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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第76話 海へ向かう道を、走り始めます


 セレナスの朝は、窓の外を行き交う荷馬車の音から始まった。


 まだ空には淡い青色が残り、東から差し込む朝日は町の屋根を斜めに照らしている。『渡り鳥の軒』の前を通る街道からは、車輪が石畳を踏む低い音に混じって馬の蹄音や御者たちの声が聞こえ、ときおり荷物を積み込むらしい木箱同士のぶつかる音まで二階の客室へ届いてきた。


 ルシルは寝台の上で身体を起こすと、しばらく窓の向こうを眺めた。


(今日から、また移動だ)


 昨日までとは違い、これから進む道には明確な方向がある。白樹の分かれまでは西南街道を進み、そこで南西側へ折れてアゼルを目指し、その先には青波沿岸道がある。


 もちろん、予定どおり進めるかどうかは分からない。街道の状態も天候も変わるし、トルクとベルクの様子によっては途中で休むことになるだろう。それでも地図の上でしか知らなかった海へ続く道が、昨日よりもはっきり自分たちの足元まで伸びているように感じられた。


「まずは街道会館だな」


 独り言のように呟いてから身支度を整え、黒い外套を羽織って部屋を出る。


 階下へ降りる途中で隣の扉が開き、旅装を整えたモモが姿を見せた。腰まで届く桃金色の髪はすでに整えられており、白い外套の肩には朝の窓から差し込んだ光が柔らかく落ちている。


「おはよう、ルシル君。早いね」


「おはよう。モモも早いだろ」


「今日は出発するかもしれないからね。ちゃんと起きました」


 胸を張るモモの言い方が妙に得意げだったため、ルシルが笑いながら階段を降り始めると、その後ろからもう一つ扉の閉まる音がした。


「お二人とも、おはようございます」


 振り返れば、眼鏡を掛けたシモンが紺色の外套を整えながら歩いてくる。その手には昨日購入した沿岸方面の地図があり、朝からすでに確認していたらしく、折り目の位置が白樹の分かれまでの区間に合わせられていた。


「シモン君、もしかして起きてからずっと地図を見てた?」


「ずっとではありませんよ、モモ嬢。昨夜確認した内容と、今日確認する必要がある内容を分けていただけです」


「それを朝から地図を見てたって言うんじゃないかな」


「確認は必要ですので」


 真面目な顔で返すシモンを見て、モモは小さく笑った。ルシルもそのやり取りを聞きながら階下へ向かい、三人は宿の食堂で簡単な朝食を取ることにした。


 焼いたパンと卵、それに温かな豆のスープという素朴な食事だったが、出発前の腹を満たすには十分だった。昨日のうちに必要な補給は済ませてあるため、朝から市場を回る必要もなく、三人は食事を終えるとそのまま宿の中庭へ向かった。


 朝の冷気がまだ残る中庭では、トルクとベルクがそれぞれの場所で干し草を食べていた。栗毛のトルクはルシルたちの姿に気づくと耳をこちらへ向けたが、食事を途中でやめるほどではなかったらしく、すぐに鼻先を干し草へ戻している。一方のベルクは少し離れた場所からこちらを確認したあと、隣にいる兄馬が落ち着いていることを確かめたように静かに尾を揺らした。


 昨日の午後にも確認しているため、今朝は長々と検査するようなことはしない。それでもシモンは二頭の脚と蹄鉄を簡単に見て回り、ルシルも馬体に不自然な傷や腫れがないことを確かめた。


「問題ありません。食欲もありますし、脚にも異常はなさそうですね」


「じゃあ、あとは道か」


「はい。街道会館の掲示が昨日と変わっていなければ、予定どおり出られるでしょう」


 シモンがベルクの首筋を軽く撫でると、ベルクは拒む様子もなくその手を受け入れている。その光景を眺めていたモモはトルクのそばへ寄ったものの、今日は食べ物を取り出すことなく、額の辺りをゆっくり撫でてから笑った。


「今日は長く走るかもしれないから、よろしくね」


 言葉が理解できているかどうかは分からないが、トルクは一度だけ鼻を鳴らした。


 三人は馬たちを宿へ預けたまま、街道会館へ向かった。


 朝のセレナスは昨日よりも慌ただしく見えた。中央市場へ商品を運び込む小型荷車が脇道から次々と現れ、西南街道へ向かう旅人や商人もすでに町の出口を目指している。道端では宿の使用人が水を撒いて埃を抑え、パン屋から流れてくる焼きたての香りに混じって、馬具店から革と油の匂いが漂っていた。


 ルシルは人の流れを避けながら歩き、昨日訪れた街道会館へ入った。


 建物の中もすでに多くの旅人で賑わっていたが、入口脇に設けられた道路情報の掲示板はすぐに確認できた。シモンが人の間から掲示へ目を走らせ、ルシルとモモもその左右から内容を読む。


 西南街道、白樹方面――通行可。


 白樹南西、アゼル方面――通行可。一部軟路あり。


 青波高台道――通行可。午後、海風強まる場合あり。


 昨日確認した内容から、大きな変更はなかった。


「よかった」


 モモがほっとしたように息を吐いたものの、シモンは掲示だけで判断せず、近くにいた会館の係員へ声を掛けた。昨日とは別の中年男性だったが、シモンが白樹方面へ向かう旅馬車だと伝えると、男は朝に届いたばかりの情報を確認してくれた。


「夜のうちに雨は降ってない。白樹までの本街道は問題なしだ。昨日言われてた南西側の軟らかいところも、荷馬車が通れないほどじゃないらしい。ただし青波側へ行くなら、午後の風は気をつけたほうがいい」


「高台へ入る辺りでしょうか」


「そうだな。今日は南から風が上がる予報になってる。午前中なら大したことはないだろうが、昼を過ぎてから強くなる可能性がある。ただ、あんたたちが今日セレナスを出るなら、青波まで行くような距離じゃないだろ?」


「はい。今日は白樹より手前までを考えています」


「それなら今のところ関係ないな。白石棚を使うなら、水も今朝補充されたって連絡が来てる」


 その情報にシモンが礼を言い、三人は掲示板から少し離れた。


「白石棚も使えそうですね」


「じゃあ、予定どおり?」


 モモが尋ねると、シモンは地図を開いて現在地から白石棚までの道筋を指で追った。


「予定どおりで構わないと思います。ただし、白石棚へ着くこと自体を今日の目的にはしません。馬の状態と道の混み方を見て、手前で泊まるほうがいいと判断した場合は変更します」


「うん。それでいい」


 ルシルは迷わず頷いた。


 以前なら、地図に目的地を書き込んだ瞬間、それを達成しなければならないような気分になっていたかもしれない。しかし今では、目的地と予定は別のものだと自然に考えられる。無理をして一日で進む距離を増やしたところで、馬や馬車を傷めれば結局は先へ進めなくなるのだから、判断の基準はずいぶん分かりやすかった。


(まずは、今日の道を走ればいいんだ)


 海はまだ遠い。けれど、それを焦る理由にはならなかった。


 街道会館を出た三人は『渡り鳥の軒』へ戻り、いよいよ出発の準備へ取りかかった。


 馬車は昨日の点検を終えているため、今朝必要なのは荷物の固定と馬を繋ぐ作業が中心だった。モモが車内へ入り、棚の本や調理器具が動かないことをもう一度確かめる一方、ルシルとシモンはトルクとベルクに馬具を着けていく。


 ルーヴェルの『鉄樫車房』でドラン・エッケルから教わって以降、ルシルは連結部を見るときに以前より注意深くなっていた。ただ「繋がっている」ことを確認するだけではなく、留め具の位置や革の捻れ、左右で力の掛かり方が不自然になっていないかまで見る。


 シモンがすべてを確認してくれると分かっていても、自分でも分かる部分は確認したかった。


「ここ、これでいいよな?」


 ルシルが前側の連結部を示すと、反対側を確認していたシモンが近づいてくる。金具へ指を添え、革紐の張りを確かめたあと、満足そうに頷いた。


「問題ありません。締めすぎても革を傷めますから、今くらいで十分です」


「前だったら、とりあえず強く締めればいいと思ってた」


「旅を始めた頃のルシル様なら、そうだったかもしれませんね」


 シモンの口元にわずかな笑みが浮かんだため、ルシルは苦笑した。


「否定できないのが嫌だな」


「でも、今はちゃんと分かってるんだからいいんじゃない?」


 いつの間にか車内の確認を終えたモモが、開いた扉から顔を出している。彼女はそのまま外へ降りると、荷台の後部を軽く押して固定具が動かないことを確かめた。


「こっちも大丈夫。昨日詰め直したところも動いてないよ」


「ありがとうございます、モモ嬢。では出せそうですね」


「うん。シモン君、今日は最初に誰が御者やるの?」


 その問いにシモンは街道の方向を見た。セレナスを出た直後は荷馬車の往来が多く、町を離れてしばらくすれば道幅にも余裕が出ると聞いている。


「町を出るまでは私がやりましょう。混雑を抜けたところで、ルシル様に交代するのがよいかと」


「分かった」


 役割が決まれば、あとは出るだけだった。


 三人は宿の主人へ滞在中の礼を伝え、馬車を中庭から表へ出した。朝日に照らされた濃い焼き茶色の車体には、これまで通ってきた土地の埃がわずかに残っている。きれいな新品だった頃とは違うが、ルシルにはむしろ今の姿のほうが自分たちの馬車らしく見えた。


 御者台にはシモンが座り、ルシルとモモは車内へ入る。


 やがてトルクとベルクが歩き始めると、車輪がゆっくり回転し、『渡り鳥の軒』の軒先が後ろへ遠ざかっていった。


 セレナスの町を抜けるまでには思った以上に時間が掛かった。西南街道へ向かう荷馬車が多く、交差する道では係員が順番を整理している。シモンは前の馬車との間隔を十分に取りながら進み、ときには横道から出てくる荷車へ先を譲った。


 ルシルは御者台のすぐ後ろから外を眺めていたが、町の中心から離れるにつれて建物の間隔が広がり、やがて左右には倉庫や小さな作業場が増えていった。その先で石造りの境界標を越えると、視界を遮っていた建物が一気に少なくなる。


 街道は緩やかな起伏のある平地を南西へ延びていた。


 左右には低い草原と畑が広がり、ところどころに細長い防風林が見える。セレナス周辺は物流の中心地らしく、町を出ても荷馬車の姿は途切れず、前方にも後方にも幌付きの馬車が数台ずつ見えていた。


 しばらく進んだところで、シモンが街道脇の広い待避場所へ馬車を寄せた。


「ここからなら道幅もありますし、交代してみましょうか」


「よし」


 ルシルは御者台へ移り、シモンから手綱を受け取った。


 何度も馬車を操ってきたとはいえ、道が変われば注意する場所も変わる。ルシルはトルクとベルクの耳の向きや歩調を確かめ、後方から近づく馬車がないことをシモンにも見てもらってから、ゆっくり街道へ戻った。


 最初のうちは荷馬車の流れに合わせることへ意識を割いた。速く進む小型馬車が後ろから来れば道の端へ寄せ、反対に前方の荷馬車が遅ければ十分な距離を保つ。以前なら周囲の馬車が気になって手綱を握る手に余計な力が入っていたが、今ではトルクとベルクの歩調を乱さないことを優先できる。


「前から二台来ます。二台目が少し中央寄りですね」


 横に座ったシモンが静かに告げる。


「見えてる。こっちはこのまま端を取る」


 ルシルは急に進路を変えず、少しずつ左側へ寄せた。向こうから来た一台目の荷馬車は余裕を持ってすれ違い、二台目もこちらに気づいて進路を戻したため、互いの車輪が近づきすぎることなく通過していく。


 車内から外を見ていたモモは、すれ違った荷馬車を振り返ってから御者台へ顔を向けた。


「ルシル君、今のすごく自然だったね」


「そう?」


「うん。前みたいに『来た! どうする!?』って顔してなかった」


「そんな顔してたのか、俺」


「してましたね」


 シモンまで即座に同意したため、ルシルは思わず横を向いた。


「二人とも覚えてるのかよ」


「ルシル様が初めて本格的に御者台へ座った頃は、向こうから馬車が来るだけで肩が上がっていましたから」


「それは……まあ、初めてだったし」


 反論しながらも、ルシル自身に否定するつもりはなかった。あの頃は手綱を持つこと自体が新しく、馬車の幅を意識するだけでも精一杯だったのだから、今こうして会話をしながら周囲を確認できていることが不思議なくらいだった。


 ただ、それを成長だと大げさに考えるよりも、何度も走ったから慣れただけだと思うほうが今のルシルにはしっくりきた。


 午前の街道は穏やかだった。


 セレナスから離れるにつれて荷馬車の密度も少しずつ下がり、畑の間を通る時間が長くなる。刈り取りを終えた畑では農民たちが残った茎を束ね、別の畑では背の低い緑の作物が規則正しく並んでいた。


 遠くには緩やかな丘が連なり、そのさらに先に薄く霞んだ土地が続いている。


「海は、あっちのもっと先なんだよね」


 モモが車窓の外を見ながら言った。


「方角としてはそうですね。ただ、ここから見える丘の向こうへ行けば海、というほど近くはありませんよ」


 シモンは地図を膝の上に広げることなく、昨日までに確認した内容を思い返すように答えた。


「今日は白樹より手前。そこから白樹の分かれまで行って、それからアゼルだろ?」


「はい。ですから、海を見るのはまだ先です」


「分かってるよ」


 ルシルが笑うと、モモも「私も分かってるよ」と少しだけ頬を膨らませた。


 それでも彼女の視線は、ときどき南西の空へ向かっている。


 シモンはその様子に気づいていたが、わざわざ指摘はしなかった。王都や神殿で長く過ごしてきた彼らにとって、地図の先にある場所を自分たちで選んで目指すことは、もう珍しい行為ではなくなっている。それでも今回は、モモが旅を始めた頃から口にしていた海へ具体的に近づいているのだから、普段とは違う期待があるのも当然だった。


 昼前になると、街道沿いに小さな休憩場所が見えてきた。


 井戸と馬を繋ぐ横木、それに屋根だけの簡素な東屋がある程度の場所だったが、すでに二台の荷馬車が休んでいる。ルシルたちも無理に通り過ぎず、空いている場所へ馬車を寄せて昼休憩を取ることにした。


 トルクとベルクを休ませ、水を飲ませている間に、三人も東屋の端へ座る。


 朝に宿でしっかり食べていたため、昼は硬いパンと保存肉、それに少量の豆という簡単なものにした。昨日セレナスで買い足した食料を早々に大量消費する必要もなく、ルシルはパンをちぎりながら、街道を行き交う馬車を眺めた。


「白石棚までは、あとどのくらい?」


 モモが水を一口飲んでから尋ねる。


「今の進み方なら、午後の早い時間に一度休憩を入れても、夕方より前には届く可能性が高いです。ただ、ここから少し起伏が増えるようなので、予定より遅くなることは考えておきましょう」


 シモンの説明を聞きながら、ルシルは道の先へ視線を向けた。確かにここまでの平坦な景色とは違い、遠くでは街道が低い丘の間へ入り込んでいる。


「午後は俺がもう少しやって、疲れたら交代するよ」


「それでよいでしょう。今日は距離を稼ぐ必要もありませんから」


 昼食を終え、馬にも十分な休憩を取らせたあと、三人は再び街道へ戻った。


 午後になると、予想どおり道には緩やかな上り下りが増えてきた。


 急な坂ではないものの、馬車の重さがあるぶん上りではトルクとベルクの歩調が少し落ちる。ルシルは無理に速度を保とうとせず、二頭の呼吸に合わせて進ませ、下りでは逆に馬車が押しすぎないよう慎重に制動を使った。


 ルーヴェルで馬車を整備したとき、ドランから教わったことも頭に残っている。異音や振動は、壊れてから気づくものではなく、普段の音を知っているからこそ変化が分かるのだと言われた。


 耳を澄ませれば、車輪が土を踏む音、金具が小さく鳴る音、車体が揺れたときの軋みが聞こえる。それらは昨日までと大きく変わらず、馬車は安定して街道を進んでいた。


「今のところ変な音はないな」


「ええ。整備した箇所も問題なさそうです」


 シモンも同じことを確認していたらしく、御者台の床から伝わる振動へ意識を向けながら答えた。


 そのとき、前方の道端に一台の荷馬車が停まっているのが見えた。


 故障かと思ってルシルが速度を落としたものの、近づくにつれて事情が違うことが分かった。荷馬車の横には中年の御者が立ち、道端の草地へ落ちた荷袋を拾い上げようとしている。荷台の後ろを固定していた縄が緩んだらしく、袋が一つ転げ落ちたようだった。


「手伝う?」


 モモが車内から尋ねる。


「止まれる場所はあるな」


 ルシルは後続車が十分離れていることを確認し、荷馬車の少し先にある広い路肩へ自分たちの馬車を寄せた。


 降りてみると、落ちていた袋は穀物らしく、破れてはいないものの一人で持ち上げるにはかなり重そうだった。御者は三人が近づいてきたことに驚いた顔をしたが、ルシルが手伝いを申し出ると、申し訳なさそうに頭を下げた。


「悪いな。結び直そうにも、こいつを一人で荷台へ戻すのが面倒でな」


「破れてないならよかったですね。どこに載せます?」


「後ろの左側だ。ほかの袋の間に入れたい」


 ルシルが袋の一端を持ち、シモンが反対側へ回る。二人にとって本気を出すほどの重さではなかったが、普通の旅人として不自然に見えないよう、掛け声に合わせて持ち上げて荷台へ戻した。


 モモはその間に落ちた縄を拾い、切れていないことを確認している。


「縄は大丈夫みたいですよ。結び目が緩んだのかな?」


「ああ、たぶんな。朝に積み直したとき、締め方が甘かったんだろう」


 御者は苦笑しながら縄を受け取ると、今度は念入りに荷物を固定した。シモンも横から確認し、余計な口出しにならない程度に、擦れやすい位置だけを指で示している。


「この角に直接当たると、走っているうちにまた緩むかもしれません」


「なるほど。じゃあ、こっちへ回したほうがいいか」


「そのほうが安定すると思います」


 荷物を固定し直した御者は、最後に何度か縄を引いてから満足そうに頷いた。


「助かったよ。白樹まで行くのか?」


「今日は白石棚までの予定です。その先は明日ですね」


 ルシルが答えると、男は「あそこなら悪くない」と言って街道の先を顎で示した。


「今朝、向こうから来た連中に聞いたが、白石棚は混んじゃいないらしい。水もある。ただ、この先の二つ目の丘を越えたところで道の右側が少し崩れてるから、対向車と重なると狭いぞ」


 街道会館では聞いていなかった細かな情報だった。


「通れないほどですか?」


 シモンが確認すると、御者は首を横へ振った。


「いや、普通に通れる。馬車一台なら余裕だ。ただ、向こうから大型が来たら手前で待ったほうがいいって程度だな。昼前に通ったやつの話だから、たぶん今も同じだろう」


「ありがとうございます」


 シモンは礼を言うと、携帯している紙へ場所の特徴だけを簡単に書き留めた。


 荷馬車の御者と別れ、自分たちの馬車へ戻る。


「こういうの、会館の掲示には出ないんだね」


 モモが御者台へ戻りながら言うと、シモンは頷いた。


「通行止めになるほどではありませんからね。こういう細かな変化は、実際に道を走っている人から聞くほうが早いこともあります」


「じゃあ、二つ目の丘の先では気をつけよう」


 ルシルは手綱を握り直し、馬車を街道へ戻した。


 教えてもらった場所へ着いたのは、それからしばらく進んだあとだった。


 二つ目の緩い丘を越えると、確かに道の右端が少し崩れている。雨水でも流れたのか、路肩の土が斜面側へ落ち、馬車が通れる幅が普段より狭くなっていた。


 幸い対向車は見えなかったため、ルシルは左側の車輪の位置を意識しながら速度を落とした。


「右後輪、まだ余裕あります」


 シモンが後方を確認する。


「分かった。このまま行く」


 トルクとベルクも急かされていないため、落ち着いた歩調を保っている。馬車は崩れた場所をゆっくり抜け、車輪が再び広い道へ戻ると、ルシルは肩から少しだけ力を抜いた。


「通れたー」


 後ろからモモの声が聞こえた。


「それくらいなら俺だって通れるよ」


「心配してたわけじゃないよ。ちゃんと抜けたから言っただけ」


「それならいいけど」


 笑いながら返し、ルシルは前を向く。


 午後の光は少しずつ傾き始めていた。


 街道の左右には背の低い木々が増え、畑の数は朝より少なくなっている。丘を越えるたびに見える景色が少しずつ変わり、遠くの空には薄い雲が長く伸びていた。


 その後も何台かの馬車とすれ違ったが、大きな問題は起こらなかった。


 午後の休憩ではシモンが御者を代わり、ルシルは車内へ戻って水を飲んだ。座席へ腰を下ろした途端、思っていたより肩と腕が疲れていることに気づき、窓枠へ背中を預ける。


「疲れた?」


 向かいに座っていたモモが尋ねた。


「少し。でも、前みたいに頭まで疲れてる感じじゃないな。腕と肩を使ったって感じ」


「それなら休めば戻りそうだね」


「うん」


 ルシルは窓の外へ目を向けた。


 御者台ではシモンが安定した手つきで手綱を扱い、トルクとベルクも一定の歩調で進んでいる。車内には車輪の振動が穏やかに伝わり、棚へ固定された木彫りの小鳥がわずかに揺れていた。


 その横には、モモの帳面や旅の途中で集まった本が並んでいる。


 ひとつひとつは特別な宝物として手に入れたものではない。それでも町を越えるたびに増え、気づけば馬車の中には、自分たちが通ってきた場所の痕跡がいくつも残るようになっていた。


 ルシルはその棚を眺めてから、ふと笑った。


「どうしたの?」


「いや。最初は馬車があるだけで凄いと思ってたのに、今は中に物が増えたなって」


 モモも棚へ視線を向ける。


「本も増えたし、木彫りもあるし、私の帳面もあるね」


「食べ物もな」


「そこは大事です」


 即座に返されたため、ルシルは声を立てて笑った。


 モモも笑いながら帳面を手に取り、今日の記録を少しだけ書き加えた。セレナスを出発したこと、白樹方面の道は通行可能だったこと、途中で路肩が崩れた場所があったこと。海について新しい発見があったわけではないため、それ以上のことは書かなかった。


 夕方が近づく頃、前方に白っぽい岩棚が見え始めた。


 街道の左側に低い岩壁が続き、その一部が階段のような段差を作っている。岩肌は周囲の土より明るく、傾き始めた日差しを受けて薄い金色に染まっていた。


 その手前には木製の標識が立っている。


『白石棚の休み場』


「着いたみたい」


 窓から標識を見つけたモモが声を上げる。


 シモンはすぐに休憩所へ入らず、入口付近の地面と停まっている馬車の数を確認した。中にはすでに三台の旅馬車があったが、敷地は広く、トルクとベルクを落ち着かせられる場所も十分に残っている。


「今日はここにしましょう」


 シモンの判断に、ルシルも異論はなかった。


 馬車はゆっくり休み場へ入り、岩棚から少し離れた平らな場所で止まった。


 白石棚の休み場には簡素な管理小屋と井戸、馬を繋ぐ横木、それに複数の焚き火跡があった。宿ではないため夜は馬車か天幕で過ごすことになるが、地面はよく踏み固められており、野営場所としては使いやすそうだった。


 馬車を止めたあと、まずトルクとベルクを休ませる。


 二頭とも大きく息を乱してはいなかったが、一日街道を進んできた疲れはある。シモンが脚を確認している間にルシルは水を用意し、モモは馬車の中から必要な道具を運び出した。


「二頭とも問題ありません。今日はここで十分休ませれば大丈夫でしょう」


「馬車のほうも?」


「今のところ異常は感じません。明るいうちに簡単に見ておきますが、今日の走行で気になる音もありませんでした」


 その言葉を聞き、ルシルは白い岩棚の向こうへ広がる夕空を見上げた。


 セレナスの建物はもう見えない。


 代わりに背後には今日走ってきた街道が長く続き、前方には白樹の分かれへ向かう道が丘の間へ消えている。


 明日はその先へ進む。


 白樹の分かれへ近づき、そこからさらに進めば、やがてアゼルへ向かう道を選ぶことになる。


「モモ」


「なに?」


 焚き火の準備をしていたモモが振り返る。


「海、まだ見えないな」


 一瞬だけきょとんとしたあと、モモは吹き出した。


「当たり前だよ。シモン君に何回も言われたでしょ」


「分かってるけど、丘を越えるたびにちょっと期待するんだよ」


「……それは、私もする」


 最後だけ少し小さくなった声を聞き、ルシルは笑った。


 少し離れたところで馬車を確認していたシモンにも会話は聞こえていたらしく、眼鏡の位置を直しながら二人のほうを見る。


「明日もまだ見えませんよ」


「分かってるって」


「念のためです」


「シモン君、たぶん私たち、明日も丘があるたびに見ちゃうと思う」


「それは好きになさってください。ただし、御者をしている方は前方を見てくださいね」


 あまりにもシモンらしい注意に、モモとルシルは顔を見合わせて笑った。


 やがて夕方の白石棚に、焚き火の小さな音が加わっていく。


 ほかの旅人たちもそれぞれ夕食の準備を始めており、鍋の匂いや薪の煙が冷え始めた空気へ混じっていた。トルクとベルクは水を飲み終え、並んで静かに休んでいる。


 三人の馬車も、そのすぐそばに停まっていた。


 海はまだ見えない。


 けれどセレナスの地図の上で選んだ道は、もう紙の上だけの線ではなくなっている。


 今日一日、トルクとベルクが実際に踏みしめ、四つの車輪が走ってきた道として、白石棚まで確かにつながっていた。

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