第4話 苦労人賢者は、ひょろいと言われても怒らない――仲間を笑われるまでは
「おいおい、随分と景気のいい話をしてるじゃねぇか」
ルシルたちが座る丸テーブルへ、三つの大きな影が落ちた。
背後から漂ってきたのは、酒と汗、それから長く手入れをしていない革鎧の匂いだった。食堂で料理を運んでいた給仕の少女が足を止め、近くの卓で酒を飲んでいた冒険者たちも、杯を傾けたまま視線だけをこちらへ向けている。
声を掛けてきたのは、いずれも三十代半ばほどに見える男たちだった。
中央に立つ男は、短く刈った赤茶色の髪に、鼻の横へ斜めに走る古い傷を持っている。筋肉質な身体を厚い革鎧で包み、背中には幅広の大剣を背負っていた。
右側にいる男は細身で、腰へ二本の短剣を差している。獲物を値踏みするような細い目は、最初からシモンではなく、白いフードを被ったモモへ向けられていた。
左側の男は三人の中で最も大柄だった。禿げ上がった頭に太い首、丸太のような腕を持ち、片手でも扱えそうにない巨大な戦斧を肩へ担いでいる。
装備の質だけを見れば、駆け出しではない。
実際、彼らが近づいてきた途端、周囲の冒険者たちの間から、僅かな緊張が広がっていた。
「あいつら、またかよ」
「赤牙の三人組だ」
「今日はやめとけって。相手、Aランクだぞ」
「どうせカードを偽造したと思ってるんだろ」
囁き声が聞こえる。
どうやら、この三人はギルド内でそれなりに知られているらしい。
ルシルは椅子へ深く腰掛けたまま、男たちを見上げた。
「俺たちに何か用か?」
「お前には用はねぇよ」
中央の男はルシルへ一瞥だけを向け、すぐにシモンを睨んだ。
「用があるのは、そっちの眼鏡だ」
「僕ですか」
シモンは感情の見えない声で応じた。
すぐに追い払うことも、立ち上がることもしない。卓上に置かれていた水の入った杯を持ち上げ、静かに一口飲んでから元の場所へ戻した。
「何でしょう」
「何でしょう、じゃねぇよ。あんた、Aランクなんだってな」
「登録証をご覧になったのであれば、その通りです」
「へえ。随分と偉そうじゃねぇか」
「事実を答えただけですが」
シモンは眉一つ動かさない。
その落ち着きが気に入らなかったのか、中央の男の頬が僅かに引きつった。
「俺たちはガルド、ベック、ドーマだ。三人ともBランク。このヘルガスじゃ、それなりに名が通っている」
「そうですか」
「……それだけか?」
「他に何と答えればよろしいのでしょう」
シモンが本気で分からないという顔をすると、周囲から小さな笑い声が漏れた。
ガルドと名乗った中央の男は、鋭い視線を笑った者たちへ向ける。途端に、食堂は何事もなかったような静けさを取り戻した。
「気に入らねぇな」
「でしたら、見ないことをお勧めします」
「お前、本当にAランクなのか?」
「カードの認証は受付で済んでいます」
「そんなことは分かってる。俺が聞いてるのは、実力の話だ」
ガルドはシモンの細い身体を上から下まで眺め、大きく鼻を鳴らした。
「武器も持ってねぇ。杖もねぇ。防具も着てねぇ。どう見ても、どっかの商家の坊ちゃんだ」
「外見で冒険者の実力を測るのは、あまり感心しませんね」
「だったら見せてみろよ」
大柄なドーマが、戦斧の柄を床へ落とした。
重い音が響き、木製の床板が僅かに軋む。
「俺たち三人とやれ。Aランク様なら、Bランク三人くらい余裕なんだろ?」
「お断りします」
シモンは即答した。
あまりに早い返答だったため、男たちは一瞬だけ固まった。
「何だと?」
「意味のない争いに付き合うつもりはありません。実力を証明する必要も感じませんので、お引き取りください」
「逃げるのか?」
「戦う理由がないと言っているのです」
「やっぱり偽物じゃねぇか」
短剣使いらしいベックが、甲高い声で笑った。
「さっきの素材も怪しいもんだぜ。どこかで盗んできたんじゃねぇのか?」
その言葉を聞いた瞬間、シモンの瞳から僅かに温度が消えた。
けれど、まだ何も言わない。
ルシルも椅子へ座ったままだった。
モモだけが、白いフードの奥で首を傾げている。
「盗んだ?」
「ああ。あんなひょろい眼鏡と、顔を隠してる怪しい二人が、大型サンドワームを倒せるわけがねぇ」
「私は倒しましたよ?」
モモが口を挟んだ。
ベックの細い目が、待っていたように彼女へ向く。
「へえ。嬢ちゃんがか?」
「はい」
「なら、顔を見せてみろよ」
「なぜですか?」
「本当に魔物を倒せる奴か、俺が見てやる」
「顔と実力に関係があるんですか?」
「あるさ。強い奴には強い奴の顔がある」
ベックはそう言いながら、モモへ一歩近づいた。
伸ばされた手が、白いフードの端へ向かう。
その手が届く前に。
シモンの指先が、卓上を軽く叩いた。
乾いた、小さな音だった。
それだけで、ベックの身体が止まった。
「触れないでください」
シモンの声は穏やかだった。
怒鳴ってはいない。
魔力を露骨に放出したわけでもない。
それでも、その場の空気が一瞬で冷えた。
ベックの腕は、モモのフードまで指一本分の場所で静止している。何かに掴まれているように震えているが、前へも後ろへも動かせない。
「な、何しやがった」
「風で固定しただけです」
「風だと?」
「見えないからといって、何もないとは限りません」
シモンが指を離すと、ベックの腕が解放された。
男は弾かれたように後ろへ下がり、短剣の柄へ手を掛ける。
ガルドも大剣の柄へ手を伸ばした。
その瞬間、ギルド職員の声が飛んだ。
「武器を抜くなら外へ出てください!」
受付から駆けてきたのは、先ほど三人を担当した栗色の髪の受付嬢だった。
彼女の後ろには、数人の職員と警備担当らしい冒険者が続いている。
「ギルド内での抜刀は禁止です。違反した場合、罰金だけでは済みませんよ!」
「俺たちは、ちょっと話をしていただけだ」
ガルドは大剣から手を離し、悪びれずに答えた。
「向こうの眼鏡が先に魔法を使ったんだぜ?」
「仲間へ触れようとしたから止めただけです」
シモンは静かに反論した。
受付嬢は床や周囲を確認した後、ベックへ厳しい視線を向ける。
「負傷者も、設備の損傷もありません。シモン様が使用したのは拘束だけでしょう」
「シモン様だと?」
ガルドが受付嬢の呼び方へ反応し、口元を歪めた。
「もう取り入ったのかよ。顔がいい奴は得だな」
「そのような言い方はやめてください」
受付嬢の頬が一瞬だけ赤くなったが、それ以上に怒りが勝ったらしい。
「シモン様のAランク登録証は、ギルドの正式な認証を通過しています。実績も確認済みです。疑う理由はありません」
「俺たちは、その実績とやらを見てねぇ」
「皆さんに見せる必要はありません」
「じゃあ、本当は金で買ったランクかもしれねぇな」
ガルドの言葉に、周囲の空気がざわついた。
冒険者ギルドのランクは、金で買えるものではない。
依頼達成数、貢献度、戦闘能力、素行。
それらを総合的に判断し、複数の支部と本部が承認して初めて上がる。特にAランクは、単純に強いだけでは到達できない。
その制度を知りながら口にしたのなら、ギルドそのものへの侮辱にも近かった。
「ガルドさん」
受付嬢の声が低くなる。
「その発言は看過できません。撤回してください」
「俺は可能性の話をしただけだ」
「撤回を」
受付嬢とガルドが睨み合う。
周囲にいた冒険者たちの多くは、今度ばかりはガルドたちへ呆れた目を向けていた。
「やりすぎだぞ」
「受付の言う通りだ」
「Aランクの認証を疑うなら、ギルドから出ていけよ」
少しずつ、ガルドたちへ向けられる声が増えていく。
このままなら、職員が三人を追い出して終わる。
ルシルはそう考えていた。
シモンも余計な争いは望んでいない。
モモも――。
「あははははっ!」
望んでいないはずだった。
食堂中へ、明るい笑い声が響き渡る。
視線が一斉にモモへ集まった。
白い外套を揺らしながら肩を震わせ、彼女は本当に楽しそうに笑っている。何がおかしいのか分からず、ガルドたちも受付嬢も動きを止めていた。
「何がそんなにおかしい」
ガルドが睨む。
モモはしばらく笑い続けた後、目元を指で拭いながら立ち上がった。
「ごめんなさい。だって、シモン君がひょろい偽物だなんて」
「モモ」
「大丈夫です、ルシル様」
ルシルが止めようとしたが、モモは楽しそうなままだった。
両手をフードへ掛け、そのまま後ろへ下ろす。
ふわりと、ピンクゴールドの長い髪が広がった。
窓から差し込む夕方前の陽光を受け、一本一本が淡い金と桃色の光を帯びる。新緑色の瞳を細めて笑う姿に、食堂の男たちの多くが息を呑んだ。
それまで騒いでいた者も。
杯を傾けていた者も。
料理を口へ運んでいた者さえも。
一瞬、動きを止めた。
「おい……」
「すげぇ美人だな」
「あんな子が、サンドワームを?」
「嘘だろ」
小声が重なる。
隣に女性の仲間を連れている男の中には、脇腹を肘で突かれて痛そうに身体を曲げる者もいた。
ベックは完全にモモへ見惚れていた。
細い目を大きく見開き、口まで僅かに開いている。
「なあ、おじさんたち」
モモは極上の笑みを浮かべた。
「誰がおじさんだ」
ガルドは即座に反論したが、先ほどまでより声の勢いが弱い。
「シモン君の実力が、そんなに見たいんですよね?」
「あ、ああ」
「なら、見せてもらえばいいじゃないですか」
モモが胸の前で両手を合わせる。
「模擬戦をしましょう♪」
「モモ嬢!」
シモンが初めて大きな声を上げた。
「モモです」
「今はそこではありません! 何を勝手に決めているのですか!」
「だって、このままだとおじさんたち、納得してくれないでしょう?」
「納得させる必要がありません」
「でも、また他の人へ絡んだら危ないですよ?」
モモは首を傾げた。
声音は柔らかい。
しかし、新緑色の瞳の奥に浮かぶ光は、明らかに何かを企んでいる者のものだった。
「ここでシモン君が、きちんと教えてあげた方が親切です」
「何を教えるのです」
「人を見た目だけで判断してはいけないということです」
「僕は教育係ではありません」
「元王子様の教育係みたいなことを、ずっとしているじゃないですか」
「誰が教育される側だ」
ルシルが不満そうに口を挟む。
「ルシル様です」
「即答するな」
「事実です」
「モモまでシモンの味方をするのか?」
「今はルシル様の話ではありません」
三人がいつもの調子で言い合い始めると、周囲から堪えきれない笑いが漏れた。
ガルドたちは置いていかれたように顔を引きつらせている。
「おい。俺たちを無視するな」
「あ、ごめんなさい」
モモは再びガルドたちへ向き直った。
「模擬戦、受けますか?」
「こっちは最初からそのつもりだ」
「条件はどうします?」
「条件?」
「賭けです。何もないと楽しくないでしょう?」
モモの言葉に、シモンが片手で顔を覆った。
「なぜ、わざわざ話を大きくするのですか」
「では、シモン君が負けたら――」
モモが少し考える。
ベックとドーマの目が、期待するように彼女へ向いた。
「今日の皆さんの食事代を、全部こちらが払います」
「食事代?」
「はい。お酒も好きなだけどうぞ」
ガルドは鼻を鳴らした。
「随分と小さい賭けだな」
「では、金貨十枚もつけます?」
「モモ嬢!」
「モモです」
「金額の問題ではありません!」
「シモン君は負けないでしょう?」
「そういう話では――」
「それで、皆さんが負けたら」
モモはシモンの抗議を軽やかに無視した。
笑顔のまま、人差し指を一本立てる。
「シモン君に、きちんと頭を下げてください」
「は?」
「ひょろい偽物だと言って、ごめんなさい。素材を盗んだと疑って、ごめんなさい。見た目だけで判断して、ごめんなさい。三人で一回ずつです」
ベックの顔が歪んだ。
「たかが謝罪かよ」
「簡単でしょう?」
「ああ。だが、俺たちが勝ったら金貨十枚と、食事代だな」
「はい♪」
「待ってください。僕はまだ受けると言っていません」
シモンが席を立った。
モモの正面へ回り込み、声を抑えて続ける。
「なぜ僕が、あなたの思いつきで模擬戦をしなければならないのですか」
「嫌ですか?」
「嫌というより、必要ありません」
「でも、シモン君はさっきから怒っていますよね?」
モモの言葉に、シモンが黙った。
ルシルも僅かに目を細める。
表面上はいつも通りだった。
けれど、長い付き合いの二人には分かる。
シモンは怒っている。
自分が偽物だと言われたことではない。
ひょろいと笑われたことでもない。
三人で手に入れた素材を盗品扱いされ、モモへ無遠慮に触れようとした。
そして何より。
自分たちの旅の始まりを、汚されたことに。
「シモン」
ルシルが呼ぶ。
「無理に受ける必要はないぞ」
「分かっています」
「だが、受けたいなら止めない」
「ルシル様まで何を言っているのですか」
「モモの賭け方には問題があるが、俺も少し腹が立っている」
ルシルは椅子から立ち上がった。
笑っている。
けれど、青い瞳は全く笑っていなかった。
「俺たちの素材を盗品だと言った。モモに触れようとした。それだけでも十分だ」
「ですが」
「もちろん、ギルドの迷惑にならない形でだ」
ルシルは受付嬢へ視線を向けた。
「このギルドには、模擬戦用の場所があるか?」
「裏庭に訓練場があります」
受付嬢は少し迷いながら答える。
「双方が合意し、職員が立ち会うのであれば使用可能です。ただし、死亡や後遺症が残るような攻撃は禁止です」
「聞いたか?」
「聞いています」
シモンは深く息を吐いた。
モモ。
ルシル。
ガルドたち。
周囲の冒険者。
全員の顔を順番に見た後、眼鏡の位置を静かに直す。
「分かりました」
その一言に、食堂が沸いた。
「やるのか!」
「Aランク対Bランク三人だぞ!」
「訓練場へ行こうぜ!」
「仕事はどうした!」
「後だ!」
椅子を引く音と、杯を置く音が一斉に響く。
受付嬢たちは慌てて冒険者たちを落ち着かせようとしたが、珍しい模擬戦を見逃す者はいなかった。
「ただし」
シモンがモモへ向き直る。
「金貨十枚は取り消します」
「えー」
「食事代も、上限を決めます」
「負けないのに?」
「勝敗と無駄遣いは別の問題です」
「分かりました」
モモは渋々と頷いた。
「では、シモン君が負けたら、あちらの三人へ銀貨十枚ずつ。それから今日の食事を一品ずつ奢る。それでいいですか?」
「勝手に一品を追加しないでください」
「銀貨十枚だけ?」
「十分です」
「では、それで」
ガルドが笑った。
「俺たちが負けたら謝罪。それだけでいいんだな?」
「はい」
「後悔するなよ」
「しませんよ♪」
モモは即答した。
その笑顔に、ガルドは何を勘違いしたのか、ますます気を良くしたようだった。
訓練場は、ギルド建物の裏側、解体場から少し離れた場所にあった。
円形に土を固めた広場で、周囲は腰ほどの高さの木柵に囲まれている。外側には観戦用の段差が設けられ、日頃は新人の訓練や冒険者同士の模擬戦に使われているらしい。
知らせを聞いた冒険者が次々に集まり、段差も木柵の周囲も、瞬く間に人で埋まった。
「おい、もっと詰めろ!」
「見えねぇぞ!」
「本当に三対一か?」
「金髪の方は戦わないのか?」
「白い服の嬢ちゃん、近くで見るとすげぇな……」
騒がしい声が飛び交う。
受付嬢は同僚たちと共に木柵の入口へ立ち、訓練場へ勝手に入ろうとする者を止めていた。
審判を務めるのは、買い取り担当のバルガスだった。
彼は解体作業を他の職員へ任せ、厚い革の前掛けを外して訓練場の中央へ立っている。元冒険者らしく、傷のある顔には期待と警戒が混じっていた。
「双方、確認するぞ」
バルガスが太い声を響かせる。
「模擬戦は、どちらかが降参するか、戦闘不能になった時点で終了。殺傷を目的とした攻撃は禁止。故意に後遺症を残す攻撃も禁止だ。審判が危険と判断した場合、即座に止める」
「分かってる」
ガルドが大剣を肩から下ろす。
刃は訓練用の鈍いものへ交換されていたが、その重量と威力は本物と大きく変わらないだろう。
ベックも刃を潰した短剣を両手へ構え、ドーマは訓練用の戦斧を持っている。
三人とも先ほどまでの酔いは感じられない。
足運びや武器の持ち方には、確かな経験があった。
「シモン君、頑張ってください♪」
木柵の外からモモが手を振る。
その隣では、ルシルが腕を組み、穏やかな表情で訓練場を見ていた。
「応援するくらいなら、最初から勝手に賭けを決めないでください」
シモンは振り返らずに答えた。
彼だけは武器を持っていない。
普段の紺色の外套と黒縁眼鏡のまま、訓練場の中央へ立っている。
杖もない。
防具もない。
両手は自然に身体の横へ下ろされていた。
「本当に素手でやるつもりか?」
バルガスが確認する。
「ええ。問題ありません」
「俺たちを舐めてんのか!」
ドーマが戦斧を床へ叩きつけた。
土が跳ねる。
シモンは僅かに首を横へ振った。
「違います。武器を持つ必要がないだけです」
「同じことだろうが!」
「そう聞こえたのであれば、申し訳ありません」
全く申し訳なさそうではなかった。
周囲から笑いが起こる。
ドーマの顔が赤くなり、ガルドも奥歯を噛み締めた。
「ルシル様」
木柵の外で、モモが小声を出す。
「何だ?」
「シモン君、結構怒っていますね」
「ああ」
「大丈夫でしょうか」
「相手の心配なら、少しした方がいい」
「そちらです」
モモが困ったように笑う。
ルシルは訓練場へ視線を向けたまま、肩をすくめた。
「シモンは冷静だ。約束した以上、殺しはしない」
「殺しは、ですか?」
「後で治療してやればいい」
「私がですか?」
「聖女だろう?」
「こういう時だけ聖女扱いするんですね」
モモは不満そうに頬を膨らませた。
しかし目は楽しそうだった。
「準備はいいな!」
バルガスが右手を上げる。
ガルドたち三人が一斉に姿勢を低くした。
前衛のガルドとドーマ。
その後方、やや右へベック。
三人で長く活動してきたことが分かる陣形だった。
シモンは動かない。
「始め!」
右手が振り下ろされた。
「潰せ!」
最初に動いたのはドーマだった。
巨体からは想像できない速度で地面を蹴り、戦斧を大きく振り上げる。真正面からシモンへ向かうその一撃は、受ければ訓練用の武器でも骨が砕けるだろう。
同時に、ガルドが左側へ回る。
ベックは右へ走り、二本の短剣を逆手へ持ち替えた。
三方向。
逃げ道を塞ぐ、慣れた連携だった。
「悪くありませんね」
シモンが呟く。
ドーマの戦斧が振り下ろされた。
その瞬間。
シモンの身体が消えた。
「なっ!?」
戦斧が土へ突き刺さる。
ドーマの目の前から、標的だけが消えていた。
転移魔法ではない。
シモンは半歩だけ右へ移動しただけだった。
あまりにも無駄がなく、あまりにも速かったため、見ていた者の多くには消えたように見えたのだ。
シモンは戦斧の柄へ左手を添えた。
「力は十分です。ただ、振りが大きすぎます」
軽く押す。
それだけで、ドーマの身体が前へ崩れた。
「うおっ!?」
戦斧を引き抜こうと力を込めていたため、僅かな方向転換へ対応できなかった。巨体が勢いのまま前転し、土の上へ背中から転がる。
シモンはすでに彼を見ていなかった。
背後から迫っていたガルドの大剣へ、右手を向ける。
「風壁」
見えない壁と大剣が衝突した。
金属同士ではないはずなのに、硬質な音が響く。
「ぐっ!」
ガルドの両腕が震えた。
全力で振り抜いた大剣が、空中で完全に止められている。
押しても引いても動かない。
「この程度で!」
ガルドがさらに力を込めた。
「正面へ集中しすぎです」
「何?」
シモンの後方から、ベックが飛び掛かっていた。
短剣が左右から首と脇腹を狙う。
ガルドを止めるため右手を前へ向けたシモンは、背中を完全に晒している。
「取った!」
ベックが叫んだ。
短剣が届く直前。
「重力付加」
シモンが静かに唱えた。
「ぐべっ!」
ベックの身体が空中から地面へ叩き落とされた。
まるで巨大な手で押し潰されたように、腹這いのまま土へ沈む。短剣は両手から離れ、少し先へ転がった。
「な、何だこれ……身体が……!」
「一時的に、あなたの周囲だけ重力を強くしました」
「そんな魔法、聞いたことが……!」
「僕が作りましたので」
周囲が静まり返った。
重力を操る魔法。
既存の属性分類では、土と空間の複合に近い。だが、それを一言の詠唱で、対象だけへ正確に掛けた。
魔術師らしい冒険者たちが、目を見開いてシモンを見つめている。
「あれ、何級魔法だ?」
「分からん」
「術式が見えなかったぞ」
「杖も使ってない……」
木柵の外で、受付嬢も息を呑んでいた。
「これが、Aランク……」
「まだ始まったばかりですよ」
モモが嬉しそうに言う。
ガルドは大剣を風壁へ押しつけたまま、歯を食いしばった。
「ふざけやがって!」
大剣から片手を離し、腰の短刀へ手を伸ばす。
シモンは小さく息を吐いた。
「諦めが悪いですね」
右手の指を軽く閉じる。
ガルドを止めていた風壁が、突然形を変えた。
平面だった壁が幾本もの帯となり、大剣と両腕へ絡みつく。そのまま身体を持ち上げ、ガルドを地面から浮かせた。
「な、何だ!」
「風縛」
「下ろせ!」
「少し待ってください」
シモンは宙吊りになったガルドをそのままにし、起き上がろうとしているドーマへ向き直った。
「まだ続けますか?」
「当たり前だ!」
ドーマは地面へ刺さった戦斧を引き抜き、今度は横薙ぎに振るう。
先ほどの失敗を踏まえ、振りを小さく抑えている。
「修正が早い。良い判断です」
シモンは褒めながら、避けなかった。
戦斧が脇腹へ迫る。
「土盾」
地面から薄い石の板が生えた。
戦斧が石盾へ食い込む。
衝撃で表面に亀裂が走ったが、完全には砕けない。
ドーマは戦斧を引こうとする。
しかし刃が石へ深く挟まり、抜けなかった。
「武器へ頼りすぎです」
シモンが石盾へ指先を触れる。
「軟化」
硬かった石が一瞬で泥へ変わった。
突然抵抗を失った戦斧が勢いよく抜け、ドーマの上体が後ろへ反る。
「硬化」
今度は足元の土が固まる。
ドーマの両足が、足首まで石の中へ閉じ込められた。
「くそっ!」
力任せに引き抜こうとするが、びくともしない。
「ドーマ!」
宙吊りのガルドが叫ぶ。
その間にベックは、重力魔法の範囲から這い出そうとしていた。
指先を土へ食い込ませ、少しずつ身体を前へ進める。
「まだ諦めませんか」
「当たり……前だ……」
汗を流しながら、ベックは歯を食いしばる。
「俺たちは……Bランクだぞ……!」
「ええ。三人の連携も、個々の技量も悪くありません」
シモンは本心から評価していた。
「ですが、相手を見た目だけで判断する癖は直した方がいい」
「うるせぇ……!」
「それから」
シモンの声が僅かに低くなる。
「僕のことを侮辱するだけなら、好きにすればいい。ですが、仲間へ触れ、仲間の手に入れたものを盗品扱いしたことは、謝っていただきます」
ベックの身体を押さえていた重力が、少しだけ強くなる。
「ぐっ……!」
「もちろん、模擬戦の約束がありますから、これ以上はしません」
「もう十分やってるだろ!」
木柵の外から、誰かが笑いながら叫んだ。
それをきっかけに、周囲へ笑いが広がる。
シモンは僅かに眉を寄せた。
「僕はまだ、攻撃らしい攻撃をしていませんが」
その一言で、笑いが止まった。
確かにそうだった。
シモンが行ったのは、避けること。
風で止めること。
重力で押さえること。
土で武器や足を固定すること。
誰一人、殴っていない。
誰一人、傷つけてもいない。
「これが攻撃じゃないだと……?」
ドーマが呆然と呟く。
「ええ。拘束です」
「ふざけんな!」
「では、少しだけ攻撃を見せましょうか」
シモンが右手を上げた。
「シモン」
ルシルが呼ぶ。
その声音は軽い。
だが、止めるべきところは止めろという意図が込められていた。
「分かっています」
シモンは頷いた。
そして三人から離れた場所、訓練場の端に立つ木製の標的へ手を向ける。
「雷光」
閃光が走った。
音は後から来た。
轟音と共に、標的が消える。
砕けたのではない。
燃えたのでもない。
標的が立っていた場所には、黒く焦げた小さな穴だけが残っていた。
その後ろ。
訓練場を囲む木柵の一部にも、指ほどの細い穴が開いている。
さらに向こうの土壁へ、同じ高さで深い穴が穿たれていた。
完全に貫通している。
訓練場へ、風の音だけが戻った。
ガルドたち三人の顔から、血の気が引いていく。
「今のを」
シモンは何事もなかったように眼鏡の位置を直した。
「皆さんへ当てなかったことを、僕の臆病と呼びますか?」
誰も答えなかった。
バルガスが焦げた標的跡を見た後、シモンへ顔を向ける。
「勝負ありだ」
太い声が、静まり返った訓練場へ響く。
「ガルド、ベック、ドーマ。お前たちに続行の意思があったとしても、これ以上は模擬戦にならん」
「まだ……」
ガルドが何か言おうとする。
だが、シモンが視線を向けただけで、言葉は途切れた。
「降参しますか?」
「……くそ」
ガルドは宙吊りのまま顔を歪めた。
悔しさ。
恐怖。
屈辱。
様々な感情が入り混じっている。
それでも最後には、大剣から手を離した。
「降参だ」
その言葉を聞き、シモンが指を開く。
風の帯が消え、ガルドの身体が地面へ下りる。
ドーマの足元を固めていた石も土へ戻り、ベックへ掛かっていた重力も消えた。
三人は自由になった。
しかし、すぐには立ち上がれなかった。
肉体的な負傷はほとんどない。
それでも、自分たちが何もできなかったという事実が、身体より重く圧し掛かっているようだった。
周囲の冒険者たちから、遅れて大きな歓声が上がった。
「すげぇ!」
「三人相手に無傷だぞ!」
「いや、無傷どころか一歩もまともに動いてねぇ!」
「あれがAランクか!」
「眼鏡の兄ちゃん、化け物じゃねぇか!」
シモンの眉が僅かに動く。
「褒めているのでしょうか」
「たぶんな」
ルシルが木柵を越えて訓練場へ入る。
モモもその後へ続き、シモンの前まで来ると、満面の笑みで両手を叩いた。
「お疲れ様でした、シモン君♪」
「誰のせいで戦うことになったと思っているのですか」
「でも、すっきりしたでしょう?」
「していません」
「本当に?」
「……少しだけです」
シモンは小さく認めた。
モモが嬉しそうに笑う。
ルシルも肩へ手を置こうとしたが、シモンに素早く避けられた。
「なぜ避ける」
「今のルシル様は、褒めるふりをして力一杯叩く顔をしています」
「付き合いが長いな」
「十年以上ですから」
「それなら、名前呼びにも慣れただろう」
「話をすり替えないでください」
三人が話していると、ガルドたちが重い足取りで近づいてきた。
歓声は少しずつ収まり、周囲の視線が彼らへ集まる。
賭けの条件を覚えているのだろう。
ガルドはシモンの正面で立ち止まった。
しばらく俯いていたが、やがて拳を握り締め、深く頭を下げる。
「……悪かった」
短い言葉だった。
シモンは何も言わず、続きを待つ。
「ひょろい偽物だと言ったことも、素材を盗んだと疑ったことも、あんたらの仲間へ勝手に触ろうとしたことも。全部、俺たちが悪かった」
隣でベックも頭を下げた。
「すまなかった。特に嬢ちゃん。勝手にフードへ触ろうとした」
「次からはやめてくださいね」
モモは怒った様子を見せずに答えた。
「相手が私でなくても、嫌がる人はいますから」
「……ああ」
ドーマも不器用に頭を下げる。
「見た目だけで決めつけた。悪かった」
三人の謝罪を聞いた後、シモンはしばらく沈黙した。
周囲では、誰も声を出さない。
やがて彼は息を吐き、いつもの穏やかな表情へ戻った。
「謝罪を受け入れます」
「いいのか?」
ガルドが顔を上げる。
「模擬戦の条件でしたから。それに、これ以上争う理由はありません」
「俺たちは、あんたへかなり失礼なことを言ったぞ」
「自覚があるなら、今後は改めてください」
シモンはそれだけを告げた。
ガルドは何か言いたそうだったが、最後には静かに頷いた。
「分かった」
模擬戦は終わった。
観戦していた冒険者たちは興奮したまま、今の戦いについて語り合っている。
重力魔法。
無詠唱に近い複数属性。
標的を貫いた雷光。
シモンの名は、今日一日だけでもヘルガス支部中へ広まるだろう。
「これで完全無名ではなくなったな」
ルシルが楽しそうに言う。
「誰のせいだと思っているのですか」
「今回はモモだ」
「今回は、とは何ですか」
「前回は俺だった」
「自覚があるなら、今後は気をつけてください」
「善処する」
「信用できません」
訓練場から戻ろうとしたところで、受付嬢が駆け寄ってきた。
「シモン様!」
「何でしょう」
「素材の一次査定が終わりました。それから、サンドワームの討伐報奨金も支部長の承認が下りました」
「それは助かります」
「ただ……」
受付嬢はルシルとモモへ視線を向け、困惑した顔を見せる。
「金額が大きいため、この場ではなく応接室でお話ししたいとのことです」
「そんなにか?」
ルシルが尋ねる。
「大型サンドワームだけでも相当な価値があります。そこへ他の素材と討伐報奨金が加わりますので」
受付嬢は声を抑えた。
「現時点の概算で、金貨二百枚を超えています」
今度は、ルシルたち三人が黙った。
「二百枚?」
「はい。最終査定では、さらに増える見込みです」
ルシルはモモを見る。
モモもルシルを見る。
二人の表情が同時に明るくなった。
「豪華な夕食だな」
「お菓子もたくさん買えますね」
「お二人とも」
シモンが低い声を出す。
「最初に考えることがそれですか?」
「自由になった最初の街だからな」
「約束もしました」
「金貨二百枚を一晩で使うつもりではないでしょうね」
「さすがに使わない」
「少しだけです」
「その少しが信用できないのです」
頭を抱えるシモンの横で、ルシルとモモはすでに夕食の相談を始めていた。
肉料理。
魚料理。
温かなスープ。
果実の菓子。
焼きたてのパン。
この街の名物が分からないなら、店で全部聞けばいい。
「シモン君も、好きなものを頼んでいいんですよ?」
「元々そのつもりです」
「遠慮しなくても」
「していません」
「では、お酒は?」
「飲みません。お二人の監視が必要ですので」
「俺たちは子供ではない」
「今日だけで二度、目立たないという方針を忘れた方が何を言っているのですか」
「二度で済んでいる」
「まだ一日目です」
「明日は気をつける」
「今日も同じことを言っていました」
訓練場を離れながら、三人の声が夕方のギルド裏庭へ響く。
その後ろでは、ガルドたちが複雑な表情で彼らを見送っていた。
「なあ」
ベックが小さく呟く。
「あの三人、本当に何者なんだ?」
「知らねぇよ」
ガルドは悔しそうに答えた後、遠ざかる背中を見つめる。
「ただ、俺たちが喧嘩を売っていい相手じゃなかった。それだけは分かった」
「眼鏡の奴だけでも、あれだぞ」
ドーマが焦げた標的跡へ視線を向ける。
「残りの二人は、どれくらい強いんだ?」
三人は同時に沈黙した。
答えを知る者は、まだヘルガスの街にはほとんどいない。
Aランクのシモンを、当然のように仲間として扱う二人。
大型サンドワームを内部から一撃で倒したモモ。
そして、二人から自然に中心として見られているルシル。
無名の三人組。
彼らが本当は何者なのか。
その疑問は、模擬戦を見た冒険者たちの間へ、静かに、しかし確実に広がり始めていた。
一方。
疑問の中心にいる三人は、そんな周囲の反応など気にも留めていない。
「金貨二百枚なら、馬車も買えるな」
「まずは宿です」
「馬も二頭くらい必要か?」
「相場を確認してからです」
「お菓子屋さんへ行く時間はありますか?」
「応接室で話を終え、宿を決めた後なら」
「二軒行っても?」
「一軒です」
「三軒見て、一番美味しそうなお店を選ぶのは?」
「見るだけなら構いません」
「では三軒見ます♪」
「俺は肉料理の店を探す」
「一緒に行動してください!」
苦労人賢者の声が、ギルドの廊下へ大きく響く。
自由気ままな旅の最初の街。
その一日は、まだ終わりそうになかった。




