第77話 白樹の分かれで、南西へ
白石棚の休み場に朝日が届き始めた頃、夜のあいだ白く霞んで見えていた岩棚は、淡い橙色の光を受けて輪郭を取り戻していた。昨夜まで三台あったほかの旅馬車のうち一台はすでに出発したらしく、街道の彼方から小さく車輪の音だけが聞こえている。
ルシルは焚き火跡の灰を片づけながら、白い息をわずかに吐いた。昼間は過ごしやすい気候でも、日が昇り切る前の空気には冷たさが残っており、草の先には夜露が細かな粒となって光っている。
「昨夜より風が弱いな」
空を見上げても、雲は高いところに薄く伸びている程度だった。海辺では午後に風が強まる場合があると聞いていたものの、今いる場所はまだ沿岸から離れているため、木々の枝もほとんど揺れていない。
「少なくとも、ここを出るぶんには問題なさそうですね」
馬車のそばからシモンが答えた。
すでにトルクとベルクの様子を確認していたらしく、二頭の脚元には異常がない。昨日一日走った疲れも十分に抜けているようで、トルクは朝の飼葉をよく食べ、ベルクも兄馬の隣で落ち着いていた。
モモは少し離れたところで水袋を満たしている。白石棚の井戸は今朝も問題なく使えたため、飲み水だけでなく調理に使った分まで補充できた。
「こっちも終わったよ。水袋、全部確認した」
戻ってきたモモが荷物を置きながら言うと、シモンが一つずつ口の締まりを確認した。
「ありがとうございます。今日は白樹の分かれまでを目安にしますが、そこへ着いた時間によっては少し先まで進む可能性があります」
「青波方面へ曲がるところだよね?」
「はい。ただし、分岐を越えた先はラグナ港街道より休憩場所が少なくなります。中途半端な時間なら白樹周辺で泊まったほうがいいでしょう」
ルシルは灰を片づけ終えると、手についた汚れを払って二人のところへ戻った。
「じゃあ、まずは白樹まで。着いてから決める」
「それがいいでしょう」
昨夜から予定そのものは変わっていない。
それでも、朝になれば天候を見て、馬を見て、水を確認してから改めて進む距離を決める。そんな手順が、三人の間ではもう特別な相談ではなくなっていた。
簡単な朝食を済ませたあと、三人は馬車を出す準備に取りかかった。
昨日の走行で馬車に異常はなく、車輪や連結部にも目立った変化はない。荷物を固定し直し、トルクとベルクへ馬具を着けると、朝の白石棚に二頭の蹄音と金具の小さな音が響き始めた。
今日はモモが最初に御者台へ座ることになった。
「白樹まで全部やらなくていいからね」
ルシルが車内へ入る前に言うと、モモは手綱を持ったまま振り返った。
「分かってるよ。疲れる前に交代します」
「ならいいけど」
「ルシル君こそ、昨日は結構長く乗ってたでしょ」
「昨日は昨日。今日はもう休んだ」
二人のやり取りを聞きながら、シモンは御者台の隣へ腰を下ろした。モモが単独で判断しにくい場所だけ補助するつもりらしく、手綱へ手を伸ばすことはせず、前方の街道と周囲の馬車を確認している。
「では、行きましょう。後ろから来る馬車はありません」
「うん。トルク、ベルク、お願いね」
モモが静かに合図すると、二頭は揃って歩き始めた。
白石棚の白い岩肌が少しずつ後ろへ遠ざかり、馬車は白樹の分かれへ向かう街道へ戻った。
◇
朝の道は、昨日の午後よりも起伏が穏やかだった。
低い丘の間を抜けた先には畑と草地が交互に現れ、遠くにはまとまった林も見える。セレナスから一日以上離れたことで荷馬車の数はさらに減ったものの、街道そのものは十分な幅があり、二台の馬車が余裕を持ってすれ違える場所が多かった。
モモは前方を見ながら、トルクとベルクの歩調に合わせて手綱を扱っている。
最初に御者台へ座った頃は、少し道が曲がるだけでも身体ごとそちらへ傾きそうになっていた。しかし今は車輪がどこを通るのかを考えながら、緩い曲線なら早めに進路を整えられるようになっている。
シモンは隣に座りつつ、必要以上に指示を出さなかった。
「この先、左側の路面が少し荒れています」
声を掛けるのも、モモ自身から見えにくい場所があるときだけだった。
「見えた。少し右へ寄せるね」
「後方は空いています。そのままで大丈夫です」
モモは急に手綱を引かず、ゆっくりと進路を変えた。左の車輪が深い轍へ落ちない位置を通過すると、馬車の揺れは小さなものだけで済んだ。
車内のルシルは、開いた窓からその様子を眺めていた。
昨日は自分が御者台にいる時間が長かったため、こうして後ろからモモの運転を見るのは久しぶりに感じる。本人へ言えば「私だってちゃんと練習してます」と返されそうだが、以前よりずっと落ち着いているのは明らかだった。
(モモも慣れたんだな)
そう思ったものの、わざわざ声には出さなかった。
しばらく進んだところで、道の左側に細長い畑が現れた。
畑には人の背丈より少し低い木枠が何列も並び、その間へ薄茶色の束が掛けられている。洗濯物にしては大きく、薪にしては細い。近くには数人の農民がいて、荷車から新しい束を降ろしていた。
「なんだろう、あれ」
御者台からモモが横を見る。
「前を見てくださいね」
「見てるよ。横目で見ただけ」
シモンも木枠へ視線を向けた。
「穀物か繊維作物の乾燥でしょうか。私もこの地域の農作業には詳しくありません」
ルシルも窓から眺めたが、束の正体までは分からなかった。
少し先には小さな立て札があり、『乾燥場につき火気注意』と書かれている。
「乾かしてるのは合ってるんだ」
「それ以上は分かりませんね」
「帰りにまだ覚えてたら聞いてみたいな」
モモが言う。
「帰り道が同じとは限りませんよ」
シモンに指摘され、モモは「あ」と声を漏らした。
青波沿岸道から北西へ進めばラグナ港方面へ抜けることもできるため、同じ街道をそのまま引き返すとは決まっていない。
「じゃあ、気になるなら今聞く?」
ルシルが車内から尋ねた。
モモは少し迷ったが、やがて首を横へ振った。
「ううん。作業中みたいだし、今日はそのまま行こう」
「了解」
知らないものを見つけたからといって、すべて立ち止まって確かめる必要はない。
馬車は乾燥場の横を通り過ぎ、その用途不明の束は少しずつ後方へ消えていった。
◇
午前の半ばを過ぎた頃、街道沿いに低い石柱が現れた。
セレナス周辺で見た距離標とは形が異なり、上部に白い木を簡略化した印が刻まれている。その下には二方向を示す矢印があるものの、ここではまだ街道自体は分かれていなかった。
「白樹の印かな?」
モモが速度を落とさず尋ねる。
シモンは標識を確認し、地図と照らし合わせた。
「おそらく分岐が近いことを示す予告標ですね。ここからまだ少し距離があります」
「白い木が本当にあるの?」
「名称の由来までは聞いていませんでしたね」
「着いたら分かるかも」
その後、モモはさらにしばらく御者を続けたが、次の休憩場所でルシルと交代した。
小さな水場のある路肩でトルクとベルクを休ませ、三人も硬いパンと干物を少し食べる。セレナスで買った小型の干物は塩気が強く、パンと一緒ならちょうどよかった。
「この魚、海から来たんだよね」
モモが干物を小さくちぎりながら言う。
「店ではラグナ周辺の魚もあったけど、これの産地は聞かなかったな」
「じゃあ海のどこか」
「広すぎませんか、その分類」
シモンが苦笑する。
「だって海の魚なのは合ってるでしょ?」
「それはそうですが」
モモは満足そうに一口食べたあと、水を飲んだ。
休憩を終える頃には日も高くなり、朝の冷たさはほとんど消えていた。空には薄い雲があるものの雨の気配はなく、街道を歩くにはちょうどよい気温だった。
今度はルシルが御者台へ座り、シモンは車内へ移る。
白樹の分かれが近づくにつれ、再び馬車の数が増え始めた。
前方を走る荷馬車の荷台には木箱が積まれ、そのさらに先には布を張った大型車が見える。反対側からも何台か来ており、積荷には樽や木材が多かった。
「分岐が近いから合流してるのかな」
ルシルが言うと、隣に座ったモモが前方を眺める。
「港のほうから来た馬車もいるのかな?」
「いると思うけど、見ただけじゃ分からないな」
「昨日それ学んだね」
二人が話していると、車内からシモンの声が届いた。
「積荷だけで出発地を判断しないほうがいいでしょう。途中で積み替えている可能性もありますから」
「はいはい」
「返事が軽いですよ、ルシル様」
「ちゃんと聞いてるって」
そんなやり取りをしているうちに、街道の先で景色が開けた。
左右の畑が途切れ、広い草地の中央に一本の大木が立っている。
幹は太く、三人が腕を広げても囲めそうにない。枝は低いところから大きく分かれ、葉は淡い緑色だったが、幹の表面だけが遠目にも分かるほど白っぽい。
その大木の手前で、街道が二方向へ分かれていた。
「……あれか」
ルシルは思わず声を漏らした。
大木の根元には石造りの道標があり、周囲には荷馬車を停められる広場が設けられている。小さな売店と井戸も見え、十台近い馬車が休憩していた。
道標へ近づくにつれ、刻まれた文字が読めるようになる。
『西 ラグナ港街道』
『南西 アゼル・青波沿岸道』
そして、その下に大きく『白樹の分かれ』と記されていた。
「本当に白い木があるんだ」
モモが大木を見上げる。
「名前、そのままだったな」
「分かりやすくていいじゃないですか」
シモンも車内から外を確認し、休憩広場の空いている場所を指示した。
「一度停まりましょう。時間も確認したいですし、ここから先の情報も取れるなら取っておきたいです」
「了解」
ルシルはトルクとベルクを広場へ向けた。
◇
白樹の分かれは、町や村ではなかった。
街道が二方向へ分かれる場所を中心に、旅人向けの設備が集まっているだけの中継地点だった。大きな白樹を囲むように井戸、馬用の水桶、屋根付きの休憩所、小さな売店が並び、その外側に馬車を停めるための空間が広がっている。
西側には大型荷馬車が多く、南西側には旅馬車や小型の荷車が目立つ。
ルシルは馬車を停めたあと、まずトルクとベルクを休ませた。午前中かなり進んできたが、二頭とも呼吸は安定している。
「今、昼を少し過ぎたくらいですね」
シモンが空と携帯時計を確認する。
「ここから先へ進むこと自体はできますが、アゼルまでは今日中には着きません」
「それは最初から分かってる。泊まれる場所は?」
ルシルが尋ねると、シモンは詳細地図を広げた。
「南西側へ入ってしばらく進んだところに、小さな農村が一つあります。ただし宿があるとは書かれていません。その先の公設休憩所までは、今からだと少し遅くなる可能性がありますね」
「じゃあ白樹で泊まる?」
モモが大木の周囲を見回す。
野営する空間は十分にありそうだ。
ただ、まだ昼を少し過ぎたところである。トルクとベルクにも余力があり、ここで一日を終えるには早い。
「売店で聞いてみよう」
ルシルの提案に二人も頷いた。
三人が向かった売店は、木造の小さな建物だった。
窓口には水、硬いパン、干し肉、馬用の飼料、簡単な旅道具が並んでいる。店番をしていたのは日に焼けた五十代ほどの男性で、三人が南西側の道について尋ねると、すぐに事情を理解した。
「アゼル方面か。馬車なら、この時間からでも『麦穂原』までは行けるぞ」
「麦穂原?」
「ここから南西へ行った最初の村だ。宿屋はないが、村の外れに旅人用の野営地がある。井戸と馬桶は使える」
シモンが地図を見る。
地図には小さな集落の印だけがあり、村名までは記載されていなかった。
「現在の道路状態は分かりますか?」
「今朝、麦穂原から野菜を運んできた荷車が通ってる。ぬかるみが残ってるところはあるが、旅馬車なら問題ないそうだ。雨が降らなきゃな」
男は空を見上げた。
「今日は降らんと思うけど、俺は天気読みじゃないから保証はしないぞ」
「十分です。ありがとうございます」
「村までどのくらい?」
ルシルが尋ねる。
「今からなら夕方前だな。急ぐ必要はない。南西道へ入ったら最初の丘を越えて、その先の畑が見え始めれば近い」
モモが南西へ伸びる道を見る。
ラグナ港街道より少し狭い。
それでも旅馬車が通るには十分な幅があり、ちょうど一台の小型荷車がそちらから白樹へ入ってきたところだった。
「行けそうだね」
「ええ。ただし、ここでしっかり休憩してからにしましょう」
シモンが言う。
三人は白樹で昼休憩を取ることにした。
トルクとベルクへ水を飲ませ、補助飼料を少量与える。三人も休憩所の日陰へ入り、朝の残りのパンや豆を食べた。
白樹の大木が作る影は広く、何人もの旅人がその下で休んでいた。
西へ向かう商人。
南西へ向かう家族連れ。
徒歩の冒険者らしい四人組。
行き先は違っても、ここまでは同じ道を通ってきた者たちだ。
ルシルはパンを食べ終えると、改めて二本の道を眺めた。
右寄りに伸びる西の道は広く、車輪の跡も多い。
左寄りの南西道は少し細く、先へ行くにつれて緩やかな丘へ隠れている。
「こっちなんだな」
ルシルが南西道を見ながら言う。
「はい」
モモも隣で同じ方向を見た。
昨日、セレナスの地図の上で選んだ線が、今は目の前にある。
「まだ変更できますよ」
シモンが言うと、二人が同時に振り返った。
「変更したい?」
ルシルが尋ねる。
「いえ。確認しただけです」
「私はこっちがいい」
モモは迷わず南西道を指した。
「丘を越えて海が見えるところ、行ってみたい」
「俺も」
二人の答えを聞き、シモンは小さく頷いた。
「では決まりですね。麦穂原を今日の宿泊候補にして、南西道へ入りましょう」
その言葉を聞いたとき、モモの表情が少しだけ明るくなった。
大げさに喜ぶわけではない。
ただ、膝の上に置いていた帳面を開き、今日の日付の下へ一行だけ書き加えた。
『白樹の分かれ。南西、アゼル・青波沿岸道へ。』
昨日書いた「第一候補」は、ここで実際に進む道になった。
◇
十分に休憩したあと、三人は再び馬車へ乗り込んだ。
午後はシモンが御者を担当する。
白樹の大木を左手に見ながら広場を出て、南西側の街道へ馬車を向ける。道標の『アゼル・青波沿岸道』という文字が横を過ぎ、やがて後方へ遠ざかっていった。
道へ入ってすぐ、ルシルは違いに気づいた。
「静かになったな」
ラグナ港方面へ向かう大型荷馬車の多くが西へ進んだため、南西道へ入った途端に車輪の音が減った。前方には小型の荷車が一台見えるだけで、後ろから追ってくる馬車もない。
「道も少し細いね」
モモが窓の外を見る。
「受付で聞いたとおりですね。大型荷馬車の利用が少ないぶん、広く整備する必要がないのでしょう」
シモンは道の中央を避け、車輪跡の安定している場所を選びながら進む。
しばらくすると街道は緩やかな丘へ差しかかった。
上り坂ではトルクとベルクの速度が落ちるが、シモンは急かさない。二頭が自分たちの歩調で坂を上り切るまで待ち、頂上へ出たところで一度速度を整えた。
モモとルシルは、ほとんど同時に窓の外へ顔を向けた。
丘の向こうには、さらにいくつもの低い丘が続いている。
その先には畑と林が広がり、海らしきものはどこにも見えなかった。
「……見てる」
ルシルが先に言う。
「ルシル君も見てるじゃん」
「俺は景色を見ただけ」
「私も景色を見ただけです」
「昨日から同じことしてるな、俺たち」
二人が笑うと、御者台のシモンから声が飛んできた。
「ですから、まだ見えませんよ」
「分かってるって!」
二人の返事が重なり、今度はシモンの肩がわずかに揺れた。
南西道へ入って一刻ほど進むと、売店の男が言っていた軟らかい区間が現れた。
日陰になる斜面の下だけ地面の色が濃く、車輪跡には湿った土が残っている。深い泥ではないものの、片側だけ轍へ入れば車体が傾きそうだった。
シモンは手前で馬車を止めた。
「少し見てきます」
ルシルと一緒に降り、徒歩で路面を確認する。
表面は柔らかいが、靴が深く沈むほどではない。中央寄りには先行した荷車の跡があり、その部分は比較的締まっていた。
「ここなら行けそう?」
「ええ。ただ、速度は落とします。右側へ寄りすぎると轍が深いので、中央より少し左を使いましょう」
「分かった。俺、後ろ見るよ」
ルシルは馬車の後方へ回り、車輪が深い轍へ入りそうなら声を掛けることにした。
モモも車内に残らず降りてくる。
「私は?」
「横から車体の傾きを見てもらえますか。危険を感じたらすぐ声を掛けてください」
「分かった」
三人はそれぞれの位置へ分かれた。
シモンがトルクとベルクをゆっくり進ませると、前輪が湿った土へ入る。車輪は少し沈んだものの止まることはなく、二頭も足元を確かめながら落ち着いて歩いていた。
「左後ろ、大丈夫!」
ルシルが声を掛ける。
「こっちも傾いてないよ!」
モモも反対側から確認する。
シモンは二人の声を聞きながら進路を細かく調整し、馬車を一定の速度で進ませた。
湿った区間は長くなかった。
四輪すべてが乾いた地面へ戻ったところで馬車を止め、ルシルとモモが乗り込む。
「問題なし」
ルシルが後輪を確認してから御者台へ戻る。
「泥は付いたけど、それだけだな」
「この程度なら休憩時に落とせます」
シモンも馬の脚元を確認し、異常がないことを見てから再出発した。
派手な出来事ではない。
魔法を使う必要もなく、誰かが驚くほどの力を見せることもなかった。それでも、三人で路面を見て、役割を分け、馬車を無事に通すという作業は、今の彼らにとって旅そのものだった。
◇
午後の光が少し柔らかくなり始めた頃、丘の向こうに広い畑が見えた。
黄金色にはまだ早い、淡い緑と黄緑が混ざった穀物畑が、街道の両側へ大きく広がっている。風が通るたびに穂先が一斉に揺れ、地面の上を波のような濃淡が走っていった。
「綺麗……」
モモが窓辺へ寄る。
海ではない。
それでも風に揺れる広い畑は、見慣れた王都周辺の農地とも、これまで通ってきた草原とも違っていた。
「麦穂原って、この景色からかな」
ルシルが言う。
「可能性は高そうですね」
シモンの声が御者台から返ってくる。
さらに進むと、畑の間に家々が見え始めた。
石と木を組み合わせた小さな家が十数軒ほどまとまり、その周囲には納屋や穀物を乾かすためらしい木枠が並んでいる。朝に見た乾燥場と似た設備もあったが、こちらには別の形の束が掛けられていた。
村の入口には簡素な木札が立っている。
『麦穂原』
「着いた」
ルシルが言うと、モモが帳面へ目を落とした。
「今日、ちゃんと南西道に入ったんだね」
「うん」
白樹で道を曲がってから、それほど長い時間が経ったわけではない。
けれど、ラグナ港へ向かう大きな荷馬車の流れから離れたことで、周囲の空気は確かに変わっていた。
村の中へ入る前に、シモンは馬車を止めた。
入口近くには『旅人野営地→』と書かれた小さな案内板がある。
「宿はないと聞いていますし、まず野営地を確認しましょう」
「村のお店とかは、そのあと?」
ルシルが尋ねる。
「必要なものがあれば。ただ、補給はセレナスで済んでいますから、無理に買う必要はありません」
「見るだけなら?」
「村の方の邪魔にならない範囲なら構いませんよ」
「やった」
モモが笑う。
「ルシル君、今ちょっと市場を見つけたときみたいな顔した」
「村を見たいだけだよ」
「はいはい」
馬車は案内板に従って村の外周へ回った。
野営地は穀物畑から少し離れた平らな草地にあり、井戸と馬桶、簡素な屋根付きの休憩所が設けられている。すでに小型の旅馬車が一台停まっていたが、場所には十分な余裕があった。
三人は馬車を停め、トルクとベルクを休ませる。
白石棚からここまで一日を通して進んだものの、二頭に異常はない。湿った路面を通った際についた泥だけを脚元から落とし、水を与えると、二頭とも落ち着いた様子で休み始めた。
シモンが馬車の車輪も確認している間、ルシルは野営地の端から畑を眺めた。
風が吹くたび、穂の波が遠くまで走っていく。
海を見たことのないルシルには、それが海に似ているのかどうかは分からない。
隣へ来たモモも、しばらく黙って同じ景色を見ていた。
「海も、こんなふうに動くのかな」
やがてモモが呟く。
「分からない」
「だよね」
「でも、もっと広いんだろ?」
「向こう岸が見えないくらい」
昨日セレナスで聞いた言葉を思い出し、二人は畑の向こうへ目を向ける。
麦穂原の畑にも終わりはある。遠くには丘と林があり、その先へ土地が続いている。
海は、その先が見えないという。
どんな景色なのか、やはり想像だけでは分からなかった。
「お二人とも」
背後からシモンに呼ばれ、二人は振り返った。
「馬車も問題ありません。まだ明るいので、村を少し見て回るなら今のうちですよ」
「行く!」
ルシルが即答すると、モモも笑って頷いた。
シモンはそんな二人を見ながら、眼鏡の位置を直した。
「ただし、夕食の準備を始める時間までには戻ります」
「分かってる」
「はい」
三人は野営地を離れ、夕方の麦穂原へ歩き出した。
背後ではトルクとベルクが静かに休み、その横には旅を始めてから多くの街道を走ってきた馬車が停まっている。
白樹の分かれは、すでに後ろにある。
三人が選んだ南西の道は、ここからアゼルへ続いていた。




