第78話 麦穂原では、風まで働いていました
麦穂原の旅人野営地から村へ続く道は、馬車が二台並ぶには少し狭かったが、人が歩くぶんには十分な広さがあった。
夕方の陽はすでに西へ傾き、道の左右に広がる穀物畑を柔らかな金色に染めている。穂はまだ完全に色づいてはいないものの、風が吹くたびに薄緑と淡い黄色が入り混じった波が畑の奥まで走り、その向こうでは仕事を終えようとしている村人たちが農具や籠を片づけていた。
ルシルはモモ、シモンと並んで歩きながら、野営地から見えていた木枠へ目を向けた。
朝、白石棚を出てから通り過ぎた乾燥場にも似たものがあったが、麦穂原では家々の脇や畑の端にも同じような木枠が置かれている。ただし掛けられている束は一種類ではなく、細い茎をまとめたものもあれば、平たく裂いた植物を何本も並べたものもあった。
「やっぱり気になるな、あれ」
ルシルが足を緩めると、モモも同じ方向を見た。
「朝に見たのとはちょっと違うよね。こっちのほうが細い気がする」
「用途まで同じとは限りませんね。乾燥させていることだけは間違いなさそうですが」
シモンも眺めていたものの、知ったふりをすることはなかった。
三人が立ち止まっていると、木枠のそばで束を外していた年配の女性がこちらへ顔を向けた。旅装の三人が珍しそうに見ていたせいだろう。警戒した様子はなく、むしろ慣れたような笑みを浮かべている。
「旅の人かい? そんなに珍しいものでもあったかね」
「あ、すみません。邪魔するつもりじゃなくて」
ルシルが道の端へ寄ると、女性は「そこなら邪魔じゃないよ」と笑った。
「この木枠、何を乾かしてるんですか?」
モモが尋ねると、女性は手にしていた束を持ち上げた。
「こっちは麦藁だよ。屋根の補修や敷き藁に使うぶんを、もう一度しっかり乾かしてる。そっちの細いのは編み紐用の草だね。乾かしたあと水で戻して編むんだ」
「乾かしてから、また濡らすんですか?」
ルシルには少し不思議に思えた。
「生のままだと保存が利かないからね。使うときだけ湿らせりゃ、柔らかくなる。冬仕事で籠や紐にする家も多いよ」
女性はそう説明しながら、乾いた束を腕へ抱え直した。
シモンが木枠そのものへ目を向ける。
「街道沿いでも似た乾燥場を見かけました。あちらも同じものなのでしょうか」
「どこのことか分からないけど、この辺じゃ珍しくないねえ。穀物だけじゃなく、使える茎や草は乾かして取っとくよ。風がよく通るから、天気さえ崩れなきゃ乾きも早い」
女性が畑の向こうへ目を向けた直後、ちょうど一陣の風が吹いた。
木枠へ掛けられた細い草束がさらさらと擦れ合い、畑では穂が一斉に傾いていく。風そのものは目に見えないはずなのに、麦穂原ではどこを通っているのかが分かるようだった。
「風まで働いてるみたい」
モモが何気なく呟く。
女性は一瞬目を丸くしたあと、声を上げて笑った。
「そりゃいい言い方だ。ここじゃ風に働いてもらわないと困るからね。人間だけで全部乾かしてたら日が暮れちまう」
「もう暮れかけてますけどね」
ルシルが西の空を見ながら言うと、女性はさらに笑った。
「だったら旅の人も、見物はほどほどにしな。暗くなってから野営の支度をするのは面倒だよ」
「それは確かに」
シモンが深く頷いたため、今度はモモとルシルが顔を見合わせた。
どうやらこの場で最も女性の忠告を重く受け止めたのはシモンらしい。
三人は礼を言ってその場を離れた。
村の中心と呼べる場所までは、それほど遠くなかった。
大きな広場や立派な商店街があるわけではなく、少し道幅が広くなったところに共同井戸と掲示板があり、その周囲へ雑貨を扱う小さな店や作業小屋が集まっている。子どもたちが井戸の近くで遊び、仕事帰りらしい村人が立ち話をしている様子からも、麦穂原が街道沿いの土地でありながら、旅人のためだけに存在する場所ではないことが分かった。
ルシルは一軒の作業小屋の前で足を止めた。
軒先には大小さまざまな籠が積まれており、その横には太さの違う編み紐が束ねて吊るされている。先ほど女性から聞いたばかりだったため、それが乾燥させた草から作られたものだとすぐに気づいた。
「本当に紐になってる」
「聞いた直後だから分かりやすいね」
モモが籠の一つを覗き込む。
店というより工房に近いらしく、奥では男性が木製の台へ腰掛け、細長い草を何本か束ねて編んでいた。三人に気づいた男性は手を止めず、「見るだけなら好きに見ていってくれ」と声を掛けてくれる。
「これ、全部この村で作ってるんですか?」
ルシルが尋ねる。
「全部じゃないが、そこにあるのはそうだな。麦藁を使うやつもあるし、川沿いで採れる編み草を使うやつもある」
「強いんですか?」
「使い方次第だ。荷馬車の荷を縛るなら革縄や麻縄のほうがいい。こいつは籠だの、軽い荷物をまとめるだの、家の中で使うもんだな。安いし、傷んだら作り直せる」
男性は用途を大げさに売り込むこともなく、向き不向きをそのまま説明した。
シモンは吊るされた紐を一本だけ手に取らせてもらい、指先で編み目を確認する。
「確かに、馬車の固定用には少し不安がありますね」
「だろ? 旅人にはそっちを売りつけるより、ちゃんとした縄を使えって言ってるよ」
「良心的ですね」
「切れて荷物を落とされたら、こっちの評判が悪くなるからな」
あっさり返され、シモンはわずかに笑った。
ルシルたちはすでに十分な縄を持っているため、ここで何かを買う必要はなかった。それでも作られているものを見るだけで面白く、モモは籠の編み目を眺めながら、同じ材料でも編み方によって形が変わることを不思議そうに観察している。
「モモ嬢、欲しいのですか?」
「ううん。欲しいというより、作ってるところを見るのが面白いの」
「でしたら問題ありませんが、馬車の中へ籠を増やし続けるのはお勧めしませんよ」
「まだ買うって言ってないよ?」
「念のためです」
「シモン君は最近、念のためって言えば何でも注意していいと思ってない?」
モモが頬を膨らませると、工房の男性が堪えきれないように笑った。
「仲がいいな、あんたら」
三人は一瞬だけ互いの顔を見た。
誰からともなく笑いが漏れ、ルシルが「まあ、長く一緒に旅してますから」と答える。男性はそれ以上踏み込まず、「そりゃ結構だ」と編みかけの紐へ視線を戻した。
工房を出た頃には、陽がさらに低くなっていた。
夕食までに戻るという約束もあるため、三人は村の奥まで歩き回ることはせず、共同井戸の近くにある掲示板だけ確認することにした。
そこには農作業の共同予定や家畜に関する村内向けの知らせに混じって、旅人向けの紙も数枚貼られている。
『南西道 アゼル方面 通行可』
『公設休憩所の井戸使用可』
『荷車は北畑側の農道へ入らないこと』
最後の一枚を読んだルシルは首を傾げた。
「なんでわざわざ書いてあるんだ?」
近くで井戸から水を汲んでいた若い男性が聞こえたらしく、苦笑しながら答えてくれた。
「たまに街道と間違えて入る旅人がいるんですよ。途中までは広いんですけど、その先は畑の作業道なんです。馬車で奥まで行くと方向転換が大変で」
「なるほど……」
「明日アゼル方面へ行くなら、村を出たら石積みの低い壁があるほうを道なりです。朝なら分かりやすいと思います」
「ありがとうございます」
ルシルが礼を言うと、男性は水桶を持って家々のほうへ戻っていった。
シモンは掲示をもう一度確認してから、村の出口へ視線を向ける。
「地図上でも分岐らしいものはありますが、農道までは記載されていません。明日は注意しておきましょう」
「こういう小さい道って、地図に全部載せられないんだね」
「載せようとすれば、かえって見づらくなるでしょうからね」
モモは納得したように頷いた。
街道会館で詳細地図を買っても、実際に現地へ来なければ分からないことはある。道が通れるかどうかという大きな情報だけでなく、荷物を干す木枠の意味や、地図にはない農道の存在まで、旅をしながら少しずつ知っていくのだ。
三人は夕暮れの道を野営地へ戻った。
途中、畑の向こうで何人かの村人が長い布を木枠から外しているのが見えた。日が沈めば夜露が降りるためだろう。乾かすために風を使いながら、夜になれば湿気を避けるため片づけるという作業にも、その土地で暮らす者の習慣が表れていた。
野営地へ戻ると、トルクとベルクは変わらず落ち着いていた。
先に停まっていた小型旅馬車の持ち主らしい夫婦も夕食の準備を始めており、屋根付き休憩所の近くから薪の燃える匂いが漂っている。ルシルたちも少し離れた場所で火を起こし、セレナスで補給した豆と保存肉を使った温かなスープを作った。
黄角瓜はまだ一本残っているものの、今夜使う必要はないとシモンが判断した。数日は持つと確認してあるため、明日以降の食事へ回すことにする。
食事をしながら、モモは旅帳面を膝の上へ置いた。
「今日の麦穂原、何を書こうかな」
「風が働いてる」
ルシルが即答すると、モモは顔を上げた。
「それ、私が言ったやつ」
「いい言葉だったから」
「勝手に採用しないでよ」
「モモの帳面なんだから、モモが書けば問題ないだろ」
「そういう問題かなあ」
口では文句を言いながらも、モモは少し楽しそうだった。
シモンはスープを口へ運びつつ、二人のやり取りを聞いている。
「乾燥場の用途と、村内の農道については書いておいてもよいかもしれませんね。帰路に使うかは分かりませんが、この地域の特徴としては役に立ちます」
「じゃあ、それも書く」
モモは食事の邪魔にならない程度に短く記録していく。
『麦穂原。麦藁や編み草を風で乾かす。乾かした草は籠や紐にも使う。北畑側の農道は街道ではないので注意。』
そこまで書いたあと、少し考えてから下へ小さく付け加えた。
『風まで働いている村。』
「やっぱり書いた」
横から見ていたルシルが笑う。
「私の帳面だからいいの」
「さっき自分で言ってただろ」
「ルシル君に言われるのと、自分で決めるのは違います」
「難しいな」
「難しくないよ」
そんな会話をしながら夕食を終える頃には、麦穂原の周囲はすっかり暗くなっていた。
村の家々には小さな灯りが点り、遠くから犬の鳴き声が一度だけ聞こえる。野営地の空は町中よりも広く、雲の隙間には星が見え始めていた。
明日はアゼル方面へさらに進む。
公設休憩所が途中にあり、その先にはもう一つ小農村があると地図には記されている。どこまで進むかは朝の状態と道次第だが、少なくとも白樹へ引き返す理由は今のところなかった。
その夜、三人は麦穂原の穏やかな風の音を聞きながら休んだ。
◇
翌朝。
夜露を含んだ空気には、乾いた草と土の匂いが混じっていた。
ルシルが目を覚ました頃には東の空が明るくなり始めており、村の畑ではすでに何人かが作業を始めている。昨日片づけられていた草束も、陽が高くなれば再び木枠へ掛けられるのだろう。
朝食と野営の片づけを終えた三人は、トルクとベルク、馬車の状態を必要な範囲で確認した。
二頭に異常はない。
昨日の軟路で車輪へ付いた泥も乾いており、走行を妨げるほどではなかったため、大きな塊だけ落とす。水は野営地の井戸で十分に補給できた。
「今日は公設休憩所までを最初の目安にしましょう」
シモンが地図を広げる。
「そこで道と馬の状態を見て、その先の農村まで進むか決めます。アゼルへ今日中に入ることを目標にはしません」
「了解」
ルシルは地図を覗き込み、麦穂原から南西へ延びる線を確認した。
「昨日聞いた農道は?」
「村を出た直後ですね。石積みの低い壁がある側が街道です」
「そこだけ間違えなきゃいいんだね」
モモも覚えていた。
三人は旅人野営地を出て、朝の麦穂原を馬車で進んだ。
御者はルシルが担当する。
村の中心を抜けた先で、確かに道が二つに分かれていた。正面寄りの道は一見すると幅が広く、車輪跡もあるため、何も知らなければそちらへ進みそうになる。
しかし右手側には、昨日教えられた低い石積みの壁が続いていた。
「こっちだな」
「はい。地図とも合っています」
シモンが確認する。
ルシルは石壁沿いの道へ馬車を進めた。
少し走って振り返ると、もう一方の道は畑の間へ入り込み、急に細くなっている。昨日の掲示がなければ、途中で間違いに気づいて引き返すことになっていたかもしれない。
「聞いておいてよかったね」
モモが車内から言う。
「地図だけ見てたら、俺は正面のほうに行ってたかも」
「私も」
「ですから現地の情報には意味があるのですよ」
シモンが答えるものの、その口調は説教じみてはいなかった。
麦穂原を離れるにつれて、畑の面積は少しずつ減っていった。
代わりに低い草地と灌木が増え、街道にも緩やかな上り下りが現れる。ラグナ方面のような大きな物流路ではないため路面は多少荒れているものの、深い穴や馬車を止めるほどの障害はなかった。
朝の風は進行方向に対して横から吹いていた。
まだ強くはない。
それでも畑が途切れた場所では馬車の側面を撫でるように風が抜け、車内の窓を開けていたモモの髪がふわりと揺れた。
「昨日の村で風を見すぎたからかな。今日は風が気になる」
「青波へ行けば、もっと強くなるかもしれないんだろ?」
「高台ではその可能性があります」
シモンが周囲の草の揺れを見ながら答える。
「ただし、今の風から青波の状態を判断することはできません。距離もありますし、地形も違いますから」
「分かってるよ。今のうちから怖がったりしないって」
ルシルは前方を見たまま笑った。
海風がどれほどのものなのかも、まだ三人には実感がない。
知っているのは、沿岸へ近づけば横風へ注意する必要があり、場所によっては風向き布が設置されているという情報だけだ。実際にそこへ着いたとき、見て、感じて、必要なら進み方を変えればいい。
午前の街道では、反対方向から来る馬車と二度すれ違った。
一台目は野菜を積んだ小型荷車で、二台目は空の樽を何本も積んでいる。どちらも問題なく通過したが、二台目の御者はすれ違いざまに片手を上げ、ルシルたちへ声を掛けてきた。
「先の下り、羊が道を横切ってるぞ! 急ぐなよ!」
「ありがとうございます!」
ルシルも声を返す。
馬車が遠ざかったあと、モモが窓から顔を出した。
「羊?」
「らしいな」
「また移動してるのかな」
「今回は群れの移動とは限りませんよ。近くの放牧地から道を渡しているだけかもしれません」
シモンの言葉どおり、少し先の丘を越えると事情が見えてきた。
街道が緩やかに下る場所で、右側の草地から左側の草地へ羊が一頭ずつ渡っている。数は二十頭ほどで、その前後には杖を持った若い男性と年配の男性が立ち、羊が街道へ広がらないよう誘導していた。
すでに反対側から来た荷車が一台停まっている。
ルシルも十分手前で馬車を止めた。
「ここで待とう」
「ええ。そのほうがいいでしょう」
急いで通り抜ける理由はない。
トルクとベルクも羊を見ているようだったが、大きく騒ぐことはなく、ルシルは二頭が落ち着いていることを確かめながら手綱を保った。
羊たちは思ったよりのんびりしていた。
前の羊について素直に渡るものもいれば、途中で道端の草へ鼻を伸ばそうとして若い男性に戻されるものもいる。一頭が立ち止まれば後ろの二頭まで詰まり、年配の男性が慣れた声で追い立てていた。
「かわいい」
モモが小さく笑う。
「見てるぶんにはな」
「ルシル君、前に羊の群れと一緒になったときより余裕あるね」
「今回は二十頭くらいだろ。あのときとは全然違う」
以前、街道で大きな羊の移動に出会った経験があるからこそ、目の前の規模が小さいことも分かる。
やがて最後の一頭が街道を渡り終えると、若い男性がこちらへ向かって深く頭を下げた。
「待たせました!」
「大丈夫です!」
ルシルが返す。
年配の男性も手を上げ、二方向で待っていた馬車へ通行の合図を送った。
先に反対側の荷車が動き、そのあとでルシルたちもゆっくり進み始める。
通り過ぎる際、左側の草地へ移った羊たちがまとまって歩いているのが見えた。モモは窓から眺めていたものの、帳面を取り出すことはなかった。
すべてを記録しなければならないわけではない。
ただ見て、少し笑って、そのまま通り過ぎる出来事があってもよかった。
羊のいた場所からさらに進むと、道は再び上りへ変わった。
丘はこれまでより少し長かったため、ルシルは途中でトルクとベルクの歩調を落とした。急がせずに頂上まで上り切ると、その先には低い木々に囲まれた小さな建物と広場が見える。
街道脇の標識には、『南西道公設休憩所』と記されていた。
「着いたね」
モモが言う。
「ああ。予定より少し早いかな」
ルシルは馬車を休憩所へ向けた。
建物は壁の一部だけを備えた大きな屋根付きの休憩舎で、その横には井戸と馬桶、馬車を停めるための平地がある。管理人らしい人影は見えず、利用者が自由に使う形式のようだった。
すでに二台の馬車が休んでいたため、ルシルは十分に間隔を空けた場所へ馬車を停めた。
トルクとベルクを休ませるため、三人もここで昼まで長めの休憩を取ることにした。
シモンが地図を広げ、現在地から先を確認する。
「ここまでは順調ですね。この先の小農村までは、今の進み方なら午後のうちに着けるでしょう」
「アゼルは?」
ルシルが尋ねると、シモンは首を横へ振った。
「今日中に着ける可能性だけならあります。しかし、着くことを優先して二頭へ負担を掛ける必要はありません。農村で野営できるなら、今日はそこまでで十分です」
「俺もそれでいい」
モモも地図を覗き込み、アゼルの印を見つめる。
「じゃあ今日は、次の村までだね」
「現時点では、その予定にしましょう」
まだ昼前だった。
アゼルは、地図の上では確実に近づいている。
その先には、丘を越えれば海岸線を見渡せると聞いた高台がある。
けれど三人はその距離を無理に一日へ縮めようとはしなかった。
ルシルは休憩舎の外へ目を向けた。
風に揺れる草地の向こうへ、南西道が続いている。麦穂原で見た穀物畑はもう背後に隠れ、前方にはこれまでより少し起伏の大きな丘が重なっていた。
海はまだ、その向こうにある。
今はまず、昼までトルクとベルクをしっかり休ませる。
次に進む道を考えるのは、それからでよかった。




