第6話 元王子は、仲間に夕食を奢るだけでこんなにも嬉しい
菓子店『春雫』の扉を開けた瞬間、ルシルたちは甘く温かな香りに包まれた。
焼きたての小麦に蜂蜜、煮詰めた果実、それから炒った木の実の香ばしさ。幾つもの匂いが狭い店内で柔らかく混ざり合い、夕暮れの通りから入ってきた三人を、外とはまるで違う空気で迎えてくれる。
店そのものは、それほど広くない。大人が十人も入れば少し窮屈に感じる程度の空間で、壁際には木製の棚が並び、そこへ焼き菓子や飴、果実を使った小さな菓子が所狭しと置かれていた。
正面には丸い焼き菓子が幾種類も籠へ盛られ、右側の棚には赤や黄色の果実を練り込んだ小ぶりなパンが並んでいる。反対側には透明な瓶へ詰められた飴や砂糖を薄くまとわせた木の実があり、奥の厨房からは天板を置く乾いた音や、誰かが生地を混ぜる音まで聞こえてきた。
「……すごい」
店へ入ったところで、モモが立ち止まった。
新緑色の瞳が棚から棚へ忙しなく動いている。普段なら周囲へ向ける柔らかな笑みも今はすっかり消え、目の前に並ぶ菓子を一つたりとも見逃すまいとするような、妙に真剣な表情になっていた。
「全部、美味しそうです」
「二つまでですよ」
モモが何かを言うより先に、シモンが釘を刺した。
その声音は静かなものだったが、モモはゆっくりと振り返り、いかにも心外そうな顔をする。
「まだ何も言っていません」
「顔が言っています」
「私の顔は喋りませんよ?」
「では、目が言っています」
「目も喋りません」
「棚の端から端まで全部買いたい、と書いてあります」
あまりにも淡々と言われたせいで、ルシルは横で吹き出しかけた。モモはそんな彼を一度睨んでから、今度はシモンへ不満そうに頬を膨らませる。
「シモン君は、私を何だと思っているんですか?」
「菓子を前にすると判断力が少し弱くなる方です」
「失礼ですね」
「神殿の祭礼用に用意された蜂蜜菓子を、配布前日に七個も味見した方へ言っています」
「あれは味見を頼まれたんです」
「普通の味見なら一個で十分です」
「形が違いました」
「味は同じでした」
「食感が少し違ったかもしれません」
「結果は?」
「全部美味しかったです」
「でしょうね」
最後まで真顔で返したシモンに、今度こそルシルは堪えきれず笑った。
「お前ら、本当に昔から変わらないな」
「ルシル様まで笑わないでください」
「いや、だって七個は多いだろ」
「必要な確認だったんです」
「七回も?」
「念入りな確認です」
「それを食べたかっただけと言うんじゃないか?」
「違います」
即答だった。
ただし、モモは少しだけ視線を逸らしている。
ルシルは笑いながらも、そんな彼女の姿をどこか新鮮な気持ちで眺めていた。
モモが甘い物を好むことは昔から知っている。けれど、神殿にいた頃はここまで無邪気に菓子へ目を輝かせる姿を見る機会は、思い返してみれば驚くほど少なかった。
聖女。
神殿の象徴。
祈りを捧げる者たちの希望。
いつだって、そうした役割が「モモ」という一人の少女より先にあった。
それは、王族だった自分にもよく分かる。
欲しいと言う前に用意され、食べたいと口にする前に相応しい物が出される。恵まれてはいたが、自分で店へ入り、自分で棚を眺め、何を買うか悩むような経験はほとんどない。
そう考えながら店内を見回していると、今度はルシル自身の足が自然と一つの棚へ向かった。
「これ、何だろうな」
そこには薄く焼いた生地へ琥珀色の蜜を塗り、その上へ細かく砕いた木の実を散らした菓子が並んでいた。王城で見たどの菓子とも少し違い、華美ではないのに妙に美味しそうに見える。
「ルシル様も買うんですか?」
モモがすぐに反応した。
「駄目なのか?」
「いえ。むしろ一緒に選びましょう!」
先ほどまでシモンへ不満そうな顔を向けていたとは思えないほど、モモの表情が明るくなる。彼女はすぐにルシルの隣へ移動し、二人並んで棚を覗き込んだ。
「これ、赤い実が入っています」
「木苺か?」
「たぶんです。こっちは黄色い果物ですね」
「蜂蜜も使ってそうだな」
「その隣は?」
「木の実……だと思うけど、聞いた方が早いか」
王城にいた頃なら、菓子の名前や素材を自分で推測する必要などなかった。
侍従が説明し、料理人が食材を選び、客人がいるなら外交的な意味まで考慮された菓子が用意される。ルシルはそれを受け取り、食べるだけだった。
今は誰も教えてくれない。
分からなければ、自分で考えるか、店の者へ聞けばいい。
そんな当たり前のことが、ルシルには妙に面白かった。
「ルシル様まで完全に夢中になっていますね」
後ろからシモンの呆れた声が飛んできた。
「初めてなんだから仕方ないだろ」
「王城で菓子は何度も食べていたでしょう」
「食べたことはある。でも、こうして店へ来て自分で選ぶのは初めてだ」
ルシルは振り返り、ふと思いついたように尋ねた。
「シモンはあるのか?」
「あります」
「いつ?」
「王都の市場調査中に」
「仕事じゃないか」
「購入したことには変わりません」
「何を買った?」
「焼き菓子を一つです」
「誰と?」
「一人です」
「楽しかったか?」
シモンが黙った。
ほんの短い沈黙だったが、それだけで答えは十分だった。
「楽しくなかったんだな」
「市場価格を把握するための調査でしたから、楽しさを求めていません」
「なら今日は楽しめ」
「僕は別に菓子を食べたいとは――」
「シモン君」
モモが割り込む。
いつの間にか小さな買い物籠まで手にしていた。
「シモン君も選びましょう」
「要りません」
「駄目です」
「なぜです?」
「三人で一緒に選ぶからです」
「その話を僕は初めて聞いたのですが」
「今決まりました」
「勝手ですね」
「自由な旅なので」
「その言葉を都合よく使わないでください」
シモンが眉間を軽く押さえる。
ルシルは二人のやり取りに笑いながらも、少しだけ真面目な表情になった。
「でも、シモン」
「何でしょう」
「お前も自分のために何か選んでみろよ」
「自分のために?」
「ああ」
ルシルは棚に並ぶ菓子へ目を向けた。
「王城にいた頃、お前は俺より自分のことを後回しにしてた」
「側近ですから」
「今は違う」
その一言で、シモンが黙る。
「もう側近じゃない。旅仲間だろ」
そう口にした瞬間、ルシル自身の胸の奥にも小さな温かさが広がった。
まだ完全には慣れていない。
長い間、シモンは自分の側近だった。後ろへ立ち、予定を管理し、国政を補佐し、危険があれば自分より先へ出た。
けれど今は違う。
同じ道を歩く仲間だ。
「俺だけじゃない。お前も自由になったんだから、食べたいものくらい自分で決めろ」
「菓子を買うだけですよ?」
「だからいいんだ」
大きな決断ではない。
人生を左右するものでもない。
たった一つの菓子を、自分が食べたいという理由だけで選ぶ。それくらい小さなことからでいいのだと、ルシルは今なら思える。
シモンはしばらく棚を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「……では、一つだけ」
「二つでもいいぞ」
「一つで十分です」
「シモン君、遠慮していますね?」
「していません」
モモが棚を覗き込み、すぐに一つを指差した。
「この木の実菓子、美味しそうですよ」
「甘すぎるものは苦手です」
「では、こっちの塩味の焼き菓子は?」
シモンの視線が、一瞬だけそちらへ動く。
モモは見逃さなかった。
「今、見ましたね」
「見るくらいはします」
「決まりです」
「まだ決めていません」
「顔が言っています」
「僕の言葉を返さないでください」
そんなやり取りをしていると、厨房の奥から楽しそうな笑い声が聞こえた。
「ずいぶん楽しそうに選んでくれるねえ」
三人が振り返る。
奥から出てきたのは、六十歳ほどの女性だった。
白髪の混じった茶髪を布でまとめ、粉のついた前掛けを身につけている。手には焼き上がったばかりらしい菓子を載せた天板を持ち、三人を見る顔には優しい笑みが浮かんでいた。
「いらっしゃい。旅の人かい?」
「ああ。今日、ヘルガスへ着いた」
ルシルが答える。
「それはお疲れ様。初めてなら、うちの菓子もぜひ味わっていっておくれ」
「どれがお勧めですか?」
モモが一歩前へ出た。
勢いに押された店主は少し目を丸くしたあと、すぐに楽しそうに笑った。
「そうだねえ。初めてなら、果実蜜の焼き菓子か、春雫クッキーかな」
「春雫?」
「店の名前と同じだよ。薄く焼いた生地へ蜂蜜を塗って、細かな砂糖を散らしてある。噛んだ後に砂糖がゆっくり溶けて、甘さが雫みたいに広がるから、そう呼んでるのさ」
「それにします!」
モモは即答した。
「まだ一つ目だぞ」
ルシルが笑う。
「一つは決まりました。もう一つが問題です」
そこからモモは再び真剣に悩み始めた。
赤い果実。
黄色い果実。
木の実。
蜂蜜。
たった一つを選ぶだけなのに、眉を寄せたり首を傾げたりしながら何度も棚を往復する。
店主はその様子を微笑ましそうに見つめていた。
「そんなに悩んでもらえるなら、作った甲斐があるよ」
「二つまでと言われているので」
「もっと買ってもいいんじゃないかい?」
「駄目です」
シモンが即答した。
店主、モモ、ルシルの視線が一斉にシモンへ集まる。
「……僕が悪者みたいになるのをやめてください」
「店主さんもいいって言っています」
「店主としては買ってほしいでしょう」
「まあ、それはそうだね」
店主があっさり認めたことで、モモの援護は途切れた。
「でも、旅の途中なら食べきれる分だけ買う方がいいよ。うちは保存料を使っていないからね。長く置くより、早く食べた方が美味しい」
「ほら」
シモンが少し得意げに言う。
「二つで十分です」
モモはしばらく悔しそうに黙っていたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「では、明日また来ます」
「毎日来るつもりですか」
「滞在は二日ですよね?」
「そうですが」
「明日の分は明日買えばいいんです」
完全に抜け道を見つけた顔だった。
ルシルは堪えきれずに笑い出す。
「モモの勝ちだな」
「何の勝負なのですか」
「菓子を買わせるかどうかの戦い」
「そんな戦いをしていません」
結局、モモは春雫クッキーと赤い果実を練り込んだ焼き菓子を一つずつ選んだ。
ルシルは蜂蜜と木の実を使った少し硬めの焼き菓子を一つ。シモンは最後まで一つだけでいいと言い張り、塩と香草を混ぜ込んだ甘くない焼き菓子を選んだ。
会計の段階になり、ルシルは懐へ手を入れた。
そこには、今日初めて自分たちで稼いだ金貨が一枚ある。
「俺が払う」
「菓子は共有資金からです」
シモンが先に銀貨を出した。
「俺が払ってもいいだろ」
「その金貨は、夕食を奢るために使うと決めたでしょう」
「釣りが出る」
「初めて自分で稼いだ金貨だから手元に置いていたのでは?」
「使いたいんだ」
「だから夕食で使ってください」
ルシルは少し不満そうに金貨へ触れた。
そのやり取りを見ていた店主が、優しい声で尋ねる。
「大事な金貨なのかい?」
「ああ」
ルシルは指先で一枚を取り出し、掌へ載せた。
「今日、初めて自分で稼いだ金なんだ」
「初めて?」
「今までは……自分で金を稼ぐ必要がない生活だった」
王子だったとは言わない。
けれど、嘘でもない。
店主は一瞬だけ不思議そうな顔をしたものの、事情を詮索しようとはしなかった。
「なら、大切に使いな」
「ああ」
「金は、貯めるだけでも使うだけでも駄目さ。自分が嬉しくなる使い方を一つくらい知っているといい」
「嬉しくなる使い方?」
「そうさ。腹いっぱい食べるでもいい。誰かへ贈るでもいい。旅に必要な靴を買うでもいい。後になって、あの時あの金を使ってよかったって思えるなら、それが一番だよ」
ルシルは掌の金貨をしばらく見つめた。
王城では、金貨を数字としてしか見ていなかった。
国庫。
軍費。
外交費。
災害支援。
一度に何千、何万という単位が動く。
けれど今、手の中の一枚の方がずっと重い。
「覚えておく」
「そうしな」
店を出る頃には、空の橙色がかなり濃くなっていた。
中央広場では魔道具の街灯が一つずつ灯り始め、仕事帰りの人々や夕食の買い物をする者たちで、昼間とは違う賑わいが生まれている。
モモは購入した紙袋を両手で大切そうに抱えていた。
「今、食べるなよ」
ルシルが横から言う。
「分かっています」
「夕食前ですからね」
シモンも続ける。
「分かっていますってば」
モモは少し不満そうに返しながら数歩歩き、紙袋へ視線を落とした。
「見るだけです」
「誰も何も言ってないぞ」
「念のためです」
「匂いを嗅ぐだけなら、食べたことにはなりませんよね?」
「余計に食べたくなるだけです」
シモンに言われ、モモは紙袋へ近づけかけた顔を戻した。
「……それもそうですね」
「意外と素直だな」
「お腹が空いている時に開けたら、我慢できる自信がありません」
「それを素直と言うべきかは迷うな」
三人は中央広場から南側へ延びる通りへ入った。
目指すのは、ガルドたちに教えてもらった肉料理の店『跳ね鹿亭』。
道を進むほど、焼いた肉や香草の匂いが濃くなっていく。
「こっちだな」
ルシルが迷いなく角を曲がろうとする。
だがシモンがすぐに腕を掴んだ。
「看板を確認してください」
「匂いで分かる」
「似た店が隣にあったらどうするのです?」
「美味そうならそっちでもいい」
「目的の店へ行く話でしょう」
「美味ければ結果は同じじゃないか?」
「自由を理由に適当にならないでください」
「その言葉、今日何回目だ?」
「何度でも言います」
モモが二人の後ろで楽しそうに笑う。
「やっぱりシモン君、ルシル様のお世話係みたいですね」
「僕も最近、少しそう思っています」
「本人の前で認めるな」
「王城を出れば仕事が減ると思っていたのですが」
「減ってないのか?」
「種類が変わりました」
「どんなふうに?」
「王子の政務補佐から、自由になって浮かれている元王子の生活管理です」
「悪化してるじゃないか」
「僕もそう思います」
「シモン君、頑張ってください」
「モモも管理対象です」
「私は違います」
「先ほど菓子の紙袋を開けかけていた人が言いますか?」
モモは一瞬だけ黙り。
「……頑張ってください」
「逃げましたね」
三人がそんなやり取りをしながら進んでいるうちに、目的の店が見えてきた。
『跳ね鹿亭』
大きな木製看板には、名前通り飛び跳ねる鹿が描かれている。二階建ての建物からは温かな灯りが漏れ、扉を開ける前から笑い声と食器の音が外まで聞こえていた。
そして何より。
「いい匂いだ」
ルシルの腹が反応した。
焼かれた肉の脂、香草、煮込み料理、香ばしいパン。様々な匂いが混ざり、空腹を一気に刺激する。
「さっき菓子屋にいた時より顔が嬉しそうですね」
シモンが言う。
「肉だからな」
「ルシル様は分かりやすいです」
「お前も腹減ってるだろ?」
「多少は」
「素直じゃないな」
ルシルが扉を開ける。
「いらっしゃい!」
入った瞬間、威勢のいい声が飛んできた。
店内はかなり広く、二十近い卓が並び、その半分以上がすでに客で埋まっていた。冒険者、職人、商人、家族連れと、身なりの違う様々な者たちが同じ場所で食事を楽しんでいる。
壁には鹿や猪の角が飾られ、奥の厨房では大きな鉄板の上で肉が焼かれていた。脂が火へ落ちるたび炎が一瞬大きくなり、その度に店内へ香ばしい匂いが広がる。
その匂いへ完全に意識を持っていかれたのか。
ぐう。
ルシルの腹が正直に鳴った。
モモがゆっくり振り返る。
「ルシル様?」
「聞くな」
「お腹空きましたね」
「お前もだろ」
「はい♪」
「お二人とも、昼食をかなり食べていたはずですが」
「歩いた」
「私も歩きました」
「僕もです」
「じゃあ皆腹減ってる」
「同じ距離を歩いたことと空腹は別です」
そこへ店員らしい若い男が近づいてきた。
「三人かい?」
「ああ」
「ちょうど奥の席が空いた。案内するよ」
通されたのは、店の奥側にある窓際の丸卓だった。
ルシルが窓側へ座り、モモがその隣。シモンが二人の正面へ腰を下ろす。
誰も上座を決めない。
誰も席順を気にしない。
ルシルは椅子へ腰を落ち着けたところで、またその小さな違いへ気づいた。
「何か嬉しそうですね」
モモが尋ねる。
「座りたいところへ座っただけなんだけどな」
「それが?」
「王城じゃ、それすら決まってたから」
王族としての序列。
客人との関係。
外交上の配慮。
どこへ座るかにも意味があった。
今は、窓の外が見たいから窓側。
それだけ。
「こういうの、まだいちいち嬉しいんだよ」
ルシルが少し照れ臭そうに笑う。
シモンは何もからかわなかった。
「そのうち、当たり前になりますよ」
「そうかな」
「たぶん」
「当たり前になっても、忘れたくないな」
その言葉に、モモもシモンもすぐには返さなかった。
やがてモモが柔らかく笑う。
「なら、忘れないようにいっぱい楽しみましょう」
「そうだな」
店員から献立板を受け取る。
そこには料理名がずらりと並んでいた。
鹿肉の香草焼き。
猪肉の赤酒煮。
鶏肉と根菜の蒸し焼き。
魚と豆の煮込み。
焼きたてのパン。
季節野菜のスープ。
薄切り肉と香草の盛り合わせ。
ルシルは真剣に読み始める。
「全部分からない」
「文字は読めているでしょう」
「そうじゃない。味が分からない」
「店員へ聞けばいいのでは?」
モモがごく自然に言う。
ルシルは一瞬止まった。
「聞いていいのか?」
「どうして駄目なんです?」
「王城じゃ、料理人に直接聞くことなんてほとんどなかった」
「では、今聞きましょう」
ちょうど水を運んできた店員へ、ルシルは少しだけ慣れない様子で声を掛けた。
「すまない」
「はいよ」
「この店で一番のお勧めは何だ?」
店員はすぐに嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「初めてかい?」
「ああ」
「なら鹿肉の香草焼きだ。店の名前にもなってるだろ? ヘルガス北の森で獲れる跳ね鹿を使ってる。脂は少ないけど柔らかくて、香草と塩だけでも十分美味い」
「それにする」
「即決ですか」
シモンが呆れたように言う。
「一番のお勧めなんだろ?」
「他にも聞けばいいでしょう」
「じゃあ二番は?」
ルシルが店員へ尋ね直す。
「今夜なら猪の赤酒煮だな。朝から煮込んでる」
「それも頼む」
「増えましたね」
「三人いる」
モモも献立板を見ながら口を開く。
「私は鶏肉と根菜の蒸し焼きが気になります」
「頼もう」
「魚と豆の煮込みも」
「それも――」
「ルシル様」
シモンの声が少し低くなる。
「何だ?」
「三人です」
「分かってる」
「今、肉料理三品と魚料理一品になりかけています」
「野菜も必要だな」
「そういう意味ではありません」
「スープも」
「聞いてください」
ルシルは献立板から顔を上げた。
「今日は俺が払うんだぞ?」
「だからこそ止めているのです」
「初めて仲間へ奢る夕食なんだ。好きなもの食わせてくれ」
その言葉に、シモンが少し黙る。
モモも献立板から顔を上げた。
ルシルの表情は、本当に楽しそうだった。
見栄を張っているわけでもない。
王族らしい振る舞いをしたいわけでもない。
ただ二人へ食事を奢れることが嬉しい。
「食べ切れる範囲にしてください」
シモンが譲る。
「分かった」
「残したらもったいないですよ」
モモも珍しくシモン側へ回った。
「じゃあ鹿肉、猪肉、鶏肉、スープ、パン」
「魚は?」
「明日」
「それなら大丈夫でしょう」
「シモンは?」
「僕は皆さんが選んだもので十分です」
「駄目だ」
「なぜです?」
「さっき言っただろ。今日は好きなものを食え」
「十分好きな料理が含まれています」
「一番食べたいものは?」
シモンは少し迷った。
視線が献立板の下へ動く。
「……豆と腸詰めの煮込みを」
「それも頼もう」
「結局増えましたね」
「お前が食べたいって言ったんだ」
「ルシル様が言わせたのです」
「でも食いたいんだろ?」
シモンは少しだけ視線を逸らした。
「……はい」
「なら決まりだ」
ルシルは満足そうに笑う。
店員が注文を復唱する。
「鹿香草焼き、猪赤酒煮、鶏と根菜の蒸し焼き、豆と腸詰め煮込み、野菜スープ、大パン三つ」
「ああ」
「飲み物は?」
「何がある?」
「麦酒、果実酒、蜂蜜酒、果実水、茶だ」
「酒――」
「果実水で」
ルシルが言い切る前に、シモンが遮った。
「なぜだ」
「今日はやめておきましょう」
「一杯くらい」
「自由になった初日に、酔って何かしでかす姿が簡単に想像できます」
「失礼だな」
「僕も同感です」
モモまで頷いた。
「お前はどっちの味方だ」
「楽しい方です」
「なら酒だろ」
「酔ったルシル様を運ぶのは楽しそうではありません」
「潰れる前提なのか」
「王城では飲酒量を管理されていましたよね?」
「だから自分がどれくらい飲めるか知らない」
「なおさら駄目です」
結局、三人とも果実水になった。
ルシルは不満そうだったが、届いた冷たい果実水を一口飲んだ途端、すぐに表情を緩める。
「美味い」
「単純ですね」
「美味いものを美味いと言って何が悪い」
「何も悪くありません」
料理が来るまでの間、三人は明日の予定について話した。
「明日はどうする?」
ルシルが尋ねる。
「まず必要な物資の確認です」
シモンが答える。
「衣類、野営道具、薬品、食料。それから馬車を見るなら馬と飼料、街道情報も必要です」
「海へ向かうんだよな」
「最終的には」
「山を越えて」
「ええ。ただし、いきなり山へ入るわけではありません。しばらくは街道沿いです」
「途中に町は?」
「小さな宿場町が幾つかあります」
「全部寄ろう」
「全部ですか?」
「せっかくなんだから」
シモンは少しだけ眉を寄せた。
「旅程が延びますよ」
「急いでないだろ」
「……そうですね」
「嫌か?」
「いえ」
シモンは少し考えたあと、卓上へ置いていた地図へ目を落とした。
「急ぐ理由がないのであれば、寄っても問題ありません」
「シモンが寄り道を認めた」
「予定に支障がない範囲です」
「前より柔らかくなったな」
「何がです?」
「旅に」
「まだ一日目です」
「これからだ」
モモが嬉しそうに笑う。
「シモン君も、いっぱい楽しみましょうね」
「もちろんです。ただし安全第一です」
「そこは変わらないんだな」
「変わる必要がありません」
その時。
「お待たせ!」
店員の声とともに、最初の料理が運ばれてきた。
大きな木皿へ載った鹿肉の香草焼き。
表面には香ばしい焼き色がつき、刻まれた緑の香草が散らされている。熱い肉汁が皿へ流れ、香りが一気に三人のところまで広がった。
「おお……」
ルシルが身を乗り出す。
「まだ全部揃っていませんよ」
シモンが言う。
「先に食べちゃ駄目なのか?」
「駄目とは言っていません」
「なら食べる」
ルシルは早速一切れ取った。
口へ運び、ゆっくり噛む。
王城で食べた最高級の肉ほど柔らかくはない。
けれど、少し弾力のある肉からは噛むたびに旨味が出てくる。塩気と香草の香りも強すぎず、肉そのものの味を引き立てていた。
「……美味い」
「どうです?」
モモが尋ねる。
「食べてみろ」
ルシルは一切れをモモの皿へ置いた。
「自分で取れますよ?」
「いいだろ」
モモは小さく笑い、口へ運ぶ。
「……美味しいです」
「だろ?」
今度はシモンへ一切れ。
「ほら」
「自分で取れます」
「分かってる。今日は奢る側だから、ちょっとやってみたい」
「何をです?」
「仲間の皿に料理を置くの」
「それも初めてなのですか」
「たぶん」
シモンは少し呆れたような顔をしたが、最後には素直に肉を口へ運んだ。
「では、いただきます」
数度噛み。
「……美味しいですね」
「だろ!」
「なぜルシル様が作ったように誇らしげなのですか」
「俺が選んだ」
「店員のお勧めですが」
「細かいな」
その後も料理が次々に届いた。
赤酒で長時間煮込まれた猪肉は、匙を入れるだけで崩れるほど柔らかい。鶏肉と根菜の蒸し焼きは肉の脂を吸った芋や人参まで美味しく、モモは最初に野菜だけを食べて驚いたような顔をした。
シモンが選んだ豆と腸詰めの煮込みは見た目こそ地味だったが、味は濃く、焼きたてのパンとよく合った。
「シモン」
「何です?」
「これ、一番好きかもしれない」
「僕が選んだ料理ですが」
「皆で分けるんだろ」
「僕の分を多めに残してください」
ルシルが目を丸くする。
「珍しいな」
「何がです?」
「シモンが食べ物で欲張った」
「食べたいものを食べろと言ったのはルシル様ですよね」
「そうだった」
ルシルの顔に、心から嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「なら食え。もっと」
煮込みの皿をシモン側へ少し寄せる。
「こんなに要りません」
「遠慮するな」
「遠慮ではなく量の問題です」
「シモン君、私も手伝います」
モモが匙を伸ばす。
「なぜモモが食べるのですか」
「助け合いです」
「ただ食べたいだけでしょう」
「はい♪」
食事はゆっくり進んだ。
王城の晩餐とは全く違う。
次々に給仕が皿を交換することもない。
背後で誰かが一挙手一投足を見ていることもない。
食べたい時に食べ、話したい時に話し、笑いたければ笑う。
途中、モモが『春雫』の紙袋へ手を伸ばしかけ、シモンが無言で視線を向けた。
「開けてません」
「手を伸ばしていました」
「確認しただけです」
「夕食後にしてください」
「食べられるかな……」
「さっきまで食べる気だっただろ」
ルシルが笑う。
「お腹いっぱいになってきました」
「まだ鹿肉残ってるぞ」
「ルシル様が食べてください」
「じゃあ俺が――」
ルシルが皿へ手を伸ばした瞬間、モモの手も同時に動いた。
最後の一切れ。
二人の手が止まる。
「モモ」
「何ですか?」
「今、俺に食べろって言ったよな」
「言いました」
「じゃあこれは俺のだ」
「でも、見たら食べたくなりました」
「駄目だ」
「早い者勝ちです」
「まだ取ってない」
「だから今からです」
「待て」
「いただきます♪」
最後の一切れが、ひょいとモモの皿へ移る。
「おい!」
「自由な旅では、油断すると食べ物を取られるんですね」
「そんな教訓あるか!」
そこへ席を離れていたシモンが戻ってくる。
「何をしているのですか」
「モモが俺の肉取った」
「共有皿の料理でしょう」
「俺が取ろうとしてた」
「ルシル様、少し遅かったですね」
モモが満足そうに口へ運ぶ。
「覚えておく」
「何をです?」
「次は先に取る」
「そこを学ぶのですか」
シモンは額を押さえた。
けれど、その口元にはほんの僅かな笑みがあった。
やがて皿はほぼ空になった。
「食った……」
ルシルが椅子へ深く身体を預ける。
「食べすぎました」
モモも珍しく腹へ手を置いている。
「だから注文量を減らせと言ったのです」
そう言うシモンの前にも、空になった皿が幾つもあった。
「シモンも結構食べたぞ」
「残すのはもったいないので」
「一番食べたのシモン君かもしれません」
「お二人が途中からこちらへ寄せたからです」
「美味かった?」
ルシルが尋ねる。
シモンは一度だけ空の皿へ目を落とした。
「……はい」
「ならいい」
ルシルは満足そうに笑う。
そして、会計を頼むことになった瞬間、その表情がもう一段明るくなった。
「会計、頼もう」
「楽しみにしてましたね?」
モモがすぐに気づく。
「分かる?」
「顔が言っています」
「今日それ多いな」
「本当に分かりやすいので」
店員が木札を持ってきた。
「全部で銀貨十八枚と銅貨六枚だ」
「分かった」
ルシルは背筋を伸ばした。
懐へ手を入れる。
指先が、あの金貨へ触れる。
今日、自分たちがサンドワームを倒し、素材を運び、受け取った金。
王子だから与えられたものではない。
働いた結果、自分たちで手にした最初の報酬だ。
ルシルはその金貨を掌へ出し、少しだけ見つめてから店員へ差し出した。
「これで頼む」
「金貨か。釣りが大きくなるけどいいか?」
「ああ」
「ちょっと待ってくれ」
店員が会計台へ向かっていく。
ルシルは、その背中を目で追った。
特別なことをしたわけではない。
ただ食事代を払っただけだ。
なのに。
胸の奥が妙に熱い。
「嬉しそうですね」
モモが言う。
「ああ」
「金貨一枚払っただけですよ?」
シモンも穏やかな声で続ける。
「分かってる」
「王城では、もっと大きな金額を扱っていたでしょう」
「数字としてはな」
ルシルは卓上に並ぶ空の皿を見た。
鹿。
猪。
鶏。
豆。
パン。
三人で選んだ。
三人で食べた。
途中で笑い、最後の肉を取り合った。
「でも、これは違う」
「何がです?」
「俺が稼いだ金で、俺が食べたい店を選んで、二人に食べてもらった」
言葉にすると少し照れ臭い。
ルシルは頬を掻きながら、それでも続ける。
「こういうの、やってみたかったんだと思う」
モモはしばらくルシルを見ていた。
それから、とても柔らかく笑う。
「ご馳走様でした、ルシル様」
「おう」
シモンも少しだけ姿勢を正した。
「ご馳走様でした」
「……なんか、シモンに言われるとすごい嬉しいな」
「僕を何だと思っているのですか」
「ずっと俺の金を管理していた人」
「国の予算です」
「似たようなもの」
「全く違います」
「でも」
ルシルは少しだけ胸を張った。
「今日は俺が払った」
シモンはほんの少しだけ沈黙し、それから穏やかに答えた。
「ええ。今日は、ルシル様が払いました」
たったそれだけ。
けれど、ルシルはまた嬉しそうに笑った。
店員が釣りを持って戻ってくる。
銀貨と銅貨を受け取る時、ルシルは少しぎこちなく数えた。王城で何千枚という金貨を数字として扱っていた男が、目の前の銀貨を一枚ずつ確認している姿は、シモンからすれば少し不思議だったかもしれない。
「銀貨八十一枚と銅貨四枚です」
「合ってる?」
ルシルが尋ねる。
「合っています」
「よし」
そのままシモンへ渡そうとして、ルシルは一度手を止めた。
「銀貨一枚だけ、持っててもいいか?」
「また記念ですか?」
「いや。明日、屋台で何か買う」
「それくらいなら構いません」
「本当?」
「ただし、買い食いしすぎないでください」
「一枚だけだぞ」
「銀貨一枚あれば、かなり食べられます」
「……気をつける」
「信用できませんね」
「なら一緒に行け」
ルシルは何気なく言った。
「シモンもモモも。明日、三人で屋台を回ろう」
「物資購入は?」
「その途中」
「街道情報は?」
「それも途中」
「馬車は?」
「見てから」
シモンは反論しようとして、やがて諦めたように息を吐いた。
「分かりました」
「いいのか?」
「その代わり、朝から行動します」
「何時?」
「日の出後です」
「早い」
「王城ではもっと早かったでしょう」
「自由になったんだぞ?」
「昼まで寝る自由を認めた覚えはありません」
「誰に認めてもらう必要があるんだ!」
「僕です」
「やっぱり自由じゃない!」
ルシルの抗議にモモが声を上げて笑った。
「では、朝食を食べてからにしましょう」
「モモ!」
「宿の朝食も楽しみですし」
「さすが」
「甘やかさないでください」
「シモン君も、少しくらいゆっくり眠ればいいんですよ」
「僕はいつも通り起きます」
「仕事ないですよ?」
「習慣です」
その言葉に、ルシルは少しだけ真面目な表情になった。
「それ、直そう」
「何をです?」
「王城の習慣」
シモンが目を瞬く。
「俺だけ自由になっても意味ないだろ」
「意味がないことはありません」
「でも俺は二人と旅してる」
ルシルはモモを見てから、シモンへ視線を戻す。
「だから二人にも、好きに過ごしてほしい」
その言葉へ、二人ともすぐには返さなかった。
王城を出たのはルシルだけではない。
神殿から離れたモモも。
側近という役割から離れたシモンも。
これまでの生き方を、身体へ染み込ませている。
「シモンも、仕事がないのに早起きしなくていい。モモも……」
「お菓子食べていいですか?」
「そこはシモンと相談」
「なぜそこだけ!」
「俺も止められるから」
一瞬で空気が戻る。
シモンが額を押さえた。
「せっかく少し良い話だったのですが」
「俺は真面目だったぞ」
「途中までは」
三人は店を出た。
夜のヘルガスは、昼間とはまた違う顔を見せていた。
魔道具の灯りが石畳を淡く照らし、酒場の扉が開くたび大きな笑い声が外へ漏れる。昼間には見かけなかった夜の屋台も並び始め、焼いた腸詰めや炙った魚、温かな酒、蜜を塗った焼き果実の匂いが通りへ漂っていた。
ルシルは一軒の屋台へ視線を奪われ、わずかに歩調を落とす。
「食べませんよ」
シモンが先に言った。
「見るだけ」
「先ほど腹いっぱいだと言いました」
「別腹」
「それはモモの理屈です」
「私は今は無理です」
モモは腹へ手を当てて苦笑する。
「明日にしよう」
ルシルが名残惜しそうに屋台を振り返る。
「そうしましょう」
三人は並んで歩いた。
誰も先導しない。
誰も護衛として後ろへ立たない。
誰も道を空けない。
ただ三人が、同じ速さで夜の街を歩いている。
ルシルはふと夜空を見上げた。
王都で見えていたものと、同じ星のはずだった。
それなのに。
なぜか今夜の方が、少しだけ明るく見える。
「ルシル様?」
モモが気づいた。
「何でもない」
「また自由を噛み締めていますか?」
「悪いか?」
「いいえ」
モモも夜空を見上げた。
「私もです」
シモンも歩みを止めることなく、僅かに視線を上げた。
三人の間に短い沈黙が流れる。
けれど、気まずさはない。
言葉がなくても心地いい。
しばらく同じ空を見たあと、三人はまた自然に歩き始めた。
金の麦穂亭へ戻ると、女主人はまだ受付にいた。
「お帰り。いい夕食だったかい?」
「ああ。最高だった」
ルシルは即答した。
「そりゃ良かった」
「跳ね鹿亭、すごかった」
「街じゃ人気の店だからね」
「明日は魚を食う」
「まだ食べるのかい?」
「明日の話だ」
女主人は楽しそうに笑った。
「なら、その前に風呂へ入っといで。旅の埃も落ちるよ」
「風呂!」
ルシルの表情が一気に明るくなる。
「走らないでください」
「分かってる!」
「言いながら歩く速度を上げないでください!」
「シモン君も早く行きましょう」
「モモは女性用でしょう!」
「あ、そうでした」
三人は階段前で別れる。
ルシルとシモンは男性浴場。
モモは女性浴場。
「じゃあ、風呂の後は?」
ルシルが尋ねる。
「各自休みましょう」
「少しくらい話そう」
「明日もあります」
「初めての街の夜だぞ」
「もう十分話しました」
「菓子」
その一言で、女性浴場へ向かいかけていたモモの足が止まる。
「……食べます?」
「夕食後に?」
シモンが呆れる。
「一つだけ」
ルシルが言う。
「私は半分」
「明日にしてください」
「シモン君」
「駄目です」
「自由なのに」
「自由だからこそ、自制を覚えてください」
ルシルは吹き出した。
「今日一番もっともらしい」
「ずっと同じことを言っています」
「じゃあ今日は解散だな」
「はい」
「おやすみ、モモ」
「おやすみなさい、ルシル様。シモン君」
「おやすみなさい」
モモが女性浴場へ向かっていく。
ルシルとシモンも反対側へ歩き始めた。
少し進んだところで。
「シモン」
「何でしょう」
「今日はありがとう」
「何に対してです?」
「全部」
シモンが足を止めた。
ルシルは前を向いたまま続ける。
「ついてきてくれたこと。金を管理してくれたこと。俺が変なことしないよう止めてくれたこと。模擬戦も」
「最後はモモが勝手に始めただけです」
「それでも」
少しだけ間を置く。
「楽しかった」
ルシルは振り返った。
笑っている。
王城で見せていた、誰かを安心させるための笑顔ではない。
王族として周囲へ向けるために作った表情でもない。
ただ本当に楽しかった者の顔だった。
「今日一日、ずっと楽しかった」
シモンはしばらく何も言わなかった。
やがて。
「僕もです」
短い返事。
けれど、それで十分だった。
ルシルの笑みがさらに大きくなる。
「明日も楽しもう」
「旅の準備をしながらです」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「不安ですね」
「何とかなる」
「その考えが一番不安です」
二人は笑いながら浴場へ向かった。
こうして、ルシルが自由になってから初めて訪れた街での一日は、静かに終わろうとしていた。
街へ入るための列へ並んだ。
自分たちで稼いだ金を受け取った。
町の菓子屋で何を買うか悩んだ。
仲間と料理を取り合った。
そして、自分の金で二人へ夕食を奢った。
王子として生きていた頃なら、どれも記録に残らない一日だっただろう。
国境が動いたわけではない。
新しい政策を決めたわけでもない。
国の歴史を変えるようなことをしたわけでもない。
けれど、ルシルにとっては違った。
今日一日、自分で選んだ。
どこへ行くか。
何を食べるか。
誰と笑うか。
何へ金を使うか。
たったそれだけのことを、自分で決めた。
浴場の扉へ手を掛ける直前、ルシルはふと足を止めた。
「自由って、最高だな」
今度は大声ではない。
誰かへ聞かせるためでもない。
ただ、自分の中へ落とすような声だった。
隣にいたシモンは少しだけルシルを見たあと、何も否定しなかった。
むしろ。
「ええ」
とだけ、小さく答えた。




