第74話 古い街道には、今も残るものがあります
古樫広場の朝は、頭上から落ちてきた小さな音で始まった。
何かが馬車の屋根を軽く叩き、続けて地面へ転がっていく。まだ眠気の残っていたルシルが窓から外を覗くと、昨夜から広場の中央に立っていた大樫の枝が朝の風に揺れており、その下には丸みを帯びた小さな実がいくつか落ちていた。
「雨じゃなかった……」
呟きながら外へ出ると、空には薄い雲が浮かんでいるものの、東から差す朝日は十分に明るい。昨日、旧道の入口で見た注意書きには雨天時のぬかるみについて書かれていたが、少なくとも今朝の地面は乾いたままだった。
ルシルが身体を伸ばしていると、広場の反対側から水を汲んで戻ってきたシモンが近づいてきた。
「おはようございます、ルシル様」
「おはよう。雨は大丈夫そう?」
「今のところは。雲の動きも速くありませんし、急に崩れる様子には見えません。ただ、旧道の先が日陰になっていれば昨日以前の水分が残っている可能性はあります」
「道を見ながらだな」
「ええ。昨日と同じです」
シモンは水桶を馬車の近くへ置き、トルクとベルクの様子を確認する。二頭はすでに目を覚ましており、人が動き始めた広場の気配にも落ち着いていた。
少し遅れてモモも馬車から顔を出した。
「おはようございます……何か落ちてきませんでした?」
「木の実みたいなのが屋根に当たった」
「食べられます?」
「朝一番でそれ?」
「気になっただけです」
モモは外へ出ると、地面に落ちている実を一つ眺めた。拾って口へ運ぶようなことはせず、形を確かめただけで立ち上がる。
「知らない実ですね」
「古樫の実なら、樫の実なんじゃない?」
「樫にも種類がありますから。食べられるとしても、そのまま食べていいとは限りません」
シモンが二人の会話を聞きながら眼鏡の位置を直した。
「分からないものを朝食へ追加するのはやめてくださいね」
「してないよ」
「まだ何もしてません」
「なら結構です」
三人は昨夜の残り物を確認し、硬いパンと保存肉、豆を使った簡単な朝食を取った。昨日の朝に試した麦角豆の粉も少量だけ煮出し、今度は粉と湯の量を少し調整してみる。
昨日より香りが強くなり、ルシルがそのまま飲んでも苦すぎない程度に仕上がった。
「昨日よりいい」
「少し濃くしたのに?」
モモは蜜を入れた自分のカップを両手で包む。
「薄いと苦味だけ残る感じだったけど、今日は香ばしいほうが強い気がする」
「煮出す時間も少し短くしましたから、その違いもあるかもしれませんね」
シモンが答える。
「じゃあ次も同じくらい?」
「粉の状態でも変わるでしょうから、完全に同じにはならないと思いますよ」
「料理と一緒か」
「飲み物も調理ですからね」
モモは一口飲み、満足そうに息を吐いた。
食後は水を補充し、火の始末を確認する。古樫広場には管理人がいないため、自分たちが使った場所に燃え残りやごみがないことも確かめた。
昨夜一緒だった旅人たちのうち、小型馬車の一組は先に出発している。徒歩の三人組はまだ荷物をまとめていたため、ルシルたちは軽く挨拶を交わしてから馬車へ乗り込んだ。
今日もセレナスへ向かう。
ただし、まず抜けなければならないのは、昨日の看板に記されていた旧道の狭路区間だった。
◇
朝の御者はルシルが担当した。
古樫広場を離れると、道はすぐに二つの低い丘の間へ入った。左右の斜面には木が増え、枝葉が朝日を遮るため、昨夜までの広場より空気が少し冷たく感じられる。
道幅は昨日の終盤とほぼ同じだった。
二頭立ての馬車一台なら余裕を持って通れるものの、同じ大きさの馬車同士がそのまますれ違うのは難しい。一定の間隔で路肩が広がっている場所があるため、対向車が見えたときには、どちらが近い広場へ入るかを判断する必要があった。
「昨日の林道みたいに杭はないんだよな」
ルシルは前方を見ながら言う。
「ええ。ですから、先を見られる場所では広がりの位置も覚えておいたほうがいいでしょう」
隣に座るシモンは、道だけでなく斜面の向こうまで視線を動かしていた。
「曲がりの先は見えません。無理に速度を上げる必要はありませんよ」
「分かってる」
ルシルはトルクとベルクの歩調を一定に保つ。
路面には細かな石が混じっているが、深い轍はない。雨が降れば柔らかくなりそうな土の部分もあるものの、今朝は車輪が沈むこともなかった。
モモは車内の窓から外を眺めている。
「またありました」
「石?」
「はい」
右側の斜面近くに、昨日見つけたものと似た低い石が立っていた。
角が丸くなった古い石。
表面には、丸と二本の線を組み合わせた印が刻まれている。
昨日の時点で同じ印を三か所確認しているため、今回は馬車を停めなかった。
「やっぱり旧道に沿ってあるんだな」
「少なくとも、ここまではそうですね」
シモンが答える。
「距離は同じくらい?」
モモが帳面を開こうとする。
「正確には測っていません」
「ですよね」
「でも、昨日より間隔が短い気がする」
ルシルが言うと、シモンは少し考えた。
「道が曲がっているので、感覚だけでは判断しにくいですね。距離を示すものなら一定間隔とは限りませんし、境界や工事区間を示すものなら配置条件自体が違います」
「つまり、まだ分からない」
「そういうことです」
答えを急ぐ理由はなかった。
三人は石の位置だけを意識しながら、旧道を進んだ。
しばらくすると、前方の道が左へ曲がって見えなくなる。
その手前には広がりがない。
ルシルは速度をさらに落とした。
「この先、来たら困るな」
「音を聞いてください」
シモンに言われ、ルシルは口を閉じる。
風が葉を揺らす音。
鳥の声。
トルクとベルクの蹄。
自分たちの車輪が土を踏む音。
その向こうに、微かな別の響きが混じった。
「いる」
「ええ」
対向車の車輪らしい。
距離までは分からないが、向こうから何かが来ている。
「後ろの広がりまで戻る?」
「最後の広がりはそれほど遠くありません。相手側の状況が見えませんから、こちらが戻れるうちに戻ったほうが安全でしょう」
「了解」
ルシルはトルクとベルクを止め、周囲を確認した。
後方から別の馬車は来ていない。
鉄樫車房で馬車そのものを見てもらったときだけでなく、森の細道でも後退は経験している。だからといって雑に扱えるほど慣れてはいないため、ルシルはシモンに後方を見てもらいながら、ゆっくりと馬車を戻した。
「右、まだ余裕あります」
車外へ降りたシモンが声をかける。
「そのまま真っ直ぐ。ベルク側を少しだけ開けてください」
「これくらい?」
「十分です」
モモも反対側の窓から車輪と路肩の距離を確認している。
「こっちも大丈夫です。まだあります」
二人の声を聞きながら、ルシルは焦らず馬車を下げる。
数十歩ほど戻ったところで、先ほど通過した広がりへ収めることができた。
「入った?」
「ええ。ここなら対向車が通れます」
シモンが御者台へ戻る。
待っていると、曲がりの向こうから一頭立ての小型荷車が現れた。
御者は初老の男性だった。
こちらが先に待避していることへ気づくと、片手を上げる。
「助かった!」
「音が聞こえたので戻りました!」
ルシルも返す。
小型荷車が横を通過する。
荷台には空の木箱がいくつも積まれていた。
「古樫から来たのか?」
「はい。セレナスへ向かってます」
「なら、この先もう一つ狭いところがある! そこ抜けりゃ道は広がるぞ!」
「ありがとうございます!」
「朝は小型車が何台かこっちへ来るから、音だけ気をつけな!」
男は速度を落としすぎないまま、最後にもう一度手を上げて去っていった。
ルシルはその姿が曲がりの向こうへ消えるまで待つ。
「音で分かるんだな」
「静かな道だからこそでしょうね」
モモが言う。
「本道だったら、ずっと車輪の音がしてそうです」
「確かに」
シモンは周囲へ耳を澄ませてから頷いた。
「今は他に聞こえません。進みましょう」
ルシルは再び旧道へ馬車を戻した。
◇
初老の御者が教えてくれた通り、さらに先でもう一か所、道が狭くなる場所があった。
今度は対向車と出会わず、そのまま通過できた。
そこを抜けると左右の斜面が離れ、空が一気に広くなる。
道幅も少しずつ広がった。
「狭路終わり?」
ルシルが尋ねる。
「おそらく。ただ、標識があるまでは決めつけないほうがいいですね」
数分後、その標識が本当に現れた。
『狭路区間ここまで。
セレナス方面――直進。』
「終わりだ」
「ですね」
モモが笑う。
ルシルは肩の力を少し抜いた。
危険な道だったわけではない。
それでも、対向車の音を聞きながら狭い旧道を進むのは、広い街道とは違う緊張があった。
道の両側には再び畑が見え始めた。
ただし、昨日までの畑とは少し様子が違う。
低い石垣で区画を分けている場所が多く、その間に細い水路が通っている。
畑の向こうには数軒の農家も見えた。
「人が増えてきたな」
「セレナスの周辺地域へ入ってきた可能性はありますね」
シモンが答える。
「今日着く?」
「まだ分かりません」
「聞くだけ聞いた」
「町の建物が見えるまでは期待しすぎないほうがいいですよ」
モモが横から言う。
「モモも昨日、海の魚見てずっと海の話してたじゃん」
「海は目的地ですから」
「セレナスも今の目的地だよ」
「それはそうですね」
二人の会話にシモンは口を挟まず、前方の道を見ていた。
旧道が広がってから、石の印はまだ一つも見ていない。
偶然かもしれない。
あるいは、狭路を含む古い区間だけに残っていたものなのかもしれない。
その答えも、今は必要ない。
◇
午前の半ばを過ぎた頃、三人は旧道沿いの小さな水場を見つけた。
昨日の分岐看板に書かれていた「水場一か所」は、おそらくここだろう。
石を組んだ浅い槽へ、丘の斜面から引かれた細い水が流れ込んでいる。脇には新しい木札が立ち、『飲用可・馬水可・槽内洗浄禁止』と書かれていた。
「また看板」
ルシルが笑う。
「昨日ほど大きくないですけどね」
モモは馬車から降りて札を確認する。
近くには小さな休憩用の空間もあり、三人はここでトルクとベルクに水を与えることにした。
他の利用者はいない。
水の流れる音だけが聞こえている。
シモンが二頭を見ている間、ルシルは水場の周囲を歩いた。
洗い場として使われていないため、地面はそれほど泥濘んでいない。槽から溢れた水は細い溝へ流れ、その先で畑の水路へ合流しているようだった。
「これも畑に使ってるのかな」
「可能性はありますね」
シモンが答える。
「水場として使ったあとの余水を流しているのでしょう。量は多くありませんが、捨てるよりは有効です」
モモは帳面へ水場の場所を書き込もうとして、昨日の頁を見返した。
「旧道の石、ここにはないですね」
「そういえば」
ルシルも周囲を見る。
丸と二本線の印を刻んだ石は見当たらない。
「狭路までだったのかな」
「まだ判断できません」
シモンはそう言ったものの、モモは何も断定せず、帳面へ『水場まで石印確認できず』とだけ書いた。
休憩を終え、再出発する。
そこから道はさらに穏やかになった。
小型荷車と何度かすれ違い、徒歩の農夫らしい人々も見かける。
旅人だけの道ではなく、近隣の住民が日常的に使う道へ変わってきたのが分かった。
しばらく進んだところで、街道脇に小さな屋根付きの台が現れた。
人はいない。
台の上には籠が三つ並び、野菜が入っている。
「無人の売り場?」
ルシルが速度を落とす。
看板には値段と支払い方法が書かれていた。
『朝採り。
白根蕪 一束 銅貨二枚。
青房豆 一袋 銅貨三枚。
赤筋葉 一束 銅貨二枚。
代金は箱へ。』
台の端には蓋付きの木箱が固定されている。
「買う?」
ルシルが尋ねる。
「食料はありますが、新鮮な野菜はあっても困りませんね」
シモンが在庫を思い返す。
「黄角瓜もまだ一本残っています。買いすぎなければ問題ないでしょう」
「じゃあ一つだけ?」
「何にします?」
三人は馬車を安全な位置へ停め、売り台の前に立った。
白根蕪は、白い小さな根に濃い緑の葉が付いている。
青房豆は細長い莢。
赤筋葉は緑の葉に赤い筋が走っていた。
「知らないのどれ?」
ルシルが尋ねる。
「全部、私は料理したことないです」
モモが答える。
「私も詳しい調理法までは知りません。ただ、白根蕪は一般的な蕪に近いものだと思います」
シモンは看板の裏側を見る。
そこには小さな板が追加されていた。
『白根蕪――葉まで食べられます。煮物向き。
青房豆――莢ごと焼けます。
赤筋葉――生食不可。湯通ししてください。』
「親切」
モモが笑う。
「売る人いないのに、食べ方まで書いてある」
「知らない旅人が買うこともあるのでしょう」
ルシルは三つを見比べた。
「青房豆にしない? 焼くだけなら簡単そう」
「いいですね」
「一袋なら量も多くありません」
シモンも同意する。
三人は青房豆を一袋だけ購入し、銅貨三枚を箱へ入れた。
ルシルは袋を持ち上げる。
「今日の夕飯?」
「着く時間次第ですね。セレナスへ着いたら宿で食べるかもしれません」
「じゃあ明日でもいいか」
「日持ちを確認できないので、できれば今日か明日には食べましょう」
新しい食材が一つ増えた。
それだけで馬車へ戻る足取りが少し軽くなる。
◇
昼前。
旧道は小さな集落の外れを通過した。
家は十数軒ほどで、街道に面して鍛冶場らしい建物と、小さな食事処が一軒ある。宿泊施設があるようには見えなかったが、道沿いには馬を繋げる場所が設けられていた。
「お昼、ここにする?」
モモが食事処を見る。
「いいんじゃない?」
ルシルも賛成する。
シモンは時刻と二頭の状態を確認した。
「そうしましょう。午後の道についても聞けるかもしれません」
三人は馬車を停め、トルクとベルクを休ませてから食事処へ入った。
店は『石畑亭』という名前だった。
中には四人掛けの卓が五つほど並び、そのうち二つを地元の人らしい客が使っている。厨房からは焼いた肉と香草の匂いが漂っていた。
「いらっしゃい。旅の人?」
店主らしい中年女性が声をかける。
「はい。セレナスへ向かってます」
「旧道から?」
「古樫広場で泊まってきました」
「なら、もう狭いところは抜けたね。好きな席へどうぞ」
三人は窓際の卓へ座った。
今日の昼食は一種類だけらしい。
薄切りの豚肉と玉葱に似た野菜を焼き、香草を加えたもの。
豆のスープ。
柔らかい丸パン。
注文して待っている間、ルシルは店主へ尋ねた。
「ここからセレナスって、今日中に着きますか?」
「その馬車なら着くよ。急がなくても夕方前には町の外周が見えるんじゃないかね」
「本当?」
「道で何か起きなきゃね」
店主は笑う。
「ここから先は旧道って言っても、町の近くで本道に合流する。合流してからは荷馬車が増えるから、それだけ気をつけな」
「ありがとうございます」
モモが続けて尋ねる。
「旧道に、丸と二本の線が彫ってある石が並んでいたんですけど、何か知っていますか?」
店主の女性はすぐには答えず、少し目を細めた。
「丸に線?」
モモは帳面を開き、昨日写した印を見せる。
「ああ、これか」
「知ってるんですか?」
「名前までは知らないよ。昔の道普請の印だって、うちの爺さんから聞いたことはあるけどね」
「道普請?」
ルシルが身を乗り出す。
「道を直した場所とか、作った区間の印?」
「さあ、そこまでは。昔、この辺りの旧道を整えた人たちが置いた石だって話だったと思うよ。今の道役所が使ってる印じゃないから、役人に聞いても詳しい人じゃなきゃ知らないんじゃないかね」
店主は帳面の図をもう一度見る。
「うちの爺さんも、何百年前だとか、どこの誰だとかは言ってなかったよ。ただ『昔の道の印だから動かすな』って、子どもの頃に聞かされたくらいさ」
「じゃあ、道に関係するものではある?」
「たぶんね。私が知ってるのはそれだけ」
「ありがとうございます」
モモは帳面へすぐ書き込まず、まず店主の言葉を覚える。
シモンも同じだった。
確定したのは、地元に「昔の道普請に関係する石」という伝承があることだけだ。
具体的な用途は不明。
誰が置いたかも不明。
年代も分からない。
「危ないものとかじゃないんですね」
ルシルが言う。
「少なくとも、私はそんな話聞いたことないね」
店主は笑った。
「道端の石を怖がってたら、この辺じゃ歩けないよ」
「確かに」
話しているうちに昼食が運ばれてきた。
三人は店主へ改めて礼を言い、食事を始める。
豚肉には少し強めの塩味が付いており、焼いた野菜の甘さとよく合う。パンは外側だけ軽く焼かれ、中は柔らかかった。
「美味しい」
モモが小さく頷く。
「朝採り野菜の台もあったけど、この辺って農家多いんですか?」
ルシルが尋ねると、店主は別の卓を拭きながら答えた。
「多いよ。セレナスへ野菜を出す家もあるし、町から肥料や道具を買う家もある。旧道は大型の荷馬車には狭いけど、近所の者には今でも普通の道さ」
ルシルは窓の外を見る。
古い道と聞いたとき、使われなくなった昔の道を少し想像していた。
けれど実際には、今も農家が野菜を運び、住民が町へ向かい、旅人が通っている。
(古いって、終わったって意味じゃないんだな)
そう考えると、昨日から見てきたものが少し違って見えた。
古樫。
石の印。
狭い道。
新しく立てられた注意看板。
昔からあるものと、今の旅人のために加えられたものが、同じ道に一緒に残っている。
ルシルはそれを口にせず、残っていたパンで皿の汁を拭って食べた。
◇
昼食を終えたあと、モモは店の外で帳面を開いた。
『旧道の石印――地元では昔の道普請に関係する印と伝わる。具体的用途、年代、設置者は不明。危険という話はなし。』
そこまで書いてから、頁を閉じる。
「部分的には分かりましたね」
「道に関係あるってところだけ」
ルシルが言う。
「十分じゃないですか?」
「うん。何百年前の誰が置いたかまで調べる必要もないし」
シモンも頷いた。
「セレナスの街道案内所などで自然に聞ける機会があれば確認してもいいでしょう。ただ、それだけを目的に調査する必要はないと思います」
「じゃあ、ついでに覚えてたら聞く」
「それでいいでしょう」
三人はトルクとベルクを繋ぎ直し、石畑亭をあとにした。
午後の御者はモモが担当することになった。
「町の近くまで私でいいですか?」
「いいよ」
「合流地点では交通量が増えるでしょうから、必要なら交代しましょう」
シモンは助手席へ座る。
モモは二頭へ合図を送り、馬車をゆっくり進ませた。
◇
午後の旧道は、午前中よりさらに生活の道らしくなった。
畑から荷車が出入りし、農具を担いだ人が歩いている。小さな水路には板橋が渡され、ところどころに農家へ続く枝道もあった。
モモは速度を抑え、人の近くを通るときには十分な間隔を取る。
向こうから来た荷車の御者と挨拶を交わし、道を横切ろうとする農夫がいれば先に通す。
ルシルは車内からその様子を見ていた。
「モモ、普通に運転してるな」
「聞こえてますよ」
「褒めてる」
「ならいいです」
「前はもっと緊張してなかった?」
「最初の頃と比べないでください」
モモは前を向いたまま答える。
「それに、今も知らない道では緊張します。でも、緊張してるからって動けないわけじゃないです」
シモンが隣で頷いた。
「それで十分です。慣れている道でも油断すれば事故は起きますから」
「はい」
モモは少しだけ口元を緩めた。
その後もしばらく、道は穏やかに続いた。
やがて遠くから、複数の車輪が重なるような音が聞こえ始める。
一本の馬車ではない。
何台もの荷馬車が通る、低く連続した響きだった。
「本道?」
モモが言う。
「近いでしょうね」
シモンが地形を見る。
右前方の丘が低くなり、その向こうに別の道らしい土色の帯が見えた。
さらに進むと、旧道側に新しい看板が現れる。
『本道合流まで五百歩。
一時停止。
右方優先。』
「一時停止」
モモはしっかり速度を落とした。
「右から来る馬車が優先なんですね」
「本道側の流れを止めないためでしょう」
シモンが答える。
「合流地点で完全に止まって確認しましょう」
「はい」
五百歩ほど先で、旧道は大きな街道へ斜めに合流していた。
本道には荷馬車が何台も走っている。
昨日の橋周辺ほど密集してはいないものの、旧道とは明らかに交通量が違った。
モモは停止線代わりに埋め込まれた白い石の手前で馬車を止める。
「右……二台来ます」
「その後ろにも一台います。まとめて通しましょう」
シモンが確認する。
三台の荷馬車が通過する。
その後ろに十分な間隔ができた。
「今なら入れます」
「行きます」
モモはトルクとベルクを進ませる。
急がず、しかし合流途中で止まらない。
馬車全体が本道へ入ったところで進行方向を整えた。
「入った」
「問題ありません」
ルシルが車内から前を見る。
「急に馬車増えたな」
「セレナスが近い証拠かもしれませんね」
モモが答える。
その言葉は、間もなく現実になった。
◇
本道へ合流してから半刻ほど進んだ頃だった。
最初に見えたのは、遠くに並ぶ屋根だった。
畑の向こう。
緩い坂を下った先。
いくつもの建物が集まり、その背後には荷を積み下ろすためのものらしい高い木組みが何本も見える。
「あれ……町?」
ルシルが御者台の後ろから身を乗り出しすぎないよう気をつけながら見る。
「町ですね」
シモンが答えた。
「規模から考えても、セレナスで間違いないでしょう」
「着いた?」
「まだ町の外です」
「見えたならもうすぐじゃん」
モモも少し嬉しそうに前を見る。
「思ってたより大きいですね」
「ルーヴェルより小さいとは聞いていましたが、街道の中継地ですからね」
近づくにつれ、町の形がはっきりしていく。
高い城壁に囲まれているわけではない。
外周には低い石壁と木柵があり、本道は大きな門ではなく、屋根付きの通行所へ続いている。
その手前には荷馬車が数台並んでいた。
「また待つ?」
「入町確認でしょう」
シモンが答える。
「慌てず最後尾へ入りましょう」
モモは前の馬車との間隔を取り、列の後ろへついた。
周囲には荷物を満載した馬車が多い。
魚の印が付いた木箱を積むもの。
大きな麻袋を積むもの。
樽を積むもの。
空の荷台で町へ戻ってきたらしい馬車もある。
昨日橋ですれ違った海魚の荷が、どこかこの町を経由していたのだと思うと、ルシルは自然と周囲へ目を向けた。
けれど今回は、樽を見て中身を勝手に決めたりはしない。
「聞かないんですか?」
モモが小声で言う。
「何を?」
「あの樽」
「聞かないよ」
「成長しましたね」
「だから昨日から分かってるって」
シモンが二人の間へ淡々と告げる。
「町へ入ったら、まず宿です」
「分かってる」
「覚えてます」
二人の返事が重なった。
列は少しずつ前へ進んでいく。
通行所では荷馬車の行き先や積み荷を簡単に確認しているらしく、一台あたりの時間は長くない。
三人の番が来た。
係員の男性が馬車を見る。
「旅人か?」
「はい。三人です」
モモが答える。
「滞在目的は?」
「休息と、今後の街道情報を集めるためです」
シモンが補足する。
「荷の商売は?」
「ありません」
「危険物、大型魔獣素材、大量の薬品は?」
「ありません」
係員は頷き、馬車の外観を確認する。
「馬二頭。旅馬車一台。問題なし。町の中は西寄りが旅人宿、南側が荷運びと倉庫、中央が商業区だ。海側の街道案内が欲しいなら、中央南寄りの街道会館へ行け」
「街道会館?」
「大きな道標が前に立ってるから分かる。海へ行くなら、そこで聞いたほうがいい」
ルシルとモモが一瞬だけ顔を見合わせた。
係員はその反応を見ても特に気にせず、通行札を示す。
「宿を取るなら先に西へ行け。夕方になると馬房付きは埋まりやすいぞ」
「ありがとうございます!」
今一番必要な情報まで教えてもらえた。
三人は礼を告げ、セレナスの中へ入った。
◇
町へ入った瞬間、最初に感じたのは匂いだった。
潮の匂いではない。
乾いた穀物。
木材。
油。
香辛料。
どこかで焼かれている肉。
馬。
そして人が多く行き交う町特有の、いくつもの匂いが混ざった空気だった。
「海の匂いはしない」
ルシルが思わず言う。
「まだ海沿いではありませんからね」
モモが笑う。
「分かってたけど、一応」
「海が近づくたびに匂い確認するつもりですか?」
「するかもしれない」
「たぶん私もします」
「するんじゃん」
シモンは会話へ入らず、案内板を探していた。
通行所で教えられた通り、町の西側へ向かう表示がある。
「宿が先です」
「はい」
「了解」
三人は素直に西へ向かった。
セレナスの通りはルーヴェルほど広くないが、荷馬車と歩行者の流れが分けられている場所が多かった。交差点には行き先を示す板が立ち、商業区、倉庫区、旅人宿の方向が分かる。
西側へ入ると、馬房を備えた宿が並び始めた。
一軒目は満室。
二軒目は部屋はあるものの、馬房が一頭分しか空いていなかった。
ベルクだけ別の厩へ移す案も出されたが、三人は無理にそこへ決めなかった。
三軒目。
通りから少し奥へ入った場所に、『渡り鳥の軒』と書かれた看板があった。
中庭が広く、奥には馬房も見える。
「ここ聞いてみる?」
ルシルが言う。
「そうしましょう」
三人は馬車を中庭の指定場所へ停め、シモンが受付で確認する。
ほどなく戻ってきた。
「三部屋空いています。馬房も隣り合った二つを使えるそうです。馬車も中庭へ置けます」
「ここにしよう」
「賛成です」
宿が決まった。
トルクとベルクを馬房へ移し、水と飼葉を用意する。
ベルクも隣にトルクがいることで落ち着いており、見知らぬ厩でも大きく警戒する様子はなかった。
馬車を指定された場所へ収め、荷物を必要な分だけ部屋へ持ち込む。
すべて終えた頃には、午後もかなり進んでいた。
「街道会館、今日行く?」
ルシルが中庭で尋ねる。
シモンは空を見る。
「場所だけ確認する程度なら行けます。ただ、詳しい相談をするなら明日の朝のほうがいいでしょう」
「じゃあ場所見て、町ちょっと歩く?」
「市場も?」
モモが反応する。
「宿取ったからいいだろ?」
「市場へ行くこと自体は構いません。ただし、今日は下見程度にしてください。明日、海への道を確認してから必要な買い物を考えたほうが無駄がありません」
「分かった」
「私もそれでいいです」
三人は宿を出た。
◇
中央へ向かう道は、人通りが多かった。
店先には農産物だけでなく、旅道具、布、陶器、乾物などが並んでいる。
魚を扱う店もあった。
昨日見たような干物だけではなく、塩漬けにした魚を樽から取り出して量り売りしている。
「海から来たやつかな」
ルシルが小声で言う。
「聞きます?」
モモも小声で返す。
「明日」
「我慢できましたね」
「我慢っていうか、今日は場所確認だから」
少し進むと、大きな道標が見えた。
一本の太い柱から複数の方向へ板が伸び、それぞれに地名が刻まれている。
その後ろには石造りの二階建ての建物があった。
『セレナス街道会館』
「ここだ」
ルシルが立ち止まる。
入口脇には受付時間が掲示されている。
今日はまだ開いている。
ただし、終了までそれほど余裕はなかった。
「入る?」
モモが尋ねる。
シモンは掲示を見る。
「簡単な質問ならできますが、海への経路を複数比較するなら明日にしましょう。閉館直前に急いで聞く内容ではありません」
「じゃあ明日」
ルシルも迷わなかった。
建物の前には、各方面の簡易街道図も掲示されている。
三人はそこだけ見ることにした。
セレナスを中心に、複数の街道が伸びている。
東。
北東。
南。
西南。
そして――。
「海方面って書いてある」
モモが指を差した。
簡易図の西南側。
一本ではない。
途中で道が二つに分かれている。
一方には『ラグナ港方面』。
もう一方には『青波沿岸道方面』。
三人はしばらく無言で図を見た。
昨日、橋の前で聞いた話は本当だった。
海へ向かう道は一つではない。
「ラグナ港」
ルシルが読む。
「こっちは青波沿岸道」
モモがもう一方を見る。
「沿岸道ってことは……」
「海岸沿いへ出る道である可能性は高いでしょう」
シモンは図へ顔を近づけすぎず、分岐の位置を確認する。
「ただ、この簡易図だけでは道路状況も距離も分かりません。港方面との違いも、明日中で確認しましょう」
「うん」
ルシルは図から目を離さない。
まだ海は見えない。
けれど、とうとう道標の上に海へ続く具体的な行き先が現れた。
ラグナ港。
青波沿岸道。
どちらへ進むかは決まっていない。
それを決めるために、明日ここへ来る。
「モモ」
「はい?」
「最初に見る海、選べそうだな」
モモは簡易図を見たまま、少しだけ笑った。
「そうみたいですね」
その隣でシモンは二人の横顔を見ていたが、急かすことも、どちらかを勧めることもしなかった。
明日、必要な情報を集める。
それから三人で決めればいい。
今日はその入口まで来た。
三人は閉館前の街道会館へ無理に入らず、簡易図の位置を覚えて宿へ戻ることにした。
帰り道、夕方のセレナスには食事を出す店から次々に明かりが灯り始めていた。
荷馬車の音はまだ途切れない。
市場から戻る人。
倉庫へ荷を運ぶ人。
宿を探す旅人。
様々な人の流れの中を歩きながら、ルシルは何度か街道会館のある方向を振り返りそうになった。
そのたびに、明日また行けばいいと思い直す。
宿は確保した。
トルクとベルクも休ませている。
セレナスへ無事に着いた。
今夜やるべきことは、まず自分たちも休むことだった。
渡り鳥の軒へ戻ると、宿の食堂から温かな匂いが漂っていた。
「夕飯」
ルシルが反応する。
「海の道より先にそっちですか?」
モモが笑う。
「海の道は明日。夕飯は今」
「それは正しいですね」
「今日は宿で食べましょう」
シモンも食堂へ視線を向ける。
三人は中庭を抜け、明かりの灯った宿へ入った。
明日になれば、ラグナ港と青波沿岸道について詳しく聞くことができる。
どちらが馬車で通りやすいのか。
どこで休めるのか。
どちらなら、どんな海へ出るのか。
まだ何一つ選んではいない。
けれど、ルシルたちの旅の先にあった「海」は、もう地図の外にある漠然とした目的地ではなかった。
セレナスの道標から、二本の道が確かにそこへ向かって伸びていた。




