第84話 海辺の朝は、売り声から始まります
青波で迎えた最初の朝、ルシルは波の音より先に、人の声で目を覚ました。
まだ眠気の残る頭で寝台から身体を起こすと、閉めていたはずの窓の向こうから、何人もの声が重なって聞こえてくる。昨夜の港は波の音を遠くに残しながら静かになっていたのに、今朝は同じ場所とは思えないほど賑やかだった。
「……朝から元気だな」
向かいの寝台を見ると、シモンはすでに起きていた。
黒髪を整え、眼鏡も掛けている。寝台脇には外出用の荷物までまとめられており、ルシルが目を覚ます少し前から支度を進めていたらしい。
「港町の朝は早いですからね」
「青波は集落だろ?」
「規模の話をするならそうですが、漁に関わる人々が早朝から動くという意味では変わりません」
ルシルは寝台から降り、窓へ近づいた。
昨夜は暗くてほとんど見えなかった海が、建物の隙間から朝の光を返している。空は晴れており、昨日より薄い雲が東の高いところへ流れていた。
窓を少し開ける。
潮の匂いと一緒に、通りの声がはっきり入ってきた。
「白鱗魚、今朝上がったばかりだよ!」
「小貝はこっちだ! 昼までなら生で持つぞ!」
「荷車、そこ空けてくれ!」
ルシルは一気に目が覚めた。
「市場?」
「おそらく朝市でしょう。昨夜、宿の主人が港側の通りは朝が一番賑わうと言っていました」
「聞いてたの?」
「夕食後に明日の道を少し確認したときに」
「俺、聞いてない」
「ルシル様はそのとき、夕食に出た白鱗魚の皮まで食べられるのか主人へ聞いていました」
思い出した。
食べられると聞き、実際に残さず食べた。
「……じゃあ仕方ないな」
「何が仕方ないのか分かりませんが、朝食は一階で取れます。そのあと市場を見て、道の情報を確認するのでよいでしょう」
「うん」
昨日の夕食時に決めた予定とも合っている。
青波をもう少し歩く。
海鳥の本も探したい。
そして、ここから先の道を確認する。
旅を始めたばかりの頃なら、目的地を決めずに朝を迎えることに落ち着かなさを覚えたかもしれない。けれど今は、必要な情報を集めてから三人で決めればよいことを知っている。
ルシルが身支度を整えていると、廊下から軽い足音が近づいた。
間もなく扉が叩かれる。
「起きてる?」
モモだった。
「起きてるよ」
扉を開けると、白い外套を腕に掛けたモモが立っていた。
腰まで伸びた桃金色の髪もすでに整えられている。どうやら彼女も外の声で早く目を覚ましたらしい。
「市場やってる」
「俺も今知った」
「見に行きたい」
「まず朝食です」
部屋の奥からシモンが言う。
モモは扉越しに顔を覗かせた。
「シモン君、まだ何も言ってないよ?」
「顔に書いてあります」
「またそれ?」
「では言い直します。市場へ行く前に朝食を取りましょう」
モモは少し考えたあと、素直に頷いた。
「分かった。朝ご飯食べながら市場の匂いだけ嗅ぐ」
「器用なことをしますね」
三人で一階へ下りると、食堂にもすでに数組の客がいた。
昨夜とは違い、朝食は簡素だった。
焼いた平たいパン。
豆と野菜の温かいスープ。
小さな魚をほぐして香草と混ぜたもの。
それに果実を薄く煮たものが少量添えられている。
三人が席へ着くと、宿の主人が湯気の立つ器を運んできた。
「よく眠れたか?」
「はい。朝の声で起きましたけど」
ルシルが答えると、主人は笑った。
「ここじゃ目覚ましみたいなもんだ。漁がよかった朝はもっと騒がしいぞ」
「今日は普通なんですか?」
モモが尋ねる。
「普通より少し多いくらいだな。夜明け前に戻った舟が何艘かある。市場を見るなら今からでも十分間に合うよ」
「食べたら行きます」
「その顔なら止めても行くだろうな」
主人はモモの前へスープを置き、続けてシモンを見る。
「道も聞きたいって言ってたな?」
「ええ。青波から先の沿岸道について確認したいと思っています」
「だったら市場を見たあと、南門の近くにある沿岸案内所へ行くといい。北西へ戻る道も南へ行く道も、今朝の状況が入ってるはずだ」
シモンが頷く。
「ありがとうございます」
「急ぐなら先に聞きに行くべきだが、今日はここを見るんだろ?」
「その予定です」
「なら朝飯はゆっくり食え。道は逃げん」
主人はそう言って厨房へ戻っていった。
ルシルはパンをちぎり、魚と香草を混ぜたものを載せる。
一口食べると、昨夜の焼き魚とはまた違う味がした。
「これ、うまいな」
「朝から魚だね」
モモも同じものをパンへ載せている。
「海辺なんだから普通なのかな」
「毎食魚だけとは限らないでしょうが、手に入りやすい食材ではあるのでしょう」
シモンはスープを飲みながら答えた。
「内陸で保存魚を食べるより、新鮮な魚を日常的に使いやすいのは確かでしょうね」
ルシルは窓の外へ視線を向けた。
通りを、魚籠を背負った男が歩いていく。
その向こうでは、昨日見た風魚飾りが朝の風を受けて揺れていた。
夜には暗闇の中で輪郭しか分からなかった魚たちが、朝日に照らされて色を取り戻している。
「昨日より風弱い?」
ルシルが尋ねる。
「今のところは」
シモンも窓を見る。
「ただし沿岸では時間によって変わります。先へ進むなら案内所で確認しましょう」
「今日はどっちに行くか決めるんだよね」
モモが言った。
「そのつもりです。ただ、情報を聞いてからで構いません」
三人は朝食を急がなかった。
外の賑わいに気持ちは引かれるが、食べながら今日の予定を大まかに整える。
朝市を見る。
海鳥や沿岸の本を探す。
沿岸案内所で道を確認する。
そのあと、青波にもう一泊するか、午後から移動するかを決める。
予定を細かく固めすぎないのは、今の三人にはすっかり自然なことになっていた。
◇
朝食を終えて外へ出ると、青波の朝は昨夜までとはまるで違う顔を見せていた。
中央坂を海側へ下る人が多い。
空の籠を持つ者。
荷車を押す者。
食堂や宿の仕入れらしい者。
旅人の姿も混じっている。
昨日の夕方には魚を模した布飾りへ目を奪われた通りも、今はその下を行き交う人々のほうが目立っていた。
「昨日より人多い」
モモはルシルの隣を歩きながら、周囲を見回している。
「はぐれるほどじゃないけどな」
「モモ嬢、店を見るため急に横へ移動しないでくださいね」
「分かってるよ」
シモンの注意に返事をしながら、モモの視線はすでに右側の店へ向いていた。
そこには大小の籠が積まれている。
海辺では濡れたものを運ぶ機会が多いためか、底を少し粗く編んだものや、水を抜きやすそうな形の籠が目立つ。
さらに坂を下ると、匂いが一気に濃くなった。
潮。
魚。
濡れた木。
焼いたもの。
香草。
昨日は別々に感じていた匂いが、朝市では全部混ざっている。
市場は港の見学通りより一段内側に広がっていた。
石畳の通りの両側へ簡易な台が並び、その上に魚や貝、海藻、乾物などが置かれている。屋根付きの常設店舗もあれば、木箱を並べただけの場所もあった。
客の声と店主の売り声が重なる。
「今朝の白鱗魚だよ!」
「小貝、まとめて持ってくなら安くするよ!」
「干し海藻は南浜のだ!」
「宿ならこっちの箱がいいぞ!」
ルシルは思わず足を止めかけた。
「すごいな」
昨日の荷場では、舟から降ろされた魚が仕分けされていた。
今朝はその魚が商品になり、人々の手へ渡っていく。
目の前で流れがつながったように感じる。
モモは魚の並ぶ台へ近づいた。
もちろん手を触れず、少し離れたところから見るだけだ。
「昨日の白鱗魚」
「本当だ」
銀白色の魚が何尾も並んでいる。
昨夜は料理になった状態しか見ていなかったため、ルシルも興味深く眺めた。
名前どおり鱗が白銀色に光り、背の部分だけ少し青みがある。
店番の女性が二人の様子に気づいた。
「旅人さん、買うかい?」
「見るだけでも大丈夫ですか?」
モモが尋ねる。
「構わないよ。触らなきゃね」
「ありがとうございます」
女性は慣れた手つきで魚を一尾持ち上げた。
「こいつが白鱗魚。焼いても煮てもいい。朝のは身がしっかりしてるよ」
「昨日、香草焼きで食べました」
「じゃあ当たりだったろ?」
「すごくおいしかったです」
モモが素直に答えると、女性は満足そうに笑った。
「そう言ってもらえると漁師も喜ぶよ」
隣には、昨夜モモが食べた岩腹魚も並んでいた。
白鱗魚より身体が丸く、腹側の鱗が少し硬そうに見える。
「こっちが岩腹魚ですか?」
「そうそう。煮崩れしにくいから煮物向きだ。昨日の夕方に上がったやつだね」
モモは自分が食べた魚の姿を見て、何度も頷いていた。
ルシルも面白かった。
料理として出されたものと、その前の姿が結びついていく。
「買って馬車で料理するのもできるかな」
「今日中に調理するならできますが、先の予定が決まってからにしてください」
シモンが答える。
「生魚は保存を考えなければなりません。昨日の橋で見たような冷却箱を私たちは持っていませんから」
「そうだった」
ルシルはすぐ納得した。
旅では何でも買えばよいわけではない。
保存できるか。
運べるか。
いつ食べるか。
その辺りを考えるのも、もう以前ほど面倒には感じなくなっていた。
三人は女性へ礼を言い、さらに市場を進む。
次にモモが足を止めたのは貝を扱う店だった。
木箱の中に、白砂浜で拾ったものよりずっと大きな貝が並んでいる。
殻が丸いもの。
細長いもの。
表面に筋が入ったもの。
黒っぽいものまである。
「昨日拾ったのと全然違う」
モモが言う。
「食用の種類でしょうね」
シモンも見る。
店主の老人が籠を整理しながら笑った。
「浜で拾った殻と比べてるのか?」
「はい。小さい巻き貝を一つ拾いました」
「白砂浜なら小さいのはいくらでも流れ着く。ここで売ってるのは沖や岩場で取るやつが多いよ」
「貝殻だけ売ってる店ってありますか?」
ルシルが尋ねた。
春雫へ持ち帰るものを探すなら、市場で買えるものも見てみたい。
老人は少し考え、坂の上を指す。
「土産物なら中央坂の中ほどに『波棚商店』がある。磨いた貝や細工物も置いてたはずだ。ただ、自分で拾った殻を持って帰りたいなら南浜のほうが種類は多いな」
「南浜?」
「青波から南へ半日もかからん。沿岸道から少し下りる浜だ。白砂浜より石が多いが、そのぶん違う殻も流れ着く」
ルシルはシモンを見る。
シモンも話を聞いていた。
「道を確認するときに場所を聞いてみましょう」
「うん」
今すぐ南浜へ行くと決めたわけではない。
ただ、貝殻を探せる場所が一つ増えた。
それで十分だった。
店を離れようとしたところで、モモが別の箱へ目を向けた。
中には黒緑色の細長いものが束になっている。
「これ、海藻?」
「そうだよ」
老人が答える。
「干して汁物に入れる。生のもあるが、旅人なら干したほうが持つ」
モモがルシルを見る。
ルシルもモモを見る。
シモンは二人が何も言う前に口を開いた。
「少量なら買っても構いませんよ。乾物なら保存もしやすいでしょう」
「まだ聞いてないよ?」
「どうせ聞くでしょう」
老人が声を上げて笑った。
結局、小さな束を一つ買うことになった。
店主によれば、水で戻してから豆や魚と一緒に煮てもよく、そのまま細かく砕いて塩と混ぜても使えるという。
モモは料理の使い方をしっかり聞き、旅帳面ではなく小さな紙片へ簡単に書き留めた。
「今度使ってみよう」
「最初は少量でお願いします」
「シモン君、私の料理を警戒してる?」
「そうではありません。初めて使う食材は味を確認しながら入れるべきだと言っているだけです」
「じゃあシモン君が味見係ね」
「なぜ私だけなんですか」
「俺も食べるよ」
ルシルが加わると、モモは満足そうに干し海藻を荷物へ入れた。
◇
市場を半分ほど見た頃、頭上から甲高い鳴き声が聞こえた。
モモがすぐ空を見る。
「あの鳥」
昨日、港の広場から見た白い腹と灰色の翼を持つ海鳥だった。
一羽だけではない。
市場の上空を数羽が旋回し、ときどき屋根へ降りてくる。
そのうち一羽が魚屋の屋根へ止まると、店主が慣れた様子で手を振った。
「今日はやらんぞ!」
鳥は逃げず、少し距離を取っただけだった。
「狙ってる」
ルシルが笑う。
「魚でしょうね」
シモンが答える。
モモは鳥を見上げたまま、近くの店員へ尋ねた。
「あの鳥、何ていうんですか?」
声を掛けられた若い男性は空を見る。
「ああ、シオハネだよ。この辺じゃ珍しくもない」
「シオハネ……」
モモは名前を繰り返した。
男性は魚を包む作業を続けながら話す。
「港にいくらでもいる。漁船が戻ると増えるんだ。魚を落とすの待ってるからな」
「人の魚を取るんですか?」
「隙があればね。あいつら賢いぞ」
ちょうどその言葉を証明するように、別の一羽が市場の端へ急降下した。
何かを奪ったわけではない。
地面へ落ちていた小さな魚の欠片をくちばしで拾い、そのまま飛び上がった。
モモの目が輝く。
「速い」
「昨日砂浜で見た蟹も速かったな」
「海の近くの生き物、みんな忙しいのかな」
「波まで含めるんですか?」
シモンが苦笑する。
「だって波も忙しかったし」
市場の男性まで笑っていた。
「面白いこと言う旅人だな。海じゃ止まってるほうが珍しいかもしれんぞ」
モモはその言葉を気に入ったようだったが、すぐ帳面へ書くことはしなかった。
人から聞いた言葉と、自分で感じたことを混ぜないようにしているのかもしれない。
「シオハネが載ってる本って、この辺にありますか?」
「本なら中央坂の『潮風書房』だな。漁の本が多いけど、子ども向けの海鳥図鑑もあったと思う」
「ありがとうございます」
探していたものが見つかりそうだ。
市場を一通り歩いた三人は、買った干し海藻だけを持って中央坂へ戻った。
途中で波棚商店も見つけたが、まずは本屋へ行くことにする。
潮風書房は、中央坂から細い横道へ少し入った場所にあった。
入口には青く塗られた小さな本の看板が掛けられている。
中へ入ると、店内は思っていたより広かった。
棚の半分近くを占めているのは、漁や船に関する本だ。
海流。
風。
魚。
網の結び方。
沿岸の地図。
さらに奥には一般的な物語や旅の本も並んでいる。
「すごい」
モモは声を抑えながら棚を見た。
「本屋って町ごとに全然違うね」
「必要とされる本が違うのでしょう」
シモンは漁業関係の棚を眺める。
ルシルは沿岸地図の棚へ寄った。
すでにセレナスで詳細な沿岸地図を買っているため、すぐ新しいものが必要なわけではない。それでも地元向けの地図には、旅人用のものとは違う情報が載っていた。
漁場。
小さな浜。
舟を出せる場所。
風の影響を受けやすい岬。
ただし、漁業用の記号が多く、ルシルには分からないものも多い。
その間にモモは店主へ海鳥の本を尋ねていた。
奥から出てきたのは、白髪を短く切った老女だった。
「海鳥なら、旅人向けはこれがいいかね」
持ってきたのは、厚すぎない一冊の本だった。
表紙には何種類かの鳥が描かれている。
題名は『青波沿岸の鳥と浜辺の生き物』。
「鳥だけじゃないんだ」
モモが頁を開く。
海鳥。
浜の小動物。
岩場の生き物。
貝の一部まで載っている。
昨日見た灰色の小さな蟹に似た絵もあった。
「ルシル君、これ!」
「昨日のやつ?」
「たぶん。ハマヨコガニって書いてある」
シモンが横から頁を見る。
「絵だけで断定はしないほうがよいでしょうが、特徴は似ていますね」
「買いたい」
モモはほとんど迷わなかった。
ルシルにも異論はない。
「馬車に置いとけば、この先も使えるな」
「沿岸を進むなら役立つでしょう」
シモンも賛成した。
三人の共同旅費から一冊購入する。
すでに鳥や草花、料理、奇譚などの本が馬車へ増えているが、棚にはまだ余裕がある。
モモは会計を済ませたあとも本を抱えたままだった。
「シオハネあるかな」
店を出てすぐ頁を開こうとしたため、シモンが止める。
「歩きながら読むのはやめてください」
「まだ歩いてないよ」
「これから歩くでしょう」
「じゃあここで見る」
モモは店の前の邪魔にならない場所へ寄り、索引を確認した。
「あった」
シオハネの頁には、白い腹と灰色の翼を持つ鳥の絵が載っていた。
港や沿岸部でよく見られ、魚や小さな海の生き物を食べる。
漁船の周囲へ集まることも多い。
今朝市場で聞いた話とも合っている。
「シオハネで合ってた」
「これで次から分かるな」
ルシルが空を見ると、ちょうど一羽が中央坂の上を飛んでいた。
昨日なら「海鳥」としか呼べなかったものに、今日は名前がある。
それだけで少し違って見えた。
◇
本を買ったあと、三人は波棚商店へ立ち寄った。
店内には旅人向けの商品が多い。
小さな木彫りの舟。
青波を描いた絵葉書のような厚紙。
魚の形をした布飾り。
磨いた石。
貝殻。
貝を使った髪飾りや留め具。
モモは風魚飾りの小型版を見つけた。
「これ、馬車に飾れるかな」
掌より少し大きい青い魚で、尾の部分だけ薄い布になっている。
「外に付けると風で傷みそうだな」
ルシルが言う。
「車内なら?」
「吊るす場所を選べば問題ないでしょう。ただし視界を遮らない場所にしてください」
シモンも品物を確認する。
値段も高くない。
三人で相談し、小さな青い風魚飾りを一つ買うことにした。
誰か個人のものではなく、馬車へ置く旅の記念品である。
「どこに飾ろう」
「あとで馬車へ戻ってから決めましょう」
モモは嬉しそうに包みを受け取った。
貝殻の棚も見る。
磨かれた大きな貝。
色のきれいな巻き貝。
二枚貝を合わせた飾り。
どれも美しい。
だがルシルはすぐには買わなかった。
「春雫に持って帰るなら、やっぱり自分で拾ったやつがいいかも」
棚を見ながら言う。
モモも頷いた。
「私もそう思う」
「では、南浜を候補として覚えておきましょう」
シモンがまとめる。
「ただし、今日行くと決めるのは案内所で状況を聞いてからです」
「分かってる」
三人は風魚飾りだけを買い、店を出た。
次はいよいよ沿岸案内所である。
南門へ向かう途中、青波の通りは朝市の最盛期を少し過ぎていた。
人はまだ多いが、空になった木箱を片づける店も出始めている。
朝だけの勢いが少しずつ落ち着き、代わりに通常の店が戸を開け始めていた。
時間によって町の顔が変わっていく。
それもルシルには新鮮だった。
南門は集落の南端にある小さな石造りの門だった。
防衛用の大門ではなく、道の境界を示すためのものに近い。
その脇に『青波沿岸案内所』と書かれた平屋がある。
三人が中へ入ると、壁いっぱいに沿岸の地図が掲げられていた。
受付には三十代ほどの男性が一人いる。
「旅の道確認ですか?」
「はい」
シモンが詳細な沿岸地図を取り出した。
「青波から先について伺いたいのですが、私たちは現在、急いで特定の目的地へ向かっているわけではありません。海沿いを見ながら旅を続けたいと考えています」
「なるほど」
男性は地図を広げる場所を空けた。
「北西ならアゼル方面へ戻りながら、そのままラグナ港方面へ抜ける道があります。南なら青波沿岸道をそのまま進んで、いくつかの漁村を通ることになります」
指が地図を南へ動く。
「青波から南へ行くなら、まず南浜の分岐。そこから先は低い海岸道が続いて、夕方まで走れば『潮石の休み場』まで行けます」
「南浜はここですか?」
ルシルが尋ねる。
「そうです。集落からなら馬車で一刻もかからない。砂浜というより砂と小石が混じった浜ですね。旅人も入れます」
「貝殻が多いって聞きました」
「ありますよ。ただし波が高い日は浜の奥へ行かないこと。今日は午前中なら問題ありません」
モモが窓の外を見る。
今は風もそれほど強くない。
「午後は?」
シモンが尋ねる。
「昼過ぎから南西風が少し上がる予報です。危険というほどではありませんが、潮石まで進むなら昼前には青波を出たほうが楽でしょう」
男性はさらに地図を指す。
「ただ、南浜へ寄ってから潮石まで行くと、休憩込みでは夕方近くなるかもしれません。急ぐ旅でないなら、今日は青波でもう一泊して南浜だけ見に行く手もあります」
三人は顔を見合わせた。
昨日、青波へ着いたばかりだ。
今朝も市場や本屋を見て回った。
まだ昼前で、南浜は近い。
その一方で、今日中に次の休み場へ進まなければならない理由はない。
「どうする?」
ルシルが二人へ尋ねる。
モモは少し考えた。
「私、南浜行きたい」
「貝殻?」
「それもあるけど、白砂浜と違う浜なんでしょ? 見てみたい」
次にルシルはシモンを見る。
シモンは地図へ目を落としていた。
「私も今日は青波を拠点にしてよいと思います。トルクとベルクにも余裕ができますし、明朝に南へ出れば潮石の休み場より先まで選択肢を持てます」
「じゃあ、今日はもう一泊だな」
決まった。
青波に二泊する。
今日は南浜へ行き、夕方までに戻る。
明日以降については、今夜か明朝の風を確認してから決めればいい。
「ありがとうございます」
シモンが受付の男性へ礼を言う。
「南浜へ馬車で行く場合、置き場はありますか?」
「あります。分岐を海側へ下りて、石積みの小屋が見えたらその手前です。そこから先は歩き。白砂浜より足元に石が多いので、裸足は勧めません」
昨日との違いを聞き、モモが頷いた。
「靴のまま行きます」
「それがいいでしょう」
必要な情報を聞き終え、三人は案内所を出た。
昼まではまだ時間がある。
馬車場へ戻り、トルクとベルクを連れて南浜へ行く準備をすることになった。
◇
共同馬車場へ戻る途中、モモは買ったばかりの本を大事そうに抱えていた。
もう一方の手には、小さな風魚飾りの包みがある。
ルシルは干し海藻を持っている。
シモンは沿岸地図をしまいながら歩いていた。
「なんか増えたな」
ルシルが荷物を見る。
「本と海藻と魚」
モモが答える。
「最後のは食べられませんよ」
シモンが言う。
「分かってるよ。風魚飾り」
「馬車の中に魚が一匹増えるわけか」
「木の馬もいるし、鳥もいるよ」
モモが数える。
馬車にはトルクとベルクを模した二頭の木彫りと、ヤマアカノドの小さな木彫りがある。
そこへ今度は青い魚が加わる。
「だんだん賑やかになってきたな」
「まだ置けます」
「シモン、それ言ったらモモが増やすぞ」
「ルシル君も買ってるでしょ」
「俺だけじゃないって」
三人は笑いながら馬車場へ戻った。
トルクとベルクは馬房で穏やかに過ごしていた。
昨日から移動量が少なく、十分に休めている。
ルシルが近づくと、トルクが顔を上げた。
「今日は近いところまでだからな」
首筋を撫でる。
ベルクのほうにはシモンが近づき、脚の状態を確認した。
問題はない。
馬車も昨夜から動かしていないため、当然ながら異常は見当たらなかった。
モモはその間に車内へ入り、風魚飾りをどこへ置くか考えていた。
「ここは?」
窓の上を指す。
「開閉の邪魔になります」
外からシモンが答える。
「じゃあ棚の横」
「走行中に揺れて物へ当たらない位置なら」
「ここかな」
最終的に、折り畳み机の近くにある棚の側面へ、小さな紐で吊るすことになった。
外の風は直接当たらないため、青い魚は大きく泳がない。
それでも馬車が揺れると、薄い尾が小さく動く。
「いいね」
モモが満足そうに眺める。
ルシルも車内へ顔を出した。
「また旅のものが増えた」
「今度は海のもの」
まだ海辺の旅は始まったばかりなのに、すでに馬車の中へ青波の記憶が一つ増えた。
モモは買った本を既存の本と並べる。
『青波沿岸の鳥と浜辺の生き物』。
背表紙が棚へ収まった。
干し海藻は食材側へ移し、貝殻は昨日と同じく乾いた布の上で状態を確認する。
準備が整う頃には、太陽が少し高くなっていた。
「昼はどうする?」
ルシルが尋ねる。
「南浜で食べられるよう、宿で簡単なものを頼めるか聞いてみましょう」
シモンが答える。
「市場で買う方法もありますが、保存や持ち運びを考えると宿で包んでもらうほうが確実です」
「魚あるかな」
モモが期待する。
「朝から魚を食べ、朝市でも魚を見て、昼も魚を希望しますか」
「海の村にいるから」
「理由になっているような、なっていないような……」
シモンはそう言いながらも反対しなかった。
三人はもう一度網灯りの宿へ戻り、今夜も泊まりたいことを主人へ伝えた。
部屋はそのまま使えるという。
さらに南浜へ行くと話すと、昼食用にパンと焼いた小魚、豆を包んでもらえることになった。
「浜で食うなら、鳥に気をつけろよ」
主人が包みを渡しながら言う。
「シオハネですか?」
モモが尋ねる。
「名前覚えたのか」
「本買いました」
「そりゃ早いな。あいつら、人が持ってるもんまで簡単に取るわけじゃないが、置きっぱなしは狙うぞ」
「ちゃんと持ってます」
モモは昼食の包みを両手で抱えた。
「そこまで抱え込まなくても大丈夫ですよ」
シモンが苦笑する。
三人は宿の主人へ礼を言い、再び馬車場へ戻った。
トルクとベルクを繋ぎ、荷物を確認する。
今日の移動は短い。
南門から沿岸道へ出て、すぐ南浜の分岐へ入る。
白砂浜とは違う、小石の混じる浜。
そこで貝殻を探してみる。
ルシルが御者台へ上がった。
シモンが隣へ座り、モモは車内へ乗り込む。
「出るよ」
ルシルが声を掛けると、トルクとベルクがゆっくり歩き始めた。
共同馬車場を出て、中央坂を通る。
朝市はもう片づけが始まっていた。
空になった木箱が積まれ、店主たちが水を流して石畳を洗っている。
頭上では風魚飾りが朝より少し強くなった風を受け、揃って南東側へ尾を伸ばしていた。
その上を、本物のシオハネが一羽飛んでいく。
「モモ」
「見えてる」
窓から声が返る。
「本と同じ」
「当たり前だろ」
「絵より本物のほうがかわいい」
「それは分かる」
シモンは二人の会話を聞きながら、南門の先へ目を向けた。
今日の空はまだ明るい。
海側から吹く風も、馬車の走行を妨げるほどではない。
南門を抜ける。
昨日まで、海は三人が目指してきた場所だった。
今日はもう、その海を右手に見ながら次の浜へ向かっている。
ルシルは道の先を見た。
遠くまで行く必要はない。
昼までには南浜へ着く。
そこでどんな貝殻が見つかるのかも、白砂浜とは何が違うのかも、まだ知らない。
馬車が青波の石標を越えると、右手の建物が途切れ、朝の海が大きく開けた。
青い水面の上では白い鳥が風に乗り、そのさらに手前で、道沿いの草が同じ風を受けて低く揺れている。
トルクとベルクは落ち着いた足取りで南へ進んだ。
車内に増えた小さな青い魚も、馬車の揺れに合わせて尾を揺らしながら、三人と一緒に初めての南浜へ向かっていた。




