第1話 自由だーーーー!!
「自由だーーーーーーーーっ!!!!」
ルシルの腹の底から放たれた叫びが、見渡す限りどこまでも続く大草原を駆け抜けた。
頭上には、雲ひとつない青空が広がっている。昼へ近づきつつある太陽の光を受け、風に揺られる草の一本一本が淡い金色を帯びていた。地平線の果てまで連なる緑の波は、まるで大地そのものがルシルの叫びに応え、ゆっくりと身を揺らしているようにも見える。
王都を囲んでいた巨大な城壁は、もうどこにも見えない。
空を切り取る王城の尖塔も、王族の紋章が掲げられた正門も、貴族たちの馬車が列を作っていた石畳の大通りもない。あるのは、遮るもののない空と、草原を渡る柔らかな風、それから遠くで羽ばたく名も知らない鳥の姿だけだった。
「自由だーーーーーーーーっ!!」
一度目では足りなかったらしい。
ルシルは再び両手を高く掲げ、先ほどよりもさらに大きな声で叫んだ。
背中を覆う黒い外套が風を受け、大きくはためいている。陽光を弾く金色の髪は乱れ、額へ何本も張りついていたが、今のルシルには髪型を気にする必要などなかった。
王城にいた頃であれば、朝一番に侍従が髪を整え、服装に乱れがないかを確認した。襟の角度が少しずれているだけでも直され、外套の留め具に曇りがあれば交換された。
第一王子は、常に民の手本でなければならない。
人前で大声を出してはならない。
大股で歩いてはならない。
背筋を丸めてはならない。
感情を表情へ出しすぎてはならない。
笑う時でさえ、口元を大きく開いてはいけない。
そんな言葉を、物心がついた頃から何度聞かされてきたか分からない。
けれど今、ルシルの髪を整える侍従はいなかった。
声の大きさを注意する教育係もいない。
周囲を見渡しても、眉をひそめる貴族も、行儀が悪いと囁き合う侍女も、王族らしく振る舞えと命じる父王の姿もなかった。
だからルシルは、さらに深く息を吸った。
「じゆ――」
「殿下、三度目は結構です」
後ろから飛んできた冷静な声に、ルシルは叫びかけた口を閉じた。
そのまま振り返ると、数歩離れた場所で紺色の外套を着た青年が額を押さえている。風に揺れる黒髪の奥では、黒縁眼鏡を掛けた端正な顔が、早くも疲労に染まっていた。
「なんだ、シモン。人がせっかく人生最大の喜びを表現しようとしているのに」
「二度も聞けば十分伝わりました。これ以上叫ぶと、近くに潜んでいる魔物や盗賊まで集まってきます」
「こんな見通しのいい草原で、どこに盗賊が潜むんだ?」
「いないとは言い切れません」
「相変わらず心配性だな」
「殿下が何も考えなさすぎるだけです」
「だから、その殿下というのをやめろと言っているだろう」
ルシルが指摘すると、シモンの眉が僅かに動いた。
しかし、すぐに何も聞かなかったような顔をして周囲を見渡し始める。正面だけではない。左右の草むらや後方の道、遥か遠くにある小さな岩山にまで目を向け、危険がないか確かめていた。
王城の外へ出ても、長年身体へ染みついた側近としての習慣は抜けないらしい。
もっとも、それはルシルも同じだった。
何の責任もなくなったからといって、これまで身につけてきた立ち居振る舞いや戦い方が、すぐに消えてなくなるわけではない。自由になったという実感すら、まだ完全には身体へ馴染んでいなかった。
頭では分かっている。
自分はもう第一王子ではない。
次期国王候補でもない。
王位継承権を奪われ、王籍からも外され、国境の外へ追い出されたただの旅人だ。
しかし胸の奥には、今日もまた王城へ戻り、会議へ出席しなければならないような奇妙な感覚が残っている。今朝目を覚ました時も、寝台の横に侍従が立っていないことへ、一瞬だけ違和感を覚えたほどだった。
「ふふっ」
そんな二人の様子を見ていたもう一人が、口元を隠して楽しそうに笑った。
白い外套の隙間から、腰の辺りまで伸びたピンクゴールドの髪が風に乗って流れている。透き通るように白い肌と、春の若葉を思わせる新緑色の瞳を持つ少女は、どう見ても旅慣れた冒険者には見えない。
貴族令嬢か、神殿に仕える箱入りの聖女。
初対面の者が見れば、そう判断するだろう。
実際、彼女――モモは聖女だった。
少なくとも、肩書きだけは。
「ルシル様、本当に嬉しそうですね」
「ああ。こんなに嬉しい日は生まれて初めてかもしれない」
「王位継承権を奪われ、王籍を剥奪され、国から追放された翌日に口にする言葉ではありませんよ」
シモンが呆れた声を挟む。
ルシルは気にする様子もなく、両腕を大きく広げた。
「考えてもみろ。今日から俺は、好きな時間に起きて、好きなものを食べて、好きな場所へ行けるんだぞ。誰かが用意した予定表に従わなくていい。昼食中に外交問題の報告を受けなくていい。風呂に入っている最中に緊急会議へ呼び出されることもない」
「最後の一件については、入浴前に報告書へ目を通さなかった殿下にも原因があります」
「だから今は殿下ではない」
「事実を指摘しただけです」
「なあ、モモ。シモンは王城を出ても堅苦しいと思わないか?」
「思います」
「モモ嬢まで何を仰るのですか」
「だってシモン君、さっきからずっと後ろを気にしているじゃないですか。追っ手はいないって、昨日ちゃんと確認したでしょう?」
モモに言われ、シモンは後方へ向けていた視線を戻した。
「今日はいなくても、明日以降どうなるか分かりません。王城側が本当に殿下を放置するとは限らないでしょう」
「父上はしないだろう。俺を追い出した張本人だからな」
「国王陛下ではありません。第二王子派の貴族や、殿下が持つ情報を危険視する者たちです」
「もう俺には何の力もないぞ」
「殿下は自分の価値を低く見積もりすぎです」
シモンの返答には迷いがなかった。
その声に含まれた真剣さに気づき、ルシルは僅かに目を細める。
王城にいた頃から、シモンはいつもそうだった。
ルシル本人が自分をどう評価していようと、誰よりも高く評価し、誰よりも強く信じてくれていた。王族として生まれたことではなく、ルシル自身の行動や考えを見て側近となり、最後まで隣を離れなかった。
その結果が、現在である。
王位継承権を奪われたルシルと共に、地位も名誉も捨てて国を出た。
「その話なんだが」
ルシルは広げていた腕を下ろし、正面から二人を見た。
「本当についてくるつもりなのか?」
先ほどまでの軽い調子とは違う声に、二人も足を止めた。
草原を撫でる風が三人の間を通り抜け、外套の裾を揺らしていく。モモの長い髪が顔へ掛かり、彼女はそれを片手で耳へ掛けた。
「何度も聞かれましたね」
「何度でも聞く。王都を離れた今なら、まだ引き返せる。シモンは国王へ事情を話せば処罰を免れるかもしれない。モモも神殿へ戻れば、これまで通り聖女として――」
「嫌です」
モモは、ルシルが最後まで言い終える前に答えた。
いつもの柔らかな笑顔は浮かんでいる。
だが、瞳には冗談ではない強い光が宿っていた。
「私、神殿へ戻りたくありません。戻ったら、また偉い人たちの前で笑って、言われた通りに祈って、知らない人と婚約させられるかもしれないでしょう?」
「それは……まあ、可能性はあるな」
「それに、私はルシル様へ恩を返せていません」
「十分返してもらっただろう」
「返していません」
「俺が神殿の地下からお前を出したのは、恩を売るためではないぞ」
「知っています。だからこそ、返したいんです」
モモは一歩前へ出た。
白い外套の胸元へ右手を当て、真っ直ぐにルシルを見上げる。
「私は、ルシル様に助けていただいたあの日、初めて自分の人生を自分で決めてもいいんだと思えました。神殿で言われるまま祈り、言われるまま力を使い、誰かに決められた相手へ嫁ぐために生きなくてもいいのだと、教えていただきました」
「モモ……」
「ですから、今度は私がルシル様の自由を守ります。ルシル様が行きたい場所へ行き、食べたいものを食べ、笑いたい時に笑えるように、私はお供します」
そこまで言い切った後、モモは少しだけ視線を逸らした。
「それに、ルシル様と一緒に旅をした方が楽しそうですし」
「最後の言葉で全部軽くなったな」
「一番大切な理由です」
「恩返しより上なのか?」
「同じくらいです」
悪びれずに答えるモモを見て、ルシルは堪えきれずに笑った。
重くなりかけた空気が、彼女の一言で簡単にほどけていく。神殿で閉じ込められるように育ったはずの少女が、今では誰よりも自由な笑顔を見せていた。
そんな姿を見られただけでも、あの時に神殿へ喧嘩を売った意味はあったのだろう。
「シモンは?」
ルシルが視線を向けると、シモンは長い息を吐いた。
「先ほども申し上げました。愚問です」
「答えになっていない」
「殿下を一人で旅へ出せるわけがないでしょう」
「だから殿下ではない」
「それに、王城へ戻ったところで僕の居場所はありません」
「お前なら別の王族や高位貴族から、いくらでも声が掛かるだろう。賢者の称号を持つ宮廷魔術師で、内政にも外交にも明るい。引く手数多だ」
「それが何だというのですか」
シモンは眼鏡の位置を直した。
表情はいつもと変わらない。
けれど、その声はモモと同じく、決して揺らがなかった。
「僕が仕えたいのは王家ではありません。殿下です。正確には、ルシル・フォン・アルディアという一人の人間です」
「もうフォン・アルディアも名乗れないけどな」
「では、ただのルシル様です」
「今、名前を呼んだな」
「今のは例えです」
「いや、確かに呼んだ」
「聞き間違いでしょう」
「モモ、聞いたよな?」
「はい。はっきりと聞きました。ルシル様、とっても嬉しそうでしたね」
「モモ嬢、余計なことを言わないでいただけますか」
シモンが珍しく僅かに頬を引きつらせる。
ルシルはそこを見逃さなかった。
「よし。今日から殿下は禁止だ」
「お断りします」
「俺はもう殿下じゃないんだ。旅先で殿下なんて呼ばれていたら目立つだろう」
「それは……」
「正体を隠すためにも名前で呼べ。合理的な提案だぞ」
シモンの口が僅かに閉じる。
反論を探しているようだが、すぐには出てこない。普段ならルシルがどれほど勢い任せの提案をしても、瞬時に欠点を並べ立てる男が、明らかに言葉へ詰まっていた。
「ほら、言ってみろ」
「何をですか」
「俺の名前だ」
「知っています」
「知っているかどうかを聞いているんじゃない。呼べと言っている」
「必要になれば呼びます」
「今が必要な時だ」
「必要ありません」
「ある。これは新しい旅の始まりに必要な儀式だ」
「今、思いつきましたね?」
「細かいことは気にするな」
ルシルは逃げられないよう、シモンの正面へ回り込んだ。
すると、面白そうだと判断したのか、モモまで反対側へ移動する。左右を二人に挟まれたシモンは、眉間へ深い皺を刻んだ。
「シモン、ほら。ルシルだ」
「……」
「ル・シ・ル」
「分かっています」
「では言ってみろ」
「殿下」
「違う」
「元殿下」
「余計に駄目だ」
「では、御前様」
「旅先で誰がそんな呼び方をするんだ」
「主様」
「もっと怪しくなったぞ」
ルシルとシモンのやり取りを聞いていたモモが、肩を震わせ始める。
「シモン君、そんなに恥ずかしいんですか?」
「恥ずかしいわけではありません」
「では呼べますよね?」
「モモ嬢は黙っていてください」
「私も、モモ嬢はやめてほしいです」
「なぜ話が増えるのですか」
「私も今は聖女様でも公爵令嬢でもありませんから。旅仲間らしく、モモと呼んでください」
「今まで通りで何の問題もありません」
「あります。とても距離を感じます」
「適切な距離です」
「えー」
モモが頬を膨らませる。
その仕草だけなら年相応の可愛らしい少女なのだが、ルシルは彼女が不満を溜めた時ほど危険だと知っている。かつて神殿の高官がモモの怒りを買い、地下礼拝堂の石床から一週間消えない巨大な黒い染みを作ったことがあった。
何をしたのか尋ねても、モモは笑って「少しお話をしただけです」と答えただけだった。
「シモン。モモも呼んでやれ」
「殿下まで何を言うのですか」
「ルシルだ」
「まだ決まっていません」
「俺の名前は生まれた時から決まっている」
「呼び方の話です」
「なら今決める。俺はルシル。こいつはモモ。お前はシモンだ」
「僕の呼び方まで勝手に決めないでください」
「シモン君でいいですか?」
「君は不要です」
「では、シモンちゃん?」
「なぜ悪化するのですか」
「シモンたん?」
「モモ嬢」
「モモです」
三人はその場で足を止めたまま、しばらく呼び方について言い争った。
少し前までなら、こんな無駄な時間を過ごす余裕はなかった。
移動には必ず目的があり、会話には意味が求められ、予定から僅かでも遅れれば次の予定に影響した。誰かと笑いながら道端へ立ち止まり、くだらないことを言い合うなど、王族であったルシルには許されない贅沢だった。
けれど今、三人を急かす者はいない。
今日中にどこへ着かなければならないという決まりもなければ、この後に出席しなければならない会議もない。
日が暮れたら、適当な場所で野営をすればいい。
腹が減ったら、持ってきた食料を食べればいい。
疲れたら休めばいい。
それを考えるだけで、また胸の奥が軽くなった。
「シモン」
「何ですか」
「俺は今、すごく楽しい」
不意にルシルがそう口にすると、シモンは僅かに目を瞬いた。
「知っています。草原中へ響く声で二度も叫ばれましたから」
「それだけじゃない。こうしてお前たちと、くだらないことで言い合っているのが楽しいんだ」
「……そうですか」
「だから、ついてきてくれてありがとう」
ルシルは照れを誤魔化すように頬を掻いた。
言葉へした途端、急に気恥ずかしくなったのだろう。視線も二人から外れ、遠くに見える小さな丘へ向けられている。
モモは一瞬だけ驚いた後、花が咲くように笑った。
「どういたしまして。これから、もっともっと楽しいことをしましょうね」
「ああ」
「まずは美味しいものを食べたいです」
「いいな」
「景色の綺麗な場所にも行きたいです」
「行こう」
「海も見たいです」
「王都から南へ行けば――いや、今は逆方向だから、北西の国境を越えた方が近いか?」
「経路の計算は後にしてください」
横からシモンが口を挟む。
だが、先ほどまでより声が少し柔らかかった。
「こちらこそ、ありがとうございます」
「何がだ?」
「僕を連れてきてくださったことです」
「お前が勝手についてきたんだろう」
「そうでしたね」
シモンは眼鏡の奥で、ほんの僅かに笑った。
王城では滅多に見せなかった表情だった。
ルシルは何も言わず、その笑みを見ていた。
シモンもまた、ルシルと同じように王城から解放されたのかもしれない。
第一王子の側近として、彼が背負っていたものも軽くはなかった。ルシルの一挙一動に目を配り、敵対派閥の動きを調べ、暗殺や毒殺を警戒し、時にはルシル本人よりも先に危険へ飛び込んだ。
王位継承争いが激しくなってからは、まともに眠れていない日も多かったはずだ。
「これからは、少し休めよ」
「急に何です?」
「王城では働かせすぎたからな。旅の間くらい、のんびりしていい」
「誰のせいで働く羽目になると思っているのですか」
「俺か?」
「他に誰がいるのです」
「モモもいるぞ」
「私はシモン君に迷惑を掛けませんよ?」
「神殿の書庫を勝手に持ち出そうとした方が、何を言っているのですか」
「あれは持ち出そうとしたのではありません。少し外で読もうとしただけです」
「禁書を三十二冊も抱えてですか?」
「外の方が明るかったので」
「地下書庫から地上へ続く壁を消し飛ばす必要がどこにあったのです」
「扉の鍵が閉まっていたので」
シモンの目が遠くなる。
ルシルも当時のことを思い出し、視線を逸らした。
禁書庫の壁が消えた翌日、神殿側から届いた抗議文は二十枚を超えていた。しかも、その大半はモモではなく、彼女を連れ出したルシルへ向けられたものだった。
今となっては、もうどうでもいい話である。
「ともかく、これからは三人でのんびりしよう」
「殿下がそう言うと、不安しかありません」
「ルシルだ」
「まだ続けるのですか」
「続ける。旅先で殿下と呼ばれるたびに、正体がばれる危険が高まるからな」
「理屈としては理解しています」
「なら呼べ」
「……」
再び始まりそうになった攻防に、モモが楽しそうに両手を叩いた。
「では、歩きながら練習しましょう。最初は一音ずつでも大丈夫ですよ」
「幼児へ言い聞かせるような口調をやめてください」
「る」
「言いません」
「し」
「言いません」
「る」
「言いません」
「繋げて、ルシルです」
「分かっています!」
「ほらシモン、言ってみろ」
「……る」
小さく漏れた声を、ルシルとモモは聞き逃さなかった。
二人が同時にシモンへ顔を近づける。
「今、ると言ったな?」
「言いましたね」
「言っていません」
「いや、言った」
「言いました」
「……風の音でしょう」
「こんなに都合よく、ると鳴く風があるか」
「この辺りにはいるのかもしれません」
「風を生き物みたいに言うな」
シモンは歩く速度を上げ、二人から逃げようとする。
ルシルとモモは笑いながら後を追った。
草を踏む三人の足音が、穏やかな風の音へ混ざっていく。太陽は少しずつ高くなり、朝方に残っていた涼しさも薄れ始めていた。
どれほど歩いた頃だろう。
目印の少ない草原では、距離の感覚が曖昧になる。
ルシルは額へ浮いた汗を手の甲で拭いながら、前方へ視線を向けた。遠くに見えていた丘が少しずつ近づき、その麓には大きな岩が幾つか転がっている。
「少し休むか?」
「まだ大丈夫です」
モモは元気よく答えた。
「シモンは?」
「問題ありません。ですが、昼食を取る場所としては、あの岩陰が良さそうですね」
「では、そこで休もう。何を食べる?」
「朝、殿――ルシル様が宿屋から持ってきたパンがあります」
シモンの口から自然に出た名前に、ルシルは目を見開いた。
モモも同じように動きを止める。
言った本人は、数歩進んでから二人がついてきていないことへ気づき、怪訝そうに振り返った。
「どうしました?」
「シモン」
「何ですか」
「今、呼んだな」
「何をです?」
「俺の名前だ」
「呼んでいません」
「呼びましたよ。とっても自然に、ルシル様って」
「気のせいです」
「いや、俺も聞いた」
「モモ嬢と二人で幻聴を聞いたのでしょう」
「認めろ」
「認めません」
シモンは顔を背け、再び歩き始めた。
けれど耳が僅かに赤くなっている。
ルシルとモモは顔を見合わせた後、声を抑えきれずに笑い始めた。
「笑わないでください!」
「だって、シモン君が照れてるんだもん」
「照れていません!」
「では、もう一度呼んでみろ」
「お断りします!」
声を上げたシモンの足元で、地面が微かに揺れた。
最初は、三人の笑い声に紛れるほど小さな振動だった。
ルシルの表情から笑みが消える。
ほぼ同時に、モモも足を止めた。シモンは赤くなっていた耳を隠すことすら忘れ、素早く周囲へ視線を走らせる。
「二人とも」
「はい」
「気づいています」
つい先ほどまでの和やかな空気が、一瞬で切り替わった。
三人の姿勢が僅かに低くなる。
誰が合図を出したわけでもない。それでもルシルが前へ、モモが右後方へ、シモンが左後方へ移動し、互いの死角を自然に埋めていた。
王城の訓練場で、何度も繰り返した陣形だった。
「地中です」
シモンが低い声で告げた。
「一体。大きいですね」
「こちらへ向かってきているな」
ルシルは足裏へ伝わる振動へ意識を集中させる。
草原の風は変わらず吹いている。空にも異変はない。しかし、地面の下では明らかに何かが動いていた。
しかも、速い。
数十メートル先の草が、不自然に盛り上がる。
その隆起は一直線に三人へ近づいてきた。
土の塊が跳ね、草の根が千切れ、まるで地面の下を巨大な蛇が泳いでいるかのように、大地が大きくうねっていく。
「シモン、種類は分かるか?」
「この速度と規模なら、おそらくサンドワームです。成体ならB級。個体によってはA級に届きます」
「素材の価値は?」
「皮と牙が高値で取引されます。体液も錬金素材になりますが、保存が難しいですね」
「なるほど」
「聞くところはそこですか?」
「旅には金が必要だろう」
「それはそうですが」
地面の盛り上がりは、すでに十メートルほどの距離まで迫っていた。
モモが腰の辺りで両手を合わせ、楽しそうに微笑む。
「では、皮を傷つけない方がいいですね」
「ああ。なるべく綺麗に倒したい」
「承知しました」
その返答を聞いたシモンが、嫌な予感を覚えたようにモモへ目を向けた。
「モモ嬢。念のため確認しますが、何をするつもりですか?」
「モモです」
「今は呼び方の話をしている場合ではありません」
「では、ちゃんと呼んでくれたら教えてあげます」
「この状況で駆け引きをしないでください」
「ルシル様も、私の方法でいいですよね?」
モモがルシルへ問い掛ける。
ルシルは地面の隆起を見ながら、少しだけ考えた。
「外側を傷つけないなら、任せる」
「はい♪」
「待ってください。まさか、あの魔法を使うのでは――」
シモンが最後まで言い切る前に、地面が大きく爆発した。
土と千切れた草が空高く舞い上がり、轟音が草原全体を震わせる。
「ギャギャギャギャギャァァァッ!!」
地中から姿を現したのは、黄土色の硬い外皮に覆われた巨大な魔物だった。
太さだけでも成人男性の背丈を超え、地上へ現れた部分だけで十メートル以上ある。先端には眼らしきものはなく、大きく開かれた円形の口には、内側へ向かって何重もの牙が並んでいた。
口の奥から生臭い風が噴き出し、周囲の草を大きくなびかせる。
普通の旅人が遭遇すれば、逃げることすらできずに飲み込まれるだろう。
しかし、三人は動じなかった。
ルシルは風で乱れた金髪を片手で押さえながら、サンドワームを見上げる。
「初めて見るが、思ったより大きいな」
「大型個体です。牙の形状を見る限り、最低でも百年は生きていますね」
「高く売れそうか?」
「適切に処理できれば」
「なら、モモ」
「はい♪」
「頼む」
「お任せください」
ルシルとシモンが後方へ下がる。
戦う気配すら見せず、あっさりと前を譲った二人へ、サンドワームが巨大な口を向けた。
「ギャァァァァッ!!」
怒り狂った咆哮が響く。
モモの白い外套とピンクゴールドの髪が、生臭い風を受けて大きく揺れた。
それでも、彼女は怯えない。
むしろ、いつもの可愛らしい笑みを浮かべたまま、右手をゆっくりと持ち上げた。
「皮も牙も傷つけずに倒せばいいんですよね?」
「ああ」
「体液は?」
「売れるなら回収したいが」
「それはシモン君にお願いします」
「僕ですか?」
「収納魔法も保存魔法も得意でしょう?」
「得意ですが、何をさせるつもりなのか先に説明してください」
「大丈夫です。終われば分かります」
「それが一番不安なのですが」
シモンの訴えを気にする様子もなく、モモは左手も持ち上げた。
右手には淡い水色の魔力。
左手には光を吸い込むような黒い魔力。
二つの異なる属性が、それぞれ彼女の掌の上で渦を巻き始める。
水色の魔力は澄み切った泉のように美しく、黒い魔力は底の見えない深淵のように不気味だった。
「水魔法――アクアニードル」
モモの右手の周囲に、細長い水の針が幾つも生まれる。
一本一本は指ほどの長さしかない。
しかし、その先端は光を弾くほど鋭く、込められた魔力の密度は並の上級魔法を遥かに超えていた。
「闇魔法――闇転移」
左手の上で黒い魔法陣が開く。
サンドワームがモモを飲み込もうと、巨大な身体を前へ倒した。
幾重もの牙が回転し、草原の土ごと彼女を噛み砕こうと迫る。
モモは逃げなかった。
水色と黒、二つの魔力を胸の前で重ね合わせる。
「ユニゾン♪」
楽しげな声と共に、全ての魔力が消えた。
何も起こっていないように見えた。
サンドワームの口は、すでにモモの目前まで迫っている。
シモンの眼鏡の奥で、瞳が僅かに細められた。
ルシルは動かない。
二人とも、モモの魔法が失敗したとは微塵も考えていなかった。
次の瞬間。
「ギィッ……?」
サンドワームの動きが止まった。
巨大な口がモモの頭上で静止し、全身が不自然に痙攣する。
一度。
二度。
硬い外皮の内側で、何かが暴れているように巨体が大きく波打った。
「ギャァァァァァァァァッ!!」
先ほどまでとは違う、明確な苦痛を含んだ叫びが上がった。
サンドワームは地面へ倒れ込み、狂ったように身体をのたうたせる。尾が大地を叩くたびに土が弾け、周囲の草がまとめて吹き飛ばされた。
けれど、モモの立っている場所だけは不自然なほど静かだった。
彼女は暴れる巨体を見上げながら、両手を背中へ回している。
やがてサンドワームの口から、赤黒い液体が大量に溢れ出した。
「シモン君、今です」
「だから事前に説明を――ああ、もう!」
文句を言いながらも、シモンの反応は早かった。
杖すら使わず右手を向け、流れ出る体液の周囲へ青白い魔法陣を展開する。体液は地面へ落ちる寸前で宙に浮かび、そのまま幾つもの透明な容器へ吸い込まれていった。
「保存封印。固定。隔離。収納」
短い詠唱と共に、容器が次々と消えていく。
シモンの収納魔法へ送られたのだろう。
その間にも、サンドワームの動きは少しずつ弱くなっていった。
最後に大きく身体を震わせた後、巨大な頭部が地面へ落ちる。
ズシンという重い音が響き、大地が僅かに揺れた。
それきり、魔物は動かなかった。
先ほどまでの咆哮が嘘だったかのように、草原へ静寂が戻る。
風に乗って草が揺れ、舞い上がっていた土埃がゆっくりと降りてきた。
モモは倒れたサンドワームへ近づき、硬い外皮を軽く叩く。
「はい。外側に傷はありません♪」
そして振り返り、満面の笑みで大きく手を振った。
「ルシル様、シモン君、終わりましたよー!」
白い外套を揺らしながら、ぴょんぴょんと小さく跳ねている。
その姿だけを見れば、草原で花を見つけて喜ぶ普通の少女と変わらない。
少なくとも、巨大な魔物の体内へ無数の水針を直接転移させ、内側から破壊した直後の人物には見えなかった。
「何度見ても、えげつないな」
ルシルが素直な感想を口にする。
隣でシモンも眼鏡の位置を直し、静かに頷いた。
「ええ。転移阻害を持たない生物であれば、防御力に関係なく内部から破壊できます。しかも外皮を傷つけず、素材価値まで維持するとは」
「さすが聖女だな」
「聖女の所業でしょうか」
「違う気がする」
「僕もそう思います」
二人が遠い目で話していると、モモが頬を膨らませながら戻ってきた。
「聞こえていますよ」
「褒めているんだぞ」
「どこがですか?」
「素材を傷つけずに倒した」
「そうでしょう?」
「戦い方は怖いが」
「余計です」
「ですが、事実です」
「シモン君まで!」
モモがシモンへ抗議する。
シモンは視線を逸らさず、真顔で続けた。
「体内へ攻撃を直接転移させる発想は、普通の聖女からは出ません」
「効率がいいですよ?」
「効率で聖女らしさを判断しないでください」
「神殿では、困っている人を助けるのが聖女だと教わりました」
「それは間違っていません」
「この子も、いつまでもお腹が痛いと可哀想でしょう? だからすぐ終わらせてあげたんです」
モモが倒れたサンドワームを指差す。
ルシルとシモンは、そろって沈黙した。
サンドワームが本当に腹痛だったかどうかは分からない。
ただし、今後二度と腹痛に悩まされることはないだろう。
「優しいな、モモは」
「はい♪」
「ルシル様、そこは肯定していいところではありません」
「本人が満足しているんだからいいだろう」
「そういう問題ではないでしょう」
シモンが深くため息を吐く。
その横で、ルシルは倒れたサンドワームへ視線を向けた。
旅へ出て最初に遭遇した魔物。
それを苦戦することなく倒し、素材も手に入れた。
王城の者たちが今の光景を見れば、国から追放された直後とは思えないと呆れるだろう。
しかしルシルにとっては、これでいい。
王位を巡る陰謀も、貴族たちの駆け引きも、国を背負う重圧もない。
信頼できる二人と歩き、魔物を倒し、素材を売り、美味いものを食べる。
行き先は決めていない。
明日どこにいるかも分からない。
それでも、不安より先に楽しみが湧いてくる。
「シモン」
「何でしょう」
「これ、収納できるか?」
「可能ですが、かなりの容量を使います」
「俺とモモの収納にも分ければいい」
「三人とも収納魔法を使えること自体が、普通ではないのですが」
「今さらだろ」
「それもそうですね」
三人はサンドワームを囲むように立ち、それぞれ手を翳した。
巨大な魔物の身体が淡い光に包まれ、三つの区画へ分けられる。外皮、牙を含む頭部、それから残りの身体だ。
「解放の逆で――収納」
ルシルの声に合わせ、サンドワームの外皮が光の粒となって消える。
モモは頭部を、シモンは身体の大部分を収納へ収めた。
目の前から巨体が完全に消えると、残ったのは大きく抉れた地面と、踏み荒らされた草だけだった。
「よし」
ルシルは両手を腰へ当て、満足そうに頷く。
「これで美味い飯が食えるな」
「サンドワーム一体でも、かなりの額になりますよ」
「なら宿もいいところに泊まれるか?」
「最初から浪費するつもりですか?」
「自由になった最初の夜くらい、柔らかい寝台で眠りたい」
「昨日も宿屋の寝台で眠ったでしょう」
「あれは国境近くの安宿だった。壁が薄くて、隣の客のいびきが朝まで聞こえたぞ」
「ルシル様も途中から同じくらい大きないびきをかいていましたよ」
「嘘だ」
「本当です」
「シモン、俺はいびきをかくか?」
「お答えした方がよろしいですか?」
「いや、その顔で分かった」
シモンの同情するような視線を受け、ルシルは咳払いをした。
「ともかく、まずは街だ。サンドワームを売って、食事をして、風呂へ入って、寝る」
「街へ着く前に昼食を取った方がいいですよ。まだかなり距離があります」
「さっきの岩陰で食べるか」
「そうしましょう」
再び三人は歩き始めた。
先ほどよりも足取りが軽い。
旅の最初の獲物を得たからだけではない。
自分たちの旅が、本当に始まったのだと実感できたからだ。
ルシルは歩きながら、青い空を見上げる。
どこへ行こう。
海を見に行くのもいい。
北の雪国で温泉へ入るのもいい。
砂漠の国で珍しい料理を食べるのもいい。
冒険者として依頼を受けてもいいし、しばらくどこかの村でのんびり暮らしてもいい。
誰かに決められた未来ではない。
自分で選び、自分で決められる未来だ。
「ルシル様」
モモに呼ばれ、ルシルは空から視線を戻した。
「どうしました?」
「いや、どこへ行こうか考えていた」
「行きたいところがあるんですか?」
「ありすぎて決められない」
「素敵ですね」
「ああ」
ルシルは笑った。
心の底から、何の遠慮もなく笑った。
「まずは、あの丘を越えよう。その先に何があるか見てから決めればいい」
「はい♪」
「ずいぶん曖昧な旅程ですね」
シモンは呆れながらも、歩みを止めなかった。
「嫌か?」
「いいえ」
「では決まりだな」
「ですが、最低限の地図と物資の確認はしてください」
「街へ着いたらな」
「それから、今後は魔物を見つけても、すぐ金額へ換算しないでください」
「無理だ」
「即答しないでください」
「旅には金が必要だ」
「言っていることは正しいのに、なぜこんなに不安になるのでしょう」
「シモン君は心配性ですね」
「お二人が楽天的すぎるんです」
言い合いながら、三人は草原を進んでいく。
もう王城を振り返る者はいなかった。
背後に残した国が、これからどう動くのか。
彼らがどこまで旅を続けることになるのか。
その先で何と出会い、何へ巻き込まれることになるのか。
今の三人は、まだ何も知らない。
ただ一つだけ確かなことがある。
王位を失ったルシルは、何もかもを失ったわけではなかった。
むしろ、これまで手に入れることのできなかったものを、ようやくその手へ掴んだのだ。
自由。
信頼できる仲間。
そして、自分で選べる明日。
「自由だーーーーーーっ!!」
我慢できなくなったルシルが、三度目の叫びを青空へ放つ。
「殿――ルシル様! だから大声は控えてください!」
「今、ルシル様って呼んだな!」
「そこへ反応しないでください!」
「シモン君、もう一回です。もう一回呼びましょう!」
「モモ嬢まで煽らないでください!」
「モモです♪」
草原へ三人の声が響き、風に乗って遠くまで運ばれていく。
こうして、王位の重圧から解き放たれた元王子と、最強だが少しばかり聖女らしさに疑問の残る少女、そして二人に振り回される苦労人賢者の旅は始まった。
目指す場所は、まだ決まっていない。
決める必要すら、今はなかった。
自由とは、きっとそういうものなのだから。




