第2話 自由になった元王子は、昼食の場所すら自分で決められる
サンドワームを収納した後も、草原には戦闘の痕跡が生々しく残っていた。
巨大な身体が地面を叩いた場所では草が押し潰され、土が大きく抉れている。地中から飛び出した際に巻き上げられた土埃は、風に流されながら少しずつ薄くなっていたが、周囲にはまだ独特の土臭さと、魔物が残した生臭い気配が漂っていた。
その中心に立ちながら、ルシルは腰へ両手を当て、満足そうに何度も頷いていた。
「旅に出て最初の獲物が、いきなりB級の大型個体か。幸先がいいな」
「普通は、旅の初日にB級魔物と遭遇したら不運と考えます」
隣でシモンが冷静に指摘する。
戦闘が終わったというのに、彼はまだ完全には警戒を解いていなかった。眼鏡の奥の視線を周囲へ巡らせ、同じ個体がもう一体潜んでいないか、あるいは戦闘音を聞きつけた別の魔物が近づいてきていないかを確認している。
「でも、倒せたならお金になりますよ?」
モモはそう言いながら、先ほどまでサンドワームが倒れていた場所を覗き込んだ。
しゃがみ込んで地面へ触れ、何か残っていないかを確かめる。その姿は、戦いの後処理をする聖女というより、散歩中に珍しい石でも見つけた少女のようだった。
「だから幸運だろ?」
「殿――」
シモンは一度口を閉じた。
ルシルがすぐさま振り返る。
「今、殿下と言おうとしたな」
「言っていません」
「いや、言いかけた」
「気のせいです」
「モモ」
「はい。最初の一音が出ていました」
「モモ嬢」
「モモです♪」
たった数刻前まで巨大な魔物と向き合っていたとは思えないほど、三人の空気は早くも元へ戻っていた。
ルシルはサンドワームとの戦闘そのものよりも、こうして二人とくだらないやり取りを続けていられることの方が、今はずっと嬉しかった。
王城にいた頃なら、戦闘を終えた後には必ず報告が必要だった。
どこで、何時頃に、どの程度の脅威と遭遇したのか。
誰が何をして、どのような被害が出たのか。
戦闘で消費した魔力、使用した薬品、破損した装備、回収した素材。
それらを一つずつ書類へ記し、担当部署へ提出し、場合によっては関係者を集めて説明しなければならなかった。
たとえ自分が戦ったわけではなくても、第一王子が現場にいたというだけで、全ての責任はルシルへ集まった。
けれど今は違う。
誰かへ報告する必要はない。
王城へ戻る必要もない。
どこかの貴族へ恩を売るため、討伐実績を政治的に利用する必要もなかった。
ただ、自分たちで倒した魔物を売り、その金で食事をする。
それだけでよかった。
「……いいな」
ルシルが小さく呟く。
シモンが周囲から視線を戻した。
「何がです?」
「自分たちで倒した魔物を、自分たちのためだけに使えることだ」
「これまでも、討伐した魔物の素材は王家の財産として有効に使われていましたが」
「そうじゃない」
ルシルは緩く首を振った。
王家の財産。
国の利益。
民のため。
それらが間違っているとは思わない。国を治める者にとって必要な考え方であり、第一王子だった自分が背負うべきものだった。
だが、今だけは。
その全てから離れていたかった。
「サンドワームを売った金で、俺たちが好きなものを食べる。好きな宿へ泊まる。必要なものを買う。それだけでいいんだ」
「ずいぶん当たり前のことを、感慨深そうに言いますね」
「俺には当たり前じゃなかったからな」
その言葉に、シモンは何も返さなかった。
少し離れた場所では、モモが立ち上がり、外套についた土を軽く払っている。
「では、今日の夕食は豪華にしましょう」
「賛成だ」
「まだ街にも着いていません」
「着いたらの話だ」
「それに、素材の査定額も分かっていません」
「サンドワームだぞ? それも大きかった。安いはずがない」
「そうですけれど、旅を始めたばかりで浪費するのは感心しません」
「シモン君、せっかく自由になった最初の日ですよ?」
「だからこそ、先を考える必要があります」
「先を考えすぎて、今を楽しめなくなったらもったいないです」
モモは当然のことを言うように微笑んだ。
シモンは一瞬だけ言葉へ詰まる。
ルシルは思わず笑った。
「モモに正論を言われたな」
「納得はしていません」
「でも反論できませんでしたよね?」
「言葉を選んでいただけです」
「シモンは負けず嫌いだな」
「誰の影響だと思っているのですか」
そのまま三人は、戦闘前に目指していた丘の麓へ歩き出した。
少し先には、日差しを避けられそうな大きな岩が幾つか並んでいる。サンドワームとの戦闘で進路は少し逸れたものの、休憩場所としては申し分なかった。
近づいてみると、岩の一つは成人男性の三倍ほどの高さがあり、北側へ広い影を作っていた。風もほどよく遮られ、地面には柔らかな草が広がっている。
「ここでいいか」
「周囲に魔物の痕跡はありません。問題ないでしょう」
「では、お昼にしましょう」
モモが嬉しそうに両手を合わせた。
三人は外套を脱ぎ、岩陰へ腰を下ろす。
ルシルはその瞬間、無意識に背筋を伸ばしかけた。王城で食事をする時の癖だった。
テーブルへ着けば姿勢を正し、決められた順番で料理へ手をつける。
皿や杯を持つ角度にも気を配り、同席者との会話を途切れさせない。
食事は休憩ではなく、貴族や他国の使者と関係を築く場でもあった。料理の味より、誰が何を話し、どのような反応を示したかの方が重要だった。
だが、今の目の前には白い布が一枚敷かれているだけだった。
その上へ、シモンが収納魔法からパン、干し肉、チーズ、果物を取り出して並べていく。
銀製の食器もなければ、給仕する侍従もいない。
温かなスープも、何品も並ぶ肉料理もなかった。
それでもルシルには、王城の晩餐より遥かに魅力的な食事に見えた。
「どれを食べてもいいのか?」
「どういう質問です?」
「いや、決められた順番は?」
「ありません」
「最初にスープを飲む必要もない?」
「スープは用意していません」
「パンを手で割っても?」
「旅の途中で何を気にしているのですか」
シモンが怪訝そうに眉を寄せる。
それを見て、ルシルは少しだけ笑った。
「そうか。手で食べていいのか」
ルシルは一番大きなパンを手に取り、そのまま二つに割った。
硬めに焼かれた表面から小麦の香りが立ち、細かな欠片が膝へ落ちる。以前なら、服を汚さぬよう侍従がすぐに皿を差し出しただろう。
今は誰も何も言わない。
ルシルは割ったパンの片方へ、厚く切られたチーズを載せた。その上へ干し肉まで重ね、遠慮なく大きな口を開けてかぶりつく。
硬いパン。
少し塩気の強い肉。
濃い味のチーズ。
王城で出されていた料理と比べれば、決して上等ではない。
それなのに、驚くほど美味かった。
「……美味い」
「宿屋で買った普通のパンですよ?」
「分かってる。でも美味い」
「外で食べているからでしょうか」
モモもパンへチーズを挟み、両手で持ちながら小さくかじった。
風が草原を渡り、岩陰へ涼しさを運んでくる。陽光の下では草がきらきらと光り、先ほどの戦闘で抉れた場所も、ここからではほとんど見えなかった。
空の下で、信頼できる者たちと食事をする。
それだけのことが、ルシルには初めてだった。
王城の庭園で食事をしたことはある。
遠征先で兵士たちと同じ火を囲んだこともある。
だが、その時も自分は第一王子だった。
周囲には護衛がいて、兵士たちは緊張し、誰もが自分の言動へ気を遣っていた。
今、モモは頬へパンくずをつけたまま果物を選んでいる。
シモンは干し肉の塩分が多いと小言を言いながら、自分もしっかり二枚取っている。
誰も第一王子としてのルシルを見ていなかった。
ただの旅仲間として、同じ場所へ座っている。
「なあ、シモン」
「何でしょう」
「食事って、こんなに楽しかったんだな」
シモンは手にしていたパンを止めた。
眼鏡の奥から、しばらくルシルを見つめる。
「王城での食事も、悪いものばかりではなかったでしょう」
「ああ。料理は美味かったし、皆もよくしてくれた」
「では」
「でも、食べたいものを自分で選ぶことはなかった」
ルシルは布の上へ並んだ食料へ視線を落とす。
「朝は栄養を考えられた献立。昼は来客に合わせた料理。夜は会食か晩餐。俺が好きな料理を希望しても、国賓が来れば変更された。急な会議が入れば食事自体がなくなることもあった」
「それは……」
「だから今、どの果物を食べるか迷えることすら楽しい」
ルシルは赤い果物と黄色い果物を交互に見た。
どちらかを選ばなければならない理由はない。両方食べてもいいし、今は食べなくてもいい。
その小さな自由が、胸へ沁みた。
「では、両方食べればいいのでは?」
モモが当然のように言い、赤と黄色の果物を一つずつルシルへ差し出した。
「選べないなら、どちらも選べばいいんです」
「……そうだな」
「自由なんですから」
その言葉を聞き、ルシルは目を細めた。
「ああ。自由なんだ」
赤い果物へかじりつく。
甘酸っぱい果汁が口の中へ広がった。
続いて黄色い果物を食べる。こちらは甘みが強く、柔らかな香りが鼻へ抜ける。
「どちらも美味いな」
「そうでしょう?」
「殿――ルシル様。食べ過ぎると、街へ着く前に動けなくなりますよ」
「今、普通に呼んだな」
シモンの表情が固まる。
モモの顔へ、いたずらを思いついた子供のような笑みが広がった。
「呼びましたね。今度ははっきり聞きました」
「話の流れで仕方なくです」
「なら、もう慣れたでしょう」
「慣れていません」
「今後もそのまま頼む」
「努力はしません」
「呼べるようになったのに、頑固だな」
「元はといえば、殿下が急に呼び方を変えろと言い出したからでしょう」
「殿下は禁止だ」
「……ルシル様が」
シモンが苦々しい顔で言い直す。
それだけでルシルの機嫌が目に見えて良くなった。
「いいな」
「何がです?」
「名前で呼ばれるのがだ」
「そこまで喜ぶことですか」
「王城では、ほとんど誰も俺の名前を呼ばなかったからな」
その一言で、再び場の空気が静かになった。
父王からは、第一王子。
貴族たちからは、殿下。
侍従や兵士たちからも、殿下か御前。
幼い頃から近くにいた者でさえ、公の場では名を呼ばなかった。
ルシルという名を持っていながら、その名で呼ばれる機会は驚くほど少なかった。
「ですから、名前で呼んでほしかったんですね」
モモが穏やかな声で尋ねる。
ルシルは少し考えた後、肩をすくめた。
「たぶん、そうなんだろうな」
自分でも、今になって気づいた。
殿下という呼び名が嫌いだったわけではない。
その立場へ誇りがなかったわけでもない。
けれど殿下と呼ばれるたび、自分と相手の間へ見えない壁が作られていた。
役職。
身分。
責任。
期待。
ルシルという一人の人間より先に、それらが置かれていた。
「では、これからはたくさん呼びますね。ルシル様」
「頼む」
「シモン君もです」
「なぜ僕まで巻き込まれるのです」
「旅仲間でしょう?」
「呼び方と旅仲間であることは関係ありません」
「あります。私はあります」
「主観ではありませんか」
「シモン君」
「何です?」
「モモです」
「……モモ嬢」
「モモです」
「今はこれで我慢してください」
「では、今日中に一度呼べたら合格にします」
「勝手に試験を作らないでください」
モモは食事をしながらも諦める様子がなかった。
ルシルは二人のやり取りを眺め、声を立てて笑う。
その笑いに、緊張も遠慮もなかった。
しばらくして昼食を終えると、三人は岩へ背を預けて休むことにした。
シモンは地図を広げ、現在地を確かめている。
王都から西へ進み、国境を越えた先にある草原地帯。正確には、まだ隣国の領内へ入ってそれほど離れていない。今日中に最初の街へ着けなければ、夜は野営になる距離だった。
ルシルは地図を覗き込んだ。
「今いるのはこの辺りか?」
「おそらく、この丘の南側です。サンドワームとの戦闘で少し西へ逸れましたが、大きな問題はありません」
「最初の街は?」
「ヘルガス領の領都、ヘルガスです。ここから北西へ進めば、夕方までには着けるでしょう」
「領都なら大きいのか?」
「王都ほどではありませんが、周辺では最大規模です。冒険者ギルド、商業ギルド、宿屋、武具店、魔道具店。旅に必要なものは一通り揃うかと」
「食べ物は?」
「当然あります」
「何が名物だ?」
「そこまでは調べていません」
シモンが真顔で答えると、ルシルは心底残念そうな顔をした。
「一番大事なところだろう」
「一番ではありません」
「シモン君、旅先の食事は大事ですよ」
「モモまで」
「知らない街で、その土地のお料理を食べる。旅の楽しみでしょう?」
「もちろん楽しみではありますが、まず優先すべきは宿と情報収集です」
「宿を決めた後に食べればいい」
「まだ査定も終わっていません」
「サンドワーム以外にも売れる素材はあるだろう?」
ルシルの言葉に、シモンはわずかに動きを止めた。
モモも同じように首を傾げる。
ルシルは二人の反応を見て、逆に不思議そうな顔をした。
「何だ?」
「まさか、あれを全部売るつもりですか?」
「あれとは?」
「王都を出る前までに収納へ入れた素材です」
「ああ」
ルシルは軽く頷いた。
三人は王城や神殿にいた頃から、討伐任務や魔物被害の調査へ出ることが多かった。
その際に手に入れた素材の中には、王家や神殿へ提出する必要のないものもあった。討伐報酬として正式に譲渡されたものや、現地で放置されていたもの、研究用に回収した後で不要となったもの。
それらを処分する機会がないまま、三人の収納魔法には相当な量が溜まっていた。
「売れるものは売った方がいいだろう」
「量を考えてください」
「俺の収納に入っているだけでも、ゴブリンが百体くらいだったか?」
「正確には、通常種が百八十七体、上位種が二十三体、ゴブリンキングが二体です」
「よく覚えているな」
「管理しているのは僕ですから」
「私もシルバーウルフが百匹くらいと、双頭熊が三頭、それからワイバーンが七頭あります」
モモが指を折りながら数える。
ルシルは感心したように頷いた。
「結構あるな」
「結構どころではありません」
「シモンは?」
「売却予定のものだけでも、オーガ、ロックバード、グランドボア、ポイズンリザード、各種魔石。さらに王国北部で討伐したドラゴンが三体です」
「なら、金の心配はないな」
「一度に出せば大騒ぎになります」
「それほどか?」
「三人が無名であることを忘れないでください」
シモンは地図を畳みながら、低い声で続けた。
「僕たちは旅先では、どこの貴族とも王家とも関係のない冒険者として行動する予定です。そこへ突然、B級からA級相当の素材を山のように持ち込めば、間違いなく注目されます」
「注目されるのは困るな」
「その割に、草原で大声を上げていましたが」
「あれは周囲に誰もいなかった」
「魔物はいました」
「結果として金になっただろう」
「話を戻します」
シモンはきっぱりと言った。
「売却量は調整します。まずはサンドワームと、比較的目立たない下位魔物を中心にしましょう」
「ドラゴンは?」
「絶対に出しません」
「一体くらいなら」
「出しません」
「尻尾だけでも」
「駄目です」
「シモン君、少しだけならいいのでは?」
「モモまで浪費へ加担しないでください」
「ドラゴンの素材を売れば、美味しいお菓子が食べられますよ?」
「サンドワームだけで十分食べられます」
「では、サンドワームでお菓子を買いましょう」
「なぜ、もう使い道が決まっているのですか」
三人の旅の方針を決めるはずだった話し合いは、いつの間にか夕食と菓子の相談へ変わっていた。
シモンは何度も軌道修正を試みたが、ルシルとモモは次々に街で食べたいものを挙げ始める。
焼きたての肉。
香草を使った魚料理。
果実を煮詰めた菓子。
冷たい飲み物。
柔らかい寝台。
広い浴場。
話題が増えるほど、シモンの表情は疲れていった。
それでも完全に止めようとはしなかった。
ルシルはそれに気づき、少しだけ笑う。
シモンも楽しみにしているのだ。
自分が選んだ宿へ泊まり、自分たちだけで食事をし、明日の予定を相談する。
そんな当たり前の旅を。
「では、宿と食事の後はどうする?」
ひとしきり希望を出した後、シモンが改めて尋ねた。
「今後の目的地です。いつまでも当てもなく歩き続けるわけにはいきません」
「当てもなく歩くのも、自由で楽しそうだが」
「最低限の方角は必要です」
「モモは行きたい場所があるか?」
尋ねられたモモは、少しだけ考え込んだ。
「海を見たいです」
「海か」
「神殿にいた頃、本でしか見たことがありませんでした。地平線まで水が続いているなんて、どんな景色なのか見てみたいです」
「なら海へ行こう」
「即決ですか?」
「行きたい場所を聞いたんだから、行けばいいだろう」
「距離や経路、季節を考えてください」
「シモンは行きたくないのか?」
「そうは言っていません」
「なら決まりだ」
「まだ決まっていません」
シモンは地図を再び広げた。
「ここから最も近い海は南西ですが、直行すると国境を一つ越える必要があります。道中には山岳地帯があり、今の季節は雨も多い。対して北西へ進み、二つ目の国を経由すれば距離は伸びますが、街道は整備されています」
「どちらが面白そうだ?」
「安全性を聞いてください」
「安全は俺たちなら、どうにでもなるだろう」
ルシルが当然のように言うと、シモンは否定できずに黙った。
三人の中で最も戦闘向きではないように見えるシモンですら、賢者の称号を持つ国内最高峰の魔術師だった。
モモは複数属性の魔法を同時に操り、転移魔法まで組み合わせる。
そしてルシル自身も、王族だから守られていただけの男ではない。
三人が揃っていれば、大抵の魔物や盗賊を恐れる必要はなかった。
「なら、山を越える方が面白そうだな」
「僕の説明を聞いていましたか?」
「山の向こうに海があるんだろう?」
「かなり先です」
「問題ない。急いでいないからな」
その言葉に、シモンは目を瞬いた。
急いでいない。
王城にいた頃のルシルからは、滅多に聞かなかった言葉だった。
いつも時間に追われていた。
会議の開始時刻。
外交使節の到着。
訓練。
視察。
晩餐。
国王への報告。
次から次へと予定が詰め込まれ、少しの遅れも許されなかった。
けれど今は、目的地へ何日掛かってもいい。
途中で別の街へ寄っても、気が変わって別方向へ進んでも、誰にも咎められない。
「海へ着くまで、どれくらい掛かる?」
「寄り道をしなければ、一月半ほどでしょう」
「寄り道をしたら?」
「分かりません」
「なら、分からないままでいい」
ルシルは草原の先へ視線を向けた。
「まずヘルガスへ行く。そこで美味いものを食べる。それから山を越えて、海を目指す。途中で気になる場所があったら寄る。それでどうだ?」
「大雑把すぎます」
「嫌か?」
「……いいえ」
シモンは地図へ目を落としたまま、小さく答えた。
「悪くないと思います」
「決まりだな」
「はい♪」
モモが嬉しそうに笑う。
ルシルも笑った。
目的地は決まった。
けれど、王城で決められていた予定とは違う。
守らなければならない命令ではなく、自分たちが行きたいから決めた場所だった。
海。
モモが見たいと願った景色。
その程度の理由で十分だった。
休憩を終え、三人は再び歩き始めた。
太陽はすでに空の中央を過ぎ、草原へ伸びる影が少しずつ長くなっている。午後の風には昼前よりも温かさがあり、遠くでは小さな獣たちが草の間を走っていた。
丘を登り切ると、その先には緩やかに下る大地が広がっていた。
そして遥か北西。
地平線の手前に、細く長い影が見える。
「あれか?」
ルシルが目を細める。
「ええ。ヘルガスの防壁です」
「まだ遠いな」
「歩けば夕方頃です」
「馬を買った方がいいか?」
「街で相場を確認しましょう」
「馬車もいいですね」
「三人で馬車か」
「荷物は収納できますから、小さなもので十分です」
「御者は誰がやる?」
ルシルが尋ねると、二人の視線が同時に彼へ向いた。
「俺か?」
「ルシル様は、馬車を動かしたことがありますよね?」
「王城の訓練で少しだけだ」
「僕はありません」
「私もありません」
「では俺しかいないじゃないか」
「お願いします♪」
「待て。気ままな旅なのに、俺だけ仕事が増えていないか?」
「王城では多くの者へ命令していたのです。今度は自分で働いてください」
「シモン、自由とは何だと思う?」
「責任を捨てることではありません」
「正論だな」
ルシルは苦笑しながら歩き続ける。
遠くに見える防壁は、進むにつれて少しずつ形を明確にしていった。
その頃になると、草原には人の通った跡が増え始めていた。荷車の轍、馬の蹄跡、踏み固められた細い道。
やがて道の先から、荷車を引く商人らしき一行が現れた。
御者台へ座る中年の男と、その横を歩く二人の護衛。
相手も三人へ気づき、一瞬だけ警戒したように視線を向けたが、ルシルたちが武器を構えていないと分かると、すぐに緊張を解いた。
「ヘルガスへ向かうのか?」
すれ違う直前、御者の男が声を掛けてきた。
「ああ。そのつもりだ」
「なら急いだ方がいいぞ。日暮れ前は門が混む。今日は南から大きな商隊も来るらしい」
「助かる」
「それと、草原にサンドワームが出たって話だ。大型らしい。気をつけろよ」
男はそう言い残し、荷車を進めていった。
ルシルとモモ、シモンは、その背中を黙って見送る。
しばらくして、モモが口を開いた。
「大型のサンドワーム、いましたね」
「ああ」
「もういないがな」
「討伐証明を取っておけば、報奨金が出たかもしれません」
シモンが言う。
ルシルは歩きながら、収納へ入れたサンドワームを思い出した。
「ギルドで出せば証明になるだろう」
「それもそうですね」
「報奨金まで出るなら、夕食をさらに豪華にできるな」
「先ほどから、収入の使い道が食事しかありませんね」
「宿もある」
「大差ありません」
「シモン君、お菓子もあります」
「もっと大差ありません」
三人の声は、街へ続く道へ明るく響いた。
王都を出たばかりの無名の旅人。
誰も彼らの正体を知らない。
元第一王子であることも、聖女と呼ばれていたことも、賢者の称号を持つことも。
今の彼らにあるのは、名前と、旅装と、収納へ詰め込まれた大量の魔物素材だけだった。
夕暮れが近づく頃。
ようやく三人の前に、ヘルガスの街を囲む防壁が大きく姿を現した。
灰色の石を積み上げた壁は高く、上部には見張りの兵士が立っている。正門の前には商人や旅人の列が伸び、荷車や馬車の間を兵士たちが忙しなく行き来していた。
「着いたか」
ルシルは足を止め、防壁を見上げた。
王都を出てから、初めて訪れる街。
誰も自分を知らない場所。
第一王子としてではなく、ただのルシルとして入る街だった。
「立派な防壁ですね」
モモが目を輝かせる。
「この周辺は魔物が多いですから。防衛設備には力を入れているのでしょう」
シモンはそう説明しながら、門の列へ視線を向けた。
「身分証明は、冒険者ギルドの登録証で通します。ルシル様とモモは、予備のカードを使ってください」
「偽名は?」
「必要ありません。姓を名乗らなければ、ルシルという名前だけで正体へ辿り着く者はいないでしょう」
「モモも同じか」
「はい。珍しくない名前ではありません」
「シモンは目立たないのか?」
「僕の賢者としての活動は、主に王国内でした。国外で顔まで知られている可能性は低いでしょう」
「では、本当に無名からの出発だな」
その言葉を口へした瞬間、ルシルの胸の奥へ小さな高揚が広がった。
誰も自分たちを知らない。
地位も肩書きも通じない。
何を成すかは、これからの自分たち次第。
不思議と不安はなかった。
「行こう」
ルシルは列の最後尾へ向かって歩き出した。
「まずは宿だ」
「ギルドで素材の査定が先です」
「ではギルド」
「その後に宿です」
「食事は?」
「宿を決めてからです」
「お菓子は?」
「モモまで順番を増やさないでください」
門へ続く列の中で、三人はまた言い合いを始めた。
周囲の商人や旅人が、時折不思議そうに視線を向ける。
だが、その誰も知らない。
大声で食事の順番を相談している金髪の青年が、昨日まで王国の第一王子だったことを。
隣で菓子を要求している可憐な少女が、神殿最強と呼ばれた聖女であることを。
そして、二人を注意している眼鏡の青年が、王国最高峰の賢者であることを。
三人の名がこの街へ響き渡ることになるのは、もう少しだけ先の話だった。




