↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
72/99

第72話 橋の向こうから、海の荷物がやってきました


 麦角の休み場を出る前に、シモンは管理小屋で今日の道について最後の確認を済ませた。


 昨夜聞いた通り、この先には小さな川があり、橋そのものは問題なく通行できる。ただし、橋へ着くまでの途中に宿泊設備を備えた場所はなく、街道脇に二か所ほど旅人が利用する休憩場所があるだけらしい。距離を考えれば日中のうちに橋を渡れる可能性は十分にあるものの、馬車の往来やトルクとベルクの状態によっては、手前で一泊しても構わない道程だった。


「林の中に昨日みたいな待避場所はありますか?」


 ルシルが尋ねると、管理人の女性は窓口の奥から街道図を引き寄せ、指先で一本の線をなぞった。


「ここからしばらくはあるよ。ただ、森を抜けると道幅が広がるから、その先はほとんど必要ないね。川へ近づくほど荷車が増えるから、追い越しと合流には気をつけな」


「荷車が増えるのは、セレナスから来る道があるからですか?」


「それもあるけど、橋の向こうで東寄りの道が一本合流するんだ。海側から運ばれてきた荷も、セレナスを経由してこっちへ流れてくる。まあ、詳しいことは町で聞いたほうが確かだよ」


 昨夜より少しだけ具体的な言葉が出たことで、モモの視線が街道図へ向いた。


「海側の荷物……」


「海そのものが近いって意味じゃないぞ」


 ルシルが先に言うと、モモは頬を少し膨らませた。


「分かっています。私、そこまで単純じゃないですよ」


「俺も自分に言ったんだけど」


「本当ですか?」


「半分くらい」


 二人のやり取りを聞いていた管理人の女性が笑い、シモンは街道図から必要な情報だけを確認して頭を下げた。


「ありがとうございます。橋を渡った先については、セレナスで改めて確認します」


「それがいいね。気をつけて行きな」


 三人は礼を告げ、麦角の休み場をあとにした。


 昨日買った麦角豆の粉は食料の一角へ収まっている。水も十分に補充できており、トルクとベルクの様子にも問題はないため、今日は余計な買い足しもせず、そのまま西南へ延びる街道へ馬車を進めた。


 朝の空気にはまだ少し冷たさが残っていたが、木々の間から差し込む日差しは昨日より明るかった。麦角の休み場を離れて間もなく林が再び深くなり、道の左右には昨日と同じ待避場所を示す杭が何度か現れる。


 ルシルは御者台からその位置を確かめながら、一定の速度で二頭を進ませた。


「今日は俺が最初でいい?」


「構いません。森を抜けるまではルシル様、その先で交代を考えましょう」


 隣に座るシモンが答えた。


「昨日より対向車が多くなるんだよな」


「おそらく。ただ、数だけを警戒する必要はありません。道幅が変われば走り方も変わりますから、実際の状態を見て判断しましょう」


「了解」


 ルシルは前方へ意識を戻した。


 王都を離れてから、馬車の扱いについて覚えたことは多い。それでも道が変われば、新しく見るものが出てくる。


 昨日は待避場所だった。


 今日は橋と、その先から増えるという荷馬車だ。


 それだけでも、同じ西南へ進む一日にはならなかった。


 ◇


 午前の林道では、昨日覚えた待避場所が早速役に立った。


 前方から二頭立ての荷馬車が現れたとき、ルシルは相手との距離だけでなく、少し前に通過した待避場所と、進行方向の先に見えている次の待避場所を比べた。向こうの御者も同じことをしていたらしく、荷馬車側が先に手を上げると、進行方向から見て相手側にある退避区画へ入ってくれた。


 ルシルは十分に速度を落とし、横を通過する。


「ありがとう!」


「おう!」


 短い挨拶だけが交わされ、二台はそれぞれ反対方向へ進んだ。


 昨日のように使い方を確かめる必要はなかった。


 だからといって慣れたつもりになることもなく、ルシルは次の曲がりへ入る前に道の先を確認する。


 シモンはその横で何も言わなかった。


 必要なときだけ補助すればいい。


 それで十分だった。


 やがて、林の中へ差し込む光が少しずつ強くなっていった。


 木々の間隔が広がり、下草の色も明るくなる。鳥の声に混じって遠くから聞こえていた葉擦れの音も薄れ、代わりに風が直接馬車の側面を撫でるようになった。


「抜けそうですね」


 車内から外を見ていたモモが言う。


 数分後、視界が一気に開けた。


 街道の左右には低い草地が広がり、そのさらに向こうに畑が点在している。昨日まで頭上を覆っていた枝葉がなくなったことで空が大きく感じられ、ルシルは思わず背筋を伸ばした。


「広いな」


「森のあとだから余計にそう見えますね」


 モモも前へ出てくる。


 街道そのものも、管理人が話していた通り少し広くなっていた。大型荷馬車同士でも速度を落とせば十分にすれ違えそうで、路肩も林道より余裕がある。


 さらに目立つのは、車輪の跡だった。


 一組や二組ではない。


 土の上に何本もの筋が重なり、場所によっては浅い轍になっている。


「本当に増えてるな」


「橋へ集まる道なのでしょう」


 シモンは前方を見る。


 まだ川は見えない。


 ただ、遠くに荷馬車らしい影が二台動いていた。


 ルシルたちと同じ方向へ進んでいる。


「追いつくかな」


「こちらのほうが速そうですが、急いで抜く必要はありません。道幅が十分ある場所で、相手が譲る意思を示したときにしましょう」


「分かった」


 少しずつ距離が縮まっていく。


 先を行くのは、一頭立ての荷車と二頭立ての幌馬車だった。


 どちらも荷を積んでいるらしく速度はそれほど出ていない。


 やがて最後尾の幌馬車の御者がこちらへ気づき、後方を何度か確認したあと、路肩の広い場所で左手を上げた。


 シモンが言う。


「先へ行けという合図ですね」


 ルシルは周囲を確認した。


 対向車はいない。


 道幅にも余裕がある。


「行くよ」


 トルクとベルクへ合図を送り、少しだけ速度を上げる。


 追い越すときも相手の馬へ近づきすぎないよう間隔を取り、御者台が並んだところで軽く頭を下げた。


「ありがとうございます!」


「橋まで行くなら、この先混むぞ!」


 御者の男が返してくる。


「何かあるんですか?」


「昼前は向こうから荷が来る!」


 それだけ言うと、男は自分の馬へ意識を戻した。


 ルシルも長話をせず、十分に前へ出てから元の進路へ戻る。


「昼前に向こうから荷が来るって」


「定期的な荷運びかもしれませんね」


 シモンは空の位置を見た。


「今の時間なら、ちょうど重なる可能性があります」


「橋で渋滞する?」


「橋の幅次第です」


「じゃあ見てからだな」


 先を行く一頭立ての荷車も、しばらくすると同じように道を譲ってくれた。


 三人は礼を告げて前へ出たものの、それからは速度を上げなかった。


 橋へ近づけば交通が増える。


 その情報を得た以上、早く着くことより周囲を見やすい速度のほうがいい。


 ◇


 昼前になると、風の中に水の気配が混じり始めた。


 匂いというほど明確ではない。


 街道の左側へ広がっていた畑が途切れ、低い土地に細かな草が増えている。少し先には柳に似た枝の細い木も見えた。


「川、近い?」


 モモが尋ねる。


「たぶん」


 ルシルは前方を見た。


 街道が緩やかに下っている。


 その先で道の左右に低い石柱が立ち、さらに向こうには人や馬車が集まっていた。


「橋かな」


「そのようですね」


 シモンが答える。


 近づくにつれて状況が見えてくる。


 川幅は、これまで渡った細い水路より明らかに広い。それでも大河と呼ぶほどではなく、対岸の人の姿を十分に確認できる程度だった。


 橋は石造りだった。


 低い欄干が左右に続き、中央部分だけ少し高くなっている。


 そして橋の手前には、三台の荷馬車が停まっていた。


「止まってる?」


「通行待ちでしょう」


 シモンが対岸を見る。


 向こうから、複数の馬車が橋を渡ってきていた。


 橋は二台が並べるほど広くない。


 そのため、片側ずつ順番に通しているらしい。


 橋の入口には腕章を付けた男が立ち、手に持った短い棒で馬車へ合図を送っている。


「係の人がいるんだ」


「交通量が多い時間だけ配置されるのかもしれませんね」


 三人の馬車も列の最後へついた。


 ルシルはトルクとベルクを止め、前方の様子を見る。


 対岸から来る一台目は、大きな荷馬車だった。


 荷台には木箱が積まれ、その上から網が掛けられている。


 二台目も同じような形だ。


 三台目は幌付き。


 四台目は――。


「いっぱい来ますね」


 モモが数えるのを途中でやめた。


「さっきの人が言ってた荷かな」


「可能性は高いでしょう」


 対岸から渡ってくる馬車は、どれも積載量が多い。


 ただし、荷物の種類は統一されていなかった。


 木箱。


 樽。


 麻袋。


 細長い板材の束。


 大きな籠。


 それぞれ別の商人が運んでいるように見える。


 ルシルは何となく眺めていたが、五台目の荷馬車が近づいたところで鼻を動かした。


「……何か匂う」


 モモも少し遅れて気づく。


「魚?」


「魚ですね」


 シモンが答えた。


 近づいてきた荷馬車には蓋付きの木箱がいくつも積まれている。


 完全に密閉されているわけではないらしく、風向きが変わるたびに魚の匂いが流れてきた。


 荷馬車が三人の横を通過する。


 木箱の側面には、青い塗料で魚を簡略化した印が描かれていた。


「川魚かな」


 ルシルが言う。


「分かりません」


 シモンは箱を見る。


「この川で獲れたものをわざわざ対岸から大量に運んでいる可能性もありますが、別の土地から来た荷かもしれません」


 すると、前に並んでいた荷馬車の御者が振り返った。


「そりゃ海魚だよ」


「海の?」


 ルシルとモモの声が重なった。


 男は二人の反応に少し驚いたあと、笑う。


「セレナスの先から来る荷だ。塩漬けと干物が多いが、今のは冷却箱じゃないか?」


「冷却箱?」


「氷石を入れて運ぶ箱だよ。高いから何でも使えるもんじゃないけどな」


 ルシルは通り過ぎていく荷馬車を振り返った。


 海魚。


 それだけなら王都でも食べたことはある。


 保存されたものや、高価な食材として運ばれてきたものが食卓へ上ることもあった。


 けれど今は、その魚が運ばれてきた方向へ自分たちが進んでいる。


(同じものなのに、今は全然違って見えるな)


 胸の中に浮かんだ感覚を、ルシルはすぐには言葉にしなかった。


 魚そのものが珍しいのではない。


 箱に描かれた印も、荷馬車も、王城で知っていた海の知識も、どれも特別なものではない。


 それでも、自分たちの目的地からこちらへ流れてくる荷物を街道の途中で見たことで、まだ見えない海が道の先に実際に存在しているのだと、少しだけ実感できた。


「海からここまで来るんですね」


 モモも通り過ぎた箱を見ている。


 彼女も似たことを感じたらしい。


「道が繋がっている以上、当然ではあるんですけど……何だか変な感じです」


「分かる」


 ルシルが答える。


「俺たちは向こうへ行ってて、魚はこっちに来てる」


「すれ違いましたね」


「魚とは会ってないけど」


「箱の中にいます」


「たぶんね」


 前の御者がまた笑った。


「海見物か?」


「はい」


 モモが答える。


「ならセレナスで道を聞くといい。海へ出る道は一つじゃないからな」


 昨夜話していたことと同じ情報だった。


 ルシルは身を少し前へ乗り出す。


「見える場所も違う?」


「そりゃ違うさ。港へ出る道もあれば、漁村のほうへ抜ける道もある。俺は荷運びだから港しか使わんけどな」


「漁村もあるんだ」


「海沿いなんだからあるだろ」


 男は当然のように答えたあと、橋のほうへ視線を戻した。


「詳しくはセレナスで聞け。ここで話してると、前が動いたとき置いていかれるぞ」


「あ、ありがとうございます」


 ちょうど対岸から来る最後の馬車が橋を渡り終えたところだった。


 交通整理の男が棒を上げる。


 こちら側の先頭馬車が動き始めた。


 ルシルも会話を切り上げ、トルクとベルクへ意識を戻した。


 ◇


 順番が来るまで、それほど時間はかからなかった。


 橋の入口へ近づくと、交通整理の男が馬車を一台ずつ確認している。


「前の馬車と間を空けて! 中央で止まらないように!」


 声がよく通る。


 橋そのものに異常があるわけではなく、単純に混雑を避けるための指示らしい。


 三人の番になる。


「旅馬車だな?」


「はい!」


「前が半分越えたら入っていい! 対岸の係が合図するまで真っ直ぐ進め!」


「分かりました!」


 ルシルは前の荷馬車を見る。


 石橋の中央を越え、対岸へ向かっている。


 入口の男が棒を振った。


 トルクとベルクを進ませる。


 蹄が土から石へ移った瞬間、音が変わった。


 硬い響きが欄干へ反射し、車輪の音も少し大きくなる。


 ルシルは速度を一定に保った。


 橋の中央付近から下を見ると、水は思ったより澄んでいる。


 流れは穏やかだが、浅いわけではなさそうだった。


「魚いますかね」


 後ろからモモの声がする。


「今探すの?」


「見るだけです」


「落ちないでよ」


「車内からどうやって落ちるんですか」


 シモンが川の上流側へ視線を向ける。


「ここからでは分かりませんね。少なくとも漁をしている人は見えません」


「さっき海魚見たから川魚も気になって」


「食べる話?」


「見る話です」


「本当に?」


「本当です」


 橋の上で交わす会話としてはずいぶん穏やかだった。


 対岸の係がこちらへ手を振っている。


 ルシルはそのまま馬車を進ませ、石橋を渡り切った。


 土の道へ戻ったところで、対岸側の係が次の馬車へ合図を送る。


 ルシルは後方を一度だけ振り返った。


「渡ったな」


「渡りましたね」


 モモも窓越しに橋を見る。


 特別大きな橋ではない。


 難所でもなかった。


 けれど、その向こうから海の魚を積んだ荷馬車がやってきた。


 それだけで、橋の手前と向こう側が少し違って感じられた。


 ◇


 橋を越えた先には、予想していたより大きな休憩場所があった。


 交通量の多い橋の近くということもあり、井戸と馬繋ぎだけでなく、簡単な食事を売る屋台まで並んでいる。


 時刻もちょうど昼を回ったところだった。


「休む?」


 ルシルが尋ねる。


「二頭にも休憩を入れましょう。橋の待ち時間はありましたが、立ったままでしたから」


 シモンの提案で、三人は空いている場所へ馬車を停めた。


 トルクとベルクを馬繋ぎへ移し、水を与える。


 周囲には先ほど橋ですれ違ったものと同じ印の木箱もいくつか置かれていた。


 荷馬車から別の荷車へ積み替えているらしい。


 作業員たちが声を掛け合い、箱を一つずつ運んでいる。


 モモは邪魔にならない位置から様子を見た。


「本当に魚なんですね」


 開けられた箱の一つには、銀色の魚が並んでいた。


 間には白く曇った小さな石が詰められている。


「あれが氷石?」


「おそらく」


 シモンも見る。


「冷気を蓄える性質を持つ魔石でしょう。珍しいものではありませんが、量を揃えて長距離輸送へ使えば費用はかかります」


「王都でも使ってた?」


 ルシルが尋ねる。


「食材庫の一部では使われていました。ルシル様も見たことはあるはずですが、厨房の設備を細かく確認する機会は少なかったでしょう」


「ああ……言われてみれば、白い石が入ってる箱は見た気がする」


 記憶の中にあるのは、王城の厨房へ何かを届けた際に見た光景だった。


 当時は用途まで気にしなかった。


「知ってたのに知らなかったみたいだ」


「用途を意識していなかっただけでしょう」


 シモンは淡々と答える。


「今は運ばれてくるところから見ていますから、印象が違うのも当然です」


 作業をしていた男の一人が、三人の視線に気づいた。


「買うなら向こうの屋台だぞ! こっちは荷渡し用だから触るなよ!」


「見るだけです!」


 ルシルが答える。


 男は「ならいい!」と笑い、また箱を運び始めた。


「屋台に魚あるって」


 ルシルが振り返る。


 モモも屋台を見る。


「お昼にします?」


「食べたい」


「私もです」


 二人の視線がシモンへ向いた。


 シモンは少しだけ間を置いた。


「私も興味はあります」


「決まりだな」


 三人は荷物の積み替えから離れ、屋台へ向かった。


 ◇


 魚を扱う屋台は二軒あった。


 一軒は干物を焼いており、もう一軒は小さく切った魚と香草を薄いパンに挟んで売っている。


 モモが両方を見比べる。


「どっちにします?」


「両方一つずつ買って三人で分ける?」


「いいですね」


 シモンも反対しなかった。


 焼いた干物は塩気が強く、身が締まっている。


 パンに挟まれた魚は干物ではなく、火を通した身を細かくほぐしてあり、刻んだ香草と酸味のある汁が少しだけかかっていた。


 三人は屋台から離れた木製の長椅子へ座る。


 まず干物を分ける。


「しょっぱい」


 ルシルが一口食べて言った。


「保存するためでしょうね」


 モモは小さくちぎってパンと一緒に食べる。


「パンとならちょうどいいです」


「酒にも合う味だな」


 近くに座っていた荷運びの男が笑いながら口を挟んだ。


 手には木杯がある。


「昼から飲んでるんですか?」


 ルシルが聞くと、男は首を横に振った。


「薄い果実水だよ。これから荷車を引くのに酒なんか飲めるか」


「あ、すみません」


「色が似てるからな」


 男は気にした様子もなく、自分の食事へ戻った。


 次に魚を挟んだパンを三人で分ける。


 こちらは干物ほど塩辛くない。


 香草の香りと酸味が魚の脂を軽くしており、ルシルは一口食べたあと、思わず断面を見た。


「これ美味しいな」


「ですね」


 モモも頷く。


「海の近くへ行ったら、もっと魚料理が増えるんでしょうか」


「沿岸なら増えるでしょう」


 シモンは自分の分を食べながら答えた。


「ただし、地域によって食べ方は違うはずです。港町と漁村でも違うでしょうし」


「港と漁村……」


 モモは少し考え込む。


 昨夜、最初に見る海をどこにするか選べるかもしれないと話した。


 今日になって、港以外にも海へ出る道があると実際に聞いた。


(本当に選べるのかもしれないんですね)


 胸の内で言葉にすると、まだ見てもいない景色が少しだけ近づいた気がした。


 港なら、多くの船や人がいるのだろう。


 漁村なら、もっと静かな海なのかもしれない。


 もちろん、今のモモにはどちらも想像でしかない。


「モモ嬢?」


 シモンに呼ばれ、モモは顔を上げた。


「すみません。ちょっと考えてました」


「海?」


 ルシルが尋ねる。


「はい。最初に見るなら、どんなところがいいかなって」


「もう決める?」


「まだ決めません。セレナスで聞いてからです」


「俺もそうしよう」


 ルシルは残っていたパンを食べる。


「港も見たいし、漁村も見たい」


「両方行けばいいんじゃないですか?」


「……それだ」


 モモは少し呆れたように笑った。


「最初にどこから見るかって話ですよ」


「そうだった」


「海へ着く前から、行きたい場所が増えてますね」


「まだ増えるかも」


「たぶん増えます」


 シモンは二人の会話を聞きながら、自分の分の魚を食べ終えた。


 海へ着くことだけを目的にするなら、最短の道を選べばいい。


 けれど二人が話しているのは、どこから海を見るか、そのあと何を見るかということだった。


 彼自身、以前は港へ仕事で行き、必要な相手と会い、必要な手続きを済ませて帰っただけだ。


(今回は、同じ海でも別のものを見ることになりそうですね)


 そう思いながら、シモンは水を一口飲んだ。


 口には出さない。


 今はまだ、セレナスへ向かう途中なのだから。


 ◇


 休憩を終えた三人は、午後の道へ戻った。


 御者はシモンへ交代する。


 橋を越えた先では街道が二本に分かれていたが、標識には行き先がはっきり刻まれている。


 右寄りの道は東方の町へ。


 左寄りの道がセレナス方面だった。


「こっちですね」


 モモが標識を見る。


「ええ」


 シモンは左へ馬車を進めた。


 管理人が話していた合流路は、どうやらこの分岐のことらしい。


 セレナス方面へ入ってからも荷馬車の数は多かった。


 ただ、橋の周辺ほど集中してはいない。


 対向車の荷には、魚以外のものも目立つ。


 大きな樽。


 縄の束。


 布。


 木材。


 何が海側から来たもので、何がセレナス周辺のものなのかは分からない。


 ルシルは最初こそ荷台を見るたびに気にしていたが、分からないものを勝手に海と結びつけるのはやめた。


「全部海から来たように見えてくるな」


「違うものもかなりあるでしょうね」


 モモが答える。


「分からないなら、セレナスで聞けばいいか」


「そうしましょう」


 街道の両側には再び畑が増えていった。


 午前中に見たものより区画が大きく、作物の種類も一つではない。


 背の低い緑の葉が並ぶ畑の隣に、腰ほどの高さまで伸びた茎が続き、その向こうには何も植えられていない茶色い土地が広がっている。


 ところどころに農家らしい建物も見えた。


 海を意識するような荷物とすれ違っていても、周囲の景色はまだ内陸の農地だった。


 潮の匂いもない。


 海鳥らしい鳥が飛んでいるわけでもない。


 道だけが、その先へ繋がっている。


 午後も半ばを過ぎた頃、街道脇に小さな石標が現れた。


『セレナス 二日路』


 ルシルが読み上げる。


「二日?」


「徒歩や一般的な荷馬車を基準にした表示かもしれません」


 シモンは馬車を進めながら石標を見る。


「ここから必ず二日という意味ではないでしょう。休憩や宿泊場所によっても変わります」


「でも、まだ今日着かないのは確実だな」


「それは確実ですね」


 モモは窓から石標を振り返る。


「次の休めるところは?」


「今朝聞いた情報では、橋を越えたあとにも街道沿いの休憩場所があります。夕方までには届くはずです」


「名前ある?」


「聞いた限りでは『柳水の休み場』です」


「柳?」


「川沿いではなく、小さな湧水の周囲に柳に似た木が多いからそう呼ばれているそうです」


「水あるんだ」


「飲用できると聞いていますが、現地表示も確認します」


 目的地が決まった。


 三人はそのまま午後の街道を進んだ。


 ◇


 日が傾き始める頃、道の左側に細長い木々が並び始めた。


 枝が下へ垂れ、風に揺れる葉が淡い音を立てている。


 その奥に低い屋根が見えた。


「柳水?」


「おそらく」


 シモンが速度を落とす。


 入口には木の看板が立っていた。


『柳水の休み場』


 名前はそのままだった。


 麦角ほど大きな施設ではない。


 屋根付きの休憩所が一棟。


 馬繋ぎ。


 水場。


 野営できる平らな土地。


 管理小屋はなく、利用者が自分たちで使う形式らしい。


 すでに三台の馬車が停まっていた。


 そのうち一台は、昼前に橋ですれ違ったものとは違う商人の馬車だった。


「今日はここですね」


 シモンが言う。


「うん」


 ルシルも周囲を確認する。


 まだ進める明るさは残っている。


 しかし、この先に確実な野営場所があるという情報は持っていない。


 三人は柳水の休み場へ入り、空いている場所へ馬車を停めた。


 水場には石造りの小さな槽があり、脇の札に『飲用可・馬桶別』と書かれている。


 トルクとベルクへ水を与え、二頭を休ませる。


 今日も体調に問題はなかった。


 夕食には、橋の近くで買った干物を少しだけ残して持ってきていたため、それを硬いパンと豆のスープへ合わせることになった。


 昼とは違い、干物を細かくほぐしてスープへ入れる。


「塩入れなくてもいいかも」


 モモが鍋を味見する。


「干物から出てますね」


 シモンも確認する。


「追加するなら最後にしましょう」


 ルシルは火のそばでパンを軽く温めていた。


「海の魚で夕飯か」


「まだ海は見えてませんけどね」


「でも向こうから来たんだろ?」


「そうですね」


 モモは鍋を混ぜる。


 昼に食べたときとは違い、豆の味に魚の塩気と香りが混ざっていた。


 豪華な料理ではない。


 それでも、三人にとっては今日の道をそのまま食べているような夕食になった。


 ◇


 食後、モモは帳面を開いた。


 麦角の休み場から林を抜けたこと。


 待避場所を利用しながら進んだこと。


 川の石橋では時間帯によって片側ずつ馬車を通していたこと。


 橋の向こうから海魚を積んだ荷馬車が来たこと。


 海へ出る道には港方面と漁村方面など複数あるらしく、詳しくはセレナスで確認すること。


 そして、今夜は柳水の休み場にいること。


 必要なことだけを書き終え、モモは少し考えてから最後に一行加えた。


『海はまだ見えない。でも、海から来た魚とはすれ違った。』


「それは感想?」


 横から見ていたルシルが尋ねる。


「記録でもあります」


「昨日から基準変わってない?」


「帳面は成長するんです」


「便利な言葉だな」


 モモは気にせず帳面を閉じた。


 少し離れた場所では、別の旅人たちが夕食を終え、火の始末をしている。


 柳のような木々の向こうから流れてくる風は、昼間より冷たくなっていた。


 ルシルは椅子に座り、昼に見た木箱を思い出す。


 銀色の魚。


 白く曇った氷石。


 青い魚の印。


 それらは写真のような未知の記憶を呼び起こすものではなく、今いる世界の中で昔から知識として存在していたものだった。


 けれど、知っているものでも、自分で道を進み、その荷物がどこから来てどこへ向かうのかを見ると、意味が変わることがある。


「明日も海の荷物とすれ違うかな」


 ルシルが言う。


「どうでしょう」


 シモンは馬車の近くで明日のために縄を整えながら答えた。


「セレナスへ近づくほど物流は増えるかもしれませんが、時間帯にもよるでしょうね」


「魚以外も分かると面白いな」


「勝手に全部海産物だと思わないでくださいね」


 モモが笑う。


「もう分かってるって」


「さっき樽をずっと見てたじゃないですか」


「海から来た酒かなって」


「ほら」


「可能性はあるだろ?」


「ありますが、確認してません」


 ルシルは反論しかけて、やめた。


「……セレナスで聞く」


「それがいいです」


 シモンが眼鏡の位置を直す。


「セレナスでは街道情報だけでなく、海へ向かう複数の経路も確認しましょう。港、漁村、そのほかに旅人が海岸へ出られる場所があるのか。道の状態と馬車での通行可否も必要です」


「馬車で行けない道もあるか」


「可能性はあります」


「じゃあ、景色だけで選べないな」


「そうですね。トルクとベルク、それに馬車で無理なく行けることが前提です」


 モモも頷いた。


「海を見るために馬車を置いていく必要があるなら、それもそのとき考えればいいですけど、最初から決めることじゃないですね」


「うん」


 三人の目的は変わらない。


 ただ海へ到着するだけではなく、三人と二頭でそこまで旅を続けていく。


 その途中で、どこから海を見るのかという新しい選択肢が生まれただけだった。


 夜が深くなるにつれ、休み場を包む音は少なくなっていった。


 水場から聞こえていた旅人の声が消え、馬たちも静かになる。風が垂れた枝を揺らすたび、細い葉が互いに触れ合って柔らかな音を立てていた。


 海の音ではない。


 潮風でもない。


 今夜三人のそばにあるのは、街道沿いの小さな湧水と、風に揺れる木々だけだった。


 それでも道の向こうからは、すでに海の魚が運ばれてきている。


 ルシルはそのことを思いながら、明日も西南へ進む道を頭の中に描いた。


 セレナスは、まだ先にある。


 そしてそのさらに向こうには、三人がまだ自分の目で見たことのない海が待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。