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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第75話 海への道は、ひとつではありません



 セレナスへ到着した翌朝、ルシルが『渡り鳥の軒』の食堂へ下りると、窓の外ではすでに何台もの荷馬車が通りを行き交っていた。


 ルーヴェルとは町の規模も通りの広さも違うが、朝から動く荷車の多さはこちらも負けていない。車輪が石混じりの路面を転がる音に、馬の蹄、店を開ける商人たちの声が重なり、昨日夕方に到着したときよりも町の役割が分かりやすく表れていた。


「おはようございます、ルシル様」


 先に食堂へ来ていたシモンが、窓際の卓から顔を上げた。


「おはよう。早いね」


「いつもと大きくは変わりませんよ。トルクとベルクも見てきましたが、二頭とも問題ありません」


「俺もあとで見に行こうと思ってた」


「朝食後で十分でしょう。飼葉も水も宿の方が用意してくれています」


 ルシルが向かいへ座ったところで、階段からモモが下りてきた。まだ少し眠そうだった表情は食堂へ漂う焼きたてのパンの匂いに気づいた途端に和らぎ、二人の姿を見つけると足取りも軽くなる。


「おはようございます。今日のパン、柔らかそうですね」


「最初にそこ?」


「朝ご飯は大事です」


「おはよう、モモ」


「はい、おはようございます」


 三人が揃うと、宿の女性が朝食を運んできた。


 丸いパンに卵、薄切りの燻製肉。それに、豆と細かく刻んだ野菜を煮た温かいスープが付いている。


 旅の途中で自分たちが作る朝食より品数は多いが、豪華というほどではない。宿泊客がこれから一日動くための、腹持ちを重視した食事らしかった。


「今日は街道会館からですよね」


 モモがパンを割りながら確認する。


「うん。昨日見た二本の道を詳しく聞く」


「ラグナ港方面と、青波沿岸道方面ですね」


 シモンはスープを一口飲んでから続けた。


「距離、路面、休憩場所、水場、宿泊できる地点、馬車での通行条件。この辺りは最低限確認しておきましょう」


「どっちの海が綺麗かも聞きたい」


 ルシルが言うと、シモンは少しだけ考えた。


「それは答える人によって変わると思いますよ」


「だから聞くんだよ。道の情報だけだと決められないかもしれないし」


「なるほど。それなら、景観についても尋ねてみましょう」


 モモも頷いた。


「港と沿岸道では、同じ海でも全然違いそうですもんね」


 昨夜、街道会館の外に掲示されていた簡易図を見たことで、三人はようやく具体的な選択肢を得た。


 ラグナ港。


 青波沿岸道。


 どちらも海へ向かう。


 しかし、その先で何を見ることになるのかはまだ分からない。


 ルシルは卵を食べながら、昨日の図を思い出した。


(最初に海を見る場所か……)


 目的地を海に決めた頃には、そこまで考えていなかった。


 ただモモが海を見たことがないと知り、それなら見に行こうと決めた。


 けれど実際に海へ近づいてみれば、港から見るのか、海岸から見るのか、その選択まで自分たちでできるらしい。


 朝食を終えた三人は厩へ寄り、トルクとベルクの様子を自分たちでも確認した。


 二頭とも体調に問題はない。


 今日は町の中を歩く予定なので、馬車も二頭も宿で休ませることにした。


「行こうか」


「はい」


「街道会館の開館時間にはちょうどよさそうですね」


 三人は宿を出た。


 ◇


 朝のセレナス中央部は、昨日の夕方よりさらに人が多かった。


 荷運びの人夫が荷車を押し、商人が店先へ商品を並べ、宿を出た旅人たちがそれぞれの目的地へ向かっている。通りの端では焼いた穀物の香りが漂っていたが、ルシルは一度そちらを見ただけで足を止めなかった。


 モモが横から視線を向ける。


「行かないんですか?」


「朝ご飯食べたばっかりだよ」


「昨日までなら気になったら見てた気がします」


「気にはなってる」


「やっぱり」


「でも先に街道会館」


 ルシルがそう答えると、シモンが少し前を歩きながら振り返った。


「今日はずいぶん目的が明確ですね」


「海への道だからね」


「市場がなくなるわけではありませんから」


「それもある」


 昨日見つけた大きな道標が見えてくる。


 その後ろに建つ『セレナス街道会館』は、すでに扉が開いていた。


 中へ入ると、想像していたより広い。


 正面には複数の窓口があり、壁には周辺街道の地図や通行情報が掲示されている。荷運び商人らしい人々だけでなく、徒歩の旅人や冒険者らしい装備の者も並んでいた。


「ルーヴェルの案内所より大きい?」


 ルシルが小声で尋ねる。


「建物はこちらのほうが大きそうですね。ただ、荷運び関係の手続きもまとめて行っているのでしょう」


 シモンが案内板を見る。


 窓口は目的別に分かれていた。


 荷運び登録。


 道路状況。


 通行許可。


 周辺地図。


 そして『沿岸方面案内』。


「あれだ」


 ルシルが指す。


「分かりやすいですね」


 三人は沿岸方面案内の窓口へ向かった。


 前には二組並んでいる。


 一組は商人らしい男女。


 もう一組は大きな背負い袋を持った旅人だった。


 順番を待つ間、ルシルは壁の地図を見る。


 昨日外で見た簡易図より細かい。


 セレナスから西南へ伸びた街道が、しばらく進んだところで二方向へ分かれている。


 一方は西寄りへ曲がり、いくつかの中継地点を経てラグナ港へ。


 もう一方は南西へ進み、小さな町や村を経由しながら青波沿岸道へ接続している。


「海、ここか」


 地図の端には青い線が引かれている。


 川を示す細い線とは違う。


 その先には陸地が描かれていない。


 ルシルは無意識に少し近づいた。


「地図ですけどね」


 モモが隣に立つ。


「分かってるよ」


「でも、私もちょっと見ちゃいます」


 二人で青い線を眺めているうちに、前の旅人が窓口を離れた。


「次の方、どうぞ」


 受付にいたのは、四十歳前後に見える女性だった。


 机の上には地図が何枚も重ねられている。


 三人が窓口へ立つと、女性は慣れた様子で尋ねた。


「沿岸方面への移動相談ですか?」


「はい。馬車で海のほうへ行きたいんです」


 ルシルが答える。


「目的地は決まっていますか?」


「まだです。ラグナ港方面と青波沿岸道方面があるって、昨日外の地図で見ました」


「なるほど。どちらへ行くか決めるための情報が欲しいということですね」


「はい」


 女性は机の下から一枚の地図を取り出した。


「では、順番に説明しましょう。馬車は二頭立てですか?」


「二頭立ての中型旅馬車です」


 シモンが答える。


「大型の荷馬車ほど重くはありませんが、一般的な旅馬車より少し重量があります。悪路対応型で、車高もやや高めです」


「分かりました。それなら両方の道を利用できます」


 最初の条件で片方が消えることはなかった。


 女性は地図上のセレナスを指す。


「まず、ここから西南街道を進みます。途中の『白樹の分かれ』までは共通です。普通の旅馬車なら、休憩を含めて二日前後を見てください」


「二日」


 モモが地図を見る。


「そこで分かれるんですか?」


「ええ。西へ向かえばラグナ港街道。南西へ向かえば青波沿岸道へ接続する道です」


 女性の指が西側へ動く。


「ラグナ港方面は、物流のために整備された街道です。道幅は広く、大型荷馬車も通ります。宿場と水場が比較的多く、馬車で進むならこちらのほうが分かりやすいでしょう」


「港までどのくらいですか?」


「白樹の分かれから三日から四日ほど。混雑や天候によって変わります。途中に宿場町が二つありますから、野営を避けて進むことも可能です」


「ずっと人が多い?」


「時期によりますが、青波方面よりは明らかに多いです。特に港から内陸へ荷が出る日の朝は、対向する荷馬車が増えます」


 昨日の石橋で見た魚の荷馬車を、ルシルは思い出した。


「あの魚もラグナ港から?」


「どの魚かは分かりませんが、セレナスへ入る海魚の多くはラグナ港か、その周辺の荷揚げ場を経由します。ただし、沿岸の漁村から集められるものもありますから、全部ではありません」


「やっぱり見ただけじゃ分からないな」


 ルシルが呟くと、モモが小さく笑った。


 受付の女性は気にせず説明を続ける。


「ラグナは大きな港です。商船、漁船、沿岸輸送船が出入りします。宿、食堂、商店も多く、海産物を見たいなら困ることはありません」


「海を見る場所は?」


 モモが尋ねた。


 女性は少し考える。


「港ですから、町へ入れば海そのものは見えます。ただし、倉庫や桟橋、船、人の往来が多いですね。静かな海岸を想像しているなら、少し違うかもしれません」


「船がいっぱいある海……」


 モモは地図へ視線を落とした。


 嫌そうではない。


 むしろ想像しようとしている。


「じゃあ、青波沿岸道は?」


 ルシルが尋ねる。


 女性の指が地図の南西側へ移った。


「こちらは性格が違います。白樹の分かれから南西へ進み、丘陵地と農村地帯を抜けて『アゼル』という小さな町へ向かいます。そこから先で海沿いへ下り、青波沿岸道へ接続します」


「海が見えるのはアゼル?」


「町からは見えません。アゼルを出て、丘を一つ越えた先です」


 モモの目が少し大きくなった。


「丘を越えたら、海が見えるんですか?」


「天候が良ければ」


 女性は頷いた。


「街道が高台へ出る場所があります。そこから海岸線が見えますよ」


 三人の間に短い沈黙が落ちた。


 モモは何も言わない。


 けれど地図を見る表情が、先ほどまでとは少し変わっていた。


 ルシルも同じ場所を見る。


 丘を越える。


 その先で初めて海が見える。


(それ、いいな)


 すぐにそう思った。


 ただし、まだ決めない。


「道はどんな感じですか?」


 シモンが現実的な部分を確認する。


「ラグナ港街道より狭いです。大型荷馬車はほとんど使いません。旅馬車なら問題ありませんが、丘陵区間には上り下りがあります。雨が続くと一部が滑りやすくなります」


「現在の状態は?」


「昨日届いた報告では通行可。崩落や通行止めはありません。ただ、三日前に雨が降っていますので、日陰ではまだ柔らかい場所が残っているかもしれません」


「休憩場所と水場は?」


「白樹の分かれまではラグナ方面と共通です。その先、アゼルまでに公設休憩所が一か所。小さな農村が二つあります。水は取れますが、宿泊施設は少ないので、一晩は野営する可能性が高いでしょう」


「アゼルから海までは?」


「旅馬車で半日ほどです。ただし、海を見たあと沿岸道をどちらへ進むかで、その先は変わります」


「どちらへ?」


「北西へ進めば、最終的にラグナ港方面へ合流できます。南東へ進めば漁村がいくつかあり、その先にも小さな港町があります」


 ルシルは地図を見る。


「じゃあ、青波沿岸道から海を見て、そのあとラグナ港へ行くこともできる?」


「できますよ」


 受付の女性はあっさり答えた。


「遠回りにはなりますが、急がない旅なら珍しい経路ではありません。沿岸道を北西へ進めば、海を見ながらラグナ方面へ向かえます」


 ルシルとモモが同時にシモンを見る。


 シモンは二人の視線を受け止め、眼鏡の位置を直した。


「まだ何も言っていませんよ」


「いや、でも」


「何でしょう」


「俺、かなり青波のほう気になってる」


「私もです」


 モモも隠さなかった。


 シモンは地図へ視線を戻す。


「私も反対する理由は今のところありません。ただし、道の情報を最後まで聞いてからにしましょう」


「うん」


「はい」


 受付の女性がわずかに笑った。


「旅の相談ではよくあります。地図を見ているうちに、行きたいほうが決まってくるんですよ」


「みんなそうなんですか?」


 モモが尋ねる。


「全員ではありません。仕事なら最短か安全性で決めます。旅なら景色や寄りたい町で決める人もいます」


 女性は地図の白樹の分かれを指した。


「どちらを選ぶにしても、そこまでは同じです。今日決めなくても、分岐へ着くまでに考えられますよ」


「それもできるのか」


「もちろんです。ただ、青波方面へ行くなら食料と水は白樹の分かれまでに少し余裕を持たせてください。ラグナ方面ほど途中で買い足せません」


 シモンが頷く。


「白樹の分かれには店がありますか?」


「小さな旅人向けの売店があります。ただ、品揃えは多くありません。セレナスで必要なものを揃えるほうが確実です」


「地図は買えますか?」


「沿岸方面の詳細図があります」


「一枚お願いします」


 シモンは迷わず購入を決めた。


 受付の女性は地図を一枚取り出し、机へ広げる。


 昨日まで使っていた広域地図より、この先の情報が細かい。


 白樹の分かれ。


 ラグナ港街道。


 アゼル。


 青波沿岸道。


 周辺の農村。


 水場。


 公設休憩所。


 大まかな高低差まで記されている。


「あと、青波沿岸道へ行く場合に注意することはありますか?」


 シモンが尋ねる。


「海へ下りたあと、風が強い日があります。特に高台から沿岸道へ入る区間では横風に注意してください。あなた方の馬車が一般的なものより少し重いなら、軽量車よりは影響を受けにくいでしょうが、油断はしないでください」


「風向きの標識は?」


「一部にあります。布標もありますよ」


 ルシルが反応する。


「前にも見たやつみたいな?」


「風向きを見る布なら、似たものかもしれませんね」


 以前通った丘道で見た風向き布を思い出す。


 あのときは横風を確認しながら走った。


 まったく知らない仕組みではない。


「海の近くって、魔物は増えますか?」


 モモが今度は尋ねた。


「沿岸特有のものはいますが、街道周辺で現在特別な増加報告はありません。青波沿岸道では小型の浜獣や鳥類が見られますが、人を積極的に襲う大型魔物の報告は直近ではありません」


「分かりました」


「ほかに聞きたいことは?」


 三人は一度顔を見合わせた。


 ルシルにはまだ一つあった。


「青波の丘から見える海って、どんな感じですか?」


 受付の女性が少し目を瞬く。


 道路状況ではない質問だ。


 それでも嫌な顔はしなかった。


「私が見たときは、青かったですよ」


「青い?」


「天気が良かったので。丘の上からだと、かなり遠くまで見えます。海岸は砂浜だけではなく岩場もありますし、少し南へ行けば漁村の屋根も見えます」


「音は?」


 モモが続けて尋ねる。


「丘の上だと風の音のほうが強いですね。波の音を聞きたいなら、海岸まで下りたほうがいいでしょう」


 モモはゆっくり頷いた。


「ありがとうございます」


「いえ。良い旅を」


 三人は購入した地図を受け取り、窓口を離れた。


 ◇


 街道会館の一角には、相談を終えた人が地図を広げられる卓が用意されていた。


 三人は空いている一つを使う。


 シモンが買った地図を広げると、ルシルとモモも両側から覗き込んだ。


「どうする?」


 ルシルが尋ねる。


「ルシル様は先ほど言っていましたね。青波方面が気になると」


「うん」


「モモ嬢は?」


「私も青波です」


 モモは迷わず答えた。


「港も見たいです。船も見てみたいですし、海の魚ももっと食べたいです。でも……」


 指先を地図へ置かず、アゼルから海へ下る線の近くで止める。


「最初は、海そのものを見てみたいです」


 声は普段と変わらない。


 それでもルシルには、その言葉がいつもより少し慎重に選ばれたように聞こえた。


「港の建物の間からじゃなくて?」


「はい。港が嫌という意味じゃないですよ。むしろ絶対行きたいです。でも、最初に見えるのが丘の上から広がってる海なら……たぶん、すごく綺麗なんだろうなって」


 モモは少し照れたように笑う。


「まだ見たことないから、本当にそうなのか分からないですけど」


「俺もそっち見たい」


 ルシルも地図へ目を落とした。


「丘を越えたら海が見えるって聞いたとき、すごく気になった」


 シモンは二人の話を遮らずに聞いていた。


「なら、青波方面を第一候補にしましょう」


「シモンは?」


 ルシルが尋ねる。


「私は以前、海を見たことがありますから」


「それは知ってるけど、今回は?」


 問い直され、シモンは少しだけ黙った。


 以前見た海は、外交任務の途中だった。


 港へ到着し、迎えの者と会い、王家から預かった書類と贈答品の確認を行い、滞在中も会談と調整に時間を使った。


 海は確かにそこにあった。


 だが、わざわざ見に行ったわけではない。


(あのときは、景色を選ぶという発想自体がありませんでしたね)


 地図の青い線を見る。


 今回は違う。


「私も青波沿岸道に興味があります」


 シモンが答えると、ルシルが笑った。


「じゃあ三人とも同じだ」


「ただし、まだ出発はしませんよ」


「分かってるって」


「準備ですね」


 モモが地図を見る。


「食料と水。あと天気?」


「ええ。それに、セレナスを今日中に出る必要もありません。せっかく町へ来たのですから、必要な補給をし、情報を整理してから出発しましょう」


「今日もう一泊?」


「宿は今夜分まで取っています」


「いつの間に?」


「昨日受付で二泊を前提に確認しました」


 ルシルは一瞬黙った。


「……さすが」


「昨日到着して、翌朝情報を集め、その日のうちに慌てて出発する理由がありませんから」


「それもそうだ」


 モモが少し笑う。


「じゃあ今日は市場も見られますね」


「そこに戻るんだ」


「補給です」


「俺も見たいからいいけど」


 行き先はほぼ決まった。


 ただし、それは三人の希望が揃ったという段階だ。


 出発前に道の状態や天候が変われば再検討する余地はある。


 シモンは地図へ小さな印を付ける代わりに、必要な地点を紙へ書き出した。


 セレナス。


 白樹の分かれ。


 公設休憩所。


 アゼル。


 海へ出る高台。


 そして青波沿岸道。


「まず白樹の分かれまで二日前後」


 ルシルが確認する。


「ええ。途中の宿泊候補も調べましょう。詳細図には休憩場所が載っていますが、最新状態は別です」


「もう一回窓口?」


「道路状況の掲示で確認できる部分もあります」


 三人は地図を畳み、今度は壁の掲示へ向かった。


 ◇


 沿岸方面の道路情報には、日付付きの札がいくつも貼られていた。


『セレナス―白樹の分かれ 通行可』


『白樹西方・ラグナ港街道 通行可』


『白樹南西・アゼル方面 通行可。一部軟路あり』


『青波高台道 通行可。午後、海風強まる場合あり』


「一部軟路」


 ルシルが読む。


「窓口で言ってた、雨のあと柔らかいところかな」


「おそらく。通行止めではありませんから、現時点で大きな問題ではないでしょう」


 シモンは更新日を確認する。


「昨日の情報です。出発当日の朝にも見に来る価値はありますね」


「じゃあ明日の朝、もう一回確認してから出る?」


「そうしましょう」


 モモも掲示を見る。


「午後に海風が強まるなら、海を見る日は午前中に丘へ着いたほうがいいんでしょうか」


「それはアゼルで確認したほうがいいですね。風の強さは日によって違いますし、海へ出る日はまだ数日先です」


「まだ数日か」


 ルシルが青波高台道の札を見る。


 海への道が具体的になったことで、逆に距離もはっきりした。


 今日ここを出たとしても、すぐ海が見えるわけではない。


 白樹の分かれまで。


 そこからアゼルまで。


 そして丘を越える。


「でも、道は分かった」


 ルシルが言う。


「はい」


 モモも頷く。


 それ以上、二人とも大げさな言葉を重ねなかった。


 今はまず、今日やることがある。


 ◇


 街道会館を出た三人は、そのまま中央市場へ向かった。


 昨日は通りから眺めただけだったが、朝の市場は想像以上に広い。


 ルーヴェルの中央市場ほど区画が整然としているわけではなく、常設店舗の間に屋台や荷車売りが入り込んでいる。近隣農村の野菜、穀物、乾物、布、旅道具に加え、海側から運ばれてきた品を扱う店も目立った。


「魚」


 ルシルが最初に見つけた。


「やっぱりそこですか」


 モモも一緒に見る。


 木製の台には干物が何種類も並んでいる。


 細長いもの。


 平たいもの。


 小さな魚を何匹もまとめて干したもの。


 札には産地らしい地名が書かれていた。


「ラグナってある」


「本当ですね」


 昨日まで推測していたものが、今日は文字で確認できる。


 店主の男性が三人へ気づいた。


「見るだけでもいいぞ。旅人か?」


「はい。海のほうへ行く予定です」


「ラグナか?」


「青波沿岸道のほうを考えてます」


「そっちか。なら漁村で食ったほうが安いぞ」


 商売人とは思えない言葉に、ルシルが目を瞬く。


「売らなくていいの?」


「ここで買うなら売るさ。でも海へ行く奴に『ここが一番安い』なんて嘘ついても仕方ないだろ」


 店主は笑い、平たい干物を一枚持ち上げた。


「これはラグナ北の岩浜で獲れる魚だ。こっちは南側。干し方も塩も違う」


「同じ海でも違うんだ」


「海は広いからな」


 その言葉にモモが少し反応する。


「どのくらい広いんですか?」


「どのくらいって……」


 店主は困ったように頭を掻いた。


「向こう岸が見えないくらいだ」


「向こう岸が見えない?」


「ああ。俺も船乗りじゃないから、それ以上は知らんけどな」


 モモはしばらく黙った。


 川なら向こう岸が見える。


 昨日渡った石橋でも、対岸の人の姿は普通に見えた。


 湖なら大きさによっては遠い岸が霞むこともある。


 けれど海は、向こう岸そのものが見えない。


(本当に、そんなに広いんですね)


 知識として聞くのと、海辺の品を売る人から当然のこととして言われるのとでは、妙に実感が違った。


「モモ?」


 ルシルに呼ばれ、モモは顔を上げた。


「大丈夫です。ちょっと想像してました」


「見えた?」


「全然」


「俺も」


 店主が笑う。


「だったら実物見てこい。想像するより早い」


「そうします」


 三人は干物を大量に買うことはしなかった。


 これから海側へ向かう以上、保存食として必要な分だけで十分だ。


 店主に日持ちを聞き、小型の干物を少量購入する。


 その後も市場を歩いた。


 シモンは旅用の消耗品を確認し、必要な分だけ補充する。


 水袋に破損はないため新調しない。


 縄も足りている。


 ルーヴェルで買った防水性のある荷札も残っている。


 必要になったのは、保存性の高い豆と硬いパンの追加分、それに馬用の補助飼料だった。


「青波方面は買い足しにくいって言ってたから、少し多め?」


 ルシルが尋ねる。


「多すぎない程度に。収納魔法があるからといって、使わない量まで買う必要はありません」


「了解」


 モモは野菜売り場で足を止めた。


「これ、昨日買った青房豆と同じです」


 細長い莢が籠に積まれている。


 店の女性へ聞くと、昨日旧道で買ったものと同じ種類だった。


「焼くだけで食べられるって書いてありました」


「焼いて塩でもいいし、茹でてもいいよ。筋が固いのだけ取ってね」


「筋?」


 モモが聞き返す。


 女性は一本手に取り、莢の端を折って細い筋を引いた。


「これ。若いのは気にならないけど、大きいのは取ったほうが食べやすい」


「なるほど……」


 昨日の無人売り場では分からなかった情報だ。


 モモは帳面を出そうとして、さすがに市場の真ん中なので一度やめた。


「覚えておきます」


「昨日の分、今夜食べる?」


 ルシルが尋ねる。


「宿で調理できるならですね」


「食堂に頼む方法もありますよ」


 シモンが言う。


「持ち込み食材を調理してくれる宿もあります。渡り鳥の軒で聞いてみましょう」


「それいいですね」


 新しく青房豆を買い足すことはしなかった。


 昨日買った一袋がまだある。


 黄角瓜も一本残っている。


 まずは手元のものを使えばいい。


 ◇


 市場を一通り見た頃には昼を過ぎていた。


 三人は市場の外れにある食堂へ入った。


 店内には荷運びの人々が多く、料理も量を重視しているらしい。


 三人が頼んだのは、大きな皿へ盛られた穀物と煮込み肉だった。


 煮込みには細かく切った根菜と豆が入り、濃いめの味付けがされている。


「午後どうする?」


 ルシルが食べながら尋ねる。


「補給品を宿へ置いたあと、馬車を簡単に確認しましょう」


 シモンが答える。


「ルーヴェルで整備してから問題はありませんが、明日からまた数日町を離れます。今日のうちに確認しておけば安心です」


「俺も見る」


「お願いします」


「私は?」


 モモが尋ねる。


「モモ嬢には車内の固定を見てもらえると助かります。丘陵道がありますから、棚や調理器具が動かないようにしておきましょう」


「分かりました」


 役割が決まる。


 特別な事件はない。


 けれど、次の道へ進むためにやるべきことは十分にあった。


 昼食を終えると三人は宿へ戻った。


 ◇


 午後の『渡り鳥の軒』中庭には、朝にはなかった旅馬車が二台増えていた。


 そのうち一台では、家族らしい四人が荷物を下ろしている。


 ルシルたちは邪魔にならないよう自分たちの馬車へ向かった。


 まず外回り。


 車輪。


 車軸周辺。


 連結部。


 制動部。


 ルーヴェルの鉄樫車房でドラン・エッケルから教わった確認方法を思い出しながら、ルシルはシモンと一緒に見ていく。


「ここ、触っていい?」


「走行直後ではありませんから大丈夫です」


 ルシルは車輪周辺へ手を当て、目立った緩みがないか確かめる。


 異音もない。


 前回手入れを受けた箇所も安定している。


「問題なさそう」


「ええ。長い下りも通りましたが、異常は出ていませんね」


「整備してもらってよかったな」


「壊れてから直すより、そのほうがいいですから」


 車内ではモモが棚を確認している。


 木製の馬の置物二つ。


 ヤマアカノドの小さな木彫り。


 本。


 食器。


 調理道具。


 それぞれの固定を見直す。


「この本、少し動きそうです」


 モモが『南西諸地方 奇譚拾遺』を手に取る。


 光写しの箱について書かれていた本だ。


 ルシルが車外から覗く。


「落ちそう?」


「大きく揺れたら可能性はあります。ほかの本と詰め直しますね」


「お願い」


 モモは本を戻す。


 その表紙を見ても、ルシルの頭に新しい言葉が浮かぶことはなかった。


 黒い四角い物体。


 写真。


 カメ――まで出かかった名前。


 拡大という感覚。


 それらは今も答えのないままだ。


 けれど、最近は夢も新しい感覚もない。


 ルシル自身、それを無理に引き出そうとは思わなくなっていた。


「ルシル様?」


 シモンに呼ばれ、ルシルは視線を戻す。


「ごめん。何?」


「前側は終わりました。後ろも確認しますよ」


「うん」


 それだけで作業へ戻った。


 ◇


 馬車の確認を終えたあと、三人は厩へ向かった。


 トルクとベルクも明日から再び街道を進む。


 蹄鉄は問題ない。


 脚にも異常はない。


 飼葉もしっかり食べている。


 ベルクは隣の馬房にいるトルクが見える位置で落ち着き、シモンが近づくと耳を動かした。


「明日また頼むよ」


 ルシルが二頭へ声をかける。


 トルクは顔を向けたが、もちろん返事はない。


「何か言ってくれたら便利なのにな」


「突然喋り始めたら私は驚きますよ」


 モモが言う。


「魔法で喋る馬とかいないの?」


「知性を持つ魔獣なら意思疎通できる例はありますが、普通の馬が会話する話は聞いたことがありませんね」


 シモンが答える。


「じゃあトルクとベルクは普通の馬でいいや」


「今まで疑ってたんですか?」


「疑ってないよ」


 モモが笑う。


 厩で必要な確認を終えた三人は、宿の受付で青房豆の調理について尋ねた。


 追加料金を払えば夕食と一緒に焼いてくれるという。


「お願いします」


 昨日買った青房豆一袋を預ける。


 黄角瓜はまだ数日持つと市場でも確認できたため、今日は使わないことにした。


 ◇


 夕食の時間。


 宿の食堂には昼間より多くの宿泊客が集まっていた。


 三人の卓へ運ばれてきた料理の横には、青房豆を焼いた小皿も置かれている。


 莢の表面に軽く焼き色が付き、塩が振られていた。


「筋、取ってくれてる」


 モモが一本持ち上げる。


「食べてみよう」


 ルシルも取る。


 噛むと、莢は思ったより柔らかい。


 中の豆にはほのかな甘みがあり、焼いた香りと塩だけで十分に食べられた。


「美味しい」


「昨日すぐ食べなくてよかったですね。筋のこと知らなかったですし」


「若いのならそのままでもいいって言ってたけどね」


「でも知ってるほうがいいです」


 シモンも一本食べる。


「旅先で買った食材の調理法を次の町で知るというのも、珍しくなくなってきましたね」


「その場で全部分からなくてもいいってこと?」


 ルシルが尋ねる。


「単に、土地が繋がっているということですよ。同じ食材が一つの村にしか存在しないわけではありませんから」


「なるほど」


 モモは青房豆をもう一本取る。


「じゃあ、この先でも売ってるかもしれないですね」


「農村地帯を通るなら可能性はあるでしょう」


 夕食を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 三人は食堂の隅にある小さな卓を借り、明日の道を最後に確認することにした。


 購入した詳細地図を広げる。


 セレナスから白樹の分かれまでは、まだ二日前後。


 その途中には水場が複数ある。


 一泊目の候補として、街道沿いの『白石棚の休み場』が記されていた。


「明日はここを目安?」


 ルシルが指す。


「そうですね。ただし、必ずそこまで進む必要はありません。道の状態と二頭を見て決めましょう」


「その次の日に白樹?」


「順調ならその可能性が高いです」


 モモは地図のさらに先を見る。


「白樹で青波方面へ曲がって、そこからアゼル……」


「ええ」


「海を見るのは、まだ三日以上先ですね」


「おそらくは」


 ルシルも地図を見る。


 数日前なら、「まだ先か」と思ったかもしれない。


 今は少し違う。


 どの道を通るか。


 どこで休むか。


 どの町を経由するか。


 それが分かっている。


「じゃあ明日は白石棚を目安にしよう」


「はい」


「朝、街道会館で最新情報を確認してから出発ですね」


 三人の予定が決まった。


 モモは帳面を開く。


 今日聞いた情報のうち、今後必要になるものだけを整理して書き込んでいく。


『セレナスから白樹の分かれまで約二日。』


『白樹から西――ラグナ港街道。広い。宿場多い。』


『白樹から南西――アゼル、青波沿岸道。旅馬車通行可。野営の可能性あり。』


『アゼルの先、丘を越えると天候が良ければ海が見える。』


『青波沿岸道は午後に海風が強くなる場合あり。』


 最後の一行を書いたところで、モモの手が止まった。


 少しだけ迷ってから、その下へもう一つ書き加える。


『最初の海は、青波方面から見たい。三人とも同じ。』


 ルシルが横から見ていた。


「それ、決定?」


「第一候補です」


「書き方は決定みたいだけど」


「じゃあ直します?」


「いや、俺はいいよ」


 シモンも帳面を見る。


「明朝の道路情報に問題がなければ、その方針で構わないでしょう」


「じゃあ残します」


 モモは帳面を閉じた。


 題名のない表紙は、買ったときと変わっていない。


 けれど中には、三人が通ってきた道と、見つけたものと、これから向かう場所が少しずつ増えている。


 食堂の窓の外では、夜になっても何台かの荷馬車が通りを走っていた。


 海側から来た荷。


 内陸から海側へ向かう荷。


 どこから来たのか分からないものも、その流れの中に混じっている。


 明日、三人もその街道へ戻る。


 荷を運ぶためではない。


 仕事でもない。


 まず白樹の分かれへ向かい、そこから青波沿岸道を目指す。


 その先の丘を越えたとき、本当に海が見えるのかは、まだ誰にも分からない。天候が悪ければ、遠くまで見渡せないかもしれない。


 それでも、行きたい道は決まった。


「楽しみですね」


 モモが小さく言った。


 ルシルは頷く。


「うん」


 シモンは二人の向かいで地図を丁寧に畳み、明日の荷物へ入れた。


 セレナスで過ごす二度目の夜は、こうして静かに更けていった。


 明日の朝、街道情報に問題がなければ出発する。


 三人と二頭と一台の馬車は、いよいよ海へ続く道そのものへ入っていくことになる。

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