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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第83話 青波の村では、魚が空を泳いでいました


 白砂浜を離れて南道へ戻ったあとも、ルシルの足にはしばらく波の感覚が残っていた。


 実際には真水で砂も海水も洗い流しており、靴もきちんと履いている。それでも御者台に座っていると、ときどき足元の砂が水と一緒にさらわれたような気がして、思わず靴底へ力を入れてしまう。


「……変な感じだな」


 小さく呟くと、隣に座るシモンが前を見たまま尋ねた。


「どうしました?」


「まだ足元の砂が動いてる気がする」


 シモンは一拍置いてから、わずかに口元を緩めた。


「馬車の床は動いていませんよ」


「それは分かってるって。波が引いたときの感覚が残ってるんだよ」


「私はそこまでではありませんが、言いたいことは分かります」


「シモンも?」


「ええ。足元を水が流れる感覚は、川へ入るのとも違いましたから」


 海を見た経験のあるシモンでさえ、波へ直接足を浸したのは今日が初めてだった。


 その事実を思い出し、ルシルは少し嬉しくなる。海については自分とモモだけが初めてだと思っていたが、白砂浜では三人とも同じ初体験を一つ持つことができた。


 車内の窓から、モモの声が聞こえた。


「私もまだするよ」


「砂が動く感じ?」


「うん。それと、足首に波が当たった感じ。冷たかったのに、もう一回入りたい」


「青波の集落で宿が見つかったあとなら、近くに浜があるか聞いてみてもいいかもな」


 ルシルが答えると、シモンがすぐ横から口を挟んだ。


「まず宿を確保して、二頭を休ませてからです。それに、集落の浜が旅人の遊び場として使えるとは限りません」


「分かってるよ。漁の邪魔になるところには入らない」


「でしたら結構です」


 ルシルは笑いながら前へ向き直った。


 白砂浜から青波集落までは、それほど遠くないと聞いている。


 街道は海岸線に沿うように南へ延びていたが、海との間には低い丘や草地が挟まっているため、ずっと水面が見えているわけではなかった。それでも潮の匂いは途切れず、風が右から吹くたび、今では三人とも迷わずそれと分かる。


 道沿いの景色も、内陸とは少しずつ違っていた。


 畑を囲む石垣は低く、ところどころに風を受け流すためなのか隙間が設けられている。家の屋根も平地の農村で見たものより低く、軒先を深く出す代わりに、屋根材を縄のようなもので押さえている建物があった。


 道端では細長い葉を持つ草が、海から吹く風を受けて一方向へ傾いている。


「ルシル君、右」


 モモの声に促され、ルシルは道を外さない範囲で視線を動かした。


 丘と丘の間から海が見える。


 高台から眺めたときより近く、白砂浜から見たときより少し高い位置からの景色だった。


「見えた」


「今、鳥もいた」


「どこ?」


「もう向こう行っちゃった」


 ルシルは残念に思ったが、追いかけるわけにもいかない。


 代わりに前方へ目を戻すと、道の先から一頭立ての荷車が近づいてきた。


 荷台には蓋のない浅い木箱がいくつも積まれ、その上に濡れた布が掛けられている。御者の若い男は日に焼けた顔をしており、すれ違う少し前にこちらへ手を上げた。


「青波へ行くのか?」


「はい!」


 ルシルが答える。


「もうすぐだ! 次の石標を越えたら、坂の下に見える!」


「ありがとうございます!」


 男はそのまま北へ走っていった。


 荷車が通り過ぎたあと、モモが窓から少し身を乗り出す。


「魚かな?」


「匂いはしたな」


 海の潮とは違う、生魚らしい匂いが一瞬だけ残っていた。


「青波水産組合の印は見えませんでしたね」


 シモンが言う。


「個人の漁師か、集落内の商いかもしれません」


「魚いっぱいあるかな」


 モモの声が楽しそうになる。


「たぶん」


「食べたい」


「海を見た次は魚か」


「だって海の近くまで来たんだよ?」


「俺も食べたいけど」


 二人の会話を聞きながら、シモンが小さく息を吐いた。


「宿を探す前に市場へ消えないでくださいね」


「消えないよ」


「私も消えない」


「二人揃って答えられると、むしろ不安になります」


 そんなやり取りをしているうちに、街道脇へ腰ほどの高さの石標が現れた。


 表面には青い塗料で波のような三本線が描かれ、その下に『青波』と彫られている。


「これだ」


 ルシルは少しだけ手綱を整えた。


 トルクとベルクが石標の横を通り過ぎる。


 その先から道は緩やかな下り坂になっていた。


 坂の向こうに、家々が見え始める。


 最初に目へ入ったのは屋根だった。


 灰色や焦げ茶色の低い屋根が、海へ向かって下る斜面に沿うように並んでいる。建物の数はアゼルほど多くないものの、麦穂原や風草村よりはずっと大きい。


 そして家々の向こうには、青い海が広がっていた。


 今度は高台の見晴らし場でも、旅人向けの白砂浜でもない。


 人々が暮らす家と海が、一つの景色の中にある。


「……すごい」


 車内からモモの声がした。


 ルシルも同じ気持ちだった。


 海辺の集落だと聞いていたのだから、海の近くに家があること自体は分かっていた。それでも実際に見ると、これまで通ってきた町や村とは景色の作り方そのものが違う。


 坂の下では道が何本かに分かれ、そのさらに先には長い木組みの桟橋が海へ突き出している。


 小さな舟がいくつも見えた。


 帆を畳んでいるもの。


 岸近くに繋がれているもの。


 ちょうど沖から戻ってくるものもある。


「ルシル様、前を」


「見てる」


「今は見ていましたね」


「だろ?」


「褒めてはいません」


 ルシルは笑いながら馬車の速度を落とした。


 集落の入口へ近づくにつれて、人の姿が増えてくる。


 荷車を引く者。


 籠を抱えた女性。


 肩に縄を掛けた男。


 海側から坂を上ってくる少年たちは、細長い木箱を二人で運んでいた。


 観光地へ入るというより、大きな仕事場へ入り込んでいくような活気がある。


 ルシルはトルクとベルクを慎重に進ませた。


     ◇


 青波集落の入口には、小さな案内板が立っていた。


『青波共同馬車場 左』

『宿・食事処 中央坂』

『水産荷場 海側』

『旅人は荷場への馬車乗入れ禁止』


 最後の一文は赤い塗料で強調されている。


「分かりやすいな」


 ルシルが言った。


「荷場は作業用なのでしょう。旅人の馬車まで入ると危険です」


 シモンは案内板を確認し、左へ続く道を見る。


「先に共同馬車場へ行きましょう」


「了解」


 中央へ向かいたそうなモモも異論はない。


 白砂浜で十分遊んだこともあり、トルクとベルクを先に落ち着かせるべきだと分かっているのだろう。


 共同馬車場は入口からそれほど離れていなかった。


 風を防ぐための高い石壁に囲まれた広い敷地で、入口側だけが大きく開いている。中には十台ほどの馬車を停められる区画があり、奥には馬房と水場も設けられていた。


 受付にいたのは、腕の太い中年の女性だった。


「旅かい?」


「はい。今日泊まる予定です」


 シモンが答える。


「二頭立て一台だね。馬房も使う?」


「お願いします」


「じゃあ奥から二番目が空いてるよ。宿は決まってる?」


「まだです」


「中央坂に三軒ある。静かなところなら『潮鳴り亭』、飯を食いたいなら『網灯りの宿』、安く泊まるだけなら『青石屋』。馬車はどこに泊まってもここへ置くことになるから、先に馬を休ませていきな」


 ルシルとモモが同時に反応したのは、もちろん二軒目だった。


「飯を食いたいなら……」


「網灯りの宿……」


 二人の声が重なる。


 受付の女性が吹き出した。


「分かりやすい旅人だねえ。魚が食いたいなら網灯りでいいよ。宿の主人が元漁師だから、その日の魚で飯を出す」


「そこにしよう」


「うん」


 二人がほぼ即決すると、シモンは眼鏡の位置を直した。


「部屋が空いているか確認してからですよ」


「そうだった」


「まだ泊まれると決まってない」


「お前さんが一番大変そうだね」


 受付の女性がシモンを見て笑う。


 シモンは一瞬言葉に詰まり、それから苦笑した。


「否定はしません」


「シモン君、そこは否定してよ」


「何をどう否定すればいいんですか」


 モモが少し不満そうな顔をする横で、ルシルは笑いを堪えながら馬車を指定された区画へ移した。


 トルクとベルクを馬車から外し、馬房へ入れる。


 風除けの壁があるため、外の道よりずっと穏やかだった。


 二頭へ水を与え、脚や馬具を確認する。白砂浜でも休ませていたため疲労は強くなく、食欲もいつもどおりだった。


 トルクは餌桶へ顔を寄せ、ベルクも落ち着いて隣へ入る。


「よし。ゆっくり休んでて」


 ルシルがトルクの首を撫でる。


 ベルクのほうはシモンが担当し、モモは二頭の水が十分あることを確認した。


 馬車の戸締まりも済ませる。


 拾った貝殻はまだ乾燥させるため、布の上に置いたままだ。


 準備を終え、三人は必要な荷物だけ持って共同馬車場を出た。


 中央坂へ向かう。


 道の両側には石と木を組み合わせた建物が並び、一階部分が店になっているところも多い。


 魚を扱う店。


 縄や網を売る店。


 船に使うらしい金具や木材を並べた店。


 乾燥させた海藻のようなものを軒下へ吊るしている家もある。


 内陸の町で見た店とは品物がかなり違っていた。


「見たい」


 モモが右側の店を見る。


「俺も」


 ルシルも左を見る。


「まず宿です」


 真ん中を歩くシモンが二人を戻す。


「分かってるって」


「見るだけ」


「歩きながら左右へ離れないでください」


 三人は結局、中央坂を上がるだけで何度も足を緩めることになった。


 海から少し離れた通りなのに、魚の匂いと潮の匂いが混ざっている。


 ときおり坂の下を振り返れば、建物の間から海が見えた。


 青波という名前が、急にとても分かりやすく思えてくる。


 やがて通りの右側に、魚をかたどった木札が吊るされた二階建ての建物が見えた。


 木札の下には、小さな網を模した飾りがある。


『網灯りの宿』


「ここだ」


 ルシルが足を止めた。


 入口を開けると、食堂らしい広い空間へ出た。


 まだ夕食には早いため客は少なく、奥の卓で二人の男が遅い昼食を取っているだけだった。


 厨房からは魚を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。


 モモが一瞬だけ厨房の方向を見た。


 シモンは見逃さなかったが、何も言わず受付へ進む。


「いらっしゃい」


 奥から現れたのは、五十代半ばほどのがっしりした男性だった。


 左手の指に古い傷がいくつかあり、日焼けした肌と太い腕は、共同馬車場で聞いた元漁師という話に似合っている。


「三人です。今夜泊まりたいのですが、部屋はありますか?」


「あるよ。三人なら二部屋でいいか? 二人部屋と一人部屋が一つずつ空いてる」


 三人は顔を見合わせる。


 これまでも宿によって部屋割りは変えてきた。


「俺とシモンで二人部屋、モモが一人部屋でいい?」


「うん」


「私も問題ありません」


「じゃあそれで頼む」


 宿泊が決まる。


 夕食も付けられると聞き、迷う理由はなかった。


「今日の魚は何ですか?」


 モモが尋ねる。


 宿の主人は少し笑った。


「夕方の荷が来てから決める。昼に入った白鱗魚もあるし、今朝の岩腹魚も残ってる。煮るか焼くかは魚を見てからだな」


「選べますか?」


「夕食前に聞きに来な。仕入れが揃ったら板に書いとく」


「楽しみ」


 モモは本当に嬉しそうだった。


 宿の主人は三人の荷物を見て、旅人だと判断したらしい。


「海は初めてか?」


「分かるんですか?」


 ルシルが尋ねると、主人は笑った。


「魚の名前を聞くより先に目が光る旅人は、だいたい初めてか久しぶりだ」


「俺たちは初めてです。シモンは見たことあるけど」


「そうか。だったら夕方まで港のほうを見てくるといい。ただし荷場の中には入るなよ。見学用の通りがある」


「ありがとうございます」


 部屋へ荷物を置き、三人はすぐ外へ出ることにした。


 夕食までにはまだ時間がある。


 白砂浜で海へ触れた。


 今度は、海と一緒に暮らす人々の場所を見てみたい。


     ◇


 中央坂を海側へ下っていくと、音が増えていった。


 人の声。


 木箱を置く音。


 縄を引く音。


 鳥の鳴き声。


 そして、その奥に波の音がある。


 白砂浜では波が一番大きな音だったが、ここでは人々の暮らしの音に混ざっていた。


 荷場へ続く道の手前には、旅人や買い物客が通れる横道が設けられている。


 三人はそちらへ入った。


 木柵の向こうでは、ちょうど一艘の舟から荷を降ろしているところだった。


 魚の入った籠が次々と岸へ運ばれ、受け取った者が種類ごとに分けていく。


「すごい……」


 モモが足を止めた。


 白銀色の細長い魚。


 丸みのある青灰色の魚。


 赤みを帯びた小魚。


 見たことのない形のものも多い。


 内陸でも干し魚や川魚は食べてきたが、今ここに並んでいるものは明らかに種類が違う。


 ルシルも木柵越しに眺める。


「こんなに一度に捕れるんだな」


「船や漁法によるでしょうが、港へ戻った直後ならこのくらい集まることもあるのでしょう」


 シモンも作業の邪魔にならない位置から見ていた。


 荷場では誰も手を止めない。


 魚を運ぶ者。


 重さを量る者。


 木札へ数字を書く者。


 買い付けらしい商人と話す者。


 青波水産組合の青い魚印を付けた上着を着る人間もいる。


 ルシルたちが橋の向こうで見た魚荷や、アゼルで見た荷は、ここから内陸へ向かっていたのかもしれない。


 もちろん全てが同じ場所から来たとは限らない。


 それでも、これまで街道で見てきた海の荷物がどこから始まるのか、その一端を目の前で見ている感覚があった。


「ルシル君」


 モモが突然、上を指した。


「魚」


「魚なら下にいっぱい――」


「上」


 言われて見上げる。


 通りの上に、魚がいた。


「……え?」


 ルシルは目を瞬かせた。


 もちろん本物ではない。


 建物と建物の間に張られた縄から、魚の形をした細長い布飾りが何十匹も吊るされている。


 青。


 白。


 銀。


 淡い赤。


 風を受けるたび、尾びれにあたる部分がひらひらと揺れ、まるで魚の群れが空中を泳いでいるように見えた。


「さっきまでなかったよな?」


「この通りへ入るまで建物で隠れていましたからね」


 シモンも見上げる。


 モモはすっかり気に入ったらしく、首が痛くなりそうなほど上を見ていた。


「かわいい……」


「何の飾りだろ」


 近くで木箱を運んでいた若い女性が、三人の会話を聞いたらしい。


「風魚飾りだよ」


 荷物を置いたあと、木柵の向こうから教えてくれた。


「風魚?」


「昔からの目印みたいなもん。風の向きも分かるし、漁から戻ってくる船から見ると集落が分かりやすいってさ。今は祭りでもないのに飾ってる家が多いけどね」


 モモが興味深そうに魚飾りを見る。


「魚の形なのは、海の村だからですか?」


「たぶんね。私は生まれたときからあるから、深く考えたことないや」


 女性は笑い、再び木箱を抱えた。


「夕方はもっと風が通るから、よく泳ぐよ」


「ありがとうございます」


 モモが礼を言う。


 女性は片手を上げ、作業へ戻っていった。


 ルシルは改めて頭上を見る。


 風魚飾りは同じ方向へ揃うこともあれば、建物の間で風が渦を巻くのか、何匹かだけ別方向を向くこともある。


「本当に泳いでるみたいだな」


「うん」


 モモは笑った。


「魚が空を泳いでる」


 高台では風向き布が安全のために使われていた。


 麦穂原では風が藁や編み草を乾かしていた。


 ここでは同じ風が、魚の形をした布を泳がせている。


 土地が変われば、同じ風でも人との付き合い方が違うらしい。


 ただ、モモはそれをすぐ帳面へ書こうとはしなかった。


 今はまだ見たいものが多すぎる。


 三人は見学通りをさらに歩いた。


 途中には小さな売店が並び、焼いた魚や揚げた小魚、貝を煮たものなどが売られている。


 昼食を取ってからそれほど時間は経っていない。


 夕食も宿で待っている。


 それでも香ばしい匂いが漂ってくると、ルシルの足が少しだけ遅くなった。


「ルシル君」


「何も言ってないだろ」


「私も何も言ってないよ」


 二人は互いを見る。


 シモンが後ろから近づいてきた。


「夕食がありますよ」


「まだ何も言ってないって」


「私も」


「お二人とも同じ屋台を見ています」


 指摘され、二人は同時に焼き魚の屋台から目を逸らした。


 屋台の主人がそれを見て笑っている。


「小さいの一本なら夕飯に響かんぞ」


「だって」


 ルシルがシモンを見る。


「私に許可を求めないでください」


「じゃあ買おう」


「決断が早いですね」


 結局、三人で一本を分けることにした。


 焼かれていたのは掌より少し大きい小魚で、表面に薄く塩が振られている。


 紙に包んでもらい、木の串を使って身を少しずつ取る。


 最初に食べたモモが目を丸くした。


「おいしい」


 ルシルも一口食べる。


 身は柔らかく、内陸で食べてきた干し魚より水分が多い。


「全然違うな」


「干してませんからね」


 シモンも小さく一口取る。


「鮮度がよいのでしょう。味付けもかなり薄い」


「魚の味がする」


 モモが言った。


「魚なんだから当然だろ」


「そういう意味じゃなくて」


「分かるけど」


 ルシルは笑いながらもう一口食べた。


 三人で分けたため、一本はすぐなくなった。


 ちょうどいい。


 夕食への期待を残したまま、さらに港を歩く。


     ◇


 見学通りの端には、小さな石造りの広場があった。


 海へ向かって低い柵が設けられ、その先には港と沖をまとめて見渡せる。


 三人はそこで少し休むことにした。


 白砂浜とは違い、目の前の海には何艘もの舟がある。


 遠くの舟は小さな黒い点にしか見えないが、港へ近づくにつれて帆や人影まで分かるようになる。


 海鳥がその周囲を飛んでいた。


 白い腹と灰色の翼を持つ鳥が、鳴き声を上げながら水面近くまで下り、また上昇する。


「鳥もいっぱい」


 モモが柵へ手を置いた。


「魚狙ってるのかな」


「その可能性は高いでしょうね」


 シモンが答える。


「ただ、種類までは分かりません。海鳥については私も詳しくありませんから」


「帰ったら本で調べる?」


「手持ちの鳥の本は内陸や山地中心です。載っていないかもしれません」


「じゃあ、青波で本屋があったら見てみたい」


 モモは鳥を目で追いながら言った。


「海の鳥の本」


「いいな」


 ルシルも頷く。


「魚の本もあるかな」


「料理の本に話が移らなければよいのですが」


 シモンが言う。


「それも見たい」


「やはり」


 ルシルは笑った。


 しばらく三人で海を眺める。


 今度は誰も言葉を失うことはなかった。


 高台で初めて海を見たときの圧倒されるような感覚とは違い、今は目の前を通る舟や鳥、人々の仕事へ自然に目が向く。


 海そのものが少し身近になったのだろう。


 モモはふと、風に乗って頭上を泳ぐ魚飾りを見た。


「帳面、持ってくればよかった」


「宿に戻ってから書けばいいだろ」


「忘れないかな」


「魚が空飛んでたのは忘れないと思う」


「飛んでないよ。泳いでたの」


「布だぞ?」


「見た目の話」


 ルシルとモモが話している横で、シモンは港へ戻ってくる舟を眺めていた。


 先ほどまで沖にいた一艘が、少しずつ大きくなっている。


 港の人々にとっては何度も繰り返される日常なのだろう。


 だがルシルとモモは、その一つ一つへ新鮮に反応する。


 シモンはそんな二人を見るうちに、自分まで以前の仕事では気づかなかったものを見ていることに気づいていた。


 魚飾り。


 浜の砂。


 波に足元をさらわれる感覚。


 焼きたての小魚。


 どれも外交使節として港を訪れたときには、記憶へ残らなかったものばかりだ。


(同じ海辺でも、こんなに違って見えるものですか)


 その理由を深く考える必要はなかった。


 今は予定表も報告書もない。


 何時までに誰と会うという約束もない。


 隣にいる二人が立ち止まれば、自分も立ち止まれる。


「シモン君?」


 モモに呼ばれ、シモンは顔を向けた。


「どうしました?」


「ぼーっとしてた」


「少し海を見ていただけです」


「珍しい」


「私も海くらい見ますよ」


 モモは笑った。


「うん。今日はいっぱい見てる」


 シモンは否定しなかった。


 ルシルもそのやり取りを聞きながら、海へ目を戻した。


 三人で来てよかったと口に出す必要はない。


 そのことは、今日一日の中ですでに何度も分かっている。


 やがて太陽が少し西へ傾き、港の光が柔らかくなってきた。


 風も先ほどより強くなり、頭上の風魚飾りが一斉に尾を揺らし始める。


「本当だ」


 モモが見上げた。


「さっきの人が言ってたとおり」


 何十匹もの布の魚が、夕方の風を受けて同じ方向へ身体を伸ばしている。


 青や白の魚が建物の間を泳ぎ、その向こうには本物の海がある。


「きれいだな」


 ルシルが言った。


「うん」


 モモはしばらく眺めてから、ふと思い出したように顔を戻した。


「夕ご飯」


「魚飾りから急にそこへ戻る?」


「だって、宿の板に書くって言ってた」


「確かに」


 シモンが立ち上がる。


「そろそろ戻りましょう。夕方になれば通りも混むでしょうから」


 三人は宿へ戻ることにした。


     ◇


 網灯りの宿へ戻ると、入口横の黒い板に夕食の内容が書かれていた。


『白鱗魚 香草焼き』

『岩腹魚 根菜煮』

『小貝と豆の塩煮』


 モモは板の前で止まった。


 ルシルも止まった。


 後ろから来たシモンまで、二人の肩越しに板を見る。


「選ぶんだよな?」


 ルシルが確認する。


「主菜は香草焼きか根菜煮のどちらか、と主人が言っていましたね」


「小貝と豆は?」


「おそらく共通の副菜でしょう」


 モモは真剣な顔になった。


「どうしよう」


「俺、香草焼き」


「じゃあ私、煮たほうにしようかな。少し交換する?」


「いいよ」


「シモン君は?」


「私も香草焼きにします」


「じゃあ両方食べられるね」


 モモは満足そうに宿へ入った。


 夕食の時間まではまだ少しある。


 三人は一度部屋へ戻り、荷物を置いた。


 モモは約束どおり旅帳面を取り出す。


 今日だけですでに高台と白砂浜についてかなり書いているため、頁には文字が増えていた。


 それでも青波集落について残したいことは多い。


 机へ座り、筆を取る。


『青波。海のそばに家と港がある。舟から魚をたくさん降ろしていた。通りの上には風魚飾りがあって、風が吹くと魚が空を泳いでいるみたいに見える。』


 少し考えて、さらに書く。


『焼きたての魚は、干し魚と全然違った。夕食も魚。』


 そこまで書いてから、モモは自分で笑った。


 後半が完全に食事の記録になっている。


 けれど消さなかった。


 これも今日の旅なのだから。


 帳面を閉じ、窓へ近づく。


 部屋は二階にあり、建物の隙間から少しだけ海が見えた。


 窓の外には風魚飾りが一匹だけ吊るされている。


 青い布で作られた小さな魚だった。


 風が吹くたび尾が揺れる。


 モモはそれを見ながら、明日はどこを歩くのだろうと考えた。


 青波の集落をもう少し見るのか。


 海沿いの道を南へ進むのか。


 それとも北西へ向かうのか。


 まだ決めていない。


 けれど、今はそれでよかった。


 夕食の時間になると、三人は一階の食堂へ集まった。


 昼間とは違い、卓の半分ほどが埋まっている。


 漁師らしい男たち。


 旅商人。


 夫婦連れ。


 宿泊客だけではなく、食事だけを取りに来た地元の者もいるようだった。


 三人が席へ着くと、ほどなく料理が運ばれてきた。


 ルシルとシモンの前には白鱗魚の香草焼き。


 モモの前には岩腹魚と根菜の煮込み。


 中央には小貝と豆の塩煮が置かれる。


 香草焼きは皮目がこんがり焼かれ、薄く切った柑橘に似た実が添えられていた。


 煮込みは淡い色の汁の中に大きく切った魚と根菜が入り、湯気と一緒に柔らかな香りが上がっている。


「いただきます」


 三人はそれぞれ料理へ手を伸ばした。


 ルシルはまず香草焼きを食べる。


 皮には少し塩気があり、中の白い身は驚くほど柔らかい。


「うまい」


 隣ではモモが煮込みを一口食べている。


 しばらく無言だった。


「モモ?」


「これ、おいしい」


「交換する?」


「する」


 小皿を使い、それぞれ少量ずつ分ける。


 シモンも香草焼きを食べながら、小貝と豆の塩煮へ手を伸ばした。


「こちらも悪くありません。豆に貝の味が移っていますね」


「ほんと?」


 モモも食べる。


「おいしい……」


 昼から何度目か分からない言葉だった。


 だが同じ「おいしい」でも、食べているものが違う。


 それで十分だった。


 食堂の中では、あちこちから今日の漁についての会話が聞こえてくる。


 南側は波が低かった。


 沖では風向きが変わった。


 明日は朝の出発を少し遅らせる船がある。


 旅人には詳しい意味までは分からない話も多い。


 海辺では、風と波が生活の予定そのものを動かしているらしい。


 ルシルは魚を食べながら、その声を聞いていた。


 王城にいた頃なら、港の漁獲量や流通について報告書で読むことはあった。


 けれど、食堂の隣の卓で漁師が「今日は網が軽かった」と笑っている声を聞くのとは、まるで違う。


 数字ではなく、人がいる。


 そのことを大げさな言葉にする気はなかった。


 ただ、明日も少しこの集落を歩いてみたいと思った。


「なあ」


 ルシルが二人を見る。


「明日の朝、すぐ出ないで青波をもう少し見ない?」


 モモはすぐに顔を上げた。


「見たい。お店もまだ全然見てないし、海の鳥の本も探したい」


 二人の視線がシモンへ向く。


 シモンは食事の手を止めずに答えた。


「私も賛成です。今後の道を決めるなら、集落で沿岸道の情報も確認できます。北西と南、どちらへ進むにしても急ぐ理由はありません」


「じゃあ決まり」


 ルシルは笑った。


 明日は青波をもう少し歩く。


 そのあと、次の道を考える。


 夕食を終えて二階へ上がる頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 けれど窓の向こうには、内陸の町とは違う明かりが見える。


 港のあちこちに灯された灯火だ。


 波の音は白砂浜ほど近くない。


 それでも夜の静けさが増すにつれて、建物の向こうから低く繰り返す音が届いてくる。


 ルシルとシモンの部屋では、窓を少しだけ開けていた。


「夜でも聞こえるんだな」


 寝台へ腰を下ろしたルシルが言う。


「波は夜だから止まるものではありませんから」


「分かってるけどさ」


 ルシルは窓の外を見る。


 昼間の海は青かった。


 今は暗く、遠くの水面はほとんど見えない。


 それでも音と匂いがあるため、そこに海があることは分かる。


「明日の朝も聞こえるんだろうな」


「ええ」


 シモンは眼鏡を外し、机の上へ置いた。


「おそらく、明後日も」


「そっか」


 ルシルはそれ以上何も言わなかった。


 隣の部屋では、モモも窓の近くに立っていた。


 昼間に見た風魚飾りは暗闇の中で輪郭だけになり、風が吹くたびわずかに揺れている。


 その向こうから、波の音が聞こえる。


 モモは寝る前にもう一度だけ旅帳面を開いた。


 昼間に書いた青波の記録の最後へ、小さく一行を加える。


『夜になっても、海は聞こえる。』


 書き終えると、帳面を閉じた。


 今夜はもう、それ以上書く必要はなかった。


 青波の村では、家々の明かりが消えていく間も、港の灯がいくつか残っている。


 建物の間に吊るされた魚たちは暗い空の下で静かに揺れ、そのさらに向こうでは、本物の海が絶えず岸へ波を送り続けていた。

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