第82話 波は、思っていたよりずっと忙しい
青波高台の見晴らし場を離れてからも、海は簡単には三人の視界から消えてくれなかった。
南へ向かう街道は高台の斜面を緩やかに下っており、右手の地形が開けるたび、草地の向こうに青い水面が現れる。道が小さな丘の陰へ入れば一度見えなくなるものの、しばらく進めば再び姿を見せるため、ルシルはそのたびに視線を右へ引かれそうになっていた。
御者をしているのはシモンである。
ルシルは隣に座っているだけなので、多少海を眺めていても馬車の運行には影響しない。それでも先ほどから何度も同じ方向を向いている自覚はあり、ついには自分から苦笑した。
「さっき見たばっかりなのに、また見ちゃうな」
「急に珍しくなくなるものでもないでしょう」
シモンは前方を確認したまま答えた。
「私も以前に見たことがありますが、今日は何度か見ています」
「シモンも?」
「ええ。以前とは場所も状況も違いますから」
その答えに、ルシルは少し意外そうに隣を見た。
シモンは普段と変わらない顔で手綱を持っている。しかし、道が大きく右へ曲がって海が広く見える場所へ出ると、ほんの一瞬だけそちらへ目を向けた。
ルシルは何も言わなかった。
後ろの車内では、モモが窓際に座っている。
先ほどまでなら海が見えるたび身を乗り出していたが、今は少し落ち着いたらしい。窓を開けすぎると風が強く入るため隙間を狭くし、その間から流れ込んでくる空気へ、ときどき顔を近づけていた。
「潮の匂い、さっきより分かる」
「下ってるからかな?」
ルシルが振り返る。
「たぶん。高台より濃くなった気がする」
モモは一度だけ鼻からゆっくり息を吸い、今度は迷わず頷いた。
「うん。もう分かる」
海を目で見つける前、三人は何度も潮の匂いがするのか確かめようとしていた。
その頃は草や土の匂いとの違いすら分からなかったのに、一度はっきり認識すると不思議なもので、風に混じったわずかな変化にも気づけるようになっている。
街道の周囲にも少しずつ変化が現れていた。
背の高い木は減り、代わりに低い灌木や丈の短い草が増えている。ところどころに白っぽい石が露出し、その隙間から細い葉を持つ植物がまとまって生えていた。
道そのものは高台より穏やかになった。
横風も少し弱まり、トルクとベルクは一定の歩調で坂を下っている。昨日から十分に休息を取れていることもあり、二頭の動きに疲れは見えなかった。
しばらく進んだところで、街道の先に小さな建物が現れた。
石造りの平屋で、屋根は低く、風を受けにくそうな造りになっている。その脇には馬車を二、三台停められる広場があり、一本の柱には青い布と白い布が結ばれていた。
「あれかな」
ルシルが前方を指す。
「見晴らし場で聞いた詰所でしょう」
シモンは速度を落とした。
建物の正面には小さな看板があり、『青波南道詰所』と書かれている。
すでに一台の荷馬車が停まっていた。荷台には蓋をした木箱が積まれ、青波水産組合のものと分かった青い魚の印が付いている。
シモンは邪魔にならない場所へ馬車を寄せた。
「私が聞いてきます。お二人は――」
「行く」
「私も」
ほとんど同時に返事が来たため、シモンは眼鏡の奥で二人を見た。
「浜への行き方を聞きたいんでしょう?」
ルシルが言う。
「私もちゃんと聞いておきたい」
モモもすでに馬車から降りる準備をしている。
シモンは止める理由もなく、小さく頷いた。
「では、三人で行きましょう。ただし馬車を長く離れるつもりはありませんので、必要なことだけ確認します」
三人はトルクとベルクの状態を確かめてから詰所へ入った。
中はセレナスやアゼルの街道施設よりずっと小さい。
受付台が一つあり、壁には周辺の簡略地図が掛けられている。窓の近くには風の記録らしい木札が並び、奥では五十代ほどの男性が書類をまとめていた。
男は三人を見ると顔を上げた。
「旅人か。南へ行くのか?」
「はい。青波の集落方面へ行こうと思っています」
シモンが答える。
「見晴らし場で、集落の手前に馬車を置いて歩ける浜があると聞きまして。今の道の状態と、場所を確認したいのですが」
「ああ、白砂浜のことだな」
男は壁の地図へ近づき、街道から少し外れた場所を指した。
「ここだ。正式な地名ってほどじゃないが、こっちじゃ白砂浜で通じる。南道をこのまま下って、青波集落へ入る少し前に海側へ分かれる道がある」
ルシルとモモが地図へ近づいた。
男の指先が、街道から右へ伸びる短い枝道を示している。
「馬車で浜まで行けますか?」
ルシルが尋ねる。
「途中までだな。浜の手前に共同の馬車置き場がある。そこから先は歩きだ。砂へ馬車を入れる奴がたまにいるが、車輪を取られるからやめたほうがいい」
「入れません」
シモンが即答した。
男が笑う。
「それがいい。二頭立てならなおさらだ」
「道は大丈夫ですか?」
「今朝見回りが戻ってる。昨日の風で細い枝が落ちた場所は片づけた。南道も浜への枝道も通れるよ。昼から風が上がる可能性はあるが、今のところ注意止まりだ」
男は窓の外にある二本の布を見る。
「浜へ行くなら、波打ち際で荷物を置きっぱなしにするなよ。満ちてくる時間だから、気づくと水が近づいてる」
モモが目を瞬かせた。
「水が近づくんですか?」
「あんた、海は初めてか?」
「はい」
男は少し納得したような顔になった。
「海は時間で水の高さが変わる。今すぐ急に上がってくるわけじゃないが、川岸と同じつもりで荷物を置かないほうがいい。濡らしたくないものは砂の上のほうへ置いときな」
「海の水って、そんなに動くんだ……」
「波もあるからな」
モモは地図より男の顔を見ていた。
高台から見た海は、遠くで光を揺らしている巨大な水面だった。そこから水そのものが陸へ近づいたり離れたりするという話は、知識として聞けば理解できても、まだ実感がない。
ルシルも同じらしく、少し考えてから尋ねた。
「浜って危なくないですか?」
「今日の白砂浜なら、決められた範囲で遊ぶぶんには問題ない。ただし沖へ入るな。足首くらいまでならともかく、初めてなら波の力を甘く見ないほうがいい」
「分かりました」
ルシルは真面目に頷いた。
シモンはさらに青波集落までの距離と、浜から戻ったあとでも日暮れ前に集落へ着けることを確認した。
今からなら十分余裕がある。
浜で長く過ごしすぎなければ、今日の宿を青波集落で探すこともできるという。
三人は礼を言い、詰所を出た。
外へ戻ると、モモはすぐ右手の海を見た。
「白砂浜」
「行く?」
ルシルが尋ねる。
モモは振り返った。
「聞く必要ある?」
「一応」
「行きたい」
答えは予想どおりだった。
シモンも反対しない。
「時間には余裕があります。二頭も問題ありませんし、せっかくここまで来たのですから寄りましょう」
モモの顔が一気に明るくなった。
「シモン君も海の近く行きたい?」
「今回は仕事ではありませんからね」
昨日から何度か聞いてきた言葉だったが、今度のシモンは少し楽しそうだった。
三人は馬車へ戻り、南道を再び進み始めた。
◇
高台から下るにつれて、波の音は少しずつ形を持ち始めた。
最初は風の中に混じる低い響きだったものが、やがて一定の間隔を置いて繰り返されていることが分かるようになる。
寄せて、崩れ、引いていく。
まだ海面そのものは街道脇の地形に隠れることも多かったが、音だけは途切れにくくなっていた。
「ずっと鳴ってる」
車内からモモが言った。
「波だからな」
ルシルは答えながら、自分でも耳を澄ませていた。
「でも不思議だな。同じ音じゃない」
「大きいのと小さいのがあるよね」
「風や海底の地形でも変わりますよ」
シモンが説明する。
「海岸へ下りれば、もっと違いが分かると思います」
街道はさらに下り、やがて周囲に小さな畑や家が現れた。
青波集落の外側にある農地なのだろう。風除けのためか、畑の周囲には低い石垣が積まれており、家々もアゼルより屋根が低い。
海側には細長い葉を持つ木が点々と生えていた。
その先で、街道の右手に小さな標識が見えた。
『白砂浜・馬車置場』
「ここだ」
ルシルが声を上げる。
シモンは右折する前に後方と対向車を確認し、馬車を枝道へ入れた。
道幅は一台の馬車が余裕を持って進める程度で、両側には低い草地が続いている。ところどころに白っぽい砂が混じり始め、車輪が通る音も少し柔らかくなった。
そして、枝道を数分進んだところで、海が再び大きく姿を現した。
今度は高台から見下ろす海ではない。
水面が自分たちと近い高さにある。
青い広がりの手前には白っぽい帯が横へ長く伸び、その上で何かが絶えず動いていた。
「……波」
モモの声が漏れる。
高台からは細かな動きにしか見えなかったものが、今ははっきり分かる。
水が陸へ向かって盛り上がり、先端が白く崩れながら砂の上へ広がっている。
馬車置き場は浜より少し高い場所にあった。
低い木柵で区切られた広場で、すでに二台の馬車と数頭の馬が停められている。端には小さな管理小屋があり、日除け帽を被った女性が受付をしていた。
三人は利用料を払い、トルクとベルクを風の当たりにくい位置へ移した。
「浜へ行くなら荷物は最小限にね」
管理の女性が言う。
「今は穏やかだけど、波打ち際より海側へ入らないこと。あと靴を濡らしたくないなら、波が来るところをよく見て歩きな」
「どこまで波が来るか、見れば分かりますか?」
モモが尋ねる。
「砂の色が違うよ。濃いところは濡れてる。もっと上まで来る波もあるから、それだけで決めつけないこと」
「分かりました」
三人は馬車に濡らしたくない荷物を残した。
モモの旅帳面も置いていく。
一瞬だけ持っていこうか迷ったようだが、海を見ることに夢中になって濡らしたら嫌だからと、自分で棚へ戻した。
ルシルも黒い外套を馬車へ置いた。
シモンは眼鏡を外すほどではないと判断したらしく、そのままである。
「じゃあ、行くか」
「うん」
三人は並んで浜へ続く歩道を下りた。
途中から土が減り、足元へ砂が増えていく。
ルシルは最初の一歩で妙な感覚に気づいた。
「うわ」
足が少し沈む。
固い街道を歩くつもりで踏み出したため、靴底の下で砂がずれたのだ。
「歩きにくい」
モモも数歩進んでから笑った。
「ふかふかしてる」
「足を取られますから、走らないほうがいいですよ」
シモンは二人より慣れているように見えたが、それでも街道より歩幅を小さくしていた。
浜へ出る。
高台では遠くにあった海が、今度は目の前まで迫っていた。
波が砂の上へ滑り込み、白い泡を残して止まる。
次の瞬間には水が引き、濡れた砂の上に細かな筋を作りながら海へ戻っていく。
その後ろから、もう次の波が来る。
モモはしばらく立ったまま、その繰り返しを見ていた。
「……忙しい」
ぽつりと漏れた言葉に、ルシルが隣で笑った。
「何が?」
「波」
モモは海を指す。
「ずっと来て、ずっと戻ってる。高台から見たときは、もっとゆっくりしてると思ってた」
言われてみれば、ルシルも似た印象を持っていた。
遠くから見た海は巨大で静かなものに見えたが、近くまで来ると一瞬たりとも止まっていない。水面は細かく揺れ、波は次々と生まれ、足元の砂まで絶えず形を変えている。
「本当に忙しいな」
「でしょ?」
二人が妙なところで納得し合っていると、シモンが後ろで笑った。
「初めて海を見て、波の感想が『忙しい』になるとは思いませんでした」
「でも忙しくない?」
モモが振り返る。
「否定はしません」
シモンは海を見る。
「近くで見ると、確かに休んでいるようには見えませんね」
モモは満足そうに頷き、また波打ち際へ視線を戻した。
少しずつ近づく。
管理人から言われたとおり、濡れた砂と乾いた砂の境目を見ながら進んだ。
一つの波が来る。
モモは足を止めた。
水は彼女の靴から二歩ほど手前で勢いを失い、そのまま引いていった。
「……届かなかった」
「残念そうに言うことか?」
「ちょっとだけ」
「濡れたいの?」
「海の水には触ってみたい」
それはルシルも同じだった。
二人は顔を見合わせ、ほぼ同時にシモンへ視線を向けた。
シモンはその意味を察したらしい。
「足首より深い場所へ入らない。波が強くなったらすぐ離れる。それを守るなら構いません」
「靴は?」
「濡らしたくないのであれば脱いだほうがいいでしょう。ただし、砂の中に尖った貝殻や石がある場合もあります。裸足で走り回らないこと」
「分かった」
ルシルは素直に返事をした。
三人は波から十分離れた乾いた砂の上へ移動し、靴を脱いだ。
モモは裾を少しだけ持ち上げ、ルシルもズボンの裾を折る。シモンは最初、二人を見守るつもりだったらしいが、モモにじっと見つめられて諦めたように靴を脱いだ。
「シモン君も来るんだよ」
「分かっています」
「見てるだけって顔してた」
「そのつもりだったのですが」
「三人で来たんだから」
見晴らし場でも聞いた言葉だった。
シモンは少しだけ笑い、眼鏡の位置を直した。
「では、三人で行きましょう」
裸足で砂を踏む。
乾いた場所は温かく柔らかかったが、波に濡れた場所へ近づくにつれて砂が冷たく締まり、足裏へ張りつくような感覚に変わった。
モモが自分の足跡を振り返る。
「すごい。ちゃんと残る」
「俺のも」
「濡れた砂は形が残りやすいですからね」
三人の足跡が波打ち際へ向かって並んでいる。
その先へ、また一つ波が来た。
今度は先ほどより少し大きい。
「来るよ」
モモの声が弾む。
ルシルは動かず待った。
白い泡を乗せた薄い水が砂の上を滑り、二人の足元へ迫る。
最初に触れたのは冷たさだった。
「冷たっ!」
ルシルとモモの声が重なった。
水は足の甲まで届かない程度だったが、予想していたより冷たい。
モモは驚いて一歩後ろへ下がりかけ、それでも逃げずに足元を見た。
波が引いていく。
その瞬間、足の周りの砂まで一緒に動いた。
「えっ?」
モモが身体を揺らす。
「砂が動く!」
ルシルも足元を見る。
引いていく水が足の周囲の砂をさらい、足裏が少し沈んでいくような妙な感覚がある。
「なんだこれ。立ってるだけなのに沈むぞ」
「お二人とも、足元ばかり見て次の波を見失わないように」
シモンの声に顔を上げると、すでに次の波が近づいていた。
今度は少し大きい。
水が足首まで届き、モモが笑いながらルシルの腕を掴んだ。
「冷たい!」
「俺に掴まっても温かくならないぞ!」
「転びそうだったの!」
波が引くまで二人はそのまま立っていた。
水が戻っていくと、モモはルシルの腕から手を離し、自分の足元を確認する。
「面白い……」
驚きはすぐ好奇心へ変わった。
ルシルも同じだった。
高台から見たときには巨大すぎて、自分とは別の場所にある景色のように感じた海が、今は足へ直接触れている。
冷たい。
動く。
砂をさらう。
そして、絶えず戻ってくる。
「これが全部、さっき見たあの海につながってるんだよな」
ルシルが呟く。
「うん」
モモは水平線を見る。
足元にある薄い水と、遥か彼方まで続く青い広がりが同じものだという事実が、まだ少し不思議だった。
シモンも二人の隣まで来た。
小さな波が彼の足元にも届く。
「シモン君、冷たい?」
「冷たいですよ」
「前に海へ来たときも入った?」
「いいえ」
モモが驚いて振り返った。
「入ってないの?」
「仕事でしたから。港へ到着して、靴を脱いで波へ入り始める随行員はいません」
ルシルが吹き出した。
「それはそうだな」
「では、シモン君も初めて?」
モモに聞かれ、シモンは少し考えた。
海を見たことはある。
船にも乗った。
港で潮風を浴びたこともある。
だが、こうして何の目的もなく浜へ下り、靴を脱いで波に足を浸した経験はなかった。
「……こうして海へ入るのは、初めてですね」
答えると、モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、一緒だ」
シモンは一瞬だけ返事に迷い、それから頷いた。
「そうなりますね」
三人の足元へ、また波が届いた。
ルシルは冷たさに少し慣れてきた。
モモは波が来るたび足元を見たり、海の向こうを見たりしている。シモンも普段のように二人だけを監督しているのではなく、ときどき自分の足元をさらっていく水へ視線を落としていた。
しばらくすると、モモがしゃがみ込んだ。
「海の水って、本当に塩辛いのかな」
「飲むつもり?」
ルシルが尋ねる。
「飲まないよ。ちょっと舐めるくらい」
「待ってください」
シモンがすぐに止めた。
「少量を舐めた程度で問題になるとは思いませんが、わざわざ波打ち際の水を口へ入れる必要はありません。砂や細かなものも混じっています」
「じゃあ、やめる」
モモは素直に立ち上がった。
「でも塩辛いんだよね?」
「ええ」
「不思議。こんなにいっぱいあるのに飲めないんだ」
ルシルも海を見る。
「全部塩水なんだよな」
「基本的には」
「すごい量の塩だな」
シモンが何か説明しようとして、やめた。
今の二人に必要なのは海水中の塩分についての講義ではないだろう。
代わりにルシルが、引いた波の跡に残った小さなものへ気づいた。
「モモ、これ」
「なに?」
二人は少し岸側へ戻った。
濡れた砂の上に、白っぽい小さな欠片が半分埋まっている。
ルシルがしゃがみ込み、指先で周囲の砂を軽く払った。
現れたのは、小さな二枚貝の殻だった。
片側だけで、中身はない。
表面には淡い筋が入り、端の一部が欠けている。
モモの目が丸くなる。
「貝殻?」
「たぶん」
ルシルは触れる前にシモンを見る。
「拾って大丈夫?」
「空の殻なら問題ないと思いますが、割れた部分で指を切らないようにしてください」
ルシルは慎重につまみ上げた。
砂を軽く落とす。
掌へ乗せると、思っていたより薄く、軽かった。
「これが貝なんだ」
「殻だけですけどね」
シモンも覗き込む。
モモはルシルの掌の上にある貝殻を見つめたあと、周囲の砂へ目を向けた。
「ほかにもある?」
三人で少し探してみると、意識していなかっただけで波打ち際には細かな貝殻がいくつも落ちていた。
白いもの。
薄茶色のもの。
縞模様があるもの。
砕けて形が分からなくなったものも多い。
モモは完全な形に近い小さな殻を一つ見つけ、しゃがんで拾い上げた。
「かわいい」
指先に乗るほど小さな巻き貝の殻だった。
薄い灰白色で、先端から口へ向かって緩やかな筋が走っている。
「それ持って帰る?」
ルシルが尋ねる。
「うん……でも、勝手にいっぱい拾うのはよくないかな」
「管理の人に聞いてみよう」
「そうだね」
モモはひとまず掌の中へ大切そうに包んだ。
ルシルも自分が拾った二枚貝を持ったまま立ち上がる。
そのとき、胸の中に一つの約束が浮かんだ。
「……あ」
「どうしたの?」
「貝殻」
モモが首を傾げる。
ルシルは掌の上の殻を見る。
「春雫の店主に、海まで行ったら何か持って帰れたらって話しただろ」
モモの表情が変わった。
「あっ」
シモンも思い出したらしい。
「確かに、その話がありましたね」
旅のずっと前のほうで交わした小さな話だった。
絶対に果たさなければならない契約ではない。
期限もない。
それでも、海へ着いた今だからこそ思い出せた。
「これ、そのまま持っていく?」
モモが尋ねる。
ルシルは掌の殻を見てから、首を横へ振った。
「いや。せっかくだから、ちゃんとしたの探したい」
「じゃあ一緒に探そう」
「でも今すぐ決めなくてもいいだろ。海沿いを旅するなら、ほかの浜にも行くかもしれないし」
モモは少し考えて頷いた。
「それもそうだね」
シモンも同意する。
「持ち帰るまでの間に割れないよう保管する方法も考えたほうがいいでしょう。今日はまず、拾ってよい範囲を確認してからにしましょう」
「分かった」
小さな約束が、海へ着いたことで再び現在の旅へ戻ってきた。
ルシルはそれが少し嬉しかった。
王都を出てから通ってきた場所が、ただ後ろへ消えていくのではなく、ときどきこうして今の道へつながってくる。
ただし、貝殻探しだけで今日を終えるつもりはなかった。
三人は拾った二つを一度乾いた砂の上へ置き、もう少し波打ち際を歩いた。
◇
浜には、三人以外にも何組か人がいた。
少し離れた場所では親子らしい三人が砂の上に座り、子どもが流木を集めている。さらに向こうでは二人の漁師が小さな舟のそばで網を確認していた。
観光だけの場所ではなく、海辺の人々にとっては生活の場でもあるらしい。
漁師の一人が網を持ち上げると、陽の光を受けて細かな水滴が散った。
モモは邪魔にならない距離から、その作業を興味深そうに見ている。
「魚、捕るのかな」
「網だからそうじゃない?」
「今から海に出るようには見えませんね」
シモンが舟を見る。
「網の補修か、次に使うための確認でしょう」
実際、二人の漁師は海へ出る準備をしているのではなく、網の一部を指で広げながら何か話していた。
ルシルたちは近づかず、そのまま浜を歩く。
足元には小さな穴がいくつも開いていた。
モモが気づいてしゃがみ込む。
「これ、何の穴?」
「生き物でしょうか」
シモンにもすぐには分からない。
ルシルが覗き込んだ瞬間、少し離れた穴の脇で砂が動いた。
「動いた」
「どこ?」
「そこ」
三人が見ると、小さな生き物が砂の上へ現れた。
灰色がかった殻を持ち、横向きに素早く動いて別の穴へ入っていく。
モモが目を見開いた。
「今のなに!?」
「蟹の仲間だと思います」
「速い!」
モモは追いかけそうになって一歩踏み出し、すぐ止まった。
穴へ逃げ込んだものを掘り返すつもりはないらしい。
「海って、足元にもいろいろいるんだね」
「高台からじゃ絶対分からなかったな」
ルシルも砂の穴を見る。
遠くから見た海は、どこまでも続く巨大な景色だった。
近くへ来れば、波があり、貝殻があり、砂の中には小さな生き物までいる。
一つの景色だと思っていたものの中に、数えきれないほど別のものが詰まっている。
しばらく歩いたところで、三人は波から離れた乾いた砂へ戻った。
足を軽く洗える水場が馬車置き場の近くにあると聞いていたため、靴はまだ履かずに手へ持つ。
砂の上を裸足で歩く感覚にも少し慣れてきた。
「ルシル君」
「ん?」
「足跡、消えてる」
モモが後ろを指した。
先ほど三人が波打ち際へ向かったときにつけた足跡の一部が、もう波に崩されていた。
乾いた場所に残っているものはまだ見える。
けれど濡れた砂の近くにあった足跡は、波が何度か通っただけで形が分からなくなっている。
「本当だ」
ルシルは少しだけ立ち止まった。
モモも隣に並ぶ。
シモンは二人が何を見ているのか確認し、そのまま少し待った。
「せっかくつけたのにね」
モモの声に残念さはあったが、深刻ではない。
「またつければいいんじゃない?」
ルシルは言った。
「ほら」
少し先の濡れた砂へ一歩踏み出す。
新しい足跡が残った。
モモはそれを見て笑い、自分も隣へ一歩踏み出した。
少し離れてシモンの足跡も並ぶ。
次の波が来れば、また消えるだろう。
それでも今は確かに三人分の足跡が砂の上にあった。
「帰ろうか」
ルシルが海ではなく馬車置き場の方向を見る。
「うん。青波の集落にも行きたいし」
モモは最後にもう一度海を振り返った。
高台で初めて見たときとは違い、今度はその表情に驚きだけではないものが混じっていた。
波が冷たいこと。
足元の砂が動くこと。
潮の匂いがすること。
貝殻が落ちていること。
小さな生き物が砂へ潜ること。
海は遠くから眺めるだけの青い景色ではないと、身体で知った顔だった。
◇
馬車置き場へ戻った三人は、水場で足についた砂を洗い流した。
冷たい真水をかけると、足の指の間から細かな砂が流れ落ちる。海水が乾き始めた部分には少しべたつく感覚があり、ルシルはそれも初めてだった。
「なんか変な感じする」
「塩分が残っているのでしょう」
「海に入ったあとって毎回洗うの?」
「そのほうが快適だと思いますよ」
シモンも自分の足を洗っている。
モモは先ほど拾った巻き貝を真水で軽く流してから、管理の女性へ持っていった。
「すみません。浜に落ちてた空の貝殻って、持って帰っても大丈夫ですか?」
女性は掌の殻を見る。
「そのくらいならいいよ。生きてる貝は持っていかないでほしいけど、空の殻を一つ二つなら問題ない」
「ありがとうございます」
ルシルも自分の二枚貝を見せ、同じように許可をもらった。
女性は二人の様子を見て笑う。
「初めての海だった?」
「分かります?」
「分かるよ。ここに来る途中から海ばっかり見てたろ」
ルシルは少し恥ずかしくなった。
「見られてたのか……」
「悪いことじゃないさ。地元の人間は毎日見てるから、あんたたちみたいな顔はしない」
女性は海のほうへ目を向けた。
「でも、たまに初めて来た人を見てると、こっちまでちゃんと海を見ようって気になるよ」
その言葉に、モモは一度海を振り返った。
「毎日見ても、飽きないですか?」
「飽きる日もあるよ」
女性は笑った。
「風が強けりゃ面倒だし、塩で道具は傷むし、漁に出る家は天気ばっかり気にしてる。きれいなだけじゃない。でも、なくなったら困るね。ここじゃ海も暮らしの一部だから」
モモは少し考えたあと、静かに頷いた。
初めて見る自分たちには特別な海でも、ここで暮らす人々には仕事や天候と結びついた日常でもある。
どちらが正しいという話ではない。
同じものを違う場所から見ているだけなのだろう。
三人は女性へ礼を言い、靴を履いた。
拾った貝殻は乾かしてからしまうため、すぐ袋へ密閉せず、小さな布の上へ置いて馬車の棚へ載せた。
トルクとベルクも十分休んでいる。
水を飲ませ、馬具を確認すると、二頭とも問題なく出発できそうだった。
モモは馬車へ乗り込む前に、旅帳面を取り出した。
「今書くの?」
ルシルが尋ねる。
「忘れないうちに少しだけ」
風で紙が飛ばないよう馬車の中へ座り、帳面を膝の上で開く。
高台で書いた記録の下へ、何行か追加した。
『白砂浜まで下りた。波は思っていたよりずっと忙しい。海水は冷たくて、引くと足元の砂まで動く。シモン君も、波に足を入れるのは初めてだった。』
そこで一度筆を止め、モモは少し考えた。
さらに一行を加える。
『小さな貝殻を拾った。海は、遠くから見るのと近くで触るのでは全然違った。』
「できた」
帳面を閉じたモモは、満足したように棚へ戻した。
ルシルは馬車の外から尋ねる。
「今度はすぐ書けた?」
「うん。高台のときより簡単だった」
「なんで?」
「だって、いっぱいあったから」
「高台もいっぱいあっただろ」
「違うの。高台は海を見た瞬間が大きすぎて、何を書けばいいか分からなかったの」
モモは自分の足元を指した。
「こっちは冷たいとか、砂が動くとか、波が忙しいとか、ちゃんと言えることがいっぱいあった」
ルシルは少し納得した。
「なるほど」
「ルシル君は何が一番だった?」
突然聞かれ、ルシルは考える。
海の広さ。
波。
砂。
貝殻。
潮の匂い。
どれも初めてだった。
それでも一つ選ぶなら、と足元を見る。
「波が引くときかな」
「砂が動くやつ?」
「うん。見てるだけじゃ絶対分からなかった」
「分かる」
二人が頷き合う。
シモンは御者台へ上がりながら、その会話を聞いていた。
「お二人とも、ずいぶん地味なところが印象に残りましたね」
「シモンは?」
ルシルが尋ねる。
「私ですか?」
「三人で入ったんだから、シモンにもあるだろ」
シモンは少し考えた。
以前の海では経験しなかったもの。
波の冷たさもそうだが、それ以上に印象へ残ったことがある。
「そうですね……」
眼鏡の位置を整え、馬車の後ろで話している二人を見る。
「海へ入ったことより、お二人が波一つであれほど騒げることのほうが印象的でした」
「それ、海の感想じゃないだろ」
「ひどい」
二人から同時に抗議され、シモンは笑った。
「では、波が思ったより冷たかったことにしておきます」
「今変えたよね?」
「モモ嬢、そろそろ出発しますよ」
「あ、逃げた」
いつもの調子へ戻った三人の声の向こうで、波は変わらず浜へ寄せ続けていた。
馬車置き場を出るとき、ルシルはもう一度だけ海を見た。
今度は長く立ち止まらない。
見ようと思えば、この先でもまた見られる。
それが今朝までとの一番大きな違いだった。
高台で初めて見た海は、遠くまで続く巨大な景色だった。
白砂浜で触れた海は、冷たく、動き続け、足元の砂をさらい、小さな貝殻を残していく場所だった。
同じ海なのに、少し近づいただけでまるで違って見える。
「次は青波集落だな」
ルシルが御者台へ上がる。
「ええ。距離はそれほどありません」
シモンが隣へ移り、今回はルシルへ手綱を任せた。
「海ばかり見て道から外れないでくださいね」
「分かってるって」
「さっき何度も右を向いていましたので」
「あれはシモンが運転してたからだよ」
「でしたら今は見ないでください」
ルシルは手綱を持ちながら笑った。
「じゃあモモ、海は任せた」
「任された」
車内の窓から声が返る。
「何を任せるんですか……」
シモンの呆れた声を乗せ、馬車は再び南道へ戻った。
右手には海があり、前方には青波の集落がある。
ルシルが合図すると、トルクとベルクは落ち着いた足取りで歩き始めた。
砂浜から離れるにつれて波の音は少しずつ遠ざかったものの、潮の匂いはもう消えなかった。
海を目指していた旅は、いつの間にか海のそばを走る旅へ変わっていた。




