第7話 旅に必要なものを、自分たちで選ぶということ
翌朝、ルシルが目を覚ました時、部屋の中にはすでに柔らかな朝の光が差し込んでいた。
薄い布のカーテン越しに射し込む光は王城の寝室で見ていたものよりずっと素朴で、けれど不思議なくらい穏やかだった。遠くから荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえ、通りでは店を開けるらしい人々の声も混じっている。
ルシルはしばらく寝台の上で天井を見つめていた。
誰も起こしに来ない。
扉の外から侍従が時刻を告げることもなく、今日の予定を読み上げる声もない。
昨夜は風呂へ入り、そのまま部屋へ戻って眠った。何時に寝ろとも言われず、何時に起きろとも決められていない。
「……朝か」
小さく呟き、身体を起こす。
寝癖のついた金髪を手で乱雑に整えながら窓へ近づくと、宿の前を行き交う人の数はすでにかなり増えていた。朝市へ向かうのか籠を持った女性が歩き、その横をパンを抱えた少年が駆け抜けていく。
昨日までは、見るもの全てに足を止めたくなった。
今日もその気持ちはあまり変わらない。
むしろ、一晩眠ったことで「今日は何をしよう」という期待の方が強くなっていた。
「まず朝飯だな」
旅の準備をする。
市場へ行く。
野営道具を見る。
馬車も探す。
街道の情報も必要だ。
昨日シモンが整理していた予定を思い出しながらも、ルシルの頭の中では最初に朝食が浮かんでいた。
身支度を整え、黒い外套を羽織る。
部屋の扉を開けると。
「おはようございます、ルシル様」
「うわっ」
すぐ横から声が飛んできた。
見ると、シモンが壁際に立っている。
きっちりと黒髪を整え、紺色の外套まで身につけた姿は、昨日と何ら変わらない。黒縁眼鏡の奥の目にも眠気はなく、どう見てもかなり前から起きていた人間の顔だった。
「何してるんだ?」
「待っていました」
「いつから?」
「少し前からです」
「その『少し』は信用できない」
ルシルは扉を閉めながら、じっとシモンを見る。
「何時に起きた?」
「いつも通りです」
「だから何時だ」
「夜明け前です」
「早い!」
廊下に少し大きな声が響き、階下から誰かの笑い声が聞こえた。
シモンは眉をわずかに寄せる。
「声を抑えてください」
「いや、でも昨日言っただろ。仕事ないんだから、もうちょっと寝ろって」
「習慣です」
「それも直そうって言った」
「一晩で直ると思いますか?」
「思わないけど、部屋の前で待つのはやめろ」
「ルシル様が起きる時間が分からないので」
「だから待たなくていいんだよ」
ルシルは思わず額へ手を当てた。
王城にいた頃なら当たり前だった。
シモンが先に起き、自分の予定を確認し、必要なら部屋の外で待機している。
それを何年も続けてきたのだ。
自由になったからといって、昨日今日で全部が変わるはずもない。
「シモン」
「はい」
「俺が起きたら、食堂で合流。それでいい」
「何かあった場合は?」
「宿の中だぞ?」
「それでも――」
「何かあったら大声で呼ぶ」
「ルシル様の大声はかなり通りますね」
「昨日草原で証明済みだ」
あの「自由だーーーー!!」を思い出したのか、シモンの口元がほんの少しだけ緩んだ。
「分かりました。明日からは、少なくとも部屋の前では待ちません」
「少なくとも?」
「まずは一段階ずつです」
「……まあいいか」
一気に全部変えろと言う方が無理なのだろう。
ルシル自身だって、王城で染みついた癖はまだ幾つも残っている。
「ところで、モモは?」
「まだ部屋です」
「起きてない?」
「たぶん」
その時。
廊下の奥にある扉が開いた。
「おはようございます……」
現れたモモは、いつもの柔らかな笑みこそ浮かべていたものの、明らかに目が半分しか開いていなかった。
腰まであるピンクゴールドの髪も普段より少し乱れており、白い外套を片腕に引っ掛けたままこちらへ歩いてくる。
「眠そうだな」
「眠いです」
「何時に寝た?」
「そんなに遅くないですよ」
「菓子食べた?」
「食べてません」
返事だけは速かった。
シモンが眼鏡越しにモモを見る。
「本当に?」
「本当です」
「紙袋を開けた形跡は?」
「ありません」
「確認しました?」
「してませんよね?」
ルシルが笑いながら割って入る。
「さすがに部屋まで監視してないだろ」
「していません」
「よかった」
モモが胸を撫で下ろす。
「でも、朝食の後なら食べてもいいですよね?」
「早いな」
「昨日買ったんですから」
「朝食が終わってから考えましょう」
シモンの返事を聞いたモモは、少しだけ頬を膨らませた。
三人で階段を降りていくと、一階の食堂はすでに朝の客で賑わっていた。
昨夜の酒場めいた騒がしさとは違い、朝は食器の音と控えめな会話が中心だ。仕事前らしい職人が急いでパンを口へ運び、旅装の男たちは地図を広げながら湯気の立つスープを飲んでいる。
「おはよう」
受付にいた女主人が三人へ手を上げた。
「よく眠れたかい?」
「ああ。すごく」
ルシルが答える。
「こっちは少し寝過ぎたみたいです」
モモが笑う。
「旅に出たばかりなら、それくらいでいいさ。朝飯はもう出せるよ」
「お願いします」
三人は昨日とは別の卓へ座った。
誰も席順を決めるわけではない。
ルシルは入口がよく見える位置へ座ろうとして、ふと途中で止まる。
「どうしました?」
モモが首を傾げる。
「いや」
ルシルは少し考え、窓際へ移った。
「こっちがいい」
「昨日も窓側でしたね」
「外見えるから」
何気ない選択。
けれど、まだ少し嬉しい。
朝食は、豆と野菜のスープ、焼きたての黒パン、目玉焼きに似た卵料理、それから薄切りの腸詰めだった。
豪華ではない。
それでも温かい。
「これ、美味いな」
ルシルはスープを一口飲んですぐに言った。
「昨日から食事の感想がほとんど『美味い』ですね」
シモンがパンを切りながら指摘する。
「美味いんだから仕方ないだろ」
「もう少し語彙を増やしてもいいのでは?」
「じゃあ……身体が温まる」
「それは感想として正しいです」
「褒められた」
「普通のことです」
モモが卵をパンへ載せながら笑う。
「ルシル様、昨日から褒められると本当に嬉しそうです」
「悪い?」
「いいえ。分かりやすくていいと思います」
「シモンももっと褒めろ」
「必要な時は」
「必要なくても」
「それは甘やかしです」
朝食を食べながら、シモンは今日の予定を改めて確認した。
「まず朝市を見ます。保存食、野営用品、薬品。それから馬車商会へ行きます」
「馬車、今日買う?」
「条件が合えば」
「馬も?」
「馬車と一緒に紹介してもらう方がいいでしょう。車体の重さや旅程に合う馬を選ぶ必要があります」
「二頭?」
「二頭立てを考えています。長距離ですし、荷物自体は収納魔法へ入れられますが、三人が乗ることを考えれば余裕があった方がいいです」
「俺、御者やりたい」
ルシルがすぐに言った。
「まだ買ってもいないのにですか」
「買ったら」
「習う必要があります」
「習う」
「馬の世話も」
「やる」
「蹄の確認、馬具の装着、飼料、給水、車輪や車軸の点検もです」
「全部やる」
返事が迷いなく続く。
シモンは少しだけ目を細めた。
「楽しそうですね」
「楽しいに決まってるだろ」
「まだ何もしていませんよ」
「これからするから楽しいんだ」
その言葉を聞いて、モモも小さく頷く。
「私も御者やってみたいです」
「モモも?」
「はい。ずっと乗っているだけだと眠くなりそうですし」
「危ない理由だな」
「ちゃんと覚えますよ」
シモンは二人を交互に見る。
「では、三人とも習う前提にしましょう」
「シモンも?」
「僕だけ覚えない理由がありません」
「シモンが一番上手そう」
「まだやっていません」
「でも、そういうの得意だろ」
「理論と実践は別です」
「また真面目な答え」
朝食を終えた頃には、外の通りもかなり賑やかになっていた。
三人は宿を出る。
空は晴れている。
昨夜より少し冷たい風が通りを抜けていたが、陽の当たる場所は暖かい。
朝市は中央広場から東側へ伸びる通りで開かれていた。
昨日の夕方にはなかった簡易屋台がずらりと並び、野菜、果物、肉、乾物、布、道具、古着、陶器まで様々な品が積まれている。
「すごいな」
ルシルが立ち止まりそうになる。
「全部見ると昼になりますよ」
シモンが先に釘を刺した。
「まだ何も言ってない」
「顔が言っています」
「昨日からそれ便利だな」
「実際分かりやすいので」
モモは別方向を見ていた。
「あっち、果物あります」
「モモ」
「見るだけです」
「菓子じゃないから止めてないよ」
「そうですか?」
「必要な分なら買いましょう」
シモンが言う。
「旅でも果物は欲しいですし」
「シモン君、今日は優しいです」
「食料ですから」
「お菓子も食料ですよ?」
「嗜好品です」
「差別です」
そんなやり取りをしながら、最初に立ち寄ったのは保存食を扱う店だった。
軒先には紐で束ねた干し肉、乾燥魚、豆の袋、硬焼きパンが積まれている。
店主は三人の旅装を見て、すぐに用途を察したらしい。
「長旅か?」
「ああ。南西へ行く予定だ」
ルシルが答える。
「なら硬パンだけは多めに持っときな。日持ちするからな」
「どれくらい?」
「乾燥させたままなら十日は余裕。食う時はスープへ浸すか、水で少し戻すといい」
ルシルは一つ手に取る。
硬い。
本当に硬い。
「これ、そのまま食べたら歯折れない?」
「若いなら大丈夫だ」
「基準が雑だな」
店主が豪快に笑った。
シモンは値段を確認しながら、必要量を淡々と計算している。
「収納魔法がありますから、通常より多めでも問題ありません。ただし、買いすぎる必要もないでしょう」
「腐らない?」
「収納内部の時間経過が極端に遅いので、普通よりは保ちます」
「ならいっぱい――」
「必要量です」
「先回りされた」
保存食は、干し肉、乾燥魚、豆、硬パン、乾燥野菜、塩、少量の香辛料を購入した。
さらに別の店で、林檎に似た赤い果実と黄色い柑橘系の果物をいくつか選ぶ。
モモは一つ一つ手に取り、匂いを確かめながら真剣に選んでいた。
「果物は厳選するんだな」
「甘いものは大切です」
「そこに繋がるのか」
「旅の楽しみです」
「まあ、それは分かる」
次に向かったのは道具屋。
店先からして旅人向けだと分かるほど、革袋、縄、火打石、簡易天幕、毛布、木製の食器などが所狭しと吊るされている。
中へ入ると、革と木、油の匂いが混じった独特の空気が鼻へ届いた。
「こういう店、好きだな」
ルシルが小さく言う。
「まだ何も見てませんよ」
「並んでるだけで楽しい」
「分かります」
珍しくモモがすぐ同意した。
「使い方が分からない物もいっぱいあります」
「それは危ない感想だな」
シモンは入口近くで店員へ声を掛けた。
「三人で長距離の旅を始めます。馬車を使う予定ですが、野営道具はほぼゼロです」
「なら一通り見た方がいいな」
出てきたのは、四十代ほどのがっしりした男だった。
前掛けには油染みがあり、腰には小さな金槌を下げている。
「寝るのは馬車か?」
「まだ車種が決まっていません」
「なら天幕は持ってけ。馬車が壊れた時にも使えるし、馬車で寝たくない夜もある」
「馬車で寝たくない夜?」
ルシルが聞く。
「暑い時期は中が蒸す。逆に景色のいい場所で外に寝たい奴もいる」
「それいいな」
「食いつくの早いですね」
シモンが苦笑する。
店員はまず三人用より少し大きめの簡易天幕を見せた。
布は厚手。
支柱は分割式。
地面へ打ち込む杭と縄も付いている。
「三人ならこれで十分だ。ただ、荷物を中へ入れるなら少し狭い」
「荷物は収納に入る」
ルシルが言う。
「収納魔法持ちか。そりゃ旅には強いな」
店員は特に驚きすぎることもなく頷いた。
ヘルガスのような冒険者の多い街なら、希少ではあるものの全く聞いたことがない能力でもないのだろう。
「じゃあ一張りでいいか」
「一人ずつじゃなくて?」
ルシルが尋ねる。
「別々に寝たいなら三張りでもいいが、設営も撤収も三倍だぞ」
「……一張りでいいな」
「早いですね」
「面倒なのは嫌だ」
「さっき全部覚えるって言ってましたよね」
「覚えるのと、毎回三倍やるのは違う」
「そこは合理的なんですね」
モモが天幕の布を指で触る。
「雨は大丈夫ですか?」
「普通の雨なら。豪雨なら木陰や地形も考えた方がいい。底布は別売りだが、あると地面の湿気を防げる」
「買いましょう」
シモンは即決した。
ルシルも頷く。
「寝る時、地面冷たいの嫌だし」
「毛布も必要ですね」
「三枚?」
「予備一枚込みで四枚でもいいでしょう」
「シモン、今日は買うな」
「必要な物です」
「昨日俺に買いすぎるなって言ってたのに」
「必要と浪費は違います」
「強い」
さらに水袋。
一人一つに加えて予備を二つ。
火打石。
太めの縄。
小さな手斧。
折り畳み式の木製椅子。
「これ欲しい」
ルシルが一脚を手に取る。
「地面に座ればいいのでは?」
シモンが冷静に言う。
「でも椅子あった方が楽だろ」
「収納があるから重さは問題ないです」
モモが援護する。
「三人で焚き火の前に並んで座れますよ」
「……」
シモンが椅子を見る。
実際、折り畳めば薄い。
収納魔法がある以上、荷物量を気にする必要はほぼない。
「三脚までです」
「シモンも欲しいんじゃないか」
「実用性を考えただけです」
「じゃあ買おう」
椅子三脚。
続いて調理用品。
鍋。
浅い鉄板。
焼き網。
木べら。
小さな包丁。
皿と椀。
匙。
収納用の蓋付き容器。
「料理、誰がする?」
モモが尋ねる。
三人が少し黙った。
「……シモン?」
ルシルが言う。
「なぜ僕を見るのです?」
「一番できそう」
「簡単なものなら作れますが、専門ではありません」
「モモは?」
「果物を切ったことはあります」
「料理は?」
「……お茶は淹れられます」
「俺は」
ルシルが少し考えた。
「肉焼くくらいならできると思う」
「やったことは?」
「ない」
「できると思う根拠は?」
「火に肉を置くだけだろ?」
シモンが深く息を吐く。
「野営初日に食材を無駄にしないよう、簡単なものからにしましょう」
「三人で作ればいいだろ」
「全員初心者寄りなのが問題です」
「でも楽しそうじゃない?」
モモが言う。
その声には、失敗するかもしれない不安より、初めて何かを一緒に作る期待の方がずっと強かった。
シモンもそれを感じたのか、しばらくしてから表情を少し緩める。
「……まあ、失敗しても食べられる範囲なら」
「決まり」
ルシルが嬉しそうに鍋を持ち上げる。
「最初の野営は三人で料理」
「ルシル様が火を強くしすぎないこと」
「まだやってないのに疑われた」
「想像できます」
「モモは?」
「私は野菜を切ります」
「指まで切らないように」
「シモン君まで私を信用してません?」
「安全第一です」
道具屋の男が、少し離れたところで三人の会話を聞いて笑っていた。
「初めての旅って感じだな」
「そんなに分かる?」
ルシルが尋ねる。
「分かるよ。慣れてる奴は買う物決めて入ってくる。あんたらは一個見るたび話し合ってる」
「悪い?」
「いや」
店員は首を横に振る。
「その方が楽しい時もあるさ」
その言葉に、ルシルは少しだけ笑った。
「俺もそう思う」
道具屋を出る頃には、収納魔法の中にかなりの物が増えていた。
とはいえ外見上は三人とも何も持っていない。
それが妙に可笑しくて、ルシルは通りを歩きながら笑った。
「こんなに買ったのに、手ぶらなんだよな」
「収納魔法の最大の利点の一つです」
シモンが答える。
「普通の旅人なら、馬車を買う前にここまで揃えない方がいいんだろうな」
「積載量がありますからね」
「俺たち、ずるくない?」
「能力を使っているだけです」
「モモは?」
振り返ると、モモは少し遅れていた。
薬屋の前で立ち止まっている。
「あ」
「次はあそこです」
シモンが予定を確認する。
「治療薬と解毒薬を見ます」
「俺たち必要?」
ルシルが聞く。
「自分たちだけなら、それほど必要ないでしょう」
三人とも高い戦闘力を持ち、回復手段もある。
それでもシモンは薬屋の入口へ向かった。
「ただ、旅の途中で怪我人や病人へ会う可能性があります」
「助ける用?」
「そうです」
ルシルは少しだけ目を細めた。
「買おう」
迷いのない返事だった。
薬屋の中は乾燥した薬草の香りで満ちていた。
棚には小瓶が並び、壁際には束ねた草や木の皮、粉薬の袋が整然と置かれている。
シモンは一般的な傷薬、軽度の解毒薬、止血用の薬草、熱冷ましを選んだ。
「高級品は?」
ルシルが尋ねる。
「必要なら僕たちの魔法を使った方が早いです。これは人へ渡すためのものなので、使用法が簡単な物を中心にします」
「なるほど」
「ルシル様が何でも高級品を配ると、それはそれで問題になります」
「なんで?」
「受け取る側が困ることもあります」
ルシルは少し考えた。
王城では、高価な薬を使うことに迷ったことなどない。
必要なら用意された。
けれど旅先では、相手にも生活がある。
「普通のものがいい時もあるんだな」
「ええ」
「覚えとく」
薬屋を出た後、三人は広場の端で一度休憩することにした。
買ったばかりの折り畳み椅子を出そうとするルシルを、シモンが止める。
「ここは街中です」
「試したい」
「広場に備え付けの長椅子があります」
「でも」
「野営まで我慢してください」
「ケチ」
「収納から出して片付ける方が手間です」
モモはルシルの隣で少し残念そうな顔をした。
「私も座ってみたかったです」
「モモまで」
「三脚並べたかったです」
「あとでやろう」
「はい」
仕方なく普通の長椅子へ三人並んで座る。
目の前では朝市の人の流れが続いていた。
商人が声を張り、子供が母親の手を引いて果物屋へ走る。
その中に自分たちもいる。
誰もルシルへ頭を下げない。
誰もモモへ祈りを求めない。
誰もシモンへ国政の相談を持ち込まない。
ただの旅人。
その感覚が、少しずつ身体へ馴染んできている。
「なあ」
ルシルが通りを見ながら言う。
「今日、すごい金使ってる?」
「まだ許容範囲です」
シモンが帳面を開く。
「正確な金額は後でまとめますが、旅用品としては妥当です」
「怒られない?」
「誰にです?」
ルシルは一瞬黙った。
以前なら。
王族の私的支出は記録され、必要なら管理担当者から報告を受けた。
自分が勝手に市場で椅子を買うことなど、そもそも想定されていない。
「……誰にも」
「そうでしょう」
シモンが帳面を閉じる。
「共有資金ですから、僕たち三人で納得して使えばいいんです」
三人。
その言葉が、ルシルには心地よかった。
「じゃあ次」
立ち上がる。
「馬車だな」
声に期待が滲む。
「まだ店を見るだけかもしれませんよ」
「いい馬車あったら買おう」
「条件を確認してからです」
「分かってる」
「本当に?」
「今日はちゃんと相談してるだろ」
「昨日よりは」
「成長」
モモが笑う。
三人は中央広場を離れ、街の西側へ向かった。
馬車商会が集まる区域へ近づくにつれ、通りの雰囲気が変わっていく。
大きな倉庫。
広い敷地。
馬の鳴き声。
乾草の匂い。
車輪を削る木工職人の音や、金属を叩く鍛冶の響きが混じって聞こえる。
「おお……」
ルシルの歩く速度が少し上がった。
「走らないでください」
「走ってない」
「かなり速くなりました」
「馬見える」
「子供みたいですね」
モモが楽しそうに言う。
「馬車買うの初めてなんだから仕方ないだろ」
「普通は初めてでもそこまで浮かれません」
「シモンは楽しみじゃないのか?」
「実用性は重要です」
「質問に答えてない」
シモンは少しだけ黙った。
目の前には、大小さまざまな馬車が並ぶ敷地が見えている。
荷車。
小型の一頭立て。
幌付き。
箱型。
旅客向け。
どれも形が違う。
「……少しは」
「ほら!」
「少しです」
「十分」
三人が目指しているのは、昨日ガルドたちから聞いた店ではない。
宿の女主人と道具屋の店主、それから市場で話を聞いた商人が揃って名前を挙げた馬車商会だった。
街の西端。
大きな木柵に囲まれた敷地。
入口の上には、丈夫そうな木製看板が掛かっている。
『ローデン馬車商会』
敷地内では何頭もの馬が繋がれ、奥の屋根付き作業場では職人たちが車輪を外した馬車を整備していた。
ルシルは入口で立ち止まり、目を輝かせながら中を見渡す。
「ここか」
「ええ」
シモンが帳面を閉じる。
「ガイル・ローデン。馬車の販売、修理、馬の仲介まで一通り扱っているそうです」
「入ろう」
「まだ僕の説明途中です」
「中で聞く」
「ルシル様」
モモがくすくす笑いながら二人の後へ続く。
「シモン君、今日は諦めた方がいいと思います」
「馬車を買うまでずっとこれですか?」
「たぶん」
ルシルはすでに敷地へ一歩踏み込んでいた。
すると、作業場の奥から太い声が飛んでくる。
「おう! 客か?」
三人が声の方を見る。
大柄な男が一人、車輪の横から立ち上がった。
四十代後半ほど。
日に焼けた肌。
太い腕。
短く刈った茶髪。
革の前掛けには木屑と油汚れがついている。
男は手についた汚れを布で拭きながら、三人を順番に見た。
「馬車を見るなら、ちょうどいい。今日は何台か戻ってきてる」
ルシルの顔がさらに明るくなる。
「旅用が欲しい」
「何人?」
「三人」
「荷物は?」
「ほとんど収納魔法」
「ほう」
男は少しだけ眉を上げた。
それから三人の外套、靴、装備を見て、最後にルシルへ視線を戻す。
「長旅か?」
「ああ」
「舗装路だけじゃない?」
「森も山も通る予定」
男の表情が変わる。
商売人としての笑みではなく、職人が条件を聞いた時の顔になった。
「なら、見た目で選ぶなよ」
「分かってる」
「本当か?」
シモンとモモが、ほぼ同時にルシルを見る。
「何で二人とも俺を見るんだ」
「少し前まで馬車を見て目を輝かせていたので」
「ルシル様なら格好いいのを選びそうです」
「ちゃんと性能見る!」
男が豪快に笑った。
「いいね。俺はガイル・ローデン。ここじゃ馬車は売るが、使えないもんを押しつける気はない」
ガイルは親指で敷地の奥を示した。
「旅用なら何台か候補がある。まず乗り方と行き先を聞かせてもらおうか」
ルシルは並んだ馬車へ目を向けた。
小さな一頭立て。
大きな幌馬車。
窓付きの箱型。
荷台の広い頑丈そうなもの。
王城では馬車は、乗る時にはすでに用意されていた。
自分が選ぶものではなかった。
けれど今度は違う。
これから何日も、何十日も。
もしかしたら何か月も。
三人で使う旅の相棒を、自分たちで選ぶ。
「よし」
ルシルは一度だけ深く息を吸い、隣にいるモモとシモンを見る。
「三人で決めよう」
モモは笑って頷いた。
「もちろんです」
シモンも並ぶ馬車を見渡しながら、眼鏡の位置を直す。
「見た目だけで決めなければ」
「まだ言うのか?」
「重要です」
ガイルの笑い声が、乾草と油の匂いが混じる馬車商会の中へ響いた。
こうして三人は、旅支度の中でも一番大きな買い物へ足を踏み入れた。
食べ物を選ぶのとは違う。
菓子を選ぶのとも違う。
これから先の道を、一緒に走るためのもの。
その一台を探す時間まで、ルシルにとってはもう旅の一部になり始めていた。




