第81話 初めての海は、どこまでも続いていました
朝のアゼルを歩くルシルたちの頭上では、昨夜あれほど強く吹いていた風が嘘のように穏やかになっていた。
完全に止んでいるわけではない。建物の隙間を抜けるたび、モモの長い桃金色の髪や三人の外套の裾を揺らす程度の風は吹いているものの、街道詰所の前に立っていた風向き布も昨日のように激しく伸び切ってはいなかった。
青波高台道は通行可能。
先ほど詰所で聞いた言葉を胸のどこかで繰り返しながら、ルシルは共同馬車預かり場へ続く通りを歩いていた。
隣にはモモがいて、その少し後ろをシモンが歩いている。いつもと変わらない三人の並び方なのに、今朝はモモが普段より少し速く歩いては、気づいて速度を落とすことを繰り返していた。
「モモ」
「なに?」
「速い」
ルシルが笑いながら指摘すると、モモは足元を見てから、ほんの少し頬を膨らませた。
「ルシル君が遅いんじゃない?」
「俺はいつもどおりだよ」
「私もいつもどおりです」
「先ほどから三度ほど、お一人だけ半歩ずつ前へ出ていますよ」
後ろからシモンに指摘され、モモは振り返った。
「数えてたの?」
「数えるつもりはありませんでしたが、目につきましたので」
「シモン君まで……」
不満そうな声とは裏腹に、モモの表情には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
ルシルも人のことを言えるほど落ち着いているわけではない。
昨日まで海は、地図の上や誰かの言葉の中にある場所だった。それが今朝は、トルクとベルクを馬車につなぎ、町の南西側から青波高台道へ入れば、その日のうちどころか午前中にも見られる場所まで近づいている。
(本当に今日見るんだな)
胸の内でそう言葉にすると、ようやく実感が少しだけ追いついてきた。
共同馬車預かり場へ着くと、朝の世話を終えた馬たちが馬房の中で過ごしていた。
トルクはルシルたちの姿に気づくと耳をこちらへ向け、ベルクも隣の馬房から顔を上げる。昨夜は屋根のある場所で十分に休めたらしく、二頭とも落ち着いており、脚元にも異常は見られなかった。
「おはよう。今日はちょっと変わったところに行くぞ」
ルシルがトルクの首筋へ手を当てる。
言葉の意味まで理解しているとは思わないが、トルクは嫌がる様子もなく鼻を鳴らした。
シモンはベルクの脚と蹄鉄を確認したあと、預かり場の係員から昨夜の様子を聞いている。モモはその間に馬車へ入り、棚や荷物の固定を確認していた。
高台では横風が吹く。
今朝は通行可能と確認できているものの、普段より荷物の固定を意識しておくに越したことはない。
「中、大丈夫だよ。軽いものも全部しまった」
馬車から降りてきたモモが報告する。
「こちらも問題ありません」
シモンは馬車の外側へ回り、連結部と車輪を確認してから頷いた。
ルシルも二頭へ馬具を取り付けるのを手伝う。
鉄樫車房で教わった確認手順は、もう頭の中で一つずつ唱えなければできないものではなくなっていた。それでも高台へ向かう朝だからと特別なことを増やすのではなく、普段どおり金具と革帯を見て、緩みがないことを確かめていく。
準備が整う頃には、預かり場にも朝の光が十分に入っていた。
「最初は私が御者をします」
シモンが言った。
「高台へ入ってから風の変化を見たいので」
「頼む」
ルシルは迷わず任せた。
モモも異論はないらしく、先に車内へ乗り込む。
シモンが御者台へ座り、ルシルもその隣へ腰を下ろした。
「ルシル様は中でも構いませんよ」
「ここから見たい」
「海をですか?」
「道を」
ルシルが即答すると、シモンは横目を向けた。
「本当ですか?」
「……海も」
「でしょうね」
車内からモモの笑い声が聞こえた。
「ルシル君、素直に言えばいいのに」
「モモは外見なくていいの?」
「見ます」
窓が開き、モモの顔が覗く。
シモンは二人を見て小さく笑ったあと、前方へ視線を戻した。
「では出発します。高台へ入ったら、お二人とも景色だけでなく風向き布も見てくださいね」
「分かった」
「はーい」
二人の返事を確認してから、シモンはトルクとベルクへ合図を送った。
馬車がゆっくり動き始める。
朝のアゼルを抜け、三人は青波高台道へ向かった。
◇
町の南西側を出ると、最初のうちは畑の間を進む道が続いていた。
低い石壁によって区切られた畑には朝から農作業をする人々の姿があり、街道沿いに立つ風向き布は弱い風を受けて同じ方向へ緩やかに伸びている。遠くへ進むにつれて建物は少なくなり、代わりに背の低い草と灌木の広がる土地が増えていった。
街道そのものは、昨日まで通ってきた南西道より少し狭い。
それでも二頭立ての旅馬車が走るには十分であり、路面もよく締まっていた。深い轍や大きな石もなく、シモンは無理のない速度を保ちながら進んでいる。
「今のところ、風は大丈夫そうだな」
ルシルは道脇の布を見た。
「ええ。ただ、まだ高台の内側です」
シモンは手綱を持ちながら前方の地形へ目を向ける。
「詰所では、木立が途切れたあたりから横風を受けやすいと言っていました。今の状態だけで最後まで同じとは考えないほうがいいでしょう」
「了解」
ルシルは素直に頷き、前方へ視線を戻した。
道は緩やかな上りになっている。
左手には低い丘が続き、右手にはところどころ木立が残っていた。昨日アゼルへ入る前に遠くから見えていた高台の中を、今は実際に馬車で進んでいるのだろう。
しばらくすると、後ろからモモの声がした。
「ルシル君」
「ん?」
「ちょっとだけ、匂い違わない?」
ルシルは思わず鼻から息を吸った。
朝の冷たい空気。
乾いた土。
馬と革。
街道脇の草。
それらに混じって、何かがあるような気もする。
昨日までは感じなかった、少し湿ったような、けれど川辺とも違う匂いだった。
「……分からない」
「私も分からない」
「じゃあなんで聞いたんだよ」
「違う気がしたから」
モモが窓から少しだけ顔を出す。
「シモン君は?」
シモンはすぐに答えず、風が吹いたところで軽く息を吸った。
「少しだけ、潮の気配が混じっているように思います」
モモの目が大きくなる。
ルシルも思わずシモンを見た。
「これが?」
「まだ弱いですが、私の記憶にある海辺の空気には近づいています。ただし、ここで覚えようとしなくても、もっと近づけば分かりやすくなるでしょう」
ルシルはもう一度空気を吸った。
急に匂いの正体が分かるわけではない。
それでも昨日の夜、風草村で何度嗅いでも見つけられなかったものが、今は確かにこの風のどこかへ混ざり始めているらしい。
「モモ」
「なに?」
「帳面」
「今は書かないよ」
即答だった。
モモは窓の外へ視線を戻し、流れていく草地を見つめる。
「ちゃんと分かったときに書く」
その声は楽しげでありながら、どこか慎重だった。
今まで知らなかったものを初めて知る瞬間を、曖昧なまま先取りしたくないのだろう。
ルシルも同じように思い、それ以上匂いについて口にするのをやめた。
馬車はさらに坂を上っていく。
やがて右手にあった木立が少しずつ低くなり、木々の間隔も広がってきた。風を遮るものが減ったためか、御者台へ吹き込む空気も先ほどより強くなっている。
街道脇には、新しい風向き布が立っていた。
三本の細長い布のうち、二本は横へ伸びているものの激しく暴れてはいない。最上部の一本も大きく上下するほどではなく、一定方向へ流れていた。
「一段階くらい?」
ルシルが尋ねる。
「詰所で見せてもらった基準なら、その程度でしょう」
シモンも確認した。
「問題ありません。ですが、この先でも確認します」
少し離れた場所から、反対方向へ走ってくる馬車が見えた。
一頭立ての小型車で、荷台には空らしい木箱が積まれている。御者をしている老人は風を避けるためか布を頭へ巻いていた。
すれ違う手前で互いに速度を落とす。
「おはよう!」
老人が先に声を掛けてきた。
「おはようございます!」
「上へ行くのか?」
「はい!」
「今朝は穏やかだ! 昼までなら昨日よりずっと楽だぞ!」
それだけ言うと、老人は手を上げて通り過ぎていった。
ルシルは後ろ姿を少し見送る。
「現地から来た人も大丈夫って」
「ええ。詰所の情報とも一致します」
シモンの声にもわずかな安堵があった。
通れると確認していても、実際に高台から下りてきた者の言葉には別の重みがある。
トルクとベルクの歩調も安定している。
坂は続いているが急ではなく、二頭とも呼吸を大きく乱してはいない。シモンは途中の広い路肩で一度馬車を停め、短い休憩を取ることにした。
そこには石造りの水桶があったが、水は入っていなかった。
旅人が長く滞在する場所ではなく、馬車を一時的に寄せるための待避所なのだろう。
三人は馬車を降り、持ってきた水を少量ずつ二頭へ与えた。
モモは外へ出ると、風に髪を揺らしながら周囲を見回した。
「空が広いね」
木々が減ったことで、確かに空の占める範囲が大きくなっている。
高台の斜面には低い草が広がり、ところどころに灰色の岩が露出していた。これまで通ってきた森林や農地とは異なり、遠くまで視界を遮るものが少ない。
ルシルも斜面の向こうを見た。
「ここからはまだ見えないな」
「うん」
モモは残念そうにはしなかった。
むしろ、見えないことまで楽しんでいるようだった。
シモンは二頭の様子を確認したあと、道の先を見る。
「見晴らし場までは、もうそれほど遠くないはずです。ですが、次の坂から風を受けやすくなるでしょう」
「じゃあ、ここで休ませたの正解だな」
「そのために停まりました」
「さすがシモン君」
モモが素直に褒めると、シモンは少し困ったような表情をした。
「特別なことではありませんよ」
「でも、私なら海のことばっかり考えて通り過ぎたかも」
「それを自覚しているなら、次から停まれます」
「うん」
モモは笑い、ベルクの邪魔にならない位置から二頭を眺めた。
十分に休ませてから、三人は再び馬車へ乗った。
◇
次の坂を上り始めると、シモンが言っていた意味がすぐに分かった。
街道の右側に残っていた木立が完全に途切れ、視界が一気に開けた途端、横からまとまった風が馬車へ当たった。車体が大きく傾くほどではないものの、外套や髪は明確に横へ引かれ、馬車の側面でも風が低く鳴っている。
トルクとベルクが耳を動かした。
シモンは手綱を強く引くことはせず、二頭の反応を確かめながら速度を落とす。
「大丈夫です。驚いてはいません」
ルシルも二頭の様子を見た。
「このくらいなら進める?」
「ええ。ただし急ぎません」
道脇の風向き布も横へ伸びているが、激しく上下する様子はない。
今朝の詰所で言われた一段階の範囲だろう。
馬車はゆっくり坂を上る。
車内のモモは窓を少しだけ狭めた。完全に閉じることはせず、外を見られる幅だけ残している。
坂の先はまだ見えない。
道が丘の肩を回り込むように左へ曲がっているため、その向こう側が隠れていた。
「シモン」
ルシルが前を見たまま呼ぶ。
「はい」
「あの曲がり角の先かな」
「可能性はあります。ただ、見晴らし場の石囲いはまだ見えていません」
「そっか」
ルシルは膝の上で手を握り、すぐに力を抜いた。
緊張している。
危険があるわけではないのに、妙に胸が落ち着かない。
王城で大勢の貴族を前に話したときとも、魔物を相手にしたときとも違う。何かを成功させなければならないわけでも、失敗すれば誰かが傷つくわけでもない。
ただ、知らない景色を見るだけだ。
(なのに、なんでこんなに緊張してるんだろうな)
自分でも少し可笑しくなった。
後ろのモモは静かだった。
普段なら何かしら話しているはずなのに、今は窓の外へ視線を向けたまま口を開かない。
シモンもそれに気づいていた。
彼だけは、この先にあるものを知っている。
青い水面が広がり、晴れていれば空との境が遠くまで続くことも知っている。けれど、それを二人へ説明しようとは思わなかった。
(今は、私が言葉を足す場面ではありませんね)
手綱を持つ指の力を整え、シモンは前方の道だけを見た。
曲がり角へ入る。
最初に見えたのは、街道の左側へ広がる草地だった。
次に、その先へ並ぶ灰色の石囲いが見えた。
「見晴らし場です」
シモンが静かに告げる。
ルシルの身体がわずかに前へ傾いた。
石囲いの向こうはまだ、丘の斜面に隠れている。
馬車がさらに進む。
道が少しずつ高くなり、視界の端から空が広がっていく。
丘の向こうにあった別の山影が見えなくなった。
代わりに現れたのは、空より少し濃い青だった。
ルシルは最初、それが何なのか理解できなかった。
遠すぎる。
広すぎる。
青い帯が見えたと思った次の瞬間には、馬車がさらに数歩進み、その帯が下へ大きく広がっていく。
モモが息を呑む音が、後ろから聞こえた。
シモンは何も言わない。
石囲いの広場へ馬車を入れ、風を考えて奥まで進みすぎない位置でゆっくり停めた。
トルクとベルクが足を止める。
車輪の音が消えると、代わりに風の音がはっきりと聞こえた。
「……降りよう」
ルシルが言った声は、自分で思っていたより小さかった。
三人は馬車を降りた。
見晴らし場の石囲いは腰ほどの高さで、その向こう側には草の斜面が続いている。危険な崖ではないものの、馬車を離れる必要はないため、三人は石囲いの内側から前方を見た。
そこに、海があった。
丘の下には緑の斜面が続き、そのさらに先から青い水面が始まっている。
大きな湖のようにも見える。
けれど、その先がない。
どれだけ遠くへ目を凝らしても対岸らしい土地は見つからず、青い水面は空との境へ向かって細くなりながら、そのまま視界の端から端まで続いていた。
陽の光を受けた場所には無数の白い輝きが生まれ、それが波の動きに合わせて現れては消えている。
モモは何も言わなかった。
石囲いへ近づき、両手をその上へ置いたまま海を見ている。
風が長い髪を後ろへ流していた。
ルシルも隣まで歩いたが、すぐには声を掛けられなかった。
自分自身、言葉が出てこなかったからだ。
(……なんだ、これ)
最初に浮かんだのは、あまりにも単純な言葉だった。
広いと聞いていた。
向こう岸が見えないとも聞いた。
地図では大陸の外側に大きく描かれている。
知識としては何度も教わってきた。
それでも、実際に目の前へ広がるものは、そのどれとも違っていた。
川には流れる方向がある。
湖には向こう岸がある。
王都の高い塔から見た平原でさえ、遠くには山や森があった。
目の前の海には、視線を止めるものがない。
どこまで見ても青い水が続き、その先で空と重なっている。
「……広い」
隣でモモがようやく声を出した。
ルシルは海を見たまま頷く。
「ああ」
「聞いてたより、ずっと広い」
「俺もそう思う」
モモの声が少し震えていた。
泣いているわけではない。
笑っているわけでもない。
驚きと喜びが一度に押し寄せ、どんな表情をすればいいのか本人にも決められていないようだった。
モモは一度だけ唇を閉じ、風の中でゆっくり息を吸った。
そして、目を見開いた。
「……これ?」
ルシルが横を見る。
「なに?」
「匂い」
モモはもう一度、今度は意識して空気を吸い込んだ。
「昨日までと違う。草とか土だけじゃない」
ルシルも同じように息を吸う。
高台の風には、確かに今まで知らなかった匂いが混ざっていた。
湿り気がある。
けれど川辺の湿った土とは違う。
どこか鋭さがあり、鼻の奥へ薄く残るような感覚があった。
「シモン」
二人がほとんど同時に振り返った。
少し後ろに立っていたシモンは、その顔を見て微笑んだ。
「はい。それが潮の匂いです」
モモの顔が一気にほころんだ。
「分かった!」
「今度は俺も分かった」
ルシルも笑う。
「昨日まで全然分からなかったのに」
「海から離れていましたからね。ここまで来れば、風向き次第では十分感じられます」
モモは再び海へ向き直った。
今度は景色を見るだけではなく、風そのものまで確かめるように目を細めている。
「これが海なんだ……」
その呟きに、シモンは答えなかった。
必要がないと思った。
彼は少し離れた場所から二人を見ていた。
モモは石囲いへ両手を置き、風で乱れる髪も気にせず海を眺めている。ルシルはその隣に立ち、時折水平線へ目を細めては、また近くの水面へ視線を戻していた。
シモン自身が初めて海を見たのは、王家の使節に同行したときだった。
港へ到着する前から予定を確認し、到着後は迎えの役人と話し、荷の受け渡しと宿泊先を確認した。海を見た記憶はあるものの、その場で足を止めた時間がどれほどだったのかは、今となっては思い出せない。
目の前の二人は、何も急いでいない。
海を見たあとにしなければならない仕事もない。
誰かへ報告するために来たわけでもない。
(なるほど。これは、確かに違いますね)
シモンは海へ視線を向けた。
以前見たものと同じ海のはずなのに、今日は水面の光が妙にはっきり見える気がした。
「シモン君」
モモに呼ばれ、シモンは顔を向ける。
「こっち来ないの?」
「見えていますよ」
「そうじゃなくて」
モモは自分の隣、ルシルとは反対側を軽く叩いた。
「三人で見に来たんだから、そこにいたら遠いよ」
シモンは一瞬だけ目を瞬かせた。
ルシルも振り返る。
「ほら、シモン」
「……分かりました」
断る理由もない。
シモンは二人のところまで歩き、モモの隣へ立った。
三人が石囲いの前へ並ぶ。
しばらく、誰も話さなかった。
風が草を揺らし、その音のさらに向こうから、ごく低い響きが届いてくる。
ルシルは耳を澄ませた。
「……あれ、波?」
「おそらく」
シモンが答える。
高台から海面までは距離があるため、一つ一つの波音までは聞こえない。それでも風が弱まる瞬間には、遠くで水が繰り返し崩れているような低い音が混ざっていた。
モモも気づいたらしく、じっと耳を澄ませている。
「もっと下まで行ったら、大きく聞こえる?」
「海岸まで下りれば、ここよりはっきり聞こえるでしょうね」
「行ってみたい」
その言葉は即座に出たが、モモは続けて海沿いの道を探すように視線を動かした。
「でも、どっちへ行くか決めないとだよね」
「そうだな」
ルシルも現実へ少し意識を戻した。
ここが旅の終点ではない。
海を見ることは大きな目的の一つだったが、見た瞬間に旅が終わるわけでもなかった。
むしろ目の前には、今まで知らなかった景色が広がっている。
北西へ行けば小さな漁村を経て別の街道へつながる。
南へ行けば青波の集落方面だ。
どちらへ行くのかは、ここで海を見てから決めるつもりだった。
けれどルシルは、すぐに地図を取り出そうとはしなかった。
「もうちょっと見てからでいい?」
モモが尋ねる。
「俺もそうしようと思ってた」
「でしたら、トルクとベルクを休ませましょう」
シモンが馬車を見る。
二頭は石囲いの内側で落ち着いて立っており、風に驚く様子もない。それでも坂を上ってきた直後なのだから、進路を考える前に休ませるのがちょうどいい。
三人は馬車を風上へ向け直す必要がないことを確認し、二頭へ水を与えた。
見晴らし場には後から別の旅馬車が一台入ってきた。
御者は四十代ほどの男性で、隣には妻らしい女性が座っている。二人は海を見て大きく驚くこともなく、慣れた様子で馬を休ませ始めた。
その女性が、何度も海を見るモモに気づいて微笑んだ。
「初めてかい?」
モモは少し照れたように頷く。
「はい。二人とも初めてです」
ルシルまで含めて答えると、女性は納得したように笑った。
「そりゃ、しばらく動けないね。私も子どもの頃に初めてここへ来たとき、親に置いていかれそうになるまで見てたよ」
「置いていかれたんですか?」
「さすがに待ってくれたさ」
女性の夫らしい男性が馬具を確認しながら口を挟む。
「今でも海を見てると長いだろ」
「今はあんたの休憩が長いだけだよ」
「俺のせいか?」
夫婦のやり取りにモモが笑い、ルシルもつられて笑った。
海が日常にある者にとって、この景色は毎回立ち尽くすほど珍しいものではないのだろう。
それでも、初めて見る者が動けなくなる気持ちは理解してもらえるらしい。
「海岸まで下りたいなら、南側のほうが行きやすいよ」
女性が教えてくれた。
「青波の集落の手前に、馬車を置いて歩ける浜がある。北西側にも海へ下りられる場所はあるけど、岩場が多いからね」
シモンが反応した。
「現在、南側の道は問題ありませんか?」
「私らはそっちから来たところさ。朝は問題なかったよ。昨日の風で枝が少し落ちてる場所はあったけど、道を塞ぐほどじゃない」
男性も頷く。
「集落の手前に小さい詰所があるから、そこで聞けば間違いない。浜へ行くなら馬車を置く場所も教えてくれる」
「ありがとうございます」
シモンが礼を言う。
モモは海と南側の道を交互に見た。
「浜……」
明らかに興味を引かれている。
ルシルも同じだった。
高台から見るだけでもこれほど驚いたのだから、実際に海のすぐそばまで下り、波の音を聞いてみたい。
「南、行ってみる?」
ルシルが尋ねる。
モモはすぐに頷きかけたが、途中でシモンを見る。
「道を確認してから、だよね?」
「ええ。ただ、今聞いた範囲では問題なさそうです。高台の風も現状なら強くありませんし、時間にも余裕があります」
シモンは空を確認した。
「このあと急に風が強まる可能性はありますから、まず見晴らし場で十分休憩して、それから南側の詰所まで進むのがよいでしょう。そこで状況が悪ければ、無理に浜へ下りる必要はありません」
「じゃあ、それで」
ルシルも同意した。
北西側を選ばないと決めたわけではない。
青波の集落や浜を見たあとで、沿岸をどう進むか改めて考えればいい。
旅の道は一度選んだら戻れないものではなかった。
◇
昼にはまだ早かったため、三人は見晴らし場で軽く食事を取ることにした。
硬いパンと少量の干し魚、それに水だけの簡単なものだったが、今日は食事そのものより目の前の景色へ意識が向いてしまう。
ルシルはパンを食べながら海を眺め、何度目か分からないほど水平線へ視線を向けた。
「見ても終わらないな」
「海が?」
「うん。普通、遠くを見れば何かあるだろ。山とか森とか町とか。でも何もない」
モモも干し魚を少しずつ食べながら頷く。
「空と海だけだね」
「境目も、ずっと向こうにある」
「行ったら近づくのかな?」
「近づかないでしょうね」
シモンが答える。
「地平線と同じです。こちらが進めば、そのぶん先へ移って見えます」
モモは少し考えた。
「じゃあ、ずっと追いかけても届かない?」
「そういうことになります」
「なんか不思議」
モモは海へ目を戻した。
しばらくして食事を終えると、彼女はようやく旅帳面を取り出した。
風があるため、紙を押さえながら膝の上で開く。
昨日の最後には、『風草村。風は強くなってきた。でも、潮の匂いはまだ分からない』と書いてある。
その下へ、今日の日付を書いた。
筆先が止まる。
「書けない?」
ルシルが尋ねる。
「書きたいことが多すぎて、最初が決まらない」
モモは困ったように笑った。
「海が青いとか、広いとか、潮の匂いが分かったとか、波の音が聞こえるとか……どれから書けばいいんだろう」
「全部書けば?」
「順番の話」
「見えた順?」
「それだと最初は『青い何かが見えた』になるよ」
「俺も最初そうだった」
二人が顔を見合わせる。
シモンは少し離れた場所でトルクとベルクを見ながら、その会話を聞いていた。
「最初に感じたことを書けばよいのではありませんか?」
モモが顔を上げる。
「最初に?」
「記録として正確な順序が必要なら別ですが、その帳面は旅の報告書ではないでしょう」
モモは膝の上の帳面を見る。
何を食べたか。
どんな道だったか。
知らない鳥や植物。
三人で決めたこと。
調べても分からなかったこと。
ここまでの旅で少しずつ増えてきた文字は、誰かへ提出するためのものではない。
「……うん」
モモは小さく頷き、筆を動かした。
ルシルは覗き込もうとして、途中でやめた。
何を書くのか気にはなったが、書き終わるまで待つ。
風に紙を取られないよう片手で押さえながら、モモはゆっくり文字を綴った。
やがて筆を止める。
「書けた」
「見てもいい?」
「いいよ」
ルシルが隣から帳面を見る。
そこには、いつもの旅の記録より少し大きな文字で書かれていた。
『初めて海を見た。思っていたより、ずっとずっと広かった。三人で見た。』
その下には、少し小さな文字が続いている。
『潮の匂いも分かった。高台では波の音が遠い。次は、もっと近くで聞いてみたい。』
ルシルは最後まで読んでから、何も言わず海を見た。
胸の奥に、妙に温かいものが残った。
「どう?」
モモが尋ねる。
「いいと思う」
「それだけ?」
「何て言えばいいんだよ。俺も同じだから」
ルシルは少し照れたように頭を掻いた。
「三人で見たってところも」
モモは一度目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「うん」
シモンは二人から少し離れた位置にいたため、帳面の文字までは見えていなかった。
それでもモモの表情と、ルシルが海へ視線を逸らした様子だけで、何か二人にとって大切なことを書いたのだろうと分かった。
モモは帳面を閉じると、シモンのところへ歩いていった。
「シモン君」
「はい?」
「あとで見せるね」
「帳面をですか?」
「今日のところ」
シモンは少し意外そうな顔をしたあと、穏やかに頷いた。
「楽しみにしています」
それからさらに少し休み、三人は出発の準備を始めた。
海を初めて見た場所を離れることに、モモは少し名残惜しそうだった。
けれど今度は、この景色から遠ざかるわけではない。
向かうのは海の近くなのだ。
トルクとベルクを馬車へつなぎ、荷物を確認する。
御者は引き続きシモンが担当した。
ルシルが隣へ座り、モモは車内の窓を海側へ少し開ける。
馬車が動き始める。
見晴らし場の石囲いがゆっくり後方へ流れていった。
それでも海は消えなかった。
道が高台の斜面を進むあいだ、木々や丘に隠れることはあっても、少し開けた場所へ出れば再び青い水面が現れる。
今朝まで、丘の向こうに何があるのか想像するしかなかった。
今は違う。
風に混じる潮の匂いも、その先に広がる青も、三人はもう知っている。
ルシルは前方へ続く道を見た。
青波の集落へ向かう南側の道は、海を右手遠くに望みながら緩やかに下っている。
この先には、もっと近くで波を聞ける浜があるという。
「ルシル様」
「ん?」
「前も見てください」
シモンに言われ、ルシルは自分がまた海を見ていたことに気づいた。
「見てるよ」
「今は完全に右を向いていましたが」
「シモンが運転してるから大丈夫」
「そういう問題ではありません」
車内からモモが笑う。
「ルシル君、今日はずっと言われそう」
「モモだって同じだろ」
「私は車内だからいいの」
「ずるくない?」
笑い声が潮を含んだ風へ混ざった。
シモンも呆れたように息を吐きながら、口元には小さな笑みを浮かべている。
三人を乗せた馬車は、初めて見た海を右手に感じながら、高台からゆっくりと下っていった。




