第8話 これからの旅を一緒に走る相棒を選びました
ローデン馬車商会の敷地には、乾いた木材の匂いと馬の体温を含んだ獣の匂い、それから車軸へ塗る油の匂いが入り混じっていた。奥の作業場では職人が二人がかりで大きな車輪を外し、別の場所では若い男が馬の脚を持ち上げて蹄の裏を確認している。
時折、金槌が金属を叩く甲高い音が敷地へ響いた。その度に繋がれている何頭かの馬が耳をぴくりと動かし、遠くでは別の馬が短く鼻を鳴らしている。
「まず言っておくが、長旅用の馬車は見た目より足回りだ」
ガイル・ローデンは三人を敷地の奥へ案内しながら、振り返らずにそう言った。
「街中しか走らねえなら、箱が綺麗だとか座席が柔らかいとか、そういうところを優先してもいい。だが、あんたらは森も山も通るんだろ?」
「ああ。最終的には海まで行きたい」
ルシルが答えると、ガイルは肩越しにちらりと振り返った。
「なら余計にだ。車輪や車軸が弱い馬車を選ぶと、道の途中で泣くことになるぞ」
「壊れるのか?」
「壊れる。運が悪けりゃ、車輪が割れるか車軸が曲がって、その場から動けなくなる」
ガイルの口調には脅すような調子はなかった。長年、実際にそういう馬車を見てきた者が、当たり前の注意を口にしているだけなのだろう。
「雨の山道や魔物の出る森で動けなくなったら、馬車が壊れただけじゃ済まねえ。だから、俺は旅用を買う客には最初にそこを言う」
「分かった。ちゃんと性能で選ぶ」
ルシルが真面目な顔で頷く。
「本当ですか?」
横からシモンが静かに尋ねた。
「なんで言った直後に疑うんだよ」
「念のためです」
「ルシル様なら、格好いい馬車を見つけた瞬間に気持ちが傾きそうですから」
モモまで笑顔で加勢した。
「二人とも俺を何だと思ってるんだ」
「昨日から市場の物を一つ見るたびに目を輝かせている方です」
「旅を始めたばっかりなんだから仕方ないだろ」
ルシルが反論すると、ガイルが豪快に笑った。
「仲いいな、あんたら」
三人は一瞬だけ顔を見合わせた。
誰かから自然にそう言われることに、まだ少し慣れていない。王城や神殿にいた頃なら、三人の関係にはそれぞれ明確な肩書きがついていた。
王子。
聖女。
側近。
けれど今、ガイルの目に映っているのは、ただ一緒に旅をする三人の若者だ。
「まあな」
最初にそう答えたのはルシルだった。
モモが嬉しそうに目を細め、シモンも否定はしなかった。
「んじゃ、まず小さいのから見るか」
ガイルが最初に案内したのは、一頭立ての小型馬車だった。薄い茶色の幌が付いた、街道ではよく見かける簡素な造りで、後ろ半分が荷台、前側に二人ほど座れるようになっている。
「軽い。扱いやすい。馬一頭で引ける。値段も安い。この辺りだけ走る商人なんかには人気だ」
「いいじゃん」
ルシルがすぐに反応する。
「まだ説明は終わっていません」
シモンが横から止めると、ガイルも頷いた。
「三人で長旅するには狭い。荷物が収納魔法へ入るとしても、雨の日に三人がここで何時間も過ごすのはきついぞ」
モモは荷台へ顔を覗かせた。
「寝られます?」
「一人なら余裕だ。二人ならかなり近づけば何とか。三人は無理だな」
「では駄目ですね」
モモは迷いなく言った。
ルシルが少し意外そうに彼女を見る。
「そんなに寝る場所って大事か?」
「雨の日に外で天幕を張りたいですか?」
「……あまり」
「でしょう?」
モモは満足そうに頷き、さらに荷台の壁を見回した。
「それに棚もありません」
「棚は後から付けられます」
シモンが答える。
「お菓子棚も?」
「食器や道具用です」
「半分くらいなら」
「駄目です」
「まだ馬車すら決めていないのに、もうそこでもめるのかよ」
ルシルが笑い、最初の一台は候補から外れた。
次に案内されたのは、大きな幌付き荷馬車だった。
二頭立てで、荷台はかなり広い。天井も高く、三人が中へ入っても圧迫感はほとんどなかった。
「おお、広いな」
ルシルが先に荷台へ上がり、腕を広げる。
「これなら三人とも寝られますね」
モモも続いて乗り込み、床の広さを確かめるように一歩ずつ歩いた。
シモンは最後に入り、壁と床の継ぎ目や幌の張り方まで見る。
「荷物を運ぶにはかなり便利そうですね」
「そういう馬車だからな」
ガイルが外から答える。
「ただ、あんたらの場合は積荷を収納へ入れられるんだろ? ならこの広さは少し無駄かもしれん」
「窓もないですね」
モモが気づいた。
「幌を捲れば外は見える」
「雨の日は?」
「閉めるしかねえ」
モモの表情が少し曇る。
「景色、見えませんね」
ルシルも開いた後部から外を眺めた。
「せっかく旅するなら、俺も景色は見たいな」
「僕も同意します」
シモンが頷く。
「収納魔法がある以上、荷台の広さより居住性や足回りを優先した方が良さそうです」
「改造して窓を付けることもできるぞ」
ガイルが提案する。
「ただ、その分だけ金と時間がかかる」
「すぐ旅に出たい」
ルシルが言う。
「なら次だな」
三人は荷馬車を降り、さらに奥へ向かった。
三台目は、先ほどまでの二台とは明らかに雰囲気が違った。
深い青色に塗られた箱型の旅客馬車で、左右には大きな窓があり、外装も綺麗に磨かれている。座席には厚みがあり、金属の取っ手にも控えめな装飾が施されていた。
「これ、いいな」
ルシルが目を輝かせる。
「見た目ですか?」
「違う。中だよ」
「今、明らかに外を見ていましたよね?」
「最初に目に入るのは外だろ!」
シモンの指摘へ反論しながら、ルシルは扉を開けた。
中には向かい合わせの座席があり、六人ほどなら余裕を持って座れそうだった。モモはすぐに窓際へ腰を下ろし、外を眺める。
「これは好きです」
「だろ?」
「窓が大きいです」
「そこ重要だよな」
二人が意気投合する一方で、シモンは座席へ座るより先に床へ目を落とした。
「ガイルさん。悪路ではどうですか?」
「舗装街道なら快適だ。だが山道は勧めねえ」
返事を聞いた瞬間、ルシルの表情が少し変わる。
「駄目なのか?」
「駄目ってほどじゃない。ただし、車高が低い。車輪も細い。それに車体が重い割に足回りは街道向けだ」
ガイルは外へ出て、車輪の縁を軽く叩いた。
「石の多い道だと衝撃が直接来るし、雨でぬかるんだ場所では沈みやすい。壊れなくても、中の人間が先に嫌になるぞ」
「そんなに揺れる?」
「街道を外れりゃな」
モモが窓から外を見ながら考える。
「窓はとてもいいんですけど、ずっと跳ねるのは嫌ですね」
「俺も」
ルシルも残念そうに座席から立ち上がる。
「見た目は一番好きだったのに」
「性能で選ぶと言っていましたからね」
シモンがわずかに口元を緩める。
「ちゃんと我慢しただろ」
「成長ですね」
「褒め方が子供なんだよ」
その後も二台ほど見て回った。
一台は悪路性能こそ優れていたものの、三人で使うには内部が狭すぎた。もう一台は居住性も高く設備も豊富だったが、車体が大きすぎて四頭以上の馬を前提としている。
「これ、馬何頭?」
ルシルが巨大な車体を見上げながら尋ねる。
「最低四頭。荷物積むなら六頭だ」
「六頭……」
「世話だけでもかなり大変ですよ」
シモンが冷静に指摘する。
「給餌、給水、蹄の確認、馬具の手入れ。毎日六頭分です」
「……二頭がいい」
ルシルは即答した。
「判断が早いですね」
「六頭全部の顔と性格覚える前に旅が嫌になりそう」
「そこまでは言いませんが、三人旅には過剰でしょう」
ガイルは腕を組み、改めて三人を見た。
最初は、ただ旅行気分ではしゃいでいる若者たちに見えていたのかもしれない。けれど何台も比べるうちに、三人が何を求めているのか少しずつ整理できてきたらしい。
「なるほどな」
「何か分かった?」
ルシルが尋ねる。
「あんたら、旅慣れてねえ割に条件は結構はっきりしてる」
「そう?」
「収納持ちだから大きな荷台はいらねえ。三人で使うから小さすぎるのも駄目。景色を見たいから窓は欲しい。森と山を通るから足回りは頑丈な方がいい」
「あと、中で寝られる方がいいです」
モモが付け足す。
「棚も欲しいです」
「お菓子用?」
ルシルが笑う。
「普通の棚です。空いていたらお菓子を置くかもしれませんけど」
「結局置くんじゃないか」
「悪くはないと思います」
意外にもシモンが答えた。
モモが目を輝かせる。
「本当ですか?」
「保存食と分けるなら一段程度は」
「シモン君!」
「一段だけです」
「まだ何も決まってないぞ」
三人のやり取りを見ていたガイルが喉を鳴らして笑った。
「あるぞ」
三人の視線が一斉に向いた。
「何が?」
「今の条件に合いそうなのが、一台だけある」
「見せて」
ルシルの返事は早かった。
「客へ出すつもりはなかったんだがな」
ガイルはそう言いながら、敷地のさらに奥へ歩き始めた。
三人も後を追う。
作業場を抜け、予備車輪や木材が積まれた一角を通り過ぎる。その先には大きな屋根付きの保管場所があり、奥の方に一台だけ、他の馬車から少し離れて置かれている車体が見えた。
「……これ?」
ルシルが足を止めた。
焦げ茶色。
外装には派手な装飾がなく、先ほどの青い旅客馬車のような華やかさもない。
けれど、遠目からでも分かるほど車輪は太く、床は通常の馬車より少し高い。車体下部には金属補強が多く使われており、全体的にどっしりとした印象があった。
「丈夫そうです」
モモが先に感想を口にする。
「僕も同じ印象です」
シモンの声にも興味が混じっていた。
「元は山岳地帯を回る薬師が注文した特注品だ」
ガイルは車体の横へ立ち、側面を軽く叩いた。
「完成前に注文主の爺さんが身体を壊してな。息子夫婦のところで暮らすことになって、結局引き取り手がなくなった」
「じゃあ、ほとんど使ってない?」
「試走だけだ。実際の旅には出てねえ」
シモンの目がすぐに足回りへ向く。
「詳しく見ても?」
「好きにしろ」
許可を得ると、シモンは車輪の近くへしゃがみ込んだ。
「かなり厚いですね」
「普通の旅客用より二割ほど太い。外縁も補強してある」
「車軸は?」
「木だけじゃない。中心に鉄芯を通してある」
「全部鉄にしなかったのは重量ですか?」
「そうだ。全部鉄だと重すぎるし、衝撃も逃がしにくい」
ルシルは二人の会話を聞きながら、自分も車体の下へ覗き込む。
「底も厚くない?」
「二重底だ」
ガイルが答えた。
「山道で石に乗り上げた時、底板一枚だと簡単に抜けることがある。外側を犠牲にしても中までは壊れにくいようにしてある」
「そこまで考えてあるんだな」
「注文主が細かい爺さんだったからな。一度作り直しまで食らった」
ガイルは苦笑していたが、その声には嫌そうな響きはなかった。むしろ職人として、完成した馬車には自信を持っているのだろう。
「その代わり、車体は重いぞ」
「どれくらい?」
「同じ大きさの馬車より二割くらいだ」
「じゃあ、馬も強くないと駄目?」
「そこが一番の問題だな。普通の乗用馬二頭じゃ長距離はきつい」
ルシルが少し眉を寄せる。
「でも、その馬がいれば使える?」
「いるならな」
ガイルは意味ありげに口元を上げた。
その笑いが少し気になったが、先にモモの声が飛んできた。
「窓あります!」
彼女はすでに車体の反対側へ回っていた。
左右には一つずつ大きめの窓があり、前側にも小さな換気窓が付いている。モモが取っ手へ手を掛けると、少し重かったものの問題なく開いた。
「風が入ります」
「雨の日は?」
ルシルが尋ねる。
「内側に雨戸がある」
ガイルが答える。
「山は天気が変わりやすいからな。閉めても完全に真っ暗にならないよう、小さな明かり取りも付けてある」
「中、見たい」
ルシルはもう扉の前へ行っていた。
「床が高いから足元気をつけろ」
ガイルが折り畳み式の踏み台を出してくれる。
先にルシルが上がり、その後へモモとシモンが続いた。
「おお……」
中へ入った瞬間、ルシルは思わず声を漏らした。
外から見るより広く感じる。
左右の壁際には長椅子があり、その間には大人一人が余裕を持って歩ける幅がある。奥には折り畳み式の小さな机が付けられ、壁には幾つかの棚も備え付けられていた。
「棚があります」
モモの反応はやはり早かった。
「本当にそこ好きだな」
「旅では収納場所、大事ですよ?」
「収納魔法あるけどな」
「それでも、毎回使うものを全部収納へ入れたり出したりするのは面倒です」
モモの言葉に、シモンが頷く。
「それはその通りですね。地図、食器、筆記具、すぐ使う薬などは普通に置けた方が便利でしょう」
「お菓子も」
「一段までなら」
「覚えていてくれたんですね」
「約束したわけではありません」
三人のやり取りを聞きながら、ガイルは笑っている。
ルシルは片側の長椅子へ腰を下ろした。
先ほどの旅客馬車ほど柔らかくはない。それでも座面には十分な厚みがあり、硬すぎるわけでもなかった。
「これ、寝られる?」
「下を引いてみろ」
ガイルに言われ、ルシルは座面の下へ手を掛ける。
少し力を入れると、座席の下から板が前へ滑り出した。
「おお!」
「反対側も同じだ。完全な寝台ほど広くはねえが、一人なら十分横になれる」
「二人しか寝られない?」
モモが首を傾げる。
「中央へ寝板を渡せる」
ガイルが壁際に固定された細長い板を指した。
「長椅子を少し広げて、それを中央へ渡せば三人目も横になれる」
「じゃあ三人とも寝られるな」
「誰が真ん中です?」
モモが尋ねる。
「順番でいいだろ」
ルシルが答える。
「僕は椅子のままでも構いませんよ」
シモンが何気なく口にした瞬間、ルシルとモモがほぼ同時に彼を見る。
「駄目」
「駄目です」
シモンの眉がわずかに動いた。
「なぜです?」
「また自分だけ我慢する気だろ」
「別に我慢ではありません。僕は寝られます」
「そういう問題じゃない」
ルシルは少しだけ真面目な顔になる。
「三人で使う馬車なら、三人で順番にすればいいだろ」
モモも頷いた。
「私もそう思います。ルシル様だけでも、私だけでも、シモン君だけでもなくて、三人の馬車なんですよね?」
まだ買ってもいない。
けれど、その言葉が妙にしっくりきた。
シモンは二人を見比べ、少しだけ息を吐く。
「……分かりました。もしこれを買うなら順番にしましょう」
「よし」
ルシルは満足そうに頷いた。
次に折り畳み机を広げる。
三人で食事を並べるには少し小さいが、地図を広げたり、帳面をつけたりするには十分な大きさだった。
「これ、絶対シモン使うだろ」
「僕専用にしないでください」
「でも、ここで帳面書いてる姿すごく想像できる」
「僕も想像できました」
モモが笑う。
「ルシル様と私が横でお菓子を食べて、シモン君が家計簿を書いています」
「そんな未来が簡単に見えるのが嫌ですね」
「悪くないだろ」
「お二人が帳面へ食べかすを落とさなければ」
「そこ?」
車内を確認している間にも、外から風が窓を抜けていた。
木の匂い。
乾いた布の匂い。
まだ誰も暮らしていない、何も染み込んでいない空間。
ルシルは座ったまま車内を見回した。
豪華ではない。
王族が使う馬車に比べれば、飾り気などほとんどない。
金の装飾も、絹張りの座席も、王家の紋章もない。
けれど、不思議なほど嫌ではなかった。
むしろ。
「これ、好きかも」
自然に口から出た。
「僕も候補としては一番ですね」
シモンがすぐに答える。
「私もです」
モモも窓枠へ手を置きながら頷いた。
「棚があるから?」
ルシルが笑って尋ねる。
「それもありますけど、窓も大きいですし、中で寝られますし、雨の日でも三人で過ごせそうです」
「うん」
「それに、広すぎないのがいいです」
「広すぎない?」
「はい」
モモは一度、車内全体を見渡した。
「三人で使うのに、ちょうどいい気がします」
ルシルも同じことを感じていた。
広すぎない。
狭すぎない。
三人が同じ空間にいても窮屈ではなく、けれど離れすぎもしない。
ここへ毛布を置く。
地図を置く。
食器を置く。
旅先で買ったものが増えていく。
雨の日には三人で窓の外を眺めるかもしれない。
夜には机の上へ灯りを置き、その日の出来事を話すかもしれない。
そんな姿が、まだ買ってもいないのに少しだけ想像できた。
「シモン」
「はい」
「どう思う?」
ルシルが珍しく、自分から決める前にシモンへ尋ねた。
気に入った。
だからこそ勢いだけで決めたくない。
その意図を察したのか、シモンもいつもの真面目な表情で答える。
「車体だけで言えば、かなり条件に合っています。悪路性能、耐久性、居住性。収納魔法がある僕たちなら、積載量を増やす必要もほとんどありません」
「問題は?」
「重量ですね」
「やっぱり馬?」
「ええ。それから、車輪や車軸が普通より特殊です。旅先で故障した時、簡単に代用品を使えるとは限りません」
ガイルが頷いた。
「そこは正しい」
「予備はありますか?」
「車輪一本は付けられる。車軸用の補修材もある」
「完全に折れた場合は?」
「そこまでいったら街まで運ぶしかねえ。もっとも、普通の馬車でも似たようなもんだ」
「応急処置の方法は覚えておいた方がいいですね」
「買うなら教える」
その言葉へ、ルシルは即座に反応した。
「覚える」
「返事だけは本当に早いですね」
「自分たちで使うなら知っておきたい」
「それは良い考えです」
「シモンも教えてくれ」
「もちろんです」
そこまで言って、ルシルは少し笑う。
「『僕も』じゃなくていいのか?」
シモンが一瞬黙った。
「……細かいですね」
「いつも俺に言うから」
「変なところだけ吸収しますね」
モモが二人を見ながら笑った。
「私も覚えます」
「モモ、車軸とか分かる?」
ルシルが尋ねる。
「今は全く分かりません」
「正直だな」
「でも三人で使うんでしょう?」
「ああ」
「なら、分からないままにしたくないです」
その言葉に、ルシルは満足そうに頷いた。
三人は車内から降り、改めて外から馬車を眺める。
焦げ茶色の車体。
太い車輪。
少し高めの床。
派手さはない。
けれど、見れば見るほど長く使うには良さそうだった。
「乗り心地はどうなんだ?」
ルシルが尋ねる。
「普通の荷馬車よりはずっといい」
ガイルが車体の下を指差す。
「板ばねを入れてある」
「板ばね?」
「車体と車軸の間に、しなる金属板を重ねて入れてる。揺れを全部消せるわけじゃねえが、路面から来る衝撃をかなり減らせる」
シモンはすぐに屈み込み、実物を確認した。
「この部分ですか」
「そうだ」
「山道向けとしては理にかなっていますね」
「ただし、ここも壊れたら普通の馬車より修理が面倒だ」
「予備部品は?」
「最低限なら出せる」
二人が専門的な話を続ける横で、ルシルは半分ほどしか理解できていなかった。
「シモン、本当に全部分かってる?」
「大体は」
「すごいな」
「基礎知識です」
「俺には基礎じゃない」
「これから覚えてください」
「うん」
素直に答えると、シモンの表情がほんの少し柔らかくなる。
「では、実物を見ながら教えます」
「約束な」
「ええ」
ルシルはもう一度馬車を見上げた。
「これ、買いたい」
「馬を見る前に決めるな」
ガイルが即座に止めた。
「あ、そうだった」
「今かなり良い流れだったのに」
シモンが額へ手を当てる。
「気に入ったんだから仕方ないだろ」
「引ける馬がいなければどうするのです?」
「いるんだろ?」
ルシルがガイルを見る。
ガイルは少しだけ口角を上げた。
「いる」
「ほら」
「最初から馬と合わせて勧めるつもりだったのでしょう」
シモンがすぐに見抜く。
「ばれたか」
「商人ですね」
「職人でもある」
ガイルは笑いながら馬場の方へ歩き始めた。
三人も後に続く。
敷地の端には十頭ほどの馬が繋がれていた。
茶。
白。
黒。
灰。
同じ馬でも、近くで見ると体格も顔つきもずいぶん違う。
「こんなに違うんだな」
ルシルはゆっくり歩きながら、一頭ずつ見ていく。
「王城にも何頭もいましたよね?」
シモンが尋ねる。
「いたけど、ちゃんと見たことなかった」
必要な時には誰かが用意してくれた。
乗る馬の名前を聞くことはあっても、その性格や好みまで自分で知る必要はなかった。
「これからは毎日顔合わせるんだよな」
「購入すれば、ですが」
「シモン、今日はずっとそこ慎重だな」
「高い買い物ですから」
「正しい」
ガイルはさらに奥へ進み、二頭の大きな馬の前で止まった。
「こいつらだ」
一頭は栗毛。
もう一頭は黒に近い灰色。
どちらも普通の乗用馬より一回り大きく、肩や首には厚い筋肉が付いている。
「兄弟だ。栗毛が兄のトルク、灰毛が弟のベルク」
「名前あるんだな」
「当たり前だろ」
ルシルは興味を引かれ、すぐにトルクの方へ近づこうとした。
「待て」
ガイルの声で足を止める。
「いきなり正面から行くな。まず声掛けろ」
「あ」
王城では馬へ近づく前に誰かが必ず間に入っていた。
自分で最初から関わるのは、ほとんど初めてだ。
ルシルは少し緊張しながら距離を取ったまま声を掛ける。
「トルク?」
栗毛の馬が耳を動かした。
少しして、こちらへ顔を向ける。
「見た」
「今は声に反応しただけだ。自分の名前だって分かったわけじゃねえぞ」
「分かってる」
それでも嬉しい。
ガイルに教えられた通り、正面ではなく少し横からゆっくり近づく。手の甲を見せるように差し出すと、トルクが鼻先を寄せて匂いを嗅いだ。
「触っていいぞ」
恐る恐る首へ手を当てる。
温かい。
毛の下には思った以上に硬い筋肉があり、呼吸に合わせて身体がゆっくり動いている。
「でかいな」
「この馬車を長距離で引くなら、これくらいは欲しい」
モモもすぐ近くまでやってきた。
「私も触っていいですか?」
「声掛けてからな」
「トルクさん」
「さん付けするのか」
ルシルが笑う。
「初対面なので」
「馬にも礼儀正しいんだな」
モモがそっと手を差し出す。
トルクは匂いを嗅いだ後、そのまま鼻先を彼女の白い外套へ寄せた。
「近いです」
「何か匂いするんじゃねえか?」
ガイルが言う。
三人の視線が同時にモモへ向いた。
「……春雫?」
ルシルが思い出す。
「収納の中の匂いまで分かるわけないでしょう」
シモンが冷静に返す。
「でも昨日ずっと紙袋持ってた」
「外套へ甘い匂いが残っている可能性はありますね」
トルクはさらに鼻先を近づける。
モモの顔が嬉しそうに綻んだ。
「やっぱりお菓子が好きなんでしょうか」
「食わせるなよ」
シモンがすぐに釘を刺す。
「まだ何も言ってません」
「顔が言っています」
「それ、私にも使います?」
「使います」
ガイルが腹を抱えて笑った。
「トルクは食い意地張ってるからな! 甘い匂いには敏感だぞ」
「やっぱり!」
「菓子はやるなよ。人参とか果物なら少量にしとけ」
「分かりました」
モモは嬉しそうにトルクの首を撫でる。
「今度、人参ですね」
「買う前から約束するなよ」
ルシルが笑う。
「でも買うんでしょう?」
「買いたい」
「なら問題ありません」
「あるだろ。まだシモンの最終確認してない」
そう言われたシモンは、少し意外そうにルシルを見る。
「今日はちゃんと確認してくれるのですね」
「高い買い物って言ったのお前だろ」
「ええ。良い傾向です」
「だから褒め方が子供なんだって」
次はベルク。
黒に近い灰毛の馬は、トルクより少し離れた場所から三人を見ていた。
「こっちは?」
シモンが尋ねる。
「頑固」
ガイルの説明は短かった。
「ずいぶん簡潔ですね」
「知らん相手にはあんまり寄らせねえ。無理に触ろうとすると避ける」
「蹴ったりは?」
「滅多にねえ。ただ、嫌なものは嫌ってはっきりしてる」
シモンは少し距離を空けてベルクへ向き直った。
「ベルク」
灰毛の馬が耳を動かす。
シモンは急がない。
一歩近づき、止まる。
さらに一歩進み、また待つ。
「上手いな」
ガイルが感心したように言った。
「馬慣れしてるのか?」
「知識だけです」
「本当に理論だけでそこまでやるんだな」
ルシルも感心する。
ベルクはしばらくシモンを見ていた。
やがて鼻先を少しだけ前へ出し、差し出された手の匂いを嗅ぐ。
「触れる?」
ルシルが小声で尋ねる。
「まだです」
シモンも同じくらい小さな声で返した。
しばらく待つ。
ベルクが逃げない。
そこでシモンはゆっくり手を動かし、首筋へそっと触れた。
「おお」
「シモン君、好かれてます」
モモが嬉しそうに言う。
「まだ分かりません」
そう答えたシモンの声は、普段より少し柔らかかった。
ベルクも嫌がる様子を見せない。
「珍しいな」
ガイルが言った。
「初対面だと、もう少し時間かかるんだが」
「シモンと似てるんじゃない?」
ルシルが笑う。
「何がです?」
「頑固」
「ルシル様」
「真面目」
「言い直しても遅いです」
モモも口元を押さえて笑う。
「ベルクさんも苦労人なのかもしれません」
「馬にまで苦労人を増やさないでください」
トルクとベルクは、二頭で組ませると非常に息が合うらしい。
「ベルクは他の馬と組ませると少し揉めることがあるが、トルクとは小さい頃から一緒だからな。兄弟で引かせると安定してる」
「力は?」
「十分だ」
「山道も?」
「いける」
「速さは?」
「速さだけならもっと上がいる。ただ、長距離を安定して引くのは得意だ」
シモンは二頭の脚へ目を向ける。
「年齢は?」
「トルクが七、ベルクが六」
「働き盛りですね」
「病歴は?」
「なし。蹄も今のところ問題ねえ」
「歩かせてもらえますか?」
「もちろん」
ガイルが若い職人を呼び、二頭を少し離れた場所へ連れ出してもらう。
歩かせる。
軽く走らせる。
トルクは力強く地面を踏み、ベルクは余計な動きが少ない。並ぶと歩幅もよく合っていた。
「どう?」
ルシルがシモンを見る。
「僕へ最終判断を全部投げないでください」
「でも詳しいだろ」
「ガイルさんの説明と今の状態を見る限り、問題はなさそうです。少なくとも、あの馬車との組み合わせとしてはかなり良いと思います」
「モモは?」
「トルクさん好きです」
「理由は?」
「可愛いです」
「そこ?」
「食いしん坊仲間です」
「やっぱりそこか」
「ベルクさんも綺麗ですよ」
モモは二頭を見ながら柔らかく笑った。
「私は、この二頭がいいと思います」
ルシルも改めて二頭を見る。
トルク。
ベルク。
これから何日も、何十日も、一緒に道を進むかもしれない。
暑い日。
雨の日。
森。
山。
その先の海。
ただ「馬車を引く馬」という言葉だけでは、もう少し足りない気がした。
「俺も、この二頭がいい」
ルシルがそう言うと、シモンもベルクの首からゆっくり手を離した。
「異論ありません」
そこで初めて、三人の意見が揃った。
「じゃあ、いくら?」
ルシルがガイルへ尋ねる。
ガイルの顔が職人から商人へ切り替わった。
「馬車だけで金貨七十枚」
「高い?」
ルシルがすぐシモンを見る。
「性能を考えれば妥当です」
「トルクとベルクは?」
「二頭で三十八」
「合計百八」
「馬具は別で六」
「百十四」
「予備車輪と工具で四」
「百十八」
「飼料三日分と交換蹄鉄――」
「待って」
ルシルが片手を上げた。
「どんどん増えてない?」
「買い物だからな」
「シモン」
「必要です」
「まだ何も言ってないぞ」
「全部必要と言うつもりです」
ガイルが笑う。
「まとめて金貨百二十でどうだ」
「今増えた!」
「全部込みだ」
「さっき百十八だっただろ」
「飼料と蹄鉄がある」
「なるほど」
「納得しないでください」
シモンが会話へ入る。
黒縁眼鏡の位置を軽く直し、改めてガイルへ向き直った。
「馬車は未使用ですが、完成してからどれくらい経っていますか?」
「四月だ」
「実質、長期在庫ですね」
「痛いところ突くな」
「馬二頭も同時購入し、馬具、予備車輪、工具までまとめて買います。それなら金貨百十五程度が妥当では?」
「無理だ」
「では百十六」
「刻むな」
「百十七」
「上がってるじゃねえか」
「こちらも譲っています」
ルシルとモモは、少し離れたところから二人のやり取りを見ていた。
「シモン、すごいな」
「シモン君、少し楽しそうです」
「交渉です」
本人はすぐに否定したが、ルシルにはどこか生き生きして見えた。
ガイルは腕を組み、しばらく唸る。
「百十七。代わりに飼料は三日分までだ」
「予備蹄鉄は?」
「付ける」
「工具は?」
「基本一式」
「車輪一本」
「付ける」
「簡単な補修方法も教えてください」
「それは最初から教えるつもりだ」
シモンはそこで初めて頷いた。
「では、僕は妥当だと思います」
ルシルを見る。
「モモは?」
「私もいいと思います」
「俺も」
ルシルは迷わずガイルへ向き直る。
「買う」
ガイルが満足そうに笑った。
「毎度あり」
その瞬間、ルシルは反射的に馬車の方を見た。
さっきまでは、まだ店の商品だった。
今、その距離が一気に近づいた気がした。
「……俺たちの?」
「代金払えばな」
「払う」
「今すぐですか?」
シモンが少しだけ笑う。
「今すぐ」
「では共有資金から出します」
「うん」
昨日は、自分で稼いだ金を使って仲間へ夕食を奢った。
今日は、その何倍もの金を使って馬車と馬を買う。
桁は全く違う。
それでも、昨日と同じような高揚が胸の奥へ広がっていく。
「シモン」
「はい」
「金ある?」
「あります」
「よかった」
「ドラゴン素材をまだほとんど売っていない人たちが何を心配しているのですか」
「そうだった」
その言葉へ、ガイルが反応した。
「ドラゴン?」
三人の空気が一瞬だけ止まる。
ルシルはすぐに視線を逸らした。
「何でもない」
「いや、今――」
「素材の話です」
シモンが自然に割り込む。
「僕たちも冒険者ですから」
「ああ?」
ガイルは少し怪訝そうな顔をしたものの、それ以上は追及しなかった。
「まあ、客が何狩ってようが俺には関係ねえか」
会計は商会の事務所で行うことになった。
中には大きな机と帳簿棚があり、壁には馬車の部品表や簡単な街道地図が掛けられている。
事務員が契約書を用意し、羽根ペンを持った。
「購入者のお名前をお願いします」
「ルシル」
「姓は?」
そこで、ルシルはほんの少しだけ止まった。
以前なら。
名前の後には必ず家名が続いた。
その家名そのものが、ルシルの立場を示していた。
けれど今は。
「ない」
自分でも驚くほど自然に言えた。
「ルシルだけでいい」
事務員は一瞬だけ顔を上げたが、事情を聞くことはしなかった。
「承知しました」
「モモです」
「シモン」
三人の名前が並ぶ。
「所有者はどなたにしますか?」
事務員が尋ねた。
ルシルは少しだけモモとシモンを見る。
「三人共同ってできる?」
「できますが、少し珍しいですね」
「じゃあそれで」
迷いはなかった。
「三人で選んだんだから、三人のだろ」
モモが柔らかく笑う。
「はい」
シモンも静かに頷いた。
「それでお願いします」
契約書に三人の名が記される。
王子と聖女と側近ではない。
ただルシル、モモ、シモン。
その三人が、同じ一台の馬車の所有者として並んでいる。
ルシルはその紙を見ているだけで、不思議なくらい嬉しかった。
支払いを終え、書類を受け取る。
「これで正式にあんたらのもんだ」
ガイルが言った。
「引き渡しは明日の朝でもいいが、どうする?」
「今日乗って帰れる?」
ルシルが即座に尋ねる。
ガイルは少し黙った。
「御者経験は?」
三人も黙った。
「……ある?」
ルシルがシモンを見る。
「王城で基礎訓練を受けた程度です」
「僕も理論と短距離の経験なら」
モモが申し訳なさそうに手を挙げる。
「私はありません」
ガイルは額を押さえた。
「今日は置いてけ」
「えー」
「えー、じゃねえ」
「でも買ったばっかりだぞ」
「だから壊すなって言ってんだ」
「壊さない」
「馬も初対面だ」
その一言に、ルシルは口を閉じた。
トルク。
ベルク。
さっき触れたばかり。
いきなり慣れない人間が御者台へ乗り、知らない道を走らせる。
考えれば、確かに良くない。
「明日、ここで教える」
「本当?」
「馬具の付け方からだ。馬への声掛け、発進、停車、曲がり方。最低限そこまで覚えてから出ろ」
「修理も?」
「一日で全部詰め込むな。補修はその後だ」
「早く旅始めたいんだけど」
ルシルが少しだけ残念そうに言う。
するとガイルの表情が、ほんの少し真面目になった。
「だからこそ急ぐな」
声は強かった。
けれど怒鳴っているわけではない。
「馬車も馬も、あんたらがこれから命を預ける相手だ。買ったからすぐ使える道具だと思うな」
ルシルは一度、トルクとベルクの方を見る。
それから焦げ茶色の馬車。
確かに。
ただ所有しただけでは、自分たちの旅の相棒にはならない。
「分かった」
素直に頷く。
「明日、ちゃんと教えて」
「ああ」
「三人ともお願いします」
モモも頭を下げる。
「よろしくお願いします」
シモンも続いた。
ガイルは満足そうに頷いた。
「朝飯食ってから来い。空腹で馬車動かすと集中切れるぞ」
ルシルが思わず笑う。
「シモンと同じこと言うな」
「誰だそいつ」
「この真面目な眼鏡」
「ルシル様」
「お前か!」
ガイルが大声で笑った。
商会を出る前に、三人はもう一度馬車の前へ戻った。
夕方の光が屋根の隙間から差し込み、焦げ茶色の車体へ柔らかな橙色を落としている。
「明日から、これで旅するんですね」
モモが窓を見上げながら言う。
「まだ明日すぐ出るかは分からないぞ」
シモンが訂正する。
「練習次第です」
「でも、もう俺たちのだろ?」
ルシルは車体へそっと手を置いた。
少し冷たい木の感触。
まだ傷一つない。
泥もついていない。
知らない誰かの旅の匂いも残っていない。
「窓側、どこに座ります?」
モモが尋ねる。
「二つあるだろ」
「でも進行方向によって景色が違います」
「順番でいいんじゃない?」
「お菓子棚は?」
「一段です」
シモンが即答する。
「もう少し欲しいです」
「一段」
「シモン君」
「一段です」
「強いな」
ルシルが吹き出した。
笑いながら車体を見る。
王家の紋章はない。
豪華な金細工もない。
誰かがルシルのために用意したものでもない。
三人で見て。
三人で悩んで。
三人で決めた。
これから自分たちで使い、自分たちで手入れをして、自分たちで傷を増やしていく。
雨を浴びる日もあるだろう。
泥だらけになることもある。
中で食事をして、眠って、くだらないことで言い合いをして、同じ窓から景色を見る日もきっと来る。
そうやって少しずつ、この馬車は本当の意味で「自分たちのもの」になっていくのだろう。
「名前、付ける?」
ルシルがふと思いついて尋ねた。
モモは少し考え、首を傾げる。
「今ですか?」
「いや。何となく」
シモンも車体を見ながら言う。
「使ってからでもいいでしょう」
「そうだな」
「旅の途中で、何かきっかけがあるかもしれません」
ルシルはその言葉に頷いた。
「じゃあ、その時にしよう」
まだ名前はない。
今はそれでいい。
いつか名前を付けたくなるくらい、たくさんの道を一緒に走ればいい。
三人は最後にトルクとベルクのところへ向かった。
「また明日ですね」
モモがトルクの首を撫でる。
「人参、持ってきます」
「量は僕が確認します」
シモンがすぐ横から言う。
「シモン君、馬のおやつまで管理するんですか?」
「健康管理です」
「自分のお菓子管理と同じだと思ってない?」
ルシルが笑う。
「似たようなものです」
「一緒なんですか?」
「量を守る点では」
モモが少し不満そうな顔をする横で、ベルクは静かにシモンの方を見ていた。
「やっぱり好かれてる」
ルシルが言う。
「偶然です」
「明日も見てたら?」
「その時考えます」
「ベルクとシモン、絶対気が合うって」
「馬と性格を比較しないでください」
「真面目同士だろ」
「言い直しても同じです」
三人の笑い声が、夕方の馬車商会へ溶けていった。
明日は馬具の付け方を習う。
御者台へ座る。
トルクとベルクへ声を掛け、自分たちの手で初めて馬車を動かす。
ヘルガスへ着いた時には、何も決まっていなかった。
宿も。
旅道具も。
馬車も。
海へ向かうという大まかな目的以外、次にどこへ泊まり、どんな道を通るのかさえ知らなかった。
それでも今は、少しずつ増えている。
三人で選んだものが。
三人で決めたことが。
三人でこれから覚えていくことが。
ルシルは商会の門を出る前に、もう一度だけ振り返った。
焦げ茶色の馬車。
その横にいるトルクとベルク。
明日から。
いや。
もう今日から。
あれは、自分たちの旅の一部なのだ。
そう思うと、胸の奥がまた少しだけ温かくなった。




