第3話 無名の三人組は、素材を少しだけ売るつもりだった
ヘルガスの街へ入るための列は、ルシルたちが遠目に見ていた以上に長かった。
灰色の石を積み上げて造られた防壁の正門前には、幌付きの荷馬車や二頭立ての馬車、背中へ大きな荷物を括りつけた旅人たちが、緩やかに蛇行しながら並んでいる。商人らしい者たちは荷台に積んだ木箱の数を確かめ、護衛の冒険者たちは武器へ手を掛けながら周囲へ目を配り、旅人たちは入街手続きを待つ間に水筒を回していた。
門の上では、槍を手にした兵士が何人も往来を見下ろしている。
正門の脇には荷物検査用の広い空間が設けられ、そこでは兵士たちが商人の積荷を一つずつ確認していた。香辛料の入った袋、布を巻いた反物、木箱へ詰められた果実、魔物の素材らしい角や皮。検査を待つ者と、終えた者の声が入り交じり、馬の嘶きや車輪の軋む音も絶え間なく響いている。
「人が多いですね」
モモが、深く被ったフードの下から周囲を見回した。
街へ近づく前に、ルシルとモモは外套のフードを上げていた。二人とも、本人たちに自覚がないまま人の目を引く容姿をしている。完全な無名から旅を始める以上、最初から無用な注目を集める必要はないというシモンの判断だった。
もっとも、ルシルは最後まで不満そうだった。
「暑い」
「我慢してください」
「風が入らない」
「顔を出せば、別の意味で面倒になります」
「俺はそこまで目立たないだろう」
「本気で仰っているのですか?」
「ルシル様は、とても綺麗ですよ?」
隣に立つモモが悪気なく言う。
ルシルは一瞬だけ黙った。
「男に向かって綺麗と言うな」
「では、美しいです」
「悪化しているぞ」
「端正で麗しいです」
「モモ、遊んでいるだろう」
「少しだけです♪」
白いフードの奥から楽しそうな笑い声が聞こえる。
シモンは二人のやり取りを聞きながら、すでに何度目か分からないため息を吐いた。
「門前で騒がないでください。ただでさえ、見慣れない三人組として兵士から確認される可能性があります」
「普通に並んでいるだけだぞ」
「普通に並んでいる旅人は、自分の顔が美しいかどうかで言い争いません」
「言い争っていたのはモモだ」
「ルシル様も反論していました」
「そこは否定するだろう」
「お二人とも静かに」
低く言われ、ルシルとモモは同時に口を閉じた。
だが、それも数秒しか続かなかった。
「なあ、シモン」
「何でしょう」
「列が長い」
「見れば分かります」
「王都では、こういう時はすぐ通れたよな」
「王族専用門がありましたから」
「今なら、あの有り難みが少し分かる」
「自由になったばかりなのに、もう特権を惜しんでいるのですか?」
「惜しんではいない。ただ、待つのは暇だ」
「これも自由な旅の一部です」
「妙に嬉しそうだな」
「殿下――ルシル様が、一般の入街列へ大人しく並んでいる光景が新鮮なだけです」
「今、少し笑っただろう」
「気のせいです」
シモンは前を向いたまま答えた。
しかし眼鏡の奥では、確かに目元が僅かに緩んでいる。
ルシルはそれを見て、文句を言う代わりに小さく笑った。
確かに、今までの自分ならこうして長い列へ並ぶことはなかった。
街へ入る時には先触れが出され、門前では兵士と領主の使者が待っていた。馬車から降りれば民衆が頭を下げ、歓声を上げる者もいれば、遠巻きに様子をうかがう者もいた。
どこへ行っても第一王子だった。
自分より先に肩書きが到着し、自分が何かを言う前に場が整えられていた。
だが今は、誰もルシルを知らない。
前に並んでいる商人は、後ろに元第一王子が立っているとは考えもしないだろう。少し離れた場所で子供をあやしている母親も、荷車の車輪を直している男も、こちらへ特別な視線を向けてはいない。
ただの旅人。
それが思っていた以上に心地よかった。
「悪くないな」
「何がです?」
「待つことだ」
「先ほど暇だと言っていませんでしたか」
「暇ではある。でも、誰にも急かされない」
ルシルは列の先へ視線を向けた。
手続きは少しずつ進んでいる。
急げと言われることもなければ、遅れるなと叱責されることもない。自分より前の者が終わるまで、ただ待てばいい。
「王城では、待つ時間にも予定を入れられたからな」
「移動の馬車で報告書を読んでいましたね」
「食事中も会議の資料を渡された」
「入浴前にも書類へ署名していました」
「眠る直前まで翌日の予定を確認した」
思い返すほど、よく耐えていたものだと感心する。
当時はそれが普通だと思っていた。
第一王子とはそういうものだと教えられ、自分も疑わず受け入れてきた。国のため、民のため、王族として当然の責務だと考えていた。
責務そのものを否定するつもりはない。
だが、今こうして何もせず列へ並んでいるだけで、身体の奥から力が抜けていくのを感じる。
「ルシル様」
モモが小声で呼んだ。
「何だ?」
「楽しそうですね」
「そう見えるか?」
「はい。さっきから、少しずつ笑っています」
言われて初めて、ルシルは自分の口元へ触れた。
確かに僅かに上がっている。
「列へ並ぶだけで笑う人は、少し変ですよ」
「自覚はある」
「でも、いい笑顔です」
「そうか」
モモの声も柔らかかった。
神殿で常に人から見られ、聖女として振る舞うことを求められてきた彼女もまた、誰にも知られない場所で過ごす解放感を味わっているのだろう。
ルシルがそう思っていると、前方から兵士の声が飛んできた。
「次の者、進め!」
いつの間にか、三人の順番が来ていた。
正門前には簡素な机が置かれ、その向こうへ二人の兵士が座っている。一人は書類を確認し、もう一人は入街者と荷物を見ていた。
「三人か。目的は?」
書類を担当する兵士が尋ねる。
「冒険者ギルドで素材を売却し、その後は宿を取る予定です」
シモンが代表して答えた。
「冒険者か。登録証は?」
「こちらです」
シモンが懐から一枚のカードを取り出す。
兵士は何気なく受け取ったが、表面を見た瞬間、その指が止まった。
「……金?」
小さく漏れた声に、隣の兵士も顔を上げる。
「見せろ」
二人は並んでカードを確認した。
金色の表面。
刻まれた冒険者ギルドの紋章。
偽造防止の魔力反応。
それらを確かめた兵士たちの目が、少しずつ大きくなっていく。
「Aランク……?」
「はい」
シモンは平然と頷いた。
「何か問題がありますか?」
「いや、問題はない。ないが……」
兵士はカードとシモンの顔を交互に見た。
黒縁眼鏡を掛けた穏やかな青年。
腰には剣もなく、背に杖もない。
外套の下へ防具を着込んでいる様子もなく、どう見ても高位冒険者らしい威圧感がなかった。
「失礼だが、本当に本人か?」
「本人確認の魔力反応も一致しているはずですが」
「確かに一致している」
兵士はもう一度カードへ触れ、内蔵された認証魔法を確認する。
薄い金色の光がカード表面へ走った。
「シモン……。登録地はアルディア王国王都か」
「ええ」
「王都のAランクが、なぜこんなところへ?」
「旅の途中です」
「護衛依頼か?」
「いいえ。この二人は仲間です」
シモンが後ろのルシルとモモへ視線を向ける。
二人も登録証を提示した。
ルシルのカードは銀色。
モモのカードも同じだった。
それぞれBランク冒険者を示す色である。
兵士はますます困惑した表情を浮かべた。
「Aランク一人に、Bランクが二人……。全員、王都登録か」
「何か不自然でしょうか?」
「不自然ではないが、珍しい」
兵士は登録証を返しながら、三人を改めて観察した。
「この街へ来るAランクは、年に数人もいない。大規模討伐か、指名依頼でもなければな」
「今回は素材の売却だけです」
「何を持ち込む?」
「草原で討伐したサンドワームと、手元にある素材を少々」
「サンドワーム?」
隣の兵士が身を乗り出した。
「大型個体か?」
「おそらく百年を超える成体です」
「お前たちが倒したのか?」
「正確には、彼女が」
シモンがモモを示す。
白いフードを深く被った小柄な少女へ、兵士二人の視線が集中した。
モモは両手を身体の前へ揃え、軽く頭を下げる。
「こんにちは」
「……この子が?」
「はい」
「一人で?」
「はい♪」
明るい返答に、兵士たちは言葉を失った。
ルシルはフードの奥で笑いを堪える。
無理もない。
モモの見た目から、巨大なサンドワームを内部から破壊する戦い方を想像できる者など、まずいないだろう。
「討伐場所は?」
「ここから南東の草原です」
「被害の報告が出ていた個体かもしれない。数日前から、街道付近で大型のサンドワームを見たという商人が何人かいた」
「先ほどすれ違った商人からも聞きました」
「ギルドへ出すなら、討伐記録も確認してもらえ。報奨対象なら、素材代とは別に金が出る」
「承知しました」
必要な確認を終えると、兵士は三人へ木製の小さな入街札を渡した。
「滞在中は持っておけ。街を出る時に返却だ。問題を起こすなよ」
「もちろんです」
「特にAランクのあんた。酒場で喧嘩でもされると、こちらでは止められん」
「僕は喧嘩を好みません」
シモンは静かに答えた。
それを聞いたルシルとモモが、互いへ視線を向ける。
確かにシモンは自分から喧嘩を売る性格ではない。
だが、ルシルやモモが絡まれた時の彼が、穏便という言葉から最も遠いことも知っていた。
「何ですか、その目は」
「何でもない」
「何でもありません♪」
「信用できませんね」
兵士たちが不思議そうに見ていたため、三人は会話を切り上げて門を潜った。
厚い防壁の内側へ入ると、外とは異なる音と匂いが一気に押し寄せてきた。
石畳を行き交う人々の声。
荷馬車の車輪が道を削る音。
店先から聞こえる呼び込み。
鍛冶場から響く金属音。
焼いた肉と香辛料の匂い。
果物の甘い香り。
馬や家畜の匂いまで混ざり合い、街全体が生き物のように動いている。
正門から続く大通りの両側には、二階建てや三階建ての建物が並んでいた。
一階部分を店として使う建物が多く、パン屋の前には焼きたての商品が籠へ積まれ、服飾店では色鮮やかな布が風へ揺れている。道端では串焼きを売る男が声を張り上げ、その隣では果実水を入れた桶の周囲へ子供たちが集まっていた。
「わあ……」
モモが小さく声を漏らす。
フードの奥で、緑色の瞳がきらきらと輝いているのが見えた。
「王都より小さいのに、賑やかですね」
「大通りへ商店が集中しているからだろう」
シモンが街並みを観察しながら答える。
「ヘルガスは周辺の農村と鉱山から物資が集まる街です。冒険者も多い。交易の中継地点として栄えているのでしょう」
「シモン君、あれは何ですか?」
モモが道の向こうを指差した。
そこでは大きな鉄板の上で、薄く切った肉と野菜が焼かれている。香草を混ぜた油が熱せられ、食欲を刺激する香りが風へ乗ってきた。
「肉と野菜を焼いたものですね」
「美味しそうです」
「昼食を食べたばかりでしょう」
「歩いたのでお腹が減りました」
「それほど歩いていません」
「モモ、夕食まで我慢しろ」
「ルシル様まで……」
「その代わり、ギルドで素材を売ったら好きなものを食べよう」
「約束ですよ?」
「ああ」
「菓子もです」
「一つだけなら」
「三つ」
「二つ」
「では二つで」
「最初から二つが狙いだったな?」
モモは答えず、楽しそうに歩き始めた。
ルシルはその後ろ姿を見ながら苦笑し、同時に街の景色へ目を向ける。
王都のような豪華さはない。
大理石で造られた建物も、貴族たちが集う広場もない。
だが、人々の距離が近かった。
商人と客が大声で値段を交渉し、職人が店先で隣の店主と笑い合い、子供が石畳を走れば、近くにいた大人が危ないと声を掛ける。
誰もルシルが通るからと道を空けない。
誰も頭を下げない。
誰も自分の表情をうかがわない。
普通の街の中へ、自分が溶け込んでいる。
その感覚が、また新鮮だった。
「ルシル様。歩く速度が遅くなっています」
前を歩くシモンが振り返った。
「ああ。街を見ていた」
「あとでいくらでも見られます。先にギルドへ行きましょう」
「分かっている」
「迷子にならないでくださいね」
「子供扱いするな」
「王都でも、視察先の市場で勝手に屋台へ向かおうとしたでしょう」
「あれは香りがよかったからだ」
「護衛隊を混乱させた自覚はありますか?」
「今は護衛隊がいない」
「だからこそ、勝手に離れないでください」
シモンは完全に保護者のような口調になっていた。
ルシルは反論しようとしたが、モモがすでに果実水の屋台へ引き寄せられかけているのを見て、言葉を飲み込む。
「モモ、そっちは違うぞ」
「少し見るだけです」
「シモンに怒られる」
「では、ルシル様も一緒に来れば大丈夫です」
「人数が増えればいいわけではありません」
後ろから飛んできたシモンの声に、二人は大人しく道へ戻った。
冒険者ギルドは、正門から大通りを十分ほど進んだ場所にあった。
周囲の建物より一回り大きい木造建築で、入口の上には二本の剣を交差させた看板が掲げられている。扉の脇には依頼書を貼るための掲示板があり、何人もの冒険者がその前へ集まっていた。
建物の前には、革鎧を着た若者たち。
大剣を背負った大男。
弓を持つ獣人の女性。
杖を抱えた魔術師らしき老人。
見た目も装備も様々な者たちが出入りしている。
「ここか」
ルシルは建物を見上げた。
「そのようですね」
「王都の本部より小さいですね」
モモが素直な感想を口にする。
「地方支部ですから当然です」
「でも、楽しそうです」
「何を見てそう思ったんだ?」
「入口の横で喧嘩している人たちです」
モモが指差した先では、若い冒険者二人が胸ぐらを掴み合い、仲間らしき者たちに止められていた。
「楽しそうには見えないぞ」
「元気そうです」
「それなら分かる」
「分からないでください」
シモンが二人の間へ入るようにして扉へ向かう。
ギルドの中へ入ると、外以上の騒がしさが三人を迎えた。
正面には長い受付台があり、その向こうで数人の職員が冒険者へ対応している。右側には依頼掲示板が並び、左側には酒場兼食堂が併設されていた。
昼を過ぎた時間にもかかわらず、酒場ではすでに酒を飲んでいる者もいる。
依頼を終えて帰ってきたらしい冒険者。
仲間を探している者。
報酬を巡って職員へ食い下がる者。
傷の手当てを受けている者。
様々な声が天井の高い空間へ反響していた。
三人が扉を潜った瞬間、幾つもの視線が向けられる。
最初に見られたのはシモンだった。
武器らしい武器を持たず、整った服装をしているため、冒険者より貴族の従者や商家の子息に見える。
次に、フードを被ったルシルとモモ。
全員が旅装でありながら、装備には傷や汚れが少ない。
場慣れしていない裕福な旅人。
あるいは、護衛を連れて依頼を出しにきた貴族。
多くの者はそう判断したようだった。
興味を失い、すぐに視線を戻す者もいる。
一方で、値踏みするように見続ける者もいた。
「注目されていますね」
モモが小声で言う。
「気にする必要はありません」
シモンは視線を正面へ向けたまま、最も空いている受付へ向かう。
そこにいたのは、栗色の髪を肩口で切り揃えた若い女性職員だった。
彼女は前の冒険者への対応を終えると、営業用の笑顔を浮かべる。
「こんにちは。冒険者ギルド、ヘルガス支部へようこそ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
シモンが受付台の前へ立った瞬間。
女性職員の笑顔が、ほんの僅かに明るくなった。
黒縁眼鏡越しでも分かる整った顔立ち。
落ち着いた物腰。
地方支部では滅多に見ない種類の青年だったのだろう。
「素材の買い取りをお願いしたいのですが、よろしいでしょうか」
「素材の買い取り……ですか?」
受付嬢は思わず聞き返した。
彼女の視線が、シモンの背後へ向かう。
三人とも手ぶらに見える。
背負い袋すらなく、素材を運んでいる様子はどこにもなかった。
「はい。少々、量がありますので」
「少々……」
受付嬢は戸惑いながらも、業務用の笑顔を崩さなかった。
「承知しました。冒険者登録をされている場合は、カードをご提示ください。素材の種類と量によっては、裏の解体場へご案内いたします」
「分かりました」
シモンが懐から金色のカードを取り出す。
受付台へ置かれたそれを、受付嬢は何気なく手に取った。
そして。
動きを止めた。
「……え?」
指先でカードを裏返す。
表面へ戻す。
魔力認証へかざす。
金色の光が淡く広がる。
「ご、ゴールドカード……?」
彼女の声は、決して大きくなかった。
だが、周囲の騒がしさの切れ目へ落ちたため、不思議なほどよく響いた。
近くの受付にいた職員が顔を上げる。
依頼掲示板の前にいた冒険者が振り返る。
酒場で杯を傾けていた男の手が止まる。
「今、ゴールドって言ったか?」
「Aランク?」
「あの眼鏡の男が?」
「見たことないぞ」
「他所の支部から来たんじゃないか?」
小さなざわめきが、波のように広がっていく。
受付嬢は完全に固まっていた。
「失礼ですが」
シモンが声を掛けると、彼女は肩を跳ねさせた。
「は、はいっ!」
「カードに何か問題がありましたか?」
「い、いえ! 問題ありません! 登録情報も認証魔力も一致しています!」
「では、買い取りをお願いできますか?」
「もちろんです!」
先ほどまでの営業用の笑顔とは違い、緊張で表情が引きつっている。
「素材は、どちらに……?」
「僕たちは三人とも収納魔法を使えますので、その中に」
「三人とも?」
受付嬢の声が裏返った。
その言葉も、周囲へ広がった。
「収納魔法だと?」
「しかも三人全員?」
「一人でも珍しいぞ」
「何者だ、あいつら」
今度は、先ほどよりも明確に視線が集まる。
収納魔法は、旅人や冒険者にとって極めて価値の高い能力だった。
荷物を持たずに移動できる。
食料や水を大量に保管できる。
討伐した魔物を傷ませず運べる。
軍や商会であれば、一人確保するために高額な報酬を支払うほどである。
それが三人。
無名でありながら、Aランクを含み、全員が収納魔法を使える。
注目するなという方が無理だった。
「広い場所の方がよろしいかと思います」
シモンは周囲の反応を気にする様子もなく続ける。
「量はどれほどでしょうか?」
「まだ正確には決めていません」
「決めていない?」
「持っている中から、必要な分だけ売ろうかと」
受付嬢の表情が、さらに困惑へ変わる。
「で、では、ひとまず裏の解体場へご案内します。担当者も呼びますので、少々お待ちください」
「お願いします」
受付嬢は近くの職員へ早口で指示を出した。
すると、そのやり取りを聞いていた冒険者たちが、少しずつ三人の周囲へ集まり始める。
露骨に近づく者はいない。
だが、掲示板を見るふりをしながら耳を傾ける者。
酒場から身体を乗り出す者。
仲間同士で小声を交わす者。
空気が明らかに変わっていた。
「目立っていますね」
モモがルシルの隣で囁く。
「シモンの金色カードが原因だな」
「お二人が収納魔法を使えると知られたことも原因です」
シモンが振り返らずに言う。
「俺は何も言っていないぞ」
「モモも言っていません」
「僕が説明しなければ、素材を持っていないと思われるでしょう」
「それもそうか」
「今回は仕方ありません。ただし、素材の量は抑えます」
「サンドワームだけか?」
「それと、下位素材を少しです」
「ドラゴンは?」
「出しません」
「一体くらい」
「出しません」
「爪だけでも」
「駄目です」
「シモン君、翼の端なら目立たないのでは?」
「ドラゴンの時点で目立ちます」
小声のやり取りにもかかわらず、近くにいた耳のいい獣人冒険者が、ぎょっとしたように三人へ視線を向けた。
シモンはそれに気づき、眼鏡の奥で二人を睨む。
「ここでは、その話をしないでください」
「悪かった」
「ごめんなさい」
二人は素直に謝った。
しばらくすると、先ほどの受付嬢が年配の男性職員を連れて戻ってきた。
髪には白いものが混じり、左目の上には古い傷がある。厚い革製の前掛けを着けており、解体担当者であることが一目で分かった。
「買い取り担当のバルガスだ。Aランクが大量の素材を持ち込むと聞いた」
「シモンです。よろしくお願いします」
「そっちの二人も仲間か?」
「はい」
バルガスはルシルとモモへ視線を向けた。
フードで顔は見えないが、立ち姿や気配を確かめるように目を細める。
「見たところ、相当場数を踏んでいるな」
「分かるのか?」
ルシルが尋ねる。
「長くこの仕事をしていればな。何も知らない若者は、これだけ冒険者から見られれば落ち着かなくなる。だが、お前たちは周囲を警戒しながら、全く怯えていない」
「なるほど」
「それで、何を持ってきた?」
「草原で討伐した大型のサンドワーム。それから、下位魔物の素材を幾つかです」
「サンドワームか。今朝、討伐依頼が出た個体かもしれん」
バルガスは顎へ手を当てる。
「とにかく見せてもらおう。こっちだ」
案内されたのは、ギルド建物の裏にある広い解体場だった。
石畳ではなく、血や体液が染み込まないよう特殊な灰色の床材が敷かれている。周囲には解体用の台、吊り上げ装置、大型の刃物、素材を洗うための水場が並んでいた。
普段から魔物の解体が行われているらしく、血と薬品の混ざった独特の匂いが漂っている。
三人の後ろからは、何人もの冒険者がついてきていた。
職員に止められない範囲で遠巻きに見学しようとしているのだろう。受付嬢のほかにも数人の職員が集まり、何が出てくるのかと固唾を呑んでいる。
「この中央へ出してくれ」
バルガスが解体場の広い場所を示した。
「ただし、大型なら周囲へぶつけるなよ」
「分かりました」
シモンがルシルとモモへ視線を向ける。
「まず、サンドワームだけにします」
「分かった」
「はい」
三人はそれぞれ少し離れて立った。
サンドワームは討伐後、外皮、頭部、身体へ分けて収納している。まず全体を確認してもらうため、分けた状態のまま並べることになった。
「こちらで大丈夫でしょうか?」
シモンがバルガスへ尋ねる。
「ああ。出してくれ」
「では」
シモンが右手を前へ向ける。
その隣で、ルシルとモモも同じように手を翳した。
「解放」
三人の声が重なった瞬間。
何もなかった床の上へ巨大な影が落ちた。
最初に現れたのは、黄土色の外皮だった。
太く長い皮が折り重なるように置かれ、それだけで解体場の一角を埋める。
次に、無数の牙を持つ巨大な頭部。
最後に、処理前の肉や内臓を含む胴体部分。
重い音が連続して響き、床が僅かに振動した。
「うおっ……!」
「でかい!」
「本当にサンドワームだ!」
見学していた冒険者たちから驚きの声が上がる。
職員たちも目を見開き、巨大な素材の山を見上げていた。
特に頭部は、人間数人が並んでも足りないほど大きい。円形に並ぶ牙は一本一本が短剣ほどあり、傷らしい傷は見当たらなかった。
バルガスは声を発さず、ゆっくりと外皮へ近づいた。
表面へ手を触れ、傷の有無を確かめる。
次に頭部を調べ、牙を一本ずつ叩き、欠けがないかを見る。
「……信じられん」
低く呟いた。
「外皮に切り傷がない。牙もほぼ無傷。どうやって倒した?」
その場にいた全員の視線が、三人へ集まる。
シモンは少し迷った後、モモへ目を向けた。
「彼女が体内へ直接魔法を転移させました」
「体内へ?」
「水属性の攻撃魔法を、闇属性の転移魔法で内部へ送ったのです」
解体場が静まり返った。
誰もすぐには意味を理解できなかったらしい。
やがてバルガスが、ゆっくりとモモを見る。
「嬢ちゃんが?」
「はい♪」
モモは可愛らしく返事をした。
「……聖職者か?」
白い外套と声から、そう判断したのだろう。
「一応、聖女です」
「一応?」
「本人も疑問を持っているようですので、深く考えないでください」
シモンが淡々と補足する。
周囲の冒険者たちは、モモとサンドワームを何度も見比べていた。
「聖女が内部破壊……?」
「治癒魔法じゃないのか?」
「闇魔法まで使う聖女なんて聞いたことないぞ」
「いや、Aランクの仲間なんだ。普通じゃないんだろ」
囁き声が重なる。
ルシルは肩を震わせながら笑いを堪えた。
モモは不満そうにルシルへ顔を向ける。
「何かおかしいですか?」
「いや。お前が聖女かどうか、初対面の者まで悩むんだと思ってな」
「私は立派な聖女ですよ」
「戦い方以外はな」
「戦い方もです」
「どこがだ?」
「魔物を苦しませず、すぐに終わらせました」
「腹の中を針だらけにして?」
「一瞬でした」
「一瞬ならいいという問題か?」
「ルシル様まで疑うんですか?」
二人の会話を聞き、周囲の何人かが吹き出した。
張り詰めていた空気が少し緩む。
バルガスも口元を僅かに歪めた後、再び素材へ向き直った。
「こいつは間違いなく、依頼が出ていた個体だ。大きさと牙の特徴が一致する。討伐報奨金も出るだろう」
「それは助かります」
「素材の状態も上等だ。外皮、牙、魔石、肉、内臓。全て買い取れる。ただ、査定には時間が掛かる」
「構いません」
「他の素材もあると言ったな?」
バルガスが尋ねる。
シモンはすぐに答えなかった。
代わりにルシルとモモを振り返り、念を押すような視線を向ける。
「下位魔物だけです」
「ああ」
「分かっています」
「絶対に余計なものを出さないでください」
「信用がないな」
「あります。だからこそ確認しているのです」
三人が小声で話している間、周囲では期待が高まっていた。
サンドワームだけでも十分な驚きだった。
それ以外に何があるのか。
冒険者も職員も、自然と解体場の中央へ視線を向ける。
「では、少しだけ」
ルシルが手を翳した。
「解放」
光が広がる。
現れたのは、一角兎の角と皮。
ゴブリンの魔石。
シルバーウルフの毛皮。
グランドボアの牙。
それらが幾つもの山となって床へ積み上がった。
一つ一つは下位から中位の素材である。
だが。
量が普通ではなかった。
一角兎だけで百を超える。
ゴブリンの魔石も同程度。
シルバーウルフの毛皮は何十枚も重なり、グランドボアの牙も木箱数個分はある。
「……少し?」
受付嬢が呟いた。
「これは、少しなのか?」
バルガスも同じ疑問を口にする。
ルシルは目の前の山を見た。
「俺たちの中では?」
「疑問形で答えないでください」
シモンが額を押さえる。
「ルシル様。僕は量を抑えるよう言いましたよね?」
「抑えたぞ」
「どこがですか」
「ドラゴンは出していない」
その一言で。
解体場が再び静まり返った。
シモンの顔から表情が消える。
モモは「あ」と小さく声を漏らした。
ルシルは周囲の反応を見て、自分の失言へ気づく。
「今のは忘れてくれ」
誰も忘れられるはずがなかった。
見学していた冒険者たちの目が一斉に見開かれ、職員の一人が持っていた記録板を床へ落とす。
「ドラゴン……?」
「持ってるのか?」
「冗談だろ?」
「Aランクなら、あり得るのか……?」
ざわめきが、先ほどまでとは比較にならないほど大きくなった。
シモンは眼鏡を外し、眉間を指で押さえた。
「ルシル様」
「悪かった」
「街へ入って半刻も経っていません」
「そうだな」
「目立たず行動するという話は、覚えていますか?」
「覚えている」
「では、なぜドラゴンの話をしたのです?」
「口が滑った」
「自由になったからといって、口まで自由にしないでください」
「反省している」
ルシルが素直に頭を下げる。
その姿を見て、モモが小さく笑った。
「ルシル様、怒られていますね」
「お前も他人事ではありません」
「私は何も言っていません」
「先ほど、翼の端なら売れるかと相談していたでしょう」
「あれはギルドへ入る前です」
「聞いていた者がいました」
「そうなんですか?」
「だから、もっと周囲を気にしてください」
シモンの説教は続きそうだったが、バルガスが豪快な笑い声を上げたことで中断された。
「ははははっ! 面白い連中だな、お前たちは!」
傷のある顔へ笑みを浮かべ、素材の山を見渡す。
「無名の新人かと思えば、Aランクがいて、全員が収納魔法を使い、聖女が魔物を内側から潰す。持ち込んだ素材は山ほどで、まだドラゴンまで隠しているときた」
「ドラゴンについては、今は忘れてください」
シモンが低い声で頼む。
「無理だな」
「ですよね」
「だが、無理に見せろとは言わん。冒険者が何を持っているかは本人の自由だ」
バルガスは笑いを収め、真剣な目へ戻った。
「ただし、これだけの量は今日中に全て査定できん。サンドワームと報奨金、それから価値の高いものを優先する。残りは預かり証を出す形でいいか?」
「お願いします」
「支払いも一括では用意できない可能性がある」
「急ぎません」
「なら、担当を増やして確認に入る。お前たちは表の食堂で待っていてくれ」
バルガスの指示を受け、職員たちが動き始める。
素材の種類ごとに札を付け、数を確認し、状態を記録していく。
見学していた冒険者たちはまだ離れようとしなかったが、作業の邪魔になると職員に追い出され始めた。
三人も解体場を後にする。
表のギルドへ戻る途中、受付嬢がシモンへ歩み寄った。
「査定が終わりましたら、お声掛けします」
「お願いします」
「それから、討伐報奨金についても支部長へ確認しています。おそらく問題なく支払われるかと」
「助かります」
シモンが穏やかに微笑む。
受付嬢の頬が僅かに赤くなった。
「は、はい。それでは、少々お待ちください!」
早口で言うと、彼女は逃げるように受付へ戻っていった。
モモがその背中を眺める。
「シモン君、好かれましたね」
「何の話ですか」
「受付のお姉さんです。顔が赤かったですよ」
「解体場が暑かったのでしょう」
「そうでしょうか?」
「そうです」
「シモンは昔から、こういうところに鈍いからな」
ルシルが横から口を挟む。
「鈍くありません。必要のないことへ意識を向けていないだけです」
「同じ意味だぞ」
「違います」
「では、あのお姉さんが食事に誘ったらどうします?」
モモが尋ねる。
「断ります」
「即答ですね」
「今は旅の途中です。それに、お二人を放置できません」
「俺たちは子供ではないぞ」
「先ほど口を滑らせた方が何を言っているのですか」
「それとこれとは別だ」
「別ではありません」
三人は言い合いながら、ギルドに併設された食堂へ向かった。
解体場から戻ったことで、周囲の視線は先ほどよりも増えている。
Aランク。
三人とも収納魔法持ち。
大量の素材。
大型サンドワーム。
ドラゴンまで所有しているらしい。
話はすでにギルド内の隅々へ広がっていた。
三人が空いている丸テーブルへ座ると、近くにいた冒険者たちが不自然に会話を止める。
遠くから観察する者。
興味深そうに笑う者。
敵意を見せる者。
様々な視線が集まっていた。
「完全無名から始めるはずだったんだが」
ルシルが小声で言う。
「名前自体はまだ知られていません」
シモンが答える。
「では、まだ無名か」
「怪しい三人組として認識されただけです」
「一歩前進だな」
「どこがですか」
「何も知られないよりはいいだろう」
「目立たないという方針からは後退しています」
モモが食堂の卓上に置かれた献立表を眺めながら、楽しそうに口を開く。
「でも、これで美味しいものが食べられますね」
「まだ査定額は出ていません」
「サンドワームだけでも十分でしょう?」
「十分です」
「では、夕食は豪華にしましょう」
「その前に宿を取ります」
「お菓子も忘れないでください」
「二つまでだぞ」
「覚えていてくださったんですね」
「約束したからな」
二人が盛り上がる横で、シモンは大きく息を吐いた。
だが、その表情には諦めだけではなく、僅かな笑みも混じっていた。
王都を出てから初めての街。
初めてのギルド。
初めて自分たちだけで稼ぐ金。
何もかもが、三人にとって新しい旅の一歩だった。
もっとも。
その一歩が、あまりに大きな音を立てたせいで、静かな旅の始まりとはいかなかったが。
「おいおい」
不意に、背後から低い声が掛かった。
「随分と景気のいい話をしてるじゃねぇか」
ルシルたちのテーブルへ、三つの影が落ちる。
振り返らなくても分かるほど、酒と汗の匂いが近づいていた。
シモンは目を閉じ、静かに息を吐いた。
「……予想より早かったですね」
「何がだ?」
「面倒事です」
ルシルが顔を上げる。
そこには、下卑た笑みを浮かべた三人の冒険者が立っていた。
彼らの視線はシモンではなく、白いフードを被ったモモへ向けられている。
ルシルはその視線へ気づき、口元を僅かに吊り上げた。
自由気ままな旅。
穏やかで、楽しく、誰にも縛られない旅。
そのはずだった。
けれどどうやら、最初の街から退屈だけはしないらしい。




