第80話 海の手前の町、アゼル
風草村を離れた馬車は、朝日を背に受けながら南西へ続く丘道を上っていた。
昨夜まで吹き続けていた風は朝になっていくらか弱まり、街道脇の草も、ときおり穂先を揺らす程度に落ち着いている。空には薄い雲がいくつか浮かんでいるものの雨を降らせそうな厚さではなく、進行方向の丘にも明るい陽射しが落ちていた。
御者台に座っているのはルシルだった。
トルクとベルクは朝から足取りが安定しており、長い上りでも急ぐ様子はない。ルシルも二頭の歩調に合わせ、坂が緩くなった場所だけ少し速度を戻しながら馬車を進めていた。
「昨日より丘が長いな」
前方を見ながら口にすると、隣に座っているシモンが地図から顔を上げた。
「アゼルまでは、こうした緩やかな起伏が続くようです。ただ、今の坂を越えればしばらく下りになりますから、そこで二頭を少し楽にできるでしょう」
「了解。下りは飛ばさない」
「それでお願いします」
後ろの車内では、モモが左右の窓を交互に眺めていた。
海が見えるかもしれないと思っているのは明らかだったが、昨日までのように丘を越えるたび口に出すことはない。何度か青灰色の遠景を海だと思いかけた経験があるためか、自分の目で確かめられるものが現れるまで待つつもりらしい。
やがて馬車が長い坂の頂上へ近づき、視界が少しずつ広がった。
左手には低い丘が重なり、右手には草地と畑が混じった土地が続いている。正面遠くには別の高台が横たわっており、その向こう側だけ地平が低く見えた。
モモが窓へ寄った。
「……あっち、すごく開けてない?」
「どこ?」
「正面。丘の向こう」
ルシルも前方へ目を凝らす。
確かに、これまでの道ではどこを見ても丘や森の影が幾重にも続いていた。それに対して今見えている南西側は、遠方の地形が途中で途切れ、その上へ空が大きく広がっているように見える。
「シモン、あれは?」
「少なくとも海面は見えていません」
「聞く前に分かったのかよ」
「お二人が何を聞こうとしているのか、さすがに分かるようになりました」
シモンは苦笑しながらも、いつもより長く前方を眺めた。
「ただ、方角としては青波側でしょう。アゼルの先にある高台も、おそらくあの辺りです」
モモは窓枠へ置いていた手へ少しだけ力を込めた。
「じゃあ、海はあの向こうなんだね」
「地図どおりなら、そうなります」
断言されたのは海が見えたことではなく、その向こうにあるという位置だけだった。
それでも昨日までとは違う。
漠然と南西へ続いていた道の先に、越えるべき最後の高台らしいものが見えている。モモはしばらくその景色を眺めていたが、やがて満足したように座席へ戻った。
ルシルも手綱を持ち直す。
(あの向こうか)
胸が騒がないわけではなかった。
けれど、目の前にはまだ下り坂があり、その先にはアゼルがある。見えない海ばかりを気にしてトルクとベルクの歩調を乱すようでは、ここまで馬車を扱えるようになった意味がない。
頂上を越えると、予告どおり街道は長い下りへ変わった。
ルシルは速度を落とし、昨日シモンがしていた操作を思い出しながら馬車が二頭を後ろから押しすぎないよう気を配る。途中には細かな砂利が浮いた場所もあったため、そこではさらに慎重に進んだ。
シモンは隣から細かく口を出すことはなかった。
危険があるなら当然止めるつもりだったが、ルシル自身が路面を見て速度を調整できている。必要のない助言を重ねるより、任せておいたほうがよいと判断していた。
下りの途中で、前方から一台の荷馬車が上ってきた。
道幅には余裕があったため、互いに端へ寄りながら速度を落としてすれ違う。向こうの御者は日除けの布を頭へ巻いた中年の女性で、ルシルたちの馬車を見ると軽く手を上げた。
「アゼルへ行くのかい?」
「はい!」
「もう近いよ。次の大きな丘を回り込めば畑が見えるから、その先だ」
「ありがとうございます!」
女性はそのまま坂を上っていった。
ルシルの口元が自然と緩む。
「近いって」
「聞こえたよ」
後ろからモモの弾んだ声が返ってくる。
「今度は本当に近いな」
「アゼルが、ですけどね」
シモンの補足に、ルシルは横目を向けた。
「分かってるよ」
「でしたら結構です」
「シモン、俺たちが今にも海まで走り出すと思ってない?」
「少しだけ」
「少しは思ってるんだ……」
車内でモモが笑っていた。
◇
坂を下り切ってから一刻も経たないうちに、街道の景色は大きく変わった。
左右に畑が増え、その間には石を積んだ低い境界壁が続いている。麦穂原で見た広大な穀物畑とは違い、一枚ごとの畑は小さく、植えられている作物も複数に分かれていた。
畑のところどころには、背の低い木柱が立てられている。
その上には細長い布が結ばれており、風が吹くたび同じ方向へ伸びていた。
「あれ」
モモが真っ先に気づいた。
「風向き布?」
「おそらくそうでしょう」
シモンも確認する。
セレナスで聞いていたものと形は少し違うが、用途は分かりやすい。道沿いだけではなく畑にも置かれていることから、この辺りでは旅人だけでなく農作業をする者にとっても風向きが重要なのだろう。
今はどの布も、おおむね西寄りから東側へ流れていた。
「昨日より風あるな」
ルシルの頬にも、横から吹く風が当たっている。
強風というほどではないものの、風草村を出た直後より明らかに強い。開けた土地へ入った影響もあり、トルクとベルクの鬣も時折横へなびいていた。
「二頭は問題なさそうです」
シモンが様子を見る。
「この程度なら、今の走行に影響はありません。ただ、午後にさらに強まるという話は覚えておきましょう」
「アゼルに着いたら確認だな」
「ええ」
少し進むと、道沿いに人の姿が増えた。
畑で働く者だけではなく、背負い籠を持って歩く人や、小型荷車を引く馬もいる。前方からは二台続けて馬車が来て、そのうち一台には木箱が積まれていた。
箱の側面には、青い波を三本重ねたような印が描かれている。
モモが目を留めた。
「波の印」
「海の荷物かな?」
ルシルも気づいたが、すぐに決めつけることはしなかった。
「青い波だからといって、必ず海産物とは限りませんよ」
シモンも同じ考えらしい。
「アゼル周辺の商会や生産者が使っている印かもしれません」
「じゃあ、今は分からないまま」
「それでいいと思う」
モモは箱を載せた馬車が遠ざかるまで眺め、それ以上は追わなかった。
やがて街道の先に、まとまった建物が見え始めた。
最初に現れたのは農家らしい家々と倉庫で、その向こうへ進むにつれて石造りや木骨造りの建物が増えていく。セレナスほど大きくはないものの、風草村とは明らかに規模が違った。
町の外縁には低い石壁があり、街道が通る場所には門というより大きな開口部が設けられている。
その手前に立つ標柱には、はっきりと町の名が刻まれていた。
『アゼル』
「着いた……」
モモの声が、今までより少しだけ小さかった。
ルシルも標柱を見る。
ここまで何度も地図の上で見てきた名前だった。
セレナスで青波への道を選んだときから、白樹、白石棚、麦穂原、風草村を経て目指してきた場所。それが今は紙の上の文字ではなく、自分たちの馬車の前に実在する町として広がっている。
「アゼルだな」
「はい」
シモンも町を見上げる。
彼にとって海そのものは初めてではない。
それでも以前訪れた海辺は仕事の目的地であり、そこへ至る道を楽しみにしながら進んだわけではなかった。今は隣と後ろにいる二人が、まだ見えない海へ向かっている。その旅の途中でアゼルへ入ることが、以前とはまるで違う意味を持っているように感じられた。
(同じ海でも、今回は見る側の自分が違うのでしょうね)
そう思ったものの、口には出さなかった。
町へ入る手前には簡単な通行確認をする詰所があった。
兵士というより街道管理を兼ねた町の係員らしく、旅人の名前や身分を細かく調べることはない。危険物や大規模な商荷を持ち込む者を確認しているようで、ルシルたちは一般の旅人として簡単な質問を受けただけだった。
「滞在か、通過か?」
年配の係員が尋ねる。
「まだ決めてません。青波方面へ行く道の状態を聞いてから考えようと思ってます」
ルシルが答えると、係員は納得したように頷いた。
「それなら町の西寄りに街道詰所がある。風の記録もあそこだ。今日は昼から高台の風が上がってるらしいから、先へ行くなら聞いてからにしな」
「今も通れないほどなんですか?」
「そこまでは知らん。こっちと高台じゃ風が違うからな。朝に向こうから来た連中は普通に下りてきてる」
係員は町の中へ続く道を指した。
「青波へ抜ける道は西南側だ。間違えるほど複雑じゃないが、詰所で聞けば分かる」
「ありがとうございます」
三人は礼を言い、アゼルへ入った。
◇
町の中へ入って最初に感じたのは、風だった。
風草村より建物が多いため常に吹き抜けているわけではないが、通りが開けた場所へ出ると横からまとまった風が流れ込んでくる。軒先の布や看板が揺れ、店先では紙ではなく木板に文字を書いた値札が多く使われていた。
「本当に風が多い町なんだ」
モモが車内から外を見る。
「建物にも工夫がありますね」
シモンが指した先では、軒先に並べられた木箱が太い紐で柱へ固定されていた。
別の店では、布の日除けを広げず巻いたままにしている。天気そのものは悪くないのに閉じている理由も、風を見ればなんとなく分かった。
ルシルは御者台から町並みを眺める。
アゼルは海辺の町ではない。
魚を売る声が響いているわけでもなく、船の帆柱が見えるわけでもない。石壁と木造の家、馬車、商店、畑から戻ってきた人々という光景だけなら、これまで訪れた内陸の町とも大きく変わらなかった。
それでも、ときおりすれ違う荷車には太い縄や大きな木箱が積まれ、青い波の印を付けた荷物も何度か見かけた。
町の中央近くには案内板があり、宿屋区画、共同市場、馬車預かり場、街道詰所の方向が示されている。
「先に馬車を預ける?」
モモが尋ねる。
「そうだな。詰所に行くにしても、トルクとベルクを連れ回す必要ないし」
「賛成です」
三人は案内に従い、町の西側にある馬車預かり場へ向かった。
そこは宿屋数軒と共同で使われている広い施設で、屋根付きの馬房と馬車置き場が分かれている。受付にいた男性へ料金を払い、二頭と馬車を預けることにした。
トルクとベルクへ水を与え、昼の飼料を頼む。
二頭はここまで問題なく歩いてきたものの、朝から丘道を越えている。青波へ向かうかどうかに関係なく、まず休ませることに異論はなかった。
「じゃあ、詰所だね」
モモが町の西南方向を見る。
三人は必要な荷物だけ持ち、徒歩で街道詰所へ向かった。
通りを歩いていると、風が建物の隙間を抜けるたび、モモの白い外套の裾が持ち上がる。彼女は片手で押さえながら、頭上の看板や通りに立つ風向き布を興味深そうに眺めていた。
「風向き布、いっぱいある」
「町の中にも必要なんだな」
「荷物を扱う店も多いですからね。強い風が日常的にあるなら、向きや強さを把握する意味はあるでしょう」
街道詰所は二階建ての石造りだった。
入口の横には長い柱が立ち、上部に三本の細長い布が付けられている。下の二本は勢いよく横へ伸び、最も高い位置にある一本だけが風に煽られながら上下へ大きく動いていた。
中へ入ると、正面に長い受付台があった。
壁にはアゼル周辺の大きな地図が掲げられており、青波方面へ延びる道もはっきり描かれている。その脇には小さな木札がいくつも掛けられ、道ごとの状態を示しているようだった。
受付には三十代ほどの女性が座っていた。
「旅の方ですか?」
「はい。青波へ行きたいんですけど、道と風の状態を聞きたくて」
ルシルが答える。
「馬車ですか?」
「二頭立てです」
女性は机の上に置いていた記録板を確認した。
「青波高台道は通行できます。ただし、今日の午後は西からの横風が強くなっています。通行止めではありませんが、軽い荷車と幌の高い馬車には待機を勧めています」
三人の表情が少し引き締まる。
シモンが一歩前へ出た。
「風の強さは、朝と比べてどの程度上がっていますか?」
「高台の観測布で二段階です。朝は一段階でした。昼前から上がって、そのままですね」
「さらに強くなる可能性は?」
「あります。夕方に落ちる日もありますが、今日は西側の雲が速いので、こちらでは下がると見込んでいません」
女性は壁の地図へ視線を移した。
「高台までならアゼルから馬車で半日もかかりません。ただ、途中から木立がなくなります。そこで横風を受けますから、初めて通るなら今日急いで出るより、明日の朝に状態を確認するほうがいいと思いますよ」
モモは地図を見た。
青波へ続く線は、本当に近かった。
今から出ても、日が暮れるまでに高台へ着けるかもしれない。
海を見られるかもしれない。
ほんの少しだけ、胸の奥が前へ引かれる。
(行きたいな)
その気持ちは素直にあった。
ここまで来たのだから、あと少しだけ進めばいいのではないかと思う自分もいる。
けれど、モモはすぐ隣にいるルシルへ目を向けた。
ルシルも地図を見ている。
同じことを考えているのだろうと、表情だけでなんとなく分かった。
「……明日にしようか」
先に口を開いたのはルシルだった。
モモは一度瞬きをしたあと、笑った。
「うん。私もそう思った」
シモンは二人を交互に見る。
「よろしいのですか?」
「だって、今日行く理由って、早く海を見たいからだけだろ?」
ルシルは地図から受付の女性へ視線を戻した。
「道が悪いわけじゃなくても、初めて通る高台で横風が強いなら、わざわざ今日行かなくていい。トルクとベルクも朝から歩いてるし」
「海は明日もあるからね」
モモも頷く。
受付の女性は三人の会話を聞き、わずかに口元を緩めた。
「そのほうがいいと思います。青波へ初めて行く旅人は、ここで聞いてからそのまま向かいたがることが多いんですけどね」
「やっぱり多いんですか?」
「海を見に行く人は特に。ここまで来ると近いですから」
女性は地図の一点を指した。
「明日の朝、ここへ寄ってもらえれば高台の状態を確認できます。朝の観測は日の出後に一度入ります」
「じゃあ、明日また来ます」
「はい。晴れて風が落ちていれば、見晴らしはいいはずですよ」
モモの目が輝いた。
「高台から、本当に海が見えるんですよね?」
「見えますよ」
今まで何人にも似た質問をしてきた。
港へ行けば見える。
丘を越えれば見落としようがない。
晴れていれば見える。
それでも、青波への道を管理している場所で改めて断言されると、言葉の重さが少し違った。
女性はモモの反応を見て、事情を察したらしい。
「初めてですか?」
「はい」
「でしたら、高台へ入って最初の見晴らし場で馬車を停められます。道の脇に石で囲った広場がありますから、走りながら無理に見る必要はありません」
「そんな場所があるんですか?」
「海を見るためだけに作ったわけではありませんけどね。もともとは馬車の待避と休憩用です。晴れた日は景色がいいので、旅人はだいたいそこで停まります」
シモンが場所を確認する。
「高台へ入ってから、分岐はありますか?」
「最初の見晴らし場までは一本道です。その先で沿岸道が二方向へ分かれます。南側が青波の集落方面、北西側は小さな漁村と別の街道へ続きます」
三人は顔を見合わせた。
セレナスで聞いていた、港だけではない海への道。
ここまで来て、ようやく具体的な分岐として地図の上へ現れた。
「最初に海を見てから決めてもいいですか?」
ルシルが尋ねる。
「もちろんです。見晴らし場から分岐までは少し距離がありますから、そこで地図を見ても構いません。ただし沿岸側は風で道の状態が変わることもあります。進む方向を決めたら、青波側の詰所でも確認してください」
「分かりました」
三人は必要な情報を聞き終え、礼を言って街道詰所を出た。
◇
外へ出た瞬間、強い風が通りを横切った。
モモの髪が大きく持ち上がり、ルシルの黒い外套も横へ引かれる。建物の軒先に吊るされた木札が何度かぶつかり、乾いた音を立てていた。
「……これは待って正解かも」
モモが髪を押さえながら言う。
「町の中でこれだもんな」
ルシルも外套を整える。
シモンは通りの先にある風向き布を見た。
「高台では遮るものが少ないと言っていましたから、ここより強い可能性があります。明日落ち着いてくれればいいのですが」
「落ちなかったら?」
「もう一日待つだけです」
シモンの答えは簡単だった。
ルシルもモモも、それに反対しなかった。
街道詰所から馬車預かり場へ戻る途中、三人は町の共同市場の前を通った。
昼を過ぎても人通りは多く、野菜や穀物だけでなく、縄、帆布らしい厚手の布、木箱、樽などを扱う店が並んでいる。海産物を売っている一角もあり、橋の向こうで見たものと似た青い魚印の箱が積まれていた。
「あの印、やっぱり魚だったのかな」
モモが足を止める。
近くで箱を運んでいた男性が聞こえたらしく、肩越しに振り返った。
「これか? 青波水産組合の荷印だよ」
「水産組合?」
「海沿いの漁師や加工場が共同で使ってる印だ。魚だけじゃなく塩漬けや乾物にも付くけどな」
男性は箱を示したあと、すぐに仕事へ戻った。
三人は邪魔にならないよう道を空ける。
「今度は分かったね」
モモが言う。
「ああ。青波から来てたんだな」
ルシルは積まれた箱を眺めた。
橋の向こうで初めて見た青い魚印。
あのときは海側から来た荷物だとしか分からなかったものが、今になって青波水産組合の印だったと判明した。
わざわざ追いかけて調べたわけではない。
同じ道を進み続けていたら、答えのほうが自然に現れた。
「モモ、帳面に書く?」
「あとで書く。ここで出すと風で紙が大変そう」
「賢明ですね」
シモンが頷いた直後、また風が吹き抜けた。
三人は顔を見合わせ、そのまま市場を離れた。
馬車預かり場へ戻ると、トルクとベルクは屋根のある馬房で落ち着いていた。
昼の飼料も食べている。
今日はもう馬車を動かさないと決めたため、三人は近くの宿を探すことにした。馬車預かり場と提携している宿のうち、空室があり、三人で泊まれる場所を受付から教えてもらう。
選んだのは、預かり場から歩いて数分の『風待ち亭』という宿だった。
名前を聞いたモモが少し笑う。
「やっぱり風なんだ」
「この町では珍しくないのでしょうね」
シモンも宿の看板を見る。
入口脇には、折り畳まれた厚い布が紐でしっかり固定されていた。風が弱い日には日除けとして広げるのだろう。
中へ入ると、女将が三人を迎えてくれた。
「三人一室なら空いてるよ。馬車は?」
「共同預かり場へ置いてあります」
「なら問題ないね。青波へ行くのかい?」
ルシルは思わず笑った。
「分かるんですか?」
「この時期に旅装で南西道から来て、馬車を預けた若い三人組ならだいたいね。仕事の人なら荷物の話を先にするし」
「当たってます」
「今日は行かないほうがいいよ。午後の風が上がってる」
「詰所でもそう言われました。明日の朝、もう一度確認します」
女将は満足そうに頷いた。
「それならいい。部屋は二階の奥だよ。窓の留め具だけはちゃんと掛けとくれ。開けっぱなしにすると風で叩かれるから」
三人は料金を払い、部屋へ荷物を置いた。
窓は町の南西側を向いていた。
ルシルが留め具を確認してから少しだけ開けると、すぐに風が入り込んできた。遠くには町の屋根が続き、その先へ丘が重なっている。
海は見えない。
アゼルまで来ても、まだ見えなかった。
けれど、それで落胆する者はいなかった。
「明日、あの向こうだね」
モモが窓のそばへ立つ。
「詰所で風が大丈夫って言われたらな」
「分かってるよ」
「念のため」
「シモン君みたいなこと言い始めた」
モモが振り返る。
ルシルは笑いながら窓を閉じ、留め具を掛けた。
◇
夕方になっても風は弱まらなかった。
三人は宿の食堂で早めの夕食を取り、そのあと馬車預かり場へもう一度足を運んだ。トルクとベルクの様子を確認するためだったが、二頭とも変わらず落ち着いており、明日に備えて休ませるうえで問題はない。
戻ってきた三人は部屋で地図を広げた。
机の中央にはアゼルがあり、そこから南西へ一本の道が伸びている。
その先が青波高台道。
最初の見晴らし場を過ぎれば、さらに沿岸側へ進み、やがて道が分かれる。
「最初の見晴らし場までは一本道」
モモが詰所で聞いた内容を確認する。
「そこで海を見て、そのあとどうするか決める」
「そうだな」
ルシルは地図を指でなぞった。
「最初から港へ行くって決める必要もないし、漁村に行くって決める必要もない。海を見たあとで、行きたいほうを選べばいい」
「道の状態も確認が必要です」
シモンが付け加える。
「見晴らし場から先へ進むとしても、その日の風と時間次第です。海を見たあと、そのままアゼルへ戻る選択もあります」
「それもありだね」
モモはあっさり頷いた。
海を見ることと、その日のうちに海辺の集落へ到着することは別だ。
初めて見る景色なら、なおさら急いで通過する理由はない。
モモは旅帳面を取り出した。
今日の記録には、風草村からアゼルまでの道、途中ですれ違った旅人、風向き布、アゼル到着、街道詰所で聞いた情報を書いていく。
そして市場で判明した青い魚印についても一行加えた。
『青い魚の荷印=青波水産組合。橋の向こうで見た箱と同じ印。』
書き終えてから、モモは筆先を止めた。
「明日は、何を書くんだろうね」
ルシルはすぐに答えようとして、やめた。
海の色かもしれない。
音かもしれない。
潮の匂いかもしれない。
あるいは、三人とも想像していなかった何かかもしれない。
「見てからでいいんじゃない?」
結局、それだけ答えた。
「うん」
モモも帳面を閉じた。
シモンは向かい側で地図を畳みながら、二人のやり取りを静かに聞いていた。
彼だけは海を見たことがある。
港へ入った船も、波も、潮の匂いも知っている。
けれど明日二人が何を見るのかまでは、シモンにも分からなかった。
同じ景色を見ても、何を最初に見つけるかは人によって違う。
ルシルなら何を見るのか。
モモなら何に驚くのか。
そして自分は、仕事ではない旅の途中で海を見たとき、以前と同じように感じるのか。
(それは、少し楽しみですね)
シモンは胸の内だけでそう認め、畳んだ地図を机の端へ置いた。
夜が深まるにつれて、宿の外では風の音が目立つようになった。
窓はしっかり閉めてあるため叩かれることはないものの、ときおり建物の角を回り込んだ風が低く鳴る。町の人々にとっては珍しくもない音なのか、宿の中が騒がしくなることはなかった。
ルシルは寝台へ入る前、閉じた窓へ一度だけ目を向けた。
この向こうに町の屋根があり、さらにその先に丘がある。
そして、その丘の向こうに海がある。
今なら、馬車で半日もかからない。
王都を離れたときには、どこへ行くのかさえ決めていなかった。
最初の宿場町へ行き、道を選び、食べたことのないものを食べ、知らない町へ入り、馬車と二頭の馬を買った。森や山を越え、道を間違えそうになり、雨を待ち、橋を渡り、ときには何も起きない一日をそのまま楽しみながら、気づけば海の手前まで来ていた。
それらを並べても、何か一つの大きな目的へ一直線に進んできた感覚はなかった。
ただ、モモが海を見たことがないと言った。
それなら見に行こうと決めた。
その選択の先に、明日の道がある。
(どんな感じなんだろうな)
海そのものを想像しようとすると、やはりうまく形にならない。
ルシルはそれ以上考えるのをやめ、寝台へ身体を横たえた。
◇
翌朝、ルシルが目を覚ましたとき、最初に気づいたのは静けさだった。
昨夜まで窓の外で鳴っていた風の音が聞こえない。
寝台から身体を起こし、窓の留め具を外して少し開ける。冷たい朝の空気が入り込んできたが、外套を揺らすほどの風はなかった。
「……弱くなってる」
その声に、隣の寝台でモモが身じろぎした。
「風?」
「ああ」
まだ眠気の残る顔で起き上がったモモは、髪を手で整えながら窓へ近づいた。
二人で外を見る。
町の屋根の上には薄い朝雲が浮かび、その隙間から淡い光が差している。軒先の布はわずかに揺れているだけで、昨日のように横へ強く引かれてはいなかった。
「行けるかな」
「詰所で聞いてからだな」
ルシルが答えると、後ろからシモンの声がした。
「その判断で正解です」
二人が振り返る。
シモンもすでに目を覚ましていたらしく、眼鏡を掛けながら身体を起こしている。
「町中で風が弱くても、高台が同じとは限りません。朝食を済ませたら確認へ行きましょう」
「分かってるって」
ルシルは笑いながら窓を閉じた。
昨日までなら、海が近いと分かっただけで気持ちが先へ走っていたかもしれない。
けれど今朝は違う。
急いで宿を飛び出す必要はなかった。
三人は身支度を整え、朝食を取り、宿を出た。
外の空気はひんやりしていた。
風は確かに弱い。
町の西南側へ立つ風向き布も、昨日ほど強く伸びてはいなかった。
街道詰所へ着くと、昨日と同じ受付の女性がすでに仕事を始めていた。
「ああ、昨日の三人ですね」
「おはようございます。高台の風、どうですか?」
モモが尋ねる。
女性は机の上に置かれたばかりらしい記録板を確認した。
「今朝の観測は一段階です。通行に問題なし。天気も午前中は安定する見込みです」
ルシルの胸が一度、大きく鳴った。
女性は地図へ指を置く。
「二頭立ての馬車なら、通常どおり進めます。ただし高台では急に風が変わることがありますから、風向き布を見てください。途中で二段階以上へ上がったと感じたら、見晴らし場か待避所で様子を見ること」
「分かりました」
「見晴らし場はこの印です。石囲いがあるので見落としません。その先へ進むかは、そこで決めればいいでしょう」
モモが地図をじっと見つめた。
ルシルも同じ場所を見る。
昨日まで何度も聞いてきた、海が見える場所。
そこへ向かう道が、今日は通れる。
「ありがとうございます」
三人は揃って礼を言った。
詰所を出ると、朝の光が通りへ差し込んでいた。
ルシルは南西へ続く道を見る。
その先には丘がある。
けれど今日は、その丘を越える。
「馬車を取りに行こうか」
ルシルが言うと、モモは大きく頷いた。
「うん」
シモンも眼鏡の位置を直し、二人と並んで歩き出した。
三人は馬車預かり場へ向かう。
トルクとベルクを迎え、馬車を整えたら、次に進むのは青波高台道だ。
その道の先で何が見えるのかを、もう誰かに尋ねる必要はなかった。
確かめる場所まで、自分たちで行けるところまで来ていた。




