第5話 元王子は、初めて自分の稼いだ金で夕食を選ぶ
冒険者ギルドの応接室は、表の食堂や受付とは別世界のように静かだった。
厚い木の扉を閉めた瞬間、それまで廊下から響いていた冒険者たちの声や、杯を打ち合わせる音、職員たちの慌ただしい足音が、遠くへ押しやられていく。壁には周辺地域を描いた大きな地図が掛けられ、窓際には観葉植物、中央には六人ほどが座れる長机と革張りの椅子が置かれていた。
地方支部の施設としては、かなり整えられた部屋なのだろう。
ただし、ルシルにとっては王城の応接間と比べるべくもない。
金糸の絨毯もなければ、天井画もない。壁を飾る名画や、王家の紋章が刻まれた調度品もなく、窓辺へ置かれた花瓶もごく普通の陶器製だった。
それでも、ルシルは入室してすぐに気に入った。
「いい部屋だな」
「そうですか?」
先に椅子へ座ったシモンが、室内を一度見渡す。
「業務用の応接室としては、標準的かと思いますが」
「俺たちしかいない」
「ギルド職員が来ますよ」
「それでも、王城の部屋より落ち着く」
ルシルは窓際へ近づき、通りへ面した景色を眺めた。
夕暮れが近づき、街の屋根は淡い橙色へ染まり始めている。遠くでは煙突から細い煙が上がり、通りには仕事を終えた職人や、これから食事へ向かう冒険者たちが増えていた。
誰もこの部屋に元王子がいるとは知らない。
誰も扉の外で、次に何を言うべきか指示を待ってはいない。
入室した瞬間、座る位置を身分によって決める必要もなかった。
上座を譲るために牽制し合う貴族もいない。
ただ空いている椅子へ、自分の好きなように座ればいい。
「ルシル様、こちらへ座らないんですか?」
すでに長机の横へ腰を下ろしたモモが、隣の椅子を軽く叩いた。
「そこが俺の席か?」
「はい。私が決めました」
「俺に選ばせてくれないのか」
「では、他の席でも構いません」
「いや、そこにする」
ルシルは素直にモモの隣へ座った。
シモンは二人の正面へ腰を下ろしている。
いつもなら主の隣か、少し後方へ立つのが彼の定位置だった。しかし今は同じ机を囲み、同じ高さの椅子へ座っている。
ルシルはそれが何となく嬉しくて、机の下で足を組み替えながらシモンを見た。
「何でしょう」
「いや」
「また何か企んでいますか?」
「なぜ俺が見るだけで、企みを疑われるんだ」
「長年の経験です」
「ただ、同じ席へ座っているんだなと思っただけだ」
「同じ席?」
「王城では、お前はいつも後ろに立っていただろう」
言われて、シモンは自分の座る椅子へ視線を落とした。
「必要があれば座っていました」
「仕事の説明をする時だけだ。それ以外では、俺が座っていてもお前は立っていた」
「側近ですから」
「今は旅仲間だ」
「そうですね」
シモンはごく自然に答えた。
その短い返事へ、ルシルはほんの少し目を細めた。
特別なことではないように言われたからこそ、胸へ柔らかく響いた。
王城にいた頃、二人の間には信頼があった。
何度も命を預け合った。
誰より近い存在だった。
それでも、主君と側近という線だけは消えなかった。
今、その線が少しずつ薄くなっている。
「では、今後は食事の時も一緒に座れ」
「今も座っています」
「そういう意味ではなく、遠慮するなということだ」
「遠慮していたわけではありません」
「王城では、俺と同じ料理を食べなかっただろう」
「毒見や警備がありましたから」
「今はない」
「あります」
「誰がするんだ?」
「僕です」
即答だった。
ルシルは眉を寄せる。
「もう毒見は必要ない」
「必要かどうかは僕が判断します」
「なら俺もシモンの料理を毒見する」
「意味がありません」
「なぜだ」
「毒に対する耐性は、僕の方が高いからです」
「ではモモがするか?」
「嫌です♪」
モモも即答した。
「なぜ俺だけ即座に断られるんだ」
「美味しいかどうかの確認ならします」
「それは毒見ではない」
「同じ料理を先に食べるので、似たようなものです」
「似ていないぞ」
「私が美味しいと言ったら、安心して食べてください」
「毒が入っていても、お前は普通に食べそうで怖い」
モモは神聖魔法による治癒だけでなく、毒や呪いへの耐性も異常に高い。
神殿にいた頃、暗殺目的で出された毒入りの茶を三杯飲み干し、味が薄いと蜂蜜まで加えたことがある。毒を盛った神官は、その場で気絶した。
本人は後になっても、少し舌が痺れただけだったと笑っていた。
「では、私が大丈夫でもルシル様は食べないでください」
「最初からそうしてくれ」
「そもそも、街の食堂でそこまで警戒する必要はありません」
シモンが会話をまとめるように言った。
「今の僕たちは王族でも、神殿の重要人物でもない。ただの無名の旅人です。毒を盛る理由を持つ者はいません」
「いい響きだな」
「毒を盛られないことがですか?」
「ただの無名の旅人というところだ」
ルシルは椅子の背へ身体を預けた。
「誰も俺を狙わない。誰も顔色をうかがわない。何を食べても、どこへ行っても、国同士の問題にならない」
「少なくとも、今のところは」
「その言い方はやめろ。不安になる」
「油断は禁物です」
「シモン君は、ルシル様を不安にさせたいのか安心させたいのか、分かりませんね」
「両方です。安心させすぎると、この方は何も考えなくなります」
「すでに何も考えていないような言い方だな」
「違うのですか?」
ルシルが反論しようとした時、扉が三度叩かれた。
「失礼します」
声に続いて入ってきたのは、先ほどの受付嬢と、五十代ほどの男性だった。
男性は灰色の髪を後ろへ撫でつけ、濃い茶色の上着を着ている。冒険者らしい武器も防具もないが、立ち姿には人の上に立つ者特有の落ち着きがあった。
左手には数枚の書類。
右手には小さな革袋を持っている。
「お待たせしました」
男性は机の端へ立つと、三人へ頭を下げた。
「冒険者ギルド、ヘルガス支部長のグレイゼルです。この度は、街道付近へ出没していた大型サンドワームの討伐、誠にありがとうございました」
「偶然出会っただけだ」
ルシルが答える。
「それでも、街にとっては大きな助けです」
グレイゼルは穏やかに微笑んだ。
「サンドワームによって、ここ数日は南東方面の街道利用が減っていました。商隊が迂回し、近隣の村から届く物資にも遅れが出始めていたのです」
「被害はあったのか?」
「幸い、人命被害は確認されていません。ただ、荷馬車が一台襲われ、積荷の大半が失われています。護衛の冒険者たちは、負傷しながらも全員帰還しました」
「そうか」
ルシルの表情が僅かに引き締まる。
実際に犠牲者がいなかったことへ安堵しながら、同時に自分たちが討伐していなければ、いずれ誰かが命を落としていた可能性も考えた。
モモも笑みを消し、静かに話を聞いている。
「討伐依頼が正式に発行されたのは今朝です。本来なら依頼を受注した冒険者へ報奨金を支払うものですが、緊急性の高い魔物であり、討伐証明も十分です。依頼を受けていなくても、全額を支払うことが支部会議で認められました」
「全額?」
シモンが確認する。
「はい。金貨三十枚です」
受付嬢が机へ書類を置き、その横へ小さな革袋を置いた。
袋の口を開くと、中には金貨がきっちりと並んでいる。
ルシルは金貨の山を見つめた。
王城にいた頃なら、決して大きな金額ではなかった。
外交使節を迎える晩餐。
騎士団の装備。
地方の災害支援。
国政では、一度に何千枚、何万枚という金貨が動く。
ルシル自身が触れることはほとんどなかったが、書類の上では日常的に目にしていた額だ。
それでも今、机の上へ置かれた三十枚は、過去に見たどの金貨よりも重く感じられた。
「これが、俺たちの金か」
「正確には、サンドワームを倒したモモの功績ですが」
シモンが言う。
モモはすぐに首を横へ振った。
「三人のお金です」
「戦ったのはお前だぞ」
「倒し方を決めたのはルシル様です。体液を回収したのはシモン君です。一人だけでは、素材を綺麗に持ってこられませんでした」
「体液の回収は、討伐そのものには関係ありません」
「でも、三人で旅をしているんですから、三人のお金でいいでしょう?」
モモは当然のように言う。
ルシルは一度シモンへ視線を向けた。
「そういうことでいいか?」
「僕へ確認する必要がありますか?」
「ある。三人の金にするなら、全員が納得していた方がいい」
シモンは少しだけ目を瞬いた。
過去のルシルなら、報酬の分配を部下へ任せただろう。
王族である彼が個人的に金銭を受け取ることは少なく、必要な支出は会計担当が管理していたからだ。
今は違う。
手に入った金貨を、誰のものにするか。
何へ使うか。
それすら自分たちで決めなければならない。
「問題ありません」
シモンは穏やかに答えた。
「三人の共有資金として管理しましょう」
「管理はシモン君ですか?」
「そのつもりです」
「なぜ当然のように、お前が管理するんだ」
「ルシル様へ全て預けて、三日後にも金貨が残っていると思いますか?」
「三日は残る」
「四日目は?」
「……多少は」
「モモへ預けた場合、菓子へ変わります」
「半分くらいです」
「半分も使うつもりなのですか」
「美味しいものがたくさんあれば」
「やはり僕が管理します」
シモンは革袋を自分の前へ移した。
グレイゼルと受付嬢は、三人のやり取りを黙って見ていた。
支部長は微かに笑っていたが、受付嬢は金貨三十枚を巡る会話とは思えないほど気軽な空気に、少し戸惑っているようだった。
「報奨金は以上です」
グレイゼルは書類を一枚めくる。
「続いて、サンドワーム素材の買い取りについてです。外皮、牙、魔石、体液、肉、内臓。一部は街の錬金術師や武具店へ直接卸すことになりました」
「全て買い取れるのか?」
「はい。特に外皮の状態が非常に良い。あの大きさで傷がほとんどない素材は、滅多に出ません」
「モモが頑張ったからな」
「はい♪」
モモが嬉しそうに胸を張る。
「どのように倒したのか、改めて伺っても?」
「水の針を、闇転移で身体の中へ送りました」
「……なるほど」
グレイゼルは一度だけ頷いた。
それから数秒、何かを考えるように沈黙する。
「随分と合理的な方法ですね」
「分かってくださいます?」
「理屈だけなら」
「理屈だけ?」
「一般的な聖女が選択する方法ではないとは思います」
「支部長さんまで……」
モモの肩が落ちる。
ルシルは口元を押さえ、シモンは静かに視線を逸らした。
「失礼しました」
グレイゼルは咳払いをする。
「サンドワーム素材の合計買い取り額は、現時点で金貨百四十二枚です」
「百四十二枚」
「はい。解体作業中に傷んでいる部分が見つかれば、多少減る可能性はあります。ただ、魔石も十分な大きさがありましたので、大きく変動することはないでしょう」
革袋がもう一つ、机へ置かれる。
最初の袋より明らかに大きい。
受付嬢が中身を確認しやすいよう口を開くと、重なり合う金貨が部屋の灯りを反射した。
ルシルは思わず身を乗り出す。
「これだけあれば、どれくらい旅ができる?」
「贅沢をしなければ、数年は問題ありません」
シモンが答える。
「数年?」
「三人分の宿代、食費、消耗品、馬車の維持費を含めてもです」
「サンドワーム一匹でか?」
「宿や食事の質にもよりますが」
「夢があるな、冒険者」
「B級魔物を無傷で倒し、全素材を持ち込める冒険者が少ないから、この金額なのです」
「なら、これからも同じように倒せばいい」
「街へ入るたびに大騒ぎになりますよ」
「すでになった」
「開き直らないでください」
ルシルは椅子へ座り直し、改めて金貨を見た。
今まで金を稼いだことがなかった。
王族として働いていた。
国政に関わり、魔物討伐にも出て、危険な地域の視察もした。
誰より忙しく動いていた自負はある。
けれど、その働きに対して報酬を直接受け取ったことはない。
必要なものは王家が用意した。
食事も服も住む場所も。
だからこそ、今ここにある金貨は特別だった。
「俺たちが倒した魔物が、金になった」
ルシルは、噛み締めるように呟いた。
「はい」
「この金を、好きに使っていい」
「全部ではありません」
シモンがすぐに釘を刺す。
「分かっている。ただ、食事を選ぶくらいはいいだろう?」
「もちろんです」
「宿も?」
「常識的な範囲で」
「馬車は?」
「相場を見てからです」
「服は?」
「必要なものなら」
「菓子は?」
モモが割り込む。
「二つまでです」
「今日は金貨百七十二枚も手に入ったのに?」
「額が増えても二つです」
「三つ」
「二つ」
「大きいものを二つ」
「大きさにも限度があります」
「シモン君は厳しいですね」
「誰かが止めなければ、あなたは店ごと買いそうです」
「店ごとは買いません」
「では、店にある全種類を一つずつ買うつもりでしたね?」
「……少しだけ」
「やはり二つです」
モモが頬を膨らませる。
その横で、ルシルは金貨の袋へ手を伸ばした。
シモンが素早く袋を遠ざける。
「何をしているのですか」
「一枚だけ見せてくれ」
「見えているでしょう」
「手に持ちたい」
「なぜです?」
「初めて自分で稼いだ金だからだ」
その言葉に、シモンの手が止まった。
数秒の沈黙の後、袋から一枚の金貨を取り出し、ルシルへ差し出す。
ルシルは両手で受け取った。
円形の金属。
片面には冒険者ギルドの共通刻印。
もう片面には、この地域で流通する貨幣を保証する王家の紋章が刻まれている。
指先へ感じる重さは、特別なものではない。
王城でも何度か触れたことはある。
それなのに、今は手の中の一枚が妙に温かく感じられた。
「これが俺の働いた金か」
「正確にはモモの」
「シモン、今は言わなくていい」
「三人のお金です」
モモが笑う。
ルシルは金貨を指先で裏返し、紋章を眺めた。
王位。
王籍。
家名。
それらを失った自分が、何かを倒し、素材を持ち込み、対価を受け取った。
誰かから与えられたものではない。
王子だから用意されたものでもない。
自分たちの行動が形になった金だ。
「嬉しいものだな」
「そうですね」
シモンの声も柔らかかった。
「王城では、国庫の数字ばかり見ていましたから」
「お前も同じか?」
「自分で受け取った報酬という意味では、僕もそれほど経験がありません」
「賢者として給金は出ていただろう」
「大半は王城の口座へ入ったままです。使う時間もありませんでした」
「なら、今日はシモンも好きなものを食え」
「普段から食べたいものを選んでいます」
「王城では仕事をしながら食べていただろう」
「否定できませんね」
「今日は書類を読むな」
「ギルドの預かり証は確認します」
「食事中は禁止だ」
「では、食事前に確認します」
「そういうところだぞ」
シモンはわずかに笑った。
「残りの素材についても説明いたします」
グレイゼルが話を戻す。
「一角兎、ゴブリン、シルバーウルフ、グランドボアなどの下位から中位素材については、数が非常に多いため、まだ全ての査定が終わっていません」
「今日中には無理か?」
「難しいでしょう。正確な数を確認し、傷みを分類する必要があります」
「預けたままでも大丈夫ですか?」
モモが尋ねる。
「もちろんです。ギルドの保管庫へ移し、種類ごとに封印します。こちらが預かり証です」
受付嬢が長い紙を机へ広げた。
素材の種類。
仮の個数。
受け入れ時刻。
担当職員。
封印番号。
細かな項目が並んでいる。
シモンは紙を受け取り、一行ずつ目を通し始めた。
ルシルは横から覗き込む。
「細かいな」
「大切な記録です」
「数は合っているのか?」
「一角兎の角が百二十本となっていますが、預けたのは百二十四本です」
シモンが即座に指摘する。
受付嬢が驚いて書類を覗き込んだ。
「も、申し訳ありません! 確認します!」
「おそらく、皮と角を別に数えた際の転記漏れです。受領場所では百二十四本を確認しています」
「すぐ担当へ問い合わせます」
受付嬢は慌てて部屋を出ていった。
ルシルは感心したようにシモンを見る。
「よく覚えているな」
「収納物は全て記録しています」
「俺の収納に入っていたものだぞ?」
「三日前に確認しました」
「いつの間に」
「ルシル様が眠っている間です」
「勝手に見たのか?」
「収納一覧だけです。私物には触れていません」
「ならいいが」
「何か見られると困るものがあるのですか?」
モモが興味深そうに顔を近づける。
「ない」
「本当に?」
「ない」
「では、今度見せてください」
「なぜだ」
「気になります」
「断る」
「怪しいですね」
「モモの収納も見せろ」
「嫌です」
「なぜ俺だけ怪しまれるんだ」
「私の収納には、乙女の秘密が入っています」
「菓子と禁書だろう」
「それ以外もあります」
「何だ?」
「秘密です」
モモは笑顔を崩さない。
ルシルはそれ以上尋ねるのをやめた。
神殿時代の彼女が集めたものを考えると、知らない方が安全な可能性が高い。
やがて受付嬢が戻り、角の数が百二十四本であることが確認された。書類はその場で訂正され、シモンも納得したように署名を入れる。
「下位素材の仮査定額は、現時点で金貨六十八枚ほどです」
グレイゼルが続ける。
「最終的には多少前後します。全て終わるまで二日ほどいただきたい」
「それで構いません」
「支払いは査定後でよろしいですか?」
「はい」
「では、二日後にこちらの預かり証を提示してください。ご本人であることを確認した後、残金をお渡しします」
「分かりました」
シモンが預かり証を丁寧に折り、収納魔法へ収める。
それから、机の上にある二つの革袋も同じように収納した。
「待て」
ルシルが声を上げる。
「何でしょう」
「一枚は俺が持つ」
「なぜです?」
「記念だ」
「金貨を記念品にしないでください」
「自分で稼いだ最初の一枚だぞ」
「三人の共有資金です」
「なら、俺の取り分から一枚」
「取り分は決めていません」
「今日の小遣いとして」
「子供ですか」
「自由な旅人だ」
「意味が違います」
ルシルは手の中に残していた金貨を握った。
シモンは取り上げようとしたが、モモが間へ入る。
「いいじゃないですか。最初の一枚ですよ?」
「使わずに持っているだけなら、構いませんが」
「使う」
「では返してください」
「夕食を払いたい」
シモンの手が止まる。
「この一枚で?」
「ああ」
「金貨一枚では、三人がどれだけ食べても余りますよ」
「なら、お釣りを受け取る」
「そういう問題ではありません」
「今夜の食事は、俺が払う」
ルシルは真剣だった。
ふざけているわけではない。
それが分かり、シモンもすぐには反論しなかった。
「王城では、誰かに食事を用意してもらっていた。金を払うことも、店を選ぶこともなかった」
ルシルは手の中の金貨へ視線を落とす。
「今日は、自分で稼いだ金で、俺が二人へ食事を奢りたい」
「三人のお金ですよ?」
モモが確認する。
「それでもいい。俺が金貨を渡し、店の者へ料理を頼みたい」
「ルシル様」
「一度くらい、そうさせてくれ」
シモンは長く息を吐いた。
呆れたため息ではない。
何かを受け入れるための呼吸だった。
「分かりました」
「いいのか?」
「今夜の食事代は、その金貨から支払いましょう。ただし、残った金は共有資金へ戻します」
「少しくらい持っていても」
「戻します」
「分かった」
ルシルは金貨をもう一度握り締める。
嬉しそうな表情を見て、モモが優しく笑った。
「では、たくさん食べますね」
「遠慮するな」
「菓子も?」
「夕食とは別だ」
「残念です」
「二つ買う約束は守る」
「やった♪」
「話は以上になります」
グレイゼルは書類をまとめ、立ち上がった。
「改めて、この度はありがとうございました。ヘルガスへの滞在中、何か困ったことがあればギルドへ相談してください」
「こちらこそ、丁寧な対応に感謝する」
ルシルも立ち上がる。
無意識に、王族として礼を返しそうになる。
顎を引き、相手の目を見て、威厳を保ちながら言葉を選ぶ。
けれど途中で気づき、少しだけ姿勢を崩した。
「助かった。二日後、また来る」
「お待ちしています」
応接室を出ると、ギルドの廊下にはすでに夕方の灯りがともされていた。
受付や食堂は先ほど以上に賑わっている。
模擬戦を終えたシモンの姿を見るたび、冒険者たちが声を抑えて何かを話していた。
「眼鏡のAランクだ」
「重力魔法を使った奴だぞ」
「本当に杖なしだったのか?」
「雷一発で標的が消えたって聞いた」
シモンは聞こえないふりをして歩く。
ルシルとモモは、彼の後ろから楽しそうについていった。
「有名人だな」
「誰のせいですか」
「モモ」
「私はシモン君の実力を知ってもらっただけです」
「知ってもらう必要がなかったのです」
「でも、皆さん尊敬の目で見ていますよ?」
「できれば見ないでほしいのですが」
「顔を隠すか?」
「眼鏡の上からフードを被ると、余計に怪しくなります」
「なら眼鏡を外す?」
モモが尋ねる。
「外しません」
「なくても見えるでしょう?」
「見えますが、掛けていた方が落ち着きます」
「眼鏡は必要なものではなく、シモン君の心を守る防具だったんですね」
「妙な解釈をしないでください」
食堂の前を通りかかった時、ガルドたち三人が一つの卓を囲んでいるのが見えた。
模擬戦前とは違い、酒は飲んでいない。
何やら真剣な表情で話し合っていたが、ルシルたちに気づくと、三人とも気まずそうに動きを止めた。
ガルドが最初に立ち上がる。
「さっきは悪かったな」
「謝罪は受け入れました」
シモンが答える。
「もう気にしていません」
「そうか」
ガルドは少しだけ安心したように頷いた。
それからルシルとモモへ目を向ける。
「そっちの二人にも、改めて謝る」
「私は大丈夫です」
モモが答えた。
「次から気をつけてくださいね」
「ああ」
「俺もいい」
ルシルも短く返す。
「ただし、今度同じようにモモへ触れようとしたら、シモンより先に俺が止める」
口調は穏やかだった。
笑みも浮かんでいる。
けれどガルドたちは、一斉に背筋を伸ばした。
模擬戦で圧倒的な力を見せたシモン。
そのシモンから、自然に中心として扱われている男。
ルシルがまだ何も力を見せていないからこそ、逆に底が分からなかったのだろう。
「分かった。二度としねぇ」
「ならいい」
ルシルが歩き出す。
数歩進んだところで、ベックが背後から声を掛けた。
「待ってくれ」
ルシルたちが振り返る。
「この街で宿を探してるんだろ?」
「ああ」
「それなら、大通りの西側にある『金の麦穂亭』がいい。少し高いが、部屋も風呂も綺麗だ。食事も美味い」
「本当か?」
ルシルの反応が一気に明るくなる。
「ああ。肉料理なら、同じ通りの『跳ね鹿亭』だ。菓子なら中央広場の『春雫』が評判だ」
「お菓子屋さん!」
モモまで目を輝かせた。
シモンは二人の変化を見て額を押さえた。
「急に信頼しすぎです」
「街の者の情報は大切だろう」
「そうですけれど」
「ありがとう。助かった」
ルシルが礼を言うと、ベックは少し照れ臭そうに鼻を擦った。
「迷惑掛けた詫びだ」
「では、金の麦穂亭へ向かいましょう」
シモンが先頭へ立つ。
「先に宿を決めます。その後、菓子店と食事です」
「菓子が先か?」
「閉店時刻が早い可能性があります」
「さすがシモン君です!」
「夕食を後回しにするわけではありません」
「分かっています♪」
三人は冒険者ギルドを出た。
扉を潜ると、夕方の街の空気が身体を包んだ。
昼間より風は涼しくなり、通り沿いの店には次々と明かりがともっている。焼いた肉の香り、煮込み料理の匂い、甘い菓子の香りが混ざり合い、歩くだけで腹が減ってくる。
「まず宿だな」
「はい」
「その後、菓子」
「二つまでです」
「そして夕食」
「ルシル様のお支払いです」
「任せろ」
手の中には、初めて自分たちで稼いだ金貨がある。
たった一枚。
けれどルシルには、それが王冠よりも価値のあるものに思えた。
誰かに与えられた立場ではない。
誰かに決められた役目でもない。
自分で歩き、自分で戦い、自分で手に入れたものだ。
「顔がにやけていますよ」
シモンが横目で言う。
「仕方ないだろう」
「そんなに夕食を払いたかったんですか?」
「ああ」
「では、私は一番高い料理を頼みますね」
モモが楽しそうに宣言した。
「遠慮しなくていい」
「本当に?」
「金貨一枚で足りる範囲なら」
「全部頼んでも足りそうですね」
「全部は食べきれません」
「三人なら大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
シモンの注意を聞きながら、ルシルは声を上げて笑った。
自分で店を選ぶ。
食べたい料理を頼む。
仲間へ食事を奢る。
王城の外では当たり前のことなのかもしれない。
だが、ルシルにとっては、その一つ一つが初めての自由だった。
金の麦穂亭は、大通りから一本西へ入った場所にあった。
三階建ての大きな建物で、入口の上には風に揺れる金色の麦を描いた看板が掲げられている。扉の前には花の植えられた鉢が並び、窓から漏れる灯りも温かい。
中へ入ると、磨かれた木の床と、焼きたてのパンの匂いが三人を迎えた。
「いらっしゃいませ」
受付にいたのは、ふくよかな体格の中年女性だった。
栗色の髪を後ろでまとめ、白い前掛けを着けている。三人の旅装を見ても警戒することなく、人懐こい笑顔を向けた。
「三名様ですね。お泊まりですか?」
「ああ。三人で泊まりたい」
「お部屋はどうされます? 一人部屋が三つ、二人部屋と一人部屋、それとも大部屋が一つ」
ルシルは答えようとして、口を閉じた。
王城では部屋を選んだことがない。
旅の宿でも、これまではシモンが決めていた。
「どうする?」
二人へ尋ねる。
「一人部屋を三つでいいでしょう」
シモンが答える。
「大部屋でもよくないか?」
「どうしてです?」
「夜まで話ができる」
「廊下でも食堂でもできます」
「三人で旅を始めた最初の街だぞ」
「だからといって、同じ部屋で眠る必要はありません」
「私は大部屋でもいいですよ?」
モモが手を上げる。
「モモ嬢」
「モモです」
「男性二人と同室になることを、簡単に了承しないでください」
「ルシル様とシモン君ですよ?」
「僕たちが何もしなくても、周囲の目があります」
「旅仲間なら普通では?」
「普通ではありません」
「では、二人部屋と一人部屋にしましょう」
「誰が二人部屋へ?」
モモがルシルとシモンを交互に見る。
シモンは即座に答えた。
「ルシル様と僕です」
「俺に選択肢はないのか?」
「一人へすると、夜中に勝手に外へ出そうです」
「出ない」
「王都で何度、夜中に部屋を抜け出しましたか?」
「あれは城内だ」
「宿でも同じです」
「俺は子供ではない」
「では、一人でも大丈夫ですね」
「大丈夫だ」
「なら一人部屋を三つにします」
「最初からそれでよかっただろう」
宿の女主人は三人のやり取りを、笑いを堪えながら聞いていた。
「仲がよろしいんですね」
「はい♪」
モモが即答する。
「まあな」
ルシルも続く。
シモンだけは返事をしなかったが、否定もしなかった。
「では、一人部屋を三つご用意します。一泊、朝食つきでお一人銀貨四枚です。浴場もご利用いただけます」
「風呂があるのか」
「はい。今の時間でしたら、まだ混んでいませんよ」
ルシルの表情が明るくなる。
「何泊になさいます?」
「二泊でお願いします」
シモンが答えた。
「素材の査定が終わるまで、街へ滞在しますので」
「承知しました。三名様、二泊で銀貨二十四枚です」
ルシルが意気揚々と金貨を出そうとする。
しかしシモンが、その手を押さえた。
「その金貨は夕食用でしょう」
「宿代も払える」
「共有資金から出します」
「同じ金では?」
「気分の問題です」
「俺が言おうとした言葉を取るな」
シモンは収納から銀貨を出し、女主人へ支払った。
ルシルは悔しそうに金貨を握り直す。
「夕食は必ず俺が払う」
「誰も止めていません」
「宿まで払いたかった」
「初日に全てを支払う必要はありません」
「では、明日は俺が払う」
「共有資金から出すなら同じです」
「それでも、俺が渡す」
「好きにしてください」
女主人から部屋の鍵を受け取る。
三つの鍵には、それぞれ木製の小さな札がついていた。
二階の七号室、八号室、九号室。
「荷物を置かれますか?」
女主人が尋ねる。
「荷物は収納へ入っています」
シモンが答える。
「まあ、収納魔法を」
「三人とも使えます」
「それは便利ですねえ」
驚きはしたが、ギルド職員ほど大きな反応ではなかった。
女主人は宿を訪れる客から、様々な事情を聞いてきたのだろう。余計な詮索もせず、鍵の使い方と浴場の場所だけを説明した。
「夕食は外で召し上がりますか?」
「ああ。跳ね鹿亭という店へ行こうと思っている」
「いいお店ですよ。狩人料理が評判です。ただ、今の時間は混み始めますから、先にお菓子を買うなら急いだ方がいいですね」
「春雫という店は、まだ開いているか?」
「中央広場のお店ですね。日暮れの鐘までなら開いています」
遠くから、街の鐘が一度鳴った。
女主人が窓の外を見る。
「あと半刻ほどです」
「行くぞ!」
モモが叫ぶより先に、ルシルが扉へ向かった。
「ルシル様、お菓子を買うのは私ですよ?」
「閉まったら、お前が落ち込むだろう」
「ルシル様……!」
モモの目が感動したように潤む。
「走らないでください!」
シモンの声が後ろから飛んだ。
三人は宿を出ると、夕暮れの通りを中央広場へ向かった。
走りはしない。
ただし、かなりの早足だった。
モモは白い外套の裾を持ち上げ、楽しそうに歩く。
ルシルも金髪を風へ揺らしながら、その隣へ並ぶ。
シモンは二人が人へぶつからないよう、後ろから何度も注意を飛ばした。
「右から荷車が来ます!」
「見えている!」
「子供がいます!」
「避けた!」
「モモ、屋台を見ないで前を見てください!」
「美味しそうだったので!」
「菓子店へ行くのでしょう!」
中央広場へ着いた頃、空には濃い橙と薄紫が混ざり始めていた。
広場の中央には小さな噴水があり、その周囲を幾つもの商店が囲んでいる。仕事帰りの住民、買い物を急ぐ主婦、遊び疲れて家へ戻る子供たちで賑わっていた。
「春雫はどこだ?」
「あそこです!」
モモが指差す。
淡い青色の壁と、白い屋根を持つ小さな店。
窓辺には菓子を模した飾りが並び、扉の上には雫と花を描いた看板が掛かっている。
入口にはまだ営業中を示す札が出ていた。
「間に合いました♪」
モモは店の前で両手を合わせた。
ルシルも肩で軽く息をしながら笑う。
「よかったな」
「はい!」
「二つまでです」
追いついたシモンが、息を乱すことなく釘を刺した。
「分かっています」
モモは扉へ手を掛ける。
その直前で振り返った。
「ルシル様、シモン君」
「何だ?」
「初めての街で、初めて自分たちのお金で買うお菓子ですね」
「ああ」
「そうですね」
「一緒に選びましょう」
三人は並んで店へ入った。
扉の向こうから、焼いた小麦と、果実と、蜂蜜の甘い香りが溢れてくる。
ルシルは思わず足を止めた。
王城には、これより高価で、手の込んだ菓子がいくらでもあった。
それでも今、棚へ並ぶ素朴な焼き菓子の一つ一つが、何よりも眩しく見える。
自分で選べる。
自分で買える。
誰かの許可はいらない。
今夜、何を食べるのか。
たったそれだけのことを、三人で相談できる。
「自由って、いいな」
ルシルが呟く。
モモが笑い、シモンもほんの僅かに口元を緩めた。
王位を失った元王子が、最初に手にした自由。
それは国を動かす権力でも、誰にも負けない力でもなかった。
仲間と共に菓子を選び、自分で稼いだ金を差し出す。
そんな、ごく小さな幸せだった。




