第70話 三枝井戸は、井戸なのに水が少ないらしい
ルーヴェルの西南門を出てからしばらくの間、街道の両側には広い畑が続いていた。
朝の光を受けた麦の穂が風に揺れ、その向こうでは畑仕事を始めた人々の姿が小さく動いている。町へ向かう荷車とも何度かすれ違ったが、道幅には十分な余裕があり、ルシルはトルクとベルクの歩調を乱さないよう、前を行く荷馬車との距離を保ちながら馬車を進めていた。
昨日、鉄樫車房で調整してもらった前側の軸受けからは、気になる音も振動もない。
だからといって、何度も御者台から身を乗り出して確認するわけにもいかなかった。
「シモン」
「何でしょう」
「普通?」
隣に座るシモンは、ルシルが何を尋ねているのかすぐに理解したらしい。足元から伝わる振動へ意識を向けるように少し黙ったあと、街道の先へ視線を戻した。
「普通です。少なくとも、私が感じる範囲では異常ありません」
「よかった」
「出発してから三度目です」
「まだ三回しか聞いてないだろ」
「町を出て、それほど経っていませんからね」
後ろの窓が開き、車内にいたモモが顔を覗かせる。
「私も大丈夫だと思いますよ」
「モモも分かる?」
「分かりません」
「じゃあ何で言ったの?」
「変な音がしないからです」
自信満々に返され、ルシルは笑ってしまった。
専門的な判断ではない。それでも、昨日まで聞こえていなかった音が急に混じれば、三人の誰かは気づくだろう。
「でも、昨日ドランさんが言ってたもんな。何も起きないのが一番だって」
「正確には、そのような言い方ではなかったと思いますが、意味としては近いでしょう」
「じゃあ、しばらく馬車のことは気にしすぎないようにする」
「普段の確認はしてくださいね」
「するよ」
ルシルは手綱を軽く整えた。
トルクが先に歩調をわずかに上げ、ベルクが合わせる。二頭とも朝から調子はよく、荷を積んだ馬車を引く足取りにも重さは感じられなかった。
ルーヴェルの町並みは、すでに背後の低い丘に隠れ始めている。
前にあるのは、セレナスへ続く西南の街道だった。
◇
畑の多い区間を抜けると、街道の左右に低い草地が増えてきた。
道そのものはルーヴェル近郊と変わらずよく整備されているものの、行き交う馬車は少しずつ減っている。遠くに見える丘も緩やかで、これまで越えてきた山道と比べれば、トルクとベルクにとっても走りやすそうだった。
「ここなら私も運転できそうですね」
休憩のために街道脇の広い退避場所へ馬車を寄せたところで、モモが言った。
小さな休憩場所で、井戸や小屋はない。
道から少し離れたところに平らな草地があるだけだが、短時間馬を休ませるには十分だった。
「次、代わる?」
「はい」
モモは嬉しそうに頷いた。
シモンがトルクとベルクの状態を確認している間、ルシルは馬車の前輪へ回った。昨日教わったことを思い出しながら、車輪の傾きや金具を目で確認する。
異常はない。
軸周辺へも注意を向けたが、妙な油漏れは見当たらなかった。
「熱は?」
モモが隣から尋ねる。
「まだ触らない」
「覚えてましたね」
「昨日聞いたばっかりだからな」
走行直後の回転部分へ不用意に触れないようにと言われている。
少し時間を置いてから、触れて問題のない位置だけを確かめる。左右で明らかな違いはなく、ルシルはようやく納得して立ち上がった。
「大丈夫そう」
「ええ」
いつの間にか戻ってきていたシモンも、同じ箇所を確認した。
「二頭も問題ありません。水を少し飲ませたら出発しましょう」
「ここでいっぱい飲ませる?」
ルシルが尋ねると、シモンは水の残量を確認した。
「必要な分は飲ませます。三枝井戸の休み場で十分な水が得られるとは限りませんから、ここで節約する意味はありません」
昨日、ルーヴェルの案内所で得た情報では、三枝井戸の休み場は井戸の補修中だった。
本来なら旅人や馬が水を補給できる場所だが、今は仮設の桶が用意されているだけで、水量も安定していないらしい。
「井戸って名前なのに水が少ないんだよな」
「今だけでしょう」
モモが答えながら、トルクの飲む様子を眺める。
「直してるなら、そのうち戻りますよ」
「それは分かるけどさ。三枝井戸って聞いたら、井戸が三つあって水がいっぱいある場所を想像しない?」
「私は枝が三本ある井戸を想像しました」
「枝?」
「井戸から三本に水路が分かれてるとか」
「それ、ありそう」
二人の視線がシモンへ向いた。
「私に聞かれても分かりませんよ」
「シモン君なら知ってるかなって」
「セレナス方面の街道を仕事で細部まで調査した経験はありません。三枝井戸という名称の由来も知りません」
「じゃあ着いたら見ればいいか」
ルシルはそれで納得した。
名前の由来まで必ず知る必要はない。
分からなければ分からないまま通り過ぎる場所があってもいいし、そこに誰かいれば聞くこともできる。
モモが小さな帳面を取り出しかけたが、まだ何も書かずに戻した。
「着いてからにします」
「何を?」
「本当に枝が三本あるか」
「そこ記録するんだ」
「気になるじゃないですか」
水を飲み終えたトルクが鼻を鳴らした。
その音を合図にするように、三人は再び出発の準備へ戻った。
◇
次の区間では、モモが御者台へ座った。
隣にはシモンが座り、ルシルは車内へ移る。
窓を開けておけば、風がよく通った。
ルーヴェルで買った黄角瓜が荷物の中に入っているのを見つけ、ルシルは一瞬だけ昼に食べるところを想像したものの、勝手に切るわけにもいかないのでそのままにする。
土鈴根も一個残っている。
食料には余裕がある。
乾燥食料も水もあり、馬の飼料にも問題はない。
(こういうの、最初は全部シモンに聞いてたな)
そんな考えが浮かんだものの、それ以上は掘り下げなかった。
できることが増えたかどうかを毎回確認する必要はない。今は必要なものがどこにあり、何が残っているのかを三人とも以前より自然に把握している。
それで十分だった。
窓の外を見る。
モモの運転は安定していた。
道の端へ寄りすぎることもなく、前方から荷馬車が来れば早めに速度を調整する。緩い下りへ入ったときには、隣のシモンへ一度だけ確認してから、トルクとベルクを急がせないように進んでいた。
やがて、車輪の下から伝わる感触が少し変わった。
ルシルが窓の外へ目を向けると、街道の片側に新しい土が見える。
「工事してる?」
前方には木製の簡単な標識が立てられ、街道の右側が縄で区切られていた。
作業着姿の男たちが数人、路肩へ石を並べている。
「速度を落とします」
モモの声が前から聞こえた。
「お願いします。左側は通れます」
シモンが答える。
モモはかなり手前から速度を落とした。
工事区間へ近づくと、一人の作業員が手を上げる。
「馬車一台、通れるぞ! 左へ寄ってくれ!」
「はい!」
モモが返事をする。
トルクとベルクを左へ誘導し、掘り返された右側を避ける。
作業員の一人が縄を少し持ち上げ、別の男が路上へ転がりかけていた石を足で戻した。道幅は狭くなっているものの、馬車が通れないほどではない。
すれ違う馬車もなかったため、そのままゆっくり通過する。
「ありがとう!」
モモが声をかけると、作業員が笑って手を振った。
「この先は普通に走れる! 三枝井戸までなら問題ねえぞ!」
「井戸の水はどうですか?」
シモンが短く尋ねる。
「今朝は桶に入ってた! でも馬二頭にたっぷり飲ませるほどは期待しないほうがいい!」
「ありがとうございます」
馬車は工事区間を抜ける。
速度を戻すまで、モモは急がなかった。
「案内所の情報と同じですね」
少し進んでから彼女が言う。
「そうですね。今朝の時点でも状況に大きな変化はなさそうです」
「じゃあ、今ある水を大事に使いつつ、なくなる前に補給?」
車内からルシルが聞く。
「そういうことです。ただし、必要以上に飲む量を減らす必要はありません」
「分かった」
喉が渇いているのに、水を残すためだけに我慢する。
それでは本末転倒だ。
三枝井戸で十分に補給できない可能性を考え、余裕を持って次へ進めるようにしておく。
ただそれだけだった。
◇
昼前になると、街道脇に木陰を作る大きな樹が見つかった。
すでに小さな荷車が一台停まっていたが、十分に距離を取れる広さがある。
三人はそこで昼休憩を取ることにした。
荷車の持ち主らしい中年の夫婦が先に休んでおり、二人は木陰へ布を敷いてパンを食べている。
ベルクが知らない馬を気にしたため、シモンは十分に距離を取って二頭を繋いだ。
「ここなら大丈夫でしょう」
ベルクは相手の馬を一度見たものの、トルクが近くにいることもあって落ち着いている。
三人は馬車の横へ座れる場所を作った。
「黄角瓜、食べる?」
ルシルが提案する。
「食べましょう」
モモの返事は早かった。
シモンも反対しない。
「一本すべて切る必要はありません。残りは夕食か明日に回せます」
黄角瓜を取り出す。
細長い黄色の皮をした野菜で、ルーヴェルの朝市では生でも食べられると教わっていた。
洗ってから切ると、中は薄い黄白色だった。
「本当に瓜っぽい」
ルシルが一切れ手に取る。
「名前に瓜って入ってますからね」
「名前と味が一致するとは限らないだろ」
「それはそうですけど」
三人で食べてみる。
歯を入れた瞬間、ぱりっとした軽い音がした。
水分が多い。
味そのものは強くないが、ほんの少し甘みがあり、最後に青い香りが残る。
「うまい」
ルシルはもう一切れ取った。
「朝市の人が言ってた通りですね。暑い日にいいかも」
モモも気に入ったらしく、ゆっくり噛んでいる。
「塩を少し付けても合いそうです」
シモンの提案で試してみると、薄い甘みが少しはっきりした。
「こっちもいい」
「全部食べそうですね」
「残すんじゃなかった?」
「残す予定でした」
三人は黄角瓜を見る。
まだ半分以上ある。
少し離れた場所から、先に休んでいた夫婦の女性がこちらを見て笑った。
「それ、ルーヴェルで買ったのかい?」
「はい」
モモが答える。
「初めて食べました」
「旅人はよく買ってくよ。日持ちは根菜ほどしないから、早めに食べたほうがいいけどね」
「やっぱり今日か明日?」
「そのくらいなら大丈夫さ。切ったなら今日食べちまったほうがいい」
女性はそう言って、自分のパンへ戻った。
三人は顔を見合わせる。
「じゃあ食べる?」
ルシルが尋ねる。
「食べましょう」
モモが賛成する。
「保存するより、そのほうがいいでしょう」
シモンも頷いた。
結局、黄角瓜一本は昼食で食べ切った。
硬いパンと保存肉も一緒に食べたため、昼食として不足はない。
「黄角瓜、なくなったな」
「美味しかったです」
モモは帳面を開く。
『黄角瓜。生で食べられる。水分が多い。少し甘い。塩も合う。切ったら早めに食べる。』
そこまで書き、帳面を閉じた。
向こうで休んでいた夫婦も食事を終えたらしく、荷車へ戻り始めている。
夫のほうが馬具を確認しながら、こちらへ声をかけた。
「あんたら、三枝井戸へ行くのか?」
「その方向です」
シモンが答える。
「泊まるかは決めてません」
「なら、井戸の修理が終わってるとは思わないほうがいいぞ。昨日も職人がいた」
「昨日通られたんですか?」
「ああ。仮の水桶はあった。飲み水なら分けてもらえるが、馬まで全部そこで賄おうとすると厳しいかもしれん」
今朝の作業員から聞いた話とも一致している。
「その先で水を補給できる場所はありますか?」
「三枝井戸を越えてしばらく行けば、小さな流れが街道に近づくところがある。ただ、季節で水量が変わるから、当てにしすぎるな。麦角まで行けば井戸がある」
「麦角の休み場ですね」
「そうだ。あそこは広い。小屋もあるし、馬を繋ぐ場所もある」
シモンは礼を言った。
夫婦の荷車が先に出発する。
ルシルはその背中を見送った。
「三枝井戸より麦角のほうが泊まりやすそう?」
「設備だけを比較すればそうでしょう」
シモンは答えたものの、すぐに続ける。
「だからといって今日中に麦角まで行くとは決めません。三枝井戸へ着く時刻と二頭の状態を見ます」
「うん」
今朝話した通りだ。
三枝井戸は目標ではあるが、絶対の到達地点ではない。
まして、その先の麦角まで無理に伸ばす理由もなかった。
◇
午後の最初はシモンが御者台へ座った。
昼休憩を十分に取ったトルクとベルクの足取りは変わらず、空にも崩れる気配はない。
ルシルとモモは車内で向かい合って座る。
「黄角瓜なくなりましたね」
「一本しか買ってないからな」
「もう一本買ってもよかったかもしれません」
「また見つけたら買えばいいだろ」
「そうします」
以前なら、気に入った食べ物をその場で多めに買おうとしていたかもしれない。
けれど、次の町にも食べ物はある。
同じものがなければ、違うものを食べればいい。
モモはそれで十分らしく、黄角瓜がなくなったことを残念がり続けることもなかった。
「土鈴根は一個残ってる」
「夜に使います?」
「泊まる場所次第かな」
「ですね」
二人は窓の外へ視線を向ける。
午後になると畑はさらに少なくなり、代わりに背の低い木々が街道から少し離れた場所に増え始めた。
森というほど密集してはいない。
草地と林の中間のような景色だった。
鳥の声が時折聞こえる。
ルシルは窓から探してみたが、姿までは見つけられなかった。
「何の鳥でしょうね」
「分からない」
「見えませんしね」
「声だけで分かったらすごいよな」
「本を見ても声は書いてないことがありますから」
馬車には鳥の本も積んである。
しかし、聞こえた声だけで無理に種類を決めるつもりはなかった。
分からないものは分からない。
そのままでも旅は続く。
しばらくして、御者台のシモンが声をかけてきた。
「前方に標識があります」
二人が前へ移動する。
街道の左側に、低い木製の道標が立っていた。
文字は簡素だ。
『三枝井戸』
その下に矢印がある。
街道そのものから外れるわけではなく、このまま進めばいいらしい。
「近い?」
「距離までは書いていません」
「じゃあ、もう少しか」
ルシルは前を見る。
やがて木々の間から、低い屋根が見えた。
さらに進むと馬車が数台停まっているのが分かる。
道の脇には広い空間があり、その中央近くに石組みの井戸らしきものがあった。
「着いた?」
「おそらく」
シモンが馬車の速度を落とす。
入口近くには仮設の立て札があった。
『井戸補修中』
案内所で聞いた通りだった。
◇
三枝井戸の休み場は、名前からルシルが想像していたよりも広かった。
中央の井戸を囲むように平らな空間があり、街道側には馬車を停められる場所、奥には低い木造の小屋がある。馬繋ぎも設けられているが、今は井戸の周囲だけ縄で区切られ、旅人が近づきすぎないようになっていた。
井戸の横では三人の職人が作業している。
石組みの一部を外し、その内側を確認しているようだった。
少し離れた場所には大きな木桶が二つ置かれている。
「あれが仮設桶かな」
ルシルが言う。
「でしょうね」
シモンは他の馬車との距離を確認し、空いている場所へ馬車を寄せた。
トルクとベルクを止める。
二頭とも大きく疲れてはいない。
「まず休ませましょう」
三人が馬車から降りる。
地面は乾いており、足元に泥はない。
ルシルは背中を伸ばし、それから井戸のほうを見る。
「枝、見える?」
モモが聞いた。
「まだ分からない」
「見に行きます?」
「作業の邪魔にならないなら」
シモンは先に二頭を確認してから、三人で井戸へ向かった。
縄の手前で止まる。
近くには『飲み水は係員へ確認』と書かれた板が立てられていた。
作業中の職人の一人が三人に気づく。
「水か?」
「はい。井戸の補修中だと聞いてきました」
シモンが答える。
「飲み水なら、そっちの蓋付き桶だ。朝に町から運んである。好きに飲んでいいが、馬へ大量に使うのは勘弁してくれ」
「馬用の水は?」
「もう一つの桶に少しある。ただ、今日は馬車が多くてな。次の便が来るまで、できれば最低限で頼む」
「分かりました。こちらにも水はあります」
「助かる」
職人は再び井戸へ向き直ろうとした。
ルシルは気になっていたことを尋ねる。
「あの、三枝井戸って、何で三枝なんですか?」
職人が振り返った。
「何でって?」
「井戸が三つあるとか、水路が三本あるとか」
「ああ」
職人は納得したように笑った。
「昔はここから三方向へ水を流す溝があったんだよ。街道が今みたいになる前の話らしいがな」
モモの目が少し大きくなる。
「水路が三本」
「当たった」
ルシルが言う。
「当たりました」
モモは嬉しそうだった。
「今もあるんですか?」
「跡なら向こうに残ってる。草に埋もれてるけどな。ただ、今の井戸とは繋がってない。見るなら縄の外からにしてくれ」
「ありがとうございます」
三人は礼を言って離れた。
モモはすぐ帳面を開いた。
『三枝井戸。昔、三方向へ水を流す溝があったらしい。今は使われていない。』
書いてから、ルシルを見る。
「枝が三本ある井戸でした」
「正確には水路だったけどな」
「だいたい合ってます」
「俺は井戸三つだと思ってた」
「私の勝ちですね」
「勝負だったの?」
「今、決めました」
シモンは二人の会話を聞きながら、蓋付き桶の水を確認している。
濁りや妙な匂いがないことを確かめ、必要な分だけ補う。
旅人用に運ばれた水であり、係員も飲用可能だと言っている。
それでも、確認せずに使うことはしない。
◇
馬を休ませている間、ルシルとモモは教えられた水路跡を見に行った。
もちろん、井戸の周囲を囲う縄の外側からだ。
草の間に浅い窪みが伸びている。
一つ。
少し角度を変えてもう一つ。
さらに反対側にも、言われなければ自然な窪みと見過ごしそうな跡が残っていた。
「本当に三つある」
「昔はここに水が流れてたんですね」
モモがしゃがみ込む。
触れはしない。
草に覆われた窪みを目で追うだけだ。
「どこまで行ってたんだろ」
「さっきの人も昔の話って言ってましたから、分からないかもしれません」
「そっか」
それでも面白かった。
休憩所の名前に残っているものが、今は使われていない水路の跡だった。
それ以上の大きな秘密があるわけでもない。
古代の遺跡でも、魔法の装置でもない。
昔ここを使っていた誰かが必要だから三方向へ水を流し、その名だけが今も旅人の道標になっている。
ルシルは立ち上がる。
「こういうのもいいな」
「何がです?」
「名前だけ残ってるの」
モモも立ち上がった。
「じゃあ、帳面に残しました」
「何百年かしたら、その帳面だけ残ったりして」
「それは困ります」
「何で?」
「私も一緒に残してください」
「何百年は無理だろ」
「じゃあ帳面も一緒に無理です」
二人で笑う。
少し離れたところで、シモンがトルクとベルクの状態を確認していた。
まだ出発を急ぐ必要はない。
太陽は西へ傾き始めているが、日没までは余裕がある。
◇
休憩を終える前に、三人はこの先の予定を相談した。
「二頭はどう?」
ルシルが尋ねる。
「問題ありません」
シモンは答えた。
「ここまでの距離も極端に長くありません。ですが、麦角まで行くかどうかは別です」
「どのくらい?」
「ここにいる人へ確認してみましょう」
ちょうど近くで荷物を整理していた年配の旅人がいたため、シモンが声をかける。
男はセレナス方面から来たところらしい。
「麦角か。ここからなら馬車で二刻半……いや、荷次第じゃ三刻くらい見るな」
「道の状態は?」
「悪くない。ただ、途中から林が濃くなる。暗くなってから入るのは勧めん」
「途中に泊まれる場所はありますか?」
「正式な休み場じゃないが、林へ入る前に広い空き地がある。昔の荷置き場だった場所だ。何台かは泊まれる。水場はないから、自前の水が必要だがな」
シモンは空を見た。
ルシルも同じように見上げる。
今から麦角まで行けない距離ではない。
しかし、着く頃には夕方がかなり深くなる可能性がある。
「どうする?」
ルシルが尋ねる。
シモンはすぐに答えを出さず、モモを見る。
「モモ嬢は?」
「私は、林の手前まででいいと思います。麦角に今日着かなくても困りませんし」
「俺も」
ルシルも頷いた。
「じゃあ、途中の空き地を目安にしよう。そこが使いにくかったら、その時また考える」
「そうしましょう」
三人の意見が揃った。
麦角の休み場には井戸も小屋も馬繋ぎもある。
設備だけなら、そこまで行ったほうが便利だろう。
それでも、便利だからという理由だけで夕方まで距離を伸ばす必要はなかった。
必要な水はある。
食料もある。
野営道具もある。
なら、林へ入る前の安全な場所で一晩過ごしても何も困らない。
◇
三枝井戸を出発したとき、太陽はすでに午後の後半へ入っていた。
今度はルシルが御者台へ戻る。
トルクとベルクは十分に休んだため、足取りも軽い。
井戸の修理をしていた職人たちへ手を振り、街道へ戻った。
「結局、井戸の修理は何してたんだろ」
少し進んでからルシルが言う。
「石組みを外していましたから、内壁か水の通り道に問題があるのかもしれません。ただ、確認していません」
「聞けばよかったかな」
「必要ですか?」
「……別に必要じゃない」
「なら、それでいいでしょう」
ルシルは笑った。
気になることを全部聞いていたら、旅はいつまで経っても進まない。
知らないまま通り過ぎることもある。
それで困るわけではない。
街道は少しずつ林へ近づいていった。
まだ左右は開けているが、前方に見える木々は昼までより明らかに多い。
空気もわずかに涼しくなった。
風が草を撫で、その音に混じって車輪が一定の音を立てる。
昨日整備した軸受けは変わらず静かだった。
ルシルは一度だけそのことを意識したが、シモンへ確認はしなかった。
異常を感じない。
それなら今は前を見ていればいい。
◇
一刻ほど進んだところで、街道の左側に広い空き地が現れた。
年配の旅人が教えてくれた場所らしい。
石を積んだ低い境界の跡があり、奥には荷物を置くために使われていたと思われる平らな地面が広がっている。
先客は馬車一台だけだった。
商人らしい男女二人が、すでに小さな火を起こす準備をしている。
「ここかな」
「条件は一致します」
シモンが周囲を見る。
地面は乾いている。
街道からも十分に離れている。
木々が近すぎるわけでもなく、馬車を置く場所にも余裕がある。
「ここにしよう」
ルシルが言う。
モモも賛成した。
「明るいうちに準備できますね」
三人は先客へ挨拶し、距離を取って馬車を停めた。
トルクとベルクを外し、水を与える。
三枝井戸で馬用の水を大量には使わなかったため、持っている水をここで必要な分だけ使うことができた。
日が落ちるまでには、まだ時間がある。
テントを張り、寝具を整え、火を使う場所を決める。
大きな問題は起きなかった。
「土鈴根、使う?」
夕食の準備を始めたところでルシルが尋ねる。
残っているのは一個だ。
「使いましょうか」
モモが答える。
「買ってから何日か経ってますし」
「状態を見て問題なければ構いません」
シモンが確認すると、土鈴根に傷みはない。
皮を洗い、食べやすい大きさへ切る。
今夜は保存肉と一緒に焼くことになった。
火を通すと、淡い色だった中身が少し透き通り、表面に焼き色が付く。
香りは強くない。
けれど、保存肉から出た脂を吸い、塩を少し振ると十分に美味しそうだった。
「前に食べたときより肉の味がする」
ルシルが一口食べる。
「一緒に焼いたからですね」
モモも口へ運び、何度か噛んでから頷いた。
「こっちも美味しいです」
「土鈴根はこれで終わりですね」
シモンが言う。
「また見つけたら買う?」
「別の野菜があったら、そっちも食べたい」
「私もです」
モモが笑う。
「海までに、あと何種類あるでしょうね」
「数えたら結構ありそう」
「帳面を見れば分かるかもしれません」
「食べ物帳になってない?」
「旅の帳面です」
モモは少しだけ頬を膨らませた。
「道も鳥も花も書いてます」
「写真のことも?」
言ってから、ルシルは少しだけ動きを止めた。
久しぶりに、その言葉を口にした気がした。
けれど、胸が痛むこともなければ、頭に新しい映像が浮かぶこともない。
ただ、知っている言葉としてそこにある。
「書いてありますよ」
モモの返事も普段と変わらなかった。
「でも、最近は増えてません」
「そうだな」
ルシルはそれ以上考え込まなかった。
分からないものは、まだ分からない。
今夜ここで答えを出す必要もない。
シモンも何も付け加えず、焼けた土鈴根を皿へ移している。
話題はそのまま夕食へ戻った。
◇
日が沈む頃、林の向こうの空が薄い橙色に染まった。
街道を通る馬車はもうほとんどない。
先客の商人たちも食事を始め、空き地には二つの小さな火が離れて灯っている。
ルシルは椅子へ座り、少し離れたところで草を食むトルクとベルクを見る。
明日は林の中へ入る。
その先には麦角の休み場。
さらに先にはセレナスへ続く道がある。
海はまだ遠い。
けれど、今日はルーヴェルを出て、三枝井戸まで来た。
古い三本の水路跡を見て、知らなかった野菜を食べ、馬車は問題なく走った。
それで一日は十分だった。
「ルシル様」
モモが隣から呼ぶ。
「ん?」
「帳面、今日の最後だけ書いていいですか?」
「俺に許可いらないだろ」
「じゃあ書きます」
モモは膝の上で帳面を開いた。
何を書くのか気になったルシルが覗こうとすると、彼女は少しだけ帳面を自分のほうへ寄せる。
「見ちゃ駄目です」
「何で?」
「書いてからならいいです」
しばらくして、モモが帳面を差し出した。
『三枝井戸。水路は昔、本当に三本あった。井戸は修理中。黄角瓜は全部食べた。土鈴根も全部食べた。馬車は今日も大丈夫。』
ルシルは最後の一行を見て笑った。
「そこ書いたんだ」
「大事ですから」
「確かに」
シモンも横から帳面を見る。
「明日の朝も確認はしますよ」
「分かってるって」
「念のためです」
夜風が林の葉を揺らした。
まだ深い森ではない。
けれど、明日進む方向には、今日までより濃い木々の影が続いている。
ルシルはその暗い輪郭を眺めたあと、火のそばへ視線を戻した。
急いで麦角まで行かなかったからこそ、今は明るいうちに食事も終わり、二頭もゆっくり休めている。
明日の道は、明日進めばいい。
三人の馬車は林の手前で静かに夜を迎え、その向こうへ続く西南の街道だけが、薄い月明かりの下で木々の間へ伸びていた。




