第63話 赤い街道の先で、風が石を鳴らしていました
夜のあいだ吹いていた風は、朝になっても完全には止んでいなかった。
ただ、馬車を揺らすほど強いわけではない。二棟ある休憩小屋の屋根を撫で、赤い地面に生えた短い草を同じ方向へ傾けながら、ときおり乾いた土を薄く運んでいく程度だった。
ルシルが馬車の外へ出たとき、東の空はすでに明るくなっていた。
低い岩丘の輪郭が朝の光の中に浮かび、その足元では赤褐色の地面が昨夕より少しくすんで見える。夕日に照らされたときは火の色に近かったのに、朝はどちらかといえば落ち着いた錆色だった。
「朝だと、また違うな」
まだ少し眠気の残った声で呟きながら、ルシルは大きく伸びをした。
昨日は何度も赤い地面を眺めた。それでも、光が変わっただけで同じ場所とは思えないほど印象が変わる。
少し離れた馬繋ぎでは、トルクがこちらへ顔を向けていた。
「おはよう」
近づいて首筋を撫でると、トルクは鼻先をルシルの胸元へ寄せてくる。
「朝飯はこれからな」
今度は先回りして伝えた。
トルクの耳が動く。
「絶対分かってるだろ、お前」
「何を話しているんですか?」
背後からモモの声がした。
振り返ると、白い外套を羽織ったモモが馬車から降りてくるところだった。桃金色の髪を手櫛で整えながら、まだ少しだけ眠そうに目を細めている。
「トルクに朝飯はまだだって説明してた」
「それ、説明する必要あります?」
「こいつ、俺を見ると何かもらえると思ってる気がする」
「ルシル様が時々あげるからですよ」
「決めた量しかあげてないって」
話している間にも、トルクはルシルの手元を確認するように鼻先を動かしている。
モモはその様子を見て笑い、それから隣のベルクへ近づいた。
「ベルク君もおはようございます」
ベルクはモモを見たあと、少し離れたところへ視線を移した。
ほかの旅人たちも起き始めている。
昨夜から休み場にいた馬のうち一頭が水場へ連れていかれていたが、距離は十分にある。ベルクは警戒するように耳を動かしたものの、落ち着きを失うほどではなかった。
「昨日より慣れたかな?」
「場所そのものには慣れたかもしれませんね」
今度はシモンだった。
紺の外套を整えながら二人のところへ来ると、まずベルクへ手を伸ばす。ベルクは抵抗せず、その手の匂いを確かめるように鼻を寄せた。
シモンは脚、蹄、馬具が触れていた部分を順に確認する。
「問題ありません。トルクも見ます」
「俺もやる」
「では右側をお願いします」
旅を始めた頃のように、シモン一人が確認して二人が横から見ていることは減っていた。
もちろん細かな異常を見つける技術では、まだシモンが上だ。それでもルシルもモモも、熱、腫れ、傷、蹄の目立った異常など、自分たちで確認できることは増えている。
三人で二頭を見終える。
「今日も大丈夫そうですね」
モモがベルクの首を軽く撫でた。
「ええ。この風なら出発にも問題ありません」
シモンは空を見上げる。
雲はあるが薄い。
雨の気配はない。
「じゃあ朝飯にしよう」
「結局、ルシル様もトルク君と同じくらい朝食を待っていたのでは?」
「俺は昨日の夜から何も食べてないんだから腹減るだろ」
「トルク君も同じですよ」
「……そう言われるとそうだな」
モモが楽しそうに笑った。
◇
朝食は簡単に済ませた。
硬めのパンと保存肉、昨日ナハト村で買った煎り土房豆を少し。それに温かい湯を用意した。
赤玉菜も山芋根も、もうない。
食べ物が減ったこと自体は困らない。保存食はまだ十分にあるし、レグナで日持ちする豆も補充している。
ただ、ルシルはパンを齧りながら収納の中身を思い出し、少しだけ考えた。
「次に野菜売ってるところがあったら、何か買おう」
「そうですね」
シモンも同意する。
「生の野菜は無理に大量に持つ必要はありませんが、今はちょうど減っています。保存状態を見て少し補充するのはいいでしょう」
「次は何がありますかね」
モモが土房豆の殻を割る。
「それは行ってみないと分からないだろ」
「赤い土地だから、赤い野菜とか」
「地面の色で野菜の色まで決まるの?」
「分かりません」
「分からないのかよ」
「だから楽しみなんじゃないですか」
モモは平然としている。
シモンは二人の会話を聞きながら湯を一口飲んだ。
「少なくとも、地面が赤いから農作物も赤くなるという単純な話ではありませんよ」
「ほら、シモン君が説明を始めました」
「聞かれたからでしょう」
「俺、聞いてないけど」
「会話の流れです」
朝の休み場には、ほかの旅人たちの話し声も混ざっていた。
小屋の一つでは商人らしい三人組が今日の荷物を確認しており、旅用馬車のそばでは昨夜見かけた年配の女性が鍋を片付けている。
やがて、その女性が三人の近くを通りかかった。
「西へ行くのかい?」
「西南へ、このまま新道を進みます」
シモンが答える。
「なら今日は風の音が面白いかもしれないね」
女性が何気なく言った。
ルシルが反応する。
「風の音?」
「もう少し先に、細い石が集まってるところがあるんだよ。風が強い日は変な音がする」
「石が鳴るんですか?」
今度はモモが尋ねた。
「そう聞こえるだけかもしれないけどね。私は好きだよ」
女性は笑う。
「ただし、道を外れて近づくほどのものじゃない。街道からでも聞こえるから」
その一言が追加された瞬間、シモンがほんの少しだけ女性へ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「何で今、シモンがちょっと安心したの?」
ルシルが尋ねる。
「あなたが『近くで見たい』と言い出す前に注意してくださったからです」
「まだ言ってないだろ」
「言おうと思いました?」
「……少し」
「ほら」
女性が声を上げて笑った。
「若いうちは見たくなるさ。でも赤土の草地は、遠くから平らに見えても窪みがあるからね。馬車で勝手に入るのはやめたほうがいい」
「分かりました。道から見ます」
ルシルは素直に頷く。
「それならよし」
女性は満足したように去っていった。
モモが小声で言う。
「先に言われちゃいましたね」
「うん」
「でも、石が鳴るって気になります」
「気になる」
「お二人とも、話は聞いていましたね?」
「道から聞く」
「道から聞きます」
二人の返事が重なった。
シモンはそれ以上何も言わず、空になった器を片付け始めた。
◇
出発する頃には、休み場全体が動き始めていた。
先に出る馬車。
まだ朝食を取っている旅人。
荷を縛り直す商人。
それぞれが自分の予定に合わせて準備している。
三人は急がなかった。
火の始末を確認し、使った場所に忘れ物がないか見て、馬車の車輪や外側も簡単に点検する。
「赤い」
モモが後輪の下側を見て言った。
焦茶色だった車輪に、薄い赤土が付着している。
「昨日の馬車ほどじゃないな」
「まだ一日ですから」
シモンが答える。
「これから増える?」
「乾いた道が続けば多少は」
ルシルは自分たちの馬車を少し離れて眺めた。
焦茶色の車体。
その下だけ、赤い粉を薄くまとった車輪。
「これはこれで旅してる感じがする」
「掃除するときにも同じことを言ってくださいね」
「そのときはそのとき」
「その言い方は信用できません」
最初の御者はシモンが担当した。
昨日の午後から風が続いているため、朝の状態を見ながら走るという理由だった。
ルシルもモモも異論はない。
馬車が動き始める。
赤い休み場が少しずつ遠ざかり、再び低い岩丘と広い空が三人を迎えた。
◇
朝の新道は、昨日より静かだった。
前にも後ろにも、すぐ近くを走る馬車はいない。
風が草を擦る音と、トルクとベルクの蹄、車輪が地面を転がる音が続く。
道は相変わらず広い。
赤土は昨日の終盤と同じくらい濃く、街道の脇ではところどころ地面がむき出しになっていた。
ルシルは窓の外を眺める。
昨日見たような奇妙な形の岩が、今日も点々と現れる。
ただし、同じものは一つもない。
上が広がった岩。
中央が細い岩。
表面に縦の筋が何本も入った岩。
いくつかがまとまって、遠くから見ると壁のようになっている場所もある。
「ずっと見てても飽きないな」
ルシルが言う。
「昨日もかなり見てましたよ」
モモは反対側の窓を眺めている。
「昨日と同じ岩じゃないし」
「確かに」
モモの側には、低く長い岩が横たわっていた。
「こっちはパンみたいです」
「また何かに見立てるの?」
「細長いパンです」
「腹減ってるだけじゃない?」
「朝ご飯食べました」
「じゃあパン好きなだけだ」
「それは否定しません」
御者台からシモンが言う。
「岩を食べ物に例えても食べられませんよ」
「分かってますよ」
「昨日から岩を犬、鳥、魚、靴と呼んでいた方々なので、一応」
「俺たちだって岩だって分かってるからな?」
シモンは返事をしなかった。
その沈黙が、逆に疑われているように感じる。
「シモン?」
「前方を確認しています」
「逃げた」
「御者ですから」
モモが口元を押さえて笑った。
そのとき、馬車の外で風の音が少し変わった。
ひゅう、と長く抜ける。
それだけなら今までも聞こえていた。
しかし数呼吸後。
どこか遠くで、硬いもの同士が触れたような音がした。
カン。
ルシルが口を閉じる。
モモも笑うのをやめた。
「今の?」
「聞こえました」
シモンは馬車を止めない。
速度もほとんど変えず、そのまま進む。
また風が吹く。
今度は少し長い。
草が一斉に傾き、道の左側にある岩丘の隙間を風が抜けた。
カラン。
カン。
高い音と低い音が、間を空けて重なる。
「本当に鳴ってる」
ルシルが窓へ近づく。
「どこでしょう」
モモも音の方向を探す。
シモンが前方を見たまま言う。
「左前方に、細い岩がまとまっている場所があります」
二人が同じ方向を見る。
街道からかなり離れた赤い斜面。
そこに、細長い石柱のような岩が何本も立っていた。
高いものでも人の背丈の二倍程度だろうか。一本一本が完全に独立しているわけではなく、根元では大きな岩盤につながっているようにも見える。
風が吹く。
細い隙間へ空気が入り込む。
ヒュウウウ――。
その直後に、また乾いた音がした。
カン。
カラ、カン。
「石同士がぶつかってる?」
ルシルが尋ねる。
「ここからでは分かりません」
シモンが答える。
「風で小石が動いているのか、どこかの薄い岩片が揺れているのか、あるいは隙間を通る風の音がそう聞こえるのか。原因を決める材料がありません」
「でも、鳴ってるようには聞こえるな」
「はい。それは私にも聞こえます」
モモが窓を少し開けた。
風が車内へ入り、髪を揺らす。
「もう一回聞きたいです」
「砂も入りますよ」
「少しだけ」
三人はしばらく黙った。
馬車は走り続ける。
音のする岩場へ近づくにつれ、風の音も変化した。
高く鳴るとき。
低く唸るとき。
その合間に、石を軽く叩いたような硬い音が混ざる。
一定の旋律ではない。
音楽とも違う。
それでも、ただの風とは思えないほど耳に残る。
ルシルは窓から身を乗り出さないよう気をつけながら、岩場を見つめた。
(あそこに立ったら、もっと違って聞こえるんだろうな)
そう思う。
けれど口には出さなかった。
朝、女性から聞いたばかりだ。
草地には見えない窪みがあるかもしれないし、街道を外れる理由もない。
今いる場所から聞ける音を、そのまま聞けばいい。
モモがちらりとルシルを見る。
「行きたい顔してますね」
「行かないよ」
「まだ何も言ってません」
「顔で分かったんだろ」
「はい」
「でも行かない」
ルシルは岩場を見たまま笑う。
「ここからでも聞こえるし」
モモも少し笑った。
「私も同じです」
シモンは二人の会話を聞いていたが、注意を加える必要はなかった。
やがて馬車が岩場の横を通り過ぎる。
音は少しずつ後方へ移った。
最後に一度だけ、強い風が吹く。
カァン――。
今までで一番澄んだ音が響いた。
三人とも振り返った。
赤い斜面の上に並ぶ細い岩。
その間を風が抜けていく。
やがて距離が開き、音は聞こえなくなった。
「……面白かった」
ルシルが先に言った。
「はい」
モモはすでに帳面を開いていた。
「何て書く?」
「『風が強い日に、細い岩の集まる場所で石を叩くような音が聞こえた』」
「石が鳴った、じゃないんだ」
「原因が分からないので」
「慎重になったな」
「シモン君の影響です」
御者台から返事が来る。
「そこは良い影響ということでよろしいですか?」
「もちろんです」
モモは少し考えて、さらに書き足した。
「『一番大きな音は、カァン、と聞こえた』」
「音まで書くの?」
「あとで読んだら思い出せそうじゃないですか」
「それは分かる」
ルシルはもう一度後方を見た。
岩場は遠くなり、細い柱のような形も分かりにくくなっている。
それでも、さっきの音は耳の奥に残っていた。
◇
昼前。
道は緩やかに下り始めた。
岩丘の数が少し減り、その代わり赤い地面が広く見えるようになる。
遠くには薄い緑の帯があった。
「木?」
ルシルが目を細める。
「低木のまとまりに見えますね」
シモンが答える。
「水があるのかな」
「可能性はありますが、まだ分かりません」
モモが地図を広げる。
「この辺りに休み場の印、ありません?」
「ありますね。もう少し先です」
シモンが御者台から一度だけ振り返り、地図の位置を確認した。
「昼食はそこで取りましょう」
「賛成」
そこから半刻ほど進んだところで、街道脇に石の標柱が現れた。
休み場を示す印。
矢印の先には、先ほど遠くから見えた低木のまとまりがある。
近づくと、その中央に石組みの井戸があった。
周囲には日陰を作る程度の木が数本。
馬繋ぎ。
屋根付きの小さな休憩所。
そして、馬車が三台ほど停められる空間。
先客は一台だけだった。
幌のない荷車のそばで、若い男女二人が荷物を確認している。
シモンが馬車を適切な位置へ寄せた。
「ここで休みましょう」
馬を止める。
トルクとベルクの状態を確認し、水を飲ませる。
ベルクは先客の馬へ一度顔を向けたが、距離が取れているため落ち着いていた。
「今日も順調だな」
ルシルが言う。
「今のところは」
シモンが答える。
「『今のところ』って付けると、何か起きそうに聞こえる」
「起きない保証はできませんから」
「普通に順調でいいじゃん」
「では、順調です」
「言い直した」
モモが笑う。
三人は木陰に座り、昼食の準備を始めた。
今日は豆を煮る。
レグナで補充したものを少量の水で柔らかくし、保存肉を細かく切って加える。塩と手持ちの香辛料で味を整えれば、簡単な煮込みになる。
野菜はない。
そのため見た目は少し地味だった。
「茶色い」
鍋を見たモモが言う。
「味が良ければいいだろ」
「赤い土地で茶色い昼食ですね」
「赤い食材はもうないからな」
「赤玉菜、昨日食べちゃいましたからね」
「昨日は昨日でうまかった」
「ですね」
シモンが鍋を混ぜる。
「明確に不足しているわけではありませんが、次に集落か行商へ会ったら野菜類は確認しましょう」
「はーい」
モモが返事をする。
ルシルも頷いた。
そのとき、先客の荷車にいた若い女性がこちらへ近づいてきた。
「すみません」
三人が顔を向ける。
女性は空の水筒を持っていた。
「この井戸、もう使いました?」
「はい。水の状態を確認してから馬にも飲ませました」
シモンが答える。
「ありがとうございます。札が古かったので、ちょっと気になって」
井戸の横には点検札があったが、確かに前の休み場より日付が古い。
「見た限り濁りや異臭はありませんでした。ただ、私たちが水質を専門的に確認したわけではありません」
「それで十分です。昨日の休み場で、桶に落ち葉がいっぱい入ってたから、こっちもどうかなって思って」
「なるほど」
女性は礼を言い、井戸へ向かった。
ルシルがその背中を見る。
「点検札があるからって、絶対じゃないんだな」
「当然です」
シモンは鍋から目を離さず答える。
「点検したあとに何か入ることもありますし、日数が経てば状態も変わります。札は判断材料の一つです」
「だから毎回見るのか」
「はい」
「じゃあ俺も今度から、日付だけじゃなくて水そのものもちゃんと見る」
「すでに見ているでしょう」
「シモンほどじゃない」
「なら、少しずつ覚えれば十分です」
何でも自分一人で完璧にできる必要はない。
けれど、できることが増えるのは面白い。
ルシルは鍋から立つ湯気を見ながら、そんなことを考えた。
(馬車を動かすだけじゃなくて、水とか道とか、見るところがどんどん増えてるな)
王宮にいた頃には、旅の水場を自分で確認する日が来るなど想像もしなかった。
だが、昔と比べて感傷に浸ることはしない。
今の自分には、今やることがある。
「そろそろ食べられる?」
「もう少しです」
「匂いはもう食べられそう」
「匂いで豆は柔らかくなりません」
「シモン君、今日ちょっと厳しくないですか?」
「普通です」
やがて煮込みが完成した。
硬めのパンと一緒に食べる。
見た目は地味だったが、保存肉の塩気が豆へ移り、思っていた以上に満足感がある。
「茶色いけど美味しいです」
「色はもういいだろ」
「大事ですよ」
「何が?」
「気分が」
「そこ?」
昼食の途中、先ほどの女性と連れの男性も近くの木陰で食事を始めた。
二人の会話が時折聞こえる。
どうやら新道沿いの小さな採石場へ道具を届ける途中らしい。
ルシルたちは聞き耳を立てることはしなかったが、食事を終えた頃、今度は男性のほうから声をかけてきた。
「西南へ?」
「はい」
シモンが答える。
「この先、夕方まで行くなら風抜け台の休み場が使えるよ。ここから荷車で三刻くらい。途中にもう一つ小さい水場もある」
「風抜け台?」
モモが聞き返す。
「街道が少し高いところを通るんだ。屋根付きの小屋と井戸がある。名前通り風はあるけど、野営する場所は広い」
「その先に集落はありますか?」
「今日中に行ける範囲だと、街道沿いにはないな。採石場の作業小屋はあるけど、旅人向けじゃない」
シモンが頷く。
「助かります」
「ただ、風抜け台より先へ夕方から進むのは勧めない。道は悪くないけど、次の休み場までちょっと長い」
「では今日は風抜け台を目安にします」
「それがいいと思う」
男性はそう言うと、自分たちの荷車へ戻った。
新しい地名が一つ増えた。
モモは帳面を開き、地図の位置と照らし合わせながら短く記す。
「風抜け台。ここから三刻くらい。屋根、井戸、野営場所あり」
「風が強そうな名前だな」
「さっきの人も風はあるって言ってましたね」
「昨日より強いかな」
「着いたときに判断すればいいでしょう」
シモンが答える。
今日の終点が、ひとまず決まった。
◇
午後最初の御者はルシルになった。
昼休憩で十分に休んだトルクとベルクは、再び安定した歩調で新道を進んでいく。
風は午前より少し強くなった。
それでも危険を感じるほどではない。
ルシルは草の動きと二頭の耳、馬車の揺れを見ながら、必要以上に手綱へ力を入れないよう意識する。
隣にはシモン。
モモは車内で帳面の整理をしていた。
「今のところ、昨日の横風より全然楽だな」
「そうですね。風向きも斜め前方です。急に変わる可能性はありますから、周囲は見ていてください」
「了解」
街道はしばらく平坦だった。
やがて右側に、人工的に切り出したような岩肌が見えてくる。
自然の風食岩とは形が違う。
直線的な跡があり、その近くには木材を組んだ簡素な施設も見えた。
「あれが採石場?」
「可能性は高いですね」
シモンが答える。
「寄らない?」
「旅人向けではないと聞いたばかりでしょう」
「聞いただけ」
「顔は寄りたそうでしたよ」
馬車の中からモモが言う。
「モモ、最近俺の顔読むの上手くなってない?」
「長く一緒にいますから」
「シモンは?」
「かなり前から分かります」
「なんか悔しい」
「なぜです?」
「俺はシモンが何考えてるか、たまに分からないのに」
「私もすべて顔に出しているわけではありませんから」
「じゃあモモは?」
「私は分かりやすいですよ」
「お菓子見つけたときは特に」
「それだけじゃないです」
採石場は遠くから眺めるだけで通過した。
働いている人影がいくつか見えたが、街道の馬車へ特別な関心を向ける者はいない。
旅人も、働く者も、それぞれ自分の一日を過ごしている。
それでいい。
◇
午後の半ば。
街道脇に小さな水場が現れた。
先ほど聞いた場所だろう。
屋根はなく、石造りの水槽と馬繋ぎだけ。
「休ませる?」
ルシルが尋ねる。
「短時間だけ」
シモンが答える。
二頭に水を飲ませ、脚を確認する。
異常なし。
三人も水分を取り、少しだけ体を伸ばした。
モモは煎り土房豆の袋を取り出しかけたが、途中で止める。
「どうした?」
「風抜け台に着いてからにします」
「珍しい」
「何ですか、その反応」
「いや、食べると思ったから」
「私だって毎回食べるわけじゃありません」
モモは袋を戻した。
その代わり、水をもう一口飲む。
「夕方のお楽しみにします」
「結局食べるんだ」
「もちろんです」
短い休憩を終え、今度はモモが御者台へ座った。
シモンが隣。
ルシルは車内へ入る。
午後の日差しで馬車の中は少し暖かかったが、窓から風が抜けるため不快ではない。
ただし赤い砂が入らないよう、窓は全開にしない。
ルシルは長椅子へ腰掛け、揺れる景色を眺めた。
写真のことは考えていなかった。
夢のことも。
朝に聞いた石の音。
昼の茶色い豆煮込み。
採石場。
それだけで今日一日は十分に新しい。
◇
やがて道が上り始めた。
急坂ではない。
長く緩やかな上り。
左右の地面は少しずつ低くなり、街道そのものが尾根のような高い場所へ向かっているのが分かる。
風も強くなった。
「これが風抜け台の『風抜け』ですかね」
モモが髪を押さえながら言う。
「まだ到着していませんが、地形的には近いでしょう」
シモンが前方を見る。
トルクとベルクは問題なく進んでいる。
ただ、上り坂なので速度は自然に落ちた。
急かさない。
モモも手綱を余計に動かさず、二頭の歩調に任せる。
丘を上り切る直前。
前方の空が一気に広がった。
「わあ……」
モモが声を漏らす。
馬車が高い場所へ出る。
そこから先は、今までよりずっと遠くまで見渡せた。
赤い大地が波のように続いている。
低い岩丘。
細い草地。
遠くには灰色の岩が列を作り、そのさらに向こうは霞んでいる。
街道はその中を一本の線となって西南へ延びていた。
ルシルも車内から御者台へ出る。
「すごいな」
「乗り出さないでくださいね」
「分かってる」
風が三人の外套を揺らす。
強い。
けれど、一定方向から吹いている。
馬車を止めるほどではない。
「海は?」
モモが遠くを見る。
「見えませんね」
シモンが答える。
「さすがにまだか」
「でも、かなり遠くまで見えますよ」
ルシルも目を凝らした。
青い線はない。
潮の匂いもない。
今見えているのは赤い土地と、岩と、空だけだ。
それでも落胆はしなかった。
海が見えないなら、その手前にもまだ知らない場所があるということだ。
道の先に、二棟の小屋が見えた。
低い石壁。
井戸。
馬繋ぎ。
そして広い野営地。
「あそこだな」
「風抜け台ですね」
モモがゆっくり馬車を進める。
休み場にはすでに二台の馬車が停まっていた。
一台は荷馬車。
もう一台は小さな旅用馬車。
場所には十分な余裕がある。
三人はほかの馬から距離を取り、風をまともに横から受けにくい位置を選んだ。
「ここならどうでしょう」
モモが尋ねる。
シモンが周囲を見る。
「いいでしょう。小屋が多少風を遮ってくれます」
馬車を止める。
一日走ったトルクとベルクを休ませる。
ルシルが水を運び、モモが馬具を外すのを手伝い、シモンが脚を確認した。
「二頭とも問題ありません」
「よかった」
モモはベルクの首を撫でる。
「今日は風の中、頑張りましたね」
トルクが横から顔を寄せる。
「トルク君もですよ」
モモは笑い、今度はトルクも撫でた。
◇
風抜け台という名前は、実際に立ってみるとよく分かった。
風が絶えない。
ただし小屋の裏側へ回ればかなり弱まり、野営そのものには困らない。
井戸の水も問題なかった。
三人は今夜ここで泊まることに決める。
夕食には、保存食と豆を使った簡単な料理を作った。
昼も豆だったため、モモが少しだけ不満そうな顔をしたが、塩と山椒実で味を変えるとすぐに機嫌を直した。
「同じ豆でも味が違えば別です」
「その理屈でいいの?」
「美味しければいいんです」
「結局そこなんだ」
食後。
約束通り、モモが煎り土房豆の袋を取り出した。
三人で少しずつ食べる。
風を避けた小屋の裏側。
夕日が赤い大地を照らしている。
「昨日より高い場所だから、遠くまで見えるな」
ルシルが言う。
「はい」
モモも豆の殻を割りながら遠くを見る。
「でも海は見えません」
「明日も探す?」
「毎日探してたら、シモン君に『まだです』って言われますよ」
「もう言おうとしていました」
シモンが淡々と答える。
二人が笑う。
しばらくして、モモは帳面を開いた。
今日の記録を整理する。
朝。
細い岩の集まり。
風が吹くと、石を叩くような音が聞こえた。
原因は不明。
昼。
井戸の点検札だけでなく、水そのものを確認する。
午後。
採石場らしき場所を遠くから通過。
夕方。
風抜け台へ到着。
高所から赤い大地が広く見える。
海はまだ見えない。
「最後、それ書くんだ」
ルシルが帳面を覗く。
「書きます」
「毎日『海はまだ』って増えていったらどうする?」
「それはそれで面白いじゃないですか」
「百個くらい並んだら?」
「海に着いた日に、大きく『見えた』って書きます」
モモは笑っている。
ルシルも、そのページを想像して笑った。
「それいいな」
「でしょう?」
シモンは二人のやり取りを聞きながら、眼鏡を押し上げる。
「百日かかると決まったわけではありませんよ」
「例えだって」
「分かっています」
風が小屋の屋根を撫でていく。
遠くの岩の間では、昼間聞いたような音はしない。
ここではただ、長く低い風の音が続いていた。
ルシルは赤い大地の向こうを見る。
今日も新しい言葉は出なかった。
夢の記憶が戻ることもなかった。
写真について何かが分かったわけでもない。
けれど、朝に聞いた石の音は覚えている。
風の中で食べた土房豆の味も、赤い丘の上から見た景色も。
(全部を一度に残せなくても、覚えてるものはちゃんとあるんだよな)
それは写真についての答えではない。
何かの結論でもない。
ただ今日一日を終えようとしている今、自然に浮かんだだけの思いだった。
ルシルは椅子から立ち上がる。
「そろそろ片付けるか」
「そうですね」
モモも帳面を閉じた。
シモンは先に立ち、夜に備えて周囲を確認する。
明日も西南へ進む。
この先に何があるのか、三人はまだ知らない。
次の集落がどんな場所なのか。
どんな食べ物があるのか。
赤い大地がどこまで続くのか。
そして、いつ海の気配が現れるのか。
知らないことは、今日もたくさん残っていた。
夜が深くなるにつれて、風抜け台の空には星が増えていった。
地上では赤かった大地も、今は暗闇の中へ沈んでいる。
それでも街道だけは、月明かりの下でかすかに形を残しながら、西南へ続いていた。




