第73話 道端の看板には、旅人の知恵が詰まっています
柳水の休み場で迎えた朝は、葉を揺らす細い音から始まった。
夜の間に雨は降らなかったらしく、馬車の屋根にも地面にも濡れた跡はない。湧水から流れ出した細い水路だけが朝日を受けて光り、その周囲に並ぶ柳に似た木々の葉先には、夜露が小さく残っていた。
ルシルが外へ出た頃には、先に起きた旅人が馬へ飼葉を与えていた。昨夜ここに泊まっていた三台の馬車のうち、一台はすでに荷を整え終えており、御者が車輪を確認している。
「おはようございます」
ルシルが声をかけると、御者の男はしゃがんだまま顔を上げた。
「おはよう。セレナス方面だったな?」
「はい」
「なら俺たちと同じだ。まあ、うちは遅いから先に行ってくれ」
男の馬車には大きな樽がいくつも積まれている。昨日、道で見かけた樽を海から来たものではないかと想像したことを思い出したルシルは、一瞬だけ荷台へ目を向けた。
男がその視線に気づいた。
「樽が気になるのか?」
「あ、すみません。何が入ってるのかなって」
「菜種油だよ。東の農村からセレナスへ運んでる」
「東から」
「そうだが?」
「いえ。昨日、橋の向こうから来る荷物を見て、何でも海のほうから来てるような気がしてたので」
正直に答えると、男は一度きょとんとしたあと、腹を抱えるほどではないものの楽しそうに笑った。
「そりゃあ、セレナスは海の倉庫じゃないからな。東からも北からも荷は来るし、町で積み替えて別の道へ出ていくものもある」
「ですよね」
「魚の荷でも見たか?」
「見ました」
「それでか」
男は納得したように頷き、樽を固定している縄へ手を戻した。
「町が近くなれば、もっと色んな荷車を見るぞ。何を運んでるか知りたきゃ、荷主に聞くのが一番だ。ただし勝手に荷を覗き込むなよ。商人によっちゃ嫌がる」
「分かりました。ありがとうございます」
昨日モモに「確認していない」と言われたばかりだった。
朝一番で早速、思い込みを一つ修正することになったが、ルシルは嫌な気分にはならなかった。
(見ただけじゃ分からないなら、勝手に決めなきゃいいんだよな)
頭の中でそう整理し、トルクとベルクのところへ向かう。
二頭とも落ち着いていた。
昨夜の移動による異常もなく、飼葉への反応も普段通りだ。シモンと合流して必要な確認を済ませる頃にはモモも起きてきて、三人は簡単な朝食を取った。
朝から特別な料理を作ることはせず、硬いパンと豆、保存肉で済ませる。昨夜買ったものではないが、麦角の休み場で手に入れた飲み物があることを思い出し、ルシルは食料の中から小袋を取り出した。
「これ、朝に飲んでみない?」
「麦角豆ですか?」
モモが覗き込む。
「昨日は休憩中だったから、朝だとどうなのかなって」
「味は変わらないと思いますよ」
「気分が違うかもしれないだろ」
「それはあるかもしれません」
専用の道具は必要ないと教わっている。
粗く挽かれた粉を小さな布袋へ入れ、湯で煮出す。昨日休み場で飲んだものより少し色が薄くなったため、最初は加減が分からなかったものの、香ばしい匂いはきちんと立った。
三人で少量ずつカップへ分ける。
モモは最初から蜜を少し入れた。
「今日は迷わないんだ」
「昨日確認しましたから」
「俺はそのまま」
「ルシル様も気に入ったんですね」
「苦いけど、朝はこっちのほうがいいかも」
ルシルは両手でカップを包み、湯気を避けながら一口飲んだ。
昨日より薄い。
その分、苦味も弱かった。
「昨日と違う」
「粉の量でしょうね」
シモンも味を確かめる。
「最初から同じ味にはならないでしょう。何度か作れば加減は分かると思います」
「濃いほうがいい?」
「私はこれでも構いません」
「私も蜜を入れるので大丈夫です」
「じゃあ次もこれくらいから試すか」
最初の一杯で完璧に淹れられなくても困ることはない。
三人は朝食を終えると火を完全に始末し、水を補充してから柳水の休み場を出発した。
◇
朝の御者はシモンが担当した。
柳水を離れてしばらくは、昨日と同じように農地が街道の左右へ広がっていた。遠くには低い丘が重なり、その間を縫うように道が西南へ延びている。
交通量は朝から多かった。
セレナス方面へ向かう荷車だけでなく、反対方向からも次々に馬車が来る。昨日の石橋周辺ほど集中してはいないため渋滞することはないが、しばらく誰ともすれ違わない時間のほうが珍しい。
モモは窓の外を眺めながら、荷車を見るたびに積み荷を当てようとはしなかった。
袋が積まれていても中身は分からない。
樽が並んでいても、酒とは限らない。
朝にルシルが聞いた菜種油の話を共有したことで、三人ともそのことは理解していた。
「でも、あれは分かります」
モモが前方を指す。
対向してきた小型荷車には、籠いっぱいの青い葉物が積まれていた。
「野菜」
「それは見えてますからね」
ルシルが笑う。
「じゃあ、あっちは?」
「布……ですかね?」
次の荷車には、色の違う反物らしいものが何本も積まれている。
「布でしょう」
シモンが答えた。
「ただし、どこの布かまでは分かりません」
「そこまで当てなくていいよ」
「昨日のルシル様みたいになりますからね」
「まだ言う?」
モモが楽しそうに笑う。
会話をしながらも、シモンは前方と対向車の位置を絶えず確認していた。
道幅は十分にある。
それでも大型荷馬車とすれ違う際には少し速度を落とし、トルクとベルクが驚かないよう間隔を取る。
朝のうちは順調だった。
変化が現れたのは、農地が減って低い丘へ差しかかった頃だった。
街道脇に、大きな木製看板が立っていた。
「何か書いてあります」
モモが先に気づく。
シモンは通り過ぎる前に読める速度まで馬車を落とした。
『この先、長下り。
積荷確認。
車間を取れ。
車輪熱に注意。
水場まで一刻半。』
ルシルが車内から身を乗り出さない程度に前を見る。
「車輪熱?」
「長い下りでは、制動を続けることで車輪周辺や制動部が熱を持つことがあります」
シモンは看板の先へ視線を移した。
すぐに急坂が始まるわけではない。
道はまだほぼ平らに見える。
「ルーヴェルでドランさんに見てもらったところも関係ある?」
「直接同じ箇所とは限りませんが、馬車全体への負担を確認する意味では関係します。整備後ですから過度に心配する必要はありません。ただ、看板がわざわざ注意している以上、途中で確認したほうがいいでしょう」
「積荷確認って、縄とか?」
「ええ。長い下りでは前方向へ荷が寄りやすくなります」
ルシルは車内を見回した。
彼らの大きな荷物の多くは収納魔法で管理しているため、一般的な荷馬車ほど積載物は多くない。それでも棚に置いてある本や小物、調理道具など、固定を確認すべきものはある。
「止める?」
「この先に確認場所があるかもしれません。看板の周辺では路肩が狭いので、少し進みましょう」
看板を越えて数分進むと、街道の右側に砂利を敷いた広い空間が現れた。
休み場というほど設備はない。
しかし、すでに二台の荷馬車が停まり、御者たちが縄を締め直している。
「ここですね」
シモンは馬車を入れた。
三人は下りへ入る前の確認をすることにした。
◇
馬車を停めると、ルシルはまず車内へ入った。
棚の本は落下防止の縁の内側に収まっている。木製の馬の置物二つと、セイラで買った小さなヤマアカノドの木彫りも固定されたままだった。
「鳥、大丈夫」
「鳥だけじゃなくて全部見てくださいね」
モモが後ろから言う。
「見てるって」
折り畳み式の卓。
調理器具。
水の容器。
食料。
それぞれを確認する。
水は移動中に倒れない位置へ置かれているが、念のため紐を締め直した。
シモンは外から車輪と連結部を確認している。
ルーヴェルの鉄樫車房で手入れを受けてから大きな異常はなく、昨日の石橋や街道を走ったあとも問題はなかった。
モモは車内の後方を確認し、緩んでいた布袋の口を結び直す。
「これ、落ちるほどじゃないですけど、下りで転がりそうでした」
「中身何?」
「豆です」
「豆なら転がるな」
「袋ごとです」
「分かってるよ」
確認を終えて外へ出ると、隣の荷馬車でも御者が縄を強く締めていた。
積み荷は大きな麻袋だ。
その御者は三人の馬車をちらりと見てから、シモンへ声をかけた。
「旅馬車なら荷は軽いか?」
「一般の荷馬車よりは軽いですね」
「なら楽だな。うちは穀物満載だ」
男は縄を引きながら苦笑する。
「この坂、そんなに長いんですか?」
ルシルが尋ねた。
「長いって言っても山道ほどじゃない。ただ、最初が緩いから油断して速度を出す奴がいるんだよ。そのまま後半へ入るときつい」
「後半のほうが急?」
「少しな。それと途中に曲がりが二つある。看板があるから見落としはしないが、前の馬車に詰めすぎるなよ」
「ありがとうございます」
「俺も毎回あの看板に助けられてるからな」
男は街道脇の大きな注意書きへ顎を向けた。
「初めてでも読めば分かる。慣れてても読めば思い出す。ああいうのはありがたいよ」
ルシルも看板を見る。
派手なものではない。
ただ文字が書かれているだけだ。
けれど、知らない道を走る者には、そこで何に注意すべきかが分かる。
「道標とは違うんだな」
「そうですね」
シモンが答える。
「行き先を教えるのではなく、その道の使い方を教えてくれています」
ルシルはその言葉を覚えておくことにした。
確認を終えた三人は再び馬車へ乗り、少し先を走る荷馬車との距離を十分に取ってから長い下りへ入った。
◇
最初の坂は、確かに緩かった。
地面だけ見ていれば、少し傾いている程度にしか感じない。
しかし、トルクとベルクへ余計な負担をかけないようシモンが速度を調整していても、馬車は自然と前へ進もうとする。
「平らな道より押される感じがする」
隣に座ったルシルが言う。
「車体の重さがありますからね。二頭に引かせるだけでなく、馬車側の速度も制御する必要があります」
シモンは急な操作をせず、一定の速度を維持する。
「ルシル様もあとで運転するなら、下りでは『進ませる』より『進みすぎないようにする』意識を持ってください」
「分かった」
ルシルはシモンの手元だけでなく、前を歩く二頭の様子も見る。
トルクもベルクも足取りは安定している。
道面はよく整備され、大きな穴もない。
少し進むと、最初の小さな看板が現れた。
『曲がりまで三百歩。
追越禁止。』
「本当にある」
モモが車内から読む。
さらに進むと、街道は右へ大きく曲がった。
曲がりの外側には低い石積みが続き、その向こうは緩い斜面になっている。
危険な崖ではない。
それでも速度を出したまま曲がる場所ではなかった。
前を行く荷馬車も十分に速度を落としている。
シモンは距離を保ったまま曲がりを抜けた。
「看板なかったら?」
ルシルが尋ねる。
「見えてからでも対応はできます。ただ、事前に分かっているほうが余裕はあります」
「夜だともっと助かりそう」
「ええ。もっとも、初めての道で夜間に長い下りへ入ること自体、できれば避けたいですが」
「それはそうだな」
最初の曲がりを越えたあと、傾斜が少し強くなった。
ルシルにも違いが分かる。
馬車の重量が前へかかる感覚が増し、車輪の音も先ほどより一定の強さで続いている。
シモンは慌てない。
トルクとベルクの歩調を見ながら制動を調整し、前方との距離を保つ。
しばらくすると、道の左側に新しい看板が見えた。
『車輪確認所 百歩先。
異臭・異音・強い熱があれば停車。』
「確認所?」
「ちょうどいいですね」
その先には、下り道から少し横へ外れた平坦な場所があった。
井戸や屋根はないが、車輪を確認するための空間として整備されているらしい。
シモンは馬車を入れた。
「休憩も兼ねましょう」
トルクとベルクを落ち着かせてから、三人は馬車を降りた。
シモンはすぐ車輪へ手を触れず、まず目視で状態を見る。
ルシルは鉄樫車房で教わったことを思い出しながら、その様子を隣で確認した。
「すぐ触ったら駄目なんだっけ」
「異常に熱くなっている可能性がある場合は、いきなり金属部へ手を当てないほうがいいでしょう。まず近くで熱気や匂いを確認します」
焦げた匂いはない。
異音も聞こえない。
シモンが慎重に確認したところ、左右で気になる差もなかった。
「問題ありません」
「ルーヴェルで直してもらったところも?」
「ええ。少なくとも今の状態では異常なしです」
ルシルは少しだけ安心した。
壊れていたわけではないとはいえ、長く使うなら手を入れたほうがいいと言われた箇所を整備してもらったばかりだ。こうして実際に負担のかかる道を走ったあとで問題がないと確認できると、整備を頼んでよかったと改めて思える。
モモはトルクとベルクの様子を見ていた。
「二頭も大丈夫そうです。水は?」
「ここでは少量にしておきましょう。水場まで一刻半という看板がありましたし、今のところ強く汗をかいているわけではありません」
シモンの判断に従い、二頭へ少し休息を取らせる。
同じ確認所へ、後ろから一台の荷馬車が入ってきた。
御者は年配の女性だった。
彼女は馬車を停めると慣れた様子で車輪周辺を確認し、問題がないと分かると腰を伸ばした。
「今日は涼しくて助かるねえ」
「暑い日は大変なんですか?」
モモが尋ねる。
「そりゃね。路面も車輪も熱を持ちやすいし、馬も疲れる。夏場はここで止まる馬車がもっと多いよ」
女性は看板を見上げる。
「昔はこの確認所もなかったらしいけど、事故が続いて作ったって聞いたね」
「事故?」
ルシルが反応する。
「大昔の話だよ。荷を積みすぎた馬車が速度を落としきれなかったとか、車輪の具合が悪いまま下ったとか。私が御者を始めた頃には、もう看板もここもあった」
女性は怖がらせるような口調ではなかった。
むしろ、だから今は使えばいいのだと言わんばかりだった。
「道を使う人が増えたから、こういうのも増えたんですかね」
ルシルが言う。
「さあ、誰が最初に決めたかまでは知らないよ。でも便利なものは残るんじゃないかい?」
それだけ言うと、女性は自分の馬へ水を少し与え始めた。
ルシルは看板へ目を戻す。
誰かが失敗した。
誰かが危ないと思った。
その結果として、今ここに注意書きと確認場所があるのかもしれない。
正確な歴史は知らない。
けれど、道の途中に残された工夫を見れば、以前ここを通った人たちが何に困ったのかは少し分かる。
休憩を終えると、三人は再び下りへ戻った。
◇
二つ目の曲がりを越えたところで長い坂は終わった。
街道は緩やかな平地へ変わり、少し先には看板に書かれていた水場があった。
石造りの水槽へ細い管から水が流れ込み、余った水が脇の溝へ抜けている。飲用可能を示す札もあり、馬用の水槽は別に設けられていた。
時刻は昼に近い。
三人はここで昼休憩を取ることにした。
「看板の通りだった」
ルシルが水を汲みながら言う。
「一刻半も、だいたい合っていましたね」
モモは帳面を取り出す。
「書くの?」
「これは書いておいたほうが便利そうです。セレナスから逆方向へ戻ることがあるかもしれませんし」
「戻る予定ある?」
「今はないです。でも帳面って、今すぐ使うことだけ書くものじゃないでしょう?」
「それはそうか」
モモは道の特徴を簡潔に記録した。
『柳水からセレナス方面。長い下りの前に注意看板。積荷確認場所あり。途中に車輪確認所。坂のあとに飲用できる水場。』
少し考えたあと、最後に『看板は読む』と付け足す。
ルシルがそれを見る。
「すごく当たり前じゃない?」
「当たり前だから忘れないように書くんです」
「俺、ちゃんと読んだよ」
「今日は」
「これからも読むよ」
「じゃあ問題ないですね」
モモは満足そうに帳面を閉じた。
昼食は保存食中心だったが、昨日の魚はもう残っていない。
硬いパンと保存肉、豆を食べながら、三人は水場を利用する馬車を眺めた。
ここでも荷物は様々だった。
木材。
穀物。
空の樽。
陶器らしい箱。
羊毛のようなものを積んだ荷車。
海に関係しているかどうかなど、見ただけでは分からない。
ルシルは今度こそ勝手に決めつけなかった。
「聞かないんですか?」
モモが少し意地悪そうに尋ねる。
「全部聞いてたら昼休み終わらないだろ」
「学びましたね」
「昨日から学んでるよ」
シモンは二人の会話を聞きながら、最後のパンを食べ終えた。
「積み荷より、午後の道を一つ確認しておきたいですね」
「何かある?」
「先ほどの御者に聞いたところ、この先は道が二本に分かれます。ただし、どちらも最終的にはセレナスへ通じるそうです」
「二本?」
ルシルとモモが同時にシモンを見る。
「一方は荷馬車が多く使う本道。もう一方は旧街道で、距離は少し短いものの道幅が狭い区間があるとのことです」
「馬車で通れない?」
「通れます。ただ、大型荷馬車には向かないので、旅馬車や地元の小型荷車が使うことが多いそうです」
「どっちにする?」
ルシルはすぐに決めず、シモンを見る。
「現地の標識も確認しましょう。今聞いた情報だけで選ぶ必要はありません」
「そうだな」
モモも頷いた。
「旧街道って、何かありそうですね」
「何かって?」
「分かりません。古い道なら、古いものがあるかもしれません」
「店とか?」
「どうして古い道に店を期待するんですか」
「何か食べたことないもの売ってるかも」
「それなら本道のほうがありそうです」
「確かに」
どちらを選ぶかは、まだ決めない。
食事を終えた三人は十分に休息を取り、午後の道へ戻った。
◇
分岐は、思っていたより早く現れた。
左右に畑が広がる場所で街道が二つへ分かれ、その中央に大きな石の道標が立っている。
右側には『セレナス本道』。
左側には『セレナス旧道』。
その下には、それぞれ追加の注意書きがあった。
『本道――大型荷馬車通行可。水場二か所。街道休憩所あり。』
『旧道――旅馬車通行可。狭路あり。雨天時ぬかるみ注意。水場一か所。』
三人は分岐手前の広い場所へ馬車を寄せた。
雨は降っていない。
空にも崩れる様子はない。
「旧道、通れるって書いてある」
ルシルが言う。
「ええ。ただし、狭い区間があります」
シモンは左側の道を見る。
入口だけなら本道と大きな違いはない。
少し先で低い丘の間へ入り、そこから見えなくなっている。
「距離は旧道のほうが短いんですよね?」
モモが確認する。
「先ほど聞いた話では。ただし、道幅が狭いぶん速度を出せない可能性がありますから、到着時間が短くなるとは限りません」
「本道は休憩所がある」
「そうですね」
ルシルは道標を見上げた。
どちらもセレナスへ行ける。
片方が正解で、片方が間違いというわけではない。
「急ぐ理由はないけど、旧道もちょっと気になるな」
「私もです」
モモが左を見る。
「どうして?」
「『旧道』って書いてあるからです」
「理由それだけ?」
「十分じゃないですか?」
シモンは眼鏡の奥から二人を見た。
「晴天ですし、現在の馬車の状態にも問題はありません。狭路で対向車が来た場合の対応さえ意識すれば、旧道を選んでも不自然ではありませんね」
「シモンもいい?」
「ええ。ただし、道の状態が想定より悪ければ無理に進みません。引き返せるうちに判断します」
「決まりだな」
三人は左の旧道を選んだ。
シモンがトルクとベルクへ合図を送り、馬車が分岐を離れていく。
本道から外れたからといって、急に荒れた道になることはなかった。
路面は十分に踏み固められており、車輪の跡もある。
ただ、交通量は明らかに減った。
先ほどまで頻繁に聞こえていた荷馬車の音が遠ざかり、周囲には風に揺れる草と鳥の声が戻ってくる。
「静かになった」
モモが窓を少し広く開けた。
「本道とこんなに違うんだな」
「丘の向こうへ分かれていますから、音も届きにくいのでしょう」
シモンは速度を保ちながら進む。
やがて左右の土地が少しずつ高くなり、街道は低い丘の間へ入っていった。
道幅も徐々に狭くなる。
それでも二頭立ての馬車一台が通るには十分だった。
ところどころには対向用と思われる広がりもある。
「昨日の林道みたい」
ルシルが言う。
「似ていますね。ただ、待避場所を示す杭はありません」
「見て判断するしかないか」
「そうなります」
しばらく進んだところで、右側の斜面に石が並んでいるのが見えた。
自然に転がったものではない。
同じくらいの大きさの石が、街道に沿うように一列に置かれている。
「何だろう」
ルシルが見る。
「道の境?」
モモも窓から確認する。
シモンは速度を落とさず、視線だけを向けた。
「可能性はありますが、今のところ分かりません」
さらに進む。
石の列は途中で途切れ、また少し先から始まった。
その一つに、浅く何かが刻まれている。
「文字?」
「止めますか?」
「安全な場所があれば」
少し先に道幅が広くなった場所があった。
シモンは馬車を寄せる。
三人は通行の邪魔にならないことを確認してから降りた。
刻印のある石は、膝より少し低い。
長い年月で角が丸くなり、表面には苔も付いている。
ルシルは苔へ触れず、見える部分だけを確認した。
「文字じゃないな」
刻まれているのは、丸と二本の線を組み合わせたような単純な印だった。
モモが首を傾げる。
「何の印でしょう」
「街道の管理標識か、土地の境界標識かもしれません」
シモンは周囲を見る。
「ただ、この一つだけでは判断できませんね」
「帳面に書く?」
ルシルが尋ねる。
モモは少し考えたあと、帳面を出した。
「絵だけ残しておきます」
印の形を簡単に写す。
写真のように一瞬で残すことはできない。
けれど今は、見えている形を自分の手で線にしていけばいい。
モモが描き終えるまで、ルシルは石の表面を眺めていた。
そこで頭の奥に何かが浮かびそうになることもなく、未知の言葉が出てくることもなかった。
ただの古い石。
意味の分からない印。
今分かるのはそれだけだった。
「できました」
モモが帳面を見せる。
丸の位置と二本の線。
細部までは正確ではないが、あとで同じ印を見たとき比較するには十分だ。
「次にあったら分かるな」
「はい」
「じゃあ行こう」
三人は馬車へ戻った。
◇
旧道をさらに進むと、同じ印を刻んだ石が二つ見つかった。
一つは右側。
もう一つは左側。
並び方に規則があるのかは分からない。
「土地の境なら片側だけにありそうですけど」
モモが言う。
「必ずしもそうとは限りません」
シモンは断定を避ける。
「道そのものに関係する印なら、両側にあっても不自然ではありません。今は同じ印が複数存在することだけ覚えておきましょう」
「古い道だから残ってるのかな」
「それも候補の一つですね」
答えは出なかった。
その代わり、旧道を選んだことで新しく気になるものが一つ増えた。
午後の日差しが少しずつ傾き、丘の影が街道へ長く伸び始める。
セレナスまではまだ距離がある。
今夜どこで休むかも決める必要があった。
そんな頃、前方に新しい看板が見えてきた。
今度は古い石ではない。
比較的新しい木製の看板だ。
シモンが読めるところまで近づく。
『旧道利用者へ。
この先、狭路区間。
対向車は広場で待て。
日没後の通行は非推奨。
次の野営地――古樫広場。』
「野営地ある」
ルシルが看板の最後を見る。
「古樫広場……」
モモも読み上げた。
「距離は?」
「下にありますね」
シモンが確認する。
『ここより半刻ほど。』
空を見る。
日没までは十分に間に合う。
「今日はそこにしようか」
ルシルが提案した。
「賛成です」
モモもすぐに頷く。
「狭路へ入る前に泊まる場所ではなく、狭路の途中か先にある可能性もあります。半刻なら明るいうちに着けますから、進んで問題ないでしょう」
シモンも同意した。
三人の馬車は、古樫広場を目指して旧道を進んだ。
看板の先から道幅はさらに狭くなったものの、路面そのものは悪くない。
途中で一台の小型荷車と出会ったが、ちょうど近くに道が広がっている場所があり、相手側が先にそこへ入って待ってくれた。
御者は年若い女性だった。
「セレナスへ?」
すれ違う直前、彼女が声をかける。
「はい!」
「古樫で泊まるなら水はあるよ! でも井戸じゃなくて湧水だから、札を見て使って!」
「ありがとうございます!」
「あと、夜は冷えるよ!」
それだけ告げると、女性は反対方向へ進んでいった。
「親切な人だったな」
「旧道を使う人同士で情報を渡すことが多いのかもしれませんね」
シモンが答える。
「看板もあるし、人も教えてくれる」
ルシルは道の先を見る。
今日一日だけで、いくつもの看板を見た。
長い下り。
曲がり。
車輪確認所。
水場。
本道と旧道。
狭路。
野営地。
どれも、知らなければ絶対に進めない情報ではない。
それでも知っていれば、少し早く準備できる。
旅人同士の短い言葉も同じだった。
◇
古樫広場へ着いたのは、日が丘の向こうへ沈み始める少し前だった。
名前の由来は、説明されなくても分かった。
広場の中央近くに、一本だけ非常に太い樫の木が立っている。
幹は大人が数人で囲んでも腕が届かなさそうなほど太く、枝は広場の一部を覆うほど大きく伸びていた。
「大きい……」
モモが馬車の窓から見上げる。
「古樫って、これだよな」
「おそらく」
広場にはすでに二組の旅人がいた。
一組は小型馬車。
もう一組は徒歩の三人組で、樫の木から少し離れた場所に荷物を置いている。
水場は広場の奥にあった。
斜面の岩間から湧いた水が石の槽へ流れ込んでおり、札には『飲用可。上流立入禁止』と書かれている。
「さっきの人が言ってた札ですね」
モモが確認する。
「上へ行かなければいいんだな」
「水源を汚さないためでしょう」
三人は馬車を平らな場所へ停め、トルクとベルクを休ませた。
今日の長い下りも、旧道の狭い区間も問題なく走り切っている。
車輪や整備箇所にも異常はない。
日が落ちる前に必要な準備を済ませ、夕食の支度へ移る。
今夜は保存肉と豆、それに残っている一般的な乾燥野菜を使った煮込みにした。
新しい食材はない。
それでも湧水を使って温かい料理を作れるだけで十分だった。
煮込みの匂いが広がる頃、徒歩の旅人の一人が大きな樫の木を見上げていた。
ルシルも何となくそちらを見る。
「何かあるんですか?」
声をかけると、三十代くらいの男が振り返った。
「いや、この木を見るの久しぶりでな」
「前にも来たことが?」
「五年くらい前かな。旧道を通るたびに見るけど、全然変わらん」
男は樫の幹へ近づきすぎない位置から見上げる。
「どのくらい古いんですか?」
「知らん」
あまりにも即答だったため、ルシルは思わず笑った。
「知らないんだ」
「古樫って呼ばれてるくらいだから古いんだろ。百年か二百年か、それ以上か。俺に木の歳なんて分からんよ」
「確かに」
「でも、切るなって昔から言われてるらしい。目印になるからな」
男は街道側から樫を見る。
「旧道を歩いててこれが見えたら、今日はここまでって決める旅人も多い」
「木が看板みたいなものなんですね」
「看板よりでかいけどな」
男は笑い、自分たちの野営場所へ戻っていった。
ルシルは改めて樫を見る。
今日はいくつもの看板に助けられた。
最後に辿り着いた場所では、一本の木そのものが旅人の目印になっている。
「面白いな」
「何がです?」
鍋を見ていたモモが尋ねる。
「今日はずっと看板見てたのに、最後は木が目印なんだって」
モモも古樫を見上げた。
「確かに、これは見落とさないですね」
「夜は見えないかもしれませんよ」
シモンが食器を用意しながら加わる。
「だから日没後の通行を勧めていないのかも」
「それだけが理由とは限りませんが、旧道は照明もありませんし、狭路もあります。明るいうちに着けたのは正解でしょう」
三人は樫の枝が風に揺れる音を聞きながら夕食を取った。
◇
食後、モモは帳面を開いた。
今日は書くことが多い。
長い下りの注意看板。
車輪確認所。
水場。
本道と旧道の分岐。
旧道で見つけた丸と二本線の印が刻まれた古い石。
狭路の注意。
そして古樫広場。
すべてを細かく書けば頁を使いすぎるため、モモは必要な部分だけを選んでまとめていく。
石の印については、昼間に描いた図をそのまま残した。
「これ、何なんでしょうね」
モモが頁を見ながら言う。
「セレナスで聞いたら分かるかな」
ルシルが答える。
「旧道を知ってる人なら可能性はありますね」
シモンは焚き火の向こうから帳面を見る。
「ただ、必ず調べなければならないものでもありません。道の管理印なら簡単に分かるでしょうし、誰も知らなければ、そのままでも旅には支障ありません」
「うん」
ルシルは石の印を思い出す。
気にはなる。
けれど、以前のグレイで見つけた加工石や地下の異変とは状況がまったく違う。
魔力の異常を感じたわけでもない。
危険があったわけでもない。
古い街道に、同じ印の石がいくつか並んでいただけだ。
「セレナスで道を聞くとき、ついでに聞いてみよう」
「それくらいがいいですね」
モモは帳面へ『旧道の石印――意味不明。複数あり』と書き加えた。
新しい謎ではあるが、今すぐ答えを求めるものではない。
それよりも、明日はこの旧道をさらに進む。
狭い区間がどこまで続くのか。
本道とはどこで合流するのか。
そしてセレナスまで、あとどれほどなのか。
今夜確認できることは、目の前の道についてだった。
「明日、旧道を抜けたらセレナスに着く?」
ルシルが尋ねる。
「可能性はありますが、断定できません」
シモンは昼に見た石標と、これまで得た情報を頭の中で整理する。
「昨日の表示は一般的な行程を基準にした『二日路』でした。私たちは今日かなり進みましたが、旧道へ入っています。明日の道の状態次第では、町の手前でもう一泊する可能性もあります」
「分かった」
「ルシル様、明日着いたら何したいですか?」
モモが尋ねる。
「海への道を聞く」
「それは三人ともすることです」
「じゃあ市場」
「やっぱり食べ物ですか?」
「セレナスって道が集まる町なんだろ? 今日みたいに色んな荷物が来るなら、売ってるものも違うかもしれない」
「それはちょっと気になります」
「モモもじゃん」
「私は食べ物だけとは言ってません」
「俺も食べ物だけとは言ってないよ」
シモンは二人の会話を聞きながら、小さく息を吐いた。
「まず宿を確保してください」
「あ」
「そうでした」
「馬車と二頭の場所も必要です。町へ着く時間によっては、情報収集も翌日で構いません」
「了解」
ルシルは素直に頷いた。
町が見えたからといって、そのまま市場へ飛び込むわけにはいかない。
馬車を停める場所。
トルクとベルクを休ませる厩。
三人が眠る場所。
先に必要なのはそちらだ。
旅を始めた頃なら、そうした順番の多くをシモンへ任せきりにしていたかもしれない。
今は言われればすぐに分かるし、状況によっては自分から考えられることも増えた。
ただ、その変化をわざわざ口にする者はいなかった。
焚き火の薪が崩れ、赤い火の粉が小さく舞う。
モモは帳面を閉じた。
シモンは明日の朝すぐ確認できるよう水と食料の位置を整え、ルシルは古樫の向こうへ続く旧道を眺めた。
空は晴れている。
木々の隙間には星が見え始めていた。
明日も雨の気配がなければ、旧道のぬかるみを心配する必要はなさそうだった。
風が吹くたび、大きな樫の枝がゆっくり揺れる。
何十年、あるいは何百年そうしてきたのかは誰も知らない。
けれど今夜も、その木は街道を進んできた旅人たちの目印として広場の中央に立っている。
ルシルはその姿をしばらく見上げてから、二人のいる火のそばへ戻った。
セレナスへ続く二本の道のうち、三人が選んだのは静かな旧道だった。
その先に何があるのかは、明日、自分たちの目で確かめればよかった。




