に少量しか買っていないため、ここで全部食べるつもりはないらしい。
三人で数粒ずつ分ける。
殻を割る乾いた音が、小さな休憩小屋に響いた。
「昨日の子供にもらったのと同じ味だ」
ルシルが言う。
「同じ村で買ったんですから、近いでしょうね」
「でも、こっちのほうが少し塩気がある気がします」
モモが首を傾げる。
「店によって煎り方が違うのかもな」
「帳面に書きます?」
「そこまで書いたら食べ物の帳面にならない?」
「もう結構な割合で食べ物ですよ」
モモは笑いながら帳面を取り出したが、結局、味の違いまでは書かなかった。
代わりに、新道へ入ったことと、最初の休み場に点検日の書かれた水場があったことを短く記す。
「赤い土はまだですね」
最後にそれだけ書いて、帳面を閉じた。
「モモ、楽しみにしすぎじゃない?」
「ルシル様もでしょう」
「俺は普通」
「朝から何回、地面を見てました?」
「……三回くらい?」
「もっとです」
シモンが即答した。
「数えてたの?」
「目に入っただけです」
モモが笑う。
休憩を終え、再び馬車へ戻る。
今度はモモが御者を担当することになった。
「道が広いから私でも大丈夫ですね」
「今ではこの程度の道なら十分でしょう。ただし、地形が変わったら交代してください」
「はい」
モモは素直に頷いた。
白い外套の裾を整え、御者台へ座る。
ルシルは馬車の中へ入り、シモンはしばらくモモの隣に座ることにした。
トルクとベルクが歩き出す。
午後へ向け、新道の景色はさらに変わっていった。
◇
最初に気づいたのはモモだった。
「あれ?」
御者台から声がする。
馬車の中で地図を見ていたルシルが顔を上げた。
「どうした?」
「地面、少し色が変わってません?」
窓から外を見る。
最初は分からなかった。
道そのものは相変わらず土色だ。
しかし街道の外側。
草が途切れ、地面が露出している場所を見ると、確かに先ほどまでとは違う。
茶色の中に、赤みが混じっている。
「本当だ」
ルシルが御者台へ出る。
「ルシル様、乗り出しすぎないでください」
「分かってる」
モモは速度を変えずに進む。
さらに半刻ほど。
赤みは少しずつ強くなった。
最初は茶色に赤を混ぜた程度だった地面が、場所によっては明らかな赤褐色へ変わっている。
草の色まで違って見えた。
緑そのものは同じはずなのに、赤い地面の上に生えているだけで、いつもより鮮やかに感じる。
「おお……」
ルシルが声を漏らす。
「赤いです!」
モモも嬉しそうだ。
「確かに赤いですね」
シモンまで素直に認めた。
「思ったより赤い」
「私もです」
「昨日、夕焼けみたいに真っ赤かもって言ってなかった?」
「そこまでではありませんけど、十分赤いですよ」
「シモンは?」
「赤褐色の地面を想像していたので、おおむね予想通りです」
「なんかずるい」
「何がですか」
「一人だけ正解したみたいな顔してる」
「正解も何もないでしょう」
モモがくすくす笑う。
街道そのものにも、赤い土が混じり始めていた。
車輪が通る中央部分は固く締まっているため色が少し薄いが、端へ行くほど赤みが強い。
乾燥しているので泥になる心配はなさそうだった。
「鉄分が多いって聞いたな」
ルシルが言う。
「馬車組合では、そのように説明されました。ただ、それ以上は聞いていません」
「触ってみたい」
「休める場所で止まってからにしてください」
「分かってる」
今度は本当にすぐ諦める。
モモが横目でルシルを見る。
少し前なら、止まれる場所を探そうと言い出していたかもしれない。
今のルシルは景色を楽しんでいるが、御者の邪魔になることも、馬車を理由なく止めることもしない。
その変化をわざわざ口にする必要はないと思い、モモは手綱へ意識を戻した。
新道は緩やかに上っていく。
草地の中に、赤い地面の露出した場所が増える。
さらに先には低い岩丘。
灰色だけではない。
茶色。
赤茶。
表面だけ黒ずんだもの。
さまざまな岩が点在している。
そして、その中に一つだけ妙な形の岩が見えた。
「……あれ、何ですか?」
モモが速度を少し落とす。
街道から少し離れた場所。
人の背丈の三倍ほどありそうな岩が立っている。
下のほうが細く、上が横へ張り出していた。
遠目には、大きな傘を地面へ突き刺したようにも見える。
「すごい形」
ルシルが窓から見る。
「風食岩の一つかもしれませんね」
シモンも目を細めた。
「下だけ削れたの?」
「可能性はあります。ただ、ここから見ただけでは分かりません」
「近くに行ける?」
「道から外れる必要があります」
シモンが答える。
ルシルは岩と街道を見比べる。
草地は一見平らだが、馬車で入っていい場所かどうか分からない。
道を外れてまで近づく理由もない。
「じゃあ、このまま見るだけでいいや」
「えっ」
モモが思わず声を出した。
「何だよ」
「いえ。ルシル様なら『歩いて見に行こう』って言うかと思いました」
「俺も一瞬思ったけど、馬車を置いていくほどじゃないだろ。それに、この先もっと変なのあるかもしれないし」
「……なるほど」
「何その反応」
「成長したなあと」
「今日はそれ言われる日なの?」
シモンが小さく笑った。
傘のような岩は、馬車が進むにつれて後方へ流れていく。
ルシルはしばらく見ていたが、完全に見えなくなる前に前へ向き直った。
その先にも、低い岩丘が続いている。
まだ見たことのない景色は、一つだけではなかった。
◇
昼を少し過ぎた頃、街道脇に広い休憩地が現れた。
午前中の小さな休み場より明らかに大きい。
井戸。
馬繋ぎ。
屋根付きの休憩小屋。
馬車を数台停められる平坦な空間。
そして、街道から少し離れたところには、赤い地面が広く露出している。
「ここにしよう」
ルシルが言った。
「昼食ですね」
「あと地面」
「やっぱり触るんですね」
「触るだろ」
モモが笑いながら馬車を休憩地へ入れた。
先客は一台だけだった。
布を張った小型馬車で、馬は一頭。近くでは、日に焼けた肌の男性が一人、鍋から何かを器へ移している。
モモは十分に距離を取り、馬車を停めた。
「お疲れさま、トルク君、ベルク君」
御者台から降りる。
シモンが二頭を確認している間、ルシルは赤い地面の前まで歩いていった。
しゃがむ。
「本当に赤い」
「さっきから見えていたでしょう」
後ろからシモンの声がする。
「近くで見ると違うんだよ」
ルシルは指先で土を少しだけ摘まんだ。
さらさらしている。
完全な砂ではなく、細かな土に小さな粒が混じっている。乾いているため指へべったり付くことはないが、擦ると皮膚の溝に赤茶色が残った。
「手、赤くなった」
「だからといって服へ付けないでくださいよ」
「分かってる」
モモも近づき、同じようにしゃがむ。
「私も触っていいですか?」
「地面に許可取らなくていいだろ」
「ルシル様に聞いたんじゃありません」
「じゃあ誰に?」
「何となくです」
モモも少量を指先へ取る。
「本当ですね。細かい」
「持って帰る?」
「土をですか?」
「帳面に挟むのは無理だろうけど、小さい袋に入れれば」
モモは少し考えた。
しかし首を横へ振る。
「やめておきます」
「珍しい」
「全部持って帰ってたら大変ですから。それに、赤かったって書けばいいです」
「そっか」
モモは帳面を取り出す。
赤い土そのものを残すのではなく、今日見た色を自分の言葉で書く。
茶色より明らかに赤い。
乾いて細かい。
草の緑がいつもより鮮やかに見えた。
遠くに傘のような形の岩があった。
「風食岩、で確定して書くの?」
ルシルが覗き込む。
「『風食岩らしきもの』にします。シモン君も断定してませんでしたから」
「いいと思います」
シモンが頷いた。
そこへ、先客の男性が器を持ったまま近づいてきた。
「初めてか?」
「この辺りがですか?」
モモが尋ねる。
「赤土だよ」
「はい。初めてです」
男性は納得したように笑った。
「だと思った。初めて来る奴は大体触る」
ルシルが自分の指を見る。
「みんなやるんですか?」
「俺もやった」
「やっぱり触りますよね」
「触る触る。で、服に付けて後悔する」
男性は自分の上着の裾を見せた。
薄茶色の布に、落ちにくそうな赤い染みが残っている。
「三年前だ。洗っても少し残った」
ルシルは反射的に自分の手を外套から遠ざけた。
「危なかった……」
「だから言ったでしょう」
シモンが呆れた声を出す。
男性が笑う。
「眼鏡の兄ちゃんは触らないのか?」
「私は二人を見て満足しました」
「賢いな」
「こういうときだけは」
「ルシル様?」
「何でもない」
男性はどうやら新道を何度も使っているらしい。
ただ、シモンは必要以上に道の先を尋ねなかった。
現在の道路状況だけ確認する。
「この先、通りにくい場所はありますか?」
「今日はないと思うぞ。俺は朝、向こうから来た。昨夜も雨は降ってない。次の大きな休み場まで乾いてる」
「ありがとうございます」
「ただ、午後は風が少し出るかもしれん。この辺は開けてるからな」
「強い横風ですか?」
「そこまでじゃないと思う。昨日も昼過ぎから吹いたけど、荷馬車が困るほどじゃなかった」
昨日、横風の強い道を経験している三人にとっては、参考になる情報だった。
「無理なら速度を落とします」
「それがいい」
男性はそれだけ伝えると、自分の昼食へ戻っていった。
旅人同士の会話は短い。
それでも、今必要な情報は十分だった。
◇
昼食は硬めのパンと保存肉、それからレグナで補充した豆を少し煮たものにした。
赤玉菜はまだ使わない。
今夜の野営場所や、その先の食料事情が分からない以上、日持ちする野菜を急いで消費する必要はなかった。
「赤玉菜、長生きですね」
モモが豆を食べながら言う。
「二個買ったときはすぐなくなると思った」
ルシルも頷く。
「一個はもう食べたけどな」
「残り一個が頑張っています」
「野菜に頑張るも何もないでしょう」
シモンが言う。
「シモン君、そういうこと言うと赤玉菜に嫌われますよ」
「嫌われるとは?」
「切ったとき汁が目に入るとか」
「それは玉葱の類ではありませんか?」
「赤玉菜もそうなるかもしれません」
「今まで調理して、なっていませんよね?」
「……そうでした」
ルシルが笑う。
先ほど話した男性が少し離れた場所でこちらを見ていた。
三人が赤い地面に驚いていたときは、新道へ来たばかりの若い旅人だと思った。
実際、それは間違っていない。
ただ、馬の扱いは思ったより丁寧だった。
馬車の停め方も周囲を塞がず、水場を独占しない。道の状況を尋ねるときも、必要なことだけ聞いて余計な詮索をしなかった。
(慣れてないようで、慣れてるのか?)
男性は一瞬そう思ったが、すぐにどうでもよくなった。
旅人にはいろいろいる。
最初から何でもできる者もいれば、旅の途中で覚えていく者もいる。
少なくとも、あの三人は楽しそうだった。
それなら十分だろう。
男性は残っていた汁を飲み干した。
◇
午後はシモンが御者を担当した。
予告された通り、風が少し強くなった。
ただし昨日のように馬車を横から押すほどではない。草の穂が大きく揺れ、時折乾いた赤土の表面から細かな砂が低く流れる程度だった。
「窓、少し閉める?」
ルシルが尋ねる。
「砂が入ってきますね」
モモが窓を半分ほど閉じた。
完全に閉じると暑い。
少し隙間を残す。
それだけで車内へ入る砂はかなり減った。
「赤い砂が車内に入ったら、馬車まで赤くなりそう」
「掃除が増えます」
シモンの声が御者台から返ってくる。
「シモン君が一番気にするところ、そこなんですね」
「大事でしょう」
「大事だけど」
道は緩やかな起伏を繰り返す。
丘を一つ越えるたび、景色が少しずつ変わった。
赤い地面。
低い草。
風に削られた岩。
中には、横から見ると動物の頭のように見えるものもある。
「あれ、犬っぽくない?」
ルシルが言う。
「私は鳥に見えます」
「どこが?」
「上の突き出ているところが嘴です」
「それ耳じゃない?」
「じゃあルシル様には何犬に見えるんです?」
「犬の種類までは分からない」
「そこまで言っておいて?」
モモが笑う。
シモンは一度だけ岩を見た。
「岩です」
「分かってるよ」
「身も蓋もないです、シモン君」
「岩を犬か鳥かで争うより正確です」
その後も、二人は変わった形の岩を見つけるたび勝手に名前を付けた。
寝ている熊。
横向きの魚。
椅子。
大きな靴。
どれも正式な名称ではないし、帳面にも書かない。
ただ、馬車の中でそう呼んで笑うだけだった。
その中で、ルシルが一つの岩を見て黙った。
街道からかなり離れている。
縦長の岩の中央に穴が開いていた。
穴の向こうに青空が見える。
「……あれ、すごいな」
モモも気づく。
「穴、開いてますね」
「どうやったらああなるんだろ」
「風だけとは限りません」
シモンが言う。
「雨、水、温度差、岩質。長い時間が関係している可能性もあります。少なくとも、ここから見ただけで原因は分かりません」
「近くで見たい?」
モモが尋ねる。
ルシルは少し考える。
穴の開いた岩は確かに面白い。
けれど道から遠い。
「……いや。この距離からでも十分すごい」
「私もです」
二人は窓越しに岩を眺める。
馬車が進むにつれ、穴の中に見えていた空の位置が変わる。
最初は中央。
少しずつ端へ。
やがて岩そのものが後ろへ流れていった。
「見る場所で、穴の向こうの景色が変わるんだな」
ルシルが呟く。
その言葉のあと、何か別の語が出てくることはなかった。
写真。
拡大。
カメ。
未知の文字。
それらへ結びつく感覚もない。
ただ、穴の向こうを通り過ぎる青空が面白かった。
それだけだった。
モモも帳面を開かなかった。
◇
夕方が近づく頃、新道は低い岩丘の間へ入った。
視界が完全に塞がれるほどではない。
それでも午前中の草原と比べれば、左右の景色が近く感じられる。
シモンは少し速度を落とした。
「見通しが変わりました。しばらく慎重に進みます」
「交代する?」
ルシルが尋ねる。
「いえ。この程度なら問題ありません」
対向車が来ても対応できる幅はある。
ただ、丘の陰から突然現れる可能性があるため、速度を抑える。
実際、しばらくして前方から鈴の音が聞こえた。
「馬車?」
「でしょうね」
シモンがさらに少し速度を落とす。
岩丘の向こうから、二頭立ての荷馬車が現れた。
相手もこちらに気づいている。
双方が道の端へ適度に寄り、十分な間隔を取ってすれ違う。
「この先、問題ないぞ!」
向こうの御者が声をかけてきた。
「ありがとうございます!」
シモンが返す。
相手の荷馬車には赤い粉がうっすら積もっていた。
車輪も下部も、元の色が分かりにくいほど赤茶色になっている。
ルシルがそれを見る。
「……俺たちの馬車も、ああなる?」
「多少は」
シモンが答える。
「掃除、大変そう」
「だから言ったでしょう」
モモが吹き出した。
「帰ったら洗いましょう」
「どこに帰るの?」
ルシルの問いに、モモが止まる。
「……次に水を多めに使えるところ?」
「それは帰るじゃなくて着くだな」
「じゃあ、着いたら洗いましょう」
「水場を汚さない場所で、必要ならですね」
シモンが条件を追加する。
「やっぱりシモンがいると話が具体的になるな」
「お二人だけですと、馬車を洗う場所を探すために旅を始めそうなので」
「そこまではしない」
「しませんよ」
二人が同時に否定した。
◇
岩丘を抜けると、再び空が広がった。
そして、その先に屋根が見えた。
街道の右側。
低い石壁で囲まれた広い休み場があり、屋根付きの小屋が二棟並んでいる。
馬繋ぎも長い。
井戸らしい石組みも見える。
何より、すでに馬車が四台停まっていた。
「今日はここかな」
ルシルが言う。
太陽の位置を確認する。
まだ完全に夕方ではないが、ここを過ぎて次の休み場まで進む必要はない。
「私も賛成です」
モモが答える。
「二頭も十分走りました。ここで終えるのが妥当でしょう」
シモンも異論はない。
休み場へ入る。
四台の馬車のうち三台は荷馬車で、一台は三人のものと同じく旅用らしい。
人も十人ほどいる。
食事の準備を始めている者。
馬具を確認している者。
小屋で横になっている者。
それぞれが自分の時間を過ごしていた。
シモンはベルクの様子を見ながら、他の馬から少し離れた場所を選ぶ。
「ここなら大丈夫そうです」
馬車を停める。
ベルクは周囲の馬を気にしたが、間隔が十分にあるため暴れることはない。
トルクは相変わらず平然としている。
ルシルとモモも手分けして二頭の世話を始めた。
旅用馬車のそばにいた年配の女性が、その様子を少しだけ見ていた。
金髪の青年が水を運び、桃金色の髪の少女が馬具を外すのを手伝い、眼鏡の青年が脚を確認している。
誰か一人が命令しているわけではない。
必要なことを、必要な者がしている。
「兄妹かねえ」
女性が隣の男性へ小声で言う。
「顔が似てないだろ」
「じゃあ友達か」
「さあな」
男性は興味なさそうに答えたが、少しして三人が笑いながら何か話しているのを見ると、付け加えた。
「まあ、仲間なんだろ」
それ以上の答えは必要なかった。
◇
日が傾く。
赤い地面が夕日に照らされると、昼間よりさらに色が深く見えた。
橙色の光と赤褐色の土が重なり、休み場の周囲だけが火の色に包まれているようだった。
「モモ」
「はい」
「昨日、夕焼けみたいに真っ赤だったりしてって言ってたよな」
「言いました」
「今なら結構近いんじゃない?」
モモは周囲を見る。
昼間の赤とは違う。
影の部分は暗い茶色。
光が当たっている場所は赤橙色。
その上を風が吹き、草の影が揺れている。
「……近いです」
モモは素直に認めた。
「思ってたより綺麗ですね」
「うん」
シモンも少し離れた場所から同じ景色を見ていた。
いつものように何か説明することはしない。
ただ眼鏡の奥の目を細め、しばらく夕日に染まる大地を眺めている。
モモが帳面を開いた。
今日の記録。
新しい西南街道へ入った。
道幅は広い。
水場には点検札がある。
赤い土は想像より赤かった。
風食岩らしき奇妙な岩がいくつもあった。
穴の開いた岩も見た。
そして最後に、一行を追加する。
『夕方は、もっと赤い。』
モモはその文字を見て、満足そうに帳面を閉じた。
「それだけ?」
ルシルが尋ねる。
「はい」
「もっと書くかと思った」
「見たもの全部を説明しようとすると、きっと違う気がするので」
「なるほど」
ルシルはもう一度、夕日に染まる地面を見る。
確かに、言葉にするより見たほうが早い。
写真なら――。
そこまで考えかけて、ルシルは自分で気づいた。
しかし、その先に新しい言葉は続かなかった。
黒い四角い物も浮かばない。
何かを向ける感覚もない。
ただ、この景色を後で思い出せたらいいなと思っただけだった。
それなら今は、目で見ておけばいい。
ルシルは少し長く、その景色を眺めた。
やがて日が低くなり、夕食の準備を始める声が周囲から聞こえてくる。
「俺たちも飯にしようか」
「今日は何にします?」
「豆?」
「昼も豆でしたよ」
「じゃあ保存肉とパン」
「朝も似たようなもの食べてませんでした?」
「赤玉菜?」
二人の視線が、シモンへ向く。
「なぜ私が決める前提なのです?」
「最後の一個、使う?」
ルシルが尋ねる。
シモンは少し考えた。
保存状態に問題はない。
しかし、明日以降に野菜を補充できる保証もない。
「半分だけ使いましょう」
「半分残すの?」
「切ったあとの保存は丸ごとより落ちますから……やはり全部使ったほうがいいですね」
「シモン君でも迷うんですね」
「食材の状態と今後の補給を考えれば迷います」
「じゃあ今日は赤玉菜!」
モモが嬉しそうに言う。
「決定するのが早いですね」
「シモン君が全部使うって言いました」
「使うなら、です」
結局、最後の赤玉菜を夕食に使うことになった。
薄く切って保存肉と一緒に蒸し焼きにする。
ハルゼで初めて食べたときとは、また少し違う。
あのとき買った野菜を、いくつもの道を越えた先で食べ切る。
「これで赤玉菜も終わりか」
ルシルが言う。
「またどこかで売ってるかもしれませんよ」
モモが答える。
「なかったら?」
「別の野菜を食べます」
昨日、山芋根を食べ切ったときとほとんど同じ答えだった。
ルシルは思わず笑う。
「それ、昨日も聞いたな」
「そうでしたっけ?」
「うん。でも、まあそうだよな」
なくなったものを惜しみ続ける必要はない。
次の土地には、次の食べ物がある。
赤玉菜を食べ終えれば、また別の何かを見つければいい。
夕食を終える頃には、赤い大地の上へ夜の色が降り始めていた。
明日は、この道をさらに西南へ進む。
低い岩丘の向こう。
風に削られた奇妙な岩のさらに先。
海はまだ見えない。
潮の匂いもしない。
それでも三人の馬車は、昨日より確かに西南へ進んでいた。




