第79話 潮の匂いは、まだ分かりません
南西道公設休憩所の屋根が作る影は、昼が近づくにつれて少しずつ短くなっていた。
朝から街道を進んできたトルクとベルクは馬桶のそばで穏やかに休み、二頭の呼吸もすでに落ち着いている。周囲では先に休んでいた旅人たちも思い思いに昼を過ごしており、少し離れた場所からは馬具を調整する金具の音や、薪を割る乾いた音が時折聞こえてきた。
ルシルたちは屋根の下に腰を下ろし、硬いパンと保存肉、豆を使った簡単な昼食を取っていた。
午前中は麦穂原から順調に進めた。途中で羊が街道を渡っていたため待つ時間はあったものの、それ以外に大きな遅れはなく、馬車にも二頭にも問題は出ていない。
シモンは食事を終えると、膝の上に沿岸方面の詳細地図を広げた。
「この休憩所から次の農村までは、午前中より多少起伏が増えます。道自体は一本ですから、昨日の麦穂原のように農道と間違える心配は少ないでしょう」
「村の名前、地図にはないんだよな?」
ルシルが覗き込むと、そこには小さな集落を示す印だけが描かれている。
「ええ。セレナスで購入した地図は街道と主要地点を確認するためのものですから、小規模な集落までは名前が記載されていません。白樹の売店でも、単に二つ目の小農村としか聞いていませんでした」
「着いたら分かるかな」
モモはパンの最後の一口を食べ終え、水を飲んだ。
「村の入口に名前があれば分かるでしょう。なければ、無理に名前を付けて呼ぶ必要もありません」
シモンが地図を畳む。
その返答にルシルは頷きながら、休憩所の外へ目を向けた。
風は朝より少し強くなっていた。
といっても馬車を揺らすほどではなく、草地の表面が一定方向へ傾く程度だ。休憩舎の柱に吊られている古い布切れも、ときおり横へ持ち上がっては力を失って垂れ下がっている。
「こっちまで海風が来てる……ってことはないよな?」
ルシルが何気なく口にすると、シモンはすぐには答えず、外の草や雲の動きを眺めた。
「可能性を完全に否定する材料もありませんが、今の段階で海から来た風だと判断する材料もありませんね。地形で向きが変わることもありますし、ここはまだ海岸から離れています」
「やっぱりそうなるか」
「ルシル君、海っぽいものを見つけようとしすぎじゃない?」
モモに笑われ、ルシルは眉を上げた。
「モモだって丘を越えるたびに外見てるだろ」
「それとこれは別です」
「どう別なんだよ」
「私は海が見えるか確認してるの。ルシル君は普通の風まで海にしようとしてる」
「それ、俺のほうが悪いみたいじゃない?」
二人の会話を聞いていたシモンが小さく息を吐いた。
「どちらも似たようなものだと思いますよ」
即座に二人から視線を向けられたものの、シモンは何事もなかったように食器を片づけ始めた。
昼食後もすぐには出発せず、三人は予定どおり長めの休憩を取った。
トルクとベルクの脚を見て、水を十分に飲ませる。馬車についても、今朝から走った範囲で異常な振動や音がなかったことを確認し、荷物の固定が緩んでいないかだけ簡単に確かめた。
午後の御者はシモンが担当することになった。
ルシルも運転できる状態ではあったが、これから起伏が増えるなら、最も経験のあるシモンに任せるほうがいい。誰がどれだけ御者を担当したかを均等にすることより、そのときの道に合った者が座るほうを三人とも自然に選ぶようになっていた。
「それでは出ましょうか」
シモンが御者台へ座り、手綱を取る。
ルシルとモモが車内へ入ったことを確認してから、トルクとベルクへ静かに合図を送った。
二頭が歩き始め、休憩所の屋根が後方へ離れていく。
午後の南西道は、聞いていたとおり午前より起伏が多かった。
街道は低い丘の斜面を縫うように続き、上り切ったと思えば緩やかに下り、その先でまた別の丘へ向かっている。路面は乾いており通行に問題はなかったが、平地よりもトルクとベルクへ負担が掛かるため、シモンは速度を一定に保つことにはこだわらなかった。
上りでは二頭の歩幅に合わせ、下りでは車体が押しすぎないよう制動を使う。
ルシルは窓の外へ流れていく景色を眺めながら、その操作によって車内の揺れが変わることを感じていた。
「やっぱりシモンの運転、坂だと分かりやすいな」
「何が?」
向かいに座るモモが尋ねる。
「揺れが少ない。俺が昨日やったときは、下りでちょっと前へ持っていかれる感じがあっただろ」
「少しね。でも怖いほどじゃなかったよ」
「それでも違うんだよな」
御者台まで聞こえていたらしく、シモンが前を向いたまま答えた。
「慣れもありますが、坂ごとに路面が違いますからね。同じ下り坂でも、土が締まっている場所と砂利が浮いている場所では制動の掛け方を変えます」
「そういうの、見ただけで分かる?」
「すべてではありません。分からない場合は速度を落とします」
「なるほど」
ルシルは素直に頷いた。
分からないなら遅くする。
説明されれば単純なことなのに、何でも先に判断できるようになることばかりが上達ではないらしい。
やがて馬車は丘の頂上近くへ差しかかった。
右手側の木々が途切れ、遠くまで見渡せる場所が現れる。モモが窓へ身体を寄せ、ルシルも反対側から身を乗り出しすぎない程度に外を見た。
見えるのは、重なる丘と林だった。
さらに遠くには淡い青灰色の帯のようなものがあったが、それが空の霞なのか、遠い土地なのかまでは判別できない。
「……あれは?」
モモが目を細める。
ルシルも同じ場所を見た。
「海?」
「違うと思います」
御者台からシモンの声が返ってくる。
「早いよ、シモン君。ちゃんと見た?」
「見ています。地図上の距離と地形を考えれば、ここから海面が見える可能性は低いでしょう。それに、あの色は丘の向こうの霞だと思います」
「そうかあ」
モモは残念そうというより、答え合わせを楽しんでいるように笑った。
「でも、ちょっと海っぽかったね」
「俺も一瞬そう思った」
「お二人とも、海を見たことがないのに『海っぽい』の基準はどこから来るのですか」
シモンに問われ、二人は揃って黙った。
数秒後、ルシルが口を開く。
「……青くて広そう?」
「私もそれ」
「かなり曖昧ですね」
シモンの呆れた声に、車内で笑いが起こった。
丘を下ると青灰色の帯はすぐに見えなくなり、代わりに道沿いの木々が増えた。
しばらく進んだところで、前方に徒歩の旅人が二人見えた。
背負い袋を持った若い男女で、街道の端をアゼルとは反対方向へ歩いている。シモンは十分に間隔を取ってすれ違おうとしたが、そのうち男性のほうがこちらの馬車へ向けて片手を上げた。
「アゼル方面か?」
シモンが速度を落とす。
「はい。今日は途中の農村まで行く予定です」
「それなら道は問題ないよ。俺たちも今朝アゼルを出たところだ」
その言葉に、車内のルシルとモモが同時に窓へ顔を向けた。
シモンは二人の反応には触れず、旅人へ確認する。
「公設休憩所より先で、馬車が通りにくい場所はありましたか?」
「いや、特には。昨日までの泥もだいぶ乾いてる。ただ、次の村を過ぎた先から風が強くなってたな。アゼルの手前は丘が開けるから」
女性のほうも頷いた。
「朝はそうでもなかったけど、昨日の午後は結構吹いたって村の人が言ってたよ。馬車なら荷物をちゃんと留めてれば平気だと思う」
「ありがとうございます」
シモンが礼を言う。
ルシルは少し迷ってから、窓越しに二人へ尋ねた。
「あの、アゼルから海って見えますか?」
男性は一瞬だけ不思議そうな顔をした。
「アゼルの町中からか? 場所によるけど、ほとんど見えないぞ。丘があるからな」
「やっぱり高台まで行かないと駄目なんですね」
「ああ。青波沿岸道へ向かうなら、その途中で嫌でも見える」
「嫌でも?」
モモが反応する。
女性が笑った。
「丘を越えたら前が開けるから。晴れてれば見落としようがないって意味だよ」
モモの表情がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「そんなに海が楽しみなのか?」
「初めてなので」
男性は納得したように笑う。
「そりゃ楽しみだな。今日はまだ無理だろうけど、天気が崩れなきゃいい景色になるよ」
二人はそう言って手を振り、セレナス方面へ歩いていった。
馬車が再び動き始めてからも、モモはしばらく後ろを見ていた。
「嫌でも見えるって」
「聞こえてたよ」
「見落とさないって」
「それも聞いた」
「ルシル君、楽しみじゃないの?」
「楽しみだから、同じこと二回言わなくていいって」
口ではそう返しながら、ルシル自身も頬が緩んでいるのを自覚していた。
(丘を越えたら、見落としようがないくらい広がってるのか)
頭の中で景色を想像しようとしても、やはり上手くいかない。
湖なら見たことがある。大きな川もある。けれど向こう岸が見えないほどの水がどこまでも続く光景は、知識として説明されても自分の記憶の中に比べられるものがなかった。
だからこそ、実際に見るまで分からないままでいいようにも思えた。
◇
午後も半ばを過ぎると、道沿いの植生が少しずつ変わり始めた。
大きな変化ではない。
森になるほど木が増えるわけでもなく、見たことのない植物ばかりになるわけでもない。それでも街道脇には背の低い硬そうな草が目立ち始め、ところどころに葉の厚い灌木が混ざるようになった。
モモが窓から外を眺めながら首を傾げる。
「この辺、麦穂原と草が違うね」
「土地が変わってきたからかな」
ルシルも同じことを感じていた。
シモンは御者台から周囲を見渡した。
「標高や土質、水分量でも植生は変わります。海へ近づいた影響かもしれませんが、それだけが理由とは限りませんね」
「今日はシモン君、何でも海のせいにしない係だね」
「必要な係だと思いますよ」
「ルシル君がいるから?」
「主に」
「俺だけ!?」
ルシルの抗議にモモが笑い、シモンも口元を緩めた。
その直後、横から吹いた風が馬車の窓を抜けた。
今までより少し強く、モモの長い髪が肩から持ち上がる。窓際に置かれていた薄い布も揺れたため、モモは慌てることなく窓の開きを少し狭めた。
「確かに風、強くなってきたね」
「ええ。ただ、馬車の進行に影響するほどではありません」
シモンはトルクとベルクの様子を見ながら答えた。
二頭も風そのものを嫌がってはいない。
街道は丘の間から少しずつ開けた場所へ移り、風を遮る木々が減っている。その影響もあるのだろう。
ルシルは窓から入る空気を吸い込んだ。
「……海の匂いって、どんな匂いなんだ?」
唐突な疑問だった。
モモも空気を吸ってみる。
「魚?」
「それ港じゃない?」
「じゃあ、塩?」
「塩って匂うか?」
二人は顔を見合わせた。
御者台のシモンが、今度はすぐに答えなかった。
ルシルはその沈黙に気づく。
「シモン?」
「説明が難しいですね」
「シモン君でも?」
「海辺には独特の匂いがあります。ただ、魚や船、港の荷物が多い場所と、人の少ない海岸ではかなり違いますし、私が以前訪れたのは港でしたから」
シモンは記憶を探すように少し間を置いた。
「潮の匂い、と表現することはあります。ですが、お二人に今ここで説明しても、おそらく実際に嗅いだときの感覚とは一致しないでしょう」
「潮の匂い……」
モモがその言葉を確かめるように繰り返した。
ルシルも、もう一度風の匂いを嗅いでみる。
土と草、それから馬車の木や革の匂いは分かる。遠くの畑から流れてきたような乾いた植物の匂いも混ざっている気がした。
けれど、その中のどれが潮なのかと聞かれれば分からない。
「今は?」
ルシルが尋ねる。
シモンも軽く息を吸った。
「私には、まだ潮の匂いがするとは思えません」
「そっか」
なぜか少しだけ残念だったが、それ以上無理に探そうとはしなかった。
見たことのない海の姿を丘の向こうへ探し、知らない匂いを風の中から探す。考えてみれば、答えを知らないものを見つけようとしているのだから、簡単に分かるはずがない。
モモも同じように思ったのか、窓から顔を離した。
「じゃあ、本当に分かったときにシモン君へ聞こう」
「何をです?」
「これが潮の匂い? って」
「構いませんよ」
「シモンが間違ってたら?」
ルシルが口を挟む。
「その場合は三人とも正解を知らないことになりますね」
「それは困るな」
「海辺の人に聞けばいいんじゃない?」
モモの答えがあまりにも単純で、ルシルは笑った。
「それでいいか」
「いいと思う」
知らないことを知っている者に聞く。
麦穂原でも、街道でも、三人はそうやって進んできた。
◇
やがて前方の丘の裾に、小さな家々が見えてきた。
石造りの低い塀に囲まれた畑があり、その奥に十軒ほどの家と納屋がまとまっている。麦穂原よりさらに小さな集落で、街道沿いに商店らしい建物は見当たらなかった。
入口近くには、風雨で色の薄れた木札が立っている。
『風草村』
「名前あった」
ルシルが木札を読む。
「風草村……この辺、風が強いからかな」
モモが周囲の草を見る。
確かに村の周囲には背の低い草地が広がり、風が通るたびに一方向へ大きく傾いている。
「由来は確認しないと分かりませんよ」
シモンが釘を刺す。
「まだ何も言ってないって」
「お二人とも、名前を見た瞬間に周囲の草を確認していましたので」
「シモン君、見すぎ」
モモの言葉に、シモンは返事をしなかった。
村へ入ってすぐ、街道脇に『旅人野営地』を示す矢印が見つかった。
案内に従って進むと、集落の南側に小さな平地があり、井戸と馬桶、それに風除け用らしい低い石壁が設けられている。屋根付きの設備は麦穂原より小さいものの、野営するには十分だった。
先客はいなかった。
「今日はここですね」
シモンが馬車を風除け壁の内側へ向ける。
ルシルも周囲を確認した。
「うん。まだ進めそうだけど、ここから先に泊まれる場所があるか分からないし」
「トルクとベルクも今日のぶんは十分走りました」
馬車を停め、二頭を外す。
ルシルがトルクを引き、シモンがベルクを担当した。モモは水の準備へ向かい、井戸に飲用可能の表示があることを確認してから水袋と馬桶を整えていく。
長い一日を走った二頭に異常はなかったが、シモンは脚を一本ずつ丁寧に見た。ルシルもその横で蹄鉄の状態を確認し、緩みや目立つ傷がないことを確かめる。
馬車も大きな問題はない。
今日の道は起伏こそあったものの、深い轍や強い衝撃を受ける場所は通っていなかった。
「これなら明日も問題なさそうですね」
シモンが立ち上がる。
「アゼルまで、あとどのくらい?」
モモが戻ってきた。
「ここからなら、明日一日を使うほどではありません。道の状態が今と同じなら、昼を大きく過ぎる前には着ける可能性があります」
「じゃあ明日はアゼル?」
「何もなければ、そうなるでしょう」
モモは嬉しそうに頷いた。
ルシルも自然と村の南西側へ視線を向ける。
風草村の先では、街道が緩やかな上りになり、丘の陰へ消えている。
アゼル。
そこまで行けば、海はさらに半日ほど先だと聞いている。
今まで「海へ行く」と言いながら、実際にはいくつもの町や村、森や丘を越えてきた。それがようやく、アゼルという具体的な場所の先にまで近づいている。
けれど今夜は、まずここで休む。
モモとシモンが夕食の準備を始めたため、ルシルも馬車から鍋を運び出した。
「今日は黄角瓜、使う?」
モモが尋ねる。
セレナスを出る時点で一本残っていたものだ。
シモンは保存状態を確認してから頷いた。
「そろそろ使いましょう。まだ傷んではいませんが、海辺まで持ち越す理由もありません」
「じゃあ食べよう」
黄角瓜は切ると中から淡い黄色の果肉が現れ、火を通せば少し柔らかくなる。三人は豆と少量の保存肉に加えて鍋へ入れ、塩と手持ちの香辛料で味を整えた。
夕方の風は昼間よりも少し冷たかった。
石壁があるおかげで焚き火は大きく煽られず、鍋から上がる湯気も途中で横へ流れていく。村の家々からも夕食を作る煙が上がり、風に乗って薪の匂いが届いてきた。
食べ頃になった黄角瓜をルシルが口へ運ぶ。
「これで最後か」
「うん。セレナスでは新しく買わなかったからね」
モモも一切れ食べる。
「最初に買ったときより柔らかくなってる気がする」
「日が経った影響でしょう。ただ、味や匂いに問題はありませんね」
シモンも確認してから普通に食べている。
三人は鍋を囲みながら、明日の予定を話した。
朝に村で道の状態を聞けるなら確認し、そのあとアゼルへ向かう。アゼルへ着いた時間によっては、その日のうちに高台を目指すことも距離だけなら不可能ではない。
ただし、それはまだ決めない。
「アゼルに着いたら、まず道を確認する」
ルシルが言う。
「はい。特に風ですね。セレナスで聞いた情報では、青波へ向かう高台区間は横風へ注意する必要があります」
「午後に強くなることもあるんだよね」
「その可能性があります。アゼルへ着いた時点で強ければ、無理に高台へ向かう必要はありません」
モモは少しだけ考えたあと、素直に頷いた。
「分かった。海は逃げないしね」
ルシルは一瞬だけ彼女を見た。
以前なら自分が先に言いそうな言葉だったが、今はモモ自身がそう判断している。
「そうだな」
それだけ答え、鍋から豆をすくった。
食事を終えると、モモは旅帳面を開いた。
今日の記録には、麦穂原を出たこと、公設休憩所、羊の横断、アゼルから来た旅人に聞いた情報、風草村への到着を書いていく。
途中で筆が止まった。
「潮の匂いも書こうかな」
「まだ分からなかったのに?」
ルシルが覗く。
「だから書くの。『潮の匂いは、まだ分からない』って」
「それ記録になるのか?」
「なるよ。今分からなかったってことは、あとで分かったときに比べられるでしょ」
その言葉に、ルシルは少しだけ目を見開いた。
比べる。
どこかで引っ掛かる言葉だったが、胸の奥に浮かんだのは、これまで何度も考えてきた「写真」の感覚ではなかった。
今目の前にあるのはモモの帳面だ。
その日に見たもの、知ったこと、感じたことを書いて残し、あとから読み返す。それだけでも、過去と今を比べることはできる。
「……それなら、書いといたほうがいいかもな」
「でしょ?」
モモは満足そうに頷き、一行を書き加えた。
『風草村。風は強くなってきた。でも、潮の匂いはまだ分からない。』
シモンはその文章を横から読んだものの、訂正はしなかった。
潮の匂いを感じなかったことまで、厳密な観測記録として扱う必要はない。これは調査書ではなく、三人の旅を残していくモモの帳面なのだから、その日の本人の感覚が書かれていても何も問題はなかった。
日が落ちると、風草村の名に似合うように、草の擦れる音が野営地の周囲へ広がった。
風除けの石壁の外では草が絶えず揺れているが、内側まで強い風が吹き込んでくることはない。焚き火を消したあとも、夜の空気には土と草、それに村の薪煙の名残が混ざっていた。
ルシルは寝る前に一度だけ外へ出た。
南西の空は暗く、海はもちろん見えない。
それでも明日進む丘の輪郭だけは、星明かりの下で黒く連なっている。
ルシルは無意識に鼻から息を吸い込み、すぐに自分で苦笑した。
(……やっぱり、まだ分からないな)
潮の匂いというものを知らないのだから当然だった。
答えを探すのは、実際に海まで行ってからでいい。
ルシルは馬車へ戻り、翌日のために身体を休めた。
◇
夜のあいだ、風が完全に止むことはなかった。
それでも馬車や天幕を揺らすほど強まることはなく、三人は問題なく朝を迎えた。
空が白み始める頃には風も少し弱まり、東の雲の隙間から朝日が差している。雨の気配はなく、街道の地面も乾いていた。
ルシルが馬車の外へ出ると、すでに村の道を歩いていた老人と目が合った。
「旅の人、アゼルへ行くのか?」
「はい。今日向かう予定です」
「なら道は平気だ。昨日の夕方にも向こうから荷車が来てる。ただ、昼から風が上がるかもしれん。アゼルの先へ行くなら町で聞いてからにしな」
「ありがとうございます」
老人はそれだけ伝えると、畑のほうへ歩いていった。
ルシルはその背中を見送ってから、南西へ続く道へ目を向ける。
間もなくモモとシモンも起きてきた。
「道、大丈夫だって」
「もう聞いたの?」
モモが驚く。
「向こうから教えてくれた。昨日の夕方にもアゼルから荷車が来てるらしい。ただ、昼から風が強くなるかもしれないから、その先はアゼルで確認したほうがいいって」
「街道会館で聞いた話とも一致しますね」
シモンは空を確認しながら頷いた。
「では予定どおり、まずアゼルを目指しましょう」
朝食を済ませ、水を補給し、馬車を整える。
昨夜の鍋で最後の黄角瓜は使い切った。
トルクとベルクの状態にも問題はない。
荷物の固定を確認し、三人は再び馬車へ乗り込んだ。
風草村を出ると、街道はすぐに緩やかな上りへ入った。
朝の光を受けた丘の草が揺れ、その向こうにはまだ見えない道が続いている。
今日は、その先にあるアゼルへ向かう。
そしてアゼルまで辿り着けば、三人はそこで初めて、海を見るための最後の半日をどう進むのか決めることになる。
トルクとベルクの蹄が乾いた街道を踏み、馬車の車輪がゆっくりと回り始めた。
風草村の木札が背後へ遠ざかる。
三人を乗せた馬車は、海の手前にある最後の町へ向かって、朝の丘道を進み始めた。




