第71話 森の街道には、道を譲る場所がありました
林の手前にある旧荷置き場を出たのは、朝の光が木々の上まで届き始めた頃だった。
昨夜のうちに確認していた通り、トルクとベルクの体調にも馬車にも異常はない。朝食と出発準備を済ませた三人は、先に出発する商人の馬車を見送ってから街道へ戻り、麦角の休み場を目指して西南へ進み始めた。
空は薄い雲がところどころに浮かぶ程度で、雨の気配はなかった。昨夜まで遠くに見えていた林はすぐ目の前まで迫っており、街道の左右から伸びた枝が、場所によっては頭上を覆うほど近づいている。
「ここから森か」
御者台に座ったルシルが前方を眺めると、隣のシモンは周囲の地形と街道の状態を確かめながら頷いた。
「案内所で聞いた区間でしょう。森と言っても街道そのものは整備されていますし、今のところ道幅も十分あります」
「昨日聞いた人は、夕方から入るのは勧めないって言ってたよな」
「見通しの問題が大きいのでしょうね。魔物が増えているという情報はありませんでしたから、必要以上に警戒する必要はありません」
ルシルは頷き、二頭をそのままの速度で進ませた。
林へ入ったからといって、急に危険な場所へ変わったわけではない。街道には車輪の跡が幾重にも残り、脇には人の手で刈られた草も見える。少し進めば道標も立っており、ルーヴェルとセレナスを結ぶ道として日常的に使われていることが分かった。
それでも、昨日までの開けた草地とは空気が違った。
枝葉に遮られた日差しが街道へ細かな模様を落とし、馬車が進むたびにその形が流れていく。風が吹けば高いところで葉が擦れ合い、少し遅れて低い枝が揺れる音が聞こえた。
車内の窓を開けていたモモも、その変化を楽しんでいるらしい。
「涼しいですね」
「昨日よりかなり楽だな」
「お昼も木陰を探さなくてよさそうです」
「全部木陰みたいなもんだからな」
ルシルが答えると、モモは窓から上を見た。
「でも、ずっと同じじゃないですよ。右は葉っぱが明るいですけど、左は暗いです」
言われてみれば確かに違う。
街道の右側には細い幹の木が多く、葉も淡い緑色をしている。それに対して左側は太い木が目立ち、枝葉も濃いため、林の奥まで視線が通らない。
「木の種類が違う?」
「そのようですね」
シモンも左右を見比べたものの、すぐに樹種を断定することはしなかった。
「植生が変わる境目なのか、人が伐採した時期に差があるのかもしれません。少なくとも、自然にすべて同じ状態になったようには見えませんね」
「誰かが木を切ってるの?」
「街道沿いですから、管理のために伐採することはあるでしょう。ただ、ここで実際にどう管理されているかまでは知りません」
「じゃあ、分からないままか」
「今はそれで困りません」
シモンの答えに、ルシルも素直に頷いた。
知らないものを見つけるたびに答えが必要なわけではない。林の左右で木々の様子が違うということだけ覚えておけば、何かの機会に理由を知ることもあるだろう。
馬車はそのまま木漏れ日の中を進んでいった。
◇
林へ入ってしばらくすると、道幅が少し狭くなった。
二台の馬車が絶対にすれ違えないほどではないが、大型の荷馬車同士ならかなり慎重になる必要がありそうだった。街道の片側には浅い排水溝も続いているため、無理に端へ寄れば車輪を落とす危険がある。
ルシルは自然と速度を落とした。
「前から来たらどうする?」
「この幅なら、小型馬車同士であればすれ違えます。ただし、相手が大型なら――」
シモンが答えている途中で、モモが後ろから声を上げた。
「何かありますよ」
少し先の左側だけ、林が四角く切り開かれている。
そこには馬車一台が十分に入れる程度の空間があり、入口に低い杭が立っていた。杭には文字ではなく、二本の矢印が互いに反対方向を向く印が彫られている。
「何だろ」
ルシルは速度をさらに落とした。
「待避場所でしょう」
シモンが答える。
「馬車がすれ違うための?」
「おそらく。道幅をずっと広げるより、一定間隔でこうした場所を作るほうが維持しやすい道もあります」
ルシルは空間の奥を見る。
地面には何本もの車輪跡が残っていた。
休憩するための設備はなく、水場も馬繋ぎもない。確かに、長く留まる場所というより、すれ違うためだけに街道から外れられるよう作られているらしい。
「これ、覚えておいたほうがいいな」
「ええ。次がどの程度の間隔であるかも見ておきましょう」
最初の待避場所は使わず、そのまま通過する。
ところが、それからあまり進まないうちに、前方から鈴の音が聞こえてきた。
小さな音ではない。
一定の間隔で鳴る低い鈴音に、複数の蹄と車輪の音が重なっている。
「来るな」
ルシルは手綱を整えながら前方を見る。
まだ相手の姿は見えない。
道が緩く曲がっているため、音だけが先に届いていた。
シモンが後方へ目を向ける。
「後ろから来る馬車は見えません。先ほどの待避場所へ戻る距離でもありませんから、前へ進みながら次を探しましょう。相手も同じように確認しているはずです」
「分かった」
ルシルは速度を上げず、トルクとベルクを進ませた。
やがて曲がりの先から、先頭の馬が見える。
大きい。
二頭立ての荷馬車で、荷台には布を掛けた木箱が高く積まれていた。
相手の御者もこちらへ気づいたらしく、片手を上げる。
「旅馬車か!?」
「そうです!」
ルシルが声を返す。
「こっちは重い! 少し先に退避場がある、入ってもらえるか!」
ルシルはすぐに返事をせず、道の先を確認した。
右側の木々が途切れ、その奥に先ほどと同じ広さの空間が見える。
「あれだな」
「ええ。十分入れます」
シモンの確認を受け、ルシルは相手へ手を上げた。
「こっちが入ります!」
「助かる!」
待避場所へ入るには、少し角度をつける必要があった。
ルシルは急に曲がらず、トルクとベルクへ合図を送りながら街道の右側へ寄せていく。入口の幅を確認し、前輪が段差へ乗り上げない位置まで進んでから、ゆっくり馬車を中へ入れた。
車体が完全に街道から外れる。
「大丈夫です」
シモンの声を聞いて、ルシルは二頭を止めた。
ほどなく、大型荷馬車が近づいてくる。
荷を満載しているため速度は遅く、馬も力強いが、首筋には汗が浮いていた。御者台には日に焼けた男が座り、その隣には若い女性が周囲を確認している。
「ありがとな!」
男が通過しながら声をかけた。
「この先、もう一台来る! そっちは小さいが、続けて通したほうが楽だ!」
「分かりました!」
教えられた通り、すぐには街道へ戻らない。
大型荷馬車の後ろ姿が曲がりへ消れてから少し待つと、今度は一頭立ての小型荷車が現れた。
御者の女性はこちらを見つけると頭を下げ、そのまま通過していく。
「二台とも行ったかな」
「音を確認しましょう」
三人は少し待った。
新しい車輪の音は聞こえない。
後方にも馬車は見えなかった。
「戻ります」
ルシルは声をかけ、待避場所から街道へ馬車を戻した。
再び西南へ進み始めてから、車内にいたモモが前へ出てくる。
「ちゃんと使えましたね」
「うん。あれがなかったら、どっちかがずっと後ろまで下がらないと駄目だったかも」
「この道では重要な設備なのでしょう」
シモンは先ほど通った大型荷馬車の方向を振り返る。
「荷の重い馬車は後退させるだけでも大変です。待避場所の位置を知っている御者同士なら、音や見通しからどちらが入るか判断できるのでしょうね」
「俺たちは知らなかったけど、教えてもらえた」
「次からは分かります」
ルシルは前方を見る。
しばらくすると、今度は街道の左側に同じ印の杭が見えた。
「またあった」
「さっきより少し離れてますね」
モモが窓から確認する。
規則正しく同じ距離に作られているわけではないらしい。道幅や曲がり方、地形を見ながら必要な場所へ設けているのだろう。
ルシルは今度の待避場所を通過しながら、入口の広さだけ目で確認した。
使わなくても、ある場所を知っているだけで少し安心できた。
◇
昼が近づく頃には、林の雰囲気がさらに変わっていた。
左右とも背の高い木が増え、枝葉の隙間から差し込む光は細くなっている。ただし街道周辺だけは枝が払われており、馬車の高さで引っかかるようなものは見当たらなかった。
鳥の声も朝より多い。
姿を見つけられるものもいたが、三人が持っている鳥の本とすぐに照合することはしなかった。
今は移動中だ。
それに、鳥は本を開くまで待ってくれない。
「今の、尾が長かったですね」
モモが窓の外を振り返る。
「黒っぽかった?」
「茶色にも見えました」
「俺は灰色に見えた」
「全員違いますね」
御者台のシモンが小さく笑った。
「光の当たり方もあります。種類を決めるには情報が足りませんね」
「じゃあ、長い尾の鳥」
「それくらいでいいでしょう」
モモは帳面を出さなかった。
名前の分からない鳥をすべて記録していたら、それだけで頁が埋まってしまう。
少し先で道が広がったため、三人は昼休憩を取ることにした。
そこは待避場所より広く、古い切り株がいくつか残っている。正式な休み場ではないらしいが、焚き火跡があり、旅人が休憩に使っていることは分かった。
先客はいなかった。
馬車を停め、トルクとベルクを休ませる。
今朝から林の中を歩いているものの、二頭に目立った疲労はない。
「水、どのくらい?」
ルシルが尋ねる。
シモンは容器を確認した。
「麦角までなら十分です。ここで二頭へ必要な分を与えても問題ありません」
「じゃあ昼も普通に使えるな」
「ええ。ただし、料理で大量に使うものは避けましょう」
三人の昼食は、硬いパンと保存肉、それに豆を軽く温めた簡単なものになった。
黄角瓜も土鈴根も昨日で食べ切っている。
「新しい野菜なくなったな」
パンをちぎりながらルシルが言うと、モモは保存肉を挟んでから頷いた。
「麦角では売ってないでしょうか」
「休み場だからなあ」
「食料を売る人がいる可能性はありますけど、期待はしないほうがいいでしょうね」
シモンが答える。
「セレナスまで行けば市場はある?」
「町の規模から考えれば、何らかの店はあるでしょう。ただ、どの程度の市場かは分かりません」
「じゃあ着いてからだな」
食べ物の話はそこで終わった。
モモも特に残念そうにはしない。
保存食だけでも困らないし、道中で新しいものを見つけたら楽しめばいい。
食後、ルシルは馬車の周囲を一度歩いた。
前輪。
後輪。
連結部。
昨日整備した部分も含め、見える範囲に異常はない。
シモンも反対側から確認している。
「熱は?」
ルシルが尋ねた。
「左右で気になる差はありません」
「よし」
それ以上、何度も確かめることはしなかった。
必要な確認をしたなら、休憩中まで馬車のことばかり考える必要はない。
ルシルは切り株の一つへ腰を下ろし、木々の上を見上げた。
葉の隙間から、青空が細く見える。
「森の中なのに、前の森と全然違うな」
モモも隣の切り株へ座る。
「フェルナハを出たあとの森ですか?」
「うん。あっちはもっと道が細かった気がする」
「林業の人たちもいましたね」
「あのときは枝尾栗鼠っぽいのもいた」
「たぶん、ですけどね」
二人が話していると、シモンも少し離れた切り株へ腰を下ろした。
「森は同じように見えても、道の使われ方が違えば雰囲気も変わります。ここは大型荷馬車がかなり通るようですから、街道周辺の管理もそれに合わせているのでしょう」
「待避場所もあるしな」
「ええ。あれはこの区間の特徴として覚えておいていいでしょう」
ルシルは街道へ目を向けた。
ちょうど遠くから一台の馬車が近づいてくる。
今度は道幅が広いため、こちらが停まっている場所へ入る必要もない。馬車は三人の横を通り過ぎ、御者が軽く手を上げて挨拶した。
ルシルも手を上げて返す。
知らない旅人だった。
お互いの名前も知らない。
それでも、同じ道を使っているというだけで交わされる短い挨拶がある。
それが少し面白かった。
◇
午後はモモが御者を担当した。
昼までに待避場所の使い方を見ていたため、彼女も道幅だけでなく、その先にある退避場所の印を気にしながら進んでいる。
しばらくは対向車もなく、静かな道が続いた。
しかし、緩い下りへ差しかかったところで、前方の木々の向こうから馬の鳴き声が聞こえた。
モモが手綱を少し引き、速度を落とす。
「何でしょう」
「馬車は見えませんね」
隣のシモンも前方を見る。
もう一度、馬の声がした。
今度は少し近い。
苦しそうな鳴き方ではないものの、落ち着いているとも言い難かった。
「進んで大丈夫?」
車内から前へ出てきたルシルが尋ねる。
「見えるところまでゆっくり進みましょう」
シモンの提案に従い、モモは二頭を歩かせる。
曲がりを一つ抜けたところで、原因が見えた。
街道の右側に、一頭立ての荷車が停まっている。
荷車そのものが壊れている様子はない。
問題は馬だった。
道の端に生えている低木へ身体を寄せ、御者らしい若い男が手綱を持ちながら何度も声をかけている。
男はこちらへ気づくと、困ったように片手を上げた。
「すみません! 少し待ってもらえますか!」
モモは十分に手前で馬車を止めた。
「どうしました?」
シモンが御者台から尋ねる。
「この先で木が倒れた音がしたみたいで、こいつが驚いちまって……道は塞がってないんですけど、動こうとしなくて」
男は馬の首筋を撫でている。
馬は怪我をしているようには見えない。
ただ、耳を頻繁に動かし、前方を気にしていた。
シモンは馬車を降りたものの、相手の馬へ勝手に近づかなかった。
「怪我は?」
「ないです。脚も見ました。たぶん音に驚いただけで……」
「分かりました。こちらは待てますので、落ち着かせてください」
「助かります」
モモも御者台から降りず、そのままトルクとベルクを止めている。
後ろに別の馬車が来ていないことは、ルシルが確認した。
「木が倒れたって、自然に?」
「そこまでは分かりません」
シモンは前方の林を見る。
「風は強くありませんから、枯れ木だったのかもしれませんね。ただ、実際に見ていないので何とも言えません」
ルシルも耳を澄ませた。
木の倒れる音はもう聞こえない。
鳥の声も少しずつ戻ってきている。
やがて、停まっていた馬の呼吸が落ち着いてきた。
男が手綱を軽く引く。
「行けるか?」
馬が一歩だけ前へ出た。
男は急かさず、もう一度首を撫でる。
さらに一歩。
そのまま荷車がゆっくり動き始めた。
「よし……よし、大丈夫だ」
男は安堵したように息を吐いた。
モモたちはすぐ後ろへつかず、十分に距離を空ける。
しばらく進んだところで、街道の左側に倒れた木が見えた。
完全に道の外だった。
根元から折れた細い木が林の中へ倒れ込み、枝の一部だけが街道脇の草へかかっている。
「これか」
ルシルが見る。
「たぶん」
先を行く荷車の馬は一度だけ倒木を気にしたものの、御者が声をかけると止まらず通過した。
モモも速度を保ったまま続く。
トルクとベルクは倒木を見ても大きな反応を示さなかった。
「二頭は平気ですね」
モモが小さく言う。
「馬によって反応は違いますからね」
シモンが答える。
「さっきの馬も悪いわけではありません。突然大きな音がすれば、驚くのは普通です」
「うん」
モモは前を行く荷車との距離を縮めなかった。
あの馬が再び不安になる可能性もある。
追いつく必要はない。
次の待避場所へ差しかかったところで、先行する男が荷車を中へ入れた。
三人の馬車を先に行かせるつもりらしい。
モモが横へ並ぶ前に、男が頭を下げる。
「さっきはありがとうございました!」
「何もしてませんよ」
モモが答える。
「待ってもらえただけで助かりました。後ろから詰められると、こいつも余計に焦るんで」
男は馬の首を撫でた。
「もう大丈夫そうです」
「よかったです」
「麦角まで行くなら、あとそんなに遠くないですよ。この先で森が少し開けたら、休み場の屋根が見えます」
「ありがとうございます」
モモは礼を言い、ゆっくり馬車を進めた。
待避場所を離れてから、ルシルが車内から顔を出す。
「何もしなかったけど、ありがとうって言われたな」
「待つのも必要だったんでしょう」
モモが答える。
「前を塞がれていたから仕方なく待った、というだけではありませんよ」
シモンは先ほどの状況を思い返しながら続けた。
「無理に横を通ろうと思えば、できたかもしれません。ただ、驚いている馬の横をこちらの二頭と馬車で通る必要はありませんでした。相手が落ち着くまで待つほうが安全です」
「じゃあ、何もしないのが正解だった?」
「少なくとも今回は、余計なことをしないのが一番だったと思います」
ルシルは納得して窓から離れた。
助けるというと、何かをしなければならないような気がする。
けれど、相手が自分で対処できているなら、邪魔をせず待つこともできる。
それも旅の途中では必要なのだろう。
◇
若い御者が教えてくれた通り、それから間もなく木々の密度が下がり始めた。
空が広くなる。
街道の先に日差しが戻り、その向こうに大きな傾斜屋根が見えた。
「見えました!」
モモが声を上げる。
「麦角?」
ルシルが前へ移動する。
屋根の近くには複数の馬車が停まっている。
さらに井戸らしい石組みと、長い馬繋ぎも見えた。
「条件は一致します。麦角の休み場でしょう」
シモンの言葉に、モモは少しだけ手綱を緩めた。
林を抜けた先に広がっていたのは、三枝井戸よりも大きな休憩施設だった。
街道から少し奥まった場所に、壁のない大きな屋根付き休憩所が建っている。その隣には小さな管理小屋があり、井戸の周囲では旅人が水を汲んでいた。
名前の由来らしいものも、すぐに見つかった。
休み場の端に、角のように二方向へ分かれた古い石柱が立っている。
「麦の角じゃない?」
ルシルが言う。
「まだ分かりませんよ」
モモが笑う。
「三枝井戸のときみたいに聞きます?」
「聞く」
「即答ですね」
馬車を空いている場所へ進める。
ここにはすでに七台ほどの馬車が停まっていたが、敷地が広いため窮屈さはない。
商人。
旅人。
荷運びらしい一団。
馬へ水を飲ませている者。
屋根の下で遅い昼食を取っている者。
それぞれが自分たちの時間を過ごしていた。
モモは空いている馬繋ぎを確認する。
「ベルク、隣に知らない馬が来ても大丈夫でしょうか」
「端が空いています。そこを使いましょう」
シモンが場所を選ぶ。
トルクとベルクを並べ、その隣に少し空間を取れる位置だった。
二頭を休ませてから、三人は井戸へ向かう。
三枝井戸と違い、こちらは普通に使える。
滑車で桶を下ろし、水を汲み上げる仕組みだった。
「水ある」
ルシルが井戸を覗き込みすぎない位置から言う。
「井戸ですから」
「昨日は井戸なのに少なかっただろ」
「修理中でしたからね」
モモが笑う。
管理小屋の前には、水についての注意書きも出ていた。
『飲用可。馬用桶は南側。井戸桶を馬桶へ直接入れないこと。』
「分かれてるんだな」
「衛生管理でしょう」
シモンが馬用の水場を確認する。
三人は必要な水を補充し、トルクとベルクにも十分飲ませた。
これで、三枝井戸から続いていた水の心配はいったん解消できる。
◇
管理小屋には、小さな窓口があった。
宿泊料を取るような施設ではないらしいが、街道の情報と簡単な物資を扱っている。
ルシルは窓口の横に並んでいる品を見た。
乾燥豆。
塩。
馬用の飼料。
火口。
縄。
それから、小さな袋に入った何か。
「これ何ですか?」
窓口にいた年配の女性が袋を見る。
「麦角豆だよ」
「麦角?」
「ここの名前にもなってる豆さ。豆っていっても、そのまま食べるもんじゃないよ。煎って粉にして、湯で溶いて飲む」
ルシルは袋を見る。
中には黒褐色の小さな豆が入っていた。
「飲み物?」
「苦いけどね。御者には好む人が多いよ」
モモも横から覗く。
「甘くないんですか?」
「蜜を入れりゃ甘くなるさ」
「なるほど」
モモの興味が少し増した。
シモンが別のことを尋ねる。
「麦角の休み場という名前も、その豆からですか?」
「そう聞いてるよ。この辺りで昔よく作ってたらしい。今じゃ畑も減ったけど、名前だけは残ってる」
三枝井戸に続き、ここにも昔の土地の使われ方が名前として残っていた。
「じゃあ、あの角みたいな石は?」
ルシルが外を指す。
「あれはただの古い道標」
「関係ないんだ」
「ないねえ。よく聞かれるけど」
女性は慣れているらしく笑った。
モモも肩を揺らしている。
「ルシル様、外れましたね」
「まだ予想する前だっただろ」
「『麦の角じゃない?』って言ってました」
「聞こえてた?」
「隣にいましたから」
ルシルは少し悔しそうに石柱を見る。
管理人の女性まで笑っていた。
「豆、飲んでみるかい? 奥で淹れてるよ」
「飲めるんですか?」
「ああ。一杯なら銅貨一枚」
三人は顔を見合わせた。
断る理由はなかった。
◇
屋根付き休憩所の端に座り、三人は湯気の立つ木のカップを受け取った。
液体は濃い茶色をしている。
香りは香ばしいが、少し焦げたような匂いも混じっていた。
ルシルが最初に一口飲む。
舌へ苦味が広がった。
思っていた以上に強い。
しかし、飲み込んだあとには煎った豆の香ばしさが残る。
「苦い」
「そう言われたじゃないですか」
モモも慎重に飲む。
直後、少しだけ眉が寄った。
「苦いですね」
「モモも同じじゃん」
「私は覚悟して飲みました」
「俺もしたよ」
「その割には驚いてました」
シモンも一口飲んだ。
二人ほど大きな反応はしない。
「確かに苦味は強いですが、悪くありませんね」
「シモン、好き?」
「毎日飲みたいほどではありませんが、長く御者をする人が好む理由は何となく分かります。香りが強いので、休憩の切り替えにはよさそうです」
「蜜入れる?」
モモが尋ねる。
管理小屋で少量の蜜も追加できると聞いている。
ルシルはもう一口そのまま飲んでから首を横に振った。
「俺はこのままでいい。苦いけど、これも味だろ」
「じゃあ私は少し入れます」
モモは無理に合わせず、自分のカップへ蜜を少しだけ加えた。
混ぜてから飲む。
今度は表情が柔らかくなった。
「こっちのほうが好きです」
「モモっぽい」
「何ですか、それ」
「甘いほう選ぶから」
「苦いものを無理して飲む必要ないじゃないですか」
「それもそうだな」
ルシルは笑い、自分の麦角豆の飲み物をもう一口飲んだ。
周囲には同じものを飲んでいる御者が何人かいる。
そのうちの一人が、三人の反応を見ていたらしい。
「初めてか?」
「はい」
ルシルが答える。
「最初は苦いだろ。慣れると蜜なしのほうがいいぞ」
「本当?」
「俺はな。うちの相棒は蜜を山ほど入れる」
男が向かいに座る仲間を指す。
「山ほどじゃねえよ」
「毎回二匙だろ」
「二匙は山じゃない」
休憩所の一角で笑いが起きた。
モモは自分のカップを見る。
「私は一匙より少ないです」
「誰と張り合ってるの?」
「張り合ってません」
旅人たちの会話に混ざりながら、三人はゆっくり飲み物を楽しんだ。
急いで次へ進む必要はない。
今日はここまででも十分な距離を移動している。
◇
夕方までにはまだ時間があったが、三人は麦角の休み場で一晩過ごすことにした。
林を抜けたばかりで二頭の状態もよく、さらに先へ進めないわけではない。しかし、ここには水も馬繋ぎも屋根もあり、明日以降のセレナス方面について情報を集めることもできる。
管理小屋で聞いたところ、ここからセレナスまではまだ一日以上かかるという。
道はしばらく林と開けた土地を繰り返し、その先で小さな川を一本越える。
橋は現在問題なく通行できる。
ただし、橋を越えた先から荷馬車の往来が増えるらしい。
「セレナスからルーヴェルへ荷物を運ぶ馬車が多いんですか?」
モモが尋ねると、管理人の女性は頷いた。
「それもあるけど、セレナスより先から来る荷も多いね。あそこは道が何本か集まるから」
「海からも?」
ルシルが思わず尋ねた。
「海?」
「俺たち、西南へ行って海を見たいんです」
「ああ、それなら方向は合ってるよ」
女性は特別驚くこともなく答えた。
「セレナスから先も西南へ進めば、海へ向かう街道に繋がる。ただ、まだ今日明日で見える距離じゃないね」
「やっぱりまだ先か」
ルシルの声に落胆はなかった。
むしろ、方向が間違っていないと改めて分かったことのほうが大きかった。
「セレナスで聞けば、もっと詳しく分かりますか?」
シモンが尋ねる。
「街道案内を扱ってる店があるよ。町の西側だったかな。海側から来る商人もいるから、ここより情報は多いはずさ」
「ありがとうございます」
それ以上、海までの正確な距離を無理に聞くことはしなかった。
管理人が知っているのは大まかな方向と道の繋がりだ。
詳しいことはセレナスへ着いてから調べればいい。
◇
夕方、三人は屋根付き休憩所の外側にある野営区画へ移った。
ここには火を使える場所も決められているため、昨夜より準備は簡単だった。
新鮮な野菜はもうない。
夕食は豆と保存肉を使った温かいスープに、残っている硬いパンを合わせる。
「麦角豆、買っていく?」
火にかけた鍋を見ながら、ルシルが尋ねた。
モモは少し考えた。
「飲み物のほうですよね?」
「ほかにないだろ」
「ルシル様、気に入ったんですか?」
「ちょっと」
あの苦味を毎日欲しいとは思わない。
ただ、旅の途中で飲むものとしては面白かった。
「小袋なら買ってもいいと思います」
シモンが鍋を混ぜながら答える。
「荷物にもなりませんし、湯があれば作れるのでしょう。ただし、挽く必要があるなら道具も確認してください」
「あ」
ルシルはそこまで考えていなかった。
「粉で売ってるかな」
「あとで聞いてみましょう」
食後、管理小屋へ確認すると、最初から粗く挽いたものも小袋で売られていた。
三人は相談し、一袋だけ購入した。
飲み方も簡単だ。
布袋へ粉を入れ、湯で煮出す。
専用の道具までは必要ない。
「これで旅の飲み物が増えましたね」
モモが小袋を見る。
「モモは蜜必要だけどな」
「ありますから」
「毎回入れる?」
「その日の気分です」
モモはそう答え、小袋を食料と一緒にしまった。
帳面にも短く記録する。
『麦角の休み場。名前は昔この辺りで作られていた麦角豆から。豆は煎って粉にし、湯で飲む。苦い。蜜を入れると美味しい。』
最後の一文を見たルシルが笑う。
「それ、モモの感想だろ」
「帳面なので書いていいんです」
「前に自分で感想と記録分けてなかった?」
「気が変わりました」
「自由だな」
「私の帳面ですから」
モモは満足そうに閉じた。
◇
日が落ちると、麦角の休み場には十台近い馬車が集まっていた。
屋根の下では旅人たちが小さな声で話し、管理小屋の明かりが敷地の一部を照らしている。馬の鼻息や飼葉を噛む音も混じり、昨夜の旧荷置き場より賑やかな夜だった。
ルシルはトルクとベルクの様子を見たあと、馬車の横へ戻った。
モモとシモンはすでに椅子へ座っている。
「二頭とも大丈夫?」
モモが尋ねる。
「うん。ベルクも落ち着いてる」
「端にして正解でしたね」
「明日は川と橋か」
ルシルが椅子へ腰を下ろす。
シモンは昼間に聞いた情報を思い返しながら頷いた。
「距離次第では橋まで届かない可能性もあります。途中の休憩場所については、明朝もう一度管理人へ確認しておきましょう」
「セレナスはその次?」
「順調なら、そう遠くはないでしょう。ただし正確な到着日は決めません」
「分かった」
ルシルは暗くなった西南の空を見る。
海はまだ見えない。
潮の匂いもしない。
波の音など、もちろん聞こえなかった。
それでも、今日初めて会った管理人からも、進んでいる方向は海へ繋がっていると聞けた。
(海って、どの辺から匂いがするんだろうな)
直接的な疑問が頭に浮かび、ルシルは少しだけ考えた。
王城で海について学んだ知識はある。
塩を含んだ巨大な水域であり、漁業や交易にも使われる。沿岸には港町があり、国によっては海路が重要な輸送手段になることも知っている。
けれど、知識と実際に見ることは同じではない。
「モモ」
「はい?」
「海って、近づいたら匂いで分かると思う?」
突然の質問に、モモは少し目を瞬かせた。
「私、見たことないですよ」
「あ、そうだった」
「だから見に行くんじゃないですか」
「そうだったな」
二人の視線がシモンへ向く。
唯一、実際に海を見たことがあるのは彼だ。
「場所と風向きによります」
シモンは少し考えてから答えた。
「沿岸へ近づけば独特の匂いを感じることはあります。ただ、必ず遠くから分かるとは言えません。私が以前行ったときは港でしたから、海そのもの以外の匂いもかなり混ざっていました」
「魚?」
「魚、船、荷物、人、油、木材などですね」
「忙しそう」
「仕事で行ったので、私にはそう見えました」
シモンはそこで言葉を止めた。
以前見た海について、無理に美しい思い出へ変えることもしない。
モモは少し考え、膝へ手を置いた。
「じゃあ、私たちが最初に見る海は港じゃないところがいいですかね」
「それもセレナスで聞こう」
ルシルが答える。
「海へ行ける道が何本かあるなら、最初にどこから見るか選べるかもしれない」
「選べたらいいですね」
モモの声には、静かな期待が混じっていた。
シモンも否定しない。
「情報があれば比較しましょう」
三人の間に、しばらく穏やかな沈黙が落ちた。
近くの野営区画では誰かが薪を足し、火の粉が一瞬だけ夜の中へ舞い上がる。管理小屋の向こうでは旅人が笑い、その声に驚いた馬が一度だけ鼻を鳴らした。
明日もまだ海には着かない。
それでも、初めて見る場所を自分たちで選べるかもしれないという話は、これまでの「海を見に行く」という目的を、ほんの少しだけ具体的なものに変えていた。
ルシルは西南の暗い空をもう一度見たあと、二人へ視線を戻した。
「じゃあ、まずセレナスだな」
「その前に明日の道です」
シモンが言うと、モモが笑った。
「川と橋ですね」
「そうだった」
ルシルも笑い、椅子の背へ身体を預けた。
麦角の休み場の夜は、まだしばらく賑やかだった。
旅人たちが行き交う街道の途中で、三人の馬車もまた次の道へ進むための一夜を過ごしていた。




